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月曜日, 9月 12, 2016

秋留台地 湧水散歩 そのⅢ:秋留台地の段丘崖・面より湧出する水を辿り、秋川・多摩川・平井川に囲まれた台地をぐるりと廻る


秋留台地の湧水散歩も、秋川筋、多摩川筋と辿り、先回の散歩でやっと平井川筋へと辿りついた。あきる野市が作成した『報告書』にある湧水リストで残すは4箇所。平井川筋と秋留台地の段丘面から少し離れるが、草花丘陵の湧水点となっている。
ルートを思うに、五日市線・東秋留駅から平井川筋を遡り、最後の目標を草花丘陵の崖線が多摩川に落ちる折立(おったて)坂の湧水とし、湧出点を確認した後、多摩川を跨ぐ羽村大橋を渡り青梅線・羽村駅に向かうことにする。

本日のルート;五日市線・東秋留駅>五日市街道>松海道の一本榎>平沢八幡>平澤617番地湧水>高瀬橋>平高橋>平井川右岸を進む>平沢滝の下湧水>南小宮橋>草花公園湧水>羽村大橋西詰>折立坂湧水>羽村大橋を渡る>玉川上水>牛坂通り>旧鎌倉街道>青梅線・羽村駅


五日市線・東秋留駅
あきる野市の報告書より
最初の目的地、あきる野市の『報告書』にある「平沢617番地」湧水の最寄駅である五日市線・東秋留駅で下車。「東」と対になる「西秋留駅」は秋川市成立時に「秋川駅」となり、その後あきる野市となった後も「秋川駅」として続く。東秋留駅は大正14年(1925)の五日市鉄道(拝島・武蔵五日市間)開業時の駅名のまま今に続く。

五日市鉄道
五日市鉄道は、明治22年(889年)甲武鉄道が立川駅-八王子駅間で開業、明治27年(1894)に青梅鉄道が開業した時勢、五日市の実業家が中心となり構想され、大正10年(1921)に認可される。
ルートは青梅鉄道拝島駅を起点に、五日市、そして増戸村坂下から分岐して大久野村地内勝峰石灰山に至るもの。勝峰山までの路線を申請しているということは、当初より石灰の運搬をその事業主体にしていたと推察される。
大正10年(1921)に認可は受けたものの、事業予算が当初の目論見と大きく違い、事業は難航。大正12年(1923)に工事が開始されるも、同年に起きた関東大震災の影響もあり、地元事業家だけでは事業存続が不可能となる。
そこに登場するのが財閥系の浅野セメント。川崎工場のセメント原料は青梅鉄道沿線の石灰を使っていたが、採掘権を買収した青梅線沿いの雷電山や日向和田も思ったほどの埋蔵量がなく、埋蔵量の豊富な五日市の勝峰山に目をつける。 大正11年(1922)には既に五日市鉄道の大株主となっていた浅野セメントであるが、石灰採掘権の権利を持つまでは資金不足の五日市鉄道を援助することなく、地元実業家より勝峰山の石灰採掘権を入手するに及び全面的に五日市鉄道の経営に乗り出し、大正14年(1925)5月にに拝島・武蔵五日市、同年9月に武蔵五日市駅 - 武蔵岩井駅間が開業した。
五日市鉄道最大の眼目である勝峰山の石灰採掘事業は、大正15年(1926)から開始され、昭和2年(1927)には浅野セメント川崎工場への輸送が開始される。そのルートは五日市鉄道→青梅鉄道→中央本線→山手線→東海道線と経由して浜川崎駅で専用線を使い工場へ運ばれていた。
立川から南に進む南武鉄道の大株主でもある浅野セメントは、この輸送ルートをショートカットすべく、拝島と立川の南武鉄道を繋ぐルートの延長を計画。昭和4年(1929)に工事に着手し、昭和5年(1930)には、拝島駅-立川駅間、青梅電気鉄道の路線と多摩川の間に路線を開き、南武鉄道と結んだ。
当初貨物主体で始まった五日市鉄道も、次第に旅客輸送も増えてはきたが、日華事変の勃発にともない、五日市鉄道は南武鉄道と合併、さらには戦時体制の強化のため南武鉄道は青梅電気鉄道共々国有化され、昭和19年(1944)には国有鉄道五日市線となる。
その際、青梅電気鉄道の立川・拝島区間は軍事施設を結ぶため複線化が続行されるも、五日市鉄道の立川・拝島区間は「不要」として休止されることになった。

五日市街道
増渕和夫さんの論文より
五日市線・東秋留駅で下車し、道なりに北に向かうとほどなく都道7号・五日市街道にあたる。現在五日市街道と呼ばれるその道筋は、近世以前にはその表示がなく、「伊奈みち」とある。伊奈は秋川筋、武蔵五日市の手前,現在のあきるの市にあり、古くより石工の里として知られる。その近くで採れる良質の砂岩を求め信州伊那谷高遠付近の石切(石工)が平安末期頃より住み着き、石臼、井戸桁、墓石、石仏をつくった、とのことである。
「伊奈みち」が何時の頃から呼ばれはじめたのか、詳しくは知らない。が、その名がメジャーになったきっかけは、徳川家康の江戸開幕ではあろう。城の普請、城下町の建設に伊奈の石工も動員され、江戸と伊奈の往来が頻繁となり、その道筋がいつしか「伊奈みち」と呼ばれるようになった。
「伊奈みち」が江戸と深いかかわりがあるのと同じく、「伊奈みち」が「五日市道」と現在の五日市街道に繋がる名となったのは、これも江戸の町と関連がある。
江戸の城下町普請も一段落し、百万都市ともなった江戸の町が必要とするのは、城下町をつくる「石」から、そこに住む人々の生活の基礎となる燃料に取って替わる。国木田独歩の『武蔵野』に描かれる美しい雑木林も、江戸のエネルギー源・燃料供給のため、一面の草原であった江戸近郊に木が植えられ人工的に造られたものである。利根川の船運を利用し関東平野の薪が江戸に送られた。そして、この秋川谷からは木炭が江戸に送られることになる。
その秋川谷の木炭集積所は、元々は伊奈であったが、檜原や養沢谷からの立地上の利点から、五日市村が次第に力を延ばし、かつての「伊奈みち」を使い、江戸に木炭を運ぶようになった。そしてその往来の名称も「伊奈」から「五日市道」と変わったようである。

