水曜日, 11月 03, 2021

予土往還 土佐街道・松山街道⑫ ; 高岡郡日高村から高知城下思案橋番所跡まで

先回は予土往還の山越え部をクリアした高岡郡越知町堂ノ岡より高岡郡日高村までメモした。ルートは堂ノ岡より越知の町に入り、赤土峠を越えて高岡郡佐川町に入り、土佐藩筆頭家老深尾氏の領地であった落ち着いた佐川の町を少し彷徨った後、予土往還の道筋とされる国道33号を通ることなく、土佐藩松山征討軍の進路でもあり、往昔の松山街道に架かっていた大岩が残されると言う海津見神社の鎮座する県道297号を辿り高岡郡日高村入口まで辿った。
今回は日高村から吾川郡いの町を経て高知城下の西の番所、思案橋番所跡までをつなぐ。その間、国道を阻む丘陵が3カ所ある。今の建設工事の技術であれば丘陵を切り崩し、トンネルを抜きと、どうといった丘陵ではないだろうが、往昔の丘陵越えは難路であったろうと、丘陵に向き合うたびに往昔の往還道としては丘陵を迂回したろうか、難路でも丘陵を越えただろうかとほとんど妄想で道筋を選び先を進み、最終地点である思案橋番所を繋いだ。ために、資料がなかったとはいえ、予土往還を歩き終えたといった感慨は今ひとつといったところではある。
何故に資料が少ないのか、それとも単に見つけられなかっただけなのか、それもはっきりしない。先回もメモしたように、予土往還を辿ると言うのは少々面映いが、とりあえずメモをはじめる。


日のルート;高岡郡日高村から高知市へ
高岡郡日高村から吾川郡いの町へ
日高村の調整池>日高橋の東、丘陵部を迂回>小村神社>丘陵部を迂回>吾川郡いの町・国道33号に戻る>仁淀川>椙本神社>いの町の中心地へ
吾川郡いの町から高知市へ
国道194号(国道33号並走区間)に合流>高知西バイパスを越え高知市域へ>咥内(こうない)坂>朝倉駅前より旧国道筋に入る>鏡川橋を渡り「とさでん蛍橋停留場」手前を右に逸れ思案橋跡へ>思案橋番所跡案内


高岡郡日高村から高知市へ

高岡郡日高村から吾川郡いの町へ

先回の散歩でメモした海津見神社の先、土佐加茂駅を越えると高岡郡佐川町を離れ高岡郡日高村に入る。日高村は(1954年)、 日下村・能津村および加茂村の一部が合併して発足。村名は「日本」と「高知県」から1文字ずつ取ったことに由来する、とある(Wikipediaより)。日は日下からかともおもったのだが、それは合併に際して他の村からの異議が出そう。日本の高知の村。人口5000名弱。町になる要件は人口8000名とも5000名とも言われる。

日下調整池
高岡郡日高村に入ると、道の右手の日下川は一見里池とも見える大きな湿地が見える。案内には「内陸型洪水調整池」とある。地図を見るとその東で日下川に合流する戸梶川にも調整池が整備されている。これってなんだろう。
チェックすると、日下川の低平地部は、仁淀川との合流点より上流に向かって堤内地盤が低くなる極めて特殊な“低奥型地形”となっており、また日下川が緩勾配であるため水はけが悪く、仁淀川本川の水位上昇の影響などを受け、内水氾濫を引き起こしやすい地形特性となっている。更に日下川と仁淀川の合流点では丘陵が南に突き出し、仁淀川が大きく蛇行している。仁淀川の水が「滞留」しやすいような流路ともなっている。
この地形特性に加えて野中兼山による治水事業が仁淀川の河床上昇・水位上昇に輪をかけることになる。藩政時代の慶安元年(1648)より6年の歳月をかけ日下川が仁淀川に合流する少し下流、仁淀川左岸の地を潤すため設けられた八田堰、承応3年(1654)より2年の月日をかけて、八田堰上流に設けられ仁淀川右岸を潤すことになる鎌田堰により仁淀川の河床が上昇し、逆流による内水氾濫が多発することになったと言う。仁淀川流域は全国屈指の多雨地帯でもあり、仁淀川の水位が上昇すると甚だしく、その度に日下川流域の日高村は内陸型洪水被害に悩まされた。
昭和に入ってもその状況は大きく変わらない。昭和30年(1955)には日下川下流域に日下放水路隧道工事を計画し、昭和35年(1960)に完成。日下川に溢れた水を3キロ弱トンネルを通し八田堰下流で仁淀川に水を流す対策を施工するも、昭和50年(1975)8月台風第5号による洪水では日高村の平野部のほぼ全域が水没し、また昭和51年(1976)9月台風第17号による洪水でも前年と同規模の被害が発生。その他の台風でも床上浸水被害が頻発している。
その間、昭和50年(1975)には二本目の放水路を計画。日下川治水抜工事(派川日下川)を行い、これも八田堰下流南の谷に水を逃がすといった工事が行われているが、それでも洪水を防ぐことができず、平成26年(2014)の台風12号で日高村の浸水、国道通行止め・土讃線不通といった被害が出たため、内陸型洪水への対策として、平成29年(2017)より3本目の放水路トンネル、日下川から東へ5キロ以上の放水路トンネルを抜き八田堰近くで仁淀川に落とす計画(日下川新規放水路)が進んでいるようである。
あまりに自然な景観を呈する調整池より話が広がってしまった。この辺りにしてさ、先に進む。

日高橋の東、丘陵部を迂回
日下橋先の丘陵を迂回
日下川に戸梶川が合流する箇所に架かる日高橋を渡ると、その先に丘陵部がある。予土往還の道筋についてちょっと悩む。地図には国道33号を松山街道としているのだが、丘陵部を抜ける土讃線・国道が如何にも坂を切り下げ、切通しとしたように思える。荷馬車往来を常とする平地の往還としえだては坂の丘陵を越えるより、少し遠回りでも丘陵部を迂回するのではないだろうか。何かそれを証するエビデンスは?
チェックすると土讃線は大正13年(1924)3月30日に須崎・日下駅間が開通し、日下駅が終点となっている。そして日下・高知間が開通したのが同年11月15日。何故に日下を終点としたのだろうか。諸要因は不明のため地形だけで判断すれば、日高村から高知まで3カ所、道を遮る丘陵地があり、それぞれ国道を抜くために困難に直面したようである。この丘陵もそのひとつ。とすれば、確たる根拠はないが、往昔の往還はなんとなく丘陵部を迂回するのではと思えて来た。
実際、『日高村史』には、「(1961年(昭和36年)国道橋及び鉄橋の工事困難を極め、七月に入りて漸く完成。正寺岡橋・福良橋間、戸梶川下流域柿の木畑岡花の切り取り工事に着手」とある。正寺岡橋は国道33号・日下川に架かる日下橋の一筋下流に架かる。福良川はその下流にあり、この文字面だけで見れば、旧国道は丘陵部を迂回しているようにも思える。
で、正寺岡橋をもう少し深堀すると、この橋は藩政期、日下大橋と称され橋の袂には日下大橋番所があったとのこと。どうも往昔の予土往還は丘陵部を迂回していたように思える。
因みに、これも確たる根拠ではないが、予土往還の資料を探すため途次図書館に拠ったとき、気分転換に手に取った坂本龍馬脱藩の道として、丘陵を迂回し国道33号日高橋の一筋上流に架かる正寺岡橋を渡るルートが記されていた(書名は覚えていない)。土佐藩内の脱藩道に関する資料が残っているわけでもなく、推定ルートではあろうが、日下大橋番所跡を抜ける丘陵迂回ルートを辿ることにした。
日下川放水路呑口
日下川と戸梶川の合流点、日下橋の近くに日下川放水路の呑口がある。この放水路のことはメモの段階でわかったこと。水路フリークとしては寄ってみたい施設であるが、常の如く後の祭りであった。

