金曜日, 8月 26, 2022

甫喜ヶ峰疏水散歩:繁藤調整池の甫喜ヶ峰疏水取水口からはじめ、甫喜ヶ峰疏水・旧平山発電所を経て土佐山田の疏水事績を訪ねる

先月3泊4日で香川用水東部幹線を73キロほどトレースした()。用水繋がりというわけでもないのだが、前々から気になっていた高知県香美市土佐山田の甫喜ヶ峰疏水を辿ることにした。
甫喜ヶ峰疏水をはじめて知ったのは土佐の歩き遍路の途次、幾多の野中兼山の治水事績に出合い、その事績をあれこれチェックしていたときのこと。水量の乏しい新改川に、分水界を異にした仁淀川水系穴内川の水を通そういうもの。この分水界となす峰が甫喜(ほき)ヶ峰。この峰に1キロの隧道を穿ち水を新改川に落とという壮大な構想。
この構想は兼山の時代には実現しなかったのだが、明治に至り新改川流域の土佐山田の村々で水争いが多発するにおよび、兼山の構想が浮上し明治29年(1896)10月、甫喜ヶ峰トンネル水路の掘削工事が開始され、3年9ケ月の歳月をかけ明治33年(1900)7月に925mのトンネルが貫通した。 標高350mの穴内川の取水口より流れ込んだ水はトンネルを走り、峰の南麓、標高325m辺りの開口部でトンネルを抜け、新改川上流部の沢に水を落とし新改川を用水した。これにより新改川流域の土佐山田の村々の水争いは収まったという。土佐山田の久次(ひさつぐ)にある宇佐八幡には水争いの終わりを記念した石碑も建つという。
またこの甫喜ヶ峰疏水は後年になり、電力需要の要請に応えるべく疏水を活用し。明治42年(1909)には高知県で最初の水力発電所が建設された。
当日、穴内川の取水口からトンネルを抜けた開口部を訪ねた時、水は沢に落ちるものと、等高線に沿って山腹を進む用水に別れていた。新改川を養水するだけであれば、山腹を進むことなく沢に落とせばいい。とすれば、開口部から続く用水路は水力発電所の建設された場所へと落とすべく落差を確保し、落下地点への最適地まで水を通すため旧平山発電所建設に際して抜かれた用水路であったのだろう。
ともあれ当日の概要。穴内川の繁藤調整池の甫喜ヶ峰疏水取水口からはじめ、県道254号を進み、途中県道を逸れGoogle Mapの航空写真に見えた大きな水槽および水圧鉄管まで進む。水槽は国土地理院地図に記される現平山発電所への水路上に見えるため平山発電所関連施設と推測した次第。 そこから先、幸運にも国土地理院地図に描かれた甫喜ヶ峰疏水の水路らしきルートへと道は繋がっていた。水路に出たところは山腹を進んできた水路が急傾斜で谷に落ちる箇所。この急傾斜の導水路が旧平山発電所に供給する水路だろうとその時は思いながら(実際は違っていたのだが)、水路を辿りトンネル開口部へと向かった。
開口部からピストンで車デポ地まで引き返し、急傾斜の導水路が県道254号とクロスする地点で導水路を下り沢合流部に。そこはトンネル開口部から水が落ちる沢でもあった。どこかで旧平山発電所水圧鉄管に出合うのではとの思惑は外れちょっと戸惑う。
で、その先平山発電所から旧平山発電所を訪れ、旧平山発電所傍で偶々見つけた水圧鉄管に沿って急斜面を這い上がり、水圧鉄管の始点を確認すべく藪と格闘するが、水圧鉄管は沢から離れ結局県道254号に出てしまった。県道から上にも激しい藪の中に水圧鉄管が続いている。直線を延ばすと水路から水が急傾斜で落ちる用水路南端部。当日は見逃したのだが、急傾斜で落ちる導水路傍に四角のコンクリート構造物があった。ひょっとすると水圧鉄管はそこに続いていたのかも知れない。
確認に戻ってみたいとは思ったのだけど、先の予定を考えればその時間はちょときつそう。心残りなが先に進み、甫喜ヶ峰疏水とは離れるのだが、甫喜ヶ峰疏水で恩恵を受けたと言われる土佐山田の用水路チェック。国土地理院地図に新改川から延びる、如何にも水路らしきルートを衛星写真でチェック。偶々見つけた用水にかかる水路橋、それとGoogle Street Viewで見つけたサイホン(後で松尾サイホンと知る)を目指す。
で、当日わかったことなのだが、別の用水上にあると思っていた水路橋も松尾サイホンも鏡野川用水路上にあった。結局鏡野川用水を辿ったことになう。
鏡野川用水路の取水口は新改発電所の手前、発電所からの放水を活用しているようであり、古いものかどうか定かではない。とは言うものの、松尾サイホンは明治に既に造られているわけで、また松尾サイホンの目的は土佐山田の町並みの北を東西に流れる川を潜り、土佐山田の町を潤すことにあったとすれば、鏡野川用水は結構古いもので、元々の取水口は新改発電所の上流で新改川より取水していたのかとも妄想する。実際、新改川の水を引き込んだ人工の川である鏡野川が現在の土佐山田駅辺りをを潤したと言う。
資料にあたったわけではないのだが、松尾サイホンで川を潜り対岸で姿をあらわした鏡野川用水は土佐山田の町に入る手前で二流に別れ、共に土佐山田駅の北にその流れが続いてあいる。鏡野川用水という名前からしても、この用水は鏡野川と深い関係があるように妄想する。 用水歩きの後は新改川左岸、須江の「甫喜ヶ峰疏水記念碑:、右岸久次の宇佐八幡にある「新改川水争いの碑」を訪ね散歩を終える。

今回の散歩は甫喜ヶ峰疏水、旧平山発電所の水圧鉄管などに関する詳しい資料がなく、位置も記されていないスポット名だけの情報を元に,国土地理陰地図に記される甫喜ヶ峰疏水ルート図とGoogle Mapの航空写真、Google Street Viewとの合わせ技で歩いた。繁藤調整池の取水口からトンネル開口部で沢に落ちる水、そもまま山腹を進む水路など現地に言ってはじめてわかったことも多く、そこからあれこれ浮上した疑問を妄想で解いてゆく、なんとなく謎解き散歩といった一日を楽しめた。



