水曜日, 7月 31, 2013

流山散歩;往昔、みりん・醸造で賑わった下総流山を彷徨う

先日、利根運河を利根川から江戸川へと辿ったとき、江戸川河口近くに「今上落し」と呼ばれる農業用水とおぼしき水路に出合った。流れは南に下り,流山旧市街の辺りで江戸川に注ぐ、と言う。この「今上落し」もさることながら、利根運河の南北に広がる谷津の景観に魅せられ、そのうちに、利根運河の南に広がる流山の大青田湿地や周辺の谷津を南から辿り、利根川運河の北の三ヶ尾の谷津を野田へと歩いてみようと思った。
今回の散歩は、流山から野田へと南北に辿る散歩の第一回。スタート地点の流山を彷徨うことにした。とはいうものの、流山って、江戸から明治にかけて、みりん醸造で賑わったところであるとか、幕末に新撰組局長・近藤勇が降順したところ、といったことしか、街についての知識はない。いつだったか、神田の古本市で手に入れた『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』を本棚から取り出し、家から1時間半ほどの車中にて一読するも、今ひとつポイントが絞れない。とりあえずは郷土資料館(流山では市立博物館)を訪れ、流山のあれこれについての情報を手に入れることにして、あとは資料次第の成り行きで、といった、いつものお気楽散歩のスタイルで流山を彷徨うことになった。


本日のルート;流鉄流山駅>市立博物館>大杉神社>ましや>流山広小路>呉服新川屋店舗>浅間神社>今上落とし>江戸川・今上落常夜灯>矢河原の渡し跡>常与寺>閻魔堂>新撰組流山本陣・近藤勇陣屋跡>見世蔵>流山キッコーマン(株)・万上みりん発祥地>長流寺>一茶双樹記念館>杜のアトリエ黎明>光明院>赤城神社>流山寺>丹後の渡し跡>流山糧秣廠跡>流鉄平和台駅

流鉄流山線・馬橋駅

地下鉄千代田線・JR常磐線直通乗り入れの我孫子行きに乗り、馬橋で下車し、流鉄流山線に乗り換える。二両編成、改札に駅員さんも見えないのんびりとした風情である流鉄流山線は、大正5年(1916)、町民の出資で流山軽便鉄道として誕生し、流山と馬橋の間、5.7キロを結んだ。明治44年(1911)には、野田と柏の間に県営軽便鉄道野田線(現在の東武野田線)が開通し、野田の醤油を柏経由で常磐線に運ぶようになっていたため、流山も鉄道敷設の機運が高まり、町民116名の出資による「町民鉄道」として開通したとのこと。旅客と貨物の輸送、特に、流山で生産される醤油やみりんを馬橋経由で国鉄・常磐線へと結んだ。
大正13年(1924)になると、陸軍の糧秣廠の倉庫が本所から馬橋に移されることをきっかけに、軌道を国鉄と同じ幅に拡張し、糧秣廠への引き込み線を敷設。昭和3年には、みりんの工場への引き込み線もつくられ、貨物の輸送は昭和52年(1977年)頃まで続いた、とのことである。鉄道の名称も、流山軽便鉄道、流山鉄道、流山電気鉄道、流山電鉄、総武流山電鉄を経て平成20年(2008年)には流鉄株式会社となり、路線も総武流山線から流鉄流山線となった。流鉄って、略したものかと思っていたのだが、会社の正式名称ではあった。編成毎に色分けされ、また名称がついた車両はすべて西武鉄道で使われていたもの、とか。

流鉄流山線・小金城趾駅

馬橋を出てしばらくすると小金城趾駅。車窓から小金城趾のある大谷口歴史公園の緑の台地が見える。いつだったか、平安の頃から官営の馬の放牧地であった小金牧、そして、その放牧地を囲う土手である「野馬除土手」を求めて北小金の辺りを辿ったことがあるのだが、そのとき、小金城趾まで足を運んだ。
この小金城には戦国の頃、下総西部を領有した高城氏の居城があった。南北600m、東西800mという大きな構えをもつ下総屈指の城郭であったが、現在は外曲輪の虎口であった達磨口と金杉口が残るだけで、あとはすべて宅地なっている。城趾には、大きな土塁や障子掘や畝掘が残っていた。高城氏が築いた小金城は北条方の西下総の拠点であった。永禄3年(1560年)、長尾景虎こと上杉謙信が関東攻略のため、古河城に進出し、古河公方の足利義氏はこの小金城に逃れ来る。高城氏は謙信の関東侵攻時は、一時謙信に属したとか、いや、謙信の攻城を篭城戦で乗り切ったとか諸説あるも、ともあれ、謙信が越後に戻ると再び北条氏に属する。
永禄7年(1564年)の第二次国府台合戦では、市川付近で兵糧調達を試みた里見義弘、大田資正を妨害するなど、北条軍の勝利に貢献。天正18年(1590年)の秀吉による小田原征伐に際しては小田原城に入城し秀吉と戦うも、小田原開城とともに、居城・大谷口の小金城を開城。江戸時代は700石の旗本、御書院番士そして小普請として続くことになる。

坂川
小金城趾駅を越えるとほどなく坂川を渡る。この川は利根川と江戸川を結ぶ北千葉導水路の一部となっており、坂川放水路とも呼ばれる。水路は印西市木下(きおろし)と我孫子市布佐の境辺りで利根川から取水し、手賀川・手賀沼の南を手賀沼西端まで地下水路で進む。手賀沼西端では、手賀沼に注ぐ大堀川を大堀川注水施設まで川に沿って地下を進み、注水施設からは南へと下り、流山市の野々下水辺公園(野々下2-1-1)にある坂川放水口から坂川に水を注ぐ。地下を流れてきた水路は放水口からは開渠となって江戸川へと下ってゆく。
北千葉導水路の役割は、第一に東京の水不足に対応するため利根川の水を江戸川に「運ぶ」こと。次に、手賀沼の水質汚染を防ぐこと。柏市戸張新田にある第二機場では直接手賀沼に、大堀川注水施設では大堀川の水質改善も兼ねて大堀川経由で手賀沼を浄化する。そして、第三の目的としては、周辺より地盤の低い手賀川や坂川の洪水対策として、あふれた川の水を利根川や江戸川に放水し水量を調節する、といったこと。いつだったか我孫子から手賀正沼を辿り、手賀正川から印西市木下の利根川堤まで歩いたことがある。北千葉導水路にはそのとき出合ったのだが、ここでその一端に触れることができて、なんとなく心嬉しい。

流鉄流山線・流山駅坂川を超えると鰭ヶ崎駅。「ひれがさき」と読む。地名の由来が弘法大師伝説に登場する神龍の「ひれ」故とか、台地の地形が魚の「背びれ」に似ているから、とか、あれこれ。駅の近くには名刹・東福寺がある、と言う。
二輌連結の車輌は平和台の駅を過ぎると流山駅に到着。駅前は予想以上に「つつましやかな」雰囲気。江戸の頃は江戸川の水運やみりんの製造で栄え、明治期には葛飾県庁もおかれた西下総地域の中心地といった姿は、今は昔、といった静かな佇まいである。

六部尊

駅前を北へ、県道5号・流山街道を流山市市立博物館に向かう。図書館と博物館のある台地への上り口辺りに祠がある。案内によると、明和4年(1767)建立の六部廻国の石塔が祀られる、とのこと。六部廻国とは法華教六十六部を書き写し、全国六十六カ所の霊場に一部ずつ奉納して廻ること。その巡礼または遊行の僧を六十六部と称し、白衣に手甲・脚絆・草鞋がけ、背には阿弥陀尊を納めた長方形の龕(がん)を負い、六部笠をかぶった姿で諸国をまわった。六十六部は物乞い、行き倒れも多く、その場所には六部塚がつくられた、とのことだが、この地にの六部尊は巡礼を終えた記念に建てられたもの、と言う。

流山市市立博物館
台地に上り、市立博物館で流山の歴史や、流山と言えば新撰組、といった幕末の流山と新撰組に関するあれこれを、ざっと頭に入れる。受付で頂戴した『水と緑と歴史の流山 タウンナビ』なども、流山の右も左もわからない者にも心強いお散歩マップである。
流山の歴史のおさらい;流山地域の台地には石器時代、縄文、弥生といった時代の遺跡も残り、戦国の頃も先ほどの小金城、そしてその支城である深井城址(利根運河沿い)、花輪城址(流山市街の北)、前ヶ崎城址(坂川流域;前ヶ崎字奥之台409-1)などに人跡が残るが、流山駅前の旧市街の辺りが歴史に登場するのは建久8年(1197)の頃、市街の南にある「丹後の渡し」こと、「矢木(八木)の渡し」の記録がはじめて。とは言うものの、「矢木(八木)の渡し」は所詮、中世の荘園である風早荘八木郷への渡し場、ということであり、現在坂川の上流部に「八木」を関した学校名などが残るので、流山の旧市街からは少し離れるし、そもそも「流山」の地名が記録に登場しないと言うことは、流山の旧市街には未だ人が住んでいたわけではない、と言うことではあろう。
また、旧市街には鎌倉時代創建との縁起の寺院があるも、それとて、それ以外の寺社の創建は江戸となっており、余りに乖離が激しく、鎌倉創建というのも確証がない、と言うことであり、はっきりとしたことは不明ではあるが、江戸川沿いの低湿地帯である流山駅前の旧市街に人が住み始めたのは江戸の頃からではないか、と『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』は言う。
人が住み始めたと思われる江戸の頃は、流山旧市街、昔の地名で根郷とか宿、そして馬場、現在の流山1丁目から8丁目辺りは天領であったが、それ以外の流山市域は藩領、旗本の領地などが混在していたようである。この博物館のある地、昔の加村は田中藩下総領。先日の利根運河で出合った駿河国の田中藩(静岡県藤枝市)の飛び地であり、この博物館の辺りには先日の田中藩の下屋敷・陣屋があった、と言う。鰭ヶ崎、加村など田中藩下総領42ヶ村でとれる米は良質で、江戸の相場を左右するほどであり、御用河岸である加村河岸から江戸へ運ばれた。また、駒田新田、十太夫新田、大畔新田といった天領からの米は流山河岸から船に積まれたとのことである。
河岸ができた頃にはそこの旧市街の辺りには人が住んでいたのであろうが、そもそも河岸が成立するのは江戸川こと、昔の太日川が舟運の幹線として整備されてから、であろう。流路定まらぬ太日川が整備されたのは、利根川東遷事業により、古来江戸へと下っていた利根川の水を銚子へとその流れを変えてからのことである。その利根川東遷事業が一応の完成をみたのは17世紀中頃、と言うから、東遷事業の一環として、曲りくねった太日川(江戸川)を一種の放水路としてまっすぐな水路に整備し、利根川から江戸川を経て江戸へと結ぶ船運路の中継基地として流山の河岸ができあがり、流山の町並ができはじめたのは17世紀の中頃ではなかろうか。単なる妄想。根拠なし。
良質の米の集散地、名水として知られる江戸川の水、そういえば、葛西の旧江戸川沿いの熊野神社の前あたりは「おくまんだし」と呼ばれる名水で知られていたようであるが、それはともあれ、江戸の頃、良質の米と水をもとに酒の醸造からはじまり、みりんで栄えた流山の町は、明治の御一新になり葛飾県の県庁が置かれるほどになっていた。葛飾県庁はもともとは東京の薬研堀に置かれていたようだが、明治2年(1869)には田中藩が房州長尾に国替えとなり、流山にあった下屋敷が空いたため、この地に県庁が移された。
その後明治4年(1871)の廃藩置県により房総30余の県は木更津県、印旛県、新治県の3県に統合され、この地は印旛県となり県庁は行徳におかれるも、明治5年(1872)には県庁所在地となった佐倉の庁舎建設が間に合わず、明治6年(1873)に印旛県と木更津県が合併し千葉に県庁が移されるまでは、この流山が印旛県の県庁所在地となった。今は静かな街並みではあるが、明治の頃は、この流山は商家が酒造蔵やみりんの醸造蔵が建ち並び、下総の中心地ではあったのだろう。
因みに、田中藩は先日の利根運河散歩のときにメモしたように、元和元年(1616)、本多正重がこの下総の地を拝領したのがはじまり。本多正重は家康の重臣・本多正信の弟。家康の家臣であったが、一時期出奔し、滝川一益、前田利家、蒲生氏郷などに仕えるも、結局は徳川家に帰参。関ヶ原の合戦、大阪の陣で秀忠をよく支え、その功もあって、この相馬・下総の地を拝領した。その後、本多氏は上州沼田城2万石、享保6年(1722には)駿河国の田中城(静岡県藤枝市)へ田中藩4万石として転封されるも、この下総の地は上知(返上)されることなく、田中藩船戸村として、本多氏は代々250年の長きにわたり、この地で善政を施した、とのことである。

