火曜日, 7月 20, 2010

利根運河散歩そのⅢ;小金牧の名残りを辿る


利根運河散歩をきっかけにはじまった流山から野田へと北に辿る散歩も、流山旧市街、そして利根運河の谷津と、二度の散歩になってしまった。基本成りゆき任せの散歩のため、散歩のメモの段となって、はじめて見逃しに気がつくことが多いのだが、今回は特に小金牧に関連した人物や事跡で取りこぼしが多い。ということで、野田へと進む前に、小金牧での新田開発で善政を施した岩見石見守ゆかりの地や野馬除土手、馬の水飲み場、そして明治になって旧幕臣が中心となり進めた小金牧跡の開墾地跡など、気になった事跡をまとめて辿ることにした。
目的の場所も結構バラけている。また、家を出るのも例の如くゆったりとしたものであり、柏駅についた時には既にお昼をはるかに過ぎている。今回は、歩きのみ、という散歩の基本方針を少々「封印」し、見残し・後の祭りを1日で終えるべく、歩きと電車の乗り継ぎを組み合わせることにした。それにしても結構タイトな1日とはなった。

本日の散歩;東武野田線柏駅>東武野田線・豊四季駅>坂川放水路>天形星神社>諏訪神社>東武野田線・豊四季駅>(東武野田線)>東武野田線・流山おおたかの森駅>オランダ観音>東武野田線・流山おおたかの森駅>(つくばエクスプレス)>つくばエクスプレス柏の葉キャンパス駅>厳島神社>こんぶくろ池>常磐道>皇大神社>流通経済大柏高校・野馬除土手>大青田の谷津>円福寺>利根運河>駒形神社>下三ヶ尾谷津>東武野田線・運河駅>オランダさま>東武野田線・江戸川台駅

東武野田線・柏駅
最初の目的地は天形星神社。岩見石見守が祀られる。最寄りの駅は東武野田線・豊四季駅。常磐線・柏駅で東武野田線に乗り換えることになる。JR柏駅の改札を出て東武野田線の改札からホームに入ると、駅はターミナル・終点駅となっており、南の船橋行も、北の大宮行きも柏駅が始発駅である。
地図を見るに、大宮方面からの路線は土浦・水戸など「下り方向」にカーブを描き柏駅のホームに入る。また、船橋からの路線も「下り方向」に向かって柏駅に入る。東武野田線は千葉県船橋から埼玉県大宮を結ぶわけで、何故このような直通運行には不都合な入線仕様となっているのかチェックすると、歴史ゆえの状況が見えてきた。
明治44年(1911)、野田の醤油を常磐線柏駅と結ぶべく千葉県営軽便鉄道が開設された。その時、柏駅には「下り方向」に向かって常磐線と合流させたわけだが、その理由は、駅近くにあった柏競馬場を避けるには「下り方面」へと繋げるのが工費の観点でメリットがあった、とのこと。柏競馬場は現在の豊四季台3丁目と4丁目の豊四季台団地あたりにあったが、昭和27年に廃止された。県営軽便鉄道は、大正10年(1921)、千葉県から払い下げを受け、その路線の継承と同時に船橋と柏間の建設を目的として北総鉄道(現在の北総鉄道とは関係なし)が設立された。完成された柏・船橋間の入線は下り方向に向かって柏駅に入る。野田からの入線が下り方向になっている以上、それに接続させるには路線を西、と言うか北方向から大回りさせる必要があるだろうし、そもそも駅自体が、船橋方面駅が常磐線柏駅の東、野田方面駅が柏駅の西と、常磐線を挟んでサンドイッチといった状況であり、接続させることができない状況であったのか、とも思う。単なる妄想。根拠なし。
その後、大正15年(1926)、野田から東武線粕壁をへて大宮を結ぶ構想がもち上がり、その路線が完成した昭和4年(1929)には北総鉄道を総武鉄道(現在の総武本線とは関係なし)と改称。昭和5年(1930)には別々であった船橋線・野田線の駅を野田線の駅に統合した。
昭和18年(1943)には東武鉄道と合併し、野田線・船橋線という呼称も野田線に一本化し、東武野田線として現在に続いている。東武野田線という如何にも直通路線といった呼称に引っ張られ、何故に柏でのスイッチバックか、とチェックしたのだが、本来別の会社、というか路線(野田線・船橋線)が後になって名称統合された、と言うことであった。
そういえば、西武線の飯能駅もスイッチバックであった。これも、まずは、木材の集散地でもあった飯能と池袋が結ばれ。その後、秩父のセメント輸送のため飯能から吾野へと路線が延ばすに際し、地形故の制約より飯能を始発とした時計逆回り方向への路線を余儀なくされ、スイッチバックの形になったのではあろう。その後飯能をパスした直通路線も検討されたようだが、輸送量が少ない割に飯能が発展してしまっていたため、敢えて短絡直線路線を敷く必要性がなくなっていた、と言うことだった、よう。物事にはそれなりの理由がある、ということではあろう。

東武野田線・豊四季駅
柏駅より豊四季駅に向かう途中、車中でiphoneであれこれ本日のコースをチェックしていると、豊四季駅から南柏駅方面へ少し戻ったところに豊四季稲荷神社があり、そこに「豊四季開拓百年碑」があるとのこと。当初の予定では豊四季駅で下り、最初に岩見石見守が祀られる天形星神社へ、などと思っていたのだが予定変更。少々戻ることにはなるが、稲荷神社へと向かうことに。
豊四季とは小金牧が徳川幕府の崩壊とともにその役割を終えた後、その跡地を開拓地とする計画により開墾された集落の名前に由来する。その時開墾された13の集落名は現在も地名として残る。地名は開拓された順に数字で示され、1番目 初富(はつとみ)(鎌ヶ谷市)-小金牧内・中野牧>2番目 二(ふた)和(わ)(船橋市)-小金牧内・下野牧>3番目 三咲(みさき)(船橋市)-小金牧内・下野牧>4番目 豊(とよ)四季(しき)(柏市)-小金牧内・上野牧>5番目 五(ご)香(こう)(松戸市)-小金牧内・中野牧>6番目 六(むつ)実(み)(松戸市)-小金牧内・中野牧>7番目 七(なな)栄(え)(富里市)-佐倉牧内・内野牧>8番目 八街(やちまた)(八街市)-佐倉牧内・柳沢牧>9番目 九(く)美上(みあげ)(佐原市)-佐倉牧内・油田牧>10番目 十倉(とくら)(富里市)-佐倉牧内・高野牧>11番目 十余一(とよいち)(白井市)-小金牧内・印西牧>12番目 十余二(とよふた)(柏市)-小金牧内・高田台牧>13番目 十余三(とよみ)(成田市)-佐倉牧内・矢作牧。豊四季は四番目に開墾された集落であり、四季を通じて豊かなれ、といった思いを込めた地名となっている。
豊四季駅で下車。駅には南口はないので、北口に下り、線路を跨ぐ通路を通り南口に。豊四季駅南口交差点を柏方面に向かって進む。道は豊四季と野々下の境を進む。野々下は小金野の南下が地名の由来、とか。西に向かって緩やかに下る地形が感じられる。

稲荷神社・豊四季開拓百年記念碑
道なりに進み柏第二小学校脇、稲荷神社前交差点の西に稲荷神社があった。境内の右隅に「公爵岩倉具視報恩碑」、右側に「豊四季開拓百年記念碑」がある。まずは社殿にお参りし、記念碑前に。
「豊四季開拓百年記念碑」は昭和48年に建立されたもの。長文の内容を簡単にまとめると、「明治維新の社会不安、民生の安定のため窮民対策として小金牧・佐倉牧を廃し、東京窮民を開拓農民とする計画が立案された。開墾局を設け、明治2年、三井八郎衛門などを中心とした開墾会社が設立され、開拓地積を1万町と推定し、1万人の入植を計画。募集に応じた東京窮民のうち6461人が入植。入植者は「三年間衣食住は勿論万事世話致し、四年目より自分活計を定め一旦会社請負人と相成、開墾入費を十ケ年の内に会社に返済致候得ば、会社一般独立農夫」となり、其の後自力新開は地主となれる、という文言で開墾に努めた。しかしながら、その労働条件は「会社の管理督励苛酷言語に絶し労働過重心身供に疲弊困憊し脱落逃亡が続出した」との表現が示す通り過酷を極め、「会社は経営よろしきを得ず」、明治5年事業解散するに至る。この時点で開拓農民は半数にまで減っていた、とのこと。
明治6年、開墾事務は県に移管され、出資社員(富民)は土地を得、それも地券面の数倍といった有利なものであったが、一方入植者(力民小作人)に開墾地の所有権もなく、債務処理など会社に対して裁判に訴えるも敗訴の連続。その抗争の間、「住家は雨露を凌ぐまでにて、眷属襤褸を纏い」「畠は枯痩の色を呈し収穫甚だ寥々」「住する者十中二三を余すに過ぎず、その他悉く四方に離散し」「一戸の人煙みざる所あり」といった悲惨な状態であった。このような状況の中でも、この地に残った東京窮民と野付村移民、通い村民たち先人が切り開いた茨の道を偲んでたてられたのがこの石碑である。
維新当時の東京の人口は50万人。そのうち、家禄を失った旧武士階級や都市困窮民は10万人に上った、と言う。社会不安に対する民政安定が焦眉の急であったのだろう。なお、この豊四季は三井八郎衛門の引請地であり、明治2年に122戸478人が入植したが、明治5年までには約半数の50戸が脱落した、と言う。また入植者が開墾土地を自分のものとするのは戦後の農地改革を待ってからであった。
次いで、「公爵岩倉具視報恩碑」に。何故にこの地に岩倉具視?チェックすると、岩倉具視と東京窮民による小金牧開墾地の関係が見えてきた。まずは、そもそもが、民生安定を目的とし開墾計画を発意した元水戸藩士北島秀朝は岩倉具視の知遇を得て幕末・明治維新に活躍した人物。討幕軍司令を務めた岩倉の次男を補佐し実質的軍司令官として活躍。明治維新に入ると、東京府判事として東京を治める立場となり、民生安定のため下総の牧跡の開墾策を提言。下総開墾局知事として開墾事業に関与した。
その開墾会社が解散するに際し、開墾された土地の大部分、719町歩のうち714町歩が三井のものとなり、入植者のもとに所有権がなく、ゆえに長年にわたる裁判沙汰となるわけだが、その裁判を有利に運ぶべく三井はその土地を大隈重信、岩倉具視、青木周蔵といった明治の元勲に譲渡した、と言う。この記念碑はこの地の大地主となった岩倉具視の記念碑といったものだろう。少なくとも開拓農民の感謝の碑とは思えない。

坂川放水口
稲荷神社で次の天形星神社へのルートをiphoneの地図でチェックしていると、豊四季の西、野々下に坂川の川筋がある。ということは最上流点には坂川放水口がある。ついでのことではあるので、坂川放水口に向かうことにする。
野々下はその地名が示すように、豊四季地区のある台地の平坦地から川筋に向かって下ってゆく。坂川の水の恵み故か、室町の頃より開けたという野々下の地は起伏豊か。緩やかな傾斜地を先に進むと低地となり坂川筋に出た。
川の上流端へと進むと放水口近くは親水公園となっている。小川を配した公園を辿ると放水口に到着。放水口は堰といった造りで坂川へと流れ落ちていた。坂川は利根川と江戸川を結ぶ北千葉導水路の一部となっており、坂川放水路とも呼ばれる。水路は印西市木下(きおろし)と我孫子市布佐の境辺りで利根川から取水し、手賀川・手賀沼の南を手賀沼西端まで地下水路で進む。手賀沼西端では、手賀沼に注ぐ大堀川を大堀川注水施設まで川に沿って地下を進み、注水施設からは南へと下り、流山市の野々下水辺公園(野々下2-1-1)にあるこの坂川放水口から坂川に水を注ぐ。地下を流れてきた水路は放水口からは開渠となって江戸川へと下ってゆく。
北千葉導水路の役割は、第一に東京の水不足に対応するため利根川の水を江戸川に「運ぶ」こと。次に、手賀沼の水質汚染を防ぐこと。柏市戸張新田にある第二機場では直接手賀沼に、大堀川注水施設では大堀川の水質改善も兼ねて大堀川経由で手賀沼を浄化する。そして、第三の目的としては、周辺より地盤の低い手賀川や坂川の洪水対策として、あふれた川の水を利根川や江戸川に放水し水量を調節する、といったこと。
いつだったか我孫子から手賀正沼を辿り、手賀川から印西市木下の利根川堤まで歩いたことがあるる。北千葉導水路にはそのとき出合ったのだが、江戸川筋への放水口・放水路に出合えて、誠にうれしい。
天形星神社・岩見大明神