小村神社
洪水多発地帯であったとすれば山裾の道を辿ったのであろうと、日下駅から北に山裾を進む道に入り、日下川に架かる正寺岡橋を渡り、道なりに鍛冶屋、福良の集落を辿り丘陵部を迂回し国道33号に出る。その直ぐ先、道の左手に小村(おむら)神社が建つ。
長い杉並木の参道の先に社殿。案内には「小村神社と牡丹杉(村文化財指定 昭和三十六年 人皇三十一代用命帝の二年、高岡の首(郡長のこと) と日下氏 (当時この付近を支配していた人)が、先祖の国常立命を祭って創建し御霊に環頭の大刀を奉納したと伝えられる国史現在社で、元国の安上官幣の御社であった。往古は土佐二の宮で、二の宮天神と称し日下の総鎮守である。祭神は国常立命で御神体は太刀である。
御神体の環頭大刀は国宝に、木造の菩薩面二点は重要文化財にいずれも一九三七年指定された。その他の社宝に南北朝時代の銅鏡三面 三十歌仙額、小野道風の書等がある。 社殿の背後に樹齢千年の燈明杉 又は牡丹杉と称する老杉がウッ蒼と天を摩し荘厳さを感じさせている。この杉の大木は下枝は杉葉であるが中程より上は檜がハクの葉様で稀れに見る珍種である。伝説によると宝永二年七月仁淀川大氾濫の夜、また安政元年の大地震の前晩、、日露戦役の時など何か異変ある時には杉の精に大きな霊火が欄々と懸ったとのことで、里人は神木として崇拝して来たものである」とある。
国史現在社
10世紀の初頭にまとめられた《延喜式》には,全国で2861の神社,3132座の神名が記載されているが,そこに見える神社を後世式内社(しきないしや)という。また式内社以外に六国史に名が記されている神社が391社あり,それらを国史現在社といった。こうした三千数百の神社は,国家が公認した特殊な勢力のある神社。。。」といった説明があった(「コトバンク」より)
〇六国史
官撰(かんせん)の6種の国史の総称。奈良・平安時代に編纂(へんさん)された『日本書紀』『続日本紀(しょくにほんぎ)』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳(もんとく)天皇実録』『日本三代実録』がそれである(「日本大百科全書」より)。
安上
案上?。案上とは祈年祭(としごいのまつり)、新嘗祭(にいなめのまつり)、月次祭(つきなみのまつり)などの時に、神祇官(じんぎかん)が社格の高い大社の幣帛(へいはく)を案上に置いて奉ること。また、その社。案は机の意(「コトバンク」より)。
国史現在社、案上共に、この社が由緒ある社であったということだろう。
仁井田神社
境内に摂社として仁井田神社が祀られる。予土往還の途次幾度かメモしたように仁井田神社は伊予の越智氏ゆかりの社である。
Wikipediaには「越智国造の小知命(小千命/乎致命)の墓が今治市の「日高」に伝わること等から、この小知命が当地に至り、国土開発の神として国常立命を祀り大刀を神体としたとする」とし、続けて「なお創建に関わる伝承として、元々は伊予国御三戸(現在の愛媛県上浮穴郡久万高原町の地名:おみど)に鎮座したが、洪水で流されて越知町宮地(古名を「小村」とする)に移り、さらに貞観3年(861年)秋に大洪水で大刀・社殿とも流れて神谷に、ついで日高村に移ったともいわれる」とあった。
何となく仁淀川水系をおさえた豪族との関連を感じさせる縁起である。

丘陵部を迂回
小村神社先の丘陵を迂回
小村神社社殿から国道33号に戻る。と、国道の前面は仁淀川に突き出た丘陵に遮られ、国道・土讃線は如何にも切通しといったところを抜けて行く。国道の南北を囲む最西端の丘陵の内、北側の丘陵は往昔、南の谷より仁淀川に注いだであろう感のある河川の流れによって切りとられた独立丘陵となっている。その独立丘陵は仁淀川まで突き出ているため、この丘陵を迂回することはできない。
南北を丘陵に挟まれた切通しを進み独立丘陵の東端に。ここでちょっと悩む。国道33号を直進するのか、それとも独立丘陵の東端とその東の丘陵部との間の「谷筋」を北に進み、丘陵部を迂回するのか、どちらが往昔の予土往還だろう。
国道33号は独立丘陵東端から下り気味となっておりそれほどの難路とはなっていないが、道路改修時には往々にして坂の切り下げが行われるので、現在の地形からだけでは往昔の丘陵部の姿の判断は難しい。
で、結局丘陵部を迂回することにした。確たる根拠はないのだが、上述図書館で見た龍馬脱藩時の道としては、この丘陵部を迂回しているということだけが迂回の因。脱藩の道といっても記録があるわけでもなく推定ルートであろうが、他に頼るべき資料もなく、取敢えず迂回ルートを選択した。

吾川郡いの町・国道33号に戻る
少し北に進み、これも仁淀川沿いに残る小さな独立丘陵を右に折れ先に進む。日高村より吾川郡いの町となった丘陵北側の道を進み茂地、波川北、宮ノ東の集落を抜け県道33号に戻る。
日下川・仁淀川合流点
地図に「日下川・仁淀川合流点」が記される。仁淀川沿いに残る小さな独立丘陵を右に折れず、仁淀川の川筋に進んだところである。当日は「日下川・仁淀川合流点」にどんな意味があるのか?とそのままパスしてしまったのだが、メモの段階でその合流点には昭和12年(1937)に造られた井筋への取水口があった。また、丘陵地を迂回しないで国道33号を進むと、取水口から取り込んだ用水路の開渠部が地図に記されている。これも、行きあたりばったりゆえの後の祭りとなった。
鎌田井筋
鎌田井筋は野中兼山の治水・利水事績のひとつ。仁淀川西岸、高岡郡を潤すため承応3(1654)年鎌田堰築造に着工。取水堰は現在の土讃線が仁淀川を渡る箇所に造られた。この堰の長さは545m(300間)、18.1m(10間)、高さ12.7m(7間)に及び、鎌田(右岸)に近いところに“水越し”を設け、ここを通過する舟筏で賑わい「鎌田堰の筏越し」として名高かったといのこと。現在その場に記念堰石碑が残る。
堰の工事は記録によると着工が承応3年(1654)、完成まで2ヵ年の歳月を要した、と。その後天和3年(1683)まで、おおよそ30年の歳月をかけ用水路を整備。鎌田井筋と呼ばれるその水路は、23㎞弱(5里24町32間)に及び、東岸に設けられた兼山の事績である八田、弘岡井筋と合わせると、幹流2、支流6となり、30年にも及ぶ井筋開削の結果、その延長48.32㎞、灌漑面積は1549ha(1549町4反4畝)もの大新田、沃野を作り出した。
なお、上述仁淀川の取水口は昭和12年(1937)、堰を築くことなく水門を設け、トンネルを掘り抜き、自然流水の方法に改築した。ために、約300年に近い歳月利用されてきた「鎌田堰」は昭和17年(1942)年をもって取り除かれることとなった。
鎌田井筋は現在ではほとんどその姿を留めず、土讃線鉄橋近くのいの町の川内小学校の東と仁淀川堤防の間に大きく掘削された井筋の跡が残っているのみ、という。
とは言うものの、土佐の歩き遍路の折、35番札所清瀧寺を訪ね土佐市高岡町を歩いたのだが、町中を縦横に走る用水路を鎌田井筋とする写真が結構あった。はてさて。

仁淀川
国道筋に戻り仁淀川を渡る。Wikipediaに拠れば、「四国の最高峰である石鎚山に源を発する面河川と、分水嶺である三坂峠から流れる久万川が、御三戸(愛媛県上浮穴郡久万高原町)で合流して形成される。四国山地に深いV字谷を刻みながら南下し、やがて高知県高知市/土佐市付近で太平洋へと注ぎ込む。
愛媛県内では面河川(おもごがわ)と呼ばれる。石鎚山などの源流から太平洋に注ぐ河口まで流路延長124km。吉野川・四万十川に次ぐ四国第三の河川で.水質は全国1位(2010年)で、水面が青く美しい「仁淀ブルー」と呼ばれる淵や滝壺などがある。
仁淀川の川名の由来は諸説あり、平城天皇の皇子であった高岳親王が土佐国(現在の高知県)に来た際、山城国(京都府南部)の淀川に似ているので「仁淀」と名付けたというもの、また有力な説としては、『延喜式』に貢ぎ物として「贄殿川」のアユが登場した。「贄殿」とは宮中の厨房で、諸国から魚などの貢ぎ物(贄)を納める所である。のちに贄殿川から転じて仁淀川になったというもの、更には古代の仁淀川は、大神に捧げる酒をこの川で醸造したことから、「神河」(みわがわ、三輪川)と呼ばれ、いつしか仁淀川となったと言われる」、といった由来説が記されていた。
今回の伊予の久万高原越ノ峠からはじめた予土往還の旅も、越ノ峠から山を越えた先で仁淀川水系面河川筋の七鳥に下り、そこから南下する面河川と分かれ黒滝峠・水ノ峠と山地を進み、一度仁淀川水系土居川の谷筋の町池川に下り、さらに山入りし鈴ヶ峠を越えて越知の堂ノ岡で四国山地を南流・東進・北流してきた仁淀川本流に再会。そこから越知の町、佐川の町を経てこの地で仁淀川に再々会した。予土往還は仁淀川が蛇行する四国山地を東北に突き切ってきた感がある。

椙本神社
釈超空の歌碑
仁淀川橋を渡ると国道33号は北から下ってきた国道194号との並走区間となる。直ぐ椙本神社。道に接する一の鳥居を潜るとすぐ二の鳥居。鳥居前に釈超空の歌碑。[いののかみ この川くまに よりたまひし 日を かたらへば ひとの ひさしき]と刻まれる。
釈超空は日本の民俗学者、国文学者、国語学者である折口 信夫(おりくち しのぶ(のぶを)の詩人・歌人として号である。
境内の案内には「いの大国さま 椙本神社 神社の創建は延暦 12年と伝えられ、「いのの大国さま」の名で親しまれる。財福、縁結び、商売繁盛の神として厚い信仰が寄せられる。神社には鎌倉時代の作「八角形漆塗神輿」(国重要文化財)が伝わり、高知県三大祭りの一つに数えられる秋の大祭には、神輿(複製)を先頭に、古式豊かなおなばれが町並みを練り歩く」とある。
大国さまとは祭神である大国主命ゆえであろうか。拝殿前に「さすり大国」さまの像が立つ。その姿は七福神の大黒さま。大国主が大黒さまと習合した所以であろう。
社伝では、祭神の事蹟は寛文六年(1666年)の仁淀川洪水で古記録が流失したため不詳ではあるが、大和の国三輪から神像を奉じて、阿波を経て吉野川を遡り、伊予国東川の山中に至り、その後、仁淀川洪水の時に河畔に流着したのを加治屋谷に斎き祀ったといわれているとのこと。 創祀は延暦十二年(793年)。その後、元慶年間(880年代)に現在地へ祀られるようになった。 いのの大国さまと称されて古くから上下の信仰を受けている。
伊予の東川・仁淀川水系の鍛冶屋谷
伊予の国東川ってどこだろう。予土往還を久万高原の越ノ峠から山を越え面河川の谷の七鳥に出たとき、そこから予土往還はふたつあり、ひとつは今回辿ってきた予土国境黒滝峠を抜ける通称、予土往還高山通り。もうひとつは現在の国道494号に沿って進む往還道。
で、この国道494号筋の往還国境の塩野峠(サレノ峠)を源流域とする「東川」があった。とはいえこの東川は??野川筋ではなく仁淀川水系。吉野川を遡上しても分水界を越えて仁淀川水系の東川に流れるにはちょっと大変。 また鍛冶屋谷もどこだろう。は仁淀川支流上八川川支流小川川枝支流西浦川支流鍛冶屋谷がある。 東川も鍛冶屋谷もどこなのかはっきりしないが、とりあえずチェックだけしておいた。吉野川から分水界を越えて仁淀川に乗り換えるのはちょっと難しそうに思えるが、縁起は縁起として「置いておく」べきか。