本日の散歩;
繁藤調整池の甫喜ヶ峰疏水取水口から平山発電所調圧水槽・水圧鉄管まで
甫喜ヶ峰疏水取水口>平山発電所取水口>平山発電所調圧水槽へのアプローチ点>平山発電所調圧水槽>平山発電所水圧鉄管
甫喜ヶ峰疏水・旧平山発電所導水路を甫喜ヶ峰疏水隧道開口部まで
旧平山発電所水圧鉄管導水路南端部>隧道1>隧道2>隧道3出口>隧道3入口>甫喜ヶ峰疏水開口部
急傾斜導水路
急傾斜導水路と県道254号クロス部から下る>沢に合流
旧平山発電所へ
平山発電所>旧平山発電所跡
旧平山発電所水圧鉄管を辿る
水圧鉄管に沿って県道254号まで這い上がる>県道から山側にも水圧鉄管が見える
香美市土佐山田へ
平山発電所平山放水口>休場ダム・新改発電所導水路取水口>天狗岳不整合>新改発電所
鏡野川用水・松尾サイホン
水路橋>水路橋に繋がる用水路取水口に向かう>取水口は新改発電所手前にあった>隧道マーク1>隧道マーク2・3・4>松尾サイホン>松尾サイホン出口
甫喜峰疏水記念碑と新改川水争いの碑
須江・甫喜峰疏水記念碑>久次・宇佐八幡の「新改川水争いの碑」

国土地理院地図
NOTE:地図が表示されない場合は、検索窓に「高松」などの地名(適当に「東京」などを入力しても表示されます)を入力し
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繁藤調整池の甫喜ヶ峰疏水取水口から平山発電所調圧水槽・水圧鉄管まで

甫喜ヶ峰疏水取水口
繁藤調整池からの用水引き込み口
高知道高架下の甫喜ヶ峰疏水取水口
高知自動車の大豊インターで下り、穴内川に沿って国道32号を南下。国道が高知自動車道の高架を潜る手前で左に折れ、穴内川に架かる穴内川橋を渡り県道254号に乗り換える。
穴内川右岸を少し進み高知自動車道の高架を潜り、四国電力繁藤ダム堰堤を右手に見ながら再び沢手前で高知自動車道の高架を潜ったところに、明治29年(1896)10月より開削工事がはじまった甫喜ヶ峰疏水取水口がある。
現在はダム湖(調整池)のため取水路の堤防と取水口がわずかに見られるのみ。取水口のある場所は時の内務大臣板垣退助が、 郷土における本事業のため、 外国人技師デ・レーケを派遣し、 天然の好位置であるとした「鬼頓房渕 (ひとんぼぶち)」と呼ばれた場所と言われる。
ヨハニス・デ・レーケ
いわゆるお雇い外国人として日本に招聘され、河川改修や砂防工事の基礎をきづいたことから「治水の恩人」あるいは「近代砂防の租」と称されるオランダ人技師。
木曽三川の分流工事や千葉利根運河開削など、その事績は数多い。

平山発電所取水口
繁藤ダム(調整池)堰堤
平山発電所取水口
県道254号を逸れ繁藤ダム(調整池)に沿って道を少し進むと昭和38(1963)年4月に運用開始された平山発電所への取水口がある。この地より1.5kmほどトンネルを進み平山発電所調圧水槽まで進み、そこから230mほどの差を水圧鉄管で落ち平山発電所に水を送る。当日わかったおとだが、平山発電所調圧水槽は衛星写真で見つけた大きな水槽のことであった。
調圧水槽(サージ・タンク
圧力導水管と水圧鉄管との間に設置し、発電所が急停止した場合に発生する水圧を逃がして、管の破損を防ぐ。
水圧鉄管内で水流の速さが急激に変化すると、水圧鉄管内の圧力が急激に変化する。特に水圧が急激に上昇すると水圧鉄管が破損しやすくなります(水撃作用)。これを防ぐために、水路の間に調圧寿司層を設け、水槽内部の水位を昇降させることで水圧鉄管内の圧力変化を軽減する。

平山発電所調圧水槽へのアプローチ点から「水槽」へ
右手ガードレールの切れたところで山道に
踏まれたみちが続く
取水口を離れ県道254号を上り航空写真で見た巨大水槽へのアプローチ点へ。国土地理院地図に描かれる甫喜ヶ峰疏水のルート上に結構大きな水槽が航空写真に見える。その時点ではその水槽が調圧水槽と知る由もないのだが、その「水槽」近くへと破線ルートが国土地理院地図に描かれている。発電所施設であれば保守点検の作業道が続いているだろうと、県道から逸れて破線ルートをトレースし水道へと向かう。
踏まれた道を進むと「水槽」からどんどん離れてゆく。オンコースは県道を逸れて直ぐ左手に向かうのだだが、「水槽」への分岐点に木が茂り見落とした。分岐点まで戻り地理院地図に記された破線に沿って進む。木が繁る分岐点の先は踏まれた道が続く。

平山発電所調圧水槽
「水槽」は平山発電所調圧水槽だった
踏まれた道を8分ほど歩くと結構大きなタンクがあり、そこには「平山発電所調圧水槽」と記されていた。その標識を見て航空写真で見た「水槽」がはじめて平山発電所調圧水槽であることを知った。
Wikipediaには「容量に余裕を持たせたサージタンクの中に一定量の液体を満たしておき、取水施設の何らかの異常によって急激に流量が増えた際や、発電機側のタービンが急停止した際、また、逆に流量が減少した際などに、水力を動力源とするシステムに急激な水圧変化(水撃作用)による悪影響を与えることを避ける効果がある。急激に流量が増えた場合にはサージタンクに水を導き、発電機などに過負荷が掛かることが防止できる。逆に取水量が減少した際にはサージタンク内の水で補うことで発電機の回転数の低下を予防できる。流量の変化を妨げないためと、急激な圧力変化から施設自体を守るため、タンクは密閉されない(大気に開放されている)」とある。航空写真で「水槽」と見えた所以ではある。
「水力ドットコム」には、「差動式サージタンク 口径12m×高23.71m」と記されていた。結構大きい。調圧水槽を一周するが取水口からの導水管は地中に埋まり見ることはできなかった。
差動式サージタンク
サージタンクの形式による分類のひとつ。「水力ドットコム」には「サージタンク内にライザー[riser]と呼ばれる細めの管を設け、ディファレンシャルタンク[differential tank](差動型サージタンクのライザーを除いた部分)にはポートを設けてあります。
サージが発生するとライザー及びディファレンシャルタンクの両方にサージ圧が掛かりますが、ライザーの方が開口径に比して水量が少ないため先に水位が変化、ディファレンシャルタンクは開口径に比して水量が多い(ポートの抵抗が有る)ため遅れて水位が変化します。この一連の動作によりサージが吸収されます。
ライザーとディファレンシャルタンクの共振周波数が異なる上、ディファレンシャルタンクにポートの抵抗が有るため共振を起こし難く、大きさに比してサージの吸収力が高いサージタンクです。 径の細い単動型サージタンクと径の太い制水口型サージタンクを組み合わせた方式とも言えます」とある。
サージタンクの形式による分類には、単動式、水室式などがあるとのこと。