大杉神社

博物館を離れ、県道5号・流山線を北に進み、文化会館前交差点を越えるとほどなく道の西側、住宅に囲まれたところに大杉神社があった。如何にも、あっさりとしたお宮さま。大杉神社に最初に出合ったのは江戸川と中川に挟まれた江戸川区大杉にある大杉神社である。その後、川越から新河岸川を下る途中、富士見市の百目木(どめき)河岸の先でも出合った。
大杉神社の本社は茨城県稲敷市。その昔は霞ヶ浦、利根川下流域、印旛沼、手賀沼などを内包した常総内海に突き出た台地上に神木である杉の大木があり、その大木は舟運の目印でもあったようであり、ために、海上交易や船を水難から護るという言い伝えから、船頭・船問屋に信仰された、という。この地の大杉神社はこの辺りの加村の産土神。加村河岸など、江戸川の船運の安全を祈る社ではあったのだろう。
大杉神社のある加村って、全国でも珍しい一音の面白い地名。チェックすると、その由来は、桑原郷が桑村となり、加村となった、とか、クワの「ク」は「崩れ」で「ハ」は端。崩れた端、から、とか、川が転化したとか、船荷を架したことに由来するとか、例によって諸説あり、定まることなし。

流山広小路

大杉神社を離れ、流山広小路へ。広小路の手前に立派な蔵をもつ老舗の呉服屋「ましや」がある。元々醸造業であったが、安政6年(1859)に呉服屋となり、「増屋」と名乗る。「ましや」となったのは戦後のこと。流山広小路って、上野広小路ではないけれど、江戸の頃の地名だろうと思っていたのあが、実際は、昭和27,8年頃、「ましや」のご主人の命名、とのことである。
広小路は田中藩加村と天領であった流山の境。ここから南は流山の根郷となる。根郷は本郷とか本田と同じく集落のはじまりの地といったもの。現在本通り(表通り)は県道に移ってはいるが、元々の本通りである旧道を古い街並みを眺めながら南に進む。

旧道

旧道こと、もとの本通り(表通り)は江戸川が長い年月をかけて築いた自然堤防の跡と言われる。『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』によると、明治の末までは江戸川には堤防はなく、この本通りが堤防であった、とか。自然堤防上に1mほど高く土を積み上げ、水面より2mほど高い堤防ではあったようではあるが、それで江戸川の洪水を防げるわけもなく、流山はしばしば洪水被害を被ったとのこと。
洪水被害を防ぐべく、大正時代と昭和30年代の二度に渡る江戸川堤防改修工事により、現在の江戸川の堤防ができたわけだが、そうなると自然堤防の盛り土が邪魔になりを、今度は自然堤防を削り道路として整備した、と言う。現在、旧道を歩いても、周囲とそれほどの段差を感じないのは、こういった事情であろう、か。

呉服新川屋

道を進むとほどなく呉服新川屋。広化3年(1846)創業の商家。国の登録有形文化財となっている土蔵造りの店舗(見世蔵)は明治23年(1890)に建築された。ところで、見世蔵って、土蔵の一種ではあるが、通常の倉庫や保管庫といったものではなく、店や住居としても使用している蔵のこと。江戸時代以降、商家の建築様式のひとつになっている。




浅間神社
新川屋から先に進むと、ほどなく浅間神社。旧道がもとの自然堤防であったためか、心持ち境内が道より低く感じる。この根郷の鎮守さまは江戸初期の創建。新撰組を包囲した新政府軍が境内裏に仮本陣を敷いたところでもある。本殿裏に市指定文化財の富士塚がある。富士塚が築かれたのは明治24年。そこに祀られる「富士浅間大神」の碑は明治19年と言うから、浅間大神さまが先に祀られ、その後に富士塚がきずかれた、とか。溶岩船で運ばれてきた、と言う(『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』)。

今上落し

浅間神社を離れ江戸川の堤へと向かう。堤の手前に「今上落し」の水路があった。「今上落し」に最初に出合ったのは利根運河の散歩のとき。野田の野田橋のちょっと南からはじまり、江戸川の一筋東の水田の中を進み、利根運河の下を潜り(今上落悪水路伏越)、流山1丁目で江戸川に注いでいる。利根運河の辺りは水田の中の水路ではあったが、流山では自然の小川といった風情となっている。




「今上落し」は元々、水田の農業用排水路ではあったのだろうが、この流山市街では江戸川から一筋街へ入った舟運の水路の役割をも果たしていたのではないだろうか。実際、昔、「今上落し」は流山3丁目の万上のみりん工場のあたりまで続いていたようであり、江戸川の堤が大正、昭和に渡って築かれた後は、堤一筋街側を流れる「今上落し」を舟運路として活用したのではなかろう、か。舟運路としては重宝した「今上落し」ではあるが、洪水時は江戸川からの逆流が押し寄せ、街が水害に見舞われることになった、と言う。


江戸川堤

「今上落し」が江戸川に注ぐ辺りを堤に上る。江戸川の河川敷が美しい。「今上落し」が江戸川に注ぐ水門のところに「今上落常夜灯」がひっそり佇む。行徳の河岸にあった常夜灯に比べ、まことに小ぶりな石塔であり、実際に使われたようには思えない。思うに記念碑といったものとして造られたものではなかろう、か。石塔の建立年をチェックしておけば、と今になって思う、のみ。
既にメモしたように、この江戸川の堤は大正と昭和の2度に渡って改修工事が行われた。第一回は大正3年。底幅も高さも現在の半分ほどであった、と言う。二度目は昭和30年代。キャサリン台風の被害がきっかけで大規模改修工事が実施された。底幅も拡げられ、根郷の南部と宿では表通りが堤防にかかることになり、それがきっかけで表通りが現在の県道に移り、元々の本通りが旧道となった、とか(『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』)。それはともあれ、人工の堤防ができるまでは流山広小路から南に下る旧道が自然堤防であり、土積みをおきない川面より2mほどは高かったようではあるが、その程度で洪水を防げるはずもなく、水害に悩まされ続けた地域も堤防の完成によって、被害が大幅に改善された、とは既にメモした通り。

流山の水運華やかなりし頃は、田中藩の御用河岸・加村河岸、幕府天領の流山河岸、加村河岸の北には輪河岸(三輪野河岸)、また、みりん醸造・秋元家の天晴河岸、堀切家の万上河岸など、利根運河を往復する蒸気船・通運丸の蒸気宿などで賑わった川辺は今は昔の静かな川面が広がるのみである。ちなみに、流山から行徳までは4時間、酒問屋の集まる日本橋小網街へは朝6時に出航すれば夕方には着いた、とか(『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』)。





矢河原の渡し跡

「今上落し常夜灯」から堤を少し北にすすむと「矢河原の渡し跡」の標識。「やっからの渡し」とも「加村の渡し」とも呼ばれ、昭和10年、下流に流山橋ができた後も、昭和35年頃まで続いた、という。
この渡しは、流山に陣を敷いた近藤勇が、官軍に降順し越谷へと流山を後にした地として知られる。諸説あるも、一説では、慶応4年(1868)4月3日未明、東山道鎮撫総督府副参事である薩摩藩士・有馬藤太は威力偵察により新撰組の流山駐屯を知り、有馬率いる官軍の一隊が新撰組を包囲。突然の官軍の出現に驚いた新撰組は銃を放つも官軍は応戦せず。そこに、大久保大和と名乗る近藤勇が出頭し、下総鎮撫隊として治安維持を図る幕軍である旨を伝える。
有馬は、官軍参謀のいる越谷への同道を求めると、大久保こと近藤は出立準備のため、しばしの猶予を求める。同日午後3時頃には官軍主力が矢河原の渡しの北にある、羽口の渡しを経て流山に着陣。夕刻には出頭の遅れにしびれを切らした有馬は本陣のある長岡屋に乗り込み、早々の出立を求めたと、言う。思うに徹底抗戦派の土方との意見の相違があった、とか、否、切腹を図る近藤を土方が説得した、とか、幕府治安維持部隊との主張が偽りで新撰組局長であることは官軍の知るところであり出頭は危険である、といった意見噴出で出頭に時間がかかった、とも。とは言うものの、官軍も幕軍もその動向はあれこれ諸説あり、はっきりしたことはわからない。ともあれ、午後10時頃(これも8時頃との説もある)には矢河原の渡しを越えて、越谷に出向いた。結局は近藤勇であることが官軍の知るところとなり、4月25日、板橋で斬首の刑となった。JR板橋駅前で近藤勇の供養塔があったが、これでやっと流山から板橋への襷が繋がった。

