土曜日, 10月 22, 2016

西会津 会津街道散歩 そのⅣ;上野尻から野澤宿を抜け、束松峠を越え片門に(束松峠から会津坂下町片門まで)

Gppgle earthで作成

第四回「会津街道探索ウォーク:一泊二日」の二日目は西会津町縄沢からはじめ、束松峠までの散歩をメモした。今回は二日目の後半、束松峠を下り、会津坂下町天屋・本名の集落を経て、只見川手前の会津坂下町片門集落までをメモする。



本日のルート:出発地点・国道49号(縄沢)>兜神社>甲石の採石場とネズミ岩>ガラメキ橋と一里塚跡>大畑茶屋跡>旧会津街道に>軽沢新道>軽沢>旧越後街道道標>舗装道とクロス>戊辰戦争塹壕跡>束松峠

束松峠>子束松>切通し>束松洞門>天屋一里塚>地辷(地滑り)点>旧街道石畳跡>旧越後路木標>「旧道入口」木標>天屋の束松>峠の六地蔵>松原屋>津川屋>阿弥陀堂>束松事件跡>そば畑>諏訪神社>片門集落>片門の渡し跡>肝煎・渡辺家>片門の薬師堂・薬師如来>長龍寺


束松峠から会津板下町片門まで

子束松:12時53分
束松峠で休憩の後、12時50分前に峠から下る。道脇に「子束松跡」の案内があり、「県指定天然記念物の通称「子束松」は、養成のかい無く、枯死したため、平成10年6月伐採した」とあり、周囲に松の木らしき倒木があった。
束松
子束松?天然記念物?そういえば、束松峠にこれといって、「束松」の案内がなかった。あれこれチェックすると、束松峠の会津坂下町側の山麓に、根元で束ねられたような形状のアカマツが十数本あったのが、名前の由来。その内4本が天然記念物に指定され、この「子束松」もそのひとつであった、と。

切通し:13時
子束松から10分弱、緩やかな尾根筋を進むと、道の左手に尾根筋を切通した箇所がある。ここが江戸の会津・越後街道と明治に開削された道の分岐点。もともとの会津街道は、切り通しで分断された尾根筋を下っていたようである。
切り通しを越えたところに、旧街道への分岐点がある。右に折れると旧街道、明治に開削された道は直進し、束松洞門に向かう。

分岐点の傍に「束松洞門」の案内がある。概要をメモする;
束松洞門
「束松洞門は、ここ天屋側入り口から軽沢入り口まで、全長約240mのトンネルで、明治20年(1887)、地元民の努力により貫通。
明治となり、人・物の移動がそれまでの人や馬に代わり、馬車や荷車等により大量に運ばれることになる。
会津五街道のひとつ、越後海道は新発田藩・村上藩でもあり、幕府の佐渡路でもあったが、束松峠は険しく馬車の通行を阻むものであった。
このため明治10年には鐘撞堂峠から西羽賀・野澤芝草に通ずる裏街道が計画され、明治15年には時の県令三島通庸による会津三方道路越後街道が藤峠経由となる。
かつて宿駅として栄えていた舟渡・片門・天屋本名・軽沢などの住民は、生活に困ることになり、「夢よもう一度」と洞門を掘ることを思いつき、明治13年の頃から測量を開始し、紆余曲折を重ね、明治27年新道も完成、落成式が行われる。
洞門入り口には茶屋も設けられ、馬車も人力車も通る道として賑わいを戻したのも束の間、鉄道の開通、自動車の普及はこの洞門道を不要としてしまった。 昭和20年頃までは修繕を重ね、通行できたが、今では崩落激しく通行不可となった(高寺地区地域つくり協議会)」。

束松洞門;13時13分
馬車の通れるような広い道、路肩の崩れた箇所などを進むと大きな広場となり、その先の岩壁に洞門が見える。入り口部分の坑口は半分以上土砂で塞がれている。土砂を上り内部を見る。結構広い。
広場にあった「束松洞門概略図と内部状況」によれば、全長236mの洞門はこの天屋・本名側入口と軽沢側入口が土砂で埋まっており、天屋・本名側はそれでも坑口の半分ほどの空きスペースがあるが、軽沢側はほとんど閉塞状態(人ひとりギリギリで通れる空きスペースとか)。洞門内部も2箇所崩落土砂でスペースが狭くなっているようである。

束松洞門の開削の趣旨は、上記「束松洞門」の案内の通りであるが、若干補足すると、産業振興のため、道路整備を進める明治政府のもと、明治10年、当地を管轄する区会所が、鐘撞堂峠以西は束松峠を通らない上記路線計画を示たわけだが、路線の変更に対し、天屋・本名・杉山・軽沢(現西会津町)の4集落からなる束松村(明治8年に成立)では、同年7月に福島県に対して本街道の北側に新しい道路の開削を建言している。
が、結果は区会所案とも異なるもの。新たに県令(県知事)になった三島通庸は、明治15年(1882)に越後街道の鐘撞堂峠以西を、藤峠経由で野沢に至る、いわゆる会津三方道路の開削計画に変更した。