平山発電所水圧鉄管
ステップを下り
水圧鉄管上に
国土地理院地図には調圧水槽の直ぐ下に平山発電所に繋がる水圧鉄管らしきものが記されている。そこへのアプローチを探すと整備された作業道が直ぐ見つかった。作業道を下りると水圧鉄管の横に出た。そこからステップを下りるとコンクリート構造物と繋がる水圧鉄管上に下りることができた。 「水力ドットコム」には。「水圧鉄管:内径2900~1650mm、板厚10~32mm、延長556,86m ×1条。有効落差:230.4m」とあった。
発電所は木々に阻まれ見ることはできなかった。

甫喜ヶ峰疏水・旧平山発電所水圧鉄管概要図


甫喜ヶ峰疏水・旧平山発電所導水路を甫喜ヶ峰疏水隧道開口部まで

旧平山発電所水圧鉄管導水路南端部に出合う
コンクリート構造物の先に
水路があり
水圧鉄管から調圧水槽まで戻り、甫喜ヶ峰疏水へのルートを探る。と、調圧水槽から東へと下りる道がある。それが水路へ続くかどうか不明だが、保守点検作業道があるはずと取り合えず下る。 東に突き出た250m等高線下をぐるりと迂回すると平たい四角のコンクリート構造物があり、その先に水路が見えた。水路はそこから急傾斜で下に落ちていた。
その先山肌を開水路が見える
急傾斜で水が落ちる
 当初この急傾斜の導水路が旧平山発電所水圧鉄管にどこかで繋がるのではと思っていた。で、導水路を下りて見ようと思ったのだが、導水路の左は作業ステップらしきものがあり下りることができそうなのだが、フェンスでブロックされ導水路左に廻り込むことはできない。導水路右手は平たい四角のコンクリート構造物脇を抜け導水路まで行けるのだが急斜面を下りることになる。

地図を見ると急傾斜の導水路は直ぐ下で県道254号とクロスしている。後ほど、そのクロス地点からその先へお下りてみようと、まずは旧平山発電所導水路を繁藤調整池の取水口から隧道を抜けた甫喜ヶ峰疏水の開口部まで辿ることにした。用水路が脇に保守点検作業道が整備されており、繁藤調整池からの導水トンネル開口部まで続いているのではと思った次第。
旧平山発電所水圧鉄管
このときは、急傾斜で落ちる導水路が旧平山発電所水圧鉄管にどこかで繋がると思い込んでいたのだが、後程旧平山発電所水圧鉄管はこの急傾斜で落ちる導水路とは違うルートでこの地に繋がっていた事実を知ることになる。
とすれば、この急傾斜の導水路は旧平山発電所が昭和51年(1976)廃止された後、水圧鉄管への導水路を流れていた水を沢に落とすために造られたものではないかと妄想する。

隧道1
隧道1出口
隧道1入口
開水路を少し歩くと隧道(仮に「隧道1」とする。以下同じ)に出合う。コンクリート板の下から水が流れ出る。用水路は地中に潜るが作業道は谷側を迂回して進む。迂回した先に隧道1の入口。ここもコンクリート板。その先も用水路はコンクリートで蓋をされている。入口上には土砂落下防止壁らしきものもあった。
現平山発電所導水管と甫喜ヶ峰疏水ニアミス
国土地理院地図にはこの隧道あたりで現平山発電所導水管と甫喜ヶ峰疏水が急接近している。合流しているようにも見えるが、導水管と用水を合流させる、それも地中で、といったことを行う合理的理由がわからない。別系統で進んでいるのではないだろうか。単なる妄想。根拠なし。

隧道2
隧道2出口と整備された迂回路
隧道2入口
コンクリートの蓋もすぐに切れ、その先開水路となった用水は直ぐ隧道2に入る。レンガ組みの隧道出口。如何にも明治の雰囲気。ここも谷側を迂回する整備された作業道を進み隧道2の入口に。隧道入口もレンガ組みとなっている。その先も開水路が続く。

隧道3出口迂回路を歩き県道25号に出る
隧道3出口
県道254号に出る
隧道2から直ぐ隧道3の出口。レンガ組みの出口には銘が刻まれた石板があるが文字は読めない。地図を見ると隧道は県道254号下を直線で進む。迂回作業道は県道254号の谷側に沿って迂回し8分ほど歩き県道254号に上がる。県道に上がる手前には「あぶないから入ってはいけません」のボードとチェーンブロックがあった。すみません。

隧道3入口
ヘアピンカーブ手前左に水路柵が見える
隧道3入口
県道254号に出ると直ぐ、県道はヘアピンで曲がるが、ヘアピンカーブの手前に左に入る道があり、その先に開水路脇に設けられた鉄柵が見える。道に入り込むとレンガ造りの隧道3入口があった。入口の上には銘が刻まれた石板があるが文字は読めない。
隧道から先は開水路となっている。入口には「あぶないから入ってはいけません」のボードとチェーンブロックがあった。申し訳ないとは思いながらチェーンブロックを跨ぎ開水路を進む。
Google Street View
国土地理院地図で見るとこの辺りで用水路は県道に接近している。Google Street Viewでチェックすると木々の間に白い鉄柵が見えた。甫喜ヶ峰疏水であろうと、当初はこの辺りからアプローチする予定であったが、当日は調圧水槽チェックに入り込んだルートが甫喜ヶ峰疏水と繋がっており上述ルートを辿ることができた。