松海道の一本榎
道なりに目的地である「平沢617番地」湧水の目安となる平沢八幡へと歩いていると、道脇に大きな榎が立つ。「松海道」の一本榎と称される。あきる野市の保存樹木に指定されるこの巨木は、古墳の上の立つ、と言う。
古墳は、東と西は舗装道路で削られ、北は畑で削られ、コンクリートで囲まれた姿で残る。
松海道
「段丘図」には、松海道の辺りが窪地と表示される。この窪地は既述の如く、横吹面・野辺面形成期(1万年から1万2千年前)に平井川系の水流が秋留原面にオーバーフローした氾濫流路跡とされ(角田、増淵)る。氾濫流の本流は東本宿から蛙沢に向かって南東の窪地であり、この北東に残る窪地は古秋秋川筋と記されていた。
鎌倉街道
地質についての門外漢であり、上記記述の深堀はできないが、この松海道の一本榎の道筋は、かつての鎌倉街道と言う。もとより、鎌倉街道は新たに開削された道というわけでもなく、既存の道筋を鎌倉へと繋げていった道の「総称」であり、幹線のほかその幹線をつなぐ支線が数多くある。この「鎌倉街道」もそのひとつ。
鎌倉街道の三大幹線である、「上ッ道」「中ツ道」「下ツ道」、それと秩父道とも称される「山ツ道」。四回に分けて歩いた「山ツ道」は五日市線・増戸駅を南北に貫く。
で、この一本榎を通る「鎌倉道」は、羽村の川崎から羽村大橋下流付近にあった「川崎の渡し」で多摩川を渡り、草花の折立(折立八雲神社)から草花丘陵の裾野(慈勝寺)を多摩川に沿って進み、現在の平高橋あたりで平井川を渡り、この平沢の一本榎に出る。その先は、二宮、野辺を経て、雨間の西光寺脇を通り、雨間の渡しで秋川を渡り高月から日野、八王子方面へと向かったようである。
ついでのことながら、秋留台地を通る鎌倉街道の道筋はもうひとつ、青梅から草花丘陵を越えて進む道もあったようである。道筋は青梅から草花丘陵の満地峠を越え菅生に下り、平井川を越えて瀬戸岡から雨間に下り、西光寺脇で上記ルートと合わさり、南に下ったとのことである。

平沢八幡
一本榎から北に進むと平沢八幡がある。鎌倉街道沿いにあるこの社は旧平沢村の鎮守。大梅院(現在は無い。跡地は平沢会館;平沢八幡の南)持ちから先日訪れた広済寺持ちとなったが、明治の神仏分離で寺から離れた。 戦国の頃、滝山城主となった北条氏照は城の戌亥の方角に二宮神社・小宮神社と共篤く敬ったとのことである。




平澤617番地湧水
平澤八幡の辺りから坂が意識できるようになる。湧水に関する情報は『報告書;あきる野市』にある「平沢617 秋留原面下・傾斜地」だけが頼りである。とりあえず坂を下ると、平井川手前にある比高差数メートルと言った崖地が川筋に沿って続く。崖手前には民家があるが、その裏手、崖下に水路があり、その水路を辿ると崖上の民家の池に続いていた。
民家敷地内に見える池はポンプアップしているように思える。「段丘図」と照合すると、この崖面は小川面と屋代面を画する崖のようにも思える。『報告書』にある「秋留原面下 傾斜地」ということは、小川面にあるのだろうから、この池のことなのだろうか。
他に何か痕跡は無いものかと彷徨うと、池のある民家の道路を挟んだ西側に小さな祠が立ち、下に水路が見え、その先に小さいながら湧水池といった雰囲気の水場があった。また、池のある民家の少し南、平澤八幡の真東の辺りに、湧水湿地といった趣の空き地もあった。が、結局、どれが平澤617番地湧水か確認はできなかった。

平高橋に
次の目的地、「平沢滝の下湧水」に向かう。「平沢滝の下」で検索しても、何もヒットしない。『報告書』にマークされる箇所を見るに、平澤八幡の西、平井川が南に突き出た氾濫原突端を迂回する辺りにあるようだ。
平澤八幡から成り行きで西に向かい、建設中の高瀬橋の南詰に出る。成り行きで進み、平井川に下りれる箇所を探すのだが、結構な崖で下りる道がない。更に西の新開橋まで進んで折り返すか、平澤八幡を下った先に架かる平高橋まで戻るか、ちょっと考え、結局平高橋まで戻りながら、川筋への下り口を探すことにした。下り道がなくても、地図には平高橋南詰から平井川に沿って道が記載されており、なければ平高橋から折り返せがいいか、といった心持である。 戻りの道で、川筋に下る道はないものかと、結構注意しながら歩いたのだ、平高橋まで、川筋に下りる道はなかった。

これは、メモの段階でわかったことではあるのだが、「平沢滝の下」湧水辺りは「オオタカ」の棲息地保護など、環境保護運動が進められているようであり、結構大規模な「高瀬橋」の建設も、環境保護との兼ね合わが検討されているような記事もあった。そんなところは手つかずのままがいいのだろうし、崖上から平井川筋への道が造られていないのは、そういった因に拠るのだろうと妄想する。

平井川右岸を進む
平高橋の南詰から平井川筋に入り西に向かう。いつだったか平井川筋を歩いたことがある。その時のメモを再掲:平井川は日の出山山頂(標高902.3m)直下の不動入りを源流部とし、いくつもの沢からの支流を集めて南東に流下。日の出町落合で葉山草花丘陵の裾に出た後、支流を合わせながら草花丘陵南岸裾に沿って東流し多摩川に合流する。
いつだったか、御岳山から日の出山を経てつるつる温泉へと歩いたことがある。急坂を下りて里に出たところにあったのが、今になって思えば平井川の上流部であった。ぶらぶらと平井川の上流部を五日市に向かって歩いた道筋に肝要の里があった。「かんよう」の里、って面妖(めんよう)な、と思いチェック。「かんにゅう」と読むようだ。御岳権現の入り口があったので「神入」からきた、とか、四方を山で囲まれたところに「貫入」した集落であるという地形から、とかあれこれ(『奥多摩風土記;大館勇吉(有峰書店新社)』)。
将門伝説の残る勝峯山のあたりに岩井という地名もあった。将門の政庁があった茨城の岩井と同じ。故に将門伝説に少々の信憑性が、とはいうものの読みは「がんせい」、とか。有難さも中位、か。

平沢滝の下湧水
平高橋辺りでは開けていた平井川右岸も、高瀬橋に近づくにつれて崖が迫ってくる。また、高瀬橋の下辺りからは崖側道脇に自然の水路が現れ、水路先と崖地の間も湿地となってくる。高瀬橋の下を潜った先に「秋留台地」の地下水の案内。
「秋留台地には二宮神社や八雲神社の池を始めとし、至るところに湧水があり、それを元に古くから水田や集落が発達してきました。ここは国分寺や日野、東村山などと並ぶ、地下水の宝庫なのです。でも、台地なのになぜこんなに地下水が豊かなのか不思議です。この謎を解く鍵がこの崖にあります。
この崖の地層は湧水のあるところを境に、上のゴロゴロした礫の層と、下の硬い礫交じりの粘土層に分かれます。上の礫層は2万年ほど前の氷河時代に堆積したもので、よく水を通します。しかし下の粘土層は100万年ほど前に浅い海に堆積したもので、がっちりと固まっているために、水は通しません。
秋留台地の中央部を占める一番高い段丘面は、礫層が8mほどもあるために、もっぱら畑に使われてきました。しかし、二宮神社の池があるところのように、一段下がった段丘面では、礫層が薄いために地下1mほどのところに、もう地下水が現れます。これが豊かな水の原因になっているのです。
この崖ではかつて地層をよく見ることができました。しかし崖が防災工事によって固められることになったため。私たちは東京都と話し合って、地層の一部が観察できるよう、保存してもらうことにしました。それがこの案内板の横にある地層です。湧水を見て秋留台地の歴史に思いをはせてください。 東京学芸大学教授 小泉武栄」の解説と共に、秋留台地の段丘・段丘崖、地層、湧水などがイラストで説明されていた。