「束松洞門」にある、「夢よもう一度」と洞門を掘ることを思いつき、明治13年の頃から測量を開始し・・・」の件(くだり)は上記現実を踏まえてのことである。
村人は自らの力で建設した新道(「明治新道」)の格上げ運動を引き続きおこない、昭和も終わるころ「県道」に指定されたようだ。
この洞門を抜け軽沢に抜ける道は県道431号・別舟渡線となった。しかし、工事整備されることなく、今に至る。
尚、束松峠手前で出合った舗装道を県道431号と上にメモし、その未通区間について「思考停止」としたが、その舗装道は本来、束松洞門を抜ける県道431号・別舟渡線のバイパスとして企画されたようである。県道431号・別舟渡線は本線も、バイパスも途中で道が途切れ、未通県道となっている。

束松洞門軽沢側入り口とその先のルート
ところで、束松洞門軽沢側入り口はどの辺りにあるのだろう。あれこれチェックすると、軽沢側入り口は軽沢側の等高線400mが東に切り込んだ最奥部。そこから350m等高線まで等高線400mの北側カーブに沿って緩やかに下り、そこでヘアピンカーブで折り返し。折り返して再び350m等高線まで戻り、そこから350m等高線に沿って進み、軽沢からの県道341号が磐越自動車道を越え、左へと稜線に延びる破線(天屋林道)に繋がる。

天屋一里塚;13時31分
束松洞門から道を戻り、切通し手前で左に折れて尾根筋を進むと標高401ピークの傍に天屋一里塚。街道の両側に塚が残る。一里塚からの眺めは会津坂下町とその向こうの勝負沢峠の山稜であろうか。
この一里塚について「主催者資料」に、「寛文7年(1667)頃つくられた。会津では一里壇とも呼ばれる。一対の塚が残るのは会津領の越後街道では唯一」と。
また、「一里壇に木(私注;いい木?)を植えよ」を「榎を植えよ」と聞き違いため会津では榎が塚に植えられた、とあるが、全国の塚の過半数が榎であり、松が四分の一強、次いで杉が一割、というから、特段榎は会津特有のものではない。
家康が「ええ木を植えよ」を「榎」と聞き違えたといった話もある。実際の所は、成長が早く大木になり、枝が多くでるので木陰で旅人が休息が来れる、といった利点からとも言われる。



地辷(地滑り)点;13時39分
一里塚から少し下ったところに「地辷り」の案内;
「大正14年2月14日夜此処一里壇の直ぐ傍ら即ち旧越後街道を削って谷のように陥没し、上部の幅は凡そ4,50間、下方の幅は凡そ100間余の地辷り。その長さ170間本名村新田郷(私注;不鮮明)を埋没して終わった。
そのことごとくが山林で樹木が姿を消し所有者数人の境界さえ不明となる。是を本名八百刈りの地辷りと言う。 平成三年 」とあった。
尾根道がちょっと坂のように陥没している感があるが、それが痕跡だろうか。直ぐ下を磐越自動車道が走っている。

旧街道石畳跡;13時44分
地辷(地滑り)点から5分程度下ったところに「旧街道石畳跡」の木標。とはいいながら、よく見ればそうかな、といったもの。「主催者資料」にも、「束松峠の通行が盛んだった明治初年まえは、石畳が何kmも続いたが、炭焼き窯に使われたり、馬車の通行に邪魔になったりで、今ではほとんどなくなってしまった」とある。
石畳道といえば東海道箱根越え・西坂に残る「本格的」石畳道を想い起こす。箱根の石畳を歩いたのは雨の日。つるつる滑り、誠に危なかった。沢上りの時には、底にフェルトのついた渓流シューズの代わりに草鞋といった選択肢もあるわけだから、旅人は泥濘より楽ではあろうし、馬も蹄鉄ではなく草鞋履きが主流の日本ではあったわけで、それなら石畳でも不都合なかったのだろうか。

旧越後路木標;13時50分
「峠路の雨はつめたし朴の花 昭和10年 桂林(私注;満田桂林;詳細不詳)」と書かれた木碑を見遣りながら下ると「旧越後街道入口」の木標。今下って来た道が旧越後街道。木標脇に「左 新道」と有る。束松洞門を経て軽沢に向かって開削された「明治新道」の道筋かと思う。明治新道って残っているのだろうか。
そういえば、束松洞門に向かう切通しの尾根道手前に道があったように思える。切通しには車が写真に写っているし、主催者の四駆も束松峠まで上ってきているわけであり、車が通れる道が残っているとも想像できる。地図には全くその道筋は記載されていないが。。。