甫喜ヶ峰疏水開口部
開水路を進むと
甫喜ヶ峰疏水隧道開口部があった
開水路を5分ほど歩くと繁藤調整池の取水口から甫喜ヶ峰の山中を925m進んだ甫喜ヶ峰疏水隧道開口部がある。レンガ組みの出口の上には「永頼さあが刻まれた銘板がある。建設当時の知事石原健三氏の書とのこと。
開口部から谷側に向かう導水路がある
水は沢に落ちていた
開口部に出た水は二つに別れる。ひとつは今辿った旧平山発電所水圧鉄管への導水路。もうひとつは開口部から直ぐ沢に落ちる。最初は余水吐けかとも思ったのだが、あれこれ考えると建設当時の甫喜ヶ峰疏水はこの沢に落としていたのではとも妄想する。
その「妄想」の根拠は、明治29年( 1896 )に開始された甫喜ヶ峰疏水建設の目的は、水量の乏しい新改川に仁淀川水系穴内川の水を送ること。であれは新改川源流域のこの沢に水を落とせは事は足る。 明治33年(1900)に開通した当初の甫喜ヶ峰疏水はここから沢に落ちており、今歩いてきた用水路は、明治42年(1909)に建設された旧平山発電所の水圧鉄管への導水路として、旧平山発電所の建設に合わせて後年整備されたものではないだろうか。旧平山発電所に落とす水圧鉄管に落差を確保するため、その適地である前述急傾斜で水が落ちる地点まで用水路を開いたものかと妄想する。
「土佐山田町史」に開口部から疏水が谷側に落ちる写真があった
こんな妄想は開口部から沢に落ちる水を見たことによる。この沢に落ちる水を見るまでは、旧平山発電所水圧鉄管への導水路南端までが明治33年(1900)完成した甫喜ヶ峰疏水と思っていた。「土佐山田町史」にも甫喜ヶ峰疏水開開口部から沢へと落ちる写真があった。

上で、急傾斜の導水路は昭和51年(1976)に廃止された急平山発電所の水圧鉄管への水を沢に落とすために造られたものと妄想するとメモしたが、これもこの開口部から沢に落ちる水を見てあれこれ妄想した「成果」ではある。


急傾斜導水路

急傾斜導水路と県道254号クロス部から下に下りる
急傾斜で落ちる導水路

県道を潜り更に下に

ピストンで車デポ地まで戻り県道254号を下り、急傾斜導水路と県道254号がクロスする地点に向かう。山側から急傾斜で落ちる水路は県道下を潜り下に一直線で続く。
この時は旧平山発電所の水圧鉄管が全く異なるところにあることは知る由もなく、この導水路が何処で水圧鉄管に繋がるのか確認するため県道下に落ちる急傾斜の導水路を下ることにする。導水路脇には作業ステップも整備されており、そこへのアプローチを探す。県道を少し下ったところ、ガードレールが切れたところに踏まれた道がありそこを歩き導水路脇に。そこから急傾斜の作業道を手摺を頼りに下る。


水は沢に落ちる
水圧鉄管に繋がるかとステップを下るが
導水路は沢に落ちていた
5分ほど下ると導水路の水は沢に落ちる。地形図で見ると、合流地点の沢は甫喜ヶ峰疏水開口部より水が落ちる沢と繋がっているようだ。
この沢の下流のどこかで発電所水圧鉄管と繋がるようには思えない。合流部の標高が230m。旧平山発電所の標高が154m。比高差80mほどだし、なにより急傾斜で発電所に水が落ちるとは思えない。このときは、旧発電所水圧鉄管が他のルートにあることは知る由もなく、途方に暮れながら県道に戻った。


旧平山発電所へ

平山発電所
平山発電所水圧鉄管
平山発電所
県道254号に戻り平山発電所まで下る。昭和38年(1963)運用開始。認可最大出力は41500kW(常時出力6100kW)。一世帯の平均電力は3kW(東京電力)。1万KWでほぼ3,333世帯ということはこの発電所では13,800世帯ほどの電力をまかかっているということだろう。先ほど訪れた落差230.4mの水圧鉄管の眺めは美しい。

旧平山発電所跡
旧平山発電所跡に儒年比
平山親水公園にあった急平山発電所も写真
平山発電所から少し下り、新改川源流部の沢に沿って上ると旧平山発電所跡がある。県道254号から旧平山発電所までは簡易舗装されており小型車であれば車でも行けそうだ。
旧平山発電所跡には県電気記念日実行委員会が昭和53年(1978)に建立した記念碑がある。そこには「 流れを逐って源を忘る勿れ」と刻まれる。これは当時の高知県知事宗像政(むなかた・ただす)氏の書であり、説明に 『電気百年の記念日にあたり電気史跡として之を建て後世に残す』 とある。
宗像政
電力需要の増大に対応すべく明治33年(1900 )に貫通していた甫喜ヶ峰疎水を活用し土佐山田町平山に水力発電所を計画。県議会にこれを提出。当時の県予算にも匹敵するような事業予算の工事を強い指導力のもと、 明治39年(1906)12月に着工し、 2年3ヶ月を費やして、 明治42年(1909)2月11日についに完成した。 これにより高知県で初めて水力による発電が開始された。
運用当時の出力は1080kWではあるが(後に2350kW)、当時としては全国的にも規模の大きな発電所であったよう。
その後、昭和26年(1951)に四国電力へ移管され、昭和51年(1976)に廃止されるまで67年間にわたり発電を続けた。 事業企画提出時には「水から火ができるか?」などといった質問もあったようである。
 

旧平山発電所水圧鉄管を辿る

水圧鉄管に沿って県道254号まで這い上がる
立ち入り禁止柵の山側を進むと
柵内に遺構らしきものが見えてきた
記念碑の周囲で旧発電所の遺構でもないものか彷徨する。先ず沢筋左岸に入りそれらしきものはないかと進むが沢が続くだけ。しばらく進み藪が激しくなったあたりで記念碑の建つところに引き返す。 
次いで沢の右岸。立ち入り禁止の柵がある。何かないものかと柵に沿って進む。と、柵の中になんとなく旧発電所遺構っぽい構造物が残る。
更に進むと水圧鉄管が現れる
最初は水圧鉄管傍を上るが
更に先に進むと水圧鉄管が見えた。予想外の展開。 水圧鉄管は斜面の先まで伸びている。径も結構大きい。水圧鉄管が何処まで残り、何処に続くのか、水圧鉄管に沿って斜面を這い上がることにする。
この時は水圧鉄管は急傾斜で落ちていた導水路が沢と合流するあたりに続くのだろうと思っていたのだが、水圧鉄管は沢から離れ、切れることもなく先に続く。これは後からわかったことなのだが、旧平山発電所は昭和51年(1976)まで運用されており、廃止されたのはそれほど昔のことではない。そのためか水圧鉄管はしっかり残っている。
足場のいい斜面を探し
水圧鉄管を右へ左へ

最初は水圧鉄管傍を、その先は水圧鉄管の左右の斜面を這い上がる。時に水圧鉄管を跨ぐ橋というか崩壊した狭い通路を渡り、足場のいい斜面を探し水圧鉄管の右や左を這い上がる。
しばらく進むと水圧鉄管は左に曲がり更に沢から離れる。この時点で水圧鉄管は急傾斜導水路が沢に合流する箇所とは全くことなるルートに設置されていることがわかってきた。






