土曜日, 11月 16, 2013

千葉・養老渓谷散歩:川廻し素掘り隧道を辿り秋の養老渓谷へ

先回の散歩で千葉に数多くある素(手)掘り隧道を辿り、茂原地区を彷徨った。茂原の手掘り隧道は、牛馬の往来、農具の運搬に坂道の上下を嫌い、丘陵を穿ち谷戸の耕地を結ぶものであった。なるほど、隧道を抜けると谷戸の景観が広がり、所によっては隧道の脇に隧道開削以前の丘陵越えに使われた尾根の切り通しも見られた。
で、千葉の隧道には、このような複雑に入り組む谷戸の耕地を繋ぐもののほか、蛇行する川の首根っこの部分を隧道や切り通しを開削し、流路の瀬替えを行うものもある、とのこと。千葉では「川廻し」と呼ばれるこの開削の目的は、瀬替えを行うことにより旧流路跡を耕作地にしたり、また、材木搬出のためであった、と言う。
それでは、千葉の素掘り隧道散歩の次なるステップとしては、「川廻し」も辿るべしと、どこか適当なところを探す。川廻しの場所は房総半島南部の房総丘陵を蛇行し外房に下る夷隅川、逆に東京湾に下る養老川や小櫃川にそれぞれ100箇所以上あるようだ。その中から、あれこれチェックした結果、小湊鉄道の養老渓谷駅近くにあるいくつかの川廻し地点を辿ることにした。時期は11月初旬。うまくいけば養老渓谷の紅葉も楽しめればとの思惑でもあった。


本日のルート;小湊鉄道・五井駅>小湊鉄道・養老渓谷駅>渓谷橋>地蔵堂>旧養老川水路跡の湿地>梅ヶ瀬川>梅ヶ瀬川の川廻し隧道>白山神社>旧養老川水路跡の湿地>旧養老川水路跡の耕地>宝永橋>戸面の台地>白鳥橋>県道81号から見る旧流路跡の耕地>観音橋>養老渓谷中瀬遊歩道>弘文洞>県道81号>小湊鉄道・養老渓谷駅>(小湊鉄道)>小湊鉄道・上総大久保>田淵の水路隧道>小湊鉄道・月崎駅

総武線を千葉に
午前9時10分五井駅発、10時16分養老渓谷駅着の小湊鉄道に間に合わせるべく、自宅の最寄り駅・井の頭線永福町を午前7時頃出発。養老渓谷駅までおおよそ3時間。やはり遠い。また天候も曇天。出発時、昨日会社の仲間と話をした折、明日は快晴との言葉でもあったので、雨具も用意していないので、少々心配。
総武線を千葉で内房線に乗り換え五井駅に9時3分に到着。小湊鉄道・五井駅は外房線の五井駅の到着プラットフォームから出発する。スイカは使えず、切符は社内で買えるということであり、そのまま2両連結の列車に。乗った後でスイカの内房線五井駅での出口チェックをするのを忘れていたことに気付く。帰りに調整してもらうことに(帰りに注意して見ると、小湊鉄道への途中に出口チェックのスイカがあった)。

小湊鉄道・五井駅
9時10分出発。ワンマンカーではなく車掌が乗務。女性車掌が多いよう。途中駅に無人駅も多いようで、車掌さんは社内検札、駅の案内など大忙しの様子。養老渓谷駅への1日往復フリーパスを1400円で購入。秋の紅葉シーズンの割に乗客はそれほど多くなく、大丈夫なのかと要らぬお節介。どうもバス事業部門が収益を確保しているようである。

○小湊鉄道
列車は2両連結の「キハ200型気動車」。全線非電化・単線で五井駅といすみ鉄道いすみ線と連絡する上総中野駅までの39.1キロをカバーする。小湊鉄道線の名前の由来は、開業当初、その目的地を安房小湊の誕生寺としたことによる。小湊は日蓮聖人が貞応元年(1222)に誕生した地であり、建治2年(1276)に弟子の日家上人が日蓮聖人の生家跡に建立したのが誕生寺(現在の地に移ったのは明応、元禄の地震、大津波のため)。この寺への参詣客を見込んだのであろう。
大正時代初期、鶴舞の地主などが中心となり計画され大正2年(1913)認可される。ルートは五井から当時養老川沿線で最も栄えていた城下町である鶴舞を経て小湊を目指すもの。鶴舞が城下町となったのは明治2(1869)年、徳川家が駿府藩として静岡に移ったことにより、浜松藩が押し出される形で転封し鶴舞に。因みに鶴舞の地名は藩主井上公が、高台から見た景色が鶴が両翼を広げて舞っている姿に似ていることに由来する、と。
が、計画は認可されたものの、第一次世界大戦の影響もあり資金調達がうまくゆかず、結局は安田財閥に株の6割近く負担してもらう。安田善次郎が信仰心厚く、誕生寺を目指すということで採算度外視での出資であったよう。 大正13年(024 )起工式。第一期工事は五井・里見間の26キロ弱。路線の地形は平坦ではあるが、養老川に沿っており26の橋を架ける。大正14年(1925)営業開始。第二期工事は里見駅・月崎間4キロ強は大正15年(1926)開通。第三期工事の月崎・上総中野間の9キロ強は昭和3年(1928)に開通した。この第二、第三期のルートは5つのトンネルを抜いており、板谷トンネルは房総半島の分水嶺を貫いてる。難工事であったのだろう。
当初小湊まで計画した小湊鉄道は、昭和11年(1936)上総中野駅から15キロ先の小湊までの区間の免許を鉄道省より取り消される。嶺南山地の清澄山の山越え工事建設技術の限界や資金繰り、その他上総中野駅に国鉄木原線(現いすみ鉄道いすみ線)が接続することもあり、上総中野駅から先の建設は行われなかった。
その後の小湊鉄道。第二次大戦時に当局の指示により安田財閥から京成電鉄に株の大半が移るも、1970年代の京成電鉄の経営危機を契機に東金でバス事業をおこなう九十九里鉄道が株を取得し、現在株の過半数は九十九里鉄道が保有している、とか。

小湊鉄道・養老渓谷駅
五井駅を離れ1時間強、養老渓谷駅に到着。この駅の駅員さんも女性。小湊鉄道は女性が大活躍の印象。特にこの日は、台風被害のため養老渓谷から上総中野間は不通で、バスによる振り替え輸送となっていたため、駅の改札からバスへの案内、それから観光案内まで一人で取り仕切っていた。
この養老渓谷駅、開業当時の昭和3年(1928)、朝生原駅と呼ばれていたようである。藩政時代の村名は麻生村と呼ばれていたが、地名は朝生原である。養老渓谷駅となったのは昭和29年(1984)。昭和25年(1950)に千葉新聞社(現千葉日報)が公募した房総十二景に小湊鉄道がこの辺りの景観を「養老渓谷」とのネーミングで応募したことによる。昭和39年(1964)には県立養老渓谷清澄自然公園と指定され県内有数の景勝地となっている。

