月曜日, 4月 09, 2018

伊予 歩き遍路;六十一番札所・香園寺から六十五番札所・三角寺へ ④新居浜・四国中央の市境から三島の遍路わかれへ

先回は64番札所・前神寺のある西條市から生まれ故郷の新居浜市を抜け、四国中央市との境である関ノ戸までメモした。
今回は四国中央市の西端である関ノ戸から、旧三島市(現四国中央市)にある金比羅道と遍路道が分かれる通称「へんろわかれ」までの20キロ弱をメモする。辿る行政区は現在すべて四国中央市であるが、旧宇摩郡土居町、宇摩郡寒川町、旧三島市である。
三島市の遍路わかれから65番札所・三角寺まではおよそ7キロ。伊予の遍路道繋ぎの散歩も大詰め近づいてきた。


本日のルート;中将庵>関川を渡る>熊谷地蔵尊>土居町上野の金比羅常夜灯>千足神社>遍路道が二つに分かれる>(「上手の道」・「下手の道」)>三度栗地蔵堂>下畑野の金比羅常夜灯と道標>下畑野の徳衛門道標>延命寺南角の道標>延命寺>古子川手前に群祠>近藤篤山生家>小林集会所の境界石>巨大な金比羅常夜灯>西大道集会所の道標2基>村山神社前の徳右衛門道標>村山神社>面白川手前の橘地蔵道標>豊岡町長田の金比羅道標>祇園社の宝篋印塔と常夜灯>豊岡町大町の地蔵丁石>寒川中部集会所に3基の道標>樋の尾谷川手前の道標>具定の境界石>中之庄のへんろわかれ

中将庵
新居浜市を離れ四国中央市、かつての宇摩郡土居町に入る。「えひめの記憶(愛媛県生涯教育センター)」には「峠を越えて土居町に入るとすぐ、当地の庄屋河端家の持仏堂として建立された中将庵の跡地がある」とする。
地図で確認すると、金比羅道が関ノ峠で国道11号に合流すると、直ぐに西に向かって進行方向と逆に向かって折り返す道があり、そこから国道11号に沿って東へと進む金比羅道の始点に中将庵が見える。
地図に従いヘアピン状の道に向かう。結構な急坂である。国道11号建設時、関ノ峠は相当掘り切られたようである。この不自然な金比羅道も、往昔は国道11号に合流することなく、この急坂を上りきった金比羅道へと繋がっていたのだろう。
中将庵の跡地らしきところには巨大な銀杏と寛政年間の銘のある立派な宝篋印塔が立っていた。「えひめの記憶」には「その敷地内に茶堂が建てられて遍路の接待が行われたということだが、痕跡は残っていない。また、道をはさんで反対側には、(中略)かつて格式を誇ったという泉屋があったが、現在ではここも一般の住宅となっている」とある。

関川を渡る
集落の緩やかな坂道を下り、道端の小さな地蔵の祠に手を合わせ田圃脇の舗装道を進むと関川にあたる。
関川
関川は文字通り、新居郡(現在の新居浜市)と宇摩郡(現在の四国中央市)の境にあった関所の近くを流れていたことに由来する。

熊谷地蔵尊
関川に架かる熊谷橋を渡り、遍路宿らしき「弘法の館」をみやり少し坂を上ると道の左手に熊谷地蔵尊の祠があった。元は川向うにあったものを地元の方の努力で平成5年(1993)にこの地に移したようだ。
ところで、「熊谷」の由来は?付近の地名に熊谷はない。唯一の手ががりは関川小学校の校歌にあった「熊谷の花 枝にみち 朝の日に匂うがごとく」といったフレーズ。校歌にあるぐらいだから、この地を表す草花のようだとは思うが、花鳥風月に縁遠い我が身には「熊谷草」しか思い浮かばない。