時には崩壊作業橋を渡り
先に進むと県道に出た
であれば、どこに向かうのか、その向かう先が更に気になり、水圧鉄管傍の急斜面を這い上がる。結構キツイ。と、先に県道254号らしきガードレールが見えてきた。県道下に這い上がると水圧鉄管阿hは県道下のコンクリート壁と繋がる。コンクリート壁面手前の斜面を這い上がり県道に出る。水圧鉄管を見てから30分ほどかかった。場所は急傾斜で落ちる導水路が県道とクロスする箇所から300mほど離れたところだった。

県道から山側にも水圧鉄管が見える
県道山側にも水圧鉄管が伸びる
県道から山側にも水圧鉄管が延びる。地理院地図を見ると、水圧鉄管を直線に延ばしたその先は、旧平山発電所水圧鉄管導水用水路南端部、開口部から山肌を緩やかな傾斜で進んできた用水が谷に向け左へと急傾斜で落ちる箇所のあたる。急傾斜で水が落ちる手前にフラットなコンクリート構造物があったが、そこに続いているのかとも妄想する。旧平山発電所水圧鉄管の落差は運用開始時182mとのデータがあった。急傾斜で水が落ちる箇所の標高は338m。旧平山発電所の標高が154mであるがらほぼ落差は合う。
当日は急傾斜で落ちる導水路が水圧鉄管に繋がるルートと思い込み、コンクリート構造物の下を確認しなかった。帰路途次、時間があれば確認しようと思ったのだけれど、時間がなく確認できなかった。ちょっと残念。
急傾斜で沢に落ちる導水路
上にメモしたが再度メモ。当初発電所水圧鉄管に繋がるルートであろうと思った急傾斜で沢に落ちる導水路は、発電所水圧鉄管に繋がるものではなかった。それではこの導水路は?妄想ではあるが、旧平山発電所が廃止になり水圧鉄管へと繋げた用水路の水を沢に落とすため、旧平山発電所が廃止されるに際し造られた憔悴の余水吐けではないだろうか。


香美市土佐山田へ

甫喜ヶ峰疏水歩きを終え、その疏水の恵みを得た土佐山田の地に残る用水路、疏水記念碑を訪ねることにする。
用水路は国土地理院地図に記される如何にも新改川を取水口とする用水路をチェック。航空写真に見える水路橋、Google Street Viewに偶々見つけたサイホンの出入り口、そして須江にある甫喜ヶ峰疏水記念碑、久次の宇佐八幡にある水争いの碑を訪ねることにする。

平山発電所平山放水口
平山発電所平山放水口標識
その下に放水口先端部が見える
ピストンで旧平山発電所に戻り、香美市の土佐山田に向かう。国土地理院地図を見ると新改川上流の沢が合流する地点に平山親水公園があり、その地に平山発電所からの放水ルートが繋がっている。ちょっと立ち寄り。
公園を進むと川傍と言うか、少し下流に設けられた休場ダムのダム湖傍に平山発電所平山放水口と記された案内があった。甫喜ヶ峰疏水を落とし、旧平山発電所傍を流れ下ってきた沢の西側に放水口の先端部が見えた。
「高知県水力発電事業発症の地 平山発電所の概要」案内
案内板横にフランシス水車
平山親水公園内に「高知県水力発電事業発症の地 平山発電所の概要」案内があり、「明治31年4月11日、 高知県に初めて電灯がともりました。 発電出力50kWの小さな火力発電所によるものです。 当時の電灯で約700灯、今の家庭用エアコンなら50~60台程度を動かす小規模な発電所でした。 その頃の高知県では、交通手段といえば馬車か徒歩、 産業は家内工業が細々とあるだけで近代化を図ろうにも肝心な動力がなく、日々の生活でもランプが主役の時代でした。
その後、四国では電気の利用が盛んになり、明治36年に愛媛県で最初の水力発電所が建設されました。 同じ頃、 高知県でも水力発電所ができないかと考える人が現れ、初めての水力発電所建設計画が持ち上がりました。 それが、 ここから少し上流に高知県によって建設された旧平山発電所です。
この発電所建設は、当時の県予算に匹敵する莫大な費用をかけた大事業でしたが、県知事であった宗像政(むなかたただし)の強い指導力のもと、 明治39年12月に着工し、 2年3ヶ月を費やして、 明治42年2月11日についに完成しました。 これにより高知県で初めて水力による発電が開始されました。 当時としては全国的にも規模の大きな発電所で、 高知県の人々にとって夢のような出来事だったようです。
発電所がこの地に選ばれたのは、穴内川から国分川分水している甫喜峯疏水があり、この水を、発電に利用できないかと考えたからです。
甫喜峯疏水は、香長平野への灌漑用水補給のため、江戸時代に土佐藩家老の野中兼山により考案されましたが、実現しませんでした。その後明治に入り、何度も深刻な水飢饉に見舞われた地元住民の強い願いにより明治33年7月に、約4年の難工事のすえ、完成したものです。
旧平山発電所で発電された電力は、その後の第一次世界大戦前後からの好況により製紙・製材・製糸・セメント製造など多くの産業で利用されました。 その後も、工場の新設、電車の開通、ラジオや扇風機の出現などで電力需要はさらに急増し、これに対応するため県下の主要河川に相次いで水力発電所が建設されました。 今では県内に42個所の水力発電所があり、県内電力需要の約35%を担って産業・文化に広く利用されています。
その後、旧平山発電所は、 昭和26年に四国電力へ移管され、昭和51年に廃止されるまで67年間にわたり発電を続けました。 現在は、昭和38年に建設された新平山発電所( 41,500kW) が後を引継ぎ、 純国産のクリーンな水力エネルギーを利用する発電所として大いに活躍しています」とあった。
この案内もさることながら、その横に幾つかの写真があり、その中の一枚は旧平山発電所とその水圧鉄管が移されたもの。甫喜ヶ峰疏水発電所導水路の落とし口より発電所に続く水圧鉄管は一直線に下りた後、少し向きを変え発電所に繋がっている。先ほど歩き終えた水圧鉄管ルートで感じた同じカーブで発電所と繋がっていた。
また、この案内文には平山発電所と周辺地図があり、そこには旧平山発電所の写真があった。発電所建屋と共に水圧鉄管が見える。水圧鉄管は発電所建屋から北西に山を上った後、緩やかに方向を変え一直線に山へと伸びていた。当たり前だけど、先ほど水圧鉄管に沿って歩いた「感じ」と同じであった。 案内板横にはフランシス水車が置かれていた。これは旧平山発電所のものだが、平山発電所もフランシス水車を使っているようだ。
フランシス水車(Francis turbine)
Wikipediaには「イギリス生まれのアメリカ人技術者、ジェームズ・B・フランシス(英語版)によって開発された水車の一種である。
内側に向かって流れる水を作用させる反動水車で、放射状・軸状それぞれの特徴を兼ね備えている。フランシス水車は、今日では最も広く用いられている水車である。有効落差にして数十メートルから数百メートルの範囲で適用され、主として水力発電所において電力の発生(発電)に利用される」とある。
四国最初の水力発電所
案内に「明治36年に愛媛県で最初の水力発電所が建設されました」とあるのは松山市の石手川にある旧湯山発電所。明治36年(1903)1月、四国初の水力発電所として建設された。出力は260kWではあるが、当時としては世界最高水準の発電所だったとのことである。
その後明治44年(1911)、大正12年(1923)と第二、第三発電所が建設されたが、昭和32年(1957)にこれらを廃止して一つにまとめたのが、現在の湯山発電所である。