常与寺

江戸川堤を離れ、旧道に戻る。先ほど訪れた浅間神社の南に常与寺がある。鎌倉時代創建の日蓮宗寺院とのこと。とはいうものお、旧市街にはこのお寺さま以外に鎌倉といった古い創建の寺社はなく、創建年代の隔たりが300年程もあるということで、鎌倉創建に少々違和感がある、といった説もある(『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』)。
境内には「千葉師範学校発祥の地」の碑。明治5年(1872)、県内最初の「流山学校(小学校)」と教員養成のための「印旛官員共立学舎(後の千葉師範学校=千葉大学)が設置されたとのこと。共立学舎は明治6年、印旛・木更津県の合併により千葉市に移った。

閻魔
常与寺の一筋南の通りに閻魔堂。閻魔堂と言っても、閻魔堂らしき祠があるわけでもなく、ごくありふれた民家と見まがう家が現在の閻魔堂のよう。安永5年(1776)の作との閻魔様はその民家の居間の奥といったところに安置されていたようだ。ちょっと勇気を出して拝観しておけばよかった。
閻魔堂には、江戸時代の義賊で天保六歌仙のひとり、金子市之丞の墓がある。金持ちから盗んだ金を貧しい人に分け与えた、といった話が伝わる。とはいうものの、この義賊、記録によれば「流山無宿 市蔵かねいち事盗賊悪党につき大阪にて召し捕られ、今日小塚原へ引き回し獄門にかかり候由」、とある。悪党と呼ばれ、義賊のかけらも感じられない。『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』によれば、盗賊悪党の流山無宿である市蔵かねいちが、義賊に変わっていったのは講談や歌舞伎の影響である、とのこと。講談「天保六花撰」において、河内山宗春、片岡直次郎、暗闇の丑松、とともに流山醸造問屋の倅・金子市之蔵、花魁の三千歳として登場し、また、明治14年には歌舞伎「天衣紛上野初花」と言った演目ともなっている。かくのごときプロセスをへて、単なる盗賊悪党が義賊へと「昇化」されていったとのことである。

新撰組流山本陣・近藤勇陣屋跡

閻魔堂のある細路を先に進むと道脇の蔵の前に「誠」の旗印。慶応4年(1868)4月、新撰組が本陣とした醸造家「鴻池」(永岡三郎兵衛)の跡地である。慶応4年(1868)3月6日、甲州勝沼で敗戦の後、新撰組を主力とする150名の甲州鎮撫隊は江戸へ敗走。3月13日の夜、大久保大和(近藤勇)以下48名が浅草から五兵衛新田(足立区綾瀬)に、2日後には内藤隼人(土方歳三)が率いる50名も到着。幕府天領であった五兵衛新田(足立区綾瀬)で隊士を増強し、慶応4年(1868)4月1日の深夜、200名が流山を拠点にすべく陣を移し、ここ醸造家「鴻池」(永岡三郎兵衛)の屋敷を本陣に、光明院、流山寺などに隊員を分宿させた、と伝わる。流山に着陣の目的は、加村の田中藩の陣屋を奪うとか、天領であり調練に便利であったとか、あれこと。根拠はないが、江戸川を前にすることにより安心感もあったのだろう、か。実際、4月11日には大鳥圭介の率いる幕軍2500名が江戸川を前面に配した市川に布陣している。
一方官軍の動きであるが、諸説あるも、3日未明には官軍の一隊、午後には官軍主力も流山に着陣。羽口の渡し(三輪野の渡し)を越えて、流山北方から進出。広小路で三手に分かれ、一隊は本通りを進み光明院や流山寺に対峙しながら新撰組本陣を窺う。また、一隊は浅間神社に進出し、錦の御旗を立てる。ここが官軍本陣といったところだろうか。残る一隊は加村台地(市立博物館のある台地)に進出し大砲を備えた、と。
合戦の模様は詳しくは分からない。分からないが、このような両軍があまりに接近した陣立てで激しい合戦が行われたようには思えない。思うに、幕府治安部隊として、不逞の徒から町の治安を護る、といったスタンスを保つ隊員200強の新撰組と、それを不審に思いながらも今ひとつ新撰組との確信のない800名弱の官軍が様子眺めの睨み合いをしていたのだろう、か。不意をうたれた新撰組が大敗し降参したとか、加村から大砲をうったのは新撰組であるとか、諸説あり流山の両軍の合戦模様はよくわからない。合戦の様子はあれこれ不明ではあるが、「流山宿内の者は大人も子どももみさかいなく立ちのき、近郷や近村へ逃げ去り、近在の者までが皆あわて騒ぎ、共々に難渋したのである」と住民は多いに迷惑したようである。
流山の後の近藤勇は既にメモしたとおりであるが、近藤と別れた副長の土方は、旧幕府軍と合流し、鴻之台(市川市国府台)で大鳥圭介軍に合流し、小金宿(松戸市北小金)などを経て、宇都宮、会津と転戦し、函館で戦死。奥州道中などの主要路は、既に新政府軍が押さえていたため、布佐(我孫子市)から利根川を船で下り、銚子から船を乗り換え、潮来から陸路で水戸街道へ抜けるという、つらい移動であった、とか。

見世蔵
新撰組本陣跡から本通り(現在の旧道)に戻り、南へと進む。と、ほどなく万華鏡ギャラリー見世蔵。明治22年(1890)に建築された「寺田園茶舗」跡であり、現在はコミュニティスポットになっているほか、万華鏡作家である中里保子さんの作品を展示している。見世蔵って、土蔵の一種ではあるが、通常の倉庫や保管庫といったものではなく、店や住居としても使用している蔵のこと。江戸時代以降、商家の建築様式のひとつになっている、とは既にメモしたとおり。

流山キッコーマン(株)・万上みりん発祥地
道を進むと流山キッコーマン(株)の工場がある。ここが流山で「天晴」ブランドとともに名高い「万上」ブランドのみりん発祥の地である。創業は明和3年(1766)、埼玉の三郷からこの地に移ってきた堀切家・相模屋が酒の醸造をはじめたことに遡る。
18世紀後半にはミリンの製造をはじめ、また、19世紀の前半になって流山みりんの持ち味ともなった、白みりんの製造をはじめることになる。もち米と米糀によってつくられるみりんは褐色であったが、それに焼酎をくわえることにより白くなったみりんは江戸の人々に好評で、上方からの褐色のみりんを駆逐した。
現在は調味料として使われるみりんであるが、みりんは古来より甘い酒として愛用されていた、とか。「その味甘く、下戸および婦女好んでこれを飲む」、とある。調味料として使われるようになるのは明治の後半、本格的には昭和になってから、とのことである。
万上の由来は宮中に献上の折り、「関東の 誉れはこれぞ一力で 上なきみりん 醸すさがみや」と詠われたことによる、と。ら「一力」を「万」の字に代え、「上なき」の「上」をとって「万上」とした、と言う(『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』)。
堀切家の相模屋は1917年には万上味醂株式会社、1925年には野田醤油醸造株式会社、1964年にはキッコーマン醤油株式会社、1980年にはキッコーマン株式会社、2006年にはキッコーマン殻分社化され、流山キッコーマン株式会社として現在もみりん製造を行っている。

長流寺

江戸初期の浄土宗寺院。境内の両側に梅の木が並び、銀杏の大木がそびえている。新撰組隊士も分宿した、と言う。

一茶双樹記念館
先に進むと一茶双樹記念館。万上の堀切家とともに、みりんで財を成した秋元本家五代目三佐衛門(俳号「双樹」)と俳人小林一茶との交誼を記念したもの。安政年間(19世紀中頃)の家屋を解体修理し往時の主庭と商家を再現している。秋元家も堀切家と同じく埼玉の出身。八潮からこの地に移り、酒造りをはじめる。秋元家がみりんや白みりんの製造をはじめたのは万上の堀切家と同じ頃とのこと。「天晴」ブランドとして好評を博した。




この秋元本家五代目当主三佐衛門は俳号「双樹」をもつ俳人でもあり、一茶のよき理解者であった、とか。ために一茶は双樹の元に足繁く通った、と。その数五十四度に及ぶ、と言う。この地で多くの句を詠んでいるが、いつだったか我孫子を歩いた時に、市役所近くに一茶の「名月や江戸の奴らが何知って」が句碑として建っていた。そのときは流山の秋元家との関係も知らず、ひたすら、この地で見る月はさぞや美しかったのだろうな、などと思っただけではあったのだが、この句も流山へと道すがら、下総を彷徨ったときに詠んだ歌なのではあろう。
もっとも、一茶の句集にはこの句の記録がなく、誰の作か不明、との説もある。それはともあれ、この記念館にも「夕月や流れ残りのきりぎりす」との句碑が残る(平成7年に建てられたもの)。江戸川の洪水の後の風情を詠ったもの、と言う。
秋元家の天晴みりんは現在その製造はおこなっていない。大正11年秋元合資会社、1940年、帝国酒造に売却、1948年には東邦酒造に売却、1965年には三楽オーシャンに急襲合併。1985年三楽株式会社に社名変更、平成2年(1990年)にはメルシャン株式会社に社名変更となるも、流山での操業はすべて停止し、工場跡地はケーズデンキとファッションセンターしまむらとなっている。

ところで、流山でどうしてみりんの醸造が栄えたのだろう。あれこれチェックするに、流山近辺で生産されていた名産のもち米、おいしい江戸川の水、江戸への船運もさることながら、醸造元である堀切家と秋元家の切磋琢磨に負うところ大、とのこと。販売促進にもつとめ、文政7年、8年(1824,25年)の頃には江戸での人気をもとに、全国に広がっている。また、1873年のオーストリアの万国博覧会には両社ともに出展し有功賞牌授与を受賞している。かくのごとき努力の賜ではあろう。

