土曜日, 10月 26, 2013

奥多摩・シダクラ沢遡上;シダクラ沢を源頭部まで詰め、大ブナ尾根に這い上がりサス沢山をへて奥多摩湖に下る

暑かった夏の締めくくりの沢遡上をしましょう、との沢ガールの御下命。さてどこに行こうかとあれこれ考える。越沢からはじまり、倉沢本谷、海沢とガイドし、沢登りにも少し慣れてきたし、装備もリュックサックからはじまり、沢シューズ、ヘルメット、中にはハーネスまで揃える人も登場してきた。
それではと、奥多摩の沢遡上としては代表的な水根沢かシダクラ沢のどちらか、と少々迷う。水根沢は沢に沿って林道がありエスケープというか復路が楽なのだが、水に濡れそう。一方のシダクラ沢は水には濡れることはなさそうだが、復路の林道がないので、源頭部まで詰めた後は急登を尾根に這い上がり、そこから登山道を奥多摩湖まで下らなければならないようである。で、あれこれ考えた末、シダクラ沢に決めた。水に濡れることを避けるのもさることながら、水根沢は結構人が多そうであり、我ら素人集団が通行の妨げとなることを躊躇したためである。
シダクラ沢は沢自体はそれほど難しくはなさそうではあるが、源頭部を詰めた後の尾根への這い上がりの急登が難儀なよう。その尾根への急登がどの程度のものか、途中撤退の場合の沢脇の山道がどのようなものかチェックするため、事前踏査をパートナーのTさんと実施。さすがに尾根への急登は厳しかった。また、沢脇の山道はグズグズしてはいそうだが、予想より下りやすそう。で、Tさんとも相談し、基本方針を以下の如く決める。

メンバーはTさんと私以外に4名。二人の事前踏査より時間がかかりそうであるから、午後1時時点での到着地点で前進か引き返すか決める。引き返すには数カ所の滝は懸垂下降が必要。ハーネスを準備できない人はスリングで簡易ハーネスをつくり懸垂下降をおこなうため、できれば120,80のスリングとカラビナ、ヘルメットの用意をと連絡。ヘルメットを安くあげるには、ワークマンであれば2500円程度であるよ、などとの要らぬお節介を焼きながら当日を迎える。
Tさんと私は遡上に時間がかかり、途中での引き上げを心の中で願う。なにせ、事前踏査を行ったのは1週間前。あの急登を再び、と考えると少々辛い。

本日のルート;奥多摩駅>惣岳(そうがく)バス停>奥多摩むかし道>しだくら橋>入渓>4m滝>4m滑滝>4m二条の滝>2段6mの滝>4mの滑滝>大岩>4m滝>二俣>4m滝>美しい苔の岩場>奥の二俣>小尾根への取り付き>小尾根を登る>最後の詰め>大ブナ尾根の登山道に到着>サス沢山>奥多摩湖


奥多摩駅:
午前7時に立川駅に集合。沢ガール一人が体調すぐれず参加できずパーティは5名。天候は曇り。7時15分奥多摩行の予定が7時5分発の青梅行に間に合う、ということで予定変更。結果的には青梅からの奥多摩行きは7時15分立川初に乗ることになるので同じことではあった。奥多摩着8時29分。6分程度の待ち合わせで奥多摩湖・鴨沢方面行きのバスに乗り、最寄りのバス停・惣岳(そうがく)に。

奥多摩むかし道
バス停の少し手前から川筋に下る石段。民家の間を抜け、奥多摩むかし道を先に進む。奥多摩むかし道とは奥多摩駅前から奥多摩湖までの10キロほどを結ぶ旧青梅街道筋。道の右手に鳥居が見える。惣岳の不動尊。案内によると、「明治年代、水根の奥平大乗法印と信仰心の厚い惣岳の奥平庄助によって成田不動尊を勧請した」とあった。
道の左手は深い惣岳渓谷。「太古以来の大洪水と、近くは寛保2年(1742)、明治40年(1907)の奥多摩一帯を襲った未曾有の大洪水によって、多摩川南岸しだくら谷より押し出した多数の巨岩怪石が累々として惣岳の荒と呼ばれ渓谷美をなしている」と案内にある。 数年前、奥多摩むかし道を辿ったのだが、未だメモをしていないのを思い出した。最近少し気になっている、奥多摩駅から奥多摩湖を結んだダム工事用の水根貨物線の廃線跡を辿り、折り返しを奥多摩むかし道を再び歩いていようかとも思う。