休場ダム・新改発電所導水路取水口
休場ダム・新改発電所導水路取水口
対岸から見た取水口
昭和36(1961)年に着工。昭和38(1962)年に竣工したダム。国土地理院地図を見ると。休場ダムから導水路が新改発電所に抜けている。発電所用貯水ダムなのだろう。
県道側からは取水口が見えない。堤高18m、堤頂長64.2mのダムの堤を対岸に対岸に渡り取水口を確認する。
休場ダム管理事務所傍の水利利用標識には「水利使用の目的;水力発電(新改発電所)/ 取水量 毎秒 1号 14 立方メートル 2号2.5立法メートル / 貯水量253,500立法メートル 」とあった。60mの立方体は216,000立法メートルだからそれより少し大きいといったものだろうか。

天狗岳不整合
県道を新改川に沿って下ると谷側に案内板があり、「狗岳不整合」とあり、「高知県指定天然記念物 (昭和二十五六二日指定)
対岸の白木谷層群チャート壁の下流約三十mほど、 岩盤の終わるあたりの河床部近くに、領石層基底礫岩が約0.7mにわたり五~十五㎝の厚さで密着している。
基盤の白木谷層チャートは、約二億年程前太平洋海底に堆積してできたものであり、その上部に堆積したと見られる領石層基底礫岩は、今から一億数千万年前の中世代白亜紀前期に海底に堆積してできたもので、両層の間に数千万年の空白がある。つまり白木谷層チャートが海底に堆積した後、隆起し、陸上で侵食され、数千万年後に再び海底に沈降し、その上に領石層が堆積したのである。即ち不整合で、西南日本外帯の地史や領石・物部川盆地の地質を研究する上で、必要欠くことのできない貴重な資料である。
この不整合は西は上倉八京に続き、東は佐岡の中後入の間で同様の不整合が見られる。
一九四九年 平田茂留調査報告 高知県教育委員会・香美市教育委員会」とあった。
地質のことはわからないが、とりあえずメモ。といっても、画像文字をテキスト変換してくれるアプリである「「一太郎pad」で自動変換したもの。
神社の縁起など書き起こすのが大変だったのだが、このアプリを使うことによって大変楽になった。感謝。

新改発電所
新改発電所対岸の変電所
新改発電所と水圧鉄管
はじまりは大正8年’(1919)に新改第二発電所(旧新改発電所)として建設されたが、昭和38年(1963)新改発電所賭して運用が開始された。上述休場ダムも 昭和38(1962)年に竣工とあるので、新改発電所用貯水ダムとして建設されたことがわかる。
発電形式はダム水路式。ダム水路式とはダム式と水路式を合わせたもの。ダム湖で貯めた水を導水し落差をもって発電するもの。因みにダム式とは渓谷などに高いダム堤を築き、その落差で発電するもの。また水路式とは堰堤などで水を堰止め、そこから水路を通し十分な落差が得られるところで水を落とし発電するもの。旧平山発電所は水路式、平山発電所はダム水路式となる。この差は開水路の有無によるのだろう。
最大出力8700kW(常時出力1200kW)。水圧鉄管の落差は69,2m(旧新改発電所の落差は90m)。因みに旧新改発電所の最大出力は810kWであったという。休場ダムから取水された水圧鉄管が見える。 尚、発電所放流水は左岸にて灌漑用水となる。また、非灌漑期には川を潜る放水路にて右岸へと渡り1km程下流にて国分(新改)川に放流されるとのことである(国土地理地図にはこのルートが破線で記されている)。
予想に反して平山発電所より電力の出力数が少ない。大規模な発電所と思ったのは新改川右岸にある高知県中部の拠点変電所の変電設備が林立しているためだろう。


■土佐山田の鏡野川用水・松尾サイホン■

水路橋
水路橋がふたつ見える
水路橋を進む用水
航空写真で見つけた水路橋に向かう。新改発電所から県道254号を下り直ぐ下流の新改川に架かる橋を渡り水路橋に近づく。と、そこには二つの水路橋がありひとつは道路を跨ぎ、もうひとつは新改川支流を跨いでいた。
水路橋と思ったのは航空写真で見ただけ。実際はどうなのか水路橋に上ろうとするが道路を跨ぐ辺りからは上れそうにない。少し道を戻り新改川傍に水路橋に繋がっているような用水路へ何とか上れそうな箇所を見つけ這い上がる。とそこには豊かな水が流れる開水路があった。 
水路橋へと下流に向かう。草が茂る水路脇を進み水路橋へ。水路橋は渡ることはできそうもなく、豊かな水が下流に流れていることを確認し上り口に戻る。

水路橋に繋がる用水路取水口に向かう
開水路はすぐ切れ
コンクリート蓋で覆われた用水路を進む
当初水路橋を確認し、松尾サイホンへと向かう予定であったのだが、これほど豊富な水を新改川に何処から取水しているのか知りたくなり、道に下りることなく上流へ向かう。
開水路はほどなく切れ、用水路はコンクリーチの蓋で覆われる。国土地理院地図には水路は記されていない。また用水路と新改川の段差が大きく、これは相当上流に進まなければ新改川からの取水口にはあたらないとちょっと長距離を覚悟。

