日曜日, 11月 07, 2010

尾瀬散歩そのⅡ;尾瀬ヶ原から尾瀬沼に抜け、三平峠を大清水に

快適な山小屋での尾瀬の夜を過ごし、本日は尾瀬ヶ原から尾瀬沼へ向かい、沼尻から湖畔を辿り三平峠を越えて大清水へと抜ける。本日のコースは尾瀬を開き、そして尾瀬の自然を守ろうとした平野長蔵、長英、そして長靖氏ゆかりの地が多い。尾瀬の電源開発、車道建設などキーワードだけ少しは知っているのだが、今ひとつ理解が不十分である。
情感に乏しく、花鳥風月を愛でる性もない我が身とすれな、せめてのこと、尾瀬を巡る諸問題を理解するいい機会だと、尾瀬関連の書籍を求めて書店を巡る。が、社会・環境問題としての尾瀬を扱った書籍はなかなか見つからない。『尾瀬に死す:平野長靖(新潮社)』などは当時話題になった書籍であるので簡単に見つかるかと思ったのだが、残念ながら大手の書店にも並んでいなかった。古本屋を歩き見つけたのが『尾瀬と鬼怒沼:武田久吉(平凡社)』、のみ。
それではと図書館巡り。自宅のある杉並区の図書館を3カ所巡り、『尾瀬に死す:平野長靖(新潮社)』、『定本 尾瀬 その美しき自然;白籏史朗(新日本出版社)』、『尾瀬―山小屋三代の記;後藤允(岩波新書)』、『尾瀬ヶ原の自然史;阪口豊(中公新書)』を見つけ、読み終える。古本屋、そして図書館の有り難さを改めて感じ入り、お散歩のメモをまとめることにした。



本日のルート:

初日;片品村
二日目;鳩待峠>横田代>中原山>アヤメ平>富士見小屋>長沢新道下り>土場>長沢新道下山>竜宮>沼尻川交差>燧小屋
三日目;燧小屋>イヨドマリ沢交差>ケンゴヤ沢>白砂田代>沼尻田代>小沼湿原>大清水平分岐>三平下>三平峠>車道停止点>冬路沢交差>長靖終焉の地>三平橋>一ノ瀬休憩所>大清水小屋

見晴;7時45分出発_1417m
燧小屋出発は7時45分。出発前、弥四郎の清水に湧水を補給に向かう。山小屋の間を成り行きで進み、弥四郎小屋の脇にある弥四郎の清水の吐き出し口に。この清水は丈堀とも呼ばれるが、それは丈右衛門さんという漁師が小屋がけしたことに由来する。現在山小屋の集まるこの地は見晴と呼ばれているが、昭和30年代までは丈堀と呼ばれていたようだ。湧水は丈堀川となり、赤田代に向かう木道に沿って流れ只見川に注ぐ

イヨドマリ沢;8時39分_1537m
燧小屋を離れ尾瀬沼へ向かう。ブナの林に敷かれた木道を進むと、10分程度で燧ヶ岳登山道のひとつ・見晴新道への分岐に。先に進むと次第に沢音が聞こえてくる。沼尻川が接近してきたようだ。燧ヶ岳の分岐からおよそ1キロ弱でイヨドマリ沢に交差。沢に架けられた木道は如何にも滑りそう。イヨドマリ「魚(イオ)止まり」に由来する。沢が沼尻川に合流するあたりに魚が遡上できない急流があるとのことである。

白砂峠:9時37分_1677m
イヨドマリ沢を越えると段小屋坂の上りとなる。その昔、坂に沿って段々に小屋がけがあったようである。白砂峠まで距離2キロ弱、比高差150m程度の坂を上ることになる。右手すぐ下に接近した沼尻川の沢音を聞きながらゆったり進む。
燧ヶ岳の南麓、尾瀬沼と尾瀬ヶ原をわけるこの辺り一帯は、燧ヶ岳の岩なだれの跡との説がある。山塊が崩壊し、その岩石が一気に南に滑り落ち形成された。燧の双耳峰としてよく知られる柴安グラ(2356m)とマナイタグラ(2346m)の二つのピークに挟まれた馬蹄形凹地はその名残、とか。辺り一帯は、沼尻岩なだれの流れ山とも呼ばれる。
道は木道と岩場の繰り返し。ブナの林は美しいが、木道にこびりついた落ち葉でスリップもしばしば。ダンゴヤ沢(9時2分_1575m)などのあたりになるとブナの林がコメツガなどの針葉樹に変わってくる。最後の急坂を上ると白砂峠・乗越(標高1680m)に。

白砂田代;9時45分_1654m
白砂峠・乗越から先には、距離は短いが急な岩場の坂がある。足場が悪く滑りに注意しながら下りきると森が開け、白砂田代に出る。川底が白い砂地であったのが名前の由来、と言うが、その白砂は尾瀬沼の水を片品川に流す取水堰の工事のコンクリート用に採取された、とか。
遠景に燧ヶ岳を配し、オオシラビソの森に囲まれた湿原の中、池塘を見やりながら進む。この白砂田代は、現在裸地化に伴う回復工事・植生復元がなされている。昭和30年代からの尾瀬ブームのピーク時には年間60万名ものハイカーが尾瀬を訪れた。そのオーバーユースのために踏み荒らされたのか、それとも取水工事によるものなのだろうか。ともあれ、現在尾瀬ではアヤメ平、至仏山、沼尻・白砂湿原周辺、赤田代周辺で植生回復作業が行われているようだ。

沼尻平;10時18分_1664m

1キロほど進み樹林が沼尻へと開ける手前に小屋がある。「沼尻そば」というそば屋さんがあったとのととだが、現在は営業休止となっている。改装に際し、お手洗いの浄化槽整備に伴うコスト負担がその因と、Yさん。一説には3000万円以上のコスト負担がある、と言う。2004年だったか、長蔵小屋でのゴミの不法投棄が事件となって報じられ、その後も尾瀬ヶ原西端の山ノ鼻地区、見晴地区、この沼尻地区でもゴミの不法投棄が見つかっている。理屈では、よろしくないこと、とはわかるのだけれど、山小屋がこのような環境保全に伴うコストを負担するのはさぞかし大変であろうと思う。
先に進み沼尻平に。沼から燧ヶ岳に向かって広がる湿原には池塘が点在する。燧ヶ岳の山容が如何にも、いい。燧=ひうち=火打ち、と火を噴く火山のイメージが名前の由来との説もあれば、雪渓が「火ばさみ」に見えるから、といったものなど、燧ケ岳の由来は例によっていくつか。
ちなみに私の田舎・愛媛県の瀬戸内に広がる海のことを燧灘と呼ぶ。この燧の由来も「日映ち=夕日に映えていかにも美しい海」だから、とか、星にまつわる伝説とかこれも、いくつかの説がある。星伝説というのは、愛媛県伊予三島市のとある神社で大山祇(おおやまづみ)の神を迎えるに際し、海が荒れた。荒ぶる海を鎮めるべくお祈り。山に赤い星のような火が現れて海を照らす。と、海の荒れがおさまった。以来その山は赤星山、海を日映灘(燧灘)と呼ぶようになったとか。この地方一帯に星さんと言う名前が多い。星にまつわる伝説など、この地に残るのだろうか。