しだくら橋
奥多摩むかし道としてハイキングを楽しむ人も多いのだろう、道脇にはお手洗いも整備されている。先に進み多摩川に架かる吊り橋を渡る。吊り橋の名は「しだくら橋」。橋の手前に案内;「惣岳の荒」といわれて。多くの巨岩が渓谷美を見せている。巨岩から巨岩をつなぐように直径約20センチ程の杉丸太を4、5本を藤蔓(ふじつる)で結び架橋していた。現在は吊り橋となっている、とあった。
5人までしか同時に渡らないようにとの注意に従い、二手に分かれて橋を渡る。渓谷美が美しい。







入渓点;9時24分_標高385m
シダクラ沢の入渓点は吊り橋の南詰。橋を渡りきったところで入渓準備。沢ガールの皆さんはヘルメットやハーネスなど結構立派なものを揃えてきている。ワークマンで買ったヘルメットは我が身のみ。ハーネスの無いメンバーには120のスリングを上体に、80のスリングを八の字に足に通し、カラビナで上下を結び簡易ハーネスをつけ準備万端。南詰脇から急坂を下り入渓点に。





4m滝:9時32分_標高394m
入渓点付近は倒木が行く手を遮り、少々荒れている。最初に現れる4m滝は右の岩場を巻く。












4m滑滝;9時40分_標高428m
先に進むと4m程度の滑滝。二条になっているような滝を左手の岩場を滑らないように慎重に進む。

4m二条の滝:9時52分_標高442m
3mクラスの小さ滝を越えると滑(ナメ)となり、その先に取水口が現れる。取水口を越えると水流が二条に分かれる滝が現れる。滑りやすい滝の左手を慎重に越えると3mクラスの小滝がふたつ続く。一つ目は岩を上るが、二つ目は小さい釜の先にある滑状の滝。ともに特に苦労なく進み、倒木が沢を跨ぐ岩場あたりで小休止。時刻は10時12分。

2段6mの滝;10時29分_標高514m
その先にはシダクラ沢で最大の滝。それほど厳しい滝ではないのだが、トレーニングも兼ねて簡易ハーネスとザイルを結び、滝上の木立とザイルを固定しビレイ確保。沢ガールは自分の力で滝を上る。ヘルメットを被るだけでワンランクアップした技量に思える。


4mの滑滝;10時54分_標高525m
2段6mの先の4mクラスの滑滝)を越えると左手から涸沢が合流。途中撤退のことも考えながら沢の左右を見やりながら進む。切り立ったV字の谷とはなっていないので、撤退の下山も沢を歩かなくてもなんとかなりそうに思える。






大岩;11時17分_標高593m
涸沢の先に少しハングになった小滝を越えると右手に大岩が見える。








4m滝;11時53分
右手に大岩を眺めながら4m滝を二つ越える。沢ガールの皆さんには、ここも念のためとトレーニングを兼ねて簡易ハーネスとザイルを結び、ビレイ確保の上自力で滝を上ってもらう。










二俣;12時8分_標高735m
二つの滝を越え、次第にV字谷の様相を呈する大岩がゴーロを進むと沢が左右に分かれる「二俣」に到着。1週間前の事前踏査と同じく右の沢に入る。ここでおおよそ12時。予想以上のスピード。メンバーが一人少なくなった分スピードアップしているし、それほど難しい滝や高巻きがないためだろう。この辺りで13時頃であれば、沢の左右の山道を入渓点まで撤退の予定であったのだが、先に進むことにする。予想に反し、奥の二俣の先の急登を上ることになってしまった。致し方なし。



4m滝;12時18分_標高752m
二俣からの岩場を少し進むと結構な滝が現れる。ここも簡易ハーネスとザイルを結びビレイ確保しながら滝を登る。この滝を越えると水流が減ってくる。






美しい苔の岩場;12時29分_標高804m
4m滝の先は誠に美しい苔が覆う岩場となる。苔といえば信州から秩父に抜ける秩父往還・十文字峠越えのときの十文字峠近辺に美しい苔が想い起こされる。十文字小屋には苔調査に来ていた先生方も泊まっていた。