境内にあった案内板;
〇「伊野町保護文化財 第六一号 昭和六三年四月十八日指定
(歴史資料)椙本神社の宝物類 絵馬群
宝物類は宸筆額(天子の筆跡)をはじめ山内氏ゆかりと伝えられる茶釜、山内一豊の折紙、野中与左衛門の手紙、師子頭、田楽面その他計一四点。
絵馬群は正保四年(一六四七)中内甚右衛門奉納の彫刻銅版「つなぎ馬」安永八年(一七七九)藤原茂樹奉納「七福神」その他で計五九点。大正時代以降の奉納絵馬はすべて除外しています。 今次指定の絵馬は、奉献者が各年代各階層多方面にわたり、量、質共に多彩で県下随一と称されています。 信仰の歴史を探る貴重な資料であり、また美術工芸的な面での価値も高いとされております。
〇伊野町保護文化財 「第三八号 昭和五九年四月十一月七日指定
有形(絵画) 長谷川信秋の曽我物語 所有者 椙本神社
絵師信秋は長谷川等伯の族。正保三年(一六四六)の作品で奉納絵馬。画題は曽我物語の中の「朝比奈三郎草摺引の図」。設定大磯の長者の家。兄十郎を気づかつて駆けつけた曽我五郎を大力の朝比奈三郎が力任せに引き入れようとする場面である。
第三九郷昭和五九年四月十一月七日指定
有形(絵画)
吉井源太翁の富嶽
わが国製紙の功労者として知られる吉井源太翁、明治二三年(一八九〇)の作品で奉納絵馬。翁は早くから絵を嗜み、、楠瀬大枝のち徳弘董斉に南画を受けてよく山水の密画を残し、特に富縦にすぐれていた。絵馬には珍しい南画で一種の風格を備えた異色の作品である。
賑恤米記 田中光顕家訓
その他、「賑恤米記 田中光顕家訓」と記された案内のある石碑があった。賑恤(しんじゅつ)と読む。Wikipediaには「賑恤(しんじゅつ) 律令制において高齢者や病人、困窮者、その他鰥寡孤独(身寄りのない人々)に対して国家が稲穀や塩などの食料品や布や綿などの衣料品を支給する福祉制度、あるいは支給する行為そのものを指す」とある。
石碑に刻まれた文字をつぶさに読んだわけではないが、困窮者に対して二十四袋を頒」とか「以て社会政策上、其の功績の顕著・・」といった文字が読める。賑恤の心をその家訓としたということだろうか。「賑恤米記」「田中光顕家訓」で検索したがヒットせず詳細はわからない。

いの町の中心へと予土往還を進む
琴平神社参道東にとさ電の車止め
椙本神社を離れ先に進む。椙本神社で地図を見ると、国道33号から一筋東、町の中心に向かって進む道の地図上に「松山街道」の文字が記され、カクカクと曲がりながら町の中心部に向かう。いの町役場前を通り、琴平神社参道前に出ると、その東に線路の車止め。先にとさ電の軌道が続く。
和紙発祥の地
いのは土佐和紙発祥の町として知られる。伊野村に紙漉きの技術がもたらされた時期は長曾我部氏の頃と言われ、秀吉の四国征伐後土佐に山内一豊が入国した際には、七色紙の和紙が献上されたという。
伊野村に商家が建ちはじめたのは野中兼山の治水事業により洪水の危険が緩和された頃と言われる。元禄年間の初めころ(17世紀末)椙本神社の門前に商業集落が形成された、と。
商家の中でも紙を取り扱う商人の増加は目覚ましく、土佐藩御用紙漉きの地として24軒の業者が選ばれ、幕府への献上紙や御用紙漉きを命ぜられ、その屋号は130を越えたという。
明治になると藩政の縛りから解放されたゆえか、明治12年(1879)の記録には伊野村の総戸数810戸であり、その内紙漉き253戸、諸卸商43戸、諸小売商61戸と「和紙の町」となっている。 いの町の案内に「始まりの町」とあり、現在では日本最古となった路面電車が、明治41年(1908)伊野町まで開通したとあったが、これも和紙などの物資を高知港に運ぶためでもあったと言われる。 また、伊野村は紙漉きだけでなく、近世後期には在郷町として発展したとされるが、それは仁淀川水運の発達により上流の物資が集散地となったゆえとのこと。現在も天神地区、また旧市街には往昔の繁栄を誇った商家の町並みが残ると言う。
在郷町
「在郷(ざいごう、ざいきょう)」とは、「田舎」「農村部」を意味する。つまり在郷町とは、農村の中に形成された町場を意味する。主要な街道・水運航路が通る農村においては、その街道沿いに形成されている場合もある(Wikipedia)。
吾川郡いの町
吾川郡いの町の行政域は南北に長い。土佐街道歩きのため愛媛県西条市から国道194号に乗り、5キロ以上もある寒風山トンネルを抜けると吾川郡いの町に入る。吉野川水系の谷筋を進み、仁淀川水系の分水界となる山稜を越えるといった、四国の水系を代表するふたつの水系を南下し高知市と境を接する区域までをその町域とする。人口も高知の町村では最大の2万名以上からなるとのことである。
平成16年(2004年)吾川郡伊野町、吾北村、土佐郡本川村が合併(新設合併)し誕生。その際、現在の平仮名表記になった。


吾川郡いの町から高知市へ

国道194号(国道33号並走区間)に合流
とさ電・伊野停留場
琴平神社参道脇の電車車止めのすぐ先に停留場。とさでん交通の伊野停留場。明治41年(1908)、土佐電気鉄道(とさでん交通の前身)伊野線として伊野と高知間が開業し、伊野で生産された紙が高知港へと運ばれた。貨物列車も運行され、製品や原材料の輸送が行われていたが昭和20年(1945)ごろに廃止された。
停留所の東から北に延びる線路が見える。開業当初から平成11年(1999)まであった車庫への留置線だろう。その直ぐ先に伊野駅前停留場。大正13年(1924)土讃線伊野駅の開業に合わせて開業した。
土佐電気鉄道株式会社(とさでんきてつどう)
かつて高知県高知市にあった路面電車と、路線バスを運営していた会社。平成26年(2014)10月1日より、高知県交通・土佐電ドリームサービスとともにとさでん交通株式会社へ事業統合した(Wikipedia)。

高知西バイパスを越え高知市域へ
高知西バイパスを越えると構内坂の丘陵
土讃線伊野駅の少し東で合流した国道194号(国道33号並走区間)を東に進む。道の南を流れていた宇治川は枝川駅手前で道の北側に移る。上述日下川と同じく、この宇治川も平地部の地盤が奥に行くに従って低くなり、三方を山で囲まれた内水の溜まりやすい鍋底地形。それに加え、川床勾配が極めて緩く、内水氾濫が頻発したようである。日下川流域がそうであったように、昭和50年(1975)の台風5号では甚大な被害を蒙ったとのことである。
先に進むと前面を丘陵が阻む。その手前、国道は高知西バイパスとして北に向かう。災害による通行止めや交通渋滞の解消のため、昭和49年(1974)4月に高知市鴨部~いの町波川間9.8kmを事業化。平成3年(1991)2月に米田(高知西)トンネル(635m)が貫通し、平成9年(1997)12月に開通、供用開始した。
旧国道は高知西バイパスより先は県道386号となり丘陵切通し部の咥内坂へと向かう。咥内坂はいの町と高知市の境となっている。