「旧道入口」木標;13時55分
旧越後街道から5分程度下ると、あたりが開ける。尾根筋を進んで来た旧越後街道が山裾に下りたということだろう。旧越後街道へのアプローチを示す「旧道入口」の標識が建つ。これだけ「旧道」を明示するということは、新道・明治新道が未だ「現役」って思いを強くする。


天屋の束松;13時57分
「旧道入口」の傍、道の、右手のすこし高くなったところに「天屋の束松」の案内;
「旧越後街道に沿う標高300メートル前後の丘陵地帯に、束松と呼ばれる特殊な樹形のアカマツが10数本ありました。これらの松は樹幹の下部から中部にかけて多数の枝を出し、傘状の樹冠を形成しています。枝の形状が、あたかも根元で束ねたような姿を示すので、束松の名がついたと言われます。このような樹形は、おそらく遺伝的なもので、成長するにしたがって独特の樹形を示すようになったと思われます。
束松群の中で特に目立つ4本が、県の天然記念物に指定されましたが(子束松・孫束松・曾孫束松・三本松)、松枯れ等により子束松、孫束松、三本松は枯死してしまいました。ちなみに三本松という名は、胸高幹周囲が2メートルをこえ、地上1.5メートルのところで3本の大枝に分岐するので、この名があります。また、束松峠という名も、峠頂上に大きな束松(江戸時代に枯死したといわれます)があったので、その名がついたといわれています」とある。
「主催者資料」には、「平安時代末期、八幡太郎義家公が、前九年の役の際、ここを通り、戦勝を祈願して数本の松を束ねて植えたもの根付いて、今のようになった、という伝説もある」とあった。八幡太郎義家とその父頼義は、此の地から束松を越え兜神社のある縄沢へと下って行った、ということだろうか。

三本松

「天屋の束松」の脇に大きな切り株が残る。これが束松のひとつ、三本松の巨木跡だろう。なお、傍にあった「束松峠案内」を見ると、枯れ死した「孫束松」は束松同門の切通から越後街道を少し下った道の左手、唯一残っている「曾孫束松」は、この三本松跡から右手に進んだ辺りに描かれている。

明治新道
「束松峠案内」には、越後街道と共に、「新道」が描かれていた。「明治新道」ではあろう。ルートは、三本松の少し埼で越後街道の左手に移り、上述した「越後街道入口」木標のところで、越後街道の左手に移り、切通し箇所で越後街道とクロスし束松洞門へと向かっていた。
街道を歩きながら、何故に「越後街道入口」とか「旧道入口」といった標識が並び建つのか、不可解であり、そこまえ標識がある以上、新道・明治新道は未だ「現役」であろうと想像したが、この明治新道のルート図を見て、けっこう筋のいい想像であったと自画自賛。
塩の道
「束松峠案内」の近くに「塩の道一里壇束松を詠ふ」といった句碑が建つ。「会津づくし吟行」という愛好家の詠う句が石碑に刻まれている。句は別にして、「塩の道」というフレーズに惹かれた。
塩の道は全国各地に見られる。「塩の道」として知られる信州千国から大網峠を越えて越後の糸魚川()に出たことがある。越後街道も内陸と日本海を結ぶ往還として「塩の道」としても重要な役割をはたしていたのだろう。
牛と馬
それはともあれ、いままで歩いた会津街道の説明で、荷運びの主役は馬のようであり、「牛」があまり登場しなかった。大網峠越えの「塩の道」の荷運びの主役は牛であった。その塩の道も、松本から南の街道では輸送の主役は馬である。 千国街道が馬ではなく牛が使われた理由は、その地形から。難路、険路の続くこの千国街道では「柔」で「繊細」な馬では役に立たなかったのだろう。しかも、馬に比べて牛はメンテナンスがずっと簡単、と言う。馬のように飼葉が必要というわけでもなく、路端の「道草」で十分であった、とか。
会津街道大量運搬の主役で「牛」が登場することはないのだろうか?千国峠越えの牛の供給先は佐渡であったようにも記憶するのだが。。。

峠の六地蔵;14時3分

数分先に進むと道の左手にお地蔵さま、右手に鳥居が建つ。お地蔵さまの傍には大きな石に水が溜まる。お地蔵さまは峠の六地蔵、鳥居は山王の社であった。 「峠の六地蔵」の案内には、「明治の初めのころまで、ここに茶屋があり「地蔵の茶屋」といいました。大きな地蔵の後ろには六地蔵が控え、聖徳太子の石碑・庚申塔などがあります。前には大きな石の船があって、かつては馬の水飲み場でした。
街道は人馬だけでなく神々も往来しました。悪い神が村に入らないように村境を守ってくださるのが、地蔵様でした。
聖徳太子は職人の神様、庚申塔の申(猿)は馬の守り神ということから、祀られたものと考えられます。