「平沢滝の下」とは言うものの、滝があるわけでもなく、地名が「滝の下」といったエビデンスも見つからず、この地が「平沢滝の下」湧水なのかどうかわからないが、ともあれ、『報告書』にあった地図の位置の辺りではあるし、「秋留原面下 崖地、(水量)大」にも齟齬がないので、ここを「平沢滝の下」の湧水と思い込む。

南小宮橋
次の目的地は、原小宮地区にある草花公園の湧水。平井川の右岸を進み、新開橋、北から平井川に注ぐ氷沢川を見遣り南小宮橋に。橋の手前に石段があり、そこを上って公園に入るのかと思ったのだが、行き止まり。元に戻り橋下を潜るとそのまま草花公園に入って行けた。


草花公園湧水
公園についたものの、手掛かりは?地図を見ると、池があり、そこに水路が続いているので、とりあえずそこからはじめて見る。
池に沿って歩き、池に繋がる水路に。結構な水量である。緩やかに蛇行する水路を進むと、公園内の舗装道路に水路は遮られるが、水路は道路下に続いているようで、コンクリート造り水路壁下部から水が流れ出している。 道路の反対側に向かうと、石造りの水路が顔を出し、公園周辺道路で水路は終わる。水路終端部の石の間から水が流れ出している。ここが草花公園湧水ではあろう。
水路終点の南、公園周辺道路を隔てた先に崖地が見える。草花公園湧水とその崖面とをつなぐ水路などないものかと崖地手前を彷徨うが、それらしき痕跡は見つけられなかった。
草花
既述「郷土あれこれ」に拠ると、「草は草花が咲く地>開墾地。草が生えそして枯れ。それを肥料として土地を肥やしは耕作地としていく。花は鼻>出っ張り=突端部。草花は「開墾地の端」との意味という。地名はすべからず「音」を基本とすべし。文字に惑わされるべからず。


羽村大橋西詰
これで『報告書』に記載された秋留台地の湧水調査地点は一応終了。後は同『報告書』にあった草花丘陵の折立坂の湧水を残すのみ。草花公園を離れ都道165号を東に向かい、氷沢橋交差点で都道250号に乗り換え、軽い峠越え。



道を少し上ると、道脇に案内。「智進小学校跡地と橋場遺跡」とある。簡単にまとめると、「氷沢川を見下すこの地に、現在の多西小学校の前身である智進小学校が明治30年(1897)に建てられた。また、この近辺からは都道の新設や大型店舗の建設に伴う発掘調査により、縄文時代や古墳時代、奈良・平安時代の竪穴式住居跡などが多数発見されており、土地の小字をとって橋場遺跡と呼ばれる」、とあった。
峠にあった大澄山登山口の標識を見遣り、多摩川を見下しながら江里坂を下り、羽村大橋西詰めに。羽村大橋西詰めに薬師堂が立つ。

折立坂湧水
羽村大橋西詰に着いたのはいいのだが、どこが折立坂が見当がつかない。上で都道250号を羽村大橋西詰に下る坂を江里坂とメモしたが、それは後日わかったこと。既述『報告書』に記された箇所を参考に、都道250号と多摩川の間を走る都道29号を画する江里坂下の崖線下を探したりもしたが、湧水らしき箇所は見当たらない。とすれば、湧水箇所は都道29号と多摩川の氾濫原を画する崖線下ではないかと、都道29号から河川敷に下ることにした。
都道を少し南に下ると崖線を斜めに氾濫原に下りていく坂道がある。メモの段階でこの坂が折立坂であるのがわかったのだが、当日は知らず坂を下りる。氾濫原に下りる、とは言うものの、坂と氾濫原の間には縦長に家が立ち並ぶ。崖線に注意しながら坂を下るも、それといった湧出点は見当たらなかった。

坂を下り切り、崖線に沿って羽村大橋西詰めへと向かう。民家も切れた氾濫原の畑地を崖線に沿って進むと、足元がぬかるんできた。水の溜まった自然の水路も崖線の藪下に続く。湧出点は藪の先にあり、そこまで踏み込む気にもならず、これが折立坂の湧水の一部と自分に思い聞かせ、羽村大橋の下辺りから崖上に上る道を見つけ、羽村大橋西詰に戻る。
折立坂
「折立」は「降・落」+「断」>崖が連なるの意味。で、この折立坂は、既に一本榎でメモした通り、鎌倉道の道筋。羽村の川崎から羽村大橋下流付近にあった「川崎の渡し」で多摩川を渡り、この草花の折立(折立八雲神社)から草花丘陵の裾野(慈勝寺)を多摩川に沿って進み、現在の平高橋あたりで平井川を渡り、この平沢の一本榎に出たようである。今は道路が整備されているが、かつては折立の崖地を難儀しながら進んだのであろうか。



羽村大橋を渡る
これで『報告書』にあった秋留台地の調査箇所として記載された湧水はすべて廻り終えた。最寄の駅である青梅線・羽村駅へと羽村大橋を渡る。橋の少し上流には玉川上水の羽村取水堰がある。




玉川上水
橋を渡り都道29号・羽村大橋東詰交差点手前で玉川上水を渡る。相当昔の話になるが、玉川上水を羽村取水堰から四谷大木戸まで7回に分けて歩いたことが懐かしい(玉川上水散歩Ⅰ玉川上水散歩Ⅱ玉川上水散歩Ⅲ玉川上水散歩Ⅳ玉川上水散歩Ⅴ玉川上水散歩Ⅵ玉川上水散歩Ⅶ)