取水口は新改発電所手前にあった
取水堰は新改発電所手前にあり
余水は新改川に落ちる
処々に開く鋳鉄製格子蓋から聞こえる水音に涼感を得ながら400mほど進むと取水口があった。取水は新改川からではなく新改川発電所からの放流水の一部をとっているようだ。新改発電所の記事に「発電所放流水は左岸にて灌漑用水となる」とあったのがこの用水かとも思う。
甫喜ヶ峰疏水により水量の増した新改川からの取水口を想い取水口まで辿った思惑は頓挫した。が、この新改川左岸の用水がいつできたのかわからない。新改発電所(旧新改発電所)建設時にできたものなのか、それもとそれ以前から水路はあり、発電所建設時に取水口が発電所放流水と繋がれたのか。後者であれば甫喜ヶ峰疏水の恵の水として土佐山田に流れるといった物語ができるのだか。。。

隧道マーク1
隧道マーク1地点
次の目的地は松尾サイホンなのだが、このサイホンに繋がる水路らしきルートが国土地理院地図に描かれている。そしてそこには4か所ほど甫喜ヶ峰疏水で見た[隧道出入り口マーク]が見える。ついでのことでもあるので、[隧道出入り口マーク]を目安に松尾サイホンに至る用水路の隧道をチェックすることにした。
水路橋傍の車デポ地から県道254号に戻り右岸を南下、ほどなく新改川に架かる橋を渡り左岸に移る。 橋を渡ってすぐ香長小学校の少し東、地図に見える[隧道出入り口マーク]の地点に向かうと、そこは開水路が切れ、水路が地中に潜る境であった(仮に[隧道マーク1]とする。以下同じ)。特段隧道というわけではなくコンクリート板の下に水が流れ込んでいた。



この標識で鏡野川用水であることがわかった
取水口を確認すべく水路上流に向かう。開水路が切れるところからは水路に沿って歩けない。一筋東の道を迂回し廻り込むと開水路がコンクリート蓋に覆われる箇所に出る。そこにはこの用水が[鏡野川用水]と記された通行注意の管理標識が立っていた。松尾サイホンに繋がるこの用水は鏡野川用水であることがここでわかった。



開水路は水路橋へ繫がっているようだ
取水口を確認すべく上流に向かう。水路と川床の段差は大きい。結構上流まで歩かなければ取水口に出合わないと覚悟する。コンクリートの用水蓋には鉄枠の小窓が開いており豊かな水音が聞こえる。 途中水路脇に立つ鳥居などを見遣りながら進むが一向に新改川との段差が狭まらない。
1kmほど歩くと開水路になった。国都地理院地図を見るとそこから青い実線が上流に延び、先ほど訪ねた水路橋に繋がっていた。新改発電所手前の取水口から水路橋を渡り松尾サイホンに繋がる用水路は鏡野川用水であることがここではじめてわかった。

隧道マーク2・3・4
隧道マーク2・3はコンクリ‐ト蓋
隧道マーク4下流は開水路
鏡野用水の取水口は先ほど訪れた新改発電所手前であることをほぼ確信し、[隧道マーク1]の地点まで戻る。そこから下流、国土地理院地図に見えるふたつの隧道出入り口マーク([隧道マーク2],[]隧道マーク3)を確認に道脇に車を止め確認に向かうが、そこには隧道はなくコンクリートで蓋をされた用水路しかなかった。
[隧道マーク4]が記されるところは松尾サイホン傍。国土地理院地図には青色の実線が記されてる。水路はここから開水路となって松尾サイホンに向かう。隧道は無く、コンクリート蓋の下から水が流れ出ていた。

松尾サイホン
開水路を下った用水は
松尾サイホンで川を潜る
開水路を流れてきた用水は松尾サイホンで落ち込み、前方の川を潜り対岸で姿を表す。このサイホン、明治後期に山田の町長であった松尾功禄さんが私財を投じて造ったもの。川に阻まれ川の北側まで流れていた用水を、川を越え山田の町を潤そうとした。
当初はオランダ式土管サイホンを計画したようだが、破損もありコンクリート菅や鉄管を併用するなど改良し明治42年(1909)に完成した、と言う。
松尾サイホンの完成が明治42年ということは、サイホンに続く鏡野川用水は上述の如く現在はその取水口は新改発電所手前であるが、元々の鏡野川用水取水口は、その更に上流で新改川から繻子していたのでは、と妄想する。資料はチェックしておらず、根拠なし。
松尾功禄(ほくろく)
山田町長。後に政界に入り政友会高知支部長、県会議長、高知市長を歴任。上述松尾サイホン建設の他、山田だけでなく香北地域の発展を願い神母ノ木、談義所間に香我美橋を私財をもって架設をおこない、更に、四国縦貫鉄道の促進を唱え、土讃線の開通に尽力し、特に、本線の、土佐山田町を通過して後免駅につながる区間の建設に貢献、また永小作権を擁護するなど篤実、仁和の君子。至誠の人として知られる。翁の顕頌徳碑は土佐山田の八王子宮の境内にあるようだが見逃した。

松尾サイホン出口
対岸で姿を見せた用水は
土佐山田の町並みに下ってゆく
川を潜ったサイホンは対岸で姿を表し、民家の前を進み八王子宮のある丘陵手前でふたつにわかれ町並へと入ってゆく。
松尾翁の業績の中に、「甫喜ヶ峰疎水を引用して鏡野川を通し、100hrの荒地を美田に変えた上に地域の衛生環境の向上や防火にも役立てた」とある。鏡野川が何処にあるのかチェックしてもわからなかったが、ある記事には鏡野川により土佐山田駅周辺を潤したとある。根拠はないが、鏡野川用水の流路が松尾サイホンで川を越えた後、土佐山田の町並みに流れているので、そのあたりの水路のことを指しているのかもしれない。


■甫喜峰疏水記念碑と新改川水争いの碑■

須江・甫喜峰疏水記念碑
須江にある甫喜峰疏水記念碑に向かう。県道254号に戻り少し北上し左折、県道31号に乗り換えると新改川の少し手前、道の北側に2基の石碑とその間に小祠が祀られる。
石碑の1基は大正8年(1919)、もう1基は昭和53年(1978)に建てられたもの。