道向かいの鳥居は山王神社の鳥居です。社殿はありませんが石の祠があります。山王神社のお使いは猿です。ここにも馬の守り神としての猿があります。当時の人々が馬を大切にした心情が切々と伝わってきます。 高寺地区地域づくり協議会」
地蔵様と遮神
いつだったか、信州から越後に抜ける塩の道をあるいたことがある。そのとき大網峠を越えて糸魚川に出たのだが、途中「塞の大神」と称される大杉があった。
「塞の神」って村の境界にあり、外敵から村を護る神様。石や木を神としておまつりすることが多いよう。この神さま、古事記や日本書紀に登場する。イサザギが黄泉の国から逃れるとき、追いかけてくる「ゾンビ」から難を避けるため、石を置いたり、杖を置き、道を塞ごうとした。石や木を災いから護ってくれる「神」とみたてたのは、こういうところから。 「塞の神」は道祖神と呼ばれる。道祖神って、日本固有の神様であった「塞の神」を中国の道教の視点から解釈したもの、かとも。道祖神=お地蔵様、ってことにもなっているが、これって、「塞の神」というか「道祖神(道教)」を仏教的視点から解釈したもの。「塞の神」というか「道祖神」の役割って、仏教の地蔵菩薩と同じでしょ、ってこと。神仏習合のなせる業。
お地蔵様といえば、「賽の河原」で苦しむこどもを護ってくれるのがお地蔵さま。昔、なくなったこどもは村はずれ、「塞の神」が佇むあたりにまつられた。大人と一緒にまつられては、生まれ変わりが遅くなる、という言い伝えのため(『道の文化』)。「塞の神」として佇むお地蔵様の姿を見て、村はずれにまつられたわが子を護ってほしいとの願いから、こういった民間信仰ができたの、かも。
ついでのことながら、道祖神として庚申塔がまつられることもある。これは、「塞の神」>幸の神(さいのかみ)>音読みで「こうしん」>「庚申」という流れ。音に物識り・文字知りが漢字をあてた結果、「塞の神」=「庚申さま」、と同一視されていったのだろう。
馬の守り神・猿
馬の守り神が猿?はじめて聞いた話でもありチェック:
日光東照宮の有名な「見猿・言わ猿・聞か猿」も社の神厩を守るため猿の像が彫られた、と。昔から猿は馬の病を治し、世話をする守り神とされる、印度から中国をへて日本に伝わった。由来には諸説あり、省略するが、正月に猿回しが厩の前で舞う(厩の前で猿が舞ったのが猿廻しのはじまり、とも)、厩に猿を飼う、猿廻しが来ないところでは、猿の頭蓋骨や骨を吊るし牛馬の無事を願う民間信仰があった、と言う。猿が馬を曳く図が刻まれた庚申塔もある、とのことである。

松原屋;14時16分
六地蔵から10分強で、里が開ける。天屋・本名集落に入り坂道を下ると、道の左手の天屋側(道の北が天屋、南が本名)に松原屋が建つ。「主催者資料」には「戦後まで旅籠を営んでいた。客室の蔵座敷は明治初年に建築されたもので、二棟並ぶ。家の前には水車があり、石畳も敷かれていたが、舗装路となりその面影はない」とあった。

津川屋:14時18分
集落を進み、三叉路の天屋側に津川屋がある。旅籠屋であるが、束松洞門を開削し明治新道が開かれた後は、人力車のサービスも始めた(「主催者資料)。
本名の斎藤家
三叉路から少し南に本名の肝煎・斎藤家がある。「主催者資料」には、「戊辰戦争では本陣として使われ、西軍の刀傷が残っている。明治初年には民生局が置かれる。家の東の高台にはふたつ米蔵跡があり、「一屋は社倉、一屋は本組(野澤組)の米を納める(『新編会津風土記』)」とある。組とは既述の通り(そのⅡ)、数ヶ村から大きくは数十ヶ村をまとめた会津藩の行政組織。

「旧越後街道間の宿天屋・本名」案内
三叉路隅に「旧越後街道間の宿天屋・本名」案内があった。
「旧越後街道間の宿天屋・本名
天屋本名の集落は、街道を挟んで北が天屋、南が本名となりそれぞれ別の行政区となっている。『新編会津風土記』によれば、「天屋村は昔、満田といったが永正のころ(一五〇六~二〇)天屋と改めた。もとは村北五町にあったがいつ頃かここに移した。北条時頼がこの村を通った時(陸奥の満田の山の束松千代の齢を家つとせん)と詠んだと村人たちは伝えている」と記されている。
村中の街道は明治初年までの越後街道で、白河街道の一部、さらには幕府の佐渡道であり、新発田藩・村上藩の参勤交代路でもあった。
江戸時代、会津藩は宿駅制度を定めると、束松峠の峻険を控えた天屋本名は、片門・野沢両駅所の「間の宿」として荷物の輸送や旅宿で賑わった所でもある。名物は生蕎麦で、片門の宿に止まった人たちも、わざわざ天屋蕎麦を食いに登ってきたという。
明治十五年、会津三方道路は、束松峠の険を避け、藤峠経由となってしまった。さしも殷賑(いんしん)を極めた越後街道も人影まばらに、天屋本名は生活の道を失うに至った。
地元民は再び昔の賑やかさを取り戻そうとして、独力で束松峠に長さ四十間余(約二五〇メートル)の洞門を掘り車馬の通行を可能にした。しかし、ときは車・鉄道の時代となり、夢は潰れたが、村人の努力と団結心は今に受け継がれ豊かな集落となっている。束松峠を護る会 会津坂下町教育委員会」とあった。