牛坂通り
羽村大橋東詰交差点で都道29号・奥多摩街道を越え、成り行きで青梅線・羽村駅に向かう途中、都道29号バイパス・新奥多摩街道手前の道脇に「牛坂通り」の案内があり、「五ノ神の都史跡「まいまいず井戸」が、江戸時代中期に改修された時、多摩川の石などを運んだ牛車が、この道を通ったといわれています」とあった。牛坂は、都道29号バイパス・新奥多摩街道を越えた先にある。
五ノ神社・まいまいずの井戸
五ノ神社は創建、推古九年、と言うから西暦601年という古き社。羽村駅東口傍にある。『新編武蔵風土記稿』によると、熊野社と呼ばれていた、とか。この辺りの集落内に「熊野社」「第六天社」「神明社」「稲荷社」「子ノ神社」の神社が祀られており、ためにこの辺りの地名を五ノ神と呼ぶ。地域の鎮守さま、ということで五ノ神社、となったのであろう、か。熊野五社権現を祀っていたのが社名の由来、との説もある。
いつだったか、玉川上水散歩の折、「まいまいずの井戸」を訪れたことがある。「まいまいずの井戸」は神社境内にある。すり鉢状の窪地となっており、螺旋状に通路が下る。すり鉢の底に井戸らしきものが見える。すり鉢の直径は16m、深さ4mもある、とか。何故に、井戸を掘るのに、これほどまでの大規模な造作が、とチェックする。井戸が掘られたのは鎌倉の頃。その頃は、井戸掘りの技術も発達しておらず、富士の火山灰からなるローム層、その下に砂礫層といった脆い地層からなる武蔵野台地では、筒状に井戸を掘り下げることが危険であったので、このような工法になった、とか。狭山にある「堀兼の井」を訪ねたことがある。歌枕にも登場する堀兼の「まいまいずの井」よりも、こちらのほうが、しっかり昔の形を残しているようだ。

旧鎌倉街道
牛坂通りを進み、都道29号バイパス・新奥多摩街道に出る。左に折れて、羽村駅からの道への都道29号バイパス・新奥多摩街道交差点に。玉川上水散歩の折り、交差点の多摩川サイドに「鎌倉街道」の案内があったのを思い出し、ちょっと立ち寄り。
「旧鎌倉街道」とあり、「この道は、八百年の昔を語る古道で旧鎌倉街道のひとつと言われています。現座地から北方へ約3キロ、青梅市新町の六道の辻から羽村駅の西を通り、羽村東小学校の校庭を斜めに横切って、遠江坂を下り、多摩川を越え、あきる野市折立をへて滝山方面に向かっています。入間市金子付近では竹付街道ともいわれ、玉川上水羽村堰へ蛇籠用の竹材を運搬した道であることを物語っています(後略)」とあった。
この鎌倉街道のいくつかのポイントを実際に辿った後で説明文を読むと、周辺の風景も浮かび上がり、結構リアリティを感じる。

青梅線・羽村駅
これで3回に渡った秋留台地の湧水散歩もお終い。藍染川と八雲神社からの細川、そして舞知川の繋がりなど、少しはっきりしないところもあるので、そのうちに訪ねてみようと思いながら、一路家路へと。

月曜日, 8月 08, 2016

秋留台地 湧水散歩 そのⅡ:秋留台地の段丘崖・面より湧出する水を辿り、秋川・多摩川・平井川に囲まれた台地をぐるりと廻る

増渕和夫さんの論文より
秋留台地散歩の2回目。山田、引田、代継、牛沼と秋留台地の南側、秋川に面する段丘を歩いた。とはいうものの、比高差のある崖面のほか、それぞれの段丘面は知らず通り過ぎていた。それはともあれ、今回も前回に引き続き、秋川筋の段丘を辿り、その後で多摩川に面した段丘に廻り込み、段丘崖から湧出する湧水を探し、時間次第ではあるが平井川筋まで歩こうと思う。


ところで、秋留台地の湧水の仕組みであるが、基本は水を通しにくい秋留台地の基盤層・五日市砂礫層(上総層)の上の段丘礫層に溜まり、段丘の崖から湧出するわけだが、角田さんの論文を見ると、秋留台地の下には地下水谷が走り、低水時と豊水時ではその流れに違いがある、と言う。
で、この地下水谷は秋留原面形成より古く、古秋川筋とも言われる。その谷筋は、「伊奈丘陵内を流れる横沢が秋川に合流する付近から始まり,伊奈一武蔵増戸駅を経て西秋留駅(注;現在は秋川駅)の北方を通り,平沢に至っている。地下水谷の深さは武蔵増戸駅で4m 前後,武蔵引田駅付近で4?6m ,西秋留駅(注;現在は秋川駅)付近では3?6mとなっている」、とのこと。


角田清美さんの論文より
更に、「地下水谷の南側には,伊奈から東秋留へのびる地下水の尾根が形成されており、低水時には、地下水の尾根より南側では,地下水は南あるいは南東方向へ流下している。ここには小規模な段丘が数多く分布し,基盤(五日市砂礫層)の上位の段丘礫層の層厚が2 ?4m と比較的薄いため,地表の段丘地形に対応して各所に地下水瀑布線が形成されている。平井川に沿っては,地下水瀑布線は全く見られない。以上のことから,低水時における秋留台地の不圧地下水の涵養は,主として平沢より上流の平井川によって行われていると考えられる」、とする。
一方豊水時には、「低水時の地下水面等高線図とは大きく異なり,台地のほぼ中央を東西にのびる地下水谷は認められない。地下水量は著しく増加し,台地のほぼ中央を伊奈丘陵から東端の二宮まで地下水の尾根がのびており,地下水面は地下水の尾根から北東および南東方向へ傾斜している。台地の西端の伊奈においても,地下水谷の存在は認められず,地下水面は北西から南東方向へ傾斜している。
秋留台地の南側,秋川に面する側の横吹面より下位の段丘においては, 低水時の際と同様, 段丘地形と段丘礫層の厚さに対応して数本の地下水瀑布線が形成されている。地下水面が下位の段丘面より相対的に高いところでは,各所で地下水が湧出している。秋留台地の北側,平井川に面する側においては,段丘崖に沿ってほぼ全面にわたって地下水瀑布線が形成されている」とする。

門外漢であり、いまひとつ理解はできていないのだが、とりあえず、秋留台の地下水流は低水時と豊水時とはその流路が異なり、その因は秋留原面形成以前の古秋川筋とされる地下水谷とその尾根に拠る、ということのようだ。 上記論文には,「低水時における秋留台地の不圧地下水の涵養は,主として平沢より上流の平井川によって行われていると考えられる」、とあるが、これは秋留台の大半を占める地下水位谷の北の秋留原面のことをさすのだろうか。低水時には平井川水系の地下水は地下水谷の尾根を越えられないだろうから、低水時における地下水谷尾根の南を流れる地下水の涵養は、平井川ではなく、伊奈丘陵の横沢あたりからの地下水ということだろうか。

門外漢の妄想はこのくらいにして、今回のルートであるが、雨間から野辺、小川と進み、小川地区から秋川筋を離れ多摩川筋を二宮地区、更には平井川筋の平沢地区へと向かうことにする。


本日のルート;雨間湧水(雨間地区)>小川湧水(小川地区)>小川湧水群(小川地区)>八雲神社境内湧水(野辺地区)>梨の木坂(平沢地区)>広済寺境内(平沢地区)>二宮神社のお池(二宮地区)
あきる野市の報告書より