土居町上野の金比羅常夜灯
右手に法皇山脈から流れるいくつもの支尾根を見遣りながら、道を少し東に進むと道の左手に巨大な金比羅常夜灯。「琴平宮」と刻まれる。
法皇山脈
法皇山脈(ほうおうさんみゃく)は、石鎚山脈から笹ヶ峰の東部(ちち山(1855m)別れ)で北東部に出た支脈。海岸にほぼ並行して西赤石山(1625m)、東赤石山(1706m)、二ッ岳(1647m )、ハネズル山(1299m)、赤星山(1453m)、翠波峰(889m)などが連なっている。東に行くにつれて山の高さはおおむね低くなる。ハネズル山から西は赤石山系とも呼ばれる(Wikipedia)。
法皇山脈は翠波峰(889m)から更に東に連なり、65番札所・三角寺の南の平石山(825m),堀切峠(500m)を経て境目峠(381m)で徳島の嶺に繋がる。堀切峠はいつだったか、65番札所・三角寺から法皇山脈南嶺の奥の院に向かい、そこからの戻りの遍路道で越えた()峠でもある。
法皇の由来
それはともあれ、法皇って名称の由来が気になる。チェックすると、関川村の樵が白河法皇からの拝領の品を山に祀り、その祠がいつしか法皇権現と称されるようになった話に由来する、と。その話とは;
関川村に住む樵の平四郎が山に棲む天狗より斧の使い方を教わる。が、誤って天狗の足を切り落とす。天狗は怒ることもなく優しい言葉をかけ山に去る。その後めきめきと腕を上げた平四郎は良材を切り出し金持ちに。
で、念願のお伊勢詣りから京見物。そこで白河法皇が建築中の三十三間堂で天狗直伝の斧の技を披露。それを愛でた法皇に目通りを許され、短刀やお墨付きを賜った、といった物語である。

千足神社
すこし進むと道の右手に長い参道と赤の鳥居が見える。社の名は千足神社。神社のあれこれもさることながら、「千足」の名に惹かれちょっと寄り道。
参道を南に進み松山道も越えた先に社があった。拝殿に御参り。案内によると、「千足神社は約1300年前、聖武天皇の御字に宇摩郡、新居郡の境、近井の郷の首府に鎮座し、両郡の鎮守の神として信仰されていた由緒ある神社。祭神はイザナギ、イザナミ。社殿は江戸時代の建立」とあった。
千足
散歩をしていると石鎚の成就社騒動に登場する小松の千足山村など「千足」という地名に時に出合う。千足の由来が気になる。千足の草鞋由来の話、山頂で千束の芝を焚く雨乞い由来の話、千束分の稲田由来の話など。また、山麓の傾斜地を表す地形と7の話もある。
この社は細才千足(くわしほこちだる)と称される日本を表す美称由来とする。細才千足(くわしほこ)は「十分な武器」、千足(ちだる)は「十分備わっている」の意。すべての由来の元は「十分に備わっている」ようにも感じられる。

遍路道が二つに分かれる
千足神社の参道を金比羅道まで戻り、川を越えると遍路道はふたつに分かれる。






「上手の道」
◆しるべの地蔵
明治時代に開かれた道と言う「上手の道」は少々細い。道を進み西福寺に当たると左折。直ぐそこに「しるべの地蔵」と称される小さな祠があり、「えひめの記憶」には「その前に安永6年(1777)建立の道標がある」とする。祠の中の舟形地蔵には「右 へんろ」といった文字が読めるが、祠の前に道標を見つけることはできなかった。



西福寺
この真言宗のお寺さまには三度栗の伝説が残る。弘法大師が栗を差し出してくれたこころ優しき子供達に感じ入り、この辺りに栗が三度実ようにと祈念したという。 先日歩いた宇和島の遍路道、宇和島市三間町に下る窓峠の大師堂には、七度栗の伝説が残っていた。四国の各地に三度栗に類する伝説は残る。