やっと、最初の目的地であった天形星神社(流山市長崎2-57番地)に向かうことに。予定になかった寄り道も、岩倉公記念碑といった思わぬ事跡に出合ったりと、成り行き任せの散歩はやはり、いい。
坂川放水口から成り行きで台地に上る。金乗院を右手に眺め、畑地や宅地の間を長崎地区へと向かうと深い緑の中に天形星神社があった。境内に入り、左手に岩見神社を見やり、まずは本殿にお参り。本殿に限らず幣殿、拝殿、そして岩見神社も結構新しい。説明によると、寛文2年(1662)創建とあるが、このあたりの長崎、野々下は戦国の頃には既に集落が形成されえいたようであり、そうであれば社が祀られたのは更に時代を遡るとも。時を経て荒廃した古き社を昭和62年に改築された、とあった。
境内の岩見神社にお参り。社脇の感恩碑によると、「寛政年間、徳川幕府の房総三牧の野馬方総取締・旗本岩本石見守をお祀りしたお宮。長崎、野々下の両村は小金牧の野付の村として、隣接した牧内に野馬入り新田を開拓することは多年の願であった。この願いを許したのが石見守。寛政六年のこと。この新田は原新田と呼ばれた。林畑であり、秣の育成、松、杉、楢等の植林がなされ、薪、炭の生産も成果を上げ豊かな村となった。
村民一同、石見守の人徳のお陰と感謝の念を深め、報恩の一念から文化九年には「石見大明神」の石碑を建てる。明治初年にはこの碑を御神体として長崎一丁目七四二番地に境内を定め、社を設け、鳥居も建てて代々祭祀を続けたが、昭和62年、天形星神社境内に造営竣工された新社殿に遷座された」、とある。『小金牧を歩く;青木更吉(崙書房出版)』によると、村民の野馬入新田開墾の願いは石見守により、半年もたたず認められ、広さは村の面積に相当し、燃料に困ることもなくなり、馬の飼料も得られえ、また、薪、炭などにより現金収入も手に入り、生活は豊かになった、とのこと。新田開発とは言うものの、それは単に水田開墾だけ、と言うわけではなく、林畑、そこから生まれる薪、炭など、その意味するところは、広範囲なものであったようである。
岩本石見守正倫は、甲斐の国に生まれ、徳川幕府に仕える知行二千石の岩本正利を父とし、長姉お富の方は、一橋中納言治済卿に仕えて、第十一代将軍家斉の生母となる。家斉は将軍職を五十年つとめ、正倫は将軍の信任篤く、要職を経て寛政五年(1793・37歳)に、小金、峯岡、佐倉三牧の取締支配に任ぜられ、以後も栄進を果たす。

ところで、この天形星神社、はじめて出合う神社である。名前に惹かれてチェックする。祭神は素戔嗚命(スサノオのミコト)。この素戔嗚命と天形星との関係であるが、道教というか陰陽道では天形星は牛頭天王と同一視される。仏教の守護神でもある牛頭天王、祇園精舎のガードマンでもあったため「祇園さん」とも呼ばれた牛頭天王であるが、その父は、道教の神であるトウオウフ(東王父) 、母は セイオウボ(西王母)とも見なされたため、牛頭天王はのちには道教において冥界を司る最高神・泰山府君(タイザンフクン)とも同体視される。

泰山府君は、十王信仰(十人の冥界の王が、冥土で亡者の罪を裁くと信じられた)では、十王のひとりである泰山王(タイザンオウ)(閻魔さま) とも同体視されるに至るが、その泰山王・閻魔様の本地仏は薬師如来であり、素戔嗚尊の本地仏も薬師如来。ということで、天形星=牛頭天王=素戔嗚尊、という神仏習合関係が出来上がった、とも。閻魔様=冥界=黄泉の国といえは素戔嗚尊、といったアナロジーもあったのだろう、か。
また、素戔嗚尊は、新羅の曽尸茂利(ソシモリ)という地に居たとする所伝も『日本書紀』に記されている。「ソシモリ」は「ソシマリ」「ソモリ」ともいう韓国語。牛頭または牛首を意味する。素戔嗚尊と新羅との繋がりを意味するのか、素戔嗚尊と牛頭天王とのつながりを強めるためのものなのかよくわからない。が、 素戔嗚尊と牛頭天王はどうあろうと同一視しておこうと、ということなのであろう。
この神社、もとから天形星の社と呼ばれていたのか、牛頭天王の社と呼ばれていたのが定かではないが、ともあれ天形星神社に素戔嗚命が祀られるのはかくのごとき所以からではあろう。

諏訪神社

天形星神社を離れ、北東に続く道を成り行きで辿り県道278号に向かい、県道を進むと東武野田線と交差。線路に沿って右に向かえば豊四季の駅に出るのだが、線路の少し先、道の左手に鬱蒼とした森の中に諏訪神社がある。流山や柏の散歩の折々に、「駒木のお諏訪さま」として登場するため、どんな社かと訪れることにした。
境内に入ると、誠に立派なう社である。木々に覆われた参道を進み随神門をくぐり、本殿にお参り。祭神は健御名方富命(たけみなかたとみのみこと)。広い境内には姫宮神社とか大鳥神社など八つの社が合祀されている。
童謡をテーマにした散歩道などを彷徨い、本殿脇に戻ると騎馬武者の像。源義家とある。奥州での後三年の役を終えた義家が武運のお礼として乗馬と馬具を奉納した、とのこと。奉納の際に鞍を掛けた松の伝説を示す鞍掛け松の碑もあった。
義家の鞍掛け松や腰かけた岩といった伝説は散歩の折々によく出合う。最初はあまり気にもしていなかったのだが、その伝説の跡を見やると、奥州への古道跡を示したり、といったこともあり、伝説も伝説以上の意味をもつこともあるようだ。
本殿の脇には御神水。天保12年(1840)、江戸の文人友田次寛が、その著小金紀行に「神垣の 杉のうつろの 真清水は つきぬ恵みの ためしなるらむ」と描く。「道問へば大根曳いて教えけり」と詠む蕪村碑も残る。

諏訪神社の創建は古く、平安時代のはじめとも、それより古いとも伝わる。大和の国より天武天皇の第一皇子である高市皇子の後裔がこの地に移り、その心の拠り所として信濃の諏訪大社より勧請したのが駒木のお諏訪さまである。移住の理由は、高市皇子の第一皇子である長屋王が、その英明さ故に藤原一門に「睨まれ」、長屋王の乱という陰謀により妻子共に自刃に追い込まれる。そういった一門の危機を避けるべく、大和を離れ、この地に移った、とも。また、諏訪社勧請の理由は、高市皇子の養親が奈良の大神社の祭祀者であり、大神神社の祭神が大国主命。また、高市皇子の母は九州宗像族の出身。宗像族は出雲系の一族であり、出雲族と言えば国ッ神系・大国主命がその代表格。諏訪大社の祭神である健御名方富命は大国主命の子であり、諏訪神社勧請のストーリーは理屈にあっている。
この諏訪神社、由緒ある神社故なのか、兼務社が多く、30近くもある、と言う。今までの散歩で出合った神社のうち、先ほど訪れた天形星神社、豊四季開拓百年記念碑のあった稲荷神社、先日訪れた流山旧市街・加の大杉神社、青田の香取神社、小青田の姫宮神社なども諏訪神社の兼務社であった。そういえば、それらの神社には社務所がなかったように思う。

諏訪道
境内を出て、再び県道278号に。県道278号は流山から諏訪神社まで北東へと上り、諏訪神社の北で右に折れ、東武野田線に沿って柏に向かう。その昔、布施弁天の北、県道47号が利根川を渡る近くにあった布施河岸から流山の加村河岸を結ぶ諏訪道と呼ばれる道があった。もともとは、布施から諏訪神社を結ぶ信仰の道であったようだが、江戸の中期以降は利根川の布施河岸で荷揚げされた物資を江戸川の加村河岸へと運び、そこから江戸川を下り、江戸へと物資を運ぶ道となった。
利根川筋から江戸への物資運搬ルートは、もともとは、利根川を関宿まで上り、そこから江戸川を江戸まで下っていたとのことだが、関宿付近が土砂の堆積で浅瀬となり、冬場の渇水期には船の航行ができなくなったため、この地で陸揚げされた。布施河岸の少し上流には鬼怒川の利根川合流点もあり、北関東の物資も布施河岸を経て江戸へと結ばれた。最盛期の寛政期頃には年間16000駄の荷受け量があったという。
諏訪道は大雑把に言って、布施弁天の北にあった布施河岸から県道47号に沿って南東に下り、大堀川と国道16号が交差する辺りで北南西から北東へと方向を変え、大堀川の北を進み、諏訪神社の北で再び方向を南西に変へ諏訪神社に。諏訪神社からは、おおよそ現在の県道278号に沿って流山に向かう。かつては江戸川には多くの渡しがあったようであり、埼玉との往来も盛んで、諏訪道を通り諏訪神社へと向かう埼玉側からの参拝者も多くいたとのことである。

利根川から江戸川への「バイパス」はこの諏訪道だけでなく、布佐の納屋河岸から松戸を結ぶ「鮮魚街道」、木下(きおろし)から行徳河岸を結ぶ木下街道などがある。木下街道は印旛沼散歩のとき、一部を歩いたのだが、そのうちにこれらのバイパスも歩いてみたい、と思う。ちなみに、諏訪道は、手賀沼・印旛沼名産のうなぎ故に、「うなぎ街道」と呼ばれた、とも。

東武野田線・つくばエクスプレス流山おおたかの森駅

次の目的地は流山おおたかの森駅近くにあるオランダ観音。今回は「歩き&トレイン」ということで、先ほど下車した東武野田線・豊四季駅に向かう。豊四季駅から一駅。駅を下りると駅周辺は再開発の真っ最中。すでに完成したショッピングセンターや高層マンションと造成工事中の建設機械、掘り起こされるも、未だ整地されていない荒地などが入りまじり、雑とした状況。駅の西に駅名の由来ともなった、おおたかの営巣地である「おおたかの森」も宅地開発で半減し、現在は20ヘクタールほど。かつてはつくばエクスプレス線の北と流山おおたかの森駅から北に進む東武野田線の西側一帯の50ヘクタールが鬱蒼とした森であったとのことであるが、現在は宅地や建設予定地で囲まれながら、かろうじて森の緑を保っている。

オランダ観音
流山おおたかの森駅の北に下り、東武野田線の東側の造成地の中を進むと住宅街の家と家の間の細路の先にオランダ観音(流山市東初石5‐153)があった。祠の中には二基の馬頭観音が祀られる。諸説あるも、寛文8年(1668)、品種改良のため輸入したペルシャ牡馬二匹のうちの病死した一匹であろう、と。オランダ観音の由来は、オランダの東インド会社長崎商館を通して輸入された、ため。
小金牧の野馬は蒙古系の馬であり、馬高は1.2m程度。現在私たちが目にするサラブレッドの馬体とは似ても似つかない、かわいいものである。乗馬すると足が地面につくといってもそれほどオーバーな表現ではない。『小金牧を歩く;青木更吉(崙書房出版)』によれば、品種改良に関心の強かった将軍吉宗は、ペルシャ馬27匹(牝21、牡6匹)を輸入した。当時の値段ではペルシャ馬一匹は野馬360匹に相当するという高価なものであった、と言う。
オランダ観音の説明には、「葦毛の三歳駒を輸入し牧に放牧したが、気候や風土の違いから小柄な日本馬ともなじめないまま気質が凶暴になり、野馬堀を一気に超え作物を食い荒らし、人にも危害を及ぼすようになった。これを見かねた牧士頭は勢子を動員して駒を追いよせ狙撃してし、傷を負った葦毛馬は四苦八苦の末、日頃住みなれた十太夫新田の沢にたどりつき、そこで水を飲みながら息絶えた、と。その哀れな姿に村人や狙撃した牧士たちは、馬を哀れみその霊を慰めるためにその近くに祠を建てた」、との説明もあるが、そんな高価な馬を射殺するのは不自然であり、また碑文は後世になって建てられたものであり、「伝説」として伝わっていた射殺説が刻まれたのではないか、と言う。

つくばエクスプレス・柏の葉キャンパス駅
次の目的地は厳島神社にある「高田原開拓碑」。つくばエクスプレス・柏の葉キャンパス駅の近くにある。今回は取りこぼし・後の祭りを1日でカバーするため「歩き&トレイン」が段取りの基本。流山おおたかの森駅よりつくばエクスプレスに一駅乗り、柏の葉キャンパス駅に。
駅の周辺は流山オオタカの森駅周辺の開発途上の乱雑さ、一駅先の柏たなか駅前の開発がはじまったばかりの「なにも無さ」に比べ、結構整備されている。思うに、この地域一帯は国有地が多かったため、地権者との折衝の困難さはないわけで、それ故に開発計画が容易に進めることができたのではないだろうか。

この一帯の土地の歴史を眺めるに、江戸の頃は小金牧のひとつである高田牧、明治に入り東京窮民を入植者とした三井を中心とする開墾会社が開墾した開墾地・十余二である。そして、その開墾会社が解散した後、開墾地の土地の大半が入植者ではなく三井の手に落ち、その後、入植者との裁判沙汰を有利に図るために大隈重信などの明治に元勲に土地を譲渡している。戦前にはこのあたりに柏陸軍航空隊と飛行場があったと言うことだが、その大半は大地主となった大隈など明治の元勲の土地であろう、か。それはともあれ、飛行場跡地は戦後は一時米軍に接収され通信基地となっていたが、それも昭和54年(1979)には日本に返還されている。その跡地に東京大学や千葉大学、そして各種国の研究機関などが建設された、ということである。