沼尻休憩所
湿原をぐるりと一周し沼尻休憩所に。残念ながら本年度は既に店じまいであったが、この休憩所は長蔵小屋の経営であり、尾瀬の歴史がはじまった場所でもある。平野長蔵翁が最初にこの地を訪れたのは明治22年(1889)のこと。燧ヶ岳に神威を感じ開山し、翌明治23年(1890)には燧ヶ岳山麓のこの地に燧嶽神社愛国講社を祀る。明治35年(1902)には日々のたつき(方便)を得るため尾瀬沼で養魚事業をはじめたようだ。
その翌年の明治36年(1903年)、尾瀬沼・尾瀬ヶ原を巻き込んだ水力発電所開発計画が浮上する。利権目的の林業投資が失敗し、山を丸ごと水利事業のために転売し巨利を得んとした政治家の暗躍があったと、人は言う。翁はそのプロットに反対するも、水利事業に絡んだあらぬ誤解も受け、また、燧嶽神社に思ったほどの信者も得られず、結局は村を追われるごとく栃木県の今市に移る。明治37年(1904年)のことである。
明治43年(1910)、信仰復活を唱えこの地に長蔵小屋を建てる。尾瀬の最初の山小屋である。とはいうものの、山小屋を利用する登山家とて僅かなものである。山間僻地の村人の往来ではなく、「登山」としてこの地を最初に踏査したのは明治22年(1889)のこと。木暮理太郎氏(後の山岳会会長)親子が磐梯山登山の帰途、尾瀬を訪れたのがはじまりである。その後明治27年(1894)雑誌『太陽』で尾瀬が取り上げられ、また明治38年、武田久吉博士が尾瀬を訪れその魅力を紹介するなどして、尾瀬が次第に世間にも知られるようになるが、それでも僅かなもの。大正15年(1926)年で、年間571名の山小屋利用者であった、と言う。山小屋経営だけでは成り立たないだろう。大正4年(1915)になって、尾瀬沼の東岸・会津沼田街道沿いの地に小屋を移すが、それは養魚事業の搬出の便宜のためとも言われる。
大正11年(1922)には、尾瀬と今市の往復を繰り返す生活に終止符を打ち、尾瀬への永住を決める。その背景には大正3年(1914)に構想され、大正11年(1922)に発表された尾瀬の電源開発への反対の意志もあったのだろう。尾瀬沼の水を尾瀬ヶ原にためてダムとし、至仏山にトンネルをとおし群馬の水上に落とし発電するという計画である。大正13年には、尾瀬の自然保護に理解を示す武田久吉氏に会い協力を求めるなど再三上京し尾瀬の自然保護を訴える。自然が豊かであるが、しかし人々が大層貧しかった昭和の初期、自然の大切さ、その自然を保護することの重要性を説くことは困難なことではあっただろう。ちなみ武田久吉博士の父は幕末の外交官として名高いアーネスト・サトウ氏(Sir Ernest Mason Satow)である。
昭和4年、『改造』に武田久吉博士が「秋の尾瀬」と題して書いた紀行文にある「山人と語る」を引用:(略)炉辺に長蔵老人の気焔を聞く。孫の頭をなでつつ尾瀬の今昔を語る主人の龍顔は、幾十年かの苦闘を物語るに十分である。南会津の山奥檜枝岐に生まれ、十歳の時父を失ってそのため小学教育も完全に了えなかったが、独学で文字に親しみ、後或いは皇典講究所に学んで社掌となったり、または水産講習所の淡水魚養殖の講習に出席して鮭鱒の孵化技術を習得したり、時には政治を談じ、時勢を論じ、或いは植物愛護に努力したり、郷土殊に尾瀬地方一帯の保護と開拓とに渾身の精力を打ち込んで奔走すること四十年。今日尾瀬が自然のままに残されて、その国宝的価値を保有し得るは、一に翁の努力の賜にほかならない。
 総じて破壊は易く保護は難い。殊に自然から利益を搾取しようとする事業家の魔手から一地方の自然を完全に保護しようとするには、絶大な資金を擁するか、さなくば世間の広大な同情後援に頼らなければ、その遂行は容易でない。しかも尾瀬沼山人の生国檜枝岐の村民は、山人の目的が一に私利私欲にありと誤解し、嫉妬の余り事業の妨害を試みてやまないと言うに至っては実に言語道断である。その迫害に耐えて奮闘し来たった勇気は実に敬服に価する。尾瀬一帯の価値が年一年と世間に現われ、その保護の必要が識者の間に絶叫され、やがてそれが実現した暁には、長蔵翁の功績は尾瀬の名と共に不朽に伝わるに相違あるまい」、と(『尾瀬と鬼怒沼(平凡社)』)。昭和5年、翁永眠。

沼尻川取水口
沼尻を離れ尾瀬沼の南岸を三平下に向かう。ほどなく沼尻川の取水口に。尾瀬沼に源を発し、尾瀬ヶ原を貫流し只見川となる沼尻川の始点である。そしてそこは大正3年(1914)に構想された尾瀬の電源開発の堰堤建設予定地でもあった。この地に12メートルの堰堤を築き、尾瀬沼の水面を10m以上増加させ、これをすぐ南にある小沼に引き入れ、その南端から隧道によって第一発電所に落とす。さらにその水を沼尻川に集め只見川に流し、三条の滝の上方に堰を設ける。堰によって水を溜め、尾瀬ヶ原全部を水底に没し、その溜まった水を猫又川上流部の柳平の上手から日崎山の下を潜らせ利根川入りに流す。水は至仏山の西側を渠によって水上の湯の小屋付近に導き、ここに大発電所を設置する、といったもの。また、一方では堰に溜まった水を只見川に落とし巨大な落差を利用して更に大規模な発電を試みよう、とした。
武田久吉博士が前述「秋の尾瀬」にこの計画に対し、「いずれにせよ、貴重な植物を蔵し、本州最大の湿原であり、またその風致も他の追随を許さぬものを、水底に没し去ろうとする無謀の計画である。
 もっとも自然の美を解せず、科学的に見た尾瀬の価値を知らない企業家が、単に地図を展べて発電能力ある地を物色するとしたら、尾瀬に白羽の矢を既てるも無理からぬことであろうしかしそれを許可する官憲が、軽々に事を断じて、少数事業家のために、国宝的否それ以上の価値ある尾瀬を破壊して、国家的損失を将来するの愚ずあえてするに至っては、吾人が断じて放任することの出来ない問題である」、と書く(『尾瀬と鬼怒沼(平凡社)』)。