渓谷橋
駅を離れ最初の目的地である梅ヶ瀬川の川廻し隧道へと向かう。成り行きで進むと渓谷橋に出た。実のところ、この地を訪れるまでは養老渓谷駅近辺の川廻しの跡は、梅ヶ瀬川の隧道と今は観光地としても知られる弘文洞だけであろうと思っていた。しかし、実際に歩いてみると、このふたつだけではどうも間尺に合わない地形であり、家に戻ってカシミール3Dで地形図を標高別に彩色すると、当初全く予想もしなかった川廻し跡らしきものが現れた。あれこれチェックしてみるとこの渓谷橋もその一つであった。現在は深い渓谷となっているが、往昔は川廻し隧道が掘られていたとのこと。長い年月の間に天井部分が崩れ、現在の姿になった、とのこと。

○渓谷橋付近の川廻しの概要
実際に歩いていたときは、頭の中は??だけであり、そのときは全くわからなかったことではあるが、地形図をもとに養老渓谷駅近辺の川廻しを説明しておく。
地形図の黄色の彩色部分が養老川の旧流路である。渓谷橋の辺りを見ると、渓谷橋の少し南の宝衛橋の辺りから黒川沼をへて白山神社から北へと黄色の筋が見える。これが昔の養老川の流路。この流路を瀬替えするため現在渓谷橋のある辺りの台地を穿ち川廻し隧道を掘った。そして旧流路跡である黄色で彩色した部分を耕地としたようである。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)











黒川沼
渓谷橋を渡り梅ヶ瀬川の川廻し隧道へと向かう。道脇にお地蔵様。この道筋は昔の尾根道であり、道を往来する人々の無事を祈ったものであろう。
台地の尾根道、と言っても、渓谷橋を離れると森も切れ、ごくありふれた集落を進むだけであるが、道は次第に旧流路へと下り、下りきったあたりに細い流れ。北に田圃が見えるが、梅ヶ瀬川へと南に進むと黒川沼。旧養老川の流路跡ではあるが、往昔の梅ヶ瀬川はこの黒川沼辺りで養老川と合わさり一つの流れとなった、とか。
黒川沼は川廻しにより、両端の流れが堰き止められて干上がり沼とはなっているが、それでも、左手、というか現在の養老川方面へは細々とした流れがみられる。左手に見て取れる耕地へと流れは続いているようだ。

梅ヶ瀬川の川廻し隧道
道を進み梅ヶ瀬川に。どこか川筋に下りる道はないかと探しながら進むと、ほどなく川へと下る踏み跡が見つかった。
川に下り、足首あたりまで水に浸かりながら隧道へと向かう。少し進むと大きな隧道が見えてきた。黒川沼のところでメモしたように、往昔の梅ヶ瀬川はこの隧道のある断崖に遮られ、黒川沼辺りで養老川と合流していた。
散歩の時点では、黒川沼から宝衛橋への黄色の彩色図が往昔の梅ヶ瀬川の川筋であろうと思っていたので、この川回し隧道を穿ち耕地を増やしたのだろう、すごいなあ、などとおもっていたのだが、その黒川沼から宝衛橋、また白山神社から現在の梅ヶ瀬川へと続く黄色の彩色図の川筋は養老川の川筋であったわけで、であるとすれば、この梅ヶ瀬川の川廻し隧道でできる耕地って、それほど大きな範囲ではないように思う。隧道出口辺りのほんの一部だけかとも思うが、僅かな地でも耕地にできるものがあれば艱難辛苦のうえ、耕地としたのであろうか。
さて隧道へ突入。遠くに出口は見えるが、中は真っ暗。ヘッドライトと携帯型の懐中電灯で足元を照らしながら恐々進み出口へと。出口側は割とこじんまりとした穴であった。
出口部分ではじめての川廻し隧道体験にひとり満足し、川を下りながら道筋に戻る踏み分け跡を探す。これといった踏み跡は見つからなかったので、力任せに道筋に。道筋とは言うものの、道があるわけでもなく、ブッシュの藪漕ぎ。成り行きで進むと白山神社脇に出た。今歩いてきた辺りが先ほどの梅ヶ瀬川の川廻し隧道によってできた耕地跡であろうか。






白山神社
集落を見下ろす小高い丘に鎮座する社。鳥居をくぐり石段を上り拝殿、本殿にお参り。祭神などの由来は不詳であるが、上総には小櫃川流域に大友皇子に纏わる伝説の地が点在し、祭神とする白山神社も見受けられる。また、この養老川流域にも小湊線の飯給(いたぶ)駅近くの白山神社は弘文天皇こと大友皇子を祭神としている。
飯給という地名も、地元民が皇子一行に食事を捧げたとがその所以とか。そういえば、今から向かう川回し隧道跡である弘文洞も弘文天皇ゆかりの伝説も残るというわけであり、この白山神社の祭神も孝文帝か、とも。単なる妄想。根拠なし。

○大友皇子伝説
壬申の乱で大海皇子に敗れた大友皇子は山前の地(やまさき;近江、河内、山科など諸説)で敗死したとされるのが定説。が、異説もあり、大友皇子は蘇我赤兄や蘇我大飯とともに上総の地まで落ち延びた、と。千葉県君津市のJR久留里線の小櫃駅の近くに白山神社があるが、この神社は大友皇子の宮(小川宮)であり、その宮跡に建てられたのが田原神社(現在の白山神社)であると伝わる。小櫃川に沿って大友皇子ゆかりの地と伝わる後も残るが、そもそも「小櫃」は大友皇子を納めた櫃(ひつぎ)に由来すると言われてもいる。

神社にお参りした時は軽く見ただけであったので、はっきりしないが、この社の狛犬の目は青い、と言う。昭和になってつくられたのもだが、鎌倉時代以降の仏像に見られる玉眼である。青いガラス玉を嵌め込んだものであろうが、石造りの玉眼はあまり見られないようである。

養老川の旧流路の耕地
神社を離れ、先ほど辿った道を黒川沼まで戻り、それから先は養老川の旧流路に沿って宝衛橋に向かう。旧流路の北に集落が見えるが、江戸の頃はこの辺りがこの地域の中心地。蛇行するが故に水流が穏やかとなり船運の集積地として賑わったようである。
黒川沼を過ぎると、ほどなく道筋に耕地が現れるが、それが養老川の瀬替え前の流路とわかったのは後の話。散歩の時は、少々違和感を肝心ながらも梅ケ瀬川の脊替え前の流路と思っていた。ともあれ川廻しの結果誕生した耕地を眺めながら、その耕地へと続く黒川沼からの細流を目で追いながら宝衛橋に。

宝衛橋
養老川に架かる宝衛橋に。北に渓谷橋が見えるが、ずいぶんと高い。散歩の時は、結構深い渓谷だなあ、などと眺めていただけではあったのだが、既にメモした通り、渓谷橋のあたりは断崖の尾根筋。その尾根筋で行く手を遮られ180度南へと方向を変え、尾根筋を迂回して流れていた養老川の瀬替えをすべく、ノミや鏨(たがね)を使い手掘りで川廻し隧道を穿ち、川筋を現在の渓谷橋方面へと直線で水路を通した。
川廻し隧道は戦後の頃まで残っていたとのことだが、現在は天井部分が崩落し、巨大な切り通しとなっている。また、橋から旧流路跡らしきところをみると、河岸段丘となっているが、それは関東大震災によって地盤隆起が起きたため、とか。現在の養老川はその1mほど下を流れている。