五日市線・秋川駅
今回は雨間地区にある雨間湧水から始める。最寄りの駅である五日市線・秋川で下車し、南の秋川筋に下る。途中、都道5号・五日市街道の手前に油平地区。既述、あきる野市教育お委員会の「郷土あれこれ」には、その地名の由来を、油をとるための作物(荏胡麻)などを栽培した平坦な畑地から、とする。このン場合の「油」は明かりとりのためのものである。
同ニューズレターには、油菜は江戸時代の中頃に関西で作られ、急速に全国に広まった。また、障子に使う和紙が安価に手に入るようになり、日本の生活が「明るくなった」、と。そうだよな。

雨間湧水:あきる野市雨間698番地
都道5号・五日市街道の油平交差点を東に折れ、目安となる「カメラのキタムラ」に向かう。雨間湧水はカメラのキタムラの手前、五日市街道の南の石垣下から流れだしていた。崖面をしっかりと石垣で補強した底部に管があり、そこから豊かな水が流れ出していた。
管の先はコンクリートで固められた水場となっており、その先も暗渠となって下る。暗渠に沿って少し下ると、東秋留橋に通じる車道の石垣に行く手を遮られる。石垣をよじ登り道の東を見ると茂った草に覆われた水路が続いていた。地図を見ると途切れてはいるが秋川に繋がる水路が見える。 あきる野市作成の『報告書』によれば、雨間湧水は野辺面下にあるとのこと。湧出する崖下は小川面であるが、野辺面になんらか水路跡でもないものかと彷徨うが、これといった水路の痕跡を見つけることはできなかった。
蛙沢
角田さんの論文には「蛙沢は西秋留駅の南東の長者久保にある池に源を発し,途中,段丘崖下の数ケ所からの湧水を集め,約1.3km 流れて秋川に合流する」とある。西秋留駅は現在は秋川駅、また長者久保は秋川駅の西を南北に下る都道411号、秋川駅近くの油平北バス停の東辺り、とのこと。池も五日市街道から北の水路跡も確認していないが、雨間湧出点以下の水路からして、この流れが蛙沢のように思える。
雨間
「郷土あれこれ(あきる野市教育委員会)」に拠れば、この「雨間」は全国唯一の地名とのこと。雨は高いところ(=天;あま、ということだろうか)。間は場所。雨間は「高いところ」の意。秋川近くの蛙沢沿いに雨武生(あめむす)神社がある。雨間は「高いところ」故に、田をつくるのに水に困るためこの社を祀った、と。

八雲神社の手前に水路
県道7号を東へ向かうと、ほどなく県道176号が分岐。睦橋通り(多摩川に架かる)と称されるようになる県道7号を進み、県道の北にある八雲神社の手前の道を北に、野辺地区に入ると道の東に突然水路が現れる。地図を見ると。その一筋東の道にも水路が見える。地図では切り離されていた水路は暗渠で結ばれていた。

藍染川
その時は地図に見える八雲神社の池からの流れかと思っていたのだが、帰宅後チェックすると、角田さんの論文に「藍染川は、東秋留の南西の東秋留小学校の裏にある比高約1.5m の横吹面の段丘崖下に源を発し,約1.8km 流れて多摩川に合流する」とあり、また、「郷土あれこれ(あきる野市教育委員会)」には小川の地名由来の項に「武蔵名所図会:普門寺境内より流れ出づる藍染川が、これを小川といった」といった記事もあった(普門寺は五日市線・東秋留駅の南にある。境内を囲むように四分の一円の弧を描く水路が地図に見えるが、流路の方向は不明)。
散歩で水路を見かけたときは、八雲神社からの流れと思い込み、流れの方向をあまり意識せず、流れの向かう方向を思い出せないのでなんとも言えないのだが、ひょっとすると、この水路は上記説明から、東秋留小学校の崖下、また普門寺からの水を集めた藍染川なのかも知れない。
とはいうものの、八雲神社の周辺には水の涸れた水路が数条通っており、どれが藍染川の流れなのか、はっきりしない。それはともあれ、藍染川は八雲神社の湧水を源流とする「細川」と前田小学校付近で合流し舞知川(もうちかわ)となって秋川に注ぐ。
野辺
「郷土あれこれ(あきる野市教育委員会)」に拠れば、由来は文字どおり、「野の辺り」。野は原(平で畑となるところ)と異なりやや起伏があり山が交るところ。山は平でも木が生えているところは山と呼ぶとのことである。

八雲神社境内の湧水;あきる野市野辺316番地
八雲神社境内に入ると大きな池があり、澄み切った水が豊かな湧出を想わせる。境内は平坦地となっており、『報告書』に「野辺面下・平地」とあるように、崖地から湧出しているわけでもない。野辺面下はこの辺りでは小川面である。が、段丘図を見ると、この辺りは野辺面からそう遠く離れた場所でもない。第一回の散歩のメモでの野辺面の説明にあったように、「東秋留駅の東から南にのびる段丘崖は比高1.5m?2mを示すが,段丘崖の各所から地下水が湧出している」とあるので、比高差があまりなくわかりにくいが、野辺面段丘崖からの湧出水のひとつとも妄想する。
崖線からの湧出であれば、池を囲む石組みの間から湧き出る箇所はないものかと湧出箇所を探すも、見つけることはできなかった。池の中央部分が一段深くなっており、そこから湧出するといった記事も見かけたが、それらしき湧出は確認できなかった。ただ、池から流れ出す水路の水は豊富であり、湧出量が大きいことは想像できる。
池から流れ出す水路は境内で左右に分かれていた。上で藍染川の事をメモしたが、それは帰宅後にわかったこと。散歩の折は、右に流れる水路が、八雲神社手前で見つけた水路であり、左に折れる水路が「細川」と称され前田小学校付近で合流し舞知川となるようである。

なお、社殿裏手には水が流れていない水路が通っている。境内には繋がっていないようだが、なんだろう?藍染川と八雲神社の湧水、八雲神社近くの水流の方向、同じく普門寺脇の水路の方向、こういったあれこれがさっぱり整理できない。近いうちにこれらの水路を全部追っかけてみる必要があるかと思う。
八雲神社
社の入口にあった案内によると
「長禄年中(一四五七-六〇)の創立であって、京都(祇園)牛頭天王を勧請し、野辺新開院が別当として、毎年六月十五日を祭日としていた。明治維新の大改革で神仏併合が禁じられ八雲神社と改称、明治六年十二月村社に列格、以後、例祭日を七月二十五日とする」
八雲神社の五輪塔(群)
湧水池から流れ出す水路脇に八雲神社の五輪塔(群)の案内; 「あきる野市指定有形文化財(建造物) 五輪塔一基のほか、五輪塔の一部である火輪一点、水輪二点が残されています。全て市内から産出される伊奈石で作られ、最下部ぼ地輪には正面中央に種子(仏や菩薩をあらわした梵字)、左に 「応永七年十月九日」(応永七年=1400年)、右に 「浄林禅門」(供養者名)の文字が刻まれています。
この配置は室町時代の伊奈石製の五輪塔に多い形式ですが、本資料はその古い例です。形態はこの時代の様式をよく示していて、室町時代最初頭における伊奈石製五輪塔の基準的な資料として貴重です あきる野市教育委員会」