厳島神社・高田原開拓碑

厳島神社は県道47号脇にある。線路に沿って進めば距離は近いのだが、工事用の空き地などで行く手を阻まれ、結局、大回りして県道47号を歩くことになった。県道を進み、つくばエクスプレスの高架をぐぐると、最初の交差点手前に、誠に、誠にささやかな祠があった。
祠にお参りし、脇にある高田原開拓碑を見る。裏には「当地は元小金原高田台牧也 明治二年より入植開拓せり初期入植者は自作農たるべき筈の処大隈及鍋島等の所有となりて八十余年昭和廿二年来の農地改革により初志貫徹すべて入植者の有に帰す」と刻まれる。
柏市十余二・高田のほか流山市の一部にまたがる高田台牧は、明治に三井ら政商を中心につくられた開墾会社によって開墾されるも数年で会社は解散。土地は入植者の手にならず、大半が三井のものとなり、それも裁判沙汰を有利に運ぶため明治の元勲に譲渡した、とは上にメモした。実際このあたりは大隈重信の土地となり大地主として広大な土地を所有した。土地が開墾民の手になるのは記念碑が刻むように戦後の農地改革が行われてからであり、それまでの裁判、小作民としての遺恨故か、「大隈及鍋島」と呼び捨てにしているのが直截で誠に、いい。なお、この神社も駒木の諏訪神社の兼務社であった。

柏の葉公園
厳島神社を県道に沿って少し進み、最初の交差点で右に折れ、道の右手に柏の葉高校や千葉大学環境健康フィールド科学センター、左手に柏の葉公園をみやりながら進む。この柏の葉公園のあたり、西は航空自衛隊システム通信隊の敷地から東の東京大学柏キャンパスのあたまでは戦前には陸軍の柏飛行隊と飛行場があったところである。
日中戦争勃発直前の昭和12年(1937)、首都防衛の飛行場としてこの地に開設することが決定され、昭和13年(1938)に工事が着工され同年完成。陸軍東部百五部隊の飛行場、柏飛行場が開設され、立川より陸軍飛行第五戦隊が移転してきた。
太平洋戦争が勃発すると、飛行第五戦隊はジャワ島に移り、柏飛行場にはいくつかの飛行戦隊の変遷があり、フィリピンでのレイテなど戦地への移動、また首都防衛の任にあたった。戦争末期に開発されたロケット戦闘機である「秋水」の飛行基地に予定されていた、とか。また、柏飛行場の南、高田には第四航空教育隊が設置され、そこで短期訓練を受けた隊員は、鹿屋や知覧の特攻基地に移っていたとのことである。

戦後は一時戦後海外からの引揚者、旧軍人ら約140人に払い下げられ開墾されたが、朝鮮戦争時には一部が米軍に摂取され、昭和30年(1955)には「米空軍柏通信所」、トムリンソン通信基地が建設され、200mの大アンテナなどのアンテナが林立していた、とか。
昭和54年(1979)には米軍から日本に返還。雑草の生い茂る荒地となっていたが、その跡地に柏の葉公園が整備され、東京大学や千葉大学、そして各種国の研究機関などが建設されている。
ちなみに陸軍飛行第五戦隊は立川から移ったとメモしたが、
いつだったか玉川上水を辿っていたき、立川市の砂川地区で上水が突然暗渠となり、何故に、とチェックしたことがある。暗渠化の理由は立川の航空隊用の滑走路の延長を考えてのことであったわけだが、その飛行隊は柏に移り、結局滑走路の延長はなくなった、とのこと。散歩をすれば、いろんなところで、いろんなものが紐づいてくる。誠に面白い。

こんぶくろ池
道の左手に柏の葉公園、右手に科学警察研究所や税関研修所などの建物を見遣りながら進むとT字路にあたる。T字路の先は東大柏キャンパス、右手の国立がんセンター東病院に沿って折れ、がんセンター東病院の敷地が切れるところで右手を見ると森が見える。こんぶくろ池はその中であろう、と右に折れると「NPOこんぶくろ池自然の森」の旗がたっていた。こんぶくろ池のある森一帯はNPOの活動によって環境保護がたもたれているのだろう。
左手にNPOの管理小屋を見ながら、とりあえず森に入る。雑木林の中を成り行きで進むと湧水池があり弁天池とあった。小さな祠は弁天さまではあろう。弁天池からの水路に沿って遊歩道を進むとT字路にあたり、左に折れると弁天池より大きな池が見えてきた。それが「こんぶくろ池」であった。池の畔には水神社のささやかな祠が祀られていた。
こんぶくろ自然の森は東京ドーム4個分の広さがある、と言う。また、弁天池とこんぶくろ池から湧き出る水は大堀川の水源でもあり、手賀沼へと注いでいる。そのためか、こんぶくろの主(うなぎ?)と手賀沼の主(蛇)が年に一度デートをする、といった伝説も残る。
こんぶくろ池は小金牧のひとつ、高田台牧に放牧される馬の水飲み場であった、とのこと。こんぶくろ池の左手には小ぶりな野馬除土手も残っていた。小ぶりの野馬除土手は、牧内に開墾された新田、と言うか、林畑、村地への侵入を防ぐために造られたもの、と言う。
「こんぶくろ」の名前の由来は、池の形が「小さな袋」のようであったから、とか、巾着(金のふくろ)とか、「子を産むふくろ」、とか、「米を産む袋」など、あれこれ。

常磐道
次の目的地は流通経済大学付属柏高校付近に残るという野馬除土手。こんぶくろ池から北東に常磐道を超えた先にある。こんぶくろ池自然の森を離れ、東京大学柏キャンパスの東端を進み、キャンパス北端を西に折れ、成り行きで進む。右手には森が続く。先日歩いた大青田の湿地手前の森の緑であろう。先に進むと森の手前に常磐道。土地を掘り割って進んでいた。

皇大神社

常磐道を超えると流通経済大学付属柏高校前交差点。道脇に野馬除土手らしきものを探すも、それらしき風情はない。キャンパスに沿って成り行きで東へと進むと高校の敷地に組み込むように社がある。とりあえずお参りと境内に入ると皇大神社とあった。
創建は新しく明治15年。十余二開墾住民の心の拠り所となるべく、三井組の市岡晋一郎によって建てられた。市岡晋一郎は現在の長野県塩尻市に生まれ,明治初め,開墾会社の三井組代人として小金牧12番目の開墾地である十余二の入植事業に携わった。
岩倉具視に見出された農民出身の開墾地の監督官として、農業(製茶・さとうきび・養蚕)を振興し、農民のために三井学校(伊勢原学校)を開校したと言う。皇大神宮といえば、伊勢神宮(内宮)のこと。このあたりの地名も、この神社勧請に由来するのだろう。なお、この神社も先ほど訪れた駒木の諏訪神社の兼務社であった。

大青田の野馬除土手
皇大神社を離れ、野馬除土手を探して先に進む。それらしきものは見当たらない。それではと、校舎裏手のグランド側に向かうことに。成り行きで進み、左手に入る野道を大青田の森の方向へと向かう。大青田の森は一度歩いているので、勝手知ったる、といった按配ではある。
道なりに進み、校舎裏手、グランドとの間を抜ける道を野馬除土手を探して西へと戻る。道の左手のグランドではサッカーの練習中。流経大付属柏って、サッカー名門校であった、かと。サッカーの練習を見ながら進むと、校舎敷地と道を隔てる土手がいかにも、野馬除土手の風情。ところどころに土手の切れ目があり、そこに入り土手を眺めるに、案内はないものの、これは間違いなく野馬除土手であろう、と確信。比高差も大きい。南柏でみた野馬除土手ほどの高さがある。江戸川台や先ほど「こんぶくろ池」で見た土手は高さも低く、土手もひとつであったが、この地の土手は大土手と小土手の二重土手となっていた。

既にメモしたとおり、野馬除土手とは、下総台地の牧(小金牧や佐倉牧)に放牧された馬が村や畑に入り込み、耕作物を荒らすのを防ぐための土手である。特に享保や寛政の改革に伴い、幕府の財政不足を補うべく新田開発が奨励され、小金の牧の中にも水田や林畑の開発が推進される。その結果、牧の中には村が点在することになり、野馬は村や畑に侵入して耕作物などを荒らした。 各村々は、村境に野馬除土手をつくり被害を防ごうとしたわけだが、完全に防ぎきれず被害に大変苦しんだ、とのことである。先ほど訪れた長崎の天形星神社の「岩見大明神」、先日訪れた大青田の円福寺の「岩見大権現」は、農民に被害を与えていた野馬の里入防止に尽力した岩本石見守に感謝した村人が、その善政をたたえ記念碑をつくったとのことである。

円福寺次の目的地は国道16号が利根運河を渡った北にある駒形神社。これといって理由はないのだが、先日の利根運河の谷津を辿る散歩の時に、この神社を見落としていたので、今回の後の祭り・取りこぼしフォロー散歩に加えることにした。
流経大付属柏高校を離れ、先日も歩き、「通いなれた」大青田の森を抜け、大青田の湿地・谷津に出る。谷津を辿り、国道16号が利根運河を渡るところに進む。と、そこには先日訪れた円福寺があり、小金牧の奉行であった岩見石見守を祀る「岩見大権現」がある。今回に散歩は、小金牧の名残を辿る、ということでもあり、ちょっと立ち寄り。岩見大権現は天形星神社の岩見神社のような祠もなく、小ぶりな石塔が残るだけである。






駒形神社

利根運河を超え、最初の信号を左に折れるとほどなく道を少し南に入った民家の間に駒形神社、と言うか、香取駒形神社があった。香取神社と駒形神社のダブルブランドである。ダブルブランドが、いかなる理由でできたのか定かではないが、下総や常陸にはいくつか目にする。
それはともあれ、先日の散歩のおり、この神社にあたりにB29 が撃墜された、とメモした。柏の航空隊からの迎撃か、高射砲によるものか定かではないが、東京空襲を終え帰還中の第314航空団29爆撃群所属のB29一機が被弾。村の上空を旋回し空中分解、香取駒形神社周辺に落下した。乗組員のうち機長含め10名が墜落死、2名が捕虜となるも、そのうち一名が憲兵隊へ送られる途中重体で死亡、残り1名は東京刑務所に収監中、米軍の空襲によって亡くなった、とのことである。

東武野田線・運河駅

駒形神社を離れ、里道を成り行きで進むと利根運河の堤に出た。利根川運河の北側を東武野田線・運河駅へと向かうと、土手の右手下に雑木林に囲まれた池が見える。美しい。下三ヶ尾の湿地・谷津の景観であろう。東京理科大のキャンパスの一部でもあろう、か。見慣れた土手道を進み運河駅に。
ここで本日の予定は終了、とも思ったのだが、日暮には未だ少々時間がある。運河駅と江戸川台駅の中間に「おらんだ様」もあるわけで、小金牧の名残を辿る散歩の締めにと、あと少々散歩を続けることにした。

駒形神社運河駅前の流山街道を南に下る。と、ほどなく駒形神社交差点。道脇にある神社にちょっとお参り。結構立派な構えである。鳥居の横には馬の銅像。社伝によれば、八幡太郎義家公の駒繋ぎの伝説が残る、と。
社殿にお参りし、境内左奥に並ぶ庚申塔と思しき石塔のもとに。その脇には小ぶりな富士塚と浅間神社。また、その脇には「待道大権現」と刻まれた小ぶりな石塔。あまり聞いたことがない名称でありチェックする。
待道講は我孫子を中心とし、利根川右岸と江戸川左岸に挟まれた北総地区に限られた女人講。本社は我孫子・岡発戸の八幡神社、とか。観音講、子安講、十九夜講などと同じく、毎月17日に集い、子育てや安産祈願を願う。待道大権現の軸を掲げ念仏を唱え皆で会食する(「我孫子市史文化財編」)。とあった。

道六神
道を進むと道脇に誠に構えの立派な旧家がある。塀の前には浅間神社の祠がある。浅間神社にお参りし、右手を見ると社といくつかの石塔が見える。社は八坂神社、石塔群は道六神や馬頭観音。道六神は道祖神と同じ。塞の神とも呼ばれ、村の入口に祀られ、村に厄病が入るのを防ぐ(塞ぐ)。ちなみに、塞の神は石だけでなく、木を祀られることもある。いつだったか、信州から越後へと塩の道を辿り、大網峠を下ったところにあった「大賽の一本杉」が記憶に残る
道六神の前に「成田さん」と刻まれた道標があった。この地は旧日光街道(日光街道の脇往還)の辻であったよう。旧日光街道脇往還は南柏のあたりで分岐し、流山・野田・関宿を抜けて日光街道本道に合流する。日光参詣のためだけでなく、大名の参勤交代や物資の運搬などにも利用されたようである。南柏駅付近の国道6号・水戸街道には「旧日光街道入口」と呼ばれる交差点がある。