白鳥橋
宝衛橋から次の目的地である養老渓谷の中瀬遊歩道にある弘文洞へと向かう。宝衛橋からのルートを探すに、県道81号を進むより、橋から少し元に戻り、戸面(とずら)の台地を上り、尾根で折り返し川に向かって折り返しながら下るルートが近そうである。緩やかな坂を上ると台地上に水田が広がる。黒川沼北の台地上にも水田があったが、昔と異なり水が必要であれば、ポンプアップをすればいい、ということであろうか。
ところで、この戸面(とずら)という地名のは、「と」の意味する「沢の合流点」「谷間の狭くなった所」や「傾斜地」が,「ずら」の意味する「連なった状態」を現し、養老川の浸食作用による地形由来の地名と言われている。
戸面の台地から急なヘアピンといった坂道を下り終えると白鳥橋。藩政村の時代の旧白鳥村・加茂村と称された戸面地区の旧村名故の橋名であろうか。

戸面の川廻し跡
白鳥橋を渡り養老川右岸の戸面集落を抜け県道81号に出る。眼下に前面が開け、また、その景観が如何にも旧流路跡の耕地に思える。台地を下る県道を養老渓谷駅方面へと逆に上り返し、高い場所から台地とその前面に広がる景観を見るにつけ、その思いを強くする。
旧流路跡と思しき耕地が台地を取り巻き、その裾には細い水流らしきものも見える。このときはよくわからなかったのだが、家に戻り標高別に彩色した地形図を見ると、観音橋の辺りから黄色の帯が葛藤方面に向かって南に回り込み、そこから茶色の台地を取り囲むように黄色の帯が北に向かい、県道81号の台地に行く手を遮られると、そこからはふたたび南へと帯が伸び養老川に当たる。旧流路南端は市原市と大多喜町の境界と一致している。昔の村境は川などの自然に合わせていたことが多いが、ここも一例ではあろう。
この彩色図を見る限り、現在観音橋あたりで養老川によって別れている左右の台地は、往昔は連なっており、そこを切り通しを開削するか隧道を穿ち、蛇行する流路を直線で結び、川廻しをおこない葛藤地区の旧流路を耕地と変えたのではないだろうか。

観音橋
県道を下り観音橋に。地形図でみれば、この辺りで川廻しのための切り通しか隧道が掘られたようだが、なるほど養老川の右岸は切り立った崖面、左岸は出世観音の台地が見える。
その切り立った崖面であるが、巨大な切り通しのようにも思える。またその崖面には砂岩と泥岩が互層になった地層が幾つもの層となって見える。砂が堆積するのは比較的浅い海であるが、泥岩と互層になっているのは、大地震などが引き金となり、数百年に一度発生する海底の地滑りや土石流によって、水深800mほどのところに堆積された泥の上に堆積されたため、と言う。気の遠くなるようなはるか昔、この辺りが古東京湾と呼ばれた頃、このような出来事が何度も起こり、それが幾重にも重なった層を造り出したものだろう。

出世観音
ふたつの太鼓橋からなる観音橋を渡り出世観音のある台地へとむかう。橋を渡り、崖面脇の参道を進み隧道を抜ける。広い境内に借景として台地の緑を配し、2段からなる石段の先の堂宇にお参り。出世観音の正式名称は「養老山立国寺」。源頼朝が再起をかけ祈願成就故の「出世観音」と。
縁起よれば、治承4年(1180)8月平家討伐の旗揚げをした頼朝であるが、小田原の石橋山の合戦において、大庭景親等の平家軍に敗れ安房に敗走。安房より上総に入り、この地に立て籠もり、持仏の観音像を祀り、観音経をもって戦勝祈願をおこない、再び兵を纏め下総から武蔵、相模へと攻め入り、鎌倉を根拠地として平氏を破り武家政権を樹立した。故に、「開運招福の観音様」、「祈祷の名刹」として古くから人々の進行を集めた、と。

中瀬遊歩道

出世観音を離れ、観音橋を渡る。前面に聳える切り通し風の崖面は迫力がある。観音橋の右岸に見た崖面と同じく、右手に砂岩と泥岩の互層が露出された崖面が聳える。灰色とか褐色の層が泥岩。うすく縦に割れ目の入った白い層が左岸とか。
道なりに進み、中瀬遊歩道に。養老渓谷に沿って整備された1.2キロの遊歩道である。遊歩道を進むと川を渡るステップ。石なのかコンクリートなのかはっきり覚えていないが、ともあれ川中に並べられたステップを踏み左岸へ移る。道を進むと対岸の崖面が避けたところから水が流れ込んでいるように見える。川廻し隧道で頭が一杯であり、この裂け目も隧道跡かと思わず注視。断層の裂け目なのか、それとも旧養老川水路跡の耕地からの排水だろうか?妄想だけが膨らむ。

弘文洞
ほどなく弘文洞に到る。右岸を進む遊歩道の対岸に大きな切り通しが目に入る。弘文洞がそれである。遊歩道脇に弘文洞の案内:今からおよそ140年前、耕地を開拓するため、養老川の支流蕪来川を川まわしして造った隧道で葛藤の穴洞と呼ばれていた。弘文帝や十市姫ゆかりの高塚や筒森神社の傍を流れ本流に注ぐ合流にあることから弘文洞と命名され景勝地、釣り場の代表として世に紹介されたが、昭和54年(1979 )5月24日未明頭頂部が崩壊した、とあった。
蕪来川は夕木川とも。葛藤(くずふじ)はこの辺りの地名。弘文帝は既にメモしたように大友皇子のこと。大友皇子が弘文天王との諡号が贈られたのは明治3年(1870)になってから。天智天皇の崩御から壬申の乱で敗死するまで半年しかなく、即位の儀礼がおこなわれなかったようであり、ために天皇と見做されていなかったようであり、明治となって追号されたこのこと。
十市姫は大友皇子の正姫。案内にある高塚とか筒森神社を探したが、夕木川の上流の筒森地区に筒森神社(御筒神社)があった。この神社は難産の末に身罷られた十市姫を祀る、とか。高塚はどこなのか見つからなかった(大多喜に高塚山はあるが夕木川からは離れているので、案内にある高塚ではないだろう)。

弘文洞の川廻し
養老川を渡り弘文洞を抜けて元の夕木川の流路跡へと向かう。足首辺りまで水に浸りながら弘文洞を抜ける。隧道が造られた頃は、人の背丈程度であったとのことだが、天井部分が崩落し次第に大きな洞となった後、完全に天井部が崩落し現在の切り通しとなってしまったわけである。
弘文洞を抜けて夕木川に。結城川左岸はブッシュで覆われているが、往昔の夕木川の流路はこの辺りで弘文洞のあった台地に行く手を阻まれ北東へと迂回し、養老川と合流していたのだろう。地形図の彩色を見ると、弘文洞の東から北にかけて黄色の帯が続く。この帯の東端、市原市と大多喜町の境界が元の夕木川の流路跡であろう。また、Google で見るに、夕木川左岸に耕地が見て取れた。川廻しによって作られた耕地であろう、か。