阿弥陀堂;14時34分
天屋集落の北、只見川に向かって一段低いところに阿弥陀堂。創建時期、延長元年(923)とも言われるが不詳。現在の御堂は昭和18年(1913b)の火災称焼失後建てられたもの。
御堂には像高54㎝の木造坐像。11世紀前半の作と比定され、町の文化財に指定されている。火災により膝前の損傷が激しいこの仏さまは、薬師如来とも考えられている(「主催者資料」)。

束松事件跡;15時12分
本名集落の南に鎮座する諏訪神社を見遣り道を進み、只見川に注ぐ小さな川を渡った先に「束松事件」の現場がある。
案内を大雑把にまとめると、「束松事件は越前藩士久保村文四郎が会津藩士に殺害された事件で、ここ片門新田場が現場である。ここは越後街道に交差して柳津藤(私注;この地の南)から西羽賀(私注;この地の北)に通じる十字路で逃走には絶好の場所であった。
敗戦の若松に置かれた民生局の役人久保村文四郎は、会津藩士を侮辱したり、罪のない会津人を偽札の罪人と言って投獄したり、平生から藩士の恨みを買っていた。
明治2年任終わって故郷の福井に帰郷することとなり、駕篭で新田場滝沢橋近くにさしかかったとき、藪から二人の刺客が現れ殺害される。刺客は西羽賀方面に逃げた。
刺客は剣の達人で高潔の士、伴百悦と高津忠三郎。伴は翌年追われて大安寺村で割腹して果て、高津は明治政府転覆の思案橋事件に加わり断罪された。高寺地区地域づくり協議会」
伴百悦
戊辰戦争後、町野主水(『その名は町野主水;中村彰彦』に詳しい)のもと、「埋葬方」として討死した会津藩士の埋葬に尽力。阿弥陀寺、長命寺など16の寺に1700人弱の藩士の遺体を埋葬した。埋葬後も続いた久保村の嫌がらせへの遺恨が事件の引き金、かと。
思案橋事件
明治9年(1876年)に東京思案橋(現東京都中央区日本橋小網町)で起こった明治政府に対する士族反乱未遂事件。同年山口県士族の前原一誠らが起こした萩の乱に呼応する形で、旧会津藩士永岡久茂らにより起こった。
千葉県庁を襲撃し県令を殺害したのち、佐倉の東京鎮台歩兵第2連隊を説得して日光から会津若松を襲い、前原に呼応して挙兵する予定で、東京・思案橋から千葉に向けて出航しようとするも、新政府の知るところとなり駆け付けた警官隊と切りあいとなり、計画は未遂に終わった。

そば畑
道を進む。道の南北、道路から一段下ににソバ畑が広がる。結構美しい。で、「主催者資料」に「この付近で南を見ると、磐越道が見えます。今から四十年ほど以前は、この道路とほぼ並行に繋がっていたが、以下は道路だけが高くなっている」とあり、「此の河成段丘堆積物は、沼沢湖浮石質左岸、会津シラス層などと言う火山の噴出物の堆積です。大沼郡金山町に巨大なカルデラ湖の田沢湖があるが、その噴出物の堆積です」とある。
パラグラフのつながりがよくわからなかったのだが、地図を見ると、道の南、磐越道との間のソバ畑の区画が如何にも人工的に「カクカク」と削られている。堆積物を掘り返し、その後をソバ畑としたのだろうか。

諏訪神社;15時33分
ソバ畑を見遣りながら道を進み、道が只見川に近づき右に坂を下りる手前に諏訪神社がある。
案内には、「『新編会津風土記』に村西一町十間余にあり勧請の年代知らず」とある、伝説によれば、永仁元年(1293)、黒川城主芦名盛宗が新宮助成を河沼郡の笈川に破ったとき、諏訪大明神の神徳に感謝して、これを信濃から勧請したという。
このとき神輿のお休みになられ所、お泊りになられたところにこの神社をまつったといわれる。
上野尻、野澤、天屋、坂下など越後街道に沿って諏訪神社がみられる。 高寺ふるさとを興す会」とある。
境内に入り拝殿にお参り。境内には神仏混淆の痕跡だろうか、大日如来、三体の仏の顔が刻まれた馬頭観音(?)らしきものが祀られた小祠があった。
高寺
先ほどから案内に、「高寺」という名称が登場する。明治22年(1889)町村制の施行により成立した片門村、束松村、高寺村が昭和29年(1954)合併し、改めて高寺村となる。昭和30年(1955)周辺の村と合併し河沼郡高郷村(現喜多方市)となるも、昭和35年(1960)高郷村のうち旧村域の高寺・片門および束松村)が会津坂下町に編入され、現在に至る(Wikipedia)。案内に年代の記載がないので、はっきりしないが、この辺りを総称して、現在も「高寺地区」と言うのだろうか。