杜のアトリエ黎明一茶双樹記念館の斜め前に鬱蒼と茂る屋敷林とお屋敷。「杜のアトリエ黎明」とある。秋元家の分家である秋元平三こと「秋平」、とも「見世の家」とも呼ばれたお屋敷跡。分家「秋平」の五世平八は俳号を「酒丁」と称し、菱田春草の後援者として知られるが、それ以外にも文人墨客との交誼も広く、岡倉天心や横山大観もこのお屋敷を訪れたとのこと。折しも、「酒丁と赤城神社」といった企画展が開かれており、そこにはこのお屋敷を訪れた、皇族や芸術家が紹介されており、中にはお散歩随筆でお気に入りの田山花袋の名もあった。
「アトリエ黎明」の由来は、画家であった秋元松子さんと、その夫で同じく画家であった笹岡了一氏が戦後の昭和32年、このお屋敷にアトリエを建て柳亮の主催する絵画研究会「黎明会」活動を行っていたことによる。その後、この屋敷を寄贈するにあたり、「アトリエ黎明」の名を残し、創作・文化活動の場として新たに生まれ変わった、とのことである。

光明院

「杜のアトリエ黎明」を離れ先に進むと光明院。真言宗寺院であり、赤城神社の別当寺。幕末には新撰組が分宿した。秋元双樹の眠るお寺様でもあり、境内に双樹と一茶の連句の碑や双樹の句碑が残る。
「豆引きや跡は月夜に任す也」と双樹が詠えば、それに対して「烟らぬ家もうそ寒くして」と一茶が返す。文化元年(1804)の連句である。「豆の引き抜き作業も終わり、後はお月さんにお任せしよう。夕餉の支度の煙も見えたり見えなかったりではあるが、秋の夕暮れは少し寒い」といった意味だろう。この文化元年(1804)は流山が洪水被害に見舞われた年でもある、先ほど一茶双樹記念館で見た「夕月や流れ残りのきりぎりす」は、こと年の句であろう、か。また、本道の前庭に双樹の句碑「庭掃てそして昼寝と時鳥」。ゆったりとしたお大尽のゆとりの感じられる句と評される。
境内を歩いていると、木に案内があり、「タラヨー;多羅葉」、別名「ハガキの木」とのこと。この木の葉っぱの裏を堅い物でひっかくと、30秒ほどで文字が浮かび上がる、とか。「葉書」の語源とも言われる。古代インドではこの木と似た貝多羅(バイタラ)樹に経文を書き写し、法隆寺には「貝多羅般若心経写本(八世紀後半)」が伝わっている、とのことである。

赤城神社
光明院のお隣りに赤城山と呼ばれる小山があり、そこに流山村宿地区の鎮守様赤城神社が祀られる。比高差10mほどのこの小山が流山の地名の由来ともなったところ、とか。上州の赤城山が崩れてこの地に流れ着いた、との伝説があるが、そんなわけもなく、近くの台地が洪水によって切り離された、とか、江戸川を流された砂礫が長い年月にわたって積もり積もって小山を造ったとか、そして、その小山が、吉田東吾が「この丘も江中にありて、形状流移するものに似たりければならん」と描くように、「丘は川の中にあり、その丘が流れるように見えたから」、とか、また、高台の斜面林が長く連なった山のように見えたため、「長連山」が転化した、とか、例によって地名に由来はあれこれ。
神社にお詣りし、石段を下ると、右側に一茶の句碑がある。「越後節 蔵にきこえて秋の雨」。酒の杜氏が謳うのだろうか、一茶が故郷を懐かしむ。参道を本通り・旧道へと向かうと、正面山門に巨大な注連縄。市の無形文化財とのことである。

流山寺
丹後の渡し跡へと江戸川に向かう途中に流山寺。秋元、相模屋、紙喜、鴻池とともに流山を代表する醸造家「紙平」の浅見家が再興した。幕末には新撰組の隊士が分宿したお寺でもある。境内には第二次世界大戦のとき、米軍艦載機の機銃掃射跡のある句碑が残る

丹後の渡し跡
流山寺脇を抜け、江戸川の堤に出ると丹後の渡し跡。八木野の渡しとも呼ばれるこの渡しは、慶応4年(1868)4月1日、新撰組が五兵衛新田(足立区綾瀬)を離れ、この流山に来たときに利用したとも伝わる。
丹後の渡しとも、八木野の渡しとも呼ばれる所以は、中世の風早荘八木郷(八木村と流山村の一帯。坂川の上流部には八木小学校といった名前が残る)の支配者・井原丹後が二郷半領(三郷市早稲田辺り)を開拓するときに渡った、から。上でメモしたように、建久8年(1197)には矢木(八木)の地名が文献に残るので、流山一帯では古くから開けたところであったのだろう。丹後の渡しは昭和10年、流山橋ができるとともに廃止された。

秋元醸造跡地
江戸川の堤を離れ、流山糧秣廠跡へと向かう。途中、光明院と一茶双樹記念館脇の道を進むと右手にケーズデンキとファッションセンターしまむらが見える。ここは秋元の工場、と言うか、メルシャンの工場跡地である。


流山糧秣廠跡
道を進み県道に出ると、正面にイトーヨーカドーなどの大型ショッピングセンターが見える。このショッピングセンターやその南の流山南高等学校を含む一帯は、大正14年(1925)から昭和20年(1945)にかけて陸軍の流山糧秣廠があったところ。糧秣廠とは兵員や軍馬の食糧を保管、供給する軍の施設ではあるが、この施設は馬糧すなわち軍馬の糧秣を保管、供給することを任務とし、近衛第一師団隷下の各部隊や宮内省警視庁に供給した、と言う。
もとは陸軍馬糧倉庫として東京本所錦糸堀にあったものが、周辺に家屋が建ち、火災の危険もある、という状況となり1922年(大正11年)に本所秣倉庫移転が起案。移転先として流山が選ばれた。流山が選ばれた理由は千葉・茨城という干草原料の生産地をひかえていたこと、また、江戸川の水運も利用できるという交通の利便性、そして比較的東京に近いという地理的条件もあった。流山糧秣廠移転に先立って、流山鉄道が国鉄と繋ぐべく軌道を広げ、引き込み線などを用意したといった鉄路については先にメモした通りである。開庁は1925年(大正14年)である。
戦後北側はキッコーマンの倉庫群、南側は住宅や学校敷地をへて、現在のショッピングコンプレックスとなっている。道路脇にはキッコーマンが立てた「流山糧秣廠跡」の碑と、その裏手には如何にも軍馬の糧秣廠の名残を伝える「千草神社」が佇む<。

流鉄平和台駅
日も傾いてきた。イトーヨーカドー脇の道を進み流鉄平和台駅に向かい、本日の散歩を終える。次回は流山から北へと向かう事にし、一路家路へと。 酒の醸造からはじまった流山のみりんではあるが、酒の醸造は明治末で終えている。また、万上の焼酎も平成8年には流山でのその歴史を閉じた。現在では江戸川沿いの流山キッコーマンだけがみりん醸造の伝統を今に伝えていた。
流山には銭湯が無かった、という。みりんを製造する過程でできる熱湯を社員用の浴場に使い、社員だけでなく町の人達も利用したり、熱湯そのものを無料で給湯したから、とのことである(『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』)。

日曜日, 7月 28, 2013

奥多摩・海沢遡上:下流域から中流域へ

二度に渡って歩いた海沢遡上のメモ。初回は単独行で下流域から中流域の「天地沢出合い」の先まで。二度目は元同僚と中流域から入渓し海沢園地まで沢を歩き通し、中流域をクリアした。単独行では極力釜(淵)泳ぎを避け、高巻を繰り返し撤退の戻り道でスリップし釜にドボン。ヘルメットに当たる落石音を初めて体験した。二度目の遡行はパートナーもいるので安心して釜を泳ぐ。海沢は滝や釜(淵)の連続する、誠に面白い沢であった。


初回;奥多摩駅>海沢集落>柿平橋>東京都奥多摩魚養殖センター>城山トンネル>一付橋>アメリカ村キャンプ場>海沢トンネル>駐車スペース・入渓点>天地沢出合>木橋>林道>長い淵で撤退

二回目;白丸駅>数馬渓遊歩道>海沢集落>海沢中流域入渓点>最初の淵>釜のある小滝をへつる>ヘアピン状のゴルジュ>3mの滝>釜をもつ小滝>長い淵>井戸沢出合>海沢園地東屋>奥多摩駅

初回: 下流域から中流域まで
とある週末,天気予報は酷暑。涼を求めて沢を歩くことにした。急に思い立って、といったことでもあり、沢は海沢とした。海沢であればJR青梅線の白丸駅、または奥多摩駅から1時間強と少々アプローチは長いが、ともあれ青梅線の駅まで歩けばいいわけで、帰りのバスの時間を気にしなくてもいいのが魅力である。
海沢の渓谷は、その上流部には海沢探勝路に沿って大滝とか、ネジレの滝とか、三段の滝と言った名瀑がある。もちろんのこと、なんちゃって沢登リストの我が身には誠に敷居の高い上流部であるが、あれこれ沢のガイドブックを見るに、その中流域であれば、少々厳しそうではあるものの、何とかなりそう。ということで、初回は下見がてらの単独行。ひとり歩きの心細さ補うべく、ワークマンで買った2500円のヘルメットをリュックにぶら下げて奥多摩へと向かった。

奥多摩駅
当初の予定では青梅線の白丸駅で降り、多摩川右岸の数馬渓谷を辿り海沢へと考えていたのだが、ホリデー快速奥多摩号に乗れたため、白丸駅は素通りし奥多摩駅に。駅前のビジターセンターに寄り、「海沢ハイキングマップ」を手に入れる。手書きの簡易地図だが、ポイントはすべて載っており、誠に助かる。海沢はすぐ横に林道が通っているので道に迷うことはないだろうと、地図も持たずに来たのだが、よくよく考えれば、沢からエスケープしようとした時、地図がなければ林道が沢の右か左かもわからない。大いに反省。


海沢集落
奥多摩駅から多摩川に架かる「昭和橋」を渡り、多摩川右岸を進む「都道184号」を進み「東長畑橋」先で「愛宕トンネル」からの道を合わせ、「綾瀬橋」を渡り国道411号の「海沢大橋交差点」に続く四差路に。 四叉路を「都道184号」に沿って右に折れ、東京電力氷川発電所の導水管を跨ぐ「神庭橋」を越えて海沢に注ぐ支流にかかる「つきどめ橋」に。「つきどめ橋」の先は都道184号を真っすぐ進む道、右手の坂を上り海沢神社や向雲寺に向かう道、海沢川へと下る道と分かれる。