小湊鉄道・養老渓谷駅
養老渓谷から養老渓谷駅に戻り列車時間をチェック。14時10分に間に合う。その後は15時4分と16時50分。チェックした理由は、養老渓谷駅から一駅五井方面に戻った上総大久保駅と月崎の間に「田淵の隧道」という、なんとなく正体不明の隧道がある。朝からはっきりしなかった空が本格的な雨模様。いつ降り出してもおかしくない。で、とりあえず15時4分に乗り上総大久保駅で下り、田淵の隧道に向かう。
雨が降らなければ田淵の隧道を訪ね、そのまま月崎駅を越えていくつかの隧道や弘文帝ゆかりの白山神社を訪ね飯給駅まで歩き、養老渓谷を16時50分に出る列車に乗る。雨が本降りとなれば、田淵の隧道だけを訪ね、月崎駅に向かい養老渓谷を15時4分に出る列車に乗るといった計画。
上総大久保駅から月崎駅までは田淵の隧道を廻ればおおよそ5キロ。列車の時間を考えれば1時間もない。結構タイト。通常は雨具を用意するのだが、この日に限って、前日同僚との話で、明日は快晴といったフレーズが頭に残っており、出がけに簡易雨具だけで家を飛び出していたのが悔やまれる。

小湊鉄道・上総大久保駅
養老渓谷から一駅の上総大久保駅で下車。駅から歩きはじめると、とうとう雨が落ち始める。歩くにつれて結構本降りとなってきた。これでは飯給まで辿ることはできそうもない。無人駅だろうと思われる月崎駅で2時間近く待つのはかなわんと、小走りで田淵の水路跡に向かう。
月崎駅から県道81号に出て、後は国本を越えて田淵地区に。そこから田淵の水路隧道跡へと県道を左に折れ、養老川方面へと。途中「地球磁場逆転の地層」といった案内があるが、時間があれば、とは思えど、本日はあきらめるべし。 台地の急坂を下り鉄パイプの橋桁を越え左手の川筋を覗くと隧道が見える。田淵の隧道だろう。場所をみつけるのに時間がかかると思っていただけに、すぐに見つかり貴重な時間がセーブ。

田淵の水路隧道
さて、川床に下りよう、とは思えど、結構急な崖となっており、ロープを出してなどと想いながら降り口を探していると、下りの支えとなりそうな木の蔓がみつかり、蔓に縋りながら川床に。
川床で左右をみると、隧道は2ヵ所ある。ひとつは養老川へと続くもの。もう一方は耕作地であったような場所に続く。この田淵の隧道は川廻しと言うよりは、排水路といったようにも思えるのだが、さてどうだろう。

小湊線・月崎駅
で、列車の時間は迫る。大急ぎで元の道を県道まで戻り、境橋を渡り久しぶりに走りに走り、列車到着3分前に月崎駅に。それにしても5キロほどを隧道見物をしながら1時間弱で乗り切った、とは。
最後は結構気忙しかったが、本日は川廻し隧道や、当初予想もしていなかった川廻し跡の耕地の景観、もっともその景観が川廻しによるものだと分かったのは帰宅し地形図に彩色してからのことではあるが、それはそれとして、結果的に川廻しの最大の目的であった耕地の姿が2ヵ所も見ることができたのはラッキーだった。

木曜日, 11月 07, 2013

千葉・茂原散歩;丘陵を穿ち谷戸を繋ぐ素掘り隧道を辿る

千葉・茂原散歩;丘陵を穿ち谷戸を繋ぐ素掘り隧道を辿る 佐倉で偶然出遭った鹿島川。その源流点を歩いてみようとの、単なる好奇心だけからはじまり、その源流域である千葉・昭和の森訪れ、結果として昭和の森を分水界とする三つの河川を辿ることになった。その散歩の3回目、外房に注ぐ小中川の流域を歩いたとき、偶然に素(手)掘りの隧道に出合い、これも単なる好奇心でチェックすると、千葉は越後妻有地域(新潟県十日町と津南町)と共に、素掘りの隧道の多い地域として知られるとのこと。ざっとその数を調べてみると、新しいものもあるだろうが、名前の付いた隧道だけでも350ほど見つかった。門外漢が大雑把にチェックしたものであるので、正確な数字とは言えないにしても、他県を圧倒する数であった。

分布は下総の平地には見られず、上総の房総台地・房総丘陵の東部、そして房総丘陵の南部、昔の地名での安房と呼ばれる嶺岡山地(鹿野山・愛宕山・清澄山)以南に集中していた。この一帯の地層は砂岩と泥岩の互層から成る堆積岩であり、岩盤としては最も新しい層であり固結が緩やかで比較的掘りやすく、かつまた砂岩と泥岩の風化のスピードのギャップにより、崩れにくい地層であるということがこの地に素掘りの隧道が多い要因である、と。江戸の頃からはじまり昭和の初めまで農民が手掘りで隧道をつくった、と言う。
隧道の目的は大きく分けてふたつ。牛馬の往来、農具の運搬に坂道の上下を嫌い、丘陵を穿ち、谷戸の田畑を結ぶために隧道を掘った。もうひとつは、蛇行する川の曲流部を隧道を掘り直線で結ぶことにより、瀬替えをおこない元の川床を田圃とした、と言う。千葉では「川廻し」とよばれるこの瀬替えは「穿入蛇行(急峻な谷を大きく蛇行する川)」である、嶺岡山地の夷隅川、養老川、小櫃川のそれぞれ100箇所以上、千葉全体では隧道や切り通しを含め全体で450箇所ほどある、と言う。狭い山間の地に少しでも新田開発、また洪水対策のために施工されたのだろう。なお川廻しには耕作地開発とともに木材流下のための隧道開削もあると言う。
さて、どこからあるきはじめよう?少々迷う。あれこれチェックしていると、茂原に押日素掘群などと呼ばれる一帯があり、素掘り隧道が集中しているとのこと。残念ながら「川廻り」の隧道には会えそうにないが、それは今後のお楽しみとして、とりあえずは茂原へと向かう。
本日のルート;外房線・新茂原駅>子安神社>伊弉子神社>渋谷隧道>三宅谷隧道>阿久川>小山隧道>御領隧道>県道の切り通し>土地改良記念碑>野本隧道>木生坊隧道>隧道脇の切り通し>狸谷隧道>花立隧道>後呂隧道>猪喰隧道>坊谷隧道>細田隧道>八幡神社>隧道脇の切り通し>船着神社>豊田川>長谷隧道>長谷神社>鷲神社>鷲山寺>藻原寺>外房線・茂原駅

外房線・大網駅
総武線を千葉で外房線に乗り換え土気駅を越え大網駅に。先回の散歩で土気駅・大網駅間の廃線跡を、その急なる勾配を感じるべく辿ったのだが、現在の鉄路は土気駅先でトンネルに入り、その先は高架で谷戸を一跨ぎし、その後は丘陵に沿って大網駅に。乗った列車が東金方面行であったため、北東に弧を描く東金線のプラットフォームに着く。本日の散歩の最寄駅は外房線・新茂原であり、そのプラットフォームは到着した東金線プラットフォームからちょっと離れ、南東に弧を描いている。
明治29年(1896)、房総鉄道として蘇我・大網間が開業された当時の大網駅は現在の東金線のプラットフォームを北東方面に少し先に進んだところにあったようだ。その後の駅の開業を見ると、明治30年(1897)に東金とは逆方向の一宮(現・一宮)まで開通。ために、列車は大網駅でスイッチバックして運行した。大網・東金駅間が開通したのは明治33年(1900)のことである。
路線開業の時系列でみれば、房総鉄道の大網駅は一宮方面に向かう現在の外房線のプラットフォーム方面につくればいいのに、どうして東金方面に?気になってチェックすると、開業当時の市街地が東金寄りの地であったとか、土気~大網間に急勾配があったため、これを避けるルートとして、千葉~成東~大網~勝浦方面をメインに考えていたなどの説明があるのだが、なんとなくしっくりこない。
もう少し深堀すると、房総鉄道としては当初より、東金が目的地であったのだが、住民の反対により、やむなく大網まで開通させた、といった説明が見つかった。これであれば理屈に合う。ということは、東金方面への伸長が思うように進まないので一の宮方面に路線を伸ばすことになり、仕方なくスイッチバックで進むことにしたのだろうか。単なる妄想。根拠なし。
それと大網駅のスイッチバックの説明に土気・大網間の急勾配故との説明が多いのだが、急勾配の途中の山中にスイッチバックがあるのならわかるが、そのような路線ではないとすれば、急勾配と大網駅のスイッチバックの因果関係を説くのはちょっと無理があるのでは、などと思う。
その大網駅のスイッチバックが解消されるのは昭和47年(1972)房総線の土気~長田間の複線化と路線の付け替えが完成したときであり、大網駅もこの時現在の位置へ移転している。また、旧大網駅から房総方面への旧線は大網~土気間の勾配を避けた貨物列車が東金線・総武本線経由で運転するために使われたが、その貨物列車が廃止された平成9年(1997年)、その短絡線も廃止された。