片門集落;15時45分
諏訪神社から段丘崖を下る「諏訪の坂」を進み、只見川の堤防に近づく。対岸下流は川の侵食により大きく崩れた崖が見える。『新編会津風土記』などに、「慶安2年(1649)3月煙霧掻き曇り大地鳴りわたって岡阜陥り」、地欠けとなったとある(「主催者資料)。
只見川に架かる片門橋南詰を東に越えると片門の集落に入る。
片門
「主催者資料」をもとに、片門の概要をメモ;
片門は只見川を挟んで、舟渡の集落と向かい合う。藩政時代、片門は野澤組、舟渡は坂下組と行政区域が異なるが、相まって越後街道の相駅であった。月の半分は舟渡、後半分は片門と交互に駅所の務めを果たした。
天屋本名が間の宿であり、舟渡片門は本宿であるにもかかわらず、商いの荷の多くは天屋本名にかかり、舟渡片門は利の薄い公用の荷であったため、その改善を代官所に訴えている。
片門は、只見川の1キロほど上流の元村にあったが、いつのころからか、此の地に移った。元村にあった鎮守の住吉神社は、諏訪神社境内に遷宮している。 片門の地名の由来は、只見川に面した道半分には家がなかったため。暴れ川である只見川の治水工事が完成した昭和30年頃まで、洪水被害が多かったとのことである。
片門は舟渡とともに本宿として荷物や人の往来で賑わったが、先述の天屋本名同様、明治に開かれた三方道路が藤峠経由となったため、往来が途絶え、生活に窮する。
これを救ったのが渡辺新八郎。養蚕を奨励し、上野原にスモモを栽植し自力更生を図った。片門桃は有名だった。
戦後は、只見川からの揚水により、十文字原は美田となり、豊かな村に一変した」とある。
また、明治11年(1878)、此の地を通ったイギリス人女性紀行家イザベラ・バードは「私は片門の集落で米俵に腰を下ろしてしていた。阿賀野川(私注;只見川の誤認)を臨んだ高処にあるこの集落には急勾配の屋根をもつ家がごちゃごちゃと集まっていた。ここには二〇〇頭以上の駄馬が群れをなし、かみ合ったり激しく鳴いたり跳ねたりしていた。
私が馬から降りる前に一頭の質の悪い馬が激しくぶつかってきたが、木製の大きな鐙(あぶみ)に当たっただけですんだ。しかし馬に蹴られたりかまれたりしないですむ場所を見つけるのは難しかった。
私の荷物を乗せた馬も荷物を下ろすと、歯をむき出して攻撃して人々を右往左往させたり、前脚で激しく突っかかったり後脚で蹴ったりと、大暴れし、果ては〈馬子〉が壁を背に身動きできないよう追い詰める始末だった(『日本奥地紀行』)」とその賑わいを書き残す。

片門の渡し跡;15時46分
片門橋を東に進み「片門の渡し跡」に。川の侵食により大きく崩れた崖の対面辺りである。この渡しは船橋も架けられたようで、舟を繋いで作った橋は天保(1830‐86)の頃から幾度か架橋されるも、洪水の度に流されている(「主催者資料」)。
明治元年(1868)には舟橋が新調され、明治11年(1878)にはイギリス人女性紀行家イザベラ・バードもこの船橋を渡り、著書である『日本奥地紀行』に「私たちは阿賀野川(私注;只見川の誤認)という大きな川にかけてある橋をわたったが、こんなひどい道路にこんなりっぱな橋があるとは驚くべきことである。これは十二隻の大きな平底船から成る橋で、どの船も編んだ藤憂の丈夫な綱に結んである。だからそれが支えている平底船と板の橋は、水量が一ニフィートの増減の差ができても、自由に上下できるようになっている」と記してある。
この船橋も昭和2,3年頃をもって終了し、昭和9年には永久橋が架橋され渡し舟は任務を終えた。
渡し守安堵状(塩田家)
『新編会津風土記』によれば、「此の渡し場は往古よりありしと見え、北条時頼この所を過ぎしとき渡し守に与えし文書ありという。今も毎歳元日に白衣を着て渡しはじむという。その後、芦名修理太夫盛高より与えし文書なりとて今に渡し守次郎兵衛が家に蔵む」とある。
時頼は、渡守のこぐ船が速かったため、「早川」の姓を与えたといい、今でも早川姓の家がある。次郎兵衛の子孫塩田家には、永正3年(1506)芦名盛高の安堵状、烏帽子直垂が伝えられる、とある(「主催者資料」)。
北条時頼
鎌倉幕府五代執権である北条時頼は、康元元年(1256)その職を辞し出家し、最明寺入道となったあと、水戸黄門ではないけれど、諸国を巡ったとされる廻国伝説が残る。上野国佐野荘を舞台にした謡曲『鉢の木』などが知られるが、廻国真偽のほどは不明。