咥内(こうない)坂
咥内坂(左・とさ電、中央・高知道、右・土讃線)
丘陵切通状の咥内坂には南北に高知自動車道、東西に県道、土讃線、とさでん交通伊野線が通る。現在は戦後の道路改修工事により峠部が数メートル切り下げられており、なんということのない「峠」ではあるが、明治時代以前は伊野と高知の間を遮る唯一の難所として、旅人、また紙の原材料や紙製品の往来にとって大きな難所となっていた、と。
明治になり現在の国道の前身である道が開かれ、峠に向かって蛇行しながら上り峠を越えていたようである。また峠部には明治時代の土佐電鉄伊野線開通時に開削された咥内坂隧道があり、その狭さゆえに輸送上の問題を抱えていた、と。
で、戦後、昭和33年(1958)から37年(1962)にかけて改良工事が行われ、峠部を切り下げ隧道を撤去し、国道と電車軌道の直線化を行ったとのことである。
丘陵迂回路
咥内坂の丘陵
で、ここでちょっと悩む。往還道としてこの難路と言われる峠を牛馬が往来したのだろうか。どこか咥内坂を迂回する道はないだろうか?チェックすると咥内坂の北、宇治川の上流部に切通し状の地形があり、高知自動車道が丘陵を抜けている。高知自動車道が整備される以前、国土地理院の昭和50年(1975)の地図には丘陵を蛇行しながら越える道は見えるが、切通しは地図に無い。切通しは高知自動車道工事の折に開削されたもののように思える(根拠はない)。
予土往還ではないようには思えるが、取敢えず丘陵越えの風情が如何なるものか、予土往還の痕跡でもないものかと寄り道することに。
昭和50年(1975)の地図
切通しは見られない(国土地理院)
成り行きで山裾の道に入り宇治川の上流域へと向かい高知自動車道が丘陵を抜ける箇所に着く。高知自動車道に沿って2車線の車道が丘陵を上る。地形図でチェックすると比高差20mほどありそうだ。旧道らしきもの、予土往還の「何か」を示すものは何もない。
いの町と高知市を隔てる丘陵は東西南北に幅広く、元の国道筋に復帰するには結構な遠回りとなる。高知自動車道開通以前の蛇行する丘陵越えの坂を上り、大きく遠回りするくらいなら、難路であっても咥内坂を越えた方がよさげな気がする。予土往還は咥内坂越えの道筋であろうと思い込み、元に戻る。
八代八幡八代の舞台
地図を見ると、迂回丘陵越えの近く、宇治川の北の山裾に八代八幡がある。そこの神楽殿は国の重要有形民俗文化財に指定されている、と。上述の如く迂回路チェックの道を八代神社に続く山裾の道を辿ったのはこの故でもある。
当日は神楽殿は修繕工事のようで見ることはできなかった。境内の案内はふたつあり、
ひとつは「国指定 重要有形民俗文化財 「八代の舞台」
指定の日昭和五十一年八月
八代の舞台
神楽殿は、約百年前に再建された歌舞伎廻り舞台で、昔のままの素ぼくなる姿態、稚拙な形式装置を残しており、全国でも珍しく糞重な文化の資料である。舞台は皿回式、二重台。
太夫座、花道 、スッボン等を有している。毎年、地芝居を上演する農村舞台の一典型をなすもので、独特な存在である。この舞台を通じて神祭の日(十一月五日)土地の老若男女が相集い、共に豊作を祝い日頃の労苦を忘れ、遊び戯れた平和で素ほくな昔の人々の生活が偲ばれる」と。
もうひとつには「国指定重要有形民俗文化財 「八代の舞台」
指定の日 昭和五十一年八月二十三日
この舞台は昔、神楽殿として神楽が奉納されていたが、徳川時代後期、全国的な歌舞伎流行のとき、「氏神様は芝居がお好き」とて歌舞伎奉納が行われ、以来、氏子の若い衆により十一月五日の神祭の夜、毎年演じられ、神も人も老若男女共に楽しむ。
舞台の構造は皿回式、二重台、太大座、花道、スッポン等を有し、建設以来星霜数百年旧時の姿をとどめ素朴古拙も変わる事無し、演技これに相応しき姿をとどめる。全国的に珍重すべき存在の文化財である 伊野町教育委員会」とあった。
「伊野町」と漢字表記であるのは、平成の合併により「いの」となる以前に立てられ故であろう。

朝倉駅前より旧国道筋に入る
朝倉駅前からとさ電路線道に逸れる
咥内坂の切通部を抜けると、とさでん咥内停留場。明治40年(1907)、土佐電気鉄道の堀詰(高知市本町)から咥内停留場までが開通した。難所である咥内坂故に、伊野と枝川間を先に開業し、咥内坂改良工事を終え、高知・伊野間が開通したのは翌明治41年(1908)。
路面電車の軌道が走る県道386号を東進し、土讃線朝倉駅前でとさでん路線は県道386号から分かれ右に逸れ朝倉駅前停留場に。とさでんが走る路線が旧国道とのこと。
朝倉城址
朝倉駅南の丘陵に朝倉城址。四国山地の真ん中、現在の長岡郡本山に城を構えた本山氏が土佐中央部へと侵出の橋頭保として築いた城。天文元年(1532年)頃とも言われる。
その後、長宗我部氏や土佐一条氏と土佐一国の覇権をめぐり抗争するも、永禄5年(1562年)に長宗我部元親が攻城。これを撃退するも翌永禄6年(1563年)に本山城に退去。城は退去時に焼かれ、廃城となった。
土佐一条氏
土佐国の西部、幡多郡を拠点とした戦国大名で、一条家が、応仁の乱を避けて京から下向したことに始まる。幡多郡に土着後も土佐にありながら高い官位を有し、戦国時代の間、土佐国の主要七国人(「土佐七雄」)の盟主的地位にあった。伊予国への外征も積極的に行うが、伸長した長宗我部氏の勢いに呑まれて断絶した(Wikipediaより)。

鏡川橋を渡り「とさでん蛍橋停留場」手前を右に逸れ思案橋跡へ
用水路に沿って思案橋へ
とさでんの走る旧国道筋を東進し鏡川を渡る。地図を見ると、とさでん蛍橋停留場の少し手前より右にそれる道筋に「松山街道」と記載され、その先で思案橋に繋がっている。思案橋傍には高知城の西の出口、伊予に繋がる街道始点でもある思案橋番所があったとのことであり、予土往還はこの道筋であったのだろうと蛍橋場手前で道を右に逸れる。
国道を右に逸れると直ぐ、道の左手に用水路。フェンスに遮られた用水路に沿って道なりに東進。 鏡川に架かる新月橋から北に延びる県道37号と交差する西詰めに思案橋跡。半分埋没した状態で残っていた。

思案橋番所跡案内
思案橋
交差点を越えると、水路は道の真ん中を東進。30mほど進んだところに高知城下の案内と共に「思案橋番所」の案内。「歴史の道史跡案内-6  思案橋番所しあんばし ばんしょ  上町5丁目、新月橋の通り周辺には、旧水通町の思案橋や秋葉神社、水丁場の石碑や観音堂など、藩政時代の名残があちらこちらに残っています。
思案橋は城下町の最も西に位置し、町と周辺を区切る水路に架けられた橋です。ここに西出入口として城下三番所の一つである思案橋番所が置かれていました。
橋名の由来は、城下町へ入る際に南の通りにしようか、それとも北の本丁筋にしようか、いっそのこと中央の水通町を通ろうか、と3本の道を前にして思案したため、と伝えられています。ここは、伊予方面への街道筋にあたり、たくさんの旅人が往来したことでしょう。
また、この街道北側には水路が流れています。この清らかな水が流れていることからこの付近は玉水という名で呼ばれていました。この水は城下町に入ると上町ではいろいろな製品を作るために、郭中では生活用水として使われた生活に密着した用水路でした。以来、「水通の川」として地域の人々に親しまれています。なお、小説でも有名な料亭である陽暉楼は、明治期にこの付近にでき、隆盛を極めました。
思案橋番所案内板(水路道)
すぐ近くの鏡川北岸の堤防には、藩政時代の水防活動を物語る水丁場の石碑が現在でも残っています。ここから下町の雑喉場橋までの間を12の区域に分け、武士、町人ともに水防活動にあたりました。
水丁場の石碑のそばには観音堂があります。もとは平安時代の大同2年(807)に井口村(現在の井口町付近)に建てられたと伝えられており、後にこの地に移されました。本尊は十一面観音です。観音堂にはお供え物が絶えることもなく、地元の方々によって大切に祀られています」とある。
案内に「玉水」とあったが、そこには玉水新地と呼ばれる遊郭があったとも。悪所に行こうかどうしよううかと思案した、とは勘ぐり過ぎか。
上町・郭町・下町
高知城下はお城を中心とした重臣が住む郭町、その西の家臣と商人・職人の住む上町、郭町の東の家臣と商人・職人の住む下町に分かれていた。
水丁場
国分川、久万川、鏡川などの河川が織りなすかつての氾濫平野、三角州に立地する高知城下はデルタ地帯故の治水施策が重要であった。
その施策は大きく分けてふたつに分かれる。ひとつは城下の北から浦戸湾に流れ込む河川への治水事業。久万川、国分川、舟入川がこれにあたる。もうひとつは城下町の南を流れる鏡川の対策である。
国分川、舟入川、久万川の治水対策
国分川や舟入川には霞堤とか水越(越流堤)が目につく。これらの堤は洪水を防ぐというより、洪水時には水が堤防を越ることをあらかじめ想定し、その下流を水没させ、中堤(水張堤)により一帯を遊水池とすることを目する。河川上流部を水没されることにより河口部の洪水を抑制し、城下町を護るといった治水施策をとっているようだ。国分川水系の洪水をそのまま河口部まで流すと鏡川などの城下町を流れる川の水位が上がり、逆流現象が起き水が城下に流れ込むのを防ぐこととも意図しているのではないだろうか。
久万川には洪水を防ぐ中堤(水張堤)が見られる。支流からの洪水が久万川に流れ込み久万川の水位が上がるのを防いでいるのだろうか。
洪水に対しては防ぐというよりは、堤防を越水させて遊水池となし、洪水が一挙に流下するのを抑え、それにより下流域の被害を少なく抑える「伊奈流」関東流と呼ばれる越流堤の治水施策となっている。
鏡川の治水対策
一方鏡川の城下町に対する治水対策は極めてシンプルである。洪水になれば鏡川右岸(南側)の堤が決壊し(いざとなれば人為的にでも「切る」)、鏡川の南一帯を水没させることにより、北側の城下町を洪水から防ぐ、というもの。
寛文 元 年(1661 年)から安政4 年(1857 年)の約 200 年間に 17 回、鏡川南岸の潮江堤防の決壊記録が残っている。一方、鏡川北岸の堤防決壊の記録はない。城下町を守るため、鏡川右岸堤防を鏡川左岸堤防なみに強く高く築くことをせず、城下側堤防よりも低く強度もいくらか弱めに築いていたとも言われる。事実、鏡川北岸には下述の上町あたりから「大堤防」、郭中から下町にかけては「郭中堤防」が築かれているが。南岸にはこれといって名前のついた堤防は見当たらない。
水丁場
水丁場標識(高知市の資料より)
上町(家臣と商人・職人)・郭中(城と重臣)・下町(家臣と商人・職人)からなる城下町を12の区画に分け、水帳場と呼ばれる受け持ち区画には標柱が立っていたとある。高知市鷹匠町(柳原橋西)に残る標柱の案内には「この石柱は、江戸時代、鏡川流域の洪水による災害を防ぐために設けられた受け持ちの区域(丁場)の境界を示す標柱です。
西は、上町の観音堂より、東は喉場に至る鏡川沿いの堤防に、この丁場を示す標柱が建てられ、出水時には武士、町人らが協力して、十二に分かれた丁場を十二の組が出動して水防にあたりました。各組の長は家老があたり、その下に組頭がおり、組を率いていました。水丁場には、目盛りをつけた標本も建てられており、これで増水状態を確認しながら、その程度に応じて、出勤の人数を決めていたといわれています。他に同様の標柱が、上町二丁目・上町五丁目にのこっています」とある。標柱には「従是西六丁場、従是東七ノ丁場」 と刻まれる。
上町上流端に中堤(水張堤)、上町と郭中の間には升形堤防と呼ばれる中堤(水張堤)、郭中と上町の間にも中堤(水張堤)、さらにその東、下町の下流端にも比島中堤、宝永堤といった中堤(水張堤)が築かれ城下町への浸水に対処しているようである。