新茂原駅
大網駅の東金線プラットフォームから少し離れた外房線のプラットフォームに移り新茂原駅へと向かう列車に乗る。外房線の進行方向左手は九十九里浜に続く平地。右手は下総台地から突き出た無数の舌状丘陵が複雑に絡み合って連なっている。外房線はその平地と丘陵地の境界線を走る。窓から見える無数の舌状丘陵を穿ち、谷戸を繋ぐ素(手)掘り隧道を想い新茂原駅に。
駅は小じんまりとしたもの。昭和30年(1955)開業。昭和56年(1981)に貨物取扱を開始し、三井東圧(現三井化学)の専用線の始点が設けられたが、その専用線も今はなく、のんびりとした駅の佇まいである。
駅を下り、駅の少し北にある渋谷隧道に向かう。当初は押日地区の素掘り隧道を廻れば、などとも思っていたのだが、その素掘り隧道群は住宅街に近い、とのことのようであり、どうせなら舌状丘陵や谷戸の景観を楽しめるところからはじめようと思った次第。で、時間的な関係からして、この新茂原駅の少し北をチェックすると、渋谷隧道があり、そこから押日地区へといくつか素掘り隧道が見て取れるため、渋谷隧道を始点に押日素掘り隧道群へとに下ることにしたわけである。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)



子安神社社務所
国道128号を北に渋谷隧道に向かうと、途中の腰当交差点脇に子安神社社務所がある。地区名は腰当。腰当神社とも呼ばれる。神社ではあるが、鳥居がない。どういう経緯かは不明。天徳・応和年間(957~964)の創建と伝えられている結構由緒ある社である。常とは異なり、子安神社社務所とあるので、社務所だけがのこるのか、とも思ったのだが、立派な社殿が残る。見たわけでもないのだが、江戸や関東の社寺彫刻「木彫」として名高い嶋村家の流れである十代嶋村俊明の勾欄擬宝珠が残る、とか。それにしても、この神社以外にもあるのだが、何故に「社務所」をつけているのだろう。

伊弉子(いさご)神社
腰当地区から北塚地区に入り、渋谷地区との境界で国道から離れ左に折れる。と、左折点の少し北に伊弉子(いさご)神社という、あまり聞いたことのない神社がある。ちょっと立ち寄り。趣のある社殿ではあるのだが、境内には天然記念物の「大モミジ」の案内はあるものの、由緒などの説明はなにもない。社の名前が気になりチェックする。
「千葉県神社名鑑」によると祭神は伊弉子姫命(いさごひめのみこと)。伊弉子姫命(いさごひめのみこと)とは、散歩で結構多くの社を訪ねているが、今まで耳にしたことがない。字面から推測するのは少々乱暴ではあるが、「伊弉」との字面は、神生み・国生みの神である伊弉諾尊(いざなぎのみこと)とその妻の伊弉冉尊(いざなみのみこと)を連想する。で、祭神の伊弉子姫命をこれも乱暴にも分解すると、「伊弉の子で、しかも姫」ということになる。神話によれば伊弉諾尊が黄泉の国の穢れを落し、禊をおこない、左目から生まれたのが天照大神、右目から月読神尊、鼻から速須佐之男命(すさのおのみこと)が生まれたとある。であれば、「伊弉諾尊の子で、しかも姫」とは天照大神、となる。伊弉子姫命(いさごひめのみこと)とは天照大神であろう、と妄想。と、神社明細帳には伊弉子神社の祭神は「大日?貴命(おおひるめむちのみこと)」とある、とのこと(茂原市の広報紙)。大日?貴命とは天照大神の別名であるので、伊弉子姫命=天照大神って妄想は、妄想ではなく、結構いい線いった推論であった、よう。
なお、趣ある社とメモしたが、この社殿も先ほどの子安神社と同じく、江戸や関東の社寺彫刻「木彫」として名高い嶋村家の流れである九代嶋村俊豊の手になる木彫りが施されでいるとのことである。

渋谷隧道
伊弉子(いさご)神社を離れ、国道を左に折れる道を進む。県道でもないのだが結構車の通行が多い。道の先をチェックすると谷戸を抜け真名地区で県道14号茂原街道にあたる。車の往来が多いのは国道128号から県道14号茂原街道へのバイパスといった役割を果たしているのだろう、か。
道を進むと行く手を丘陵が遮る。緩い坂を登り切ったところに渋谷隧道。コンクリートつくりで、距離も長い。素掘り隧道ではないと思う。扁額には竣工年度が記載されておらず、いつ開通したのは不明である。隧道を抜けると大楽地の谷戸が広がる。

三宅谷隧道
はじめての隧道が素掘り隧道の面影はない、いわゆるトンネルであり、出だしで気勢が削がれたが気を取り直し次の隧道である「三宅谷隧道」に向かう。渋谷隧道から少し道を戻り、南に入る小道を見つけ道なりに畦道を進む。先に進むにつれ、丘陵地の木々の中を進む細路となり、その先に三宅谷隧道が見えた。如何にも素掘りの趣である。
入口から中を見るに、出口は見えるも途中は真っ暗。水溜まりも見える。携帯していたライトを取り出し、足元を照らしながら進むが、泥濘で靴は足首まで泥の中。頭が当たりそうな低い天井や壁面の斑模様は砂岩と泥岩の互層だろうか。
豊田村史(明治22年(1889)の町村制により、渋谷村、長尾村、腰当村、小林村、大登村、北塚村が合併しで豊田村となる)によると、この隧道の完成には1年半ほどかかったと言う。当時、渋谷地区から阿久川によって開けた長尾に行くには、腰当から廻るか、この隧道を抜けたとのこと。泥濘がひどく、牛車の轍も泥に食い込み難儀したようで、先ほど訪れた渋谷隧道ができると、この道はほとんど使われることがなくなった、と。因みに渋谷の地名は、この地の水は鉄分を含み渋柿色をしていたことによる。