この計画は昭和9年(1934年)、尾瀬が日光とともに日光国立公園に指定されることにより、尾瀬沼のダム案は消え去った。尾瀬ヶ原のダム案が依然として残ってはいたが、この計画も実行されることなく終わる。紆余曲折があって尾瀬の電源開発計画を引き継いだ東電が水利権の更新を放棄し、事業を正式に断念したのは1996年(平成8年)のことである。

尾瀬沼南岸道
沼尻川に架かる沼尻橋を越える。ここが福島県と群馬県の境。小沼湿原(10時30分_1662m)を進む。振り返ると燧ヶ岳がどっしりと構える。先に進み森の中に入り、やがて前方に大きくU字型に切れ込んだところに出る。アヤメヶ淵と呼ばれているようだ。6月の頃にはミズバショウの群落が鑑賞できる、とか。
その先、道は尾瀬沼に少し傾いた斜面を通る。アップダウンを繰り返しながら進むと皿伏新道分岐(11時14分_1668m)に。ここを右に曲がると20分程度で大清水平湿原。その先は皿伏山、白尾山を経て富士見峠へと抜ける、おおよそ7.5キロのルートがある。
三平下まで残り1.1キロ。アップダウンを繰り返しながら進んでいくと、間もなく燧ヶ浦。湖面近くに下りることができる。燧ヶ浦から先もアップダウンもきつく、木道や木の階段も尾瀬沼側少しに傾いたところもあり、少々注意が必要。先に進み道が右にカーブするとその先に小屋が見えてくる。東電取水小屋である。

東電取水小屋
この地も尾瀬を巡る電源開発の舞台のひとつ。取水口から尾瀬沼の水を取り入れ、三平峠の下を穿ったトンネルで水を片品川に落とし、渇水期に片品発電所など7つの発電所に水を供給している。国土地理院の『ウオッチズ』を見ると、尾瀬沼から三平峠の下を片品川の上流部・ナメ沢に破線が引かれている。また大清水休憩所近くから片品発電所に破線が続く。この破線が導水路であろう。
この尾瀬沼の取水発電計画が発表されたのは昭和19年(1944)。戦時体制下の電力需要に応えるためとの大義名分には抗すべくも無く、尾瀬沼水路の工事は開始された。朝鮮人の強制労働者も従事したとのことである。戦争激化のため一時休止した発電計画は、戦後、昭和22年(1947)になり再開が協議される。学者・電力会社・農林省・文部省・群馬・福島両県関係者など40名が、長蔵小屋で可否を協議の結果、再開との決議。反対は長蔵小屋二代目の平野長長英氏ただ独りであった、と言う。昭和24年(1949)、沼尻に尾瀬沼取水ダム堰提工事完成。この電源開発により当時の東京の1日分の電力が賄われたとのことである。
この工事が尾瀬沼の環境に与えた影響は大きいと言われる。この堰のため尾瀬沼の平水位上1m、下2m、合計3mの水位変化が起き、その水位の上下による植物の枯死が始まった。また、尾瀬沼だけでなく沼尻川から尾瀬ヶ原に流れる流量が減少しており、尾瀬ヶ原の環境に与える影響も懸念されているようだ。

三平下;11時53分_1665m>12時39分出発
東電取水小屋を過ぎればほどなく三平下。無料休憩所の周囲には多くの人が佇む。我々のように尾瀬沼の西岸を辿った者、東岸を来た人、大清水登山口から三平峠を越えて来た人など、さまざまだろう。ずっと昔尾瀬沼に家族で来たとき、福島の檜枝岐から沼山峠を越え、大江湿原を見やりながら尾瀬沼の東岸をこの三平下まで来たことがある。そのうちに尾瀬ヶ原に足を伸ばしたいなどと思っていたのだが、十年近くを経てやっとその想いが実現した。
休憩所でしばし休憩。休憩所に尾瀬近辺のジオラマが展示されていた。地形フリークの我が身には誠に嬉しい。二日にわたって辿ってきた道筋の凹凸を確認し、はるばる来たぜを、しみじみ想い、また、会津と上州間交易の中継地であったと言われる三平下の、その地形や位置に歴史を重ねる。

三平下は会津と上州を結ぶ会津街道・沼田街道の道筋にある。少々オーバーとは思うが「交易の要衝」と呼ぶ人もいる。会津街道・沼田街道は会津若松から奥会津の山間部の険路を抜け、伊北街道、伊南街道をへて檜枝岐に至る。「街道」とは言うものの、道は人ひとり通れるかどうかといった杣道である。只見川沿いの道など断崖絶壁の連続で、とても「街道」といった趣きではない。江戸時代、この地は幕府の直轄地であり、田島の代官所に再三にわたり難所改良の陳情をするも難工事故に手が着かず、道らしき姿に整備されたのは明治になってから。実際、「沼田街道」と呼ばれるようになったのは明治になり、道筋が整備されてからである。
それはともあれ、道は断崖絶壁の難所、ところによっては、舟で人を渡し、沼田街道沿いだけでも40近くある峠を越えて山間の集落を繋ぎ檜枝岐に出る。檜枝岐には上州口の戸倉の関と同じく口留番所があった。定留物として女・漆・巣鷹・鉛・駒・熊皮・?・紙の八種、留物として真綿・薄縁・木地・ござ・畳表・羚羊皮・杉板・桶など杉木材の類・砥石・木綿帽子・駄馬・こぬか・鷺・鴨など鳥類・みなと紙・酒と粕・唐紙・油荏水油と粕・紙合羽・紙帳・元結の一九品が定められていた。番所ではこれら禁製品を取り締まっていた(『会津の峠;笹川壽夫編(歴史春秋社)』)。檜枝岐からは七入に入り、道行沢に沿って高度を上げ、沼山峠を越え大江湿原脇を尾瀬沼へと下り、この三平下に。この地で会津からの物品と上州からの物品が中継され、上州へは三平峠を越えて大清水から片品川に沿って戸倉に下り、片品村を経て沼田に至る。

杣道ではあろうが、この道の歴史は古い。山間の集落には源氏や平家の落人伝説も残る。尾瀬三郎藤原房利の物語は、平清盛との恋のさや当てに敗れ、この尾瀬で憤死した公達の伝説。尾瀬大納言藤原頼国の物語は平氏追討の令旨を発した以人王に従い落ち延び、尾瀬ヶ原に棲んだとされる伝説。伝説ではあり真偽の程は定かではないが、ともあれ平安の頃には伝説を生み出すその素地がこの地にあった、ということだ。
伝説を残すこれら公達は尾瀬の名前の由来ともされる。とはいうものの、「おぜ」という名が歴史上登場したのは江戸時代からで、それも「小瀬沼」であり、それ以前は単に国境を表す「さかい沼」、ふるくは「長沼」「鷺沼」とも呼ばれていたわけで、いまひとつ納得できない。「おぜ」は「悪勢」との説もある。安倍貞任の子どもだったり、尾瀬の大納言の部下だったりと諸説・伝説あるが、つまりは悪いやから=悪勢がこの地に棲んだとのことからだ。これも出来すぎといった感があるので、しっくりこない。で、結局は地勢的特長から来る「生瀬」(おうせ)からきたという説。つまりは、浅い湖沼中(瀬)に草木が(生)えた状態=湿原を意味する「生瀬」が転じて「尾瀬」となったという説が自分としては納得感が高い。