これで伊予の久万高原町の越ノ峠から始めた予土往還、伊予から土佐へと向かったわけだから土佐街道と呼ぶのがいいかとも思うが、その藪の激しい山間部を越え、越知の町から平地を辿り高知城下まで繋いだ。山間部はそれなりに資料もあり、土佐街道を歩いた感はあるが、越知から先、高知まではほんの一部を除き確たる旧路資料がみつからず、ほぼ成り行きで辿るしかなく、なんとなくしっくりこない締めとなってしまった。
当初はその予定はなかったのだが、「確」たる予土往還を歩き街道歩きを締めくくりたいとの思いもあり、調査がなされ旧予土往還の旧路が比定されている伊予の越ノ峠から三坂峠、その先松山まで繋いでみようかと思い始めた。

火曜日, 11月 02, 2021

予土往還 土佐街道・松山街道⑪ ; 高岡郡越知町横畠の堂ノ岡から高岡郡日高村へ

愛媛県上浮穴郡久万高原町の越ノ峠からはじめた予土往還 土佐街道・松山街道の山越え部も先回で終了。後は仁淀川本流の谷筋の高岡郡越知町横畠の堂ノ岡から高知城下を繋ぐだけとなった。道筋は仁淀川本流に面する横畠の堂ノ岡からはじめ、仁淀川を渡り越知の町に。越知町と高岡郡佐川町の境を画する赤土峠呼ばれる標高140mほどの丘陵(比高差70mほど)を抜けた後は仁淀川水系の谷筋を辿り高岡郡日高村を経て吾川郡いの町に入る。
越知の町より蛇行をくりかえし北流・東進、そして南下してきた仁淀川本流を渡りいの町を抜けると高知市。その先鏡川水系・鏡川本流を渡り高知城下に入り土佐藩の西の番所・思案橋番所に至る。この間、峠越えらしき箇所は赤土峠のみ。それも比高差70mほどの「可愛い」ものであり、その他はいくつかの丘陵はあるものの、概ね平坦な道を進むことになる。
と、ザックリとした道筋を示したが、堂ノ岡から先の予土往還 土佐街道・松山街道に関する詳しい旧道ルート図はみつからない。ルート情報などないものかと途次図書館に立ち寄っては情報を探したのだが、これといった旧路図は見つからなかった。
で、今回のメモは予土往還 土佐街道・松山街道と称するにはちょっと面映い。資料にあった赤土峠は別にして、それ以外のルートは堂ノ岡から高知城下までの間、予土往還 土佐街道・松山街道の道筋にあったと記される越知町、佐川町、いの町を繋いだだけである。
町と町を繋ぐルートは、赤土峠やその他資料にあった僅かなポイントは辿るも、基本松山街道・土佐街道の道筋とされる国道33号を進むことにした。但し途中国道33号の道筋ではあるものの、如何にも丘陵部を堀割った切通し部らしき箇所は丘陵を迂回する道を辿った。その道筋が予土往還 土佐街道・松山街道という根拠はなにもないのだが、往昔牛馬が往来する街道はそれがあまりに遠回りとならないのであれば、雨などふった折のぬかるみの坂道となる丘陵越えは避けて平地を迂回するだろうと思っただけのことである。
また、現国道33号を大きく外れた道筋も辿った。その根拠は幕末の土佐藩松山討伐軍の進軍路。多くの軍勢・小荷駄が進むルートは当時の本道ではないだろうかと妄想したものである。

それにしても山越えを終え里道を辿るこのルートには予土往還 土佐街道・松山街道の資料、里程石といった史跡もほとんど見あたらなかった。同じ予土往還でも土佐北街道はそれなりに史跡や資料が残っていた。土佐北街道は土佐藩主参勤交代の道であったとはいうものの、この差の因は何なんだろう。
また予土往還の伊予側には久万高原町から松山までの里道(途中、片峠の三坂峠はあるが)については予算がついてのこととは思うが調査がなされ結構な史跡が残っている。この差も結構気になる。
藩政時代の土佐藩は人々の往来に厳しい制限を課し、公用以外の旅を認めることはなかったようである。公用であっても宿は指定され、江戸時代中期頃まで一般の人々向けの旅籠などもなかったと言われる。特に他藩との往来は厳しく制限されており、ために往還道利用者は極めて限られていたとのこと。このような土佐藩の政策も予土往還に関する資料が少ない一因だろうか。
とは言え、堂ノ岡から鈴ヶ峠までの予土往還の資料の充実ぶりと、その他の土佐藩内の資料の少なさ、そのギャップの因は何なのだろう。国の予算がつけば、その他の往還道も浮かび上がるのだろうか、それとも資料はあるが単に見付けられなかっただけなのだろうか。疑問がグルグルとループする。
ともあれ、大雑把というか確たるものではないのだが、予土往還 土佐街道・松山街道の山越え部をクリアした地より高知の城下までを2回に分けてトレースする。今回は堂ノ岡から越知の町を抜け、赤土峠を越えて佐川に。そしてその先、高岡郡日高村までをメモする。



本日のルート;
郡越知町町横畠の堂ノ岡から高岡郡日高町へ:
堂ノ岡から越知の町へ
高岡郡越知町横畠の堂ノ岡>今成トンネル手前を左に逸れる>中仁淀橋(沈下橋)>三つ尾の渡し跡>越知の町
高岡郡越知町から高岡郡佐川町へ
国道494号(国道33号)から旧国道分岐点>赤土峠>旧国道を逸れ土径に>川内ケ谷集落に道標>旧国道と国道合流点に石碑>佐川の町
高岡郡佐川町から高岡郡日高村へ
県道302号を右折し県道296号に>県道297号を海津見神社へ>土佐加茂駅を越え高岡郡日高村に

高岡郡越知町町横畠の堂ノ岡から高岡郡日高町へ

堂ノ岡から越知の町へ

高岡郡越知町横畠の堂ノ岡
予土往還の山越え部を終えた横畠の堂ノ岡より高知へと向かう。この地より山越え・鈴ヶ峠までは国の予算のもと、標識・史跡案内など予土往還のルート案内は整備されていたが、山越えを終え高知城下までの往還ルートは越知町と佐川町の境にある赤土峠を越える以外、はっきりした資料は見つからなかった。取敢えず成り行き任せで越知の町へと県道18号を進む。


今成トンネル手前を左に逸れる
今成トンネル手前を左に逸れる
県道18号を進むと今成トンネルがある。このトンネルの竣工は昭和58年1983)11月、初通過平成2年(1990)年とのこと。またトンネルを抜けた先、仁淀川に架かる横倉橋の開通は昭和63年(1988)と言う。この道筋が往昔の予土往還とは思えない。
と、今成トンネル手前に県道18号から左に逸れる道がある。道は仁淀川が大きく迂回する南に突き出た平坦地を南東に進み仁淀川を渡る。地図には中仁淀橋(沈下橋)とある。この道が予土往還であろうと道を進む。
今成
『土佐地名往来』には今成の由来として「「今」はもともと「新たに」という意味。今成は川の 蛇行地点に形成された河岸段丘。新たにできた土地の意」とある。