実のところ、諏訪神社の辺りでGPSの電池が切れ、替えもなく、集落内のトラックログがとれず、薄れゆく記憶を呼び覚ましの体ではあるが、塩田家は渡し跡から南に二筋入った道にあったと思う(?)。100均で4,5本セットの単三電池では初日も二日目も終盤に電池が切れた。100均故の嘆きである、

戊辰戦争時の片門・舟渡
只見川という天然の要害があるとすれば、この片門・舟渡の辺りで会津藩兵と西軍の攻防があったので、とチェック:
戊辰戦争の際、会津軍にとって只見川が西軍越後方面軍に対するの最終防衛ラインと想定され、対岸の船渡宿に布陣。対する山形有朋率いる西軍は片門宿に布陣し砲撃戦が繰り広げられる。両軍は只見川を挟み10日間戦うも、若松城下に進軍した西軍の一派が会津軍の背後を突き会津藩兵は撤退、西軍は一気に鶴ヶ城まで進軍することになるようである。
片門・舟渡の攻防戦の詳細
上記まとめの元となった資料は臨場感もあり、以下掲載しておく;
八月二十六日、津川より退却したるが我が軍は只見川を渡り舟渡を扼し、胸壁を築き船橋を扼し、胸壁を築き舟橋を切断し沿岸の舟筏を収む、遊撃隊、白虎一番寄合組隊は舟橋を守り、純義隊は東羽賀(舟渡の西北北半里強)を守る〔続国史略後篇、遊撃隊日記、白虎隊十高木八郎談〕。
この時に当り、陣将上田学太輔は大原(舟渡の東北北半里許)の本営に在り、純義隊総督大竹主計、同隊長小池周吾は東羽賀に在り、軍事奉行飯田兵左衛門は窪村(舟渡の北にて近し)軍事局に在り、純義隊付属兼務望月辰太郎、白虎一番寄合組隊中隊頭原早太等窪村の胸壁を守る〔望月辰太郎筆記〕。
八月二十八日、東西両軍川を隔てゝ相持す、東兵は大砲を装填し四もに撒兵してこれに備へ、西兵は前岸片門(舟渡の対岸に在り)の山上に大砲を袈置し舟渡を俯して連弾す、すなわち塞を海岸に連ね地を鑿ち穴居して弾を避く、舟渡は若松を距る五里にして砲声雷のごとく聞ゆ〔続国史略後篇、遊撃隊日記〕。
朱雀四番士中隊、並付属隊、砲兵隊、結義隊は高久より軍を返し舟渡に来る、時に令ありて山三郷(南は日橋川、西は越後国東蒲原郡、北は羽前と岩代の界なる山脈、東は喜多方平野に限られたる山間の地域を俗に山山郷と称しき、この地域は藩政の比木曽、大谷、吉田の三組ありしを以て三郷と称せしなるべし)方面に赴く〔累及日録、横山留総日記〕。
同二十九日西兵早朝より砲銃を発して戦を挑む、東兵胸壁に據りて戦う、弾丸雨注す〔遊撃隊日録〕。
九月五日連日胸壁に據りて砲戦するのみにして戦勢発展せず、これにおいて軍事局は議を決し純義隊と山三郷方面に赴きたる諸軍と保成峠より退却せる大鳥圭介の兵とを以て進撃せしめんとし、樋口源介を館原の陣営(山三郷方面に赴きたる諸軍の陣営地にて日橋川と只見川と合流する所となり)に遣わし交渉して方略を定めしめたるが、樋口未だ帰らざるにたまたま西軍南より若松城下に入りし者兵を分つて坂下を略し進んで舟渡の背を衝く、諸隊、軍事局ことごとく出でゝしきりに発砲して防戦す、前岸の西兵は喊声を発し大砲を連発して来撃し勢甚だ猛烈なり、東軍支えず諸隊、軍事局と共に陣将上田学太輔に従い大原より山を越え宇内村(大原の東一里弱)に退く、片桐喜八は兵を督し止まりて防戦したるも、ついに衆寡敵せずして退く、上田陣将以下全軍山崎(宇内の東北半里)の渡頭を渡り戍の刻頃鹽川に退却し陣将萱野権兵衛の兵に合す〔続国史略後篇、望月辰太郎筆記〕。