奥の二俣;12時35分_標高825m
奥の二股到着が午後1時半。沢を二つに分ける大岩の手前で大休止。食事を摂りながら右の沢を直登するか、先日踏査した左の沢の先の小尾根にするか少々悩むも、大変さを確認している事前踏査ルートに進むことを決める。私たちの後から来たパーティは右の沢を直登していった。



小尾根への取り付き:12時40分
奥の二股の岩場したから小尾根に向かって取りつき開始。水は無いものの、グズグズの沢を斜め上に向かってトラバース。あまりの急登に文字通り、手足を使った四足歩行で這い上がる沢ガール。グズグズに足をとられ、おまけに急登。身動きできないと這いつくばったままでフリーズ状態。先を登るTさんにザイルを渡し、木に固定し20mのザイルを下ろし、それを掴みなんとか小尾根に取り付く。




小尾根を登る:13時_標高852m
小尾根に取り付くも、グズグズはないものの、依然として急登に変わりない。時に木にザイルを結び、お助けザイルで尾根を登る。たまに緩やかな傾斜があるも、基本は急登。今までの沢登りのように、帰りは沢脇の林道、といった「なんちゃって沢上り」ではなく、沢を源頭部まで詰め、そこから尾根に這い上がり、そして尾根を下るといった、所謂オーソドックスな沢登りは沢ガールの皆さんはこれが初体験。今までと勝手が違うと泣きが入るも、何とか小尾根を進む。先に進むしか術はなし。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)





最後の詰め;13時59分_標高1091m
小尾根に這い上がりはじめてからほぼ1時間20分、尾根道を1時間ほど悪戦苦闘しながら進むと空か開けてくる。大ブナ尾根がやっと視界に入ってきた。岩場の脇から最後の詰めを終え、大ブナ尾根に転げ込む沢ガール。



大ブナ尾根の登山道に到着;14時5分_標高1127m
大ブナ尾根の登山道に到着。皆の顔も心持ち晴れやか。着替えは行わず、沢シューズをトレッキングシューズに履き替えるだけにして登山道を下る。

サス沢山;14時49分_標高940m
登山道を30分ほど下るとサス沢山。この辺りから奥多摩湖が一望のもと。事前踏査の時は天気が悪く奥多摩湖は見えなかったが、今回は美しい姿を現した。沢ガールもピースサインの余裕もでる。

奥多摩湖;15時37分_標高504m

奥多摩湖の展望を楽しんだ後は、ひたすら山道を下る。途中、お助けロープが張られている急坂を下り、尾根の登山道に這い上がった地点バスからおおよそ1時間半。奥多摩湖に到着。バスを待ち奥多摩駅に向かい、一路家路へと。

水曜日, 10月 09, 2013

昭和の森公園を分水界とする三つの川を辿る そのⅢ;外房へ注ぐ小中川流域を彷徨う

 昭和の森を分水界とする散歩も第三回。東京湾に注ぐ村田川、内陸の印旛沼に注ぐ鹿島川の谷戸の景観を楽しみ、今回は外房の太平洋に注ぐ小中川流域を辿ることにする。 ルートを想うに、この2回の散歩を通じ、昭和の森公園のある丘陵を境にその東は太平洋の九十九里浜に続く低地となっていること、またその丘陵にはその昔、現在の外房線とは異なるルートを走る鉄路があり、急峻な丘陵をトンネルで穿ち、切り通しを開削し土気と大網を結んだとのこと。そしてその急峻なる丘陵にはこの地に覇を唱えた酒井氏の居城である土気城があった、といったことを知った。
で、今回の散歩は昭和の森公園の東裾にある小中池を主水源とする小中川を下流へと辿る、というよりも、昭和の森公園のある丘陵とその東の低地のギャップを感じるルートをその眼目としようと思う。25パーミルと言うから、1000mで25m上る千葉県下最急勾配の鉄路の廃線跡を逆から下り、また急峻なる丘陵故に難攻不落と称された土気城跡などを訪れ、丘陵と平地のギャップを幾らかなりとも感じ、丘陵から低地に下りた後に小中川の源流点へと戻ることにした。
現在では廃線となった鉄路にはトンネルや切り通しがあったようだが、現在は埋め戻されているとのこと。どこまで廃線跡を辿れるがはっきりしないが、常の如く成り行き任せを基本に始点である外房線土気駅へと向かった。