三平峠;13時5分_1758m

三平下を離れ三平峠に向かう。樹林の中の急坂を上る。見晴らしはあまりよくない。所々で現れる見晴らしポイントで振り返り、燧ヶ岳や尾瀬沼を眺める。三平下から少し北に上った尾瀬沼東岸の長蔵小屋、その手前にある小振りな岬・「檜の突き出し」らしき姿も見える。大江湿原に立つ三本カラマツが見える、とYさん。十数年前辿った記憶を呼び起こす。
先に進み針葉樹の林の中に三平峠が。標高1762m、尾瀬峠とも呼ばれたようである。また、三平平とも呼ばれる。峠の西の皿伏山(1916m)と東のオモジロ山(1884m)の稜線を結ぶ緩やかな鞍部であるため、こう呼ばれる。地形図を見ると南北にも緩やかな「平」となっている。

三平見晴
オオシラビソの森の中、峠からの「平」な道を進む。ほどなく左手が開けてくる。どの辺りからか場所は特定できなかったが、見晴らしのいいところを三平見晴と呼ぶようだ。西の荷鞍山(2024m)や武尊山(2158m)、白尾山(2003m)、至仏山、南に赤城山、眼下には片品川の谷筋が見渡せる、とのこと。実物は、どれがどれだかわからないので、後日カシミール3D で「展望」を確認する。
武尊や至仏など西の山容を確認するも、「何をやってんだろう」と、ふと我に返り、後は取りやめ。ともあれ、リアルもバーチャルも見晴らしはよかった。

十二曲がり
急な坂を下る。ジグザグの山道は十二曲がりと呼ばれている。道の周囲も針葉樹から広葉樹へと代わり、紅葉が美しい。白い幹と紅葉した葉のコントラストを示すブナ、ハウチワカエデの鮮やかな紅葉などが目に入る。下り道ではあるので、膝への負担があるにしても、少々は花を愛でる余裕もあるが、上りは誠に厳しいだろう。三平平の標高は1762m。山道口の一ノ瀬の標高が1400m強であるので、2キロ弱の距離を350mほど上るわけで、なかなか厳しい山道である。尾瀬でも有数の厳しい尾瀬入りコースと言われるのも頷ける。
途中、見晴大岩とか三平大岩といったところがあったようだが、見落とした。また、十二曲がりのどの辺りであったのか特定できないが、左手の山腹に連なる道跡が見える、とYさん。旧沼田街道に沿って尾瀬沼を通り福島へと抜ける、といった計画で着工された道の工事跡である。1966年、工事は開始されたが、1971年、長蔵小屋の平野長靖氏が大石武一初代環境庁長官に工事中止を直訴し計画は中止となった。工事中止から40年がたち、削り取られた山肌も今ではほぼ緑で覆われていた。

岩清水;13時44分_1589m
十二曲がりを下りきると開けた広場に。ここは尾瀬を抜ける計画の国道工事が中断された個所。先ほど左下に見た道筋はオモジロ山の山腹を這って進み、冬路沢を越えてこの地に進んで来ていた。道跡もすっかり緑で覆われており、Yさんに教えてもらわなければ、なにもわからなかっただろう。Yさんに感謝。広場にあるベンチで小休止。
広場の近くに塩ビのパイプから流れ出す清水がある。昔は小さな岩場から流れ出し「石清水」と呼ばれていた。今は、なんの変哲もない水場ではあるが、ここは道路建設工事を止めるきっかけともなった場所である。1966年(昭和41年)開始された車道工事は1971年(昭和46年)には工事はスピードをあげてこの岩清水まで延びてきた。平野長靖さん(平野長蔵さんの孫・長英さんの子ども)は6月24日付け朝日新聞に「泉が涸れる」との投書をおこなった:「峠には細い道があった。広葉樹の緑のトンネルの中に、小さいが冷たい泉がわいていて、数百年もの間、通り過ぎる旅人を慰めてきた。(中略)この泉はいこいの地点だった。峠の名は尾瀬の三平峠。いま若葉がもえ、ムラサキヤシオツツジが咲き、鳥たちの歌うこの季節に、峠の道は死につつある。昨日、私たちは、泉から百メートル足らずに迫るブルドーザーを見た。すでに周囲のブナの木々は切り倒されて転がり、木陰はなかった。あと数日で、ブルは泉のすぐ上を踏みにじり、清水は確実に涸れて、赤い土砂で埋めつくされるだろう。排気ガスももうすぐだ。それは私たちには八年前から恐れながら、むなしく座視してきた事柄だった。毎年、小さな声で無念さを語り続けてはきたが、なぜ反対運動をしないのかと問い返されると、一言もなかった。いったい、この道路開通を心から喜ぶ人がいるのか。(中略)やがて鳥たちの声が消えるとき、なによりも人間そのものが荒廃してゆく。暮らしに追われたとはいえ、あまりに非力だった私たち自身を責めあざけるのみだ。倒された木々と、涸れてゆく泉の前に、それに日本の次の世代の前に、重要な共犯者は頭を垂れつづけるだろう。自然に心を寄せる各地のみなさん、お笑いください」、と。

経済成長から置き去りにされた山村の産業振興と観光を目的に計画された自動車道の建設は群馬県知事(「地元のためにはどうしても必要な道路だ(神田坤六群馬県知事)」)、片品村長(「過疎に悩む山村が発展していくには観光が大きな要素であり、それには道路を作らなければ(大竹竜蔵片品村長)」、といった行政の長、また片品村の有権者の九割を越える道路建設推進の署名が群馬県議会に提出されており、そのような状況の中での苦渋の決断であったのだろう。自然環境保護か生活か、といった議論は当事者ならぬ自分には判断の是非は軽々にコメントできないが、ともあれ長靖氏は、これ以降、行政への誓願、東京での街頭署名運動、デモ行進へと東奔西走することになる。

長靖終焉の地;14時24分_1451m(金山沢交差近く)
広場を離れ先に進み冬路沢に架かる木の橋を渡る。冬になると沢を埋める雪が峠への道筋となったこの沢を過ぎると本格的山道は終了する。道脇を流れる渓流を愛でながら進み、ナメ沢と金山沢が冬路沢に合流するあたりで「ここが長靖さんの終焉の地」、とYさん。谷側の道脇に座す、結構大きな岩が目印。東京での支援団体との会合に出席のため、東奔西走の疲れた身体で冬の三平峠を仲間と越えた氏は、疲労のためこの地で動けなくなった、と言う。一ノ瀬休憩所に救助を求めに向かった仲間の到着を待つことなく、折から居合わせた大学生のパーティに看取られ永遠の眠りに入った。合掌。