「下手の道」
「下手の道」を進むと明治45年(1912)建立の道標。中程で折れた石柱を修理したようなこの道標には前神寺・三角寺までの里程とともに「金比羅拾三里」との文字が刻まれる。
また、西福寺を折れたしるべの地蔵からの道との合流点に明治21年(1888)建立の茂兵衛道標がある。手印と共に「金刀毘羅 三角寺」の文字が刻まれる。

三度栗地蔵堂
関川公民館の手前で合流した「上手・下手」の金比羅道は山裾を走り、道端に船形地蔵を見る辺りから次第に山裾から離れ、道の右手に金比羅常夜灯を認めた少し先で三度栗地蔵堂に出合う。


お堂の前には「四国霊場 三度栗旧跡」の石碑。お堂には「四国八十八カ所番外霊場 三栗山地蔵院」「四国番外霊場 三度栗大師」と木標にある。 由来は前述の西福寺と同じである。大師堂ではあるが地蔵尊が祀られるのが興味深い。
宗祇法師も「秋雨に谷の紫栗そぼぬれて わが袖ぬらす宇摩の関守」などと詠んでおり、栗の採れるところだったのだろう。
宗祇法師
室町時代の連歌師。旅を愛し、西行、芭蕉と並んで 放浪三代詩人と呼ばれる。芭蕉も宗祇にならい漂泊の旅に出たという。もっとも、宗祇が伊予に下ったという資料は見つからなかった。

下畑野の金比羅常夜灯と道標
金比羅道は三度栗大師堂の先で北東に進み、国道11号を横切り西谷川を渡りJR予讃線の踏切を越え下畑野に出る。その先、関川大橋から続く道とのT字路に金比羅常夜灯と道標がある。
道標は遍路道標ではなく、「左 上野ヲ経テ角野・松山道」」「右 北野ヲ経テ 多喜浜 西條」といった文字が読める。上野は畑野の西の山側、北野は畑野の西の海側一帯の地名。西条でも目にしたが、生まれ故郷の「角野」の地名があるだけで嬉しく、メモしてしまった。

下畑野の徳衛門道標
少し先に進むとブロック塀に埋まるように徳衛門道標が立つ。大師像も文字も摩耗が激しく読むことはできなかった。道のずっと南には「やまじ風公園」がある。
やまじ風
「やまじ(山風)とは、愛媛県東部の四国中央市一帯や新居浜市、西条市でみられる南よりの強風のこと。春や秋に多い。岡山県の「広戸風」、秋田県の「清川だし」と共に日本三大局地風の一つ。
低気圧の中心が日本海を通過する際に、四国山地に南から吹き付けた強風が、石鎚山系と剣山系の間の鞍部になっている法皇山脈に収束し、その北側の急斜面を一気に吹き降りることにより発生する。やまじは年間を通じて見られるが、春に最も多く発生する(Wikipedia)」
四国山地の法皇山脈と四国中央市のある宇摩平野のあいだには中央構造線が走り、 それによって発達した急峻な断層崖を吹き下り,最大瞬間風速60m/sを超える事例もあると言う。

延命寺南角の道標
浦山川に架かる常盤橋を渡り、道の右手の金比羅常夜灯を見遣りながら進むと延命寺南の四つ角にあたる。角には遍路道標ではないが、道標があり、土居の神社とともに、別子山村保土野や伊予鑛山(別子銅山?)、南光院(別子山村にあるお寺様)への里程が示される。
別子銅山の産銅搬出路
元禄4年(1691)に泉屋(住友家の屋号)により開坑された別子銅山は天領である宇摩郡別子山村(現在新居浜市)の山中にあり、銅山越(標高1291m)を越えた北の立川村は西条藩領であった。ために、産銅の搬出は銅山越を越えて直接新居浜の浦に運ぶことはできず、初期は銅山川に沿って南光院、保土野と下り、そこから赤石山系の小箱越(ハネズル山の少し西)を経て出合峠から浦山川の谷筋へと下り、浦山川に沿って土居の天満浦へと運ばれていた。
第一次泉屋道と称される搬出路はその後、銅山越の北の立川村を天領となしたため、立川経由で新居浜の浦へと運ばれるようになった(第二次泉屋道)わけだが、浦山経由の保土野、南光院、伊予鑛山への里程が昔の土井と別子銅山の往来の歴史を伝えている。