細川
境内を出ると八雲神社湧水池から流れ出した「細川」が南に下る。ただ、境内を出た箇所から東に進む水路が見える。前述の前田小学校へと向かっている。これが藍染川の流れなのだろうか。前田小学校のあたりで舞知川となって秋川に下るようだ。但し、何回も述べたように、藍染川・細川・舞知川の繋がりは全くの未確認。





後日談
上記メモの如く、藍染川と八雲川、さらには普門寺川からの流れと藍染川の繋がりなど、気にな
ったことを整理に後日再訪。わかったことを整理すると;

藍染川が細川と合わさり南に下る
上記、八雲神社手前で現れた水路は、東秋留小学校の崖下辺りからはじまる藍染川のようだ。その水路は上記メモの如く、一筋東の通りで暗渠となるも直ぐに開渠となって八雲神社の南端を東に進み、八雲神社湧水から流れ出た「細川」と合わさり、五日市街道に向かって南に下る。


また、八雲神社手前で現れた水路・藍染川が暗渠となって南に弧を描く箇所から一直線に東に向かう水路は、八雲神社湧水からの水が左右に分かれる箇所に繋がっている。

細川・藍染川分流が東に分流する箇所
舞知川
ここで八雲神社湧水からの水路と合わさり「細川」となった水路は境内を出ると南に下り、前述の藍染川の水路と合わさり南に下るが、その少し手前で東に向かう分水点があり、その水路は前田小学校へと向かい、舞知川となって進む。




普門寺裏水路
細川・藍染川分流と合わさり舞知川に
で、普門寺からの水路と藍染川、細川、舞知川との関係だが、普門寺裏の水路(開渠)は五日市線・東秋留駅の東にある都道168号を越え、暗渠となって南に下り、前田小学校の辺りで八雲神社の境内を出た後、東へと進んだ水路と合わさり、舞知川となって進んでいた。


既述メモでの疑問点を整理すると
●「普門寺は五日市線・東秋留駅の南にある。境内を囲むように四分の一円の弧を描く水路が地図に見えるが、流路の方向は不明」

流路は西から東に。普門寺裏の水路は、水が枯れており流れは見えないが、東側が一段水路底が高くなっており、西から東へ向かうものと思い、都道168号の先の道を進むと上でメモの如く舞知川とつながった。 

●「散歩で水路を見かけたときは、八雲神社からの流れと思い込み、流れの方向をあまり意識せず、流れの向かう方向を思い出せないのでなんとも言えないのだが、ひょっとすると、この水路は
上記説明から、東秋留小学校の崖下、また普門寺からの水を集めた藍染川なのかも知れない」

方向は東から西。「東秋留小学校の崖下」からかどうかは、トレースしていないが「多分そうだろう」。
また「普門寺からの水を集めた藍染川なのかも知れない」は誤り。上上述の如く普門寺からの水路は東から南に進み前田小学校のあたりで藍染川から、というか「細川」+「藍染川の分流」の水路と合わさる。

●山田神社の「社殿裏手には水が流れていない水路が通っている。境内には繋がっていないようだが、なんだろう?」

社殿裏手の水路らしきものは、単なる叢。藍染川からの分水は境内南端を進み、湧水池からの水路とT字に合流し細川となって境内を出る。

◆普門寺からの水路脇に湧水池が
普門寺裏の水路が都道168号に阻まれるのだが、その東に如何にも水路跡らしきノイズを感じる道があり、そこを辿ったおかげで、普門寺からの水路と細川・藍染川・舞知川がつながったのだが、その暗渠となった道を進んでいると、暗渠下から強い水流の音がする。 普門寺裏ではほとんど水がなかったのに?道の東側に如何にも湧水池といった窪地が見える。
その先、塀の中を覗くと、これは巨大な湧水池が見える。また、その先にも湧水池が。 ということで、疑問整理の散歩で、思いがけず3箇所の湧水池がみつかった。小川湧水群ではないけれど、東秋留湧水群とでも勝手に名前をつけておこうか。









屋敷林
道なりに進み都道7号・睦橋通りに。屋敷林と言うか、巨大な樹木を敷地内に持つ民家を見遣りながら小川地区に入り小川交差点に。交差点北西の角に熊野神社が建つ。
小川
小川の名は奈良時代の記録に残る。延長5年(927)制定の『延喜式』には勅使牧(天皇家直属の馬牧)としてこの地の小川牧が記録される。小川牧からの貢馬数は10疋。牧で飼育される馬の数は貢馬の二十倍とされる。ということは小川牧の馬の総数は200疋。牧の管理は牧長と記録係の牧帳、それと馬100疋につき二人の牧子であるから、200疋では四人の牧子の総勢6名の運営体制ということであろうか(Wikipediaを参照)。
で、小川の地名の由来は、藍染川のことろでメモしたが、「郷土あれこれ(あきる野市教育委員会)」の小川の地名由来の項に「武蔵名所図会:普門寺境内より流れ出づる藍染川が、これを小川といった」とあるので、「小川」の流れるところ、と言ったところだろう。

小川交差点湧水;あきる野市小川820番地
『報告書』に湧水点は交差点南西とある。都道166号を南に少し進むと宝清寺へと東に入る道があり、その角(宝清寺と刻まれた大きな石標の裏)にポッカリ穴のあいたような、水車跡の残る石組みの水路がある。錆びた水車の横の石垣から管が出ており、当日水は出ていなかったが、そこが湧出点であろうか。 『報告書』には小川面下とある。段丘図を見ると、この辺りの小川面下は氾濫原とあった。



宝清寺
参道を進み宝清寺にちょっと立ち寄り。本堂にお参り。境内に小祠があり、「たわしでこすって祈願成就」のコピーとともに「浄行菩薩縁起」の案内がある。簡単にまとめると、浄行菩薩とは妙法蓮華経に登場し衆生を救う菩薩のこと。お地蔵様の中でも最上位の菩薩で、お地蔵様を自分に見立て、患部をたわしでこすると御利益がある、とのこと。絵馬に願いを書きたわしでこするようだが、今回は「撫で仏」で御利益をお願いした。
御利益はともあれ、境内の南端から東秋川橋の向こうに見える加住丘陵の北端、 秋川に突き出た箇所にある高月城を辿った記憶が蘇る。