大正8年建立の石碑には「甫喜峰疏水記念碑」とあり、前半水争いの経緯に関する記述(はっきり読めない)の後、「 隧道ヲ通シ穴内川ニ水ヲ取ル。明治三十三年七月十四日、ソノ工ヲ終ワル。 隧道ノ長サ514間、費ヲ要スル三万百円。翌三十四年、春、 穴内川ヲ決シテ灌漑ニ供ス。 水勢奔注して懸瀑ヲ見ル。 五部落の田百三十町歩、 ソノ澤ヲ受ヶ、 更ニヒイテ、 山田町の田圃八十町歩ニ注ギテナオ余リアリ。 暴日ノ**モイマヤ全クソノ跡ヲ絶チ、 五部落ノ争閲変ジ手テ歓喜トナリ、積年ノ悪風カエッテ里仁ノ俗ヲ激ウ。
明治四十四年懸其ノ水力ヲ利用シ第一発電所ニ二千馬力、大正八年第二発電所ニ一千馬力ノ水力電氣気ヲ起シ一市四郡ノ電用ニ供セリ・・・」 といったことが刻まれる。
水争いの五部落とは、この碑文でははっきり読めないが。他の記事などに拠れば、佐山田町管内の入野・新改・久次(右岸)、須江・植(左岸)の地域ではあろうと思う。
また碑文にある第一発電所は旧平山発煙所、第二発電所は第二新改発電所(旧新改発電所)のことだろう。

次いで。昭和五十三年の碑には表に「甫喜峰用水記念碑」、裏面には「げに農は水に始まり干害に泣き用水の争奪に流血の参事を重ねて久しかった我らの先人は明治二十九年に至り一念発起開削の大業を着工四ヶ年の歳月を費やして穴内川の水を国分川に取る。かくて香長平野の北辺は蘇生し歓喜したがこれに払った先人の苦難は筆舌に絶する我等の土地改良区名に甫喜峯疏水の名を留めたのも先人の苦難と偉業を後世に伝えんがためである。国分川はその威徳を豊かに湛えて流れ来ったが歳月の推移とともに須江、木田。上改田、掘の井、今井、新井、および植田の六堰も漸く老朽化し取水量の減少からまたもや旱魃を招き、かつ年毎に高くなる河床も排水不良の減少を生じ、これが打開策として六堰の統合が検討されその結果昭和四一年須江、本田堰上流七百メートルの地点に合同堰構築の議がまとまり、水の合理的な利用によって農家経営の向上を目さずことになった。即ち団体営上地良事業として昭和四十四年度に国県補助金と地元負担金を加えた八千九百六十万円の総事業費をもって合同堰を構築し、ここを起点とし国分川北岸に幹支線水路六千メートルの新設工事に着工、国県および地元関係者の理解と協力のもとに、農業土木最高の技術を発揮して、昭和四十五年度に完成した。受益面積百三十ベヘクタール、受益組合員三百七十名におよぶ。かくて営農百年の基盤が確立されると共に天水に頼わざるを得なかった一部流域農民の生活揚水もまた確保された。よってこの地に碑を建て関係者の功績を長く後世に伝える。 昭和五十三年十一月吉日 甫喜峯疏水土地改良区」とあった(碑には句読点はないが、読みやすくするため入れた)。

久次・宇佐八幡の「新改川水争いの碑」
本日最後の訪問地は久次(ひさつぎ)にある宇佐八幡の「新改川水争いの碑」。境内に「新改川水争いの碑」が建てられている。
香美市の広報誌、「市民のひろば」の「香美史探訪記 第二回 甫喜ヶ峰疏水と水力発電」には「約400年前、 国分川両岸の低地は、新改川に堰を築き、これから導水する水田地帯となっていた。 約350年前、上流にコロンボ堰が築かれ、 須江上段に新田を開き、元禄14年 (1701年)の藩令により水量の取り分が決められていた。

新改川水争いの碑
明治6・7年、この地域は大干ばつに見舞われた。 久次・植田など本田と須江新田の農民が、 コロンボ堰をめぐる水争いとなり、 明治19年、大審院の裁定で同21年、 両者の間で分水規約書が作成された。 新改川では干ばつの時、水量が不足するので穴内川からの疎水が計画されることになった。 明治29年10月, 甫喜ヶ峰トンネル水路の掘削を開始したが、 925mは難工事となった。 内部での人力作業に酸素不足が発生し、 工夫の奥さんも動員して 「唐箕(とうみ) 」 を並べてのリレー方式で風を送るなどして、 3年9ヶ月を要し明治33年7月、 待望の貫通となった。
この 「甫喜ヶ峰疎水」の完成で国分川流域での干ばつは起こらなくなり、 明治42年には鏡野川が 開通して山田町の生活・防火用水が確保され、 土佐山田駅北側の畑地80ヘクタールを水田とするこ ともできた」とある。
上述記事に「久次・植田など本田と須江新田の農民」が水争いを行ったとあるが、それは新改川の乏しい水量もさることながら本田と新田に関する藩政時代の水利権にもその因があると言う。本田とは長曾我部時代に開発された田、新田は江戸時代に開発された田。水利権は本田7割、新田3割となっており、本田は新田の2倍の貢物を納める必要があるとはいうものの、作付け面積と水利権の比率がシンクロしていなかったようだ。
記事にある明治6・7年の水争いとは、明治6年(1873)に起きた右岸植田と左岸須江地区の水争い。 水不足で水田が枯渇状態になった植田の農民は、その上流にある左岸須江の農民に対しコロンボ堰の分水を迫った。が、須江の農民はこれを拒否。ために両者が数回に渡り衝突することとなり、警官が出動し鎮圧を図り逮捕者を出す。騒動も1か月後には恵の雨により一時争いは鎮まった。
また、記事にはないが明治9年(1876)にも植田と須江地区の農民が更に激しい衝突をしている。これら水争いは恵の雨で一時的解決はしたものの、その確執はその後も続き、訴訟に発展。高知始裁判所、第二審大坂控訴審を経て、上述の如く明治19年(1886)大審院の裁定となった。
「コロンボ堰水利裁判」の結果、コロンボ堰からの水は3分の2を下流の植田と久次に(共に右岸)、3分の1は上流の須江に分けることが決まられたとあるが、これが大審院の裁定により明治21年(1888)に 両者の間で取り交わされた分水規約書が作成かとも思う。「コロンボ堰」が何処にあるのかチェックしたが検索にヒットしなかった。
が、新改川の水量が乏しいのはそのままであり、その後明治28年(1895)にも水不足が起こる。これを機に新改川に沿った村々より野中兼山が構想した「甫喜ヶ峰疏水」計画が浮上する。久礼田や新改村の村長などが計画を進め、県庁に誓願し、明治29年(18967)から工事が開始され明治33年(1900)に完成した。これにより新改川沿いの村々の水争いは解決に向かったようである。それを顕彰したのだ上述「甫喜ヶ峰疏水記念碑」であった。

これで本日の散歩は終了。土佐山田というか香美市の図書館にでも行けば詳しい資料はあるのだろうが、乏しい資料で取り敢えず現地に出向き、そこで出合ったあれこれを元に謎解き、というか妄想を楽しむ散歩ができた。