オランダ様
東深井地区から美原地区に入ると、道脇にコンクリートブロックに囲まれた祠がある。少々窮屈そうな祠に二基の馬頭観音が祀られていた。これがオランダ様である(美原3丁目44)。祠脇の碑文には、「徳川八代将軍吉宗は馬匹改良のためオランダ馬を輸入し小金牧に放牧した。このペルシャ馬のうち此の地で死んだ馬を祀ったのがこの馬頭観世音である。元文二年(1737年)の建立で古くよりオランダさまとして信仰され、またこの前にあった坂はオランダ坂と呼ばれていた」とある。
オランダ観音のところで、品種改良に関心の強かった将軍吉宗は、ペルシャ馬27匹(牝21、牡6匹)を輸入した(『小金牧を歩く;青木更吉(崙書房出版)』)とメモしたが、それがこのことではあろう。オランダ観音に祀られるペルシャ馬は、寛文8年(1668)、品種改良のため輸入したペルシャ牡馬二匹のうちの病死した一匹のようだが、ここに祀られるペルシャ馬は少し時代が下った、亨保年間に輸入された馬のようである。

少々長かった本日の散歩もこれで終了。一部公園とし残る樹林に、江戸川台開発前の景観を想いながら東武野田線・江戸川台駅に向かい、一路家路へと。これで、流山、利根運河散歩で取り残した事跡はほぼカバー。次回はやっと野田市街へと。

水曜日, 7月 14, 2010

利根運河散歩 そのⅡ;利根運河の南北に広がる谷津を辿る


利根運河を散歩したとき、その南北に広がる谷津の景観や、流山へと下る今上落し(農業用水路)の流れが気になり、それではと流山からはじめ、利根運河周辺の谷津を南から北に辿り、谷津の景観を楽しみながら野田へと進もうと思い立った。その散歩の第一回は予定とは大きく異なり、流山に「捉まり」、結局は流山旧市街から先に進むことができなかった。今回は、流山の旧市街を離れ、利根運河の南北に広がる谷津を辿ることにする。スタート地点を探すに、東武野田線の江戸川台駅あたりから散歩をはじめれば、谷津へのアプローチが至便のよう。つい最近までは、まったくの不案内であった流山へのアプローチではあるが、今ではもう勝手知ったる、といった案配。秋葉原から、つくばエクスプレスで流山おおたかの森駅、そこから東武野田線に乗り換えて一路江戸川台駅に

本日のルート;東武野田線・江戸川台>野馬除土手>稲荷神社>香取神社>大青田の森と谷津>東深井古墳群>利根運河>円福寺>妙見神社>国道16号・柏大橋>普門寺>大杉神社>三ヶ尾の谷津>江川排水路>水堰橋>三峯神社>姫宮神社>つくばエクスプレス・柏田中駅

東武野田線・江戸川台駅
駅前には住宅街が広がる。広い野と森が点在する、といった景観を想像していたのだが、予想とは大いに異なる街並がそこにあった。江戸川台駅周辺は、1960年代に千葉県住宅協会によって大規模宅地開発が始まった。開発がはじまる前は、「狐の野」、「兎の村」などと呼ばれ、現在の江戸川台駅の西に農家が一軒だけ、という樹林地帯であったようである。江戸川台駅が開業したのも、宅地分譲が開始された昭和33年(1958)、と言う。
Google mapの航空写真を見るに、整然と区画整理された戸建て住宅が江戸川台駅南の初石から江戸川台駅の北まで広がる。特に江戸川台の東は、こうのす台やみどり台、そして大青田谷津に近い東深井のほうまで戸建住宅が広がっている。当初想い描いていた谷津の景観、その緑が駅近くから運河まで続く、といったイメージは早々に修正しなければならなくなった。

野馬除土手
駅の近くにどこか見処はと案内板を探す。と、駅のすぐ近くに野馬除土手と江戸川稲荷神社の案内。此の地で野馬除土手に再び出合えるとは思ってもいなかったので、偶然の賜を感謝しながら、まずは野馬除土手に。駅の東口を成り行きで進むと流山市江戸川台浄水場。深井戸と江戸川から取水・浄水された水を供給する。野馬除土手は浄水場のすぐ南、整備された緑地帯(江戸川台四号緑地)の中にあった。
野馬除土手とは、下総台地の牧(小金牧や佐倉牧)に放牧された馬が村や畑に入り込み、耕作物を荒らすのを防ぐための土手である。野馬除土手にはじめて出合ったのは南柏駅の近く、日光街道の北にある豊四季第一緑地の中である。そこで見た土手は外側の大土手と内側の小土手からなる二重土塁構造。大土手側は底からの比高差3m弱もあったろう、か。戯れにV字の底から土手を越えんと駆け上がるも、頃は秋、落ち葉に足をすくわれ、とてもではないが、一気に土手を越えることはできなかった。馬もこの土塁を越えるのは結構大変ではあろう。
それに比べこの地の土手はひと筋の土手で、高さも1m強、といったもの。昔は、土手の前には掘がつくられ、それなりの比高差があったのだろうが、馬なら簡単に飛び越せるように思える。一説には掘に木の柵が建てられ、馬の進入を防いだ、とも言う。
土手のサイズは幕府が牧をつくり始めた頃が大きく、時代が下って、江戸の亨保・寛政の頃、新田開発奨励に伴って、牧の中に開かれた新田、というか林畑の作物被害を防ぐ目的でつくられた土手は小さいものとなっていたようである。

野田市立図書館・電子資料室のHP、また『小金牧を歩く;青木更吉(崙書房)』などを参考に小金牧や野場除土手についてまとめておく;小金牧とは下総台地上、現在の野田市から千葉市にかけて(野田、流山、柏、松戸、鎌ヶ谷、船橋、習志野、八千代、千葉、臼井、印西)点在していた放牧場の総称。もともとは、周辺の村から逃亡した馬などが原野で育ち、自然発生的につくられた牧場といったもの。平安時代にはすでに5つほど牧があった、とか。
徳川幕府は、慶長9年(1604)頃、綿貫氏を野馬奉行兼牧士支配役とし馬牧の経営や軍馬の育成に力を入れ2つの牧をつくった。「佐倉牧」とそしてこの「小金牧」である。江戸初期、小金牧には7牧あった。庄内牧(野田市。新田開発のため消滅)、高田台牧(柏市)、上野牧(柏市)、中野牧(松戸市・鎌ヶ谷市)、一本椚牧(享保8年に中野牧に吸収)、下野牧(船橋市)、印西牧(白井市)である。
下野牧は京成本線・八千代台の南、新川を南端にした現在の陸上自衛隊習志野演習場から北に、おおよそ新京成本線に沿って木下街道あたりまでの船橋市域。中野牧は、新京成線と東武野田線の交差するあたりから北上する東武野田線の西側の鎌ヶ谷市から松戸市域。水戸街道・常磐線のラインが北端のようでもある。
上野牧は柏から野田市の境となる利根運河までの東武野田線の東西に広がる市域。高田台牧は上野牧の一筋東の柏市域。庄内牧は利根運河北、東武野田線の東の谷津と、すこし離れ東武野田線が江戸川を渡るために北への路線を西に変える一帯。印西牧は手賀沼の南の臼井市域である。江戸川台のこのあたりは、上野牧ということであろう。
牧では、幕府の役人・牧士(もくし)が管理し、時期がくれば捕込(とっこみ)に野馬を追い込んで捕らえ、良馬は軍馬に、それほどでもない馬は近郊農民達にも売り払ったりしていた、と。とはいうものの、馬は野で育てて、野で捕まえる、といったもので、計画的に馬の飼育が行われていたわけでなかったようだ。
慶長の頃はじまった幕府の牧経営も、八代将軍吉宗による亨保の改革(18世紀前半)にともない状況に変化が現れる。幕府の財政不足を補うべく新田開発が奨励され、小金の牧の中にも水田や林畑の開発が推進される。牧支配も綿貫氏に加え、野方代官として小宮山杢之進が金ヶ作(中野牧;現在の松戸市。新京成線常盤台駅北)に陣屋を構え、従来綿貫氏が支配していた小金牧を南北に分け、南は小宮山氏(中野牧と下野牧)、北(高田台牧、上野牧、印西牧)を綿貫氏が支配することになる。
新田開発の結果、牧の中には村が点在することになり、野馬は村や畑に侵入して耕作物などを荒らした。 各村々は、村境に野馬除土手をつくり被害を防ごうとしたわけだが、完全に防ぎきれず被害に大変苦しんだ、という。野田市中里の愛宕神社には「野馬除感恩塔」があるという。それは、農民に被害を与えていた野馬の里入防止に尽力した岩本石見守に感謝した村人が、その善政をたたえ記念碑をつくった、とのこと。
寛政の改革の頃(18世紀後半)、新田開発の責任者でもあった御小納戸頭取・岩本石見守は愛宕神社の他にも、野田の船形の香取神社、流山の大青田の円福寺、長崎の天形星神社にも「岩見大権現」とか「岩本大明神」などとして顕彰碑や祠が建つ、と言う。
小金牧で飼育した馬の数は、初期は400匹(疋)、中期は1000匹、後期は1500匹、幕末は1800匹ほどであった、と言う(『小金牧を歩く;青木更吉(崙書房))』)。馬や牛の数え方は「頭」と思っていたのだが、「匹」が正しいようだ。匹はもともと、一対の意味。牛馬の後ろから追うときに、牛馬の左右のお尻が一対に見えるから、とか。
ちなみに、村々の被害は馬だけではなかったようである。野に繁殖する鹿や鳥獣による被害も多大なものとなった。ために年貢が減るといった状況にもなり、その対策として鷹狩が行われている。八代将軍吉宗を始めとして、3人の将軍が4回にわたって鹿狩りをおこなっている。

牧は徳川幕府の終結と共に廃止される。その後、新田開発を目的として、牧野が開拓されることになる。これは、新政府の最初の事業とも言われる。江戸というか東京に集まった旧武士8000人をこの地に移し、入植・開墾に従事させることにする。社会不安の根を摘む施策でもあったよう、である。明治2年のこと。結局この事業は失敗に終わったようだが、そのときできた13の開墾集落の名前は今に残っている。数字は開墾された次期の順をも示している。13の開拓地区名;1番目 初富(はつとみ)(鎌ヶ谷市)-小金牧内・中野牧>2番目 二(ふた)和(わ)(船橋市)-小金牧内・下野牧>3番目 三咲(みさき)(船橋市)-小金牧内・下野牧>4番目 豊(とよ)四季(しき)(柏市)-小金牧内・上野牧>5番目 五(ご)香(こう)(松戸市)-小金牧内・中野牧>6番目 六(むつ)実(み)(松戸市)-小金牧内・中野牧>7番目 七(なな)栄(え)(富里市)-佐倉牧内・内野牧>8番目 八街(やちまた)(八街市)-佐倉牧内・柳沢牧>9番目 九(く)美上(みあげ)(佐原市)-佐倉牧内・油田牧>10番目 十倉(とくら)(富里市)-佐倉牧内・高野牧>11番目 十余一(とよいち)(白井市)-小金牧内・印西牧>12番目 十余二(とよふた)(柏市)-小金牧内・高田台牧>13番目 十余三(とよみ)(成田市)-佐倉牧内・矢作牧(野田市市立図書館の資料より)

牧といえば、いつだったか、会社の同僚と平将門の営所のあった石井、現在の板東市に出かけたことがある。で、この際と、将門の資料をいくつか読んだのだが、その中に、牧の話がしばしば登場した。相馬御厨だったか、どこかの御厨で馬、それも半島渡来の馬を飼育し、実績を上げていた、とか。
実績の話はともかく、その資料の中で、馬の放牧の話があった。はっきりとは覚えていないが、馬は自由に放っていた。それは、沼地や台地で遮られ、馬が逃げることができなかった、と。現在の開発された下総台地からは、いかにしてもその姿を想像するのは難しいが、利根運河周辺の谷津は牧の一部であったとのこと。今回の散歩も、当初予定である谷津の景観を楽しむだけでなく、往昔の牧の景観の一端に触れる楽しみもできたようである。

江戸川台稲荷

野馬除土手を離れ、浄水場に沿って北に進み駅前から東に向かう通りの江戸川台東1丁目交差点に。交差点を右に折れ先に進むと、道脇に江戸川稲荷神社があった。社殿はトタン葺切妻造りの覆屋の中にこじんまりとした木の祠が祀られる。お稲荷さまではあまりみかけない造りでもあり、なんとなく惹かれる。11の朱塗りの明神造りの鳥居や唇・耳・爪に赤い化粧のほどこされた狐も面白い。御神木は松とのことである。
このお稲荷さまは江戸の頃、もとは江戸川台駅の西、流山の中野久木の中野久木貝塚の近くに住んだ鈴木家が祀った、と伝わる。後に平七稲荷大明神と呼ばれ信仰を集めた、とのことだが、江戸川台のあたりって、昭和になって宅地開発が開始される時でも、農家一軒だけの林野であった、と言う。鈴木家とは、その一軒だけあった農家であろう、か。また、平七稲荷大明神って、その由来はなんだろう。日本三大稲荷のひとつである豊川稲荷は平八郎稲荷とも呼ばれ、平八狐の話も残る。平七と平八、なんとなく関係あるのだろうか、などなど妄想が広がってゆくが、このあたりで止めておこう。なお、この地に移ったのは、昭和になってから。江戸川台の東地域に住宅を建てた住民によってこの地に祀られることになった、とか。