◆宝清寺の歴史
お寺さまのHPに拠れば、「宝清寺(ほうせいじ)は、西多摩では唯一の日蓮宗身延山久遠寺の末寺で、開山は法清院日億上人、開基は青木勘左衛門(武田勝頼の縁者)
甲州武田勝頼公滅亡後、その青木勘左衛門は、八王子城落城後、関東に入国した徳川家康に見出されてこのあきる野市小川の地を賜った。勘左衛門は、戦国時代に滅んだ武士達の霊を弔うために出家し、元和年間(1615~1624)故郷甲斐国雨利郷(甘里)にあった東照山教林寺をこの地に移し東照山法清寺と号し創立した。
最初は、東照山と号していたが、宝永年間(1704~1711)九世圓妙院日亮上人の代に、東照山とは徳川家に対して畏れ多い山号だとして、領主水谷信濃守より身延山に申し出て、寺禄等を寄進して祈願処としたことにより水谷山宝清寺と改められたといわれる」とあった。

小川湧水群;あきる野市小川837番地辺り
小川交差点に戻り、睦橋通りを東に進む。地図を見ると、あきる野市小川郵便局を過ぎた辺り、通りの北側に池が五カ所記載される。そこが湧水池ではと推測し道を進むと、民家の敷地に池があり、池から水が流れ出している。その横の家の敷地には結構大きな池がある。また、その隣の民家敷地にも、小振りながら如何にも湧水池といった趣の池が続く。ここが小川湧水群ではないだろうか。
『報告書』には、「小川面下・傾斜地」とある。角田さんの段丘図ではこの辺りの小川下は南郷面とされる。







法林寺
小川湧水群からの水はどちらに向かうのだろうと、睦橋通りの南を彷徨う。何ら痕跡は見当たらなかったが、法林寺というお寺さまがあったので、ちょっと立ち寄り。本堂脇に石造りの水場があり、少量だが竹筒から水が流れ落ちる。また、水場の対面に手押しのポンプがあり、ポンプを押すと結構な勢いで水が流れ出す。

寺伝によれば、開山の僧が二宮神社の龍に功徳を施し、そのお礼に絶えざる水が湧出するようになった、とのことだが、近くの小川湧水群を見るにつけ、小川の崖線からの湧水なのでは、とも妄想する。
境内の南端、河岸段丘の崖線上から、下の氾濫原、そして秋川、その川向うの高月城を北端とする加住丘陵の眺めを楽しみながら、少し休憩。このロケーションに身を置くにつけ、この臨済宗南禅寺派のお寺様は、かつては戦乱期の武将の館跡との説明も納得できる。秋川を自然の要害とし、対岸の高月城、その南に控える滝山城と一体となった大石氏、またその女婿である北条氏照との関連を示唆する記事もあった。確たる文書はないようだが、土塁跡は残るようである。

舞知(もうち)川
次の目的地は梨の木坂の湧水。秋川筋を離れ、北の平井川筋へと向かうことになる。法林寺から小川交差点まで戻り、小川熊野神社にお参りし都道166号を北に進む。
小川地区と二宮地区の境に舞知川が流れる。東秋留の南西の東秋留小学校の裏・横吹面の段丘崖下から、またまた、普門寺境内よりの湧水を集めた藍染川と八雲神社の湧水から流れ出す「細川」が前田小学校辺りで合流し舞知川となって秋川に下る、とのことである。

平沢
二宮地区を進み、二宮本宿交差点で都道166号から多摩川方面に向かう都道7号に乗り換える。多摩川の対岸に福生方面を見遣りながら弧を描く坂を下ると平沢交差点。平沢東と平沢地区の境となっている。「地名あれこれ(あきる野市教育委員会)」には平沢の由来を「平井川沿いの浅い平らな谷地のこと」とする。

梨の木坂湧水;あきる野市平沢859‐1辺り
●東京都水道局平沢増圧ポンプ場の裏手の崖面から湧出
平沢交差点で都道7号を離れ、一筋東の坂を上る。東京都水道局平沢増圧ポンプ場の裏手に崖がある。その崖からパイプが出ており、そこから水が落ち、ポリタンクに溜まった後、下の水路に落ちていた。『報告書』には「小川面下・崖地」とある。段丘図で見ると、小川面下は氾濫原となっている。

民家脇から湧水
東京都水道局平沢増圧ポンプ場裏の崖面に向かう坂道の途中に西に向かう道がある。次の目的地の広済寺への道筋であるが、その曲がり角の民家脇に、鯉が泳ぐ細長い水路が見える。水路の先には管があり豊かな水が流れ落ちている。 これって湧水?ためつすがめつ水路を眺めていると、その家の御主人が現れ、かつてこの辺りに湧水池があったのだが、それが埋め立てられるとき、管を引いて水を流すようにしたと話して頂いた。道の下に水路跡が続くが、昔は下は一面の田圃で、その灌漑に使われていたとのことであった。
ざくざく婆の湧水跡
梨の木坂湧水のメモをしている時、梨の木坂に「ざくざく婆」の湧水跡があることを知った。Google Street Viewで梨の木坂をチェックすると、増圧ポンプ場裏の崖線の道を隔てた石垣下に湧水らしきものが見える。そこが「ざくざく婆」の湧水跡だろう。
ざくざく婆の由来はお婆さんが小豆を洗う「ざくざく」という音が聞こえていたから、と。
因みに梨の木沢は「ところてん坂」とも呼ばれるようだ。由来は二宮での芝居見物に向かう人に、この湧水を使ったおいしい「ところてん」が評判になった、故と。

湧水湿地
坂道を広済寺に向かって上って行くと、道の北側に如何にも湧水湿地といった場所がある。湿地の中に入っていくと、一面から「浸みだす」湧水を見ることができた。今回の湧水散歩ではじめての、自然な湧水湿地であった。滾々と湧き出す湧水もいいのだが、こういった「じわり」系の湧水湿地も結構、いい。勝手ながら、このままの状態で保存されることを望む。

広済寺境内湧水;あきる野市平沢732番地
湧水湿地の先に広済寺。明るく品のいいお寺さまである。境内に石組みで窪みとなった水路がある。そこが広済寺境内湧水ではあろう。水路上の竹筒から水鉢に豊かな水が落ちていた。
『報告書』には「小川面下・傾斜地」とある。小川面と氾濫原の境の崖というほどではないが、傾斜地から湧出しているのだろう。