延命寺
真言宗別格本山。本尊は延命地蔵菩薩。四国霊場番外札所でもあるこの古刹は、40キロほどある64番札所・前神寺から65番札所・三角寺のおおよそ中間にあり、そのロケーション故に幾多の遍路がお詣したことだろう。
お寺の敷地は道路を挟んで東西に分かれ、西側には本堂や大師堂、東側は枯れた松の大木、標石や道標、遍路休憩所などがある。
誓松・いざり松
枯れた松の大木は「誓(ちかい)松」とも「いざり(足が立たなく膝行せざるを得ないこと)松」とも呼ばれる。弘法大師が当地に訪れた証としてのお手植えの松ゆえに「誓松」、また大師再訪の折、松の下で苦しむいざりに千枚通しの霊符を飲ませ難病を回復せしめた故の「いざり松」がその由来とされる。
松は昭和43年(1968)に枯れてしまったため、屋根を葺(ふ)いて残った根や幹が保存されているが、「往時の誓松は、目通り5m、枝張りは東西30m余り、南北20m余りにも及んでいたようで、広がる枝を歌碑・句碑を兼ねた数多くの長い石柱で支えていた(えひめの記憶)」とのことである。金比羅道標や歌碑・句碑とともに「弘法大師千枚通授之地」、「誓松」と刻まれた石碑も立っていた。


「えひめの記憶」には、「『四国遍礼名所図会』には「土居村、大坂講中摂待道の左にあり、誓の松道の左接待店次にあり、名木結構なり」とあり、この大木の周辺で盛んに遍路の接待が行われていたことがうかがわれる。また、このあたりには接待所だけではなく遍路を含む旅人のための宿屋も何軒かあり、その中の1軒が寛政7年(1795)に小林一茶が宿泊したことで知られる嶋(しま)屋である」とある。小林一茶には旧北条市(現松山市)の花遍路散歩で出合った。

千枚通しの霊符
千枚通しの霊符って?現在も延命寺で「千枚通御護符」として授与されている食べるお守りといったもの。餅米でできた薄い紙のようで、水に浮かべ薬師如来の真言である「光明真言」、最後に「南無大師遍照金剛」を唱えて飲むと病気快癒に効ありとする。この霊験故か、延命寺は千枚通し本坊とも称されるようだ。

光明真言
「オン アボキャ ベイロシャノウ(オーン(聖なる呪文) 不空なる御方よ 毘盧遮那仏(大日如来)よ)
マカボダラ マニ ハンドマ(偉大なる印を有する御方よ 宝珠よ 蓮華よ)
ジンバラ ハラバリタヤ ウン光明を 放ち給え フーン (聖音);Wikipedia」

古子川手前に群祠
道はかつて高札場があったとされる予讃線・土居駅前に。高札場の案内は特になかった。その跡地らしきところには旅館らしき建物が建っていた。道を先に進むと道端に幾多の小祠と金比羅常夜灯が並ぶ。どこからか移されたものだろうか。

近藤篤山生家
古子川を越えると土井町小林に入る。ほどなく道の右手に近藤篤山生家。伊予の聖人とも称される近藤篤山には先般、小松の遍路道で出合った。小松の藩主に招かれ移った訳だが、ここが篤山翁の生家。
「小松藩主に招かれ、藩の子弟や庶民の教育に尽くし、伊予の聖人とたたえられた近藤徳篤山は、この地において江戸時代の中頃に、高橋甚内の長男として生まれました。
近藤家の元の姓は高橋で、北九州岩屋城主でしたが、信長、秀吉の頃に島津氏に滅ぼされ、この地に流れ定住したと伝えられています。ここから西へ約30㎞の小松町に、篤山の旧邸がほとんど原形のまま保存されています」と案内にあった。