香取神社
駅前を東に進む通りを江戸川台東交差点を越え、みどり台と青田の境の道を進むと、常磐道の少し手前に香取神社。荒川流域より西は氷川神社、江戸川・利根川流域より東は香取神社、その間の元荒川流域には久伊豆神社とその祭祀圏がくっきりと分かれると言われるが、誠に今回の流山からの散歩では香取の社に出合うことが多い。
境内に入ると社殿は瓦葺入母屋造。趣があってなかなか、いい。この社は江戸の中頃に開発された青田新田の産土神。荒廃した社殿は昭和になって再建された、とか。境内には庚申塔、青面金剛石像などの石像群とともに「手児奈塔があった。これも、こんなところで「手児奈塔」に出合えるとは思ってもみなかったので、偶然の賜に再び感謝。成り行き任せの散歩の妙。

『万葉集』に詠われた娘子・手児奈に最初に出合ったのは市川市真間の手児奈霊堂。手古奈って、絶世の美女であった、とか。ために幾多の男性から求婚される。が、誰かひとりを選べば、その他の人を苦しめることになると思い悩み、入水自殺したとされる。そのロジックはいまひとつ理解できないが、ともあれ、万葉の頃から真間の手児奈のことは知られていたようで、『万葉集』の中で、山部赤人が「吾も見つ 人にも告げむ 葛飾の 真間の手児奈が 奥津城処」、「葛飾の 真間の入江に うち靡(なび)く玉藻刈りけむ手児奈し思ゆ」、と詠う。「ここが葛飾の真間の手墓所。手児名ことは忘れることはないだろう」、「入り江に揺れる玉藻をみると手児名を思い出される、といった意味だろう。
ところで、「手児奈」であるが、東国では娘子のことを、「手児」とか「児奈」と呼ばれる。「手児奈」は、神格化し「別格」な娘子とすべく、万葉の歌人がつくった造語(「手児」+「児奈)との説もある(『手児奈伝説;千野原靖方(崙書房)』)。それはともあれ、伝説の娘子が安産・子育ての神となり、人々の信仰の対象となったのは19世紀前半分、江戸の文化・文政から天保時代の頃から、と言う。真間=崖の上にある日蓮宗の名刹・真間山弘法寺が、文政7年(1824)、ささやかな祠であった手児奈霊堂を再建し、安産子育てのお札を発行し、広く信仰を集めるように努めた、と言う(『手児奈伝説;千野原靖方(崙書房)』)。

江戸のお散歩の達人・村尾嘉陵(宝暦10年1760~天保12年1841)が75歳の時というから、天保6年に真間を辿った記事がある。それによると、「畦の細道を蛇が進むようにくねくねと行き、辿り着いたところが手古奈の社の前である。(昔は)社は,蘆荻(ろてき)の生い茂った中に、5,6尺の茅葺きの祠があるだけで、鳥居などもなかった。それから多くの年月を経て詣でたときは、社は昔の面影のままであったが、鳥居が建っていた。なお年月が経て詣でたときには、もとの茅葺きの祠は取り払われ手、広さ2間ほどに造り変えられ、(中略)さらに今日、40年を経てきてみると、祠は、広さ5間ほど、太い欅柱に、瓦葺き、白壁造りのものに建て替えられていた。鳥居も大きなものを建て並べるなどして、昔の面影はどこにもない。誰がこんな社にしたのであろうか。人がなしたことなのか、知るすべもなし(『江戸近郊ウォーク;小学館』より)」とある。
手児奈霊堂が再建される前後の様子が伺えて誠におもしろい。伝説の真間の手児奈が立派な霊堂となり安産・子育ての神様になってしまったのを嘆いているようでもある。少々メモがながくなったが、かくのごときプロセスを経て安産子育ての神として、此の地の香取の社に祀られているのではあろう。

大青田の谷津

香取神社を離れ、みどり台を成り行きで進み、大青田の湿地へと向かう。住宅街を成り行きで進むと前方に林が見えてきた。住宅街と林の境を辿り、林の中へと入る道筋に入る。鬱蒼とした林、と言うか森を進みながら、駅から辿った道筋も昭和の中頃までかくの如き森であったのか、少々の感慨を抱く。
森の中をゆったりと500m強歩くと前方が開け、大青田の湿地帯に出る。大青田の湿地帯は小金牧のひとつ、高田台牧の北端あたりではあるが、江戸の頃には新田開発が行われたため、牧は常磐道の南の伊勢原から十余二あたりとなっていたようである。牧には300匹ほどの馬が放牧されていた、とか。
大青田の湿地帯の畦道を進む。元々の湿地なのか、休耕田になった故に結果なのか定かではないが、湿地に葦が生い茂る。台地を開析してできた大青田の谷津には、湧水や小川が流れ込んでできた、如何にも自然の湿地といったところも目に入る。なかなか、いい。
谷津の谷を開いた田圃・谷津田の畦道を進む。畦道の分岐点で、右に向かえば葦の茂る湿地から谷津に開かれた畑地へとのぼり、左に折れれば、再び森に入り、その先に東深井古墳群がある。はてさて、右か左か少々迷うも、古墳群という言葉に惹かれ、左に折れることに。

東深井古墳群
左に折れ再び森に入り、そしてその森を抜けると一転、住宅街が広がる。利根運河の手前まで宅地開発が広がっていた。住宅街を西に進み、森を目安に成り行きで進み東深井古墳群に。森に入ると緑の平地があり低い柵で囲われており、8号墳とある。案内がなければなんだかわからない。先に進むと9号・前方後円墳、10号墳などとある。これも、一見するに単なるブッシュといったもの。成り行きで進むと東深井古墳群についての案内があった。
『東深井古墳群について ;東深井古墳群が作られたのは、古墳と埴輪の研究により六世紀から七世紀の初め頃と考えられています。古墳時代の人々は、一族の首長や権力のあった人が死ぬと、多くの時間と労力を費して古墳を築きました。古墳は、死者への敬意と悲しみを表現した重要な遺跡です。
古墳には、粘土で人・動物・家・武器などを形どった焼物がみられ、これを埴輪といいます。埴輪は、死者の供物として、また古墳を飾るために墳丘上や墳丘を囲むように立てられました。東深井古墳群では、発掘を行ったほとんどの古墳から見つかっています。なかでも七号墳からは珍しい魚とニワトリの埴輪が、また九号墳からは人物の埴輪が発見されました。このような埴輪の他に、円筒形の埴輪もあります。円筒形の埴輪は、墳丘の廻りに数多く立てられ、古墳が特別の場所であることを表したと考えられています(以下略)」、とあった。
案内板の横に古墳群の分布図がある。公園内には7号から18号古墳までがある。1号から6号古墳は古墳の森の南にある汚泥再生処理センターの敷地内にあるようだ。7号から18号まで成り行きで辿る。見落としもあったろうが、取り敢えず古墳群を一回りし、7号墳から最初に見た8号墳に戻る。
古墳といえば、埼玉・行田市のさきたま古墳群や、千葉でも印旛沼の北にある房総風土記の丘古墳群で規模の大きな古墳を見たわけだが、この地の古墳はいかにも小振り。前方公後円墳とされる9号墳にしても、後円部の径13.5m、高さ1.5m、前方部の最大幅は4.9m、墳丘の全長は20.8m。このようなささやかなる古墳もなんとなく、いい。

利根運河
東深井古墳群の森の東端に水路が見える。汚泥再生処理センターの入口付近の湧水を水源に利根運河へと注ぐ諏訪下川、とのこと。水路に沿って時に湿地に足を踏み入れたりしながら、利根運河の堤に出る。利根運河のあれこれは、先日歩いた記事に譲る。

円福寺
利根運河の堤を国道16号に向かって東に進む。国道16号に架かる柏大橋の手前で、右に入る道を成り行きで進み妙見山円福寺に。境内に入る手前に十九夜講の如意輪観音や馬頭観音、青面金剛像合掌型の庚申塔といった石塔が並ぶ。境内に入ると、左手に祠。真言宗のこのお寺様は下総三十三番札所の三十一番札所とのこと。
本堂にお参りし、小金牧の奉行であった岩見石見守を祀る「石見大権現」の石塔を探す。と、境内を入った右手にこぶりな三つの石塔がある。近くに寄って眺めるに、右端の石塔に「石見大権現」とあった。右脇には寛政十年と刻んである。

上の野馬除土手のところでメモしたように、岩見石見守は幕府財政の疲弊を改革すべく行われた寛政の改革時、寛政5年(1793)に小金・峯岡・佐倉三牧の取締支配に任ぜられ、新田開発につとめ、同時に、野馬による耕作物被害を防ぐことに尽力した。新田開発も農民の要請に応えて「野馬入新田」と呼ばれる野馬と農民が「共生」する施策も認め、その善政故に「大権現」などと家康並みの称号で祀られている。
流山の長崎にある天形星神社の境内に「岩本大明神」を祀る社殿があったが、それに比べると小振りな石塔のみである。もとは大青田の別の地に祀られていたものを、この地に移したとのことであるので、その過程で社殿が無くなったのだろう、か。単なる妄想。根拠なし。妄想ついでに、岩本石見守の長姉は11代将軍である家斉の生母とのことであり、将軍の叔父として家斉の信任篤く、故に大明神とか大権現といった称号が許されたのだろう、か。

妙見神社
円福寺の隣、国道16号脇に妙見神社。神仏習合の頃は、妙見山円福寺が、この妙見の社の別当寺であった。創建は元禄9年の頃。境内には青面金剛像合掌型など11の庚申塔が並ぶ。
妙見様とは北斗七星を神としたもの。大阪の能勢の妙見さん、江戸の本所や柳島、池上本門寺の妙見堂など日蓮宗関連の寺院に妙見さんが目につくが、もともとは空海の真言宗からはじまったものである。
妙見信仰といえば、秩父神社が思い出されるが、秩父神社は平良文の子が秩父牧の別当となり「秩父」氏と称し妙見菩薩を祀ったことがはじまり。平忠常を祖とする千葉氏はその秩父平氏の流れをくみ、妙見菩薩は千葉家代々の守護神であった。 千葉一族の家紋である「月星」「日月」「九曜」は妙見さまに由来する。かくして、妙見信仰は千葉氏の勢力園である房総の地に広まっていったのであろう。経典に「北辰菩薩、名づけて妙見という。・・・吾を祀らば護国鎮守・除災招福・長寿延命・風雨順調・五穀豊穣・人民安楽にして、王は徳を讃えられん」とあるように、現世利益の功徳を讃えているのも人々に受け入れられた要因ではあろう。実際、稲霊、養蚕、祈雨、海上交通の守護神、安産、牛馬の守り神など、多種多様である。現在のお札の原型とされる護符も民間への普及には「わかりやすい」信仰モデルであった、とか。

下三ヶ尾の谷津
利根運河に架かる国道16号・柏大橋を渡り、橋を少し北に過ぎたあたりで最初の信号を右に入り台地を下り下三ヶ尾の谷津に入る。谷津の入口あたりでは湿地帯は休耕田となっているようで、少々荒れており、埋め返しの残土など、少々無粋な光景も見受けられる。それでも、道ばたに僅かに残る湿地や湧水や、湿地の水を集め谷津の中央を流れる水路のあたりでは、谷津の景観を楽しめる。眼を細め、利根運河が開削される前、この辺り一帯に広がっていたであろう三ヶ尾沼を想う。
下三ヶ尾や西三ヶ尾の谷津は小金牧の中の庄内牧のあったところ。庄内牧はこの地と、北の方の二カ所に別れていたようではあるが、新田開発により18世紀後半の寛政年間にはすべて消滅していたようである。三ヶ尾の名前の由来は不詳。通常、三ヶ尾とは、三つの尾根・稜線をもつ山、のということではあるので、丘陵地が浸食されて谷状の地形=谷戸・谷津が形成されるとき、丘陵地が三つの地形となった、ということだろうか。単なる妄想であり、根拠、なし。

普門寺

谷津を進み、台地に上り畑地を北に折れる道を進み普門寺に。開創は寛永元年(1624)。落ち着いた雰囲気のお寺様である。本尊の「涅槃図」は天文6年(1537)の作と言う。毎年2月11日に一般公開しているとのことである。
境内の左手には閻魔堂があり、承応元年(1652)に造られた寄木造りの座像を祀る。散歩の折々に閻魔様に出合うことも多い。印象に残るのは所沢を東川に沿って歩いた時に出合った長栄寺の閻魔様。関東随一の大きさとのことであった。あとは、文京句・小石川の「こんにゃく閻魔」も名前に惹かれる。
閻魔さまって、もとはインドのサンスクリット語「ヤーマ」の音訳。地獄の王である。それが中国に伝わり、道教における冥界・泰山地獄の王である泰山府君とともに、冥界の王とされ、十人の冥界の王のひとりとして、冥土で亡者の罪を裁くと信じられるようになった。十王信仰である。閻魔様が道教の修行者の服である道服を着ているのは、こういった事情ではあろう。
その閻魔様、地獄の大王である閻魔大王が日本に伝わると、閻魔天と呼ばれ、仏法を守り、人々の延命を助ける神様の色彩が強くなる。日本では閻魔大王は地蔵菩薩の化身とされる。亡者を裁く裁判で被告を弁護するのが地蔵菩薩であり、判決を下すのが閻魔大王であるが、その閻魔大王が地蔵菩薩の化身とであれば、弁護人と裁判官が同一人物と言うことであり、閻魔様=地蔵様を熱心に信仰するのは「合理的」ではあろう、か。閻魔信仰が日本に伝わったのは平安末期であり、鎌倉期に盛んになった。この野田の地には17世紀中頃には、十王信仰が普及していたようである。