三平橋;14時30分_1426m

先に進むと赤くペンキで塗られた大きな鉄の橋に出る。センノ沢も合流する。元は渓流に架かる吊り橋であったようだが、車道工事に際し新しく架け替えられた。大清水登山口から伸びてきた車道は橋のところまで続いている。ここから先は工事中止に伴い道は廃道となり草で覆われている。砂利道の車道を歩き一ノ瀬休憩所(14時33分_1415m)に。

大清水休憩所;15時47分_1197m
大清水から三平峠に向かう道筋で、最初に瀬・川を渡るところ、ということで名付けられた一ノ瀬休憩所で一休みし、単調な砂利道を、途中柳沢、沖ブドウ沢、中ブドウ沢など片品川に注ぐ支流を見やり、奥鬼怒へと続く奥鬼怒林道の分岐を越え、トマブドウ沢の支流を越えて道を進む。ブドウは多くの山葡萄があった、ため。沖は奥、トマは「とっつき」の意味。
東京都内であれば第一級の樹間の散歩道。尾瀬ならばこそ、単調なる道だ、などと誠に贅沢な台詞に少々の反省をしながらも、1時間ほどで大清水休憩所に到着。3日にわたる尾瀬の散歩を終える。

参考図書;『尾瀬と鬼怒沼:武田久吉(平凡社)』、『尾瀬に死す:平野長靖(新潮社)』、『定本 尾瀬 その美しき自然;白籏史朗(新日本出版社)』、『尾瀬―山小屋三代の記;後藤允(岩波新書)』l、『尾瀬ヶ原の自然史;阪口豊(中公新書)』








尾瀬散歩そのⅠ;鳩待峠からアヤメ平に尾根を辿り、尾瀬ヶ原へと

秋の尾瀬を歩くことにした。ルートは鳩待峠から鳩待通りを横田代、アヤメ平に進み富士見小屋あたりから長沢林道を下り尾瀬ヶ原に。尾瀬ヶ原の竜宮十字路に進み、そこからは湿原を横切り下田代の山小屋に泊まる。翌日は尾瀬沼に上り、沼尻から沼の南岸を三平下まで進み、三平峠を越え大清水に下る、といったもの。片品村での前泊をも含め2泊3日のゆったりとした山行である。
きっかけは義兄のお誘い。いつだったか、いまは大学生となった子供達が誠に幼かった頃だから、結構前のことではあるが、家族で尾瀬に行ったことがある。そのときは福島県の檜枝岐から沼山峠を越え、大江湿原を楽しみながら尾瀬沼を三平下まで歩いた。夏が来れば思い出してはいた尾瀬ではあるが、その尾瀬には尾瀬沼と尾瀬ヶ原があるということも、その時までまったく知らなかった。当時のお散歩メモには、次回は尾瀬ヶ原へ、などと書いている。今回のルートは尾瀬ヶ原から尾瀬沼へと抜けるコース。しかも片品在住の山歩きのベテランがガイドについてくれる、と言う。頃は秋、紅葉も楽しめそう、ということで、一も二もなく諾、とした。



本日のルート:

初日;片品村

二日目;鳩待峠>横田代>中原山>アヤメ平>富士見小屋>長沢新道下り>土場>長沢新道下山>竜宮>沼尻川交差>燧小屋

三日目;燧小屋>イヨドマリ沢交差>ケンゴヤ沢>白砂田代>沼尻田代>小沼湿原>大清水平分岐>三平下>三平峠>車道停止点>冬路沢交差>長靖終焉の地>三平橋>一ノ瀬休憩所>大清水小屋

初日

沼田
義兄の車で関越自動車道を進む。沼田インター手前の片品川に架かる巨大なトラス橋からの景観はいつ見ても圧倒される。『定本 尾瀬 その美しき自然;白籏史朗(新日本出版社)』によれば、この大断崖は片品断層崖と呼ばれ、大断層・フォッサマグナの東端であるとする。大断層東端か否かは議論の別れるところではあるが、それはともかく、これほどまでに発達した河岸段丘はあまり見かけたことがない。比高差100m、九つの段丘面を有する、とか。片品川を中心に、利根川や赤城山麓の根利川、その西の薄根川、発地川などが合わさり、気の遠くなるような時間をかけてつくりあげたものだろう。
タレントのタモリさんは崖線とか河岸段丘といった地形が大好き、と聞く。『タモリのTokyo坂道美学入門(講談社)』といった著書もある。そのタモリさんが、大学生として上京したとき、最初に旅したところがこの沼田の河岸段丘であった、とか。いつだったか津久井湖の南、串川流域の発達した河岸段丘に魅せられ、その地を数回彷徨ったことがあるのだが、この沼田の大断崖へもそのうち彷徨う、べし。

花咲峠
沼田インターで高速を下り、国道120号線に。すぐ左に折れる県道64号・平川沼田線に入り、道脇の川場温泉、武尊温泉の看板を見やりながら川場村を進む。武尊温泉の手前に赤倉川が流れる。昨年、義兄とこの赤倉川に沿って赤倉峠に進み、花咲へと下ったことを思い出す。木賊を過ぎ、次第に高度を上げる峠道を進む。木賊は「とくさ」と読む。武田勝頼最後の地である甲州の天目山にもこの地名があったが、シダの一種のようである。曲がりくねった峠道を進むと、上りきったところに背嶺トンネルが現れる。ここが川場村と片品村を結ぶ花咲峠(背嶺峠)であり、トンネルを抜けると片品村に入る。この背嶺峠に限らず、四方を山に囲まれた片品村に入るには、どこからのアプローチも峠を越えることになる。沼田市から片品村に入るには現在では国道120号線の椎坂峠を越えるが、昔は栗生峠を越えていた。椎坂峠へ上る高平集落のあたりで国道120号と別れ、白沢川に沿って上ると栗生トンネルがあるが、そこが昔の栗生峠。昔の道はそこから大原集落に向かって下り国道120号線の道筋に出たようだ。現在は通行止めのようである。栃木県からのアプローチは奥日光・金精峠を越えて菅沼・丸沼へ。群馬の水上町からは坤六峠を越えて片品村戸倉へ、そして福島県からは沼山峠を越えて尾瀬沼に出る。誠に、片品はすべて山の中、である。

片品村
背嶺トンネルを抜け、栗生を越えて綱沢川の谷筋を花咲地区に。日帰り温泉施設「花咲の湯」で一風呂浴び、尾瀬山行のガイドをしていただくYさん宅に。今夜はYさん宅泊まり。炉端に座り、片品村史などを読む。
片品村の歴史は古い。縄文時代の中期の土器が村内から出土する。律令時代には利根郡笠科郷とある。古文書に「加佐之奈」として名前が残る。村の原型ができたのはこの頃だろう。笠科は、「笠ヶ岳のシナの木」との説がある。この笠科が片品の地名の由来である。
時代は下って南北朝の頃には利根一帯を支配した沼田氏が興る。その統治は200年続き、次いで関東管領上杉、小田原北条と支配は変わり真田氏のときに江戸時代を迎える。真田氏の治世は藩の財政難もあり村民には過酷なものとなったようだ。その悪政ゆえに幕府から領値没収され、その後、片品村は奥平氏、本多氏、土岐氏と支配者が変わる。支配が変われども、農民は依然として重税に苦しめられ、また、天明の大飢饉をはじめとする凶作にみまわれるなど、誠に苦しい時代を経て明治維新に至り、明治22年に現在の片品村が誕生した。