阿久川
三宅谷隧道を抜けると谷戸が広がる。素掘隧道が、丘陵を穿ち山間や丘陵に囲まれた谷戸の田畑を結ぶため、といった説明を実感。湧水を貯めたような小池、広がる田圃を進む。地図には道脇に本立寺とあるのだが、そまつな木標に手書きの文字で「本立寺」とはあるものの、堂宇などは見当たらなかった。
阿久川により開析された丘陵の谷地の田圃の畦道を進み、川を渡り、三宅谷隧道のあった阿久川の東の丘陵から、川を隔てた西の丘陵に入る。阿久川は複雑に入り組む舌状丘陵よりの水を集め、丘陵部を東西に分け茂原の市街へと下ってゆく。

宝泉寺
阿久川の西の丘陵を進むと右わきに宝泉寺。趣のある山門をもつお寺さま。境内には本堂へのぼる石段右手の堂宇は「岩不動尊」が祀られている、と。江戸時代前半に造られた磨崖の不動明王とのことである。





小山隧道
宝泉寺を越え、住宅地のすぐ先からどんでもない山奥、といった雰囲気の道になる。四角い形状の隧道である。入口辺りは堀脇となっている。隧道の上には竹林が茂る。隧道を抜け西側に出ると、谷戸の先の丘陵はゴルフコースとなっていた。
隧道が造られた時期は不明であるが、茂原市教育委員会の資料によれば、明治9年(1876)の資料にはトンネルは記載されておらず、宝泉寺前から丘陵を登り、尾根で西に折れる山道があるようだ。その後明治39年(1906)の資料にはトンネルの記号がある。明治9年から明治39年の間のどこかで造られたのだろう。

御領隧道
小山隧道から丘陵を抜けて押日地区に行くか、それとも長尾の豊田小学校脇にある「御領隧道」まで少し戻るか、少々悩む。が、結局御領隧道に戻ることに。理由のひとつは御領隧道への道の途中にある「取り残された鳥居」にフックが掛かったため。が、あちこち探しながら歩いたのだが、見つからなかった。結局は、道の片方だけに残った切り通しの上にあった、よう。ちょっと残念。

その半分残った切り通しを越え県道293号を左に折れ豊田小学校に。豊田小学校の東脇から丘陵へと向かう道を進む。先に進むと長大な掘割の先に隧道が見える。掘割の途中に柵で覆われた貫通した穴がある。防空壕とも言われるようだが、なんとなく違和感。
隧道を抜け北口に。北口隧道のすぐ上に切り通しといった地形が見える。隧道ができる前の丘陵越えの旧道の痕跡であろう。北口も結構長い掘割が印象的な隧道であった。その先は腰当と長尾の丘陵に囲まれた谷戸に続く。因みに、長尾地区にある学校名が豊田小学校となっているのは、明治の町村合併時に長尾村などが合併しが豊田村となったからであろう。

茂原の天然ガス
御領隧道を離れ、本日の主たる目的地である押日地区の隧道へと向かう。豊田小学校まで戻り、県道283号を西へと豊田村の由来ともなった豊田川を越え、先ほど豊田小学校へと曲がった交差点をそのまま真っ直ぐ西に。県道を塞ぐ丘陵を掘り割った切り通しを越え、道は小林地区の丘陵裾を南に進む。
道から少し入ったところに天然ガスの工場。明治中期に農業用水の井戸から天然ガスが発見され、ために関連企業が市内に立地し、この地に近代産業が発展したとのこと、茂原ガス田は南関東ガス田の一部として、生産量・埋蔵量ともに日本最大の水溶性天然ガス田となっている。ただ、日本最大とは言うものの、その量は千葉県内の都市ガス需要の30%、家庭用に換算すると55万世帯に相当する規模のようである(関東天然瓦斯開発株式会社の資料より)。
因みに、水溶性ガスとは地中に堆積した有機物が微生物により分解・発酵されてできるメタンガス。第四世紀と呼ばれる地質時代に堆積された動植物より生成されたメタンガスが地中層の水の中に溶け込み濃度を増したものである。

土地改良茂原工区記念碑
道を進むと道脇に結構大きな池があり道路脇に石碑が立っている。石碑に刻まれた内容をメモすると、両総土地改良茂原工区の竣工の記念碑。石碑を読むと、「工区は南は豊田川から北は長尾境、東は国道128号から西は押日間。この一帯は耕地は小林地区 高師 押日 内長谷長谷谷の一部地区二百ヘクタール余。此の地区は道水路に恵まれず用排水が困難で特に小林地区には二沼沢あり耕作に困難であったため地区の地主が集まり協議し、県の土地改良協会の設計にもとづき国の補助のもと昭和31年に工事開始、昭和34年に完成した」とあった。

今は美田が広がる一帯ではあるが、そうなったのも、そんな昔のことでもないようである。ところで、この土地改良は先回の散歩でメモした両総用水の整備事業ともつかず離れずの事業とも思える。両総用水とは水の乏しい九十九里平野に水を導水する用水幹線の整備。WIKIPEDIAなどによれば、かつての九十九里浜には幾多の湖沼群、ラグーンが点在していたが、明治以降の工業化により湖沼群は消滅。大河のない南部地方は農業用水が慢性的に不足の状況となる。一方で利根川の東遷事業により利根川に統合された上部河川の水により、佐原一帯は水害の被害に見舞われるようになっていた。このような状況を打破すべく、昭和18年(1843)工事に着手。戦時下の中断を経て昭和40年(1965)竣工。

概要は、千葉県香取市佐原の第1揚水機場で利根川から取水し、香取市伊地山で栗山川に流し込み、栗山川下流の山武郡横芝光町寺方の第2揚水機場で再度取水し、九十九里浜方面には「東部幹線用水路」を通し一の宮河口5キロ上流の松潟堰へ、丘陵方面には「南部幹線用水路」を通し本納までは外房線の西側、本納からは二流に分けは「南部幹線用水路」は外房線の東側を茂原南まで、分岐した「西部幹線用水路」は丘陵山地を貫き、豊田川を越え茂原市の五郷まで続き、東金市や茂原市などの九十九里平野南部まで農業用水を供給する。全取水量14.47m3/s、用水を供給している受益面積は約20,000ヘクタールになる。 灌漑をカバーする地域は、利根川の支流である大須賀川の沿岸の香取市・神崎町・成田市、九十九里平野にそそぐ栗山川沿岸の多古町・横芝光町・匝瑳市、そして九十九里平野にそって広がる一宮川までの東金市・山武市・九十九里町・大網白里町・茂原市・白子町・長生村・一宮町の6市7町1村。用水による受益面積は14,000ヘクタール(平成23年4月1日現在)千葉県の水田約20%をカバーしている

野本隧道
道を進み小林地区の丘陵が切れる辺りで押日地区の丘陵地との間の谷戸を右に折れ、押日地区の押日素掘り隧道群を目指す。最初の目的地は野本隧道とそのすぐ脇にある木生坊隧道。場所は丘陵南端の富士見中学の西側にある。その名は地名とは無関係であり、何故に富士見中学と呼ぶのだろうなどと、要らぬお節介を抱きながら、中学校の西側の緩やかな坂を上る。
丘にパイプ梯子が架かる手前に小さい石祠があり、そのすぐ奥に野本隧道の西口が見えた。四角い隧道は内部は乾燥しており、泥水で悩むことはない。隧道を通り東口に出る。こちらは少し野趣が残る。道を進み小路に当たる。