田中丘隅回向墓
次の目的地へとお寺様を出ようとすると、「田中丘隅回向墓」と書いた矢印がある。田中丘隅は大丸用水散歩や二ヶ領用水散歩で出合った民政家である。矢印に従い先に進むと石碑が建つ。脇にあった案内には「田中丘隅回向墓 東京都指定有形文化財(歴史資料)平成10年3月13日指定
田中丘隅(休愚)は江戸時代を代表する民政家の一人で、自らの経験をもとに近世を通じて最もすぐれた経世の書といわれる 「民間省要」 を著述している。 その著書は八代将軍吉宗に献上され、享保改革に少なからぬ影響を与えたといわれている。
丘隅は、自著が将軍吉宗の上覧に達したことを契機に、江戸幕府の地方役人に抜擢され、荒川・多摩川・酒匂川の治水エ事、さらに大丸用水、六郷用水・ニヶ領用水の普請工事などに手腕を振るい、そして、のちには代官(支配勘定格)に任ぜられ、武蔵国などの幕領支配にもあたっていた。
彼は旧多摩郡平沢村(現・あきる野市平沢)出身で、享保14年(1729)12月22日に死去しているが、回向墓は彼の死後間もない時期に、兄の祖道が願主となり一族縁者の助成によって建立されたものと考えられる。
建立時やその後の状況についてはまったく不明である。材質は伊奈石。台座は白河石。回向墓の高さは台座を含め約166・7センチメートル。 彼の生家の菩提寺である広済寺境内に建つ回向墓は、丘隅の事績を簡潔にまとめた銘文が刻まれており、民政家田中丘隅の活躍を偲ぶことができる貴重な歴史資料である」とあった。

広済寺
お寺様のHPに拠れば、
「臨済宗建長寺派 本尊釈迦牟尼如来 開山椿山仙禅師 開基平澤院来山正本大居士
開創安土桃山時代天正15年(1587)
廣済寺を建立された開基は、平沢村名主八郎左衛門の先祖とされています。 創建当時の境内には三間四方の阿弥陀堂がありました。
文政3年(1820)の大火で山門を残しすべて焼失したものの、天保7年(1836)すぐに再建されました。
昭和24年(1949)羅災により再び本堂、庫裏を焼失。その後、平成6年(1994)檀信徒が力を合わせ旧姿に復しました。以来、この地域の信心・信仰の道場として今日に至っております」とあった。

玉泉寺
広済寺を離れ、本日最後の目的地である二宮神社の湧水に向かう。都道168号と都道7号がT字に合わさる二宮神社交差点に向け成り行きで歩いていると、これまた品のいいお寺様があった。天台宗・玉泉寺とある。ちょっと立ち寄り。仁王様が佇む赤い仁王門を潜り境内に入り、落ち着いた雰囲気の本堂にお参り。境内には醤油樽の中に安置された恵比寿さま、観音さまなどがあった。地元の早川醤油の樽を使ったもののよう。
そういえば、仁王さんも常のごとくの剣の替りに、赤子を抱き鳩が頭上にといったもの。酒樽にしろ仁王様にしろ、家光から寺領20石の御朱印状を賜り、信州善光寺の別院として秋川流域の浄土信仰の中心であったという伝統だけに囚われない洒脱さが心地よい。
本堂には明治の頃、成田山より遷座された不動明王が安置され、ために当寺は秋川不動尊とも称されるようである。



二宮神社のお池; 東京都あきる野市二宮2252
二宮神社交差点から都道168号を南に下るとほどなく道の東側に大きな池がある。この地には一度訪れたことがある。その時は湧水が目的ではなく、武蔵六宮のひとつ、道の西側にある二宮神社が目的であったのだが、大きく清冽な湧水池に結構嬉しくなった。
湧水池は誠に大きい。水は枯れることがないと言う。池の底から湧出しているとのことだが、大きな池からなんとなく「不自然」に、細長く都道方向に延びる箇所がある。また、都道から池に水路が続き、都道脇の石組みの中に造られた管からも水が流れ出しているように見える。
『報告書』には「秋留原面下・崖地」とある。道の西側、二宮神社は崖上に鎮座する。秋留原面と小川面を画する二宮神社の崖地の「何処から」か湧出しているのではあろうが、湧出点ははっきりとは確認できなかった。
湧水池は日本武尊(やまとたけるのみこと)が国常立尊(くにたちのみこと)を祀ったところ水が湧き出た、と伝わる。国常立尊は水の神さまである。公園となっている湧水池からは水路となって水が東に流れている。特に水路に名はないようだ。

二宮神
神社の案内;創立年代不詳。小川大明神とか二宮大明神と呼ばれていた。小川大明神の由来は、古来この地が小川郷と呼ばれていたため。二宮大明神の由来は、武蔵総社六所宮の第二神座であった、ため。二宮神社となったのは明治になって、から。
この神社には、藤原秀郷にまつわる由来がある。秀郷は天慶の乱に際し、戦勝祈願のためこの神社におまいりした、と。故郷にある山王二十一社のうち二宮を尊崇していたため、である。天慶の乱とは平将門の乱のこと。
またこの神社は、源頼朝、北条氏政といった武将からも篤い信仰を寄せられていた。滝山城主となった北条氏照も、ここを祈願所としている。
武蔵一の宮である小野神社の周囲には小野牧があった。この二宮のある小川郷にも小川牧がある。因果関係は定かではないが、馬の飼育・管理と中央政府の結びつきってなんらかインパクトのある関係だったのではなかろうか。実際小野牧に栄転した小野氏も、それ以前は秩父での牧の経営で実績をあげての異動であったように思える。
藤原秀郷と二宮のかかわりは、母が近江の山王権現に祈願して授かった子、であったため。山王二十一社とは、 上七社・中七社・下七社の総称。そのなかでも特に重要な位置を占める上七社は大宮・二宮・聖真子・八王子・客人・十禅師・三宮である。秀郷は二宮にお願いして生まれたのであろう、か。
武蔵六社
武蔵六宮とは一宮・小野神社、二宮は小川・小河神社(現二宮神社、東京都あきる野市)、三宮は氷川神社(のち一宮。さいたま市)、四宮は秩父神社(埼玉県秩父市)、五宮は金鑽神社(埼玉県神川町)、六宮は杉山神社(横浜市)である。
大石氏
二宮神社の地は大石氏の館があったところ、と。『武蔵野 古寺と古城と泉;桜井正信(有峰書店)』によれば、貞和年間(1345年)鎌倉幕府の命により、木曽義仲の七代の孫・大石信重が築いた、とか。信濃国佐久郡、大石郷から移ってきた、とも。正平11年(1356年)には入間・多摩郡のうち、13郷を領している。
大石氏はこの二宮神社の南に館を構えた。正平11年(1356年)から至徳元年(1384年)の間の28年間である。その後、陣場山麓上恩方案下に山城を築く。甲斐の武田信玄に対して西の備えとしたわけだ。この恩方城に至徳元年(1384年)から長禄2年(1458年)までの74年間居を構え、鎌倉公方持氏の滅亡、足利成氏と長尾影春の戦いなど、戦乱の巷を乗り切った。
二宮考古館
二宮神社にお参りし、その傍にある「二宮考古館」に久しぶりに立ち寄る。二宮神社周辺の遺跡や、市内で発掘された土器、石器などが展示されている。先回訪れた時に考古館で購入した『五日市町の古道と地名』は、その後の秋川筋の散歩で誠に役にたった。先人の研究に深謝。

これで秋留台地段丘の湧水散歩も平井川筋を残すのみ。お楽しみは次回に廻し五日市線・東秋留駅に向かい、一路家路へと。