柿平橋
海沢川の多摩川合流域の姿でも見ようと坂を下り海沢川に架かる「柿平橋」に。東京電力氷川発電所脇辺り、すぐ先で多摩川に注ぐ海沢川は、この辺りでは小川。周囲に人家も多く、この辺りから入渓し、ピチピチチャプチャプランランランランは、さすがに憚られる。

東京都奥多摩魚養殖センター
再び坂を都道184号まで戻り道なりに進む。道の左手に海沢川に沿って「東京都奥多摩魚養殖センター」がある。ニジマス、イワナ、やまめ、奥多摩ヤマメの種苗を生産し、河川漁協、養殖漁協に配布している、と。養殖センターの中に海沢に架かる「緑橋」も見えるのだが、敷地に入ることはできないので、先に進むと「一寸橋」の手前に山塊を穿つトンネル工事が目に入る。「城山トンネル」の工事現場とのこと。

城山トンネル

「城山トンネル」は氷川の小留浦から吉野街道の丹三郎地区(古里交差点近く)までの7,2キロ区間で計画されている「多摩川南岸道路建設計画」の一環のトンネル。小留浦から長畑間(西端の愛宕大橋から愛宕トンネル、東長畑橋まで)は2001年に開通。2004年には国道411号につながる「海沢大橋」が完成。現在、この「城山トンネル(2.4キロ)」と、城山トンネル東出口と国道411号をつなぐ連絡橋(将門橋)が建設中。丹三郎地区へとつなぐ「丹三郎トンネル」は未だ着工されていないようである。

一付橋・入渓点
城山トンネルにつけられた「まこご橋(新一付橋)」を越え、都道184号の「一付(いつけ)橋」を渡る。一付橋の西詰には「アメリカ村」へ向かう道があり、海沢(以下海沢に統一)にはこの道を進むのだが、暑い林道を歩くよりも、どうせのことなら、この辺りから海沢に入り涼しく歩くことにした。滝も釜(淵)もあるとは思えないけれども、ピチピチチャプチャプランランランの気持ちである。

○ 都道184号
都道から離れて海沢に入ったが、「一付橋」の先に続くこの都道は「東京都道184号奥多摩あきるの線」と呼ばれ、奥多摩の氷川とあきる野市菅生を結ぶ一般都道である。地図を見ると、この一付橋から山道を蛇行し奥多摩霊園の先で切れている。一方、あきる野市方面を見ると、都道184号は日の出町を先に進み勝峯山脇の岩井の里を越え、つるつる温泉手前に進む。そこで左に折れて日の出山へと向かうが、道はその先で通行止め。日の出山近くから、奥多摩町の海澤までは、現在不通となっている。計画では御岳山を経由して青梅側に抜けることになっていたようである。
いつだったか、御岳山から日の出山を経てつるつる温泉まで歩いたときのこと、御岳から日の出山に向かう尾根道に鳥居があり、関東ふれあいの道となっていた。その尾根道は御岳への参道とのことであったが、この鳥居から御岳の集落までの尾根道は都道184号線とのこと。また、御岳の集落の中には都道184号線の最高地点(標高850m)がある。「氷川道」とも「鳩ノ巣路」とも書いてあった、よう。車道はないが、道自体はずっと通じているようではある。登山状態ではあろうが、一度どんな道か御岳から先を辿ってみたいものである。

アメリカ村キャンプ場
一付橋のすぐ脇から海沢に入り入渓準備しスタート。予想通りの誠にのどかな川遊びといった案配。川の右手には民家が建ち、少々気恥ずかしい。「寺沢橋」を潜り先に進む。たまに砂防用堰堤があるが、乗り越えて進むと「アメリカ村キャンプ場」。家族で水遊びをする水辺を通り抜けるのだが、周囲との違和感は最高レベル。足早にキャンプ場を抜けるとちょっと高めの堰堤があったが、なんとか手掛かりをみつけて乗り越える。
先に進むとまた堰堤。結構高くこれは迂回するしか術(すべ)はなし。右手が林道であるので、なんとか崖を這い上がり林道に。道脇には金網が張られてあり、金網が切れるところまで進み林道に出る。

海沢トンネル
林道を進みながら成り行きで再び沢に。滝も釜(淵)もない沢をのんびり進むと橋が見えてきた。そしてその先は釜と崖そして小滝が迎える。高巻きをしようにも手掛かりが見つからない。釜を泳ぐつもりもなかったので橋の手前を少々強引に林道に上る。橋の名は「観音橋」。その先にある海沢トンネル(海沢隧道)を抜ける。隧道を抜けたところに沢に下るパイプの梯子が組まれていたので沢に下り「せみの橋」を潜り先に進む。が、ほどなく堰堤に阻まれ結局パイプ梯子のところまで戻り林道に戻る。 因みに観音橋の西詰めに「瀬見ノ観音」さまが祀られる、とか。橋の辺りには何も案内も無かったので見逃した。「観音橋」であり、「せみ橋」と称される所以である。


駐車スペース・入渓点
林道を進む。沢に下りる場所を探しながら先を進むが、適当な場所がない。「坂下橋」を過ぎた先に林道が少し広くなり数台の車を停めている場所に到着。正確には車が停めて箇所が2カ所ほどあるのだが、「崖崩れのため通行止め」の案内がある上流側の脇に「水利へ」の案内があり、そこから沢に入る。

天地沢
入渓点の川原は広々として、脇ではテントを張る家族も見られる。川原を進むと右から「天地沢」が注ぐ、とのことだがそれらしき沢筋は見えない。注意しなければ見逃しそうな細い流れが岩を下っているのだが、どうもそれが天地沢出合のようだ。水量が豊富であれば滝として見栄えがするのだろう、か。

木橋
その先に木橋が沢を跨ぐ。朽ちているような危うい橋である。この木橋を渡り「天地沢」を詰めることができるようである。木橋の先には淵。結構深そう。泳ぐのは勘弁と右岸を高巻き。途中で進めなくなり、もうひとつ上の踏み跡を巻いてクリア。先に進むと釣り師。邪魔をするのを避けて、来た高巻きを戻り、入渓地から林道に。

林道を進むと「水利へ」の案内。二度目に海沢を上ったときの記憶から、ヘアピンカーブの先、3m滝の先に下りたように思う。先に現れた深い釜をもつ小滝は右岸を高巻き。左手にコンクリートの壁が見える。その先に長い淵が現れる。ここはアプローチを探すも高巻きする踏み跡はない。本日はここで撤退。

帰路に、高巻きで戻るときスリップし淵にドボン。滑る落ちるときヘルメットに当たる石の音を聞き、ワークマンで買ったヘルメットに感謝。また、上りはなんとか進めた崖も下りはとても進めない。ロープを崖上の木に巻き、なんとかクリア。基本装備の有り難さを実感し、本日の沢歩き、というか沢遊びを終えて林道を戻り、数馬渓谷の遊歩道を経由して白丸駅に。それなりに楽しい水遊びの一日だったが、結論としては海沢の「沢遡上」は、駐車スペースからの「水利へ」から入るべし、と。




2回目;海沢中流域
初回から1週間後の3連休の中日、元同僚から沢上りのお誘い。迷う事承諾し、場所は海沢を提案。初回の下見を踏まえ、沢上りと言う以上、入渓は海沢トンネルの先、駐車スペースのある先の「水利」標識からとする。

入渓点
青梅線・白丸駅で下車し、多摩川右岸の数馬渓を経て入渓点に。おおよそ1時間強歩くことになる。駐車スペースには本日も数台の車。釣り人だろう。放魚は基本、この入渓地点より下流に放流されるようであるので、邪魔をすることはないだろが、それでも先日は入渓点の少し上流で釣り師に会ったのが気になる。入渓準備を終えスタート。

最初の淵
入渓点の広い川原からスタートし、右手に天地沢出合いの崖からの細い流れを見やりながら朽ちた木橋を越え淵に出る。本日は酷暑。泳ぐ気十分。トップで淵を泳ぐ元同僚の後を追い、淵を泳ぎ右側の岩の辺りから淵を上がる。









淵を越えるとふたたび淵。少し長めの淵ではあるが、泳ぎきれば淵から上がるのは簡単そう。トップを泳ぐ元同僚からフローティングロープを流してもらい、安心して泳ぎきる。

天地沢出会いの上流に「暗闇淵」と呼ばれる淵がある、と言、う。昼なお暗い淵、大きな岩が横たわる難儀な淵である、とのこと。今泳いだ淵のどちらかが「暗闇淵」であろう、か。また、御嶽山参拝のため身を清めた「ショウジン淵」と称される淵もあるとのこと。「観音橋」の辺りの淵がそれであろうか。根拠はないが、それっぽい風情のある淵ではあった。

釜のある小滝をへつ
次に現れる大岩は結構激しい水流が下る。流木などを支えにして大岩をクリアし進むと釜のある小滝に。この小滝は左の岩を「へつる」ことになるが、ここが結構きつかった。パートナーのスリングの支えで何とかクリアしたが、後日右の人差し指が捻挫気味となっていた。藁にも縋る気持ちで岩に指をかけて体を支えようとしていたのだろう。





ヘアピン状のゴルジュ
釜のある小滝の先は「ヘアピン状のゴルジュ」。「ゴルジュ」とはフランス語で「喉」という意味。如何にも「喉」のように狭くなっている。切り立った岩壁に挟まれた苔生した岩肌が美しい。






3mの滝
前方が開け少し開けた場所の前には3m滝とゆったりと釜。景色を楽しみながら少し休憩いていると、賑やかな声が聞こえてきた。沢登り体験ツアーのパーティのよう。10人くらいのうら若い女性がやってきた。先に行ってもらおうとしていたのだが、どうも休憩を取るようで仕方なく進むことに。
トップの同僚が釜を泳ぎ、滝の水流の右の岩場をよじ上り、後に続く私はトップが下ろすスリングに掴まり、なんとか岩場に立つ。後は水をかぶりながら滝をのぼり3m滝もクリア。先回の単独行ではこの3m滝には出会うことはなかったので、これより先から沢に入ったのだろう。

釜をもつ小滝
小滝の釜は深い。パートナーは泳ぐが私は右を高巻き。この高巻き箇所は記憶にあるので、3m滝の上に「水利へ」の沢に入る踏み跡があったのだろう。この高巻き箇所が先回引き返すとき、スリップし釜に落ちたところのようだ。