切り通し
この辺りからV字に折り返しのように道があり、その先に木生坊隧道があるとのこと。小路とT字に当たるところからV字方向に左に畑の畦道を進むがブッシュで行く手を阻まれる。元に戻り、T字路を右に続く道を辿る。荒れた道をブッシュを掻き分け先に進むと立派な切り通しがあった。切り通しを先に進むと富士見中学の坂で見たパイプ梯子のところに出た。野本隧道ができる前の丘陵越えの道ではなかろうか。

木生坊隧道
切り通しからT字路に戻り、再び木生坊(きしょうぼう)隧道を探す。ひょっとして、と野本隧道へと道を戻り、目を凝らして右手を見ながら進むと、野本隧道が緩やかにカーブするあたりの右手奥のブッシュの中に、踏み跡らしき道筋が見えた。で、ブッシュを掻き分け右手に入ると隧道が見つかった。
隧道に入ると、少々荒削り。隧道を抜けると行き止まり。地形図で見ると、東西の小さな丘陵の間の小さな谷戸があった。昔はこの谷戸への往来のために隧道をつくったのだろうか。




狸穴隧道
野本隧道を東口に戻り、富士見中学校脇の緩やかな坂道を進む。新興住宅街の北東端に東に向かう小路があり、その先に狸穴隧道があった。形は今まで見なかった五角形。観音掘りと呼ばれるようだ。隧道を抜けると、のどかな景観の谷戸に出る。

花立隧道
道なりに進み右へと向かう道、というか踏み分け道を進むと竹の株が道を入口に数本立てかかる花立隧道に到る。四角い隧道に入ると、東口辺りには泥水が残る。隧道を東に抜けると谷戸が広がる。隧道辺りに湧水があるのだろうか、隧道東に湿地の帯が住宅地辺りまで続いている。







後呂隧道
隧道を引き返し、押日の集落の中を進み後呂隧道に向かう。丘陵に向かって道なりに進むと住宅の間の細路の先に黄色い標識が見える。先に進むと「落石注意」の標識。右に向かえば猪喰隧道、左は後呂隧道。どちらに進むか、少々迷う。
あれこれチェックしていると、猪喰隧道の近くに両総用水50号隧道の呑口があるという。であれば、ということで猪喰隧道を後回しにし、後呂隧道に。
入口上を竹林で覆われた隧道は結構大きい。今まで辿った押日地区の中で最も大きいように感じる。東口に向かうと少し天井が低くなっているところもあるが、距離も長いし規模感のある隧道である。東口の先は道が続いていた。再び元に戻り猪喰隧道に戻る。

猪喰隧道
黄色い標識のところまで戻り、右手に進み鬱蒼とした森の掘割の先に隧道。この隧道は中でカーブしている。東口と言うか、北口は隧道上に竹林が繁っていた。
出口から丘陵沿いを南北に進む道に出る。出口からこの道に出た少し南に戻ったあたりに両総用水50号隧道の呑口があると言うので、道を戻りあちこち、特に道の東側を注意して探したのだが、残念ながら見つからなかった。後でチェックすると、道に出たすぐ南に民家があったのだが、その南にあった。小さなポンプ施設のような建物の脇に水路隧道があった。場所からいえば両総用水の西部幹線の水路ではあろう。丘陵を多くの隧道などを通り流れてきた用水は、この呑口から谷戸を南に下り、豊田川を越え茂原の五郷へと向かうのだろうか。単なる妄想、根拠なし。

坊谷隧道
東の小林の丘陵と西の押日の丘陵によって形成された長い谷戸の道を、複雑に入り組む押日の舌状丘陵突端部を結ぶ小道を北に進む。途中、「落石注意」の標識のある後呂隧道からの道との合流点を越え、その先のT字路を右に折れる。
道なりに進むと何となく五角形・観音掘りの形をした坊谷(ぼうやつ)隧道が見えてきた。押日地区では最北端の隧道。隧道を通り抜け、藪の深い掘割上の景色を眺めながら谷戸に出る。

細田隧道
谷戸の田圃を眺めながら南に道なりに進むと細田隧道に入る。素掘りが実感できる刻み跡や低い天井。如何にも素掘り隧道が実感できる。少しカーブしている隧道を抜けると掘割の右に八幡神社が見える。

切り通し 
八幡神社にお参りし、鳥居の辺りから下に広がる景観を楽しんでいると、隧道方向へ道跡らしきものがある。少し進むと切り通しへの道跡のようである。荒れて、道を塞ぐ倒木を乗り越え、下をくぐり先に進むと藪が酷い。藪漕ぎで少し進むと、突然道が切れる。その下は隧道の北口であった。この切り通しも、隧道ができる前の丘陵越えの旧道であったのだろう。


船着神社
細田隧道から県道14号、通称茂原街道に出る。何か歴史のある街道かと思ったのだが、どうも県道の愛称と言ったもののようである。結構交通量の多い道筋を豊田川に沿って東へすすむと、道脇に誠にささやかな社。船着神社とある。社名の由来は、その昔、日本武尊が船でこの地に降り立ったことによる、また 今まで歩いてきた押日も、その日本武尊が船を降り立ったときが夕方で、沈みゆく夕日があまりに美しいため、「いとおしい陽(ヒ)」と言ったことによる、と。縄文時代の海進期は、この辺りは海であったようであり、近くに貝塚跡もあるようだ。

長谷隧道

一応今回の目的である押日地区の素掘り隧道を見終え、後は最寄の駅である外房線の茂原駅に向かうだけではあるが、そのルートをチェック。最短コースは茂原街道に沿って進むのがいいのだろうが、交通量が多く少々興ざめ。
あれこれチェックすると、豊田川の南に「長谷隧道」がある。豊田川により開析された豊田川南の丘陵の谷戸繋いでいるのではあろう、ということで、茂原街道を離れ、豊田川に架かる橋を渡り、少し東に戻り長谷隧道へと道を南にとる。
妙照寺を目安に内長谷地区の谷戸の最奥部まで進む。妙照寺もお寺様といった風情の建物ではなく、更に奥に進む道など見当たらない。建物の周囲をあちこち探り、結局は建物にそって外部を回り込むように進むと竹藪の中に道らしき跡。少々不安ではあるが、藪漕ぎをし先に進むと長谷隧道が現れた。人が通った気配のしない、今回の隧道のうちで最高(?)の荒れたアプローチであった。 アプローチの雰囲気では、どんな山奥に連れて行かれるのか、など少々気を揉んだが、寂しげな隧道を抜けると開けた谷戸に出て一安心。

長谷神社
南の丘陵との間に挟まれた長谷の谷戸を進むと、丘陵東北端辺りに長谷神社。長い参道の途中に明神鳥居が見え、拝殿はその先の石段を登った先に見える。 日暮も近く、道脇からお参り。旧村社で祭神は天照大神。

長谷神社脇から、どのルートをとるか、またまた考える。大人しく真っ直ぐ進むか、それとも少し遠回りにはなるが、鷲神社、鷲山寺、藻原寺といった何となく有難そうな神社仏閣のある丘陵南を通るか、ということだが、結局は遠回りの社寺巡りルートとした。

鷲神社
長谷神社から西の丘陵と、麓に社寺の揃う東の丘陵の間を抜けると、東の丘陵の南西端に鷲神社。境内の中ほどにある明神鳥居の先に石段が見え、社殿はその上。社に由来など特にないのだが、鷲神社と言えば、なんらか酉の市に纏わる因縁など無いものかとチェックすると、ここでも酉の市に纏わる話が登場してきた。