小林集会所の境界石
金比羅常夜灯を見遣り先に進むと小林集会所に。小振りではあるがお寺の山門風の建物や地蔵堂などが敷地にぽつんと建つ。かつてはお寺様であったのだろう。
その敷地に2基の境界石が立つ。半分土に埋もれており、「従是東」「従是東 西」と読める。「従是東」も何となく「西」のような気がする。西は西条藩のことだろう。この辺り一帯は西条藩領、天領、今治藩領が入り組んでいる。 後ほど三島で出合うことになる境界石の脇にあった藩領・天領の図によれば、この小林の東で、西條領の小林と津根の間に天領が入り込んでいる。この境界石が西条藩と天領の境にあったものであれば、共に境界石に見える「西」は西条藩となる。単なる妄想。根拠なし。
尚、境界石は西側に「従是 東」、東側に「従是東 西」の境界石が立つ。何となく位置が逆のような気もするのだが、境界石は祭り幟立てに使われているようであり、東西の位置の逆転に頓着していないということだろうか。
もっとも、図によれば、西條領小林の上半分を天領である中村が囲んでいる。小林と天領の境界石であれば、このままの位置でも問題ない。どこから移されたか不明のため、どうしたところでGuess gameではある。

巨大な金比羅常夜灯
小林集会所の少し先に誠に巨大な金比羅常夜灯がある。高さは3mもあるだろうか。土居の町には立派な金比羅常夜灯が並ぶ。
土居町
土居町は明治11年(1878)に成立した 宇摩郡土居村,長津村,小富士村,天満村,蕪崎村、関川村が昭和29年(1954)に合併して宇摩郡土居町となる。西から元の関川村、土居村と進んできた。地図を見ると、この小林の辺りに小富士小学校がある。旧小富士村はこの小林の辺りではないだろうか。
また、小林の東、桧川を渡った先の土井町津根には長津小学校が見える。旧長津村ということではないだろうか。天満村、蕪崎村は瀬戸内沿いにある。
宇摩郡土居町は平成の大合併で新宮村、川之江市、三島市と合併し現在は四国中央市となった。

西大道集会所の道標2基
金比羅道は国道11号を横切り、国道の南を進み、桧川を渡りって旧長津村(?)に入る。かご池手前の西大道集会所前に遍路道標を兼ねた金比羅道標と、台石が道標となった地蔵尊が並ぶ。金比羅道標には「右 金比羅大門迄 十一里」「三角寺迄三里」「松山迄二十二里」と刻まれる。地蔵台座には「三角寺 三里」「奥野院 四里」とある。三角寺まであと12キロである。金比羅道標は明治、地蔵丁石は寛政年間のもの。

村山神社前の徳右衛門道標
民家ブロック塀の中にある金比羅常夜灯を見遣りながら、道の左手に村山神社の社叢が見えるところに徳右衛門道標が立つ。摩耗し少々読みづらいが、「これより三角寺 三里」と刻まれるようだ。

村山神社
道の左手に村山神社。境内は道から崖下にかけて広がる。金比羅道を左に折れ境内に。案内に入ると案内。
「村山神社(延喜式内明神大社)
斉明天皇と天智天皇を祭神とするこの神社は津根郷発祥の歴史とともに隆昌した県下屈指の式内大社です。
拝殿前のお宝塚は、斉明天皇百済救援の折の御陵所ともいわれています。
古来西国二十三か国の人々は、下参宮と称し、この村山神社に参詣することで、伊勢神宮に参詣することにかえていたそうです。
また、ここにまつってある木像70余体は、斉明天皇近習の生像といわれています」とある。
斉明天皇の行宮話は、伊予のあちこちで出合うため、それはそれとしても、延喜式内社ということは、結構古い歴史をもつ社である。
二の鳥居
金比羅道から左に折れ、崖を下る坂道となっている参道を下ると直角に曲がったところに鳥居が建つ。ちょっと不自然。チェックすると、この鳥居は二の鳥居で一の鳥居はかつて東に二里の三島の中之庄にあり、そこから参道が延々と続いていたとも言われる。広大な社も天正の陣で戦火に見舞われた。