中仁淀橋(沈下橋)
橋の幅は対向通過できないこともないが、橋桁がないのが沈下橋。ちょっと怖いため、対岸に対向車がいなことを確認し沈下橋を渡る。
橋を渡り終えると途次幾度か出合った「旧松山街道」「旧松山街道まっぷ」が立つ。オンコースを確認。で、なにか往還道の目安などないものかと案内マップを見るが、越知の町を抜け赤土峠への道筋は概略表示のみ。成り行きで進むしかないようだ。

三つ尾の渡し跡
が、有り難い情報がひとつ。「松山街道まっぷ」に沈下橋南詰め傍に「三つ尾の渡し」の案内。「明治時代から舟運が発達し、越知町の市街地には上・中・下の3カ所に渡しがあった。下渡しは、旧松山街道の要で「三つ尾の渡し」とも呼ばれ通行量が多かった。
郡道開通予定に伴い中渡しが発展し、大正8年に下渡しは閉鎖されたが、往時を忍ぶ有志により記念碑が建てられている。その後、県道昇格により、昭和31年中渡しに沈下橋が完成した」とある。 


中渡しであった現在地より記念碑のあると言う「下渡し」に向かう。
少し東に歩くと「史跡 三尾の渡し」と刻まれた石碑。「昔仁淀川本流坂折川柳瀬川は現在の今成で合流し柴尾宇田(今成)と柳瀬川を挟んで越知村は北方に及んだ雑木林であった。
文明四年八月(一四七三)仁淀川の大洪水は妙見より南下し坂折川と合し越知村の北部と宇田を押流し未曾有の大惨事と供にに流勢を現在の如く変更した。それ以前の流が三ツの尾の形に似た所から越知を三尾村とも呼ばた。而して此処下渡しは高知松山の二大城下を結ぶ大街道の中間に位し舟運との交差点で往來物資の集散船場として繁栄し三ッ尾の渡しは有名な渡船場であった」とあった。
柳瀬川は沈下橋の下流、坂折川は地図には大桐川と記されていた。妙見の地名は地図にないが、今成トンネルをぬけた横倉橋傍に星神社がある。星と言えば妙見さんではなかろうかとチェック。この社に祀られる天之御中主神は、近世において天の中央の神ということから北極星の神格化である妙見菩薩と習合されたもの、とある。妙見さんとして一般の信仰の対象になったのだろう。なお、現在、天之御中主神を祀る神社の多くは、妙見社が明治期の神仏分離・廃仏毀釈運動の際に天之御中主神を祭神とする神社となったものとされる。案内に「妙見より南下し」とある妙見とはこの星神社のある辺りのことだろう。

越知の町
旧大川薬舗
谷脇旅館
三つ尾の渡し跡より沈下橋南詰めに戻り、越知の町並みへと成り行きで入る。昭和初期に建てられたと言われる旧大川薬舗(雛祭りの時期には明治・大正期の雛人形が飾られる、とか)、大正初期創業の谷脇旅館などが建つが、案内にあった往来物資集散船場として繁栄した往時の名残りを留めるそれらしき「町並み」は特段認められなかった。
ついでのことではあるので、越知の町に建つ峰興寺を訪ねることにした。堂ノ岡から薬師堂集落へと予土往還を辿る途次に出合った「峰興寺植樹林石碑」をきっかけにあれこれメモしたお寺さまである。国道494号との共有区間となっている国道33号を越え、町の南端、山地が平地に落ちる山裾に峰興寺が建っていた。
峰興寺
五輪塔群
本堂にお参り。本堂横に幾多の五輪塔が並び、十三重石塔も建つ。「峰興寺縁起」には「当寺はもと松山市豊田臨済宗妙心寺派興禅寺であり、寛永十二年中開祖密山演静大禅師 三河の国より迎え開山したと伝ふ、開基は徳川家康の異母弟松平定行*眞常院殿道賢勝山大居士である。松山藩主の菩提寺提寺として栄えていたが継新のあと起こった廃仏毀釈で衰退、名跡を惜しみときの佛海禅師 明治中頃官許を得て土佐越知町往古の寺屋敷に移転再建したもので県内外の信仰は智恵文殊である」とあった。
予土往還を歩きながら峰興寺にフックが掛ったのは、何故に松山からこの地に?ということ。その時のメモには;
「峰興寺 なぜ松山から高知の越知に?
越知は伊予の豪族越智氏の流れが南北朝時代、この越知一帯を支配していた、という。また峰興寺が再建された地にはかつて越智氏の菩提寺・円福寺が建っていたとの記事もあった。峰興寺が再建された越知の地が伊予と繋がりがあった、ということだけはわかったが、この地に再建された経緯は不詳。
十三重石塔(右端)

本尊の智慧の文殊菩薩への県内外からの信仰篤く、加持祈祷の専門道場として名高いというから、再建への動機は十分にあったようには思える」と記していた。
なお、境内に並ぶ幾多の五輪塔は南北朝から室町にかけてのものと言う。当時この地には古刹・円福寺が建っていたとのこと。縁起にある寺屋敷跡とは円福寺跡ということだろう(円福寺は文化年間(1804~1817年)の頃には既に越知の西、横倉山に退転していたとのこと)。五輪塔に使われる花崗岩はこの近辺にはなく遠く山陽路に求めなければならない。円福寺は越智氏の菩提寺とも言われるが(異説もある)、とすれば遠路、陸路・海路を運び建立する「力」があったと言うことだろう。
伊予の越智氏と土佐の越智氏
越智氏と言えば、堂ノ岡の旧松山街道の取り付き口に建つ仁井田五所神社も越智氏との関係浅からぬ社。最初に仁井田神社に出合ったのは土佐の遍路歩きの折、高知市仁井田であった。地名ともなっているその地に立派な仁井田神社があった。
その由緒などをチェックすると、『四万十町地名辞典』に、「仁井田」の由来については、浦戸湾に浮かぶツヅキ島に仁井田神社があり、由緒書きには次のように書かれてある、とする。
伊予の小千(後の越智)氏の祖、小千玉澄公が訳あって、土佐に来た際、現在の御畳瀬(私注;浦戸湾西岸の長浜の東端)付近に上陸。その後神託を得て窪川に移住し、先祖神六柱を五社に祀り、仁井田五社明神と称したという。
神託を得て窪川に移住とは?、『四万十町地名辞典』には続けて、「『高知県神社明細帳』の高岡神社の段に、伊予から土佐に来た玉澄が「高キ岡山ノ端ニ佳キ宮所アルベシ」の神勅により「海浜ノ石ヲ二個投ゲ石ノ止マル所ニ宮地」を探し進み「白髪ノ老翁」に会う。「予ハ仁井ト云モノナリ(中略)相伴ヒテ此仕出原山」に鎮奉しよう。この仁井翁、仁井の墾田から、「仁井田」となり。この玉澄、勧請の神社を仁井田大明神と言われるようになったとある」と記す。
仕出原山とは窪川の高岡神社(仁井田五社明神;四国遍路37番札所岩本寺の元札所)が鎮座する山。仁井田の由来は「仁井翁に出合い里の墾田」とする。
仁井田の由来については、伊予の小千玉澄公は『窪川歴史』に新田橘四郎玉澄とあるわけで、普通に考えれば仁井田は、「新田」橘四郎玉澄からの転化でろうと思うのだが、仁井翁を介在させることにより、より有難味を出そうとしたのだろうか。
それはともあれ、仁井田神社も伊予・越智氏とは深い関係があったことがわかる。とはいえ、土佐には33社ほどの仁井田神社があるわけで、越知が越智氏と深い関係があったとしても、何故峰興寺がこの越知に再建されたかは不明のままではある。
横倉山
横倉山(左)
上で円福寺が移ったとメモした横倉山。予土往還の途次出合った「合中(あいなか);八里塚と九里塚の真ん中。清水村と栂森村の街道普請の境の目安として置かれた」の実物標石を求めて横倉山自然の森博物館に出向いたのだが、この横倉山が修験の聖地であると共に、平家落人伝説の地でもあった。山麓上り口には「安徳天皇越知町陵墓」の石碑が建ち、山には「安徳天皇越知陵墓参考地」もある。安徳天皇が壇ノ浦で入水することなくこの地に逃れて来たと言う。横倉山自然の森博物館は安徳天皇の逃避行途次の行宮など伝説を「裏打ち」する資料が多く展示されていた。また山裾には仁井田神社も建っていた。

高岡郡越知町から高岡郡佐川町へ

越知の町を離れ佐川町との境を画する赤土峠へと向かう。峠とはいい条、標高140mほどの丘陵であり、国道494号と分岐する旧道からの比高差70mほど。道は舗装されており、Google Street Viewでチェックすると旧道は舗装されている。赤土峠の下を抜く国道494号(国道33号)赤土トンネルの完成は昭和33年(1958年)とされるから、それ以前の越知と佐川の往来はこの旧道で成っていたのだろうか。とはいえ道幅は車一台ギリギリ。上述赤土トンネル開削計画は昭和22年(1947)にはじまっているようであるから、その頃には越知と佐川の往来は車馬から車往来へと替わり始めていたのだろう。
赤土トンネル
昭和22年9月に赤土トンネル開さくが計画され、昭和26年1月に県営着工と決定され、佐川側トンネル入り口までの道路の付け替え工事が始まった。昭和27年5月に県営から国営に切り替え着手、佐川側南取り合わせ道路1,330m、幅員7.5mを昭和27年度に完成した。昭和28年度から越知町側北取り合わせ道路延長1,370mを完成させ、トンネル工事を南北入口から同時着工し、昭和33年4月に赤土トンネルが開通した。延長385mで、電灯が10m間隔に設置された。トンネル開通により、佐川~越知間は1.4km短縮された(「四国社会資本アーカイブス」より)。
赤土峠の道路改修は難工事であったよう。着工から開通まで7年近くかかっている。