再び淵。思うに先回の単独行はここで引き返したように思う。淵を泳ぎ左手の岩にかすかに残る「足がかり」に足を置き、なんとか岩場をクリアした。

海沢園地東屋
左から堰堤を持つ小沢が入る。先に進みナメ滝辺りまで進む。進みながら、このまま進めば最終目的地の海沢園地に出るのかどうか少々不安になる。右から小滝が注ぐのだが、それが井戸沢なのかどうかもはっきりしない(後からチェックするとどうも井戸沢だったようだ)。林道も見えないので、結局は堰堤をもつ小沢まazuで戻り、崖を這い上がり、なんとか林道に出る。 林道からは一応、海沢園地の東屋を確認すべく林道を上に進み東屋に。東屋脇に海沢が続いており、さきほど折り返すことなくそのまま進むと井戸沢から水を合わせた先に堰堤があり、その先は海沢園地の東屋脇の堰堤に続いていた。 東屋で着替えを済ませ、林道をJR奥多摩駅まで歩き本日の海沢遡上を終了。海沢は初心者には少々厳しいかとも思うが、トップとヘッドに経験者がつけばなんとか遡上できる、滝と釜の続く魅力的な沢であった。

金曜日, 7月 19, 2013

青梅街道柳沢峠越え そのⅡ :丹波山村から柳沢峠を越え、甲州市(旧塩山市)の裂石に

初日は多摩湖畔の国道を辿り、丹波山村の中心丹波地区で宿泊。 二日目は柳沢峠へと向うのだが、途中、青梅街道・国道411号の右岸に、明治の頃、柳沢峠から当時の陸の孤島であった丹波山村へと開削され、当時は「新青梅街道」と称された道筋が残る、と言う。現在は廃道となっており、手元に正確な地図もなく、また本日はゴールの裂石から東京に戻るため、バスに乗り遅れることのないよう、状況を見ながらの廃道へのアプローチ。首尾良くいけば廃道を辿ることができるだろうか、などとの想いを抱き散歩に出かける。

参考図書; 『奥多摩歴史物語;安藤精一(百水社)』『奥多摩風土記:大館勇吉(有峰書店新社) 』『多摩の山と水(下);高橋源一郎(八潮書房) 』『青梅街道:中西慶爾(木耳社) 』『多摩源流を行く;瓜生卓造(東京書籍)』『奥多摩;宮内敏雄(白水社)』


本日のルート;丹波山村丹波地区>奥秋>余慶橋>羽根戸トンネル>三条橋>「東京水道水源林」の碑>黒川谷>大常木トンネル>一之瀬高橋トンネル>藤尾橋>落合>御屋敷>湧水>林道泉水横手山線入口>大日影沢>高芝大橋>裂石

丹波山村丹波地区;午前7時20分_標高664m
山梨県北都留郡丹波山村。北都留郡は明治の頃は丹波山村、小菅村、現在の大月市、上野原市の一部を加えた地域であったが、現在は丹波山村と小菅村で構成される。現在の道路網からみればあり得ない地域の集まりではあるが、昔の道筋である峠道から見直すと、小菅村から松姫峠を超えての大月、鶴峠を超えての上野原と、往昔の文化圏が垣間見える。これらの地域が同じ地域共同体であっても違和感は何も無い。
で、丹波山村であるが、その面積は広く101?。人口600強。我が家のある杉並区は面積34?、人口55.3万であるから、杉並区の3倍の面積に1000分の一の人が住む。それも当然で、雲取山や大菩薩嶺といった険しい山々に囲まれ、全体の97%が山林であり、集落は川沿いの河岸段丘や山肌の傾斜地に限られる。 宿泊した丹波山村の中心地である丹波地区、昨日国道より見下ろした高尾、押垣外、保之瀬集落などは、深い谷を刻む丹波川に残った河岸段丘に開けた集落である。「丹波」の語源は諸説あるも、「山間の奥まったところにある平地」の説もある。深い渓谷に開けた平地の有難さをもってその地名としたのだろうか。 産業はかつて薪炭、養蚕、コンニャク景気もあったようだが今は昔。清流を利用した山葵の栽培は栽培法が難しく不安定。観光も交通の便が良くなり過ぎて日帰り客が多く昔ほど民宿に止まる人もいなくなったようだ。
林業も丹波山村の山林の70%が東京都の水源涵養林となっているため伐採は厳禁、残りの三分の一の私有林は戦中・戦後の薪炭と木材景気で伐り尽くされている、とのことである。因みに丹波山村の山林の三分の二が東京都の水源涵養林のためでもあろうか、丹波山村の下水道普及率は96%ほどで、山梨県で一番の普及率なっている、と。

○旧青梅街道
国道411号は多摩川に沿って西に向かうが、その原型ができたのは明治の頃。明治20年(1887)に丹波山村で開通式が行われている。それ以前はこの渓谷を遡上し甲斐に向かう街道は無かったようである。当時の青梅街道は中世の甲州街道と同じ道筋を進んだようであり、その道筋は、小菅村から「牛の寝通り」の尾根道を辿り大菩薩嶺に進むか、小菅川の源流部を遡上し尾根道上がりに大菩薩嶺を経て甲斐に出る、または、この丹波山村からマリコ沢を遡上し尾根道を大菩薩嶺を越えて甲斐に向かったとのこと。

奥秋
丹波地区の道を下組、中組、上組と西に進む。道祖神をみやりながら国道を進む。この国道も車が通れるようになったのは昭和35年(1960)というから、つい最近のことである。
国道を進むと奥秋(おくあき)地区。奥秋(おくあき)って、好い響きの地名。奥多摩には秋切といった地名がある。炭焼きも焼畑も秋になると仕事を切り上げることに由来する地名とのこと。奥秋も漢文の「返り点」でもあれば「秋に仕事を置く>切り上げる」のニュアンスは感じるのだが、実際はどのような由来があるのだろう。 国道の上に子の神社。大己貴命(大黒主命)を祀る。その鳥居は国道下の急坂の途中にある。国道の開削によって切り離されたのであろう。 また、奥秋地区の国道下には「おいらん堂」が残る、と言う。武田家滅亡のとき、黒川金山の秘密を守るため淵に沈めた遊女が流れ着いたのがこの奥秋の地。不憫に思った村民がお堂を建て遊女の霊を安んじた、と。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)


余慶橋;午前7時57分_標高693m 
奥秋を越え、「余慶橋」を渡る。手前には昭和36年(1961)架けられた旧橋も残る。新しく架けられた橋は曲線箱桁の橋に架けかえられている。丹波川に沿って右岸を進むと右手から火打石谷と小常木谷が合わさった水が合流する。この辺りから丹波渓谷がはじまる。断崖絶壁が国道に沿って続く。道脇に「ナメトロ」の案内。「川幅が狭く渓流が両岸の岩肌をなめるように流れるため」とあった。

羽根戸トンネル;午前8時_標高722m
丹波川右岸を進み丹波川に架かる「新羽根戸橋」を左岸に渡るとすぐに「羽根戸トンネル」に入る。左岸を進み、「ふなこし橋」で右岸に渡り、すぐ「大常木橋」で再び左岸にと、トンネルと橋がめまぐるしく続く。もとは「新羽根戸橋」の左手にある「羽根戸橋」から丹波川左岸を通っていた国道が難路であったのか、土砂崩れが多かったのかその理由は不詳だが改修工事が実施されたのだろう。トンネルの出口がすぐに橋につながるような難所を建設技術で乗り越えている。「羽根戸トンネル」の竣工は平成14年(2002年)、新羽根戸橋の竣工は平成13年(2001年)。現在使っている、カシミール3Dに同梱されていた国土地理院の2万5000分の一の地図の道筋にはないトンネルや橋が造られていた。

三条橋;午前8時35分_標高766m
丹波川の左岸を進み「丹波山トンネル(竣工平成12年(2000))」を抜けると、崖から湧水が湧いている。水を汲みに来ていた方は定期的にここまで水を汲みに来ている、と。
丹波川渓谷の景観を見やりながら街道を進むと泉水谷が丹波川に注ぐ地点に。泉水谷と小室川の水が合わさり、更に黒川谷の水が合わさる地点でもあるため「三重河原」とも称される。黒川谷に近づいた故か、信玄屋敷とか牛金淵といった黒川金山ゆかりの地名も残る、とか。
ここからは明治に柳沢峠を越えて丹波山へと繋いだ当時の「新青梅街道」,今は人も通わぬの廃道を辿るべく、三条橋を渡り丹波川の右岸に出る。

泉水谷林道
三条橋を渡ると「泉水谷林道」のゲート。三条新橋広場と呼ばれているようである。この林道は泉水谷に沿って上り、大黒茂谷の沢を越え牛首沢に。林道はそこからV字に折り返し、「泉水中段線」という林道名で黒川山(鶏冠山)方面の横手山峠近くの三本木峠を経て青梅街道・国道411号に出る。この林道の全ルートは「泉水横手山林道」と呼ばれているようである。
『多摩源流を行く;瓜生卓造(東京書籍)』によれば、この泉水谷林道は「日本深山」と言う民間企業によって開かれたとある。安井誠一郎戸都知事の頃である。本来この地域は東京都の水源涵養林であり伐採はできないはずではあるのだが、高度成長時代の時勢もあってか伐採が許可された、とか。当初は昨日の散歩でメモした「後山林道」を開き伐採を開始したがうまくいかず、この泉水谷に移り伐採をおこなった。日本深山の活動は昭和28年(1953)から昭和34、5(1959,1960)年まで続いたとのことである。