お宝塚
鳥居を潜り神門の先で参道が石柱で囲まれた「塚」で塞がれる。これが「お宝塚」であろう。石碑に刻まれる案内には;
「磐瀬の行宮とお宝塚
応神天皇の御代秦氏 がこの地に栄え、続 いて孝徳天皇の御代 阿部小殿小鎌が常の 里に派遣され砂金の 採集に当った。その 後斉明天皇の七年天 皇筑紫行幸の途次道 後温泉に御入湯後三 月二十五日中大兄皇 子、大海皇子等を伴 い御船を還えして娜 の大津磐瀬の行宮に 還行され池を長津と 改められたと日本書 記に誌されており、 お宝塚を中心とする 村山神社神域が磐瀬 の行宮遺蹟と拝察さ れ、またお宝塚は高 貴の方の御陵とも伝 承されている」とある。拝殿にお参りして金比羅道に戻る。

面白川手前の橘地蔵道標
面白(つらじろ)川に架かる星流橋の手前に船形の橘地蔵丁石がある。摩耗は激しいが、三角寺の文字が読める。
橋を渡ると土居町野田。川より西は土居町津根。昭和15年(1940)、津根村と野田村が合併し上述長津村となった。




豊岡町長田の金比羅道標
大地(おおじ)川に架かる大地橋を渡ると豊岡町長田となる。ここからは元の三島市域。やっと旧豊岡村、旧三島市域に入った。
橋を渡ると直ぐに金比羅道標が立つ。「金比羅大門迄十一里」と刻まれる。





祇園社の宝篋印塔と常夜灯
コンクリートで護岸工事された小川に架かる豊岡橋を渡ると豊岡町豊田。その東に流れる豊岡川と小川に挟まれた地に祇園社が建ち、境内には宝篋印塔、道の反対側には金比羅常夜灯が立つ。






豊岡町大町の地蔵丁石
豊岡川を渡り豊岡町大町に入る。得も言われぬ表情の石仏を見遣りながら金比羅道を進むと、道の右手に笠をかぶったお地蔵様があり、その台座には三角寺といった文字が読める。道を進み西谷川に架かる西谷橋を渡ると旧寒川町に入る,
三島市
 昭和29年(1954)、豊岡村、寒川町、三島町、松柏町(三島町の東)、富郷村・金砂村(共に法皇山脈の南)が合併し伊予三島市となり、2004年(平成16年)に宇摩郡土居町、川之江市、新宮村(法皇山脈の南)が合併し四国中央市となる。

寒川中部集会所に3基の道標
寒川町に入り、諏訪神社横の趣のあるお地蔵さん、その先に金比羅常夜灯を見遣り東に進むと長谷川に架かる初瀬橋の手前の寒川中部集会所前に3基の道標が立つ。




橋に近い道標は新長谷寺への参道の案内。「初瀬試観世音道 明治二十六年」の文字が刻まれる。初瀬試の観音さまとも称される新長谷寺への参道は長谷川の西岸を辿ったようである。このお寺様には銅山川疏水散歩の折訪れたことがある。いい雰囲気のお寺さまであった。
真ん中の道標は徳衛門道標。「これよ 三角」といった文字が読める。西端の道標は金比羅道標。「金比羅大門迄十里」と刻まれる。
寒川
寒川の地名の由来では、その昔、大和の長谷寺に納める観音さまの試作仏を、行基菩薩が浪速の浜から流すと、その観音さまがこの地の浜に流れ着いた。ために、長谷寺の前を流れる神川の名前をとり神川とし、その神川が寒川と記されるようになったとの話がある。暴れ川を鎮める神の名をとり「寒川」とするとの説もあるようだ。
上に新長谷寺を初瀬試の観音さまとメモしたが、この「試」って試作物所以のものだろうか。