大杉神社

普門寺を離れ、台地を成り行きで進むと道脇にささやかな祠。境内も何もないが大杉神社とある。大杉神社に最初に出合ったのは江戸川と中川に挟まれた江戸川区大杉にある大杉神社である。その後、川越から新河岸川を下る途中、富士見市の百目木(どめき)河岸の先でも出合った。
大杉神社の本社は茨城県稲敷市。その昔は霞ヶ浦、利根川下流域、印旛沼、手賀沼などを内包した常総内海に突き出た台地上に神木である杉の大木があり、その大木は舟運の目印でもあったようであり、ために、海上交易や船を水難から護るという言い伝えから、船頭・船問屋に信仰された、という。この社はどのような由来があるのだろう、か。不明である。

三ヶ尾の谷津
大杉神社脇の小径を進み、成り行きで東へと向かい森を抜け、台地を下り、千葉商大野田総合グランドの北を抜け、三ヶ尾の谷津に向かう。低地の中程を江川排水路が流れる。かつてはこの低地は三ヶ尾沼と呼ばれる湿地帯であったが、利根運河開削の残土で沼を埋め、昭和20年代は水田となっていた。平成2年頃にはその水田も耕作放棄され、一時宅地開発の計画もあったようだが、環境保全政策により宅地開発は中止となり、現在「原野」として残る。
東西の長さが1.6キロ程度の平坦地の真ん中を江川排水路が流れ、平地の両側には斜面林が広がる、典型的な谷津・谷戸の景観を呈している。
江川排水路に沿って新江川排水機場まで進み、調整池脇を東に折れ、江川排水機場前を越えて利根運河の土手に戻る。

三峯神社・田中藩飛び領地代官所跡
堤を水堰橋まで戻り、先回の利根運河散歩で見逃した、橋近くにあるという農業用水の樋管を探す。煉瓦造りということですぐに見つかるかと思ったのだが、あちこち彷徨うも、結局見つからず、これも先回の散歩で見落とした田中藩の代官所に向かう。




北部クリーンセンター脇の道を、成り行きで進み先回訪れた医王寺を越え、三峯神社を目指す。台地を下り、田中調整池(地)への坂の途中小さな鳥居とこれまた小径のようなコンクリートの参道が坂道から小丘に向かう。参道を登り切ったところに三峯神社があった。
ささやかな石の祠。結構新しい。祠のそばにある記念碑を読むと、無病息災を祈り秩父郡大滝村の三峯神社を信仰し社を建てた。また講中を組織し、昭和28年までは秩父まで代参していた、と。その後荒廃したが、平成11年旧社を取り除き再建したとのことである。




三峯神社前の坂を少し下ったところに朱に塗られた木造の建物がある。少々古びたこの建物は不動堂。不動堂脇の案内によれば、田中藩飛び領地代官屋敷はこの不動堂の向かいにあった、とか。
田中藩は本多正重にはじまる。本多正重は家康の重臣・本多正信の弟。家康の家臣であったが、一時期出奔し、滝川一益、前田利家、蒲生氏郷などに仕えるも、結局は徳川家に帰参。関ヶ原の合戦、大阪の陣で秀忠をよく支え、その功もあって、この相馬・下総の地を拝領した。その後、本多氏は上州沼田城2万石、享保6年(1722には)駿河国の田中城(静岡県藤枝市)へ田中藩4万石として転封されるも、この下総の地は上知(返上)されることなく、田中藩船戸村として、本多氏は代々250年の長きにわたり、この地で善政を施した。
田中藩の飛地領は流山市域にあった30余りの村のうち14を占めたとのこと。この船戸の代官所は飛領地の北半分の村々を治めた、と言う。ちなみに、南半分を治める代官所は藤心(東武野田線逆井駅の東)にあった、とのことである。なお、その他の村は大名領、旗本領、幕府直轄地が混在し、「碁石混じり」とも称された。
明治維新、下総の領地が上地となるとき、村民はこぞって留任を嘆願。願はかなわなかったが、小村合併の時、本多公の封地であった田中藩の名前を村名とした。田中調整池とか、柏たなか駅が残る所以である。

田中調整池
代官屋敷跡を離れ、田中調整池の周囲堤に沿って南に下る。先には常磐自動車道、堤下には田中調整池(地)と呼ばれる1175ヘクタールにおよぶ広大な農地が広がる。先回の散歩の時に訪れた船戸天満宮にあった「船戸村開拓の碑」によると、「利根川沿いの舟渡から布施・我孫子へ至る広大な水田は、昔は洪水になると作物が流され、ために、流作場と呼ばれた。流作場は江戸の亨保10年(1725)、八代将軍吉宗の新田開発策の一環として実施され、田畑、また牛馬の飼料田の肥料用の秣の草刈り場として使われた。茨城側や鬼怒川口より上流には秣場がなかったため、紛争の因となる地でもあった。流作場は昭和23年に開拓がはじまり、昭和32年に完了。後には区画整理が行われ、現在のような立派な水田となった」、とある。
この広大な農地が調整池と呼ばれるのは、5年か10年に一度の利根川の大洪水のとき、水をこの農地に入れて、東葛地方を水害から護るため。その時は「湖」が出現する、とか。堤防を低くし、利根川の洪水を取り込む越流堤は、少しくだった布施の方にある、とのことである。また、洪水により冠水した農地は共済組合よりの補償金が制度化されている、と。ちなみに調整「地」は国土交通省の使用名であり、調整「池」は農林水産省の使用名とのこと。

姫宮神社
田中調整池周囲堤を進み、常磐道の下をくぐると、堤のすぐそばの台地に緑の一隅が眼に入る。地図で確認すると姫宮神社とある。名前に惹かれて境内に。神社の由緒などは不詳であるが、室町の頃にはこの辺りに集落があったとのことであり、創建はその頃、かと。
境内の案内によると、この社はお姫宮様として親しまれる小青田の鎮守さまであった、とか。小青田とは、なりたエクスプレス柏たなか駅周辺の地名である。神社が新しいのは、常磐鉄道新線(なりたエクスプレス)の施設に伴い、駒木の諏訪神社より隣地を寄進され、従来の境内と合わせて平成9年に鎮守の森として整備されたため。
駒木の諏訪神社とは「お諏訪様」として知られる社である。お諏訪様へのお参りの道として、諏訪道が残るくらいの由緒ある社であり、そこには姫宮神社が祀られ、その御祭神は八坂刀売神。諏訪大神の妃神である。諏訪神社の境内はその昔、現在よりずっと広く、西は諏訪神社、東は姫宮神社の境内であった、という。姫宮と言う地名の字名もあったようであり、また、此の地の姫宮神社は駒木の諏訪神社の兼務社と言うことでもあるので、諏訪神社およびその姫宮神社との関わりのある社ではなかったのだろうか。単なる妄想。根拠なし。
本日の散歩もこれでお終い。つくばエクスプレス・柏田中駅に向かい、一路家路へと。

利根運河散歩 そのⅠ

利根運河のことを知ったのは、いつの頃だったろうか。小金の牧の一端でも感じてみようと、南柏の野馬除土手を見に出かけ、次は流山か野田を歩こうと思っていた頃だろう、とは思う。なにかフックになるところはないかと、地図を見やると、北の野田市、南の柏市・流山市のほぼ境、利根川から江戸川へと通じる水路が目にとまった。それが利根運河であった。全長8.5キロほど。明治23年(1890)、オランダ人技師であるムルデルやデ・レーケの指導のもと開削された日本初の西洋式運河。それまでは、銚子で荷揚げされた物資を東京に運ぶには、利根川を関宿まで遡り、そこから江戸川を下るといった案配で、3日かかったものが、この運河の開削によって1日で東京に届くようになった、とか。最盛期は1日に100艘もの船で賑わい、昭和15年に閉鎖になるまで100万艘の船が往来した、と言う。そのうちに運河を辿ろうと思ってはいたのだが、なんとなくきっかけがなく、そのままになっていた。「状況」が動いたのは先日、秋葉原で開かれた古本まつりで、『水の道 サシバの道 利根運河を考える;新保國弘(崙書房)』を手に入れたこと。運河の歴史や周囲を取り囲む谷戸の景観、中型のタカであるサシバの渡りの中継地といった自然環境のことを知り、これはもう、行くに如かず、とフックがかかった。運河の全長は8.5キロ程度、時間次第では谷津・谷戸や湧水などを探して寄り道しても20キロ程度だろう、と晩秋の週末、利根運河を辿ることにした。

本日のルート;秋葉原駅>つくばエクスプレス・柏たなか駅>医王寺>船戸天満宮>田中調整池周囲堤防>北部クリーンセンターに>運河水門>運河揚水機所>利根運河¥利根川口>運河水門>水堰橋>三ヶ尾の谷津>大青田湿地>国道16号・柏大橋>下三ヶ尾の谷津>ふれあい橋>東武野田線運河橋梁>運河橋・運河水辺公園>利根運河交流館>窪田味噌醤油・窪田酒造>利根運河大師>西深井湧水>におどり公園>運河大橋>今上(いまがみ)落し>利根運河・江戸川口深井城址>東武野田線・運河駅

つくばエクスプレス
利根運河への最寄り駅を探す。東武野田線に、その名もずばりの「運河駅」がある。が、如何せん、運河の「途中」。どうせのことなら、利根川口か江戸川口か、いずれにしても「川口」からはじめようと地図をみる。と、つくばエクスプレスが利根運河の利根川口近くを通り、「柏たかな」という駅が目についた。駅は利根川からも運河からも少々離れてはいるのだが、運河の周辺を辿り、運河の利根川口に向かうことにした。
つくばエクスプレスは秋葉原始発。まったくのはじめての路線である。地下をくぐったり、地表に出たりしながら足立区、八潮、そして三郷を超えて流山に入る。途中「流山おおたかの森」といった駅があった。気になってチェックすると、このあたりの森には「大鷹」の営巣が千葉県ではじめて確認された「市野谷の森」があり、その森が駅名の由来である、と。その森も保存されているとはいうものの、宅地開発のため、規模が縮小されている、と言う。

つくばエクスプレス・柏たなか駅
柏たなか駅で下車。それほど宅地も多くないのもかかわらず高架となっているのは、利根川の周囲堤(遊水地・調整池と堤内地を仕切るための堤防)を越すため、と言う。地形図を見るに、駅は台地と低地の境あたり、台地と谷津(戸)の間の斜面に建つ。ものごとには、それなりの理由がある、ということ、か。ところで、何故に「たなか駅」なのか。気になりチェックすると、その由来は江戸開幕期、豊臣方との大阪の陣での活躍を認められた本多正重が元和2年(1616)に下総と相馬の1万石を加増された時に遡る。その後本多氏は上州沼田城の2万石を経て、享保6年(1722)駿河国の田中城へ4万石として転封されるも、この地は田中藩の飛領地として代官所が置かれていた。そして、明治に至り、明治21年(1888)の町村制施行のとき、田中藩の善政を徳とし、村名を田中村、とした。駅名は、この田中村からのものだろう。

医王寺

利根川口までの道筋で、どこか見所は、と駅前で地図を見る。由緒などはわからないが、途中の医王寺、そしてその近くに船戸天満宮が目にとまる。まずは医王寺へと向かう。
駅前は開発がはじまったばかりの印象。台地をならし、農地の間に宅地が開かれはじめている。道なりに進むと前方に常磐自動車道。台地の間を縫って走ってきたのか、自動車道に近づくにつれ、緩やかで自然な坂となる。自動車道を潜り、再び緩やかな坂を上り、船戸地区に入ると医王寺が見えてくる。
医王寺は、真言宗豊山派で開基は不詳であるが、本堂はこの船戸に田中藩の代官所が置かれた元和5年(1615年)の建立、と言う。本尊は薬師如来とのことだが、最近つくられたと思える千手観音(平和観音)さまが迎えてくれる。このお寺さまは、「船戸おびしゃ(びしゃ=奉仕)」で知られる。おびしゃ、とは通常、矢を射ることがおおいようだが、この地では矢を射ることはなく、酒の宴で「三助踊り」「三番叟」「おかめ踊り」を演じる、とある。最近は自治会館で行われるようになったようである。