二日目
(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

戸倉
元はこどもの自然体験活動のため古民家を移築してつくったY氏邸でゆったりと夜を過ごし、翌朝尾瀬へのアプローチ地点・鳩待峠へ向かう。摺淵地区を進み、片品川を渡り国道120号線に合流。須賀川を越え、鎌田へと。このあたりが片品村の中心地。鎌田交差点で金精峠へと進む国道120号線と別れ、国道401号・奥利根ゆけむり街道を戸倉に。車は鳩待峠まで進めるのだが、今回のルートは尾瀬の西端である鳩待峠から入り、東端の三平峠から大清水へと抜ける。ために、段取り上、車はこの戸倉の駐車場に停め、戸倉から鳩待峠までは乗り合のマイクロバスを利用することに。
戸倉は片品村の最奥の地。倉=くら・くれ、とは「抉られたような崖地や渓谷」を表す。倉=岩ともされる。戸は戸口だろうから、戸倉とは、崖地・渓谷への入口、ということ。戸倉から先は尾瀬への峠越えとなり、その先は会津に抜ける。往古より戸倉は会津と上州を結ぶ交易路の上州口であった。会津口の檜枝岐に口留番所が置かれたように、戸倉にも関所が設けられ、人と物の流れを監視した。人は大工や屋根葺き職人、板割、越後からは出稼ぎも入ってきたようである。物は上州側からは油や塩、日用雑貨、会津側からは米、酒、蚕種、マユ、そして曲輪などが運ばれ、三平平下で中継された。交易の流れは会津側からのものが大半だったようで、そのためもあり戸倉には檜枝岐などに見られる曲り屋様式の民家が多かった、とか。「水の流れがさかさになれば 流れて行きたい檜枝岐 尾瀬の沼へは夏来てごらんヨー 鶴も涼みで舞いあそぶ」と、上州の民は歌う。上州の人にとって会津の檜枝岐は憧れの地であったのだろう。

交易路とはいうものの、主要街道でもなく、山間僻地間の交易地である静かな山村が、その歴史上はじめてであろうが、一転慌ただしくなったのは幕末の戊辰の役の時。会津口の檜枝岐に陣を張る幕府・会津軍と新政府軍との間での戦いの舞台となる。所謂、戸倉戦争と呼ばれる戦いである。
慶応4年(1868)、干支での戊辰の年の5月、檜枝岐に在陣の伝習隊など幕府軍400名が、戸倉在陣の新政府軍60名(片品村には全部で400名ほど)を急襲。新政府軍側に戦死1名・手負い10数名の被害を与える。幕府軍は無傷で檜枝岐に撤収。一時会津軍と交代し白河口に転戦するも、7月に再び檜枝岐に帰陣。その後9月に若松城に戻るまで戦闘は特になかったようである。藤沢周平さんの『雲奔る 小説 雲井竜雄」』で知られる雲井竜雄が、奥羽列藩同盟の意を受け新政府軍の前橋、小幡藩説得のため同士数名と片品村の片貝に潜入するも、事成らず逃亡したのはその間の8月の頃である。

鳩待峠;8時30分_1591m
乗り合いマイクロバスに乗り、鳩待峠へ向かう。戸倉川に沿って大清水へと向かう国道401号線と離れ、県道63号線を笠科川に沿って上る。県道63号線は水上片品線とも呼ばれる。群馬県のみなかみ町と片品村戸倉を結ぶ。上でメモしたように、笠科川は、笠ヶ岳のシナの木にその源を発する故をもって名付けられた。
よく整備された1.5車線の道を進む。スノーパーク尾瀬戸倉スキー場を越える辺りから、谷を狭める片科川に沿って、更に高度を上げ津奈木沢に架かる橋を越える。ここからは坤六峠を越えて水上に向かう県道63号線と別れ、県道260号・尾瀬ヶ原土出線を津奈木沢に沿って鳩待峠に。
鳩待の名前の由来は諸説ある。八幡太郎義家がこの峠を越えるとき鳩を放って吉兆を祈った、と。また、南に帰る鳥を捕らえるべく霞網を張って鳥のかかるのを待っていたから、との説もある。鳩待峠が1580mと他の峠に比べて標高が低く、ために鳩も通り道として鳩待峠を良し、とした。そのほか、炭焼きや木地採りに山に入った村人が、里に下りる目安としてキジバト、アオバトの鳴き声を心待ちにしていたから、といった説もある(『定本 尾瀬 その美しき自然;白籏史朗(新日本出版社)』より)。

鳩待通り
鳩待峠を出発。コースは横田代、アヤメ平を経て富士見峠手前の富士見小屋へと。20分程度の急な上りから始まる。ブナの林がオオシラビソの林へと変わる頃には平らな道が多くなる。尾瀬は標高1600mあたりまで落葉広葉樹のブナの林で覆われる。林床はチシマザサが生育し、このブナとチシマザサの組み合わせで森が造られる。針葉樹のオオシラビソは尾瀬では標高1600mから1800m位のところに林をつくる。
ところで、「落葉」って、どういうことなのだろう。ちょっと気になりチェックする;日照時間が短くなり気温が下がると、根の水分を吸い上げる力が弱くなる。広葉樹は文字の通り、葉が広く水分が蒸散しやすい。需要の割に供給が追いつかない。そのままにしておくと乾燥する冬には葉の裏から水分が奪われてしまうため木が枯れてしまう。そこで葉を落とすことで水分需給のバランスを計り生命を維持することになる。また、日照時間が短くなり気温が下がることにより葉の葉緑体での光合成の機能が一挙に低下する。これも葉を付けたままであれば栄養失調となり木が枯れる。落葉って、どうも、己の身を護るためのようだ。
常緑針葉樹は葉が尖り、蒸散する面積が少ないため毎年葉を落とさなくてもいい、とのこと。いい環境の地を広葉樹に取られ、厳しい環境の中で生きなければならなかった針葉樹は自己防衛機能がデフォルトで備わっているのだろう。ちなみに、常緑針葉樹といっても葉が散らない、というわけではなくそのサイクルが長い、ということらしい。