「東京水道水源林」の碑
三条新橋広場から明治の青梅街道の廃道を求めて黒川谷への道を探す。と、三条新橋広場の脇に「東京水道水源林」の碑があった。東京都水道水源林とは、多摩川水源域の安定した河川流量の確保と小河内貯水池(奥多摩湖)の保全を図るため東京都水道局が管理している多摩川上流の森林のこと。その範囲は東京都の奥多摩町、山梨県下の丹波山村、小菅村、甲州市までカバーしている。各市町村に占める水源林の占める割合を地図で見ると、大雑把ではあるが、奥多摩町は北半分、埼玉県との境となる長沢背稜までが水源林、小菅村は村域の西半分と小河内村との境を接する南域の一部、丹波山村は青梅街道の南北の村域を除いたおおよそ7割、甲州市は東は丹波山村との境、北は埼玉県境の尾根道、西は笠取山から柳沢峠へと続く尾根道に囲まれた一帯が東京都の水源林となっている。
東京都の面積の10%に相当するまでの水源林となるまでは長い歴史があるようだ。好奇心からちょっとチェック。江戸時代の奥多摩の山々には多くの幕府直轄の「お止め山」があった。その数、34箇所、2000町歩(2000ヘクタール)にもなった、とか。森林は厳しく管理され、村民には火災防止の義務などを課せされる代わりとして、入会権が認められ茅や薪といったに日常資材の採取、また「サス畑(焼畑)」も認められ(収穫の一部は上納)、定期的に人の手が入り山が荒れることはなかったようだ。
その状況は明治の御維新で一変。「お止め山」は維新後に皇室の御料林や県有林となる。それにともない、村の入会権は認められなくなり、薪も手に入らなくなった村は一部国から山林を買い取り村有林とする必要にも迫られた。幕府の厳しい管理下からはずれ、また、入会地として日常的に人の手が入っていた山林に人が入らなくなるにつれ、山林の荒廃が進む。明治維新から明治30年(1897)にかけての状況である。
東京府の水源地である多摩川最上流部の荒廃に危惧を覚えた東京府知事千家氏は明治34年(1901)、本多静六氏を水源林に派遣。川の汚濁、山津波、盗伐、濫伐、放火の状況を把握。笠取山も丹波山、小菅も日原も森林は荒廃し、禿げ山だらけとなっていた。その対策として、宮内省と交渉し丹波山、小菅両村御料林の譲渡を受け、同時に日原川流域の民有地を保安林に編入。これで日原、丹波山、小菅の核心部は東京府の水源林として確保した。
しかし状況は深刻で植林もできない状態。まずは治山からはじめる必要があったようである。『多摩源流を行く;瓜生卓造(東京書籍)』によれば、泉水谷を遡上した山中に学校尾根、学校向尾根といった尾根があるが、それは明治末に50組の炭焼きが岐阜から入植。泉水谷小屋はその子弟の学校跡。尾根の名前はその名残り。
炭焼きが入った理由は荒廃した森林を涵養しようにもその予算がなく、当初は粗悪天然林を伐採し売却益を人工植林の費用にと裂石から丸川峠の索道を曳くなどの手当てをするも買い手がなく断念。木炭にして売却するために炭焼きが入植。水害で大黒茂谷の平坦地に移るも結局は炭焼き事業も断念。地元の人でさえ炭焼きに泉水谷にも大黒茂谷にも入っていない、そんな過酷なところでの炭焼きであったようである。
それはともあれ、明治41年(1908)には東京市民の水源管理は東京市が管理すべきと当時の東京市長尾崎行雄は自ら現地調査し東京市による水源地経営案を作成し、明治43年(1910)市議会で決議を受け東京府より水源林の譲渡を受ける。明治45年(1912)には最後の懸案事項である山梨県との交渉も解決。多摩川源流である水干のある笠取山南面は山梨県林として下賜されており、その地域を買収すべく困難な交渉のすえ譲渡を受けることができた。
その後も水源林買収が進む。大正年間には奥多摩町の公私有林、昭和8年(1933)には日原川上流の私有林、戦後の昭和25年(1950)に奥多摩町古里の私有林、ダム完成後には湖岸の私有林などを買収し現在に至る。

黒川谷;午前9時15分_標高895m_
三条新橋広場から黒川谷方向には上下2段の道がある。下の道はあまりに川床に近いため、上段の割と広い道を選ぶ。先に進むと丹波川との比高差が大きくなるとともに、最初の頃の砂利道とは異なり落石などで道が荒れてくる。丹波川から黒川の谷筋に入ったとは思うのだけれど、谷ははるか下なのか川筋も何も見えない。本当にこの道でよかったのか、少々不安になりながらもガレ場を越えなどを越えて泉水谷の入口から600mほどのところで突然広場が現れる。そしてその先に二段の滝が見える。滝脇にはコンクリート製の橋桁が残る。明治の頃開かれた道に架けられた橋の名残であろう。

橋桁手前にある木橋を渡り黒川谷左岸に。ここから左に黒川谷を上れば黒川金山跡。一方、廃道となった新青梅街道・黒川道は右に進む。進むはずなのだが、右に進む道や踏み跡さえもない。谷に沿って下る崖面は崩れており、立ち入り禁止のサインがある。もっと上を高巻きしているのだろうか、などとあちこち目安を探すが結局見つからず、正確な地図も無いし、それほど廃道萌えでもなさそうな御老公には申し訳ないし、それよりなにより本日のゴールの裂石からのバスの便が気になり、ここで撤退することにした。
後日チェックすると、木橋を渡り切ったあたりから南の100mほど崖全体が崩落しているようであり、立ち入禁止とあった谷筋を50mほど下り、崩落したガレ場の斜面を這い上がれば道筋が見つかるとのことであった。ちょっと残念。

○黒川通り
結局は断念したが、「青梅街道・黒川通り」についてまとめておく:明治6年(1873)、藤村紫郎が山梨県令に。県内の殖産を計るためは道路整備が重要と考え「甲州街道」「駿州往還(甲府から静岡;国道52号)」「駿信往還(韮崎から鰍沢;)などを整備する。この黒川通りもその一環である。この黒川通りが新青梅街道とも呼ばれた理由は、従来の氷川から小菅村、または丹波山村から大菩薩嶺を通って山梨と結ばれていた青梅街道に変えて、新たに柳沢峠を越える道を開いたことによる。構想は塩山から柳沢峠を越し、一之瀬、高橋に至り、丹波山から小河内、氷川、青梅へと通じる大道を開き、山梨と首都圏を結ぼうというもの。
翌7年(1874)、道路開通告示。街道道筋提示、工事は8年(1875)から開始。財ある者は金、財なきものは労力を提供せよ、と。多数の囚人も動員された。全域に渡り秩父古生層で硬く急峻な山を削り、岩を穿つ。工具は玄能、石ノミ、鍬、万能。土砂や岩はモッコと天秤。岩道はすべて手掘り。爆薬も硝酸類だけといった貧弱な状態で工事は困難を極めるも、5年ののちに開通。明治13年(1880)、落合で竣工式が行われ、明治20年(1887)には丹波山村で開通式が行われた(『多摩源流を行く;瓜生卓造(東京書籍)』。
山梨から丹波山村までは道が開かれ馬車が走れるようになった。しかし神奈川県(明治の頃、奥多摩は小河内村を除き韮山県をへて神奈川県に属した)も東京都も、この大道建設には積極的ではなかった。丹波山から青梅までの10里近い険阻な道を開くのは大変なことであったのだろう。
その後、藤村の甲府と首都圏を結ぶ大道が浮上したのは、昭和10年(1934)代に入り小河内ダム計画が進んだことによる。ダム建設にともなう従来の道路の付け替え工事を上流の柳沢峠まで伸ばすことになり、工事費は東京府の予算で実行される。昭和20年(1945)までに氷川から船越橋までが完成。戦中は工事中断するも、戦後昭和23年(1948)、ダム工事再開とともに昭和30年(1955)には三重河原まで開通、34年(1959)には藤尾まで開通した。このときの道筋にはトンネルはひとつもなかった、と言う。思うだに結構怖い断崖絶壁を進む道ではあったのだろう。
新たに建設された青梅街道のルートのうち、明治に開かれた黒川道のうち、「ふなこし(船越橋)」から三条河原をへて藤尾に至る丹波川右岸の道は計画から外された。これが今回撤退した廃道区間である。丹波川や柳沢川の深い谷を高巻きする川右岸の高地斜面を避け、丹波山川・柳沢川 左岸の崖面に沿って道を通した。建設技術の進歩がそれを可能にしていたのだろう。因みに新青梅街道の廃道は今回アプローチした黒川谷より東の「ふなこし橋:船越橋」辺りから残っているとのことである。
ついでのことだが、柳沢峠からの道を開く建議は青梅の小沢安右衛門との説もある。貧困から身を起こし、一代で巨商、仙台から長崎までを商圏に活躍。しかし慶応2年(1866)瀬戸内で1万2千両の荷を失い。青梅に戻り豆腐業に。明治元年(1868)、「甲斐国黒川通り新道切開願」を江川太郎左衛門に提出するも、明治の混乱期で停滞。明治8年(1874)、になって山梨県令藤村四郎から新道切開の命。9年着工。11年(1878)の完工。丹波山村奥秋から柳沢峠まで3里半。柳沢峠から甲府まで4里半。23カ所に橋を架けその総工費13万円。小川は380円を寄付した、と言う。

○黒川金山跡
黒川通りの廃道を辿ることはあきらめて元の三条橋まで引き返す。ところで黒川谷を上へと遡れば、大菩薩嶺の北の鶏冠山(黒川山;標高1716m)にある黒川金山跡に続く道があるとのこと。おおよそ2時間弱の歩き、とか。
甲斐の武田家の軍資金を支えたとされる黒川金山であるが、現在残る廃坑跡辺りの一つの鉱区に集中していたわけではないようである。その範囲は広く、黒川山を取り囲んで、南は泉水谷、北と東は一之瀬川、柳沢川、西は横手山から六本木峠に囲まれた楕円の地域一帯に広がっていた、と。現在残る廃坑跡はこの黒川中で最も新しい採掘場のあったところ、とのこと。採掘場もあちこちに点在し、「黒川千軒」と称される黒川金山の集落も黒川山のあちこちに点在していた、と。
また、黒川金山ははじめからこの黒川山で採掘が開始されたわけでもないようだ。『多摩源流を行く;瓜生卓造(東京書籍)』によれば、最初に候補地は一之瀬地区。応永元年(1394)。武田の密命で数名の家臣が金の探索のため一之瀬川を上り詰め、将監峠、牛王院山に金の鉱脈発見。しかし採掘量が少なく。次に大常木谷を探るが空振り。大常木谷に残る「屋敷の窪」「御屋敷沢」などの地名は試掘の名残、とか。
次いで大常木谷を下り、一之瀬川と柳沢川との合流点に。柳沢川の上流と高橋川一体も試掘し藤尾橋の下あたりに砂金をあげた跡がある、と言う。一方、一之瀬川と柳沢川の合流点から下流に向かった一隊は黒川谷との合流点で川床が光るの見つけ、黒川谷を遡り黒川金山を発見したとのことである。
黒川金山は享禄年間(1528?1532)から信玄の全盛期を経て、天正10年(1582)の武田家の滅亡まで、60年に渡って武田の軍資金を支える。額は24万両とも80万両とも。また、黒川金山は黄金の山とも貧鉱とも諸説ある。結果的には明治には貧鉱のため水源林として買収された。