Wikipediaや浅草の酉の市の寺として名高い長国寺の縁起によると、文永2年(1265)11月の酉の日、日蓮宗の宗祖・日蓮上人が、上総国鷲巣(現・千葉県茂原市)の小早川家(現・大本山鷲山寺)に滞在の折、国家平穏を祈ったところ、金星が明るく輝きだし、鷲妙見大菩薩が現れ出た。これにちなみ、浅草の長国寺では、創建以来、11月の酉の日に鷲山寺から鷲妙見大菩薩の出開帳が行われた。その後明和8年(1771年)長国寺に鷲妙見大菩薩が勧請され、11月の酉の日に開帳されるようになった、とある。
この鷲山寺って、鷲神社のすぐ隣のお寺さま。往昔、神仏混淆の折は鷲山寺は鷲神社の別当寺として神仏一体のもの。浅草の酉の市として名高い鷲神社も明治の神仏分離令によって長国寺からわかれたものであるわけで、であるとすれば、浅草鷲神社の大元はこの鷲神社との類推もできるのだが、はてさて。
とはいうものの、酉の市についてはそのはじまりについて諸説あり、はっきりしない。大きく分けて、この鷲山寺とか長国寺の縁起のように仏教サイドからの因縁話と、神道サイドからの因縁話がある。散歩の折々訪れた久喜市鷲宮の鷲宮神社、都内足立区花畑の大鷲神社などでは、東征の折の日本武尊との関係で酉の市が語られていた。

鷲山寺
鷲神社から東に200mほど進んだところに長国山鷲山寺。堂々とした仁王門が印象的。本堂の甍も美しい。仁王門を入ると「法華宗(本門流)大本山鷲山寺(じゅせんじ)由来」の案内。まとめると「日蓮大聖人は、小松原法難(1264:鴨川にて日蓮が襲撃された事件)の後、鷲巣の領主、小早川内記(こばやかわないき)の招きに応じ、当地にて一夏九旬の修行。その後、日蓮上人の命により、日弁上人は小早川氏の寄進を得て建治3年(1277)鷲巣に鷲山寺を建立した。江戸の頃には、徳川三代将軍家光公より寺社領を拝受・十万石大名待遇を受け、七堂伽藍を備え「関東法華の棟梁」と称され、隆盛を誇った。また、第二十七世日誠上人は、正親町三条大納言の養子となり十六弁菊花五條袈裟を下賜され、更に有栖川宮家の祈願所となった、と。
鷲山寺は「霊験あらたかな御祖師様」として人々の進行を集め、信仰による病気平癒の寺として難病に苦しむ人々が多数祈願に訪れ、開山日弁上人の「開山忌」は鷲巣の「ケエサンキ」とよばれ、大勢の人が集い、当地では最も人の多い行事として名をはせた。
元禄16年(1703)、関東一円に発生した「元禄大地震」は大きな被害をもたらし、上総地方では九十九里を中心として溺死者が2154人を数え、死者を弔うために、多くの供養塔が各地に建てられたが、当境内に祀られている「津波供養塔」は、茂原市指定文化財となっている」、とあった。

境内を本堂へと歩いていると、ちょっと古錆びた案内板に鷲山寺の歴史の解説があった。上で述べた由来は省き、それ以外を補足すると、「日蓮上人が長南町の笠森観音で小早川内記を教化したこと。七堂伽藍を備えていたが、天文四年(1535)、宝永二年(1705)、文久二年(1862)、昭和29年と4度の火災に遭い諸堂を消滅。昭和35年仮本堂、昭和50年開山堂庫裏を改修、昭和51年当山開創700年慶讃法要を厳修、昭和56年に信徒会館を建設し諸堂を結ぶ回廊の設置、昭和59年仁王門、水行場の修復、昭和63年に宝物堂の落慶。300余年の間長生村一松本興寺に預け置いた宝物を遷座入堂した。今大本堂の建設にむけて努力精進の日々」といったことが手書きで書かれていた。広い境内の割にゆったりしている空間は、諸堂が焼け落ち、現在復興中のといったことだろか。

仁王門の先にある石段を登るが、特に堂宇といったものは見当たらず、石段を下り、右手にある仮本堂に。仮本堂の前に先ほどの案内にあった「元禄津波供養塔」がある。;元禄16年(1703)、安房の南海海底を震源地とする大地震が起こり、翌未明に大津波が来襲した。この地震と津波は、千葉県内各地に大被害を及ぼした。特に津波による被害者は、夷隅・長生、山武の海岸一帯で数千人と言われている。鷲山寺は九十九里浜一帯に多くの信徒を持つゆえか、元禄津波の供養塔が参道入口に建立された(交通事情により本堂前に移されている)。茂原市、長生郡内に津波碑や供養塔は十数基あるが、碑文の内容、碑の大きさに最もすぐれているのがこの碑である、とあった。
この地震は推定マグニチュード8・2。津波の高さは、千倉で5m、御宿で8m、九十九里浜で4m、白浜の野島崎周辺では6mもの土地が隆起し、それまで島であった部分が陸と繋がったと言う。

藻原寺
鷲山寺を離れ東へと向かうとコンクリート多宝塔の戒壇塚(山門)が藻原寺ユニークな藻原寺が続く。こちらは日蓮宗の本山とのこと。先ほどの鷲山寺は法華宗本門流。法華宗には天台宗から、日蓮を開祖とするこの日蓮宗など30近い宗派・門流があるようだ。何故に、それほど分かれるのだろうとチェックしようと思ったのだが、真言宗でも20近くあると言うので、この件は思考停止とした。
縁起によれば:鎌倉時代中期建長五年(1253)四月二十八日、日蓮上人が清澄山山頂にて、初めて『南無妙法蓮華経』と唱えられた後、法難のため清澄山を追われ、「笠森」の観音堂に難を逃れた。そのとき、藻原の豪族として威勢を誇っていた斉藤兼綱公とその一族の須田時忠公が教化を受け、初の門下生となり、建治2年(1276)、邸内に一小堂(「榎本庵」)を建立した。これが藻原寺の起こり、とか。この縁起は鷲山寺の縁起とよく似ている。
応長2年(1312)日蓮上人より「常楽山 妙光寺」と命名され、日蓮大聖人の直弟子である日向聖人が藻原と身延の両山を兼任された縁により、「東身延」と略称される。藻原寺と称されたのは明治元年(1868)のことである。また、斉藤兼綱公とその一族の須田時忠公が日蓮上人と共にお題目を唱えた事から、『日蓮門下お題目初唱の霊場』と称されている。
因みに。茂原の地名の由来としてこの藻原寺が登場するが、このお寺さまが藻原寺となったのが明治とすれば、ちょっと違和感。茂原の地名は平安時代に藤原黒麻呂によって拓かれた荘園(藻原荘)に由来されるとされ、文字通り湿地が多く「藻原」であったため。現在の「茂原」に文字が変わったのは江戸時代であり、このお寺さまの命名以前より「藻(茂)原」が使われているようである。

外房線・茂原駅
藻原寺を離れ、道なりに進み、国道128号を越え、鷲山寺と藻原寺の門前町、さらには古くからの房総往還の交通の要衝として、所々に古き趣の残る民家を眺めながら外房線・茂原駅に。たまたま来合わせた「特急しおさい」が新宿まで行く、というのでちょっと贅沢し特急に乗り1時間強で新宿に到着。京王線、井の頭線を乗り継ぎ一路家路へと。