赤土峠越え

国道494号(国道33号)から旧国道に入る
国道から右に逸れる
赤土峠へと越知の町を離れ国道を山間部へと進むと直ぐ右に分岐する箇所がある。曲がりくねった道を久万目川左岸を進むと行政区は越知町から佐川町に変わる。




石仏と「四国のみち」標識
三面石仏
国道からの合流点の「四国のみち」標識
分岐点から道を1キロ強歩き高度を50mほど上げると道の右手に三面石仏がある。摩耗が激しく文字は読めないが道中の無事を祈る、三面馬頭観音だろうか。なんとなくこの道筋が旧道であることを実感する。
その先直ぐ「四国のみち」の木標。国道から繋がっている。こちらが旧国道?わからない。また直ぐ先にも「四国のみち」の標識。これは赤土峠へと案内しているようだ。

赤土峠
ほどなく赤土峠。道脇に重機や車の置かれた作業小屋があり鞍部といった雰囲気はない。道の右手に石碑や案内板、小祠が建つ。案内には「脱藩志士集合之地」とあり、「元治元年(1864)、死を決した血盟の佐川勤王党五士が脱藩のため習合した地である。昭和14年(1939)この地に記念碑が建てられ、題字「脱藩志士集合之地」は元13代佐川領主男爵、深尾隆太郎の筆である。
題字の上に 
まごころの あかつち坂に まちあはせ いきてかへらぬ 誓なしてき
の青山 田中光顕の詩吟は、志士の心中をあますことなく伝えている」とあった。

青山は田中光顕の号。田中光顕の初名は浜田辰弥。土佐藩脱藩に際して田中光顕と改名したと言う。幕末、御一新の後も活躍し正二位、宮内大臣へと上る。

なお脱藩五士は浜田辰弥(田中光顕)の他大橋慎三、片岡利和、山中安敬と井原応輔。御一新後、大橋慎三は太政官大議生、片岡利和は侍従、山中安敬は宮中の雑掌となるも、ひとり井原応輔は元治二年(1865)中国諸国を遊説中、賊と間違われ自刃して果てた、と。

旧国道を逸れ土径に
木に括られた赤いリボン
旧国道から逸れる土径下り口
赤土峠を離れ先に進み、、立野川がつくる東西へと続く谷筋・丘陵南麓へと廻り込む。道を少し東に進むと道の右手の谷川に唐突に木に括られた赤いリボンが見える。旧道から逸れるルート?などと辺りを見渡すが切り立った崖でとても歩けそうもない。
このリボンって何だろう、何か意味がなどと辺りを彷徨うとリボンの少し東に旧道を逸れて里へと下る急坂の土径があった。

川内ケ谷集落に道標
赤土トンネル開削のため旧道の改修工事は佐川側トンネル入り口まで1.3キロほど新たに造られたというから、旧国道はここより更に東に進み中岡神社の先で南に折れ大乗院の西の道を現国道へと繋がっていたのでは、とは妄想するのだが、この土径がなんだか気になる。旧道開通以前の予土往還ではと思い込み急坂を下ることにした。

土径ヵら里に下りる

越知道・山室道と刻まれた道標

5,6分急坂を下ると直ぐに集落に出る。集落の道を成り行きで進むと道標があり「*大*記念 右越知道 左山室道」とある。山室はこの地の西、山越えの先大樽谷川の最奥部にその地名が見える。道標があるということは、往昔この地を通る道があったということだろう。ひょっとすると往昔の予土往還の道筋?とひとり納得する。
道標から先はこれまた成り行きで立野川を越え国道に出る。

旧国道(?)と国道合流点に石碑
旧国道(?)と国道合流点に石碑
国道に繋がる旧国道
国道を少し東に進むと旧道と妄想した道筋が現国道に合流する箇所に至る。その角には結構新しい石碑が建ち「大乗院 国指定重要文化財 仏像 / 脱藩志士集合の地 町指定文化財 千八百米峠 佐川町教育委員会 平成七年三月建立」と記される。
「脱藩志士集合の地」は赤土峠だろう。この石碑により、大乗院の西を進み山麓の中岡神社をへて赤土峠へと続く道が旧国道であったろうとの妄想は、ひょっとするとあたっていたのかもしれない。
大乗院
旧国道筋の大乗寺への標識
実物を見れるとも思えないが「国指定重要文化財」を有したお寺さまてどんな風情とちょっと立ち寄り。道を少し戻り「大乗院」と記された木標を右に折れ、民家の奥まったところにぽつんと古寂びた堂宇が建っていた。境内の力石など見遣り、薬師堂にお参り。境内にあった案内には「大乗院は、中世初期(1193)太政大臣藤原師長の末子、藤原中山信恒がこの地の守護代として都より入り、高吾北にその霸を称えていた時代に、その中山氏の建立によるものと伝えられ、当時は壮大な寺構を持つ大伽藍寺であり、12の末寺を領有し高吾北地方の鎮護の要として祭政の中心的存在であったと伝承されている。

「本尊」 薬師如来(座高八六・五糎、寄木造、結跏趺坐座 「脇仏」日光・月光菩薩(像高一〇五糎)は共に鎌倉時代の名仏師快慶の作であるとされ、高吾北唯一の国指定の重要文化財である。また、眷属の「十二神将」は、高知県下に珍しく、その数が揃っており、それぞれ七千の部下をもって本尊護衛の任に当たるとされており佐川町指定の重要文化財である。
中世近世共に修験宗を教義としていたが、明治初年天台宗となり、現在は天台宗井寺門派園城寺法類となっている。
本寺はこうした由来をもち、土佐中世史にその名を留めた大伽藍であったが、守護代藤原中山氏の没落と共に戦国時代の兵乱に焼かれ、新仏教の進出に抑され、薬師堂のみ再建され今日に至っている」とあった。
修験の名残は霊峰横倉剣峰山での大修法については数々の伝承があり、いまだに高吾北各地に語り伝えられているとのことである。

佐川の町
旧国道33号(?)合流点より現国道33号を進む。現国道は佐川の町を迂回し柳瀬川、春日川を跨ぎバイパス道として佐川トンネルに入る。佐川トンネルの着工・竣工は昭和47年(1972)6月~昭和48年(1973)8月とのこと。これは旧国道ではない。
地図を見ると、国道494号が南に折れるT字路を越えた先、国道から右に逸れて佐川市街に入る道がある。旧国道筋であろうと、右に逸れて柳瀬川を渡り盆地状谷底平坦地を進み、柳瀬川支流・春日川に沿って佐川の中心部に向かう。
佐川の地形
複雑に丘陵・低地が入り組む佐川盆地
佐川町域は、四国山地の支脈である虚空蔵山(674.7m)、勝森(544.8m)、蟠蛇が森(769.2m)などの山に囲まれた中央が盆地状となった地形で、盆地内には丘陵や低山と佐川、斗賀野・永野・尾川・黒岩の各平坦地からなっている。
丘陵の尾根や盆地周辺の山脚は、東西、南北方向へと複雑に並び、その間に柳瀬川や春日川による谷底平坦地が形成されている。また、平坦地も東西・南北方向へと、丘陵を横切る幅広い平坦地が広がっている。この佐川町の地形は日本では代表的な構造盆地と言われる。
構造盆地
構造盆地(こうぞうぼんち、tectonic basin、structural basin)は、プレート運動により、本来は平坦であった岩石層が、歪力を受けて形成される、大規模な地質構造のひとつである。 構造盆地は、上記の力により生じた沈降地域であり、同じ原因により隆起した場所が、背斜などのドーム状地形である(「Weblio」辞書より)。に
佐川の旧市街

丘陵突端部により東西を挟まれた春日川谷筋右岸を南下し、その丘陵が南北を遮るところから、谷筋を東に向かい佐川の旧市街に入る。土佐街道と地図に記された道の一筋南に「酒蔵の道」の案内。往時の家並が残るとのこと。ちょっと立ち寄り。