樋の尾谷川手前の道標
初瀬橋を渡ると大道。如何にも往昔の太政官道の名残を伝える地名の中を進む。樋の尾谷川手前の四国電力変電所前の三差路に「三界萬霊」の台座のある地蔵様手前に道標がある。「金比羅十里 三角寺七十二丁 西 前神寺九里 中之庄別レ道エ二十五丁」と刻まれる。遍路分かれまで3キロ弱となってきた。




具定の境界石
喜蔵川手前の金比羅常夜灯を見遣り先に進むと台座のある地蔵尊があり、その先に「従是西 西條領」と刻まれた境界石がある。
その傍に「西条藩領界標石」の案内。案内には「「西条史」によれば、西条藩は領内の境界を示す標識を19本も建てている。この標石は寒川村と具定村の境に建てられたもので、「是より西 西條藩領」と書いてある。
幕府は元禄11年(1698)、旧宇摩郡のうち三島村など18か村を今治藩に与えた。次いで宝永元年(1704)別子銅山を開発するため、銅山の周辺の西条藩の領地を取り上げ、代替地に中之庄・寒川・上部・金川・長田・小林・蕪崎(私注;旧川之江市の南)などを西條藩に与えた。
それ以来、旧宇摩郡の村々は下図のように、天領・今治領・西條領に分かれてしまった。西条藩では藩の境をはっきりさせるため、このような標石を建てたのである。
明治になって、藩が廃止されたのち、この標石はもとの寒川村役場にあったが、役場が取り壊されて土に埋もれていた(後略)」とあった。
図を見ると西の寒川村と東の中之庄村の間に天領が割り込んでいる。この天領との境にあったものだろう。尚、前述小林にあった境界石が、東西共に西条藩領のことではなかろうかと妄想したのも、この図が元である。

中之庄のへんろわかれ
大谷川を渡ると中之庄。寒川町離れ旧三島市域に入る。金比羅道は国道11号バイパスに合流。合流手前の道脇に茂兵衛道標が立つ。「前神寺九里 三角寺五十丁 奥ノ院百八丁」と共に、「左 金ぴらへ九里」と刻まれる。
またバイパスを越えた横断歩道の先に遍路休憩所らしきもののあり、その前に復元道標ではあるが「右 はし久ら道」と刻まれた道標が立つ。
遍路みちはここを東に、現在の県道126号を直進するが、金比羅道は「はし久ら道」の道標で左に折れ、今宮神社のある方向へと細い道を北東へと向かうことになる。西条市の吉祥寺の南から金比羅道と合流し40キロほど同じルートを辿った遍路道は、この地で金比羅道と別れる。「へんろわかれ」と称する所以である。
金比羅道と別れた遍路道は、県道126号を少し進んだ先で右に折れ山腹の三角寺に向かうことになるが、そのメモは次回に廻す。
箸蔵道
「はし久ら道」とは金比羅宮の奥の院とも称される箸蔵寺へと向かう道である。いつだったか、箸蔵寺から土讃線・讃岐財田駅までの箸蔵道を歩いた()。 三島からのルートは不詳だが、金比羅道と別れているわけだから、多分国道192号の道筋を進み境目峠を越えて徳島の阿波池田方面へと向かい土讃線・箸蔵駅へとすすむのではないだろうか。

伊予の遍路道繋ぎの散歩も最終段階。いつだったか辿った法皇山脈を越え奥の院へと辿った65番札所・三角寺まで()およそ7キロを残すだけとなった。