先に進むと木道が出てくる。木道に使われるのはカラマツが多いとのこと、尾瀬では尾瀬沼ほとりの三本カラマツが有名であるが、もとより国立公園内の樹木の伐採ができるとは思えない。他県や、ひょっとすれば片品あたりで植林したカラマツを使っているのではないだろう、か。戦後の復興期、戸倉の山林からは多くの木が切り出され、そこには寒冷地でも育つカラマツが植えられた、ようである。しかしながら、カラマツが生長した頃にはすでにそのニーズが消え失せた。当初炭鉱の杭とか電柱に使う予定であったようだが、そもそもその炭鉱がなくなったり、電柱には他の合板などが使われたりするようになったため、行き何処が無くなった、ということだろう。松ヤニがあるためパルプにも使えず、はてさて、ではあったが、木道用の材木としてここでは役立っている、とか。ちなみにカラマツは日本における針葉樹のうち唯一落葉する落葉針葉樹である。ために、落葉松とも書く。

横田代;10時27分_1856m
鳩待峠から2時間弱歩いただろうか、横田代の湿原に出た。なめらかな稜線に広がる湿原と点在する池塘(湿原の泥炭層にできる池沼)群、そして針葉樹林の組み合わせは如何にも、いい。振り返れば利根の水源の山々や至仏山を遠景も美しい。湿原とその中に敷かれた木道と尾瀬を取り巻く山々の姿もなかなか、いい。
横田代の「田代」は、湿原中に並ぶ池塘の姿が田圃の苗代のようでもあり名付けられた。また、雪代(雪汁の転。雪解けの水)による水位の上昇で泥田(これを田代とも呼ぶ)のようになるための命名とも言われる。湿原とは「土壌が低温、過湿などのために枯死体の分解が阻害され、泥炭が堆積された上に発達する草原(『岩波生物学辞典』)」。と定義される。そしてこの横田代のように、斜面に形成された湿原を傾斜湿原と言う。傾斜湿原に堆積する泥炭は傾斜に応じて厚みに変化はあるものの、総じて板状になる、と言う。なだらかな斜面が続くように見える傾斜湿原は、実際は段々畑のように階段状となっている、とか。それが「横」田代の由来だろうか。それとも、傾斜面に広がる「横」ベクトル故の由来だろうか。ちなみに、泥炭階段の縁にはチングルマが生育し、泥炭層の流失防止と貯水に一役かっている。横田代は山地湿原のため泥炭の堆積速度も遅く、すぐ下が岩盤。表土がかなり少なく、酸性度が尾瀬中で最も高いことから植物にとっては厳しい生育条件の場所である。

アヤメ平;11時21分_1956m
横田代を通り抜け、笹原と針葉樹林が混交するあたりを進む。ゆるやかな上りの木道を進み、中原山山頂(標高1968メートル)を経てアヤメ平に。360度の視界が広がる。湿原と点在する池塘群、その遠景に至仏山、平ヶ岳、景鶴山、そして燧ヶ岳、といった尾瀬の山々が美しい。片品村方面へはなだらかな山並みが一望のもとに見せる。
アヤメ平の湿原にはところどころで緑が薄く、表土が露出し、四角い木枠で囲まれた箇所がある。そこは荒れた湿原でありその回復作業の箇所である。昭和24年(1949)、NHKラジオで「♪夏が来れば思い出す はるかな尾瀬青い空♪」の『夏の思い出』が放送され、昭和30年代のハイキングブームも相まって、空前の尾瀬ブームが起きた。尾瀬の中でも人気ポイントであったアヤメ平は、当時木道も完備しておらず、また自然保護といった考え方も乏しかった時代風潮もあり湿原が踏み荒らされる。湿原を形成する泥炭層が剥き出しになり、1ヘクタールもの湿原が裸地となった、と言う。15センチも削られた泥炭層もある。1年に1mm弱しか泥炭化しないわけだから、およそ150年から200年分の泥炭層が踏み荒らされた、ということだ。ビニールシートの普及が湿地荒廃に拍車をかけたと、Yさん。
湿地回復作業は昭和41年頃から始められた。試行錯誤を重ねながらの回復作業は半世紀近くをかけ、現在ではおおよそ90%ほどが回復した、という。回復作業の手順は、まず、土留めの枠をつくる。その中にミタケスゲの種を蒔く。ミタケスゲはまず緑を取り戻し、キンコウカなどの植物が自然に移入し繁殖できるような環境をつくる役割をもつ。そして、蒔いたミタケスゲの種が風に飛ばされないように藁ゴモで覆い、藁ゴモは篠竹で固定する。これが一連の手順。未だ裸地に近いところは、あと一世紀近くかかるのだろう、か。ちなみにアヤメ平とは言いながら、アヤメは、ない。キンコウカをアヤメと見誤ったため、と人は言う

富士見小屋;11時52分_1863m>12時15分出発

富士見峠へ向かう。右手に皿伏山、白尾山、荷鞍山の遠景。その手前、お椀のように窪んだ眼下には田代原の紅葉。窪みから続く谷地は硫黄沢、冬路沢に沿って上る戸倉から富士見峠への道筋であろう。紅葉の中、透き通ったクリーム色の葉でアクセントをつけるのはコシアブラと、Yさん。名前の由来は、木から樹脂液をとり,漉して塗料に使ったことによる。天ぷらにしても評判がいい、と。
尾瀬ヶ原に下る長沢新道の分岐あたりの富士見田代の池塘を見やり、針葉樹林に囲まれた道を富士見小屋へと向かう。富士見小屋でお昼休憩。と、下から軽トラックが上がってきた。富士見下より田代原を上る林道が通っている。現在は許可車両しか上れないようだが、昭和30年代の頃はバスも入っていた。戸倉から鳩待峠の車道が開通したのが昭和38年、檜枝岐から沼山峠へのバス道の開通が昭和45年であり、昭和30年代の尾瀬ブームの時の車での入山といえば、この富士見峠へのルートしかなかった。アヤメ平が尾瀬で最も荒廃した理由はこのことだろう。

長沢新道;12時32分_1883m>下山;14時45分_1412m
富士見峠は富士見小屋の少し東。峠からは矢木沢を尾瀬ヶ原の見晴に下るルートや、白尾山、皿伏山、大清水平を経て尾瀬沼への道もある。今回のルートは長沢新道の沢道を尾瀬ヶ原に下るため、富士見峠とは逆方向、鳩待通りを少し戻り、尾瀬ヶ原へ下る長沢新道への分岐に向かう。
分岐近くの富士見田代を見やり林道を下る。道端に咲くツルリンドウやゴゼンタチバナをYさんに教えてもらいながら1キロほど下り、標高1800m弱の地点にある長沢新道土場で小休止。土場とは材木の置き場、とか。国立公園で樹木の伐採ができないとすれば、木道用木材を置いておくところだろうか。