肝煎・渡辺家;15時54分
集落を進む。渡し守安堵状のある塩田家の東北側に立派な屋敷が建つ。片門村の肝煎・問屋であった渡辺家とのことである。塩田家にしても、渡辺家にしても、またそれ以外にも片門の集落には結構立派な建屋が並ぶ。

片門の薬師堂・薬師如来:16時
実際にルートは上述の如くGPS が電池切れのためはっきりしないが、写真の時刻から次は片門の薬師堂に向かったようだ。集落の東端、杉林の中にお堂があった。
お堂の前に「県指定文化財 木造薬師三尊及び十二神将立像」の案内;
「薬師如来坐像
像高135センチメートル、ケヤキ材の一木造。目は彫眼。頭の螺髪は大きく、顔はやや面長で、瞳・眉・口ひげを墨で描き、唇に朱を入れています。両肩から腹部、両袖、膝に流れる衣文は太くて素朴であり、ある種 たくましさを感じさせますが、写実性に欠けるところがあり、鎌倉時代末期の地方作であることを示してる。
日光・月光菩薩立像
像高146センチメートル及び147センチメートル。ケヤキ材の一木造。彫眼。顔が面長で、人間くささがにじみでている。**(私注;ピンボケ)を二段にまとめ、大づくりであるが、やや**(私注;ピンボケ)を曲げて、上半身と下半身のバランスが崩れていることなど、鎌倉時代末期から室町時代初期の特徴が現れています。月光像の背面に延元元年(1339年)の墨書がある 十二神将立像
像高いずれも65センチメートル前後。小型ながら写実的であり、躍動的。三尊とはやや趣を異にするので、別人の作で、少なくとも南北朝時代を下ることはないと思われる」とある。

堂内に入り、薬師三尊(薬師如来・日光菩薩・月光菩薩)、十二神将立像を拝観。個人の散歩では堂宇内の仏さまを拝顔することなどほとんどないので、ありがたい経験であった。「主催者資料」には「高寺に八薬師あって、大同年中(806-809)そのひとつの月光薬師を移したものと伝わる。
マムシ除けの薬師として有名で、その守り札を出している。三尊とも*彫りで、地方仏らしい素朴さがあり、月光菩薩の記念銘によって、延元元年(1336)の作と伝わるが、十二神将は躍動的なモデリングから、本尊より若干古いと考えられる。
堂舎は堂内の由緒書によって、大工、結縁の人々などが判明し、建築費用などが記されている。これによると、寛政8年(1796)の落慶であることがわかる」とあった。
高寺
「主催者資料」に「高寺に八薬師ありて」とある。何のこと?チェックする; 高寺は片門から只見川を隔てた舟渡の北東、標高401mの高寺山一帯に、往時 三千余の堂宇を従えた総本山のお寺さま。舟渡から進む会津・越後街道の鐘撞堂峠も、高寺由来のものである。
欽明天皇元年(540)、中国。梁の国から渡来した僧青巌が阿賀野川を遡上し、会津坂下町にある山を聖地とし、草庵を結んで仏教布教の拠点とした、山のふもとの村人は、高い所に寺が建ったため高寺と言い、いつしか山の名前が高寺山となった。
高寺山には立派な七堂伽藍が建ちならび並び、繁栄するも8世紀後半に内紛で堂宇すべて焼失。9世紀初頭には再興され、子院「高寺三十六坊」が建立され、「高寺三千坊」と呼ばれるほどの全盛期を取り戻す。
その後、徳一(会津街道散歩の第一回でメモ)の開いた恵日寺と勢力争いが始まり、ついに戦火を交えることとなり、結果高寺山は敗れ建物は全部焼かれ、建久元(1190)年、滅亡、高寺は“伝説”となる。今は随所に残る寺所以の地名以外、何一つ寺の跡は残っていない。

長龍寺;16時19分
薬師堂を離れ、マムシが生息したという湿地跡を辿り、長龍寺に向かい、ここで西会津町・上野尻からはじめ、一泊二日で野澤宿、束松峠をへて会津坂下町片門までの「会津街道探索ウォーク」を終える。

特に会津街道に対する思い入れもなく、お気楽に参加したのだが、ガイドの先生方の予想以上に「ディープ」な解説に、問題意識・背景知識皆無のわが身には、散歩当日は何が何やらさっぱりわからず、歩けるだけで十分と当日を楽しんだ。
で、メモする段になり、常の如く、あれこれ問題意識が生じメモも長くなってしまった。いつもは自力で資料探しからはじめるわけだが、今回は主催者である「にしあいづ観光交流協会」のこの企画のために用意して頂いた30ページにも及ぶ詳細な資料の助けもあり、助けとなった。
資料つくり、旧道の藪刈りなど主催者スタッフの皆さまに感謝。