船戸天満宮

医王寺を離れ、道なりに船戸の天満宮に。ほとんど北総台地の端、利根川の低地との境に建つ。社殿は最近建て替えられたばかりのよう。鳥居の近く、玉垣の後ろに5基の庚申塔が並ぶ。宝暦から文化年間、というから18世紀の中頃から19世紀初頭のものである。
境内には牛頭天王、清瀧神社、八幡宮、天照皇大神、金比羅大権現、浅間さまなどの石祠が祀られる。区画整理か、なにかの折りに、船戸村の各所に祀られていたものが、この地に集められたのではあろう。
神社の創建は元和元年(1616)と伝わる。この年は、上でメモしたように、本多正重が此の地を拝領した年である。本多正重は家康の重臣・本多正信の弟。家康の家臣であったが、一時期出奔し、滝川一益、前田利家、蒲生氏郷などに仕えるも、結局は徳川家に帰参。関ヶ原の合戦、大阪の陣で秀忠をよく支え、その功もあって、この相馬・下総の地を拝領した。船戸藩とも呼ばれたようである。
その後、本多氏は上州沼田城2万石、享保6年(1722には)駿河国の田中城(静岡県藤枝市)へ田中藩4万石として転封されるも、この下総の地は上知(返上)されることなく、田中藩船戸村として、本多氏は代々250年の長きにわたり、この地で善政を施した。明治の町村制施行時に田中村とした所以である。
飛領地の代官所(御役所)は、今回行きそびれたのだが、天満宮の少し南西にある三峯神社の近くにあった、とか。そこでは飛領地の北半分の村々を治めた、と言う。ちなみに、南半分を治める代官所は藤心にあった、とのことである。船戸の地名の由来は、船の着く場所=戸が、あったから。常陸・下総・武蔵を結ぶ渡船場があり、また、利根川を関宿に上る船運の休憩所としても賑わった、と伝わる。

田中調整地(池)
境内を彷徨い、台地端より低地を眺める。農地の広がる低地は田中調整地(池)と呼ばれる。1175ヘクタールにおよぶ広大な農地・調整地(池)である。境内にあった「船戸村開拓の碑」によると、「利根川沿いの舟渡から布施・我孫子へ至る広大な水田は、昔は洪水になると作物が流され、ために、流作場と呼ばれた。流作場は江戸の亨保10年(1725)、八代将軍吉宗の新田開発策の一環として実施され、田畑、また牛馬の飼料田の肥料用の秣の草刈り場として使われた。茨城側や鬼怒川口より上流には秣場がなかったため、紛争の因となる地でもあった。流作場は昭和23年に開拓がはじまり、昭和32年に完了。後には区画整理が行われ、現在のような立派な水田となった」、とある。この記念碑、江戸の頃、深さ1mもの沼地の広がる和田沼を中心とした利根川流域の湿地帯の開拓のことなのか、昭和になっての開拓の歴史を記念するものなの判然とはしないのだが、いずれにしても、沼地や低湿地を開拓するのは大変な苦労があったと、往昔の労苦を偲ぶ。

周囲堤を進み運河に向かう

天満宮より医王寺方面に一度戻り、台地を西に下ると、田中調整地(池)との境の堤に出る。こういった、調整池・遊水池と堤内地を仕切るための堤防を周囲堤と呼ぶようだ。右手に広がる、この広大な農地が調整池と呼ばれるのは、5年か10年に一度の利根川の大洪水のとき、水をこの農地に入れて、東葛地方を水害から護るため。その時は「湖」が出現する、とか。堤防を低くし、利根川の洪水を取り込む越流堤は、少しくだった布施の方にある、とのことである。また、洪水により冠水した農地は共済組合よりの補償金が制度化されている、と。ちなみに調整「地」は国土交通省の使用名であり、調整「池」は農林水産省の使用名とのこと。
左手前方に柏市の北部クリーンセンターの建物を見ながら堤上を辿り、利根運河に到着。運河水門なども水路上に見える。これからが本日の本番である。

囲繞堤(いじょうてい・いにょうてい・いぎょうてい)を利根川に周囲堤が突き当たる堤防が右手の利根川方面に向かって延びる。成り行きで先に進むと、この堤防は運河の堤防ではなく利根川と調整池を隔てる囲繞堤であった。調整池との関連での堤防は、遊水地・調整池と堤内地を仕切るための堤防が周囲堤と呼ばれるのに対し、調整池・遊水地と河道を仕切るための堤防のことを(いじょうてい・いにょうてい・いぎょうてい)と呼ぶ。
河川と調整池を遮るものであるので、運河の水路とは関係なく、距離はどんどん離れてゆく。どこか適当なところで堤防を降りて運河へと向かいたいのだが、運河方面へのエスケープルートが、ない。結局常磐道近くまで囲繞堤を進み、かろうじて堤防を降り運河方面への細路を見つけ、運河へと引き返す。水がなかったからよかったものの、時期に寄ってはクリーンセンターあたりまで引き返すことになった、かも。

運河揚水機場
運河跡の水路を利根川口へと先に進むと、塵芥除去用の堰のような施設が運河を堰き止めている。あとからチェックすると運河揚水機場のようであった。現在も機能しているのかどうが定かではないが、この施設は利根川の水を運河に取り込む施設であったようである。
上でメモしたように、利根川と江戸川をショートカットで結び、船運大いに栄え、明治28年(1895)には東京から銚子までの144キロを18時間で結ばれるまでになった利根運河の舟運であるが、明治29年(1896)には日本鉄道土浦線が開通し、田端から土浦が2時間で結ばれるようになる。船運では1泊2日かかった距離である。更に明治30年(1897)には総武鉄道(後の総武本線)銚子と東京が4時間で結ばれるようになると、舟運は次第に衰え、鉄路が長距離大量輸送の主役となる。利根運河の最盛期は明治23年の開通から明治43年頃までの、おおよそ20年だけであった。
その後、昭和16年(1941)には台風の被害により運河の堰が決壊し運河の通行が不可能となり、それを契機に民間企業ではじまった運河会社が破綻し、国が買い上げ、洪水時の利根川の水を江戸川に分水する「川」と変わった。名称も「派川利根川」と呼ばれたようである。もっとも、この洪水分水計画も、洪水被害を恐れる江戸川サイドの反対により、分水計画は実行されることなく、利根川口も閉じられ、結局、利根運河は周辺の排水を流す水路となってしまった。こんな状況が変わったのは高度成長期の首都圏の水不足。利根川の水を江戸川に導水するサブ水路として、この利根運河=派川利根川を野田緊急暫定導水路として策定。昭和47年(1972)工事着工。昭和48年(1973)には通水再開。1975年(昭和50年)には、利根川口の堤防撤去し、500m程下流にあった利根川との接続点を現在の流路に移し、野田導水機場(運河水門)の設置が行われ、利根運河に再び水が流れるようになった。運河揚水機場は、この時期に利根川の水を取り込んでいたのではあろう。
水流の戻った利根運河=派川利根川を野田緊急暫定導水路、ではあるが、2000年(平成12年)4月には北千葉導水路が完成。利根川の水を木下(きおろし)の上流で取水し、手賀川・手賀沼の南端を進み、大堀川沿いに遡り、大堀川注水施設から坂川放水口へと南に下り、松戸の坂川放水路から江戸川に注ぐ。このメーン水路の通水により、サブ水路の利根運河=派川利根川を野田緊急暫定導水路はその役割を負える。現在は水質保全のため、年間の一定期間・一定時間のみ、利根川からの導水が行われている、とのことである。なんの変哲もない運河揚水機場から、あれこれ運河の歴史・変遷が見えてきた。

利根運河・利根川口
運河揚水機場を離れ、先に進み運河、と言うか、正確には緊急暫定導水路ではあるとおもうのだが、ともあれ、利根川口に。利根川の堤を辿ったのは、数年前、手賀沼から手賀川を遡り木下(きおろし)の堤に出たとき以来かとも思う。利根、というだけで、なんとなく、「はるばる来たぜ」の想いが強くなる。
利根川口に下りるが水は、ない。運河建設当時は江戸川から利根川へと水が流れていたようだが、台風の洪水などにより利根川と鬼怒川合流点の河床が上がり、現在では利根川口の方が水位が高くなったようである。そう考えると、先ほど歩いた囲繞堤に沿った川筋跡は、ひょっとして、往昔の利根運河の水路ではなかろうか、なとど思い始めた。上でメモしたように、野田緊急暫定導水路をつくる際に、500mほど下流にあった利根川口を現在の運河の水路に移した、とあるし、それよりなにより、現在の運河のように利根川に向かって「口」を開けて、如何にも取水する、といった現在の水路より、囲繞堤に沿って南へと利根川に向かう水路のほうが、利根川に注ぐには自然なように思える。単なる妄想。根拠なし。

野田導水機場(運河水門)
♪利根の 利根の川風よしきりの 声が冷たく身をせめる これが浮世か 見てはいけない西空見れば 江戸へ 江戸へひと刷毛(はけ)あかね雲♪。三波春男の『大利根無情』を小声で歌い、川口を離れて運河水門へと戻る。この水門も野田緊急暫定導水路計画の時に造られたものではあろう。
利根川口や江戸川口には船宿や茶屋など80軒を越える店が並んでいたようである。茶屋などが並んだところが、どのあたりか定かではないが、川口より少々奥まった処ではあろうから、この水門のある辺りではないだろう、か。川口には運河の料金所が設けられていた、と言う。この運河は利根運河会社という民間の会社によって始められたためである。
当時、この地の県議でもあった広瀬誠一郎氏が当時の茨城県令人見寧により政府の事業として計画を推進したが、人見寧が自由民権運動の加波山事件により職を辞することになる。後任の県令が運河建設に消極的態度であったこともあり、内務省が予算化を許さず、ために、浪人中の人見寧を社長、広瀬誠一郎を筆頭理事とした民間企業の事業として開始されることになった、とのことである。
広瀬誠一郎氏は「この人あって利根運河成る」と称される地元の篤志家。人見寧は京の生まれ。幕末に遊撃隊の隊士として各地を転戦。函館五稜郭の戦いで敗れ一時、逼塞するも、新政府の大久保利通に見いだされ明治政府に仕え、茨城県令となっていた。「利根運河の成就したるは一生涯の快事とす」、と書き残した人物である(『水の道 サシバの道 利根運河を考える;新保國弘(崙書房)』より)

水堰橋
水門を越えて利根運河を辿ることに。西に向かって一帯を眺めるに、運河両岸には谷戸・谷津の森が迫り、誠に美しい景観を示す。先に進むと水堰橋。この辺りが台風により決壊した、とのこと。
水堰橋を渡る県道7号・我孫子関宿線の橋北詰に煉瓦造りの樋管が残る、と言う。利根川の改修工事、第一期の頃、というから明治33年(1900)頃の遺構。樋門のあった堤防は、野田堤とも江川堤とも呼ばれ、かつての利根川右岸堤防か、あるいは控堤(洪水防止のため、重点箇所に設けられる堤防)であったとのこと。台風で水堰橋辺りが決壊した、というもの、なんとなく納得。と、あれこれメモしたが、この煉瓦造りの樋門を知ったのは、此の地を通り過ぎた後のこと。行き当たりばったりの散歩故の、後の祭りのひとつ、ではある。

三ヶ尾の谷津
運河の北側に二筋の森が広がり、その間の低地を江川が流れる。かつてはこの低地は三ヶ尾沼と呼ばれる湿地帯であったが、利根運河開削の残土で沼を埋め、昭和20年代は水田となっていた。平成2年頃にはその水田も耕作放棄され、一時宅地開発の計画もあったようだが、環境保全政策により宅地開発は中止となり、現在「原野」として残る。南北の幅がおよそ200から300m、東西の長さが1.6キロ程度の平坦地の真ん中を江川排水路が流れ、平地の両側には斜面林が広がる、典型的な谷津・谷戸の景観を呈している。
三ヶ尾の名前の由来は不詳である。通常、三ヶ尾とは、三つの尾根・稜線をもつ山、のということではあるので、丘陵地が浸食されて谷状の地形=谷戸・谷津が形成されるとき、丘陵地が三つの地形となった、ということだろうか。単なる妄想であり、根拠、なし。

大青田湿地
山高野歩道橋を渡り運河南岸に移る。運河の南側を船戸山高野と呼ぶ。「やまごうや」と読むようだ。高野は「荒野」から転じた、とか。利根川沿いの丘陵地であり、新田開発された江戸の頃より古い時代に開墾された地域ではあろう。
先に進むと、堤下がいかにも低湿地といった一帯が見えてくる。低地には湧水だろうか、水を集める用水路も見え、その水路は利根運河へと注いでいる。湿地の周囲は斜面林に囲まれ、谷津の景観を示す。このあたりは大青田の谷津と呼ばれるようである。「青田」とはこの地方の方言の「アワラ」に由来し、湿地の意味。アワラ=芦原、からの転化であろう、か。