沼尻川の拠水林;15時24分_1399m

土場を過ぎる頃から尾瀬ヶ原が眼下に見えてくる。紅葉したハウチカエデやミズナラの林の中を下り尾瀬ヶ原に。標高2000m弱から1400mあたりまで4キロほどを一気に下ったことになる。道の左手には尾瀬ヶ原の湿原が広がる。右手は樹木が茂り、地図を見ると樹林の中を沼尻川が走る。この林は沼尻川によってつくられた自然堤防上の拠水林(きょすいりん)。湿原の外より流れてくる川は多くの土砂を運び、川の両側に自然の堤防をつくり、そこに樹木が育つ。
尾瀬ヶ原はこの拠水林によっていくつかにわけられる。燧ヶ岳山麓の樹林を東限界とし、沼尻川と只見川に囲まれたところが「下田代」。尾瀬ヶ原の東の部分である。真ん中の部分、今いるあたり一帯は「中田中」と呼ばれる。沼尻川とその西にある上ノ大堀川とヨッピ川に囲まれた湿原部分。川上川・猫又川と上ノ大堀川に囲まれた尾瀬ヶ原の西部は「上田中」と呼ばれる。Google Mapの航空写真を見ると、なるほど湿原を区切る帯のような樹林帯が見える。

竜宮;15時2分_1405m
拠水林を離れ湿原の中に敷かれた木道を竜宮に向かう。尾瀬ヶ原のほとんど中心といったところ。木道の十字路には西に「山の鼻」、東に「見晴」、北に「東電小屋」、南は「富士見峠」を示す道標がある。周囲に池塘が点在する。
このあたりを竜宮と呼ぶ。湿原を流れる小川がいったん湿原に吸い込まれ50mくらいで再び湿原に現れる「伏流水」のことを指すようだ。湿原にはこのような伏流水の水脈がいくつも存在している。入り口と出口を結ぶ筒状のトンネルは人が通れるくらいの広さ、とか。入口と出口には淵があり、増水時には渦を巻いて水を吸い込む姿が竜の口に見えた。それが竜宮の名前の由来。
木道十字路に立ち尾瀬ヶ原を見渡す。東には東北以北最高峰の燧ヶ岳(2360m)、西には標高2228mの至仏山が泰然として座し、北には景鶴山が、南にはアヤメ平一帯の山稜が東西に連なる。周囲を山で囲まれた標高1400の地に、東西5キロ余り、南北2キロを超える湿原が広がる。尾瀬ヶ原にはいくつかの水流が蛇行し湿原を貫く。主なものは尾瀬沼から落ちる沼尻川。ヨッピ川と合流し只見川の源流となる。そのほか六兵衛堀、源五郎堀、上ノ大堀川、下ノ大堀など湿原を貫流する水路は、いずれも蛇行し相互に連絡し合いながら水を集め、すべて只見川に落ちる。河岸には拠水林や草原が発達し、この大湿原を区切り、景観に変化を与えている。
尾瀬ヶ原の湿原はミズゴケよりなる。『尾瀬ヶ原の自然史;阪口豊(中公新書)』によれば、それはそれなりの理由があるようだ。振り返ると、はるか、遙か数百万年彼方の大昔、このあたりは西に蛇紋岩の山体(至仏山)が隆起した平坦な高原の地であった。そこに火山活動がはじまる。最初に噴火したのは景鶴山。一帯に溶岩を流した。流れた溶岩は地殻変動によって割れ目ができ、その割れ目に沿って浸食が進み只見川ができる。次いで尾瀬の北や東、そして南のアヤメ平、皿伏山などが噴火し、現在の尾瀬の姿ができあがる。そして最後に燧ヶ岳の噴火。流れた溶岩によって只見川の流れが堰止められ尾瀬ヶ原には浅い湖ができた。また崩壊した燧ヶ岳の山塊は沼尻川の流れを止め、尾瀬沼をつくった。
半水没の尾瀬ヶ原は燧ヶ岳や周辺の山々から流れ出した泥流により扇状地地形をつくる。川は氾濫を繰り返し湖は次第に埋め立てられた。蛇行して流れる川は氾濫を繰り返し、一部が切り離されて三日月湖となる。また溢れた川水がもとの川床に戻れず取り残されて湿地(後背湿地)になる。こうして一帯に湿原の形成がはじまる。8000年前の頃、と言う。
湿地帯の水辺にヨシ、スゲ、ガマが茂る。寒さなどのため完全に水と酸素に分解されることなく、その遺体が水中に堆積し泥炭となる。泥炭が水面まで堆積すると、やや乾燥したところに生育するスギゴケ類、カヤツリ草の類、ときにはハンノキなどの樹木が勢を増す。これら植物の遺体が堆積し泥炭層が厚くなると、泥炭は次第に乾燥し養分が減少する。そして、その環境に耐えうる植物として松やカンバの樹木が育ち、森林が形成されることになる。
この森林も年月とともに泥炭層が厚くなると、下層からの養分吸収ができなくなる。水も下層から吸収できず雨水に頼ることになる。雨水は養分に乏しい。結果、養分の欠乏に耐えられ、雨水を体内に貯留する機能をもった植物だけが生育を許される。それがミズゴケである。ミズゴケの群落は森林中に広がり樹木を取り囲み枯らし、一面がミズゴケの湿原となる。これが現在の尾瀬ヶ原ミズゴケ湿原が形成されたプロセスである。物事にはすべてそれなりの理由がある、ということだ。
なお、尾瀬の湿原は高層湿原とも高位泥炭地とも呼ばれる。これは高原、高地にあるから、といったことではなく、泥炭地と地下水面の比較からくる。高層湿原・高位泥炭地はまわりの地下水面より泥炭地が高くなっている状態の湿原・泥炭地を言う。厚くなった泥炭層のため地下の養分を含んだ水の供給を閉ざされ、雨水だけで生育するミズゴケは高層湿原・高位泥炭の代名詞となっている。

見晴;16時34分_1417m
竜宮の十字路から本日の宿泊地である尾瀬ヶ原の東縁、見晴に向かう。沼尻川の自然堤防につくられた拠水林を抜け、木道を下田代を東へと進む。木道は昭和9年、朝鮮最後の王朝李王殿下の来山のときにはじめてつくられたようだ。当初は風倒木、枯損木を再活用していたようだが、国立公園ともなればそういうわけにもいかず、現在はカラマツをつかっているのは上でメモしたとおり。
左手には燧ヶ岳が見える。原の中程に六兵衛堀。沼尻川の本流であった、とも。河川争奪に結果本流を沼尻川に奪われた、と。燧ヶ岳山麓が尾瀬ヶ原に落ちたあたりの見晴には幾つかの山小屋がある。燧小屋に宿泊。いつだったか丹沢の山小屋に行ったとき、夜具もふくめすべてが「山小屋」であったので、準備万端、寝袋を用意していったのだが、寝具も清潔、お手洗いもウォッシュレット。環境保護のため石鹸は使えなかったがお風呂も入り、快適な尾瀬の宿となる。

参考図書;『尾瀬と鬼怒沼:武田久吉(平凡社)』『尾瀬に死す:平野長靖(新潮社)』『定本 尾瀬 その美しき自然;白籏史朗(新日本出版社)』『尾瀬―山小屋三代の記;後藤允(岩波新書)』『尾瀬ヶ原の自然史;阪口豊(中公新書)』