大常木トンネル_午前10時16分_標高857m
黒川谷から三条橋に国道411号に。左手の小丘に尾崎行雄の記念碑。「尾崎行雄水源踏査記念碑」を見やり先に進む。切り立った断崖、川どこまで100mほどもあろうかと思える丹波渓谷の景観を楽しみながら国道を進むと「大常木トンネル」が現れる。トンネル左手の渓谷沿いには旧道が見えるのだが、旧道への道はトンネル入口の構造物で完全にブロックされている。
大常木トンネルはその手前のアプローチも含め「大常木バイバス」を呼ばれているが、全長490mのバイパスのうちトンネル部分が355m、それ以外のバイパス道路は旧道を改修したもの。バイパスの開通は平成23年(2011)11月。つい最近のことである。バイパスを建設は平成18年(2006)7月に発生した大規模な土砂崩れによって国道が45日間も通行止めになったことを踏まえて計画された、とのことである。
大常木トンネル内を歩き、出口から旧道を確認するに、こちらはトンネルの東口以上に完全にブロックされていた。川沿いの旧道歩きはあきらめ先に進む。

一之瀬高橋トンネル_午前10時24分_標高861m
大常木トンネルを抜けるとすぐに丹波川に架かる橋とトンネルが見える。旧道は右手の川沿いに進んでいる。こちらの旧道はフェンスで遮られるも、入口は開けることができそうだが、立ち入り禁止のサインもあり、こちらも旧道歩きを断念した。
大常木バイパスと同じ平成23年(2011)11月に開通した一之瀬高橋バイパスを進む。一之瀬高橋バイパスは全長は460m。丹波川に架かる岩岳橋と一之瀬高橋トンネル、それとトンネルを抜けるとすぐに柳沢川に架けられた橋からなる。柳沢川に架けられた橋はダブルヘアピンカーブの旧道の一個目のヘアピン部分につながり、ヘアピンは旧道にくらべひとつ減っている。
トンネルを抜けヘアピンカーブの坂を上りながら旧道方面を見る。柳沢川右岸、トンネルがしたをくぐる崖面は全体が落石ネットで覆われている。平成18年(2006)7月に発生した大規模な土砂崩れの名残ではないかと思う。対岸から川を越えて街道を岩で埋め尽くしたのであろう、か。
また、一之瀬高橋トンネルの真上山塊を見る。今回辿れなかった「新青梅街道」がトンネル真上辺りを通っているはずである。次回を期す。
○一之瀬川
一之瀬高橋バイパスを通らないで旧道を進むと北から一之瀬川が合流し、一之瀬川に架かる一之瀬橋が丹波山村と甲州市の境ともなっている。この一之瀬川の源頭部は多摩川の源流点となっている。「水干」と称される。一之瀬川林道を進み、黒川金山のところでメモした大常木谷を越え、一之瀬川、その上流の水干沢を詰め切った笠取山を少し南に下ったところにある。大常木谷の上流には「竜バミ谷」といった沢遡上にはフックの掛かる沢も。多摩川源流部の水干ともども一度訪れてみたいところである。
因みに一之瀬、二之瀬、三之瀬といった一之瀬高橋の集落はその交易は秩父が主であった、とか。将監峠を越えて甲州からは甲斐絹、麻布、紙。秩父側からは銘仙、相生織物、油、日用雑貨が運ばれた。

○おいらん淵
上で「一之瀬川」が合流するとメモしたが、一之瀬川の源頭部が多摩川の源流、ということは、一之瀬川が本流であり、合流するというのは適切ではないかもしれない。それはともあれ、一之瀬川が丹波川とその名を変える一之瀬橋より上流は柳沢川と呼ばれる。その柳沢川が、本流である一之瀬川・丹波川に合流する辺りに「おいらん淵」がある、という。
旧道沿いであり、訪ねることはできなかったのだが、この「おいらん淵」は武田家滅亡の時、坑道を埋め廃坑とするに際し、遊女の処置に困り、この渓上の宴台を設け、滝見の宴半ばで藤蔓を切り落し滝壺に葬る。55名とも、五十五人淵とも呼ばれる。
異説もある。皆殺しになることを知った女郎は、秩父の大滝を目指して逃げる途中、今の藤尾橋の下でつかまって谷に放り込まれた、と。断崖絶壁、道なき渓谷で宴を催すとの伝説よりも、ちょっとリアリティを感じる話ではある。

藤尾橋;午前11時_標高1013m
国道を進むと吊り橋が見える。おいらん云々は伝説としておくとしても、この橋は当初の計画で辿ろうとした明治の新青梅街道が柳沢川を右岸に渡る地点。橋には立ち入り禁止の標識があったのだが、いにしえの青梅街道の一端に触れるべく、吊り橋を渡り少し道を辿る。適当なところまで歩き折り返したが。結構きちんとした道がこの辺りには残っていた。今では廃道となった船越橋から、黒川谷出合いを経て、この藤尾橋までいつの日か歩いてみたい。「立ち入り禁止」は気になりつつも。

落合;午後12時10分_標高1148m
先に進むと左から高橋川が合わさる。地図で川筋を見ると高橋の地名があり、そこから一之瀬地区とは犬切峠で結ばれている。この辺りを一之瀬高橋と称する所以であろう、か。明治5年(1872)学制が発布されたとき、明治15年(1882)に分校が標高1,300mの犬切峠にあったという。高橋と一之瀬の中間である、という理由だろうか。単なる妄想。根拠なし。その分校も明治13年(1880)に新青梅街道が開かれると、落合と一之瀬に分校ができた。
高橋川が丹波川に合流する少し西に集落。丹波山村から歩き始め、はじめての集落らしき集落である。街道脇に東京都水道局の水源管理事務所があった。この落合の集落は明治に新青梅街道が開かれたときにできたもの。その交通の便の故か一之瀬や高橋から人が下ってできた集落である。
この落合辺りから先、予想では険阻なる山峡の地と想像していたのだが、雰囲気としては「高原」の趣き。覚悟していた急勾配もなく、緩やかに峠へとアプローチしていく道筋である。落合から柳沢峠まで、おおよそ5キロを330上るだけである。

御屋敷;午後12時32分_標高1223m
国道を進むと「御屋敷」との地名。柳沢刑部守の屋敷があったのがその地名の由来とのことだが、刑部は伝説の人物で実在のほど定かならず。刑部平、馬場沢、的場、刑部岩などの地名も残るが、今回越える柳沢峠も、この柳沢刑部守に由来する、とも。

湧水;午後12時43分_標高1261m
次第に細くなっていた柳沢川に沿って甲州では「大菩薩ライン」と呼ばれる青梅街道を進むと、道脇に土産店とその奥に宿があるようだ。また、土産店の手前にある「奥多摩湖源流の湧水」と書かれた看板に惹かれ、店脇の井桁風の水槽にホースから流れ出す水を飲む。柳沢川の上流から引かれただろう、か。その柳沢川はこの店の辺りから青梅街道から離れてゆく。ささやかな渓流となって流れる柳沢川を見送り先を急ぐ。

林道泉水横手山線入口;午後13時_1342m
街道の左手に「泉谷横手山林道入口」が見える。上でメモしたように、ここは泉水谷林道と繋がっているようであり、泉水谷に沿って上り、大黒茂谷の沢を越え牛首沢に。林道はそこからV字に折り返し、「泉水中段線」という林道名で黒川山(鶏冠山)方面の横手山峠近くの三本木峠を経てこの地で国道411号に出る。その出口、というか入口がここである。多くのライダーがこの林道を走っているようなので、ダートではあるがそれなりの道が整備されているのだろう。



大日影沢;午後13時12分_標高1390m
林道泉水横手山線入口まで来れば柳沢峠まで残り2キロ程度。もうひと頑張り。先に進むと大日影沢に架かる「大日影橋」。その先に逆にカーブする橋は「花ノ木橋」。大日影沢って、柳沢川の上流部のよう。地図では柳沢川の水路は、林道泉水横手山線入口の手前辺りで消えているのだが、橋に「柳沢川」と書かれていた。細いながらも水が流れるのを橋の上から確認できた。大日影橋も花ノ木橋も手元の2万5000分の一の地図の青梅街道の道筋から外れている。最近改修工事がなされたのであろう、か。豪快な橋である。

柳沢峠;午後13時36分_標高1472m
道の先に空が開き峠に到着。標高1472m。今まで結構多くの峠を越えたが、寂しい鞍部がほとんどであり、こんな車の往来頻繁な峠ははじめて。峠の茶屋から南に開く景観を楽しむ。天気が悪く富士山は見えなかった。
峠に石碑が建つ。明治に青梅街道を開いた県令藤村紫郎と、昭和6年(1931)小河内ダム建設の建議以降、30年に渡り道路の改修に貢献した飛田東山氏と川手良親氏の顕彰碑であった。飛田東山氏は小河内ダム建設に参画し、その景観を守るため昭和25年(1950)に秩父多摩国立公園指定に成功し、その後も国都県を動かし甲府青梅線の改修に貢献した。川手良親氏は山梨県の土木部長として、昭和12年(1937)以来都県を結ぶ青梅街道の改修に貢献した、といったものであった。

高芝大橋;午後14時15分_標高1278m
さて、後はバスに乗り遅れないように裂石に向かって下るだけ。柳沢峠から裂石までまだ10キロほども残っている。九十九折れの道をどんどん下る。と、突然巨大な橋が現れる。重川に架かる高芝大橋である。誠に巨大な橋梁である。また、その巨大なひとつの橋がS字に大きく曲がり、その橋桁の高さを含め今までに見たことも無いようなダイナミックな橋であった。橋の下には橋ができる前の青梅街道らしき道筋も見えた。

裂石;午後16時_標高901m
バスの時間も迫るため、脇目もふらずひたすら街道を下る。高芝トンネル、上萩原第一トンネル、上萩原第二トンネル、雲峰寺第一、雲峰寺第二トネルを抜け、裂石に到着。この地に泊まり翌日も甲州街道との合流点まで歩く元監査役と分かれ、バス停に。裂石にある名刹雲峰寺は数年前大菩薩から小菅に抜けたときに訪れたので今回はパス。コミュニティバスに乗りJR塩山駅に向かい、一路家路へと。本日は30キロ強、8時間半の峠越えであった。