国道16号・柏大橋
大青田湿地もさることながら、利根運河の逆サイド、運河の北にも、いかにも谷津の風情の景観が広がる。北岸に移るべく、運河堤を先に進み、柏大橋に。柏大橋を通るのは国道16号。八王子あたりでよく出合う国道であり、ちょっと気になりチェックする。
国道の始点は横浜市西区高島町交差点ではあるが、そこから相模原市、八王子市、昭島市を経て、川越市、さいたま市、春日部市、野田市、柏市、千葉市、木更津市に至る。その先は東京湾であるが、道は湾を隔てた横須賀市につながり、始点の横浜に戻る。変則的ではあるが、首都圏を巡る環状線となっている。ちなみに、これも後の祭りではあるが、柏大橋の北に香取駒形神社、南に妙見神社と円福寺がある。香取駒形神社の近くに、戦時中、撃墜されたB29が墜落した、と言う。これは、柏の地に陸軍の飛行場・飛行隊があったことも、その一因であろう、か。昭和13年(1938)陸軍柏飛行場が当時の田中村、十余二村あたりに建設がはじまり、立川から飛行第五戦隊が移転。昭和15年(1940)には柏飛行場の南、高田に第四航空教育隊が設置された。そこで短期飛行訓練を受けた隊員は、鹿屋や知覧の特攻隊の基地に移っていった、とのことである。
立川の航空隊は玉川上水散歩のとき、突然暗渠となり、何故かチェックしたとき、航空隊用の滑走路の延長を考えてのことであったようだが、その飛行隊が柏に移ったため、滑走路の延長はなくなり、それに備えた玉川上水の暗渠だけが残った。歩いていれば、いろんなところで、いろんなものが紐付いてくる。

下三ヶ尾の谷津

大青田湿地の対面に見えた谷津のあたりまで少し戻り、景観を楽しむ。三ヶ尾の谷津と同じく、低湿地に湧水を集めるためのような用水路が通り、両側を森が囲む。地図を見るに、東側の森には普門寺といった古刹も残るよう。これまた、後の祭りの為体(ていたらく)とはなった。
この辺りの谷津をどう呼ぶのかはっきりしない。普門寺が下三ヶ尾地区にあり、往昔、このあたりには下三ヶ尾湿地があった、とのことであるので、一応、下三ヶ尾の谷津、としておく。運河の南北に広がる谷津は如何にも、魅力的。今回は三ヶ尾沼や谷津等の自然の地勢を生かして蛇行する河道を掘り進んだ運河を東から西へとの急ぎ旅ではあるが、次回は、運河南の大青田湿地から、北の下三ヶ尾湿地へと南から北にぶらりぶらりと歩いてみたいと思う。

蛇行する運河堤を西へと進む
下三ヶ尾の谷津を後に、柏大橋に戻る。地図を見るに、運河北側の東京理科大の東側に池がある。これって下三ヶ尾沼の名残であろう、か。運河の南には大青田の森と谷津、その西には東深井古墳の森。この辺りも、再び訪れて彷徨ってみたい。
運河は緩やかに蛇行する。オランダ人技師であるムルデルが運河の計画を立てるに際し、沼や谷津等の自然の地勢を生かし、蛇行する川道を掘り進んだ、と上でメモした。開削当初の江戸川口と利根川口の水位は僅かに28センチ。9キロ弱を28センチの勾配で進む訳であるから、川道が蛇行するのは自然なことではあろう。
蛇行する運河の堤防が正面に見えるところがある。ぱっと見には、堤は段丘面のように数段に分かれている。これは、運河開削時、河底から1.45mのところに幅90cmの「犬走り」をつくり、水生植物で護岸を強化した。また、犬走りから3.3m上に幅1.8mの「曳船道」があった、と言う。岸の左右の「曳船道」は、江戸川口からと利根川口からの曳舟道は、どちらかに決められていた、とのことである。
ちなみに、運河開削当時の利根運河は、閘門はなく、開放運河であり、運河を通る最大の船の大きさを26.4m、幅8.2m、喫水1.06m。底敷幅は18.2m、水深は1.6m。堤防の高さは9.4m、堤防上部の「馬踏(土手上面)」の幅は5.5m。六カ所の狭窄部の底敷幅は10mであった、と言う。六カ所の狭窄部とは、水量を抑え、洪水被害を少なくするためであった、と言う(『水の道 サシバの道 利根運河を考える;新保國弘(崙書房)』)。

ふれあい橋
先に進むとアーチ型の橋が見える。東武野田線・運河駅と運河北にある東京理科大野田キャンパスを結ぶ。全長110m、幅4m。1996年に架けられた。アーチ橋には上部アーチと下部アーチの二つのタイプがあり、上部アーチとは、路面下の桁がアーチ型になっているもので、下部アーチは逆で、路面の上に弓状のアーチを架け、そのアーチ部材からケーブルで路面を吊る構造の橋である。また、そのケーブルが真っ直ぐなものがローゼ橋、斜めに張ってクロスしているものがニールローゼン橋と呼ばれるようだ。ふれあい橋はニールローゼン橋となっていた。

東武野田線運河橋梁
ふれあい橋のすぐ西に東武野田線の鉄橋が架かる。明治44年(1911)、千葉県営軽便鉄道として柏・野田間で開業。野田の醤油輸送を主たる目的とした。その後、鉄道は、北総鉄道、総武鉄道をへて、昭和18年(1943)東武鉄道と合併し現在に至る。


運河橋・運河水辺公園
東武野田線を越えると県道5号・流山街道に運河橋がかかる。運河橋の先は運河水辺公園となっており、川床には浮き桟橋なども架けられ、水面までくだることもでき、多くの家族連れが楽しんでいた。
堤には「ムルデルの顕彰碑」や「利根運河の碑」が建つ。ムルデルはオランダ人技師。明治12年(1879)に31歳で来日し、明治23年(1890年)帰国。その間、お雇い外国人技師として、日本各地の河川や港湾改修の指導にあたった。利根川、江戸川、鬼怒川の改修等にも従事しており、なかでも利根運河は日本でムルデルが手がけた最後の仕事であった、とか。
お雇い外国人として来日したときの月給は450円。当時の太政大臣三条実美の給料が850円、日本人土木局長の給料が250円であった、という。本国での丘給料の10倍から20倍という高級で招聘してでも、公共施設の整備を急いだ、ということであろう(『水の道 サシバの道 利根運河を考える;新保國弘(崙書房)』より)。利根運河の碑は明治41年(1908年)の建立。題字は山縣有朋による。

利根運河交流館
運河北岸を少し西に進むと国土交通省江戸川河川事務所運河出張所の1階に利根運河交流館。運営は地元のNPO法人が行っている、と。当日はイベントがあったとかで、その片付けに最中の慌ただしい仲お邪魔し恐縮。往昔の運河の写真など資料が展示されている。

そこで「利根運河絵図」を頂く。運河周辺の見処を含め、情報がまとまっている。この資料が前もって手に入っていたら、「後の祭り」は相当減ったことだろう。ともあれ、取りこぼしは再び辿ることにして、交流館を後にする。

窪田味噌醤油・窪田酒造
先に進むと、堤下に黒板壁の蔵が見える。創業明治5年(1872)、創業者の吉宗さんが利根運河開削に合わせ、この地に移った、と。千葉県最北部の野田。流山は醤油や酒、みりん、などで知られる。とは言いながら、今回に散歩では、この地ではじめてその「事実」に出合った。なんとなく、嬉しい。

利根運河大師

窪田酒造のすぐ東、これも堤の下に利根川運河大師。堤を下りると17体の弘法大師像が佇む。これは大正2年、地元世話人の呼びかけで弘法大師像と祠を運河の堤に建て、「新四国八十八ヶ所利根運河霊場」を成した。行楽を兼ねて多くに人が訪れたこの札所も昭和16年の大水害による水水害で水堰が決壊し、その改修工事に際し、堤防上の札所の立ち退きが行われ、その後、結果的には大師像が四散し、所在不明となった。その後、昭和61年に、柏・野田・流山の近隣三市の有志により大師像の捜索が行われ、市野谷の円東寺に移されていた17体の大師像を見つけ、大師堂を建て、この地に迎えた、とのことである。

西深井湧水
利根運河交流館で頂いた「利根運河絵図」を見るに、利根運河大師のすぐ先にある西深井歩道橋を南に渡ると、すぐ南に西深井湧水の案内がある。湧水フリークとしては、「MUST案件」として、湧水池へと向かう。
橋を渡り、北総台地と低地の境の斜面林の崖下を南に進むに、湧水からの流路らしき筋があり、そこを辿ると湧水池があった。西側の低地部分は流山工業団地となっており、道路脇の湧水池であり、今ひとつ趣きには欠けるのだが、それでも、「湧水」を見ることができるだけで、心嬉しい。

におどり公園
再び「利根運河絵図」を見るに、流山工業団地に沿って運河堤下を少し東に進んだところに「におどり公園」。鳰鳥(にほどり)って、この辺りに棲むカイツブリという鳥の古名前、とか。如何なる由来の公園かと訪ねることに。v公園には万葉集に掲載された東歌の碑があった。『鳰鳥(にほどり)の葛飾早稲(わせ)を饗(にへ)すとも その愛(かな)しきを外(と)に立てめやも』。解説によると、「万葉集が編纂された8世紀には流山をはじめ現在の江戸川沿いの野田から市川、埼玉の一部も含めた一帯は「葛飾」と呼ばれ、早稲米を産する米どころとして知られていた。右の歌は、「葛飾の里でとれた早稲米を神に捧げ、門を閉ざして神の恩恵に感謝し、豊年を祝う晩は男女とも清浄でなくてはならないのだけれど、もし、いとしいあの人が訪ねて来たら外になど立たせておけないだろう。」という意の恋する乙女心をうたった歌である。「におどり」とは葛飾にかかる枕詞でありカイツブリという鳥の古名である」、と。
古来の葛飾は、此の辺りの新川耕地などの流山や江戸川対岸の三郷市一帯。古来より水田地帯であった、ということもさることながら、如何にも情緒豊かな歌に、情感乏しき我が身も、少々心動く。

運河大橋
県道5号・松戸野田有料道路が運河を越える運河大橋を越え利根運河江戸川口に進む。運河の北は今上耕地、南は新川耕地の広大な水田地帯が拡がる。新川耕地はタゲリの田圃とも呼ばれる。冬鳥として飛来し、本州中部以西の田圃や河岸・池沼で越冬する。一部関東北部では繁殖するものもいる、とWikipediaにあった。運河堤から東を見やると、新川耕地の背後に5キロほど続く、北総台地の斜面林が美しい。

今上(いまがみ)落し
運河の堤から南北の耕地を見やる。北の今上耕地、南の新川耕地に幾状かの水路が見える。往昔、利根運河ができる前、この北の野田から南の流山の水田地帯を南北に流れる悪水路(水田で不要となった水)を流す水路があった。利根運河を造るに際し、この水路を運河の下を暗渠でくぐらせるようにした。水路を深く掘り下げた工事は724mにおよび工期1年という、利根運河工事のなかでも大きな位置を占める工事となった、と言う。
今上落しがどの水路か定かではない。運河大橋の近くに新野田南排水機場があるあたりの、運河を隔てた南側に水路が現れている。現在では暗渠を通ってきた水をポンプアップで組み上げているのだろう、か。確かめたわけではないので、この水路が今上落しなのかどうか、確証はもてない。この水路、野田から流山まで11キロ程度続くようで、流山で江戸川に注いでいるようである。そのうちに流山の江戸口から遡ってみよう、と思う。




利根運河・江戸川口
運河堤を先に進む。どこかで見かけた図を想い起こすに、今上落しから江戸川口までの間には、舟運の料金所や宿、料亭、茶屋、鍛冶屋、網屋などが軒を並べていた。往昔の賑わいを想いながら、現在では耕地が拡がる運河の南北を眺めながら利根運河の江戸川口に到着。利根川口から江戸川口まで8,5キロ程度、延べ220万人、1日平均2,000名から 3,000名が工事に従事した利根運河を歩き終える。




深井城址
利根運河散歩を終え、家路へと向かう。途中、「利根運河絵図」にあった深井城址に立ち寄る。それらしき森に入るも、標識などなにも、ない。なんとなく、此の辺りかと彷徨う、のみ。城は戦国期、小金井城を本拠としていた高城氏の支城。重臣の安蒜一族が籠もった、と言う。城は、小田原征伐の折、小金井城が開城したときに、同じく開城。その後小金井城とともに廃城となった。いつだったか、小金井城を辿ったことを思い出し、その城址を想う。

東武野田線・運河駅
城址を離れ、すぐ近くにある割烹旅館新川の前を通り、明治創業のこの割烹旅館に、利根運河が賑わった当時を想い東武野田線・運河駅に向かい、一路家路へと。

そういえば、今回の散歩のきっかけともなった、『水の道 サシバの道 利根運河を考える;新保國弘(崙書房)』にある、サシバのことに全く触れていなかった。『水の道 サシバの道 利根運河を考える;新保國弘(崙書房)』によれば、サシバとは中型の鷹。夏鳥として東南アジアや中国南部から3月下旬から4月上旬にかけて秋田以南の各地に渡来。日本の谷津田で繁殖し、毎年10月頃、愛知県の伊良湖岬、ついで鹿児島県佐多岬をへて、屋久島以南の南西諸島や東南アジアに渡って冬を過ごす。その渡りのルートが此の辺りでは、利根運河の江戸川口がその飛翔ルートであったようである。サシバの生育地の条件としては、谷津田があり、耕作水田があり、その水田が大きな斜面林に蔽われる、といったことで、このあたり千葉県北部はサシバだけでなく、おおたかの森で知られる大鷹、フクロウ、ハヤブサといった猛禽類の繁殖、生息地に適している環境のようである。いつだったか、手賀沼の辺りを散歩していたとき、山科鳥類研究所があり、何故この地に、と思っていたのだが、なんとなくその理由がわかったような気がする。