旧浜口家住宅
入ると直ぐ白壁の旧家。旧浜口家住宅。江戸の頃酒屋であったが平成25年(2103)観光施設として改装された、と。
名教館
道の対面に名教館。安永元年(1772年)、ときの領主、六代領主 深尾重茂澄が家塾「名教館」を創設。後に享和二年(1802年)七代繁寛がこれを拡充して郷校とした。この名教館は明治維新に再開して多数の先覚者を輩出している。
その後「名教館」の玄関部分を明治20年(1887)に佐川尋常小学校(現佐川小学校)に移築。平成26年上町地区に再移築され、「文教のまち」佐川のシンボルとなっている。上述田中光顕や植物学者牧野富太郎もこの学舎で学んでいる。
司牡丹の工場
道を進むと清酒司牡丹の工場が道を挟んで南北に続く。85mほどもある堂々とした酒蔵は結構、いい。歴史は古く、深尾氏が佐川領主となった折、深尾氏に従って佐川へ来た名字帯刀を許された御用商人のうち、酒造りを業といする「御酒屋」をそのはじまりとする。
佐川町出身、元宮内大臣田中光顕伯は、佐川の酒を愛飲し、「天下の芳醇なり、今後は酒の王たるべし」と激励の一筆を寄せ、「司牡丹」と命名され、司牡丹酒造となった、とのこと。「牡丹は百花の王、さらに牡丹の中の司たるべし」ということである。水は土讃線佐川駅前で春日川に注ぐ谷筋の伏流水を使っている、とあった。
竹下家
その先には重要有形文化財竹下家。江戸の頃の呉服商。土佐の西部では唯一の絹織商として栄えた、と。
青源寺
佐川は土佐藩筆頭家老・深尾氏の領地である。佐川と深尾氏の関係を始めて知ったのは、予土往還の途次、土佐藩の松山征討軍の副総督として、征討軍副総督に佐川家老深尾刑部の名があり、村人は「佐川様」と呼んでいたことに因する。
あれこれチェックすると、深尾氏は土岐氏、斎藤氏、織田氏に仕えた後、掛川藩主山内一豊に招かれ、慶長6年(1601)一豊が土佐の新国主となった折、国内要所に重臣を配し領内支配体制を整えたが、筆頭家老深尾重良は佐川城一万石の領主に封ぜられた。以来、その絶大な権力ゆえに藩主との軋轢も生じながらも、明治 2 年(1869)の版籍奉還に伴う土佐藩消滅まで、土佐藩筆頭家老としてで存続した。なお、深尾家は佐川本家のほか、高知城下に居住していた分家が四家あり、この五家が土佐藩中枢12名の約半数を占めていたとのことである。
藩主家から迎えた養子が二代目領主となったことも相まって、江戸初期にさまざまな特権が与えられた。それはまるで、土佐藩の中に別の小藩が存在するかのような状況であった、とも。
酒蔵の道の少し南に深尾氏の菩提氏である青源寺がある。落ち着いた佇まいのお寺さま。三門へのアプローチが誠に、いい。
お寺様の案内には「県指定名勝 青源寺庭園 (昭和三十一年二月七日指定) 青源寺は臨済宗妙心寺派寺院で、山号は龍淵山。
当山は慶長八年(一六〇三) 土佐藩主山内一豊に招かれ入国した丈林和尚を開山(初代和尚)に拝請し、佐川領主深尾家の菩提寺として創建された。
享保十三年(一七二八)の大火で建物は山門を残し悉く焼失、現在の庫裏は同十六年に、本堂は明和三年(一七六六)に、観音堂は文化十二年(一八一五)に再建されたものである。 当山の様々な寺歴の内、明治初頭の苛酷な廃仏稀釈に対して身命を賭して法灯と伽藍を護り抜いた十三世愚仲和尚の奮闘は偉大でこの功績により廃絶をまぬがれ、現在の堂宇が今日に伝えられた。
庭園については縁起の記録はなく、築堤の時期について二説あり、一つは当山創建時に作庭されものとする説と、伽藍の再建時に作庭されたとの説があるが、諸寺歴等からの推定により今日では寺創建時つまり江戸初期の築庭と考えられている。以来、長い年月の間に修築がなされたものと思われる。
書院正面の岸壁がこの庭の主題とされていて、山側南端の空滝石組みから池につながる景観とで構成された枯淡な庭園である。
池は築庭後一部縮小されており、二つの池の庭とみられているが、北側の池は昭和初期に新しく掘られたものである。
昭和十年に文部省の指定名勝、昭和三十一年より高知県指定名勝に移行している。土佐三名園の一つである。平成二十五年十二号一日 佐川町教育委員会」とある。
青山文庫
青山文庫は、名前に「文庫」とついているため図書館と間違われるようだが、坂本龍馬・中岡慎太郎・武市瑞山らの維新関係資料や、江戸時代に佐川の領主であった土佐藩筆頭家老深尾家の資料などを展示している博物館。
幕末維新の生き証人であった、佐川町出身の元宮内大臣田中光顕(みつあき)が収集した志士たちの書状や画などの遺墨コレクションを中核に、主に近世・近代の歴史資料を収蔵している(「佐川町」資料より)。
牧野公園
青山文庫の周囲には牧野公園が整備されている。牧野公園は、佐川町出身の植物学者・牧野富太郎博士により贈られたソメイヨシノの苗を植えたことを契機に桜の名所として整備され、昭和33年(1958)に公園内の町道が完成したときに「牧野公園」と称することとなった。
平成20年(2008)からは公園の桜が老木となったことから、地域住民で桜を蘇らそうと、古い桜の伐採をおこない、リニューアルを進めている。
中腹には、佐川の偉人牧野富太郎と田中光顕の墓がある(「佐川町」資料より)。
公園の南端には深尾城跡があるようだが、時間がなくなりそうでありパスした。さらっと歩いただけではあるが、佐川の町は土佐藩最大の実力者深尾氏の領地として落ちついた街並みとなっていた。
佐川の由来
佐川の由来は「逆川」に拠る、との説がある。その因は、通常南流する川の流れが、春日川は逆に北流するためとする。とは言うものの柳瀬川も北流するわけであり、仁淀川でさえだ蛇行し北流するわけで、今ひとつしっくりこない。佐川の由来として、「川幅が狭い狭川、川が流れ下る坂川、集落の境になる 境川、川が普通と逆に流れる逆川」などがある。佐川の由来は何だろう。

高岡郡佐川町から高岡郡日高村へ


霧生関坂を通る現国道33号筋の地形
佐川から日高村へ向かう。地図には現在国道33号に土佐街道・松山街道と記される。がそのルートを眺めていると途中に霧生関トンネル(70m)があり、その着工が昭和34年(1959)4月、完成が昭和36年(1961)4月とある。そしてこの霧生関坂の改修とトンネル工事が、赤土峠のそれと同様、佐川地区の国道33号の改修工事の最大の工事であった、という。そんな難所を平地の往還道として使用していたのであろうか。ちょっと気になりチェックする。
国道33号の前身、県道高知松山線は明治17年(1884)に県道開削の議が起き、翌18年(1985)に決議された。が、当初の計画では県道ルートは現在の国道33号筋ではなく、丘陵の北、東の日高村より土讃線に沿って走る県道287号から298号に乗り換え庄田を経て越知を結ぶもので、佐川が外されてていた。
このルート選定の因は難所である霧生関坂。ために佐川の篤志家が私財を当時、霧生関坂を切り下げるなどの努力の結果、佐川を通る県道ルートは現在の国道33号と決まった。 が、往昔の予土往還としては難所霧生関坂を通るこのルートはなんとなくしっくりこない。 当初県道高知松山線として計画された現在の県道297号筋ではないだろうか。県道として計画されたということは道を開くにそれほどの難所がなかったということで予土往還としては違和感がないのだが、その他にもう少し確としたエビデンスがないだろうか? 

加茂下山通り(県道297号筋)の地形
チェックすると、『幕末・土州松山征伐進軍記録(山崎善敬)』のP127にに征討総督深尾左馬之助が率いる土佐本藩の軍勢は加茂下山通り(県道297号筋)を進軍し、越知を本陣とした佐川領の軍勢と合流した、とある。小荷駄や大砲を運ぶ軍勢が選んだ道であればそれほどの難路であったとは思えない。平地の往還として違和感ない。
また、土佐加茂駅近くの海津見神社に「宇治谷川の一枚大岩橋」があり、その一枚大岩は松山街道の宇治谷川に架かっていたとある。
どうも往昔の予土往還は現在地図に土佐街道・松山街道と記される国道33号筋ではなく、県道297号筋のように思える。ということで、予土往還として県道297号を辿ることにした。

県道302号を右折し県道296号から287号へ
土讃線に沿って県道287号切通部を進む
切通し部は日下川源東部
佐川の中心部から春日川左岸・県道302号を下流へと少し道を戻り柳瀬川手前で県道296号を右折する。
柳瀬川右岸を少し下ると国道494号とクロス。その先道なりに県道297号に入る。土讃線西佐川駅を越えると下山。上述、土佐藩松山征討軍が進んだと言われる下山通り由来の地であろう。土佐藩松山征討軍は下山で県道297号と分かれる県道298号を庄山を経て越知へと向かったのであろう。
県道298号をわけた県道297号は切通部を土讃線にそって緩やかにくだってゆく。県道297号分岐を越える辺りは柳瀬川と日下川の分水界。境界差は5mほど。分水界の東は日下川の源流域。

県道297号を海津見神社へ
海津見神社と一枚大岩
土讃線、県道297号に沿って東進する。土讃線土佐加茂駅の手前に海津見(わたつみ)神社
その境内に上述「宇治谷川の一枚大岩橋」がある。その案内に「この大石を用いた橋は、江戸時代の終わりごろ、加茂地区を通り高知から松山に通じる松山街道の宇治谷川に架けられていたもので、「一枚岩の大石橋」として旅人や道行く人々により広く世間に知らされていた。
この巨石は加茂本村の山中で発見され、大型機械の無かった時代、多くの村人が駆り出さ れ、力を合わせ運び出されて架けられた。死者も出たといわれるこの難工事を、見事に完成させた住民の苦労がしのばれるが、同時に、この大石橋は当時の道路事情を物語る証としても貴重なものである。
右の側面に竣工した「嘉永四年(1851)辛亥春成」の文字が刻まれている」とある。はっきり「松山街道」と記されている。

土佐加茂駅を越えると高岡郡佐川町を離れ高岡郡日高村に入る