本日のルート;外房線・土気駅>西谷寺>土気トンネル>切り通しの跨線橋跡>善勝寺>埋め戻された切り通し跡の台地>>貴船城跡>道祖神と「土気城跡」の案内>クラン坂>外房線跨線橋>旧鉄路跡>南玉不動の滝>南玉不動尊(清岸寺)>外房線高架橋>水資源機構房総導水管理所>御霊大神>素掘りの隧道>小中川>小中池>昭和の森公園展望台>辰ヶ台遺跡>鹿島川源流域の取水口>ホキ美術館>外房線・土気駅

外房線・土気駅;午前10時55分_標高85m
通いなれた外房線・土気駅を北口に下り、大網街道を東に進む。ここからは、現在の土気駅から急峻な丘陵を越え大網駅を結んだ旧鉄路の廃線跡を探しながら辿ることになる。 ○房総鉄道
土気から大網へと丘陵を越える鉄路は、明治29年(1896)に開業された蘇我・大網間を結ぶ房総鉄道の開業まで遡る。明治21年(1888)には蘇我>東金間・大網>茂原間に房総馬車鉄道が計画されたが開業までには至らなかったようである。
その房総鉄道の中で土気・大網間は房総丘陵が九十九里浜の低地へと一気に落ち込む急峻な地形。1000mで25m上る急勾配を抜けるため、大網から最も近い丘陵の尾根筋に取りつき、小刻みに山際を廻り込みながら、現在の外房線・土気トンネルの少し南を善勝寺山門の北側へと上り、そこからは大網街道の下まで353mのトンネルを掘削し、土気へと抜けていたようである。
現在の外房線は881mのトンネルを穿ち、高架橋を走り抜けるが、当時の技術力ではトンネルや鉄橋の建設を極力避け、できるだけ緩やかな勾配とするにはこのルートしかなかった、とか。なお、房総鉄道は明治40年(1907)には国有化され「房総線」と改称。開業当時にあった千葉駅や大網駅のスイッチバック配線もなくなり、また全線電化され「外房線(千葉駅と安房鴨川駅間)」と改称されたのは昭和47年(1972)のことである。
因みに、大網駅のスイッチバックの説明に、急峻な地形を乗り越えるため、との説明が多いのだが、何と無く違和感を感じる。急峻な地形の途中にスイッチバックがあるのならこの説明も納得できるのだが、そういった路線でもなさそうであり、単に当初の路線は東金(大網・東金間開業は明治33年;1900)に向けてのものであったが、一の宮等の南房総への路線を通すために(大網・一宮間開業が明治30年;1897)、大網駅にスイッチバックの配線を設けたのではないだろう、か。

西谷寺;午前11時29分_標高88m
大網街道を土気市民センター交差点に。道を右に折れ、外房線に架かる陸橋に立ち寄り。旧鉄路はこの陸橋辺りから現在の外房線・土気トンネル入口手前の陸橋のある辺りまでは外房線と大網街道の間を通り、そこからは外房線の南に回り込み、善勝寺の山門方面へと向かったようである。
何らかの痕跡が残るとも思えないが、とりあえず、極力路線跡を辿ってみようと思う。土気市民センター交差点南の外房線陸橋辺りからは鉄路跡らしき道はないのだが、そこから東に少し大網街道を進み右に折れると、外房線と大網街道の間に道が通るが、その道も先日、鹿島川を辿る折に越えた土気踏切への道の辺りで途切れる。土気踏切の辺りで東に広がる資材置き場に鉄路跡を想い、大網街道に戻り土気トンネル上を通る道へと進む。
途中、大網街道の北に西谷寺の案内。ちょっと立ち寄り。元は真言宗の寺であったとのことだが、寛正年間(1457‐66)に土気城主・酒井定隆による上総七里法華の令により法華に改宗。現在は日蓮宗の寺として開山以来四百有余年の法灯を伝える。七里法華とは、酒井定隆が海難から救ってくれた日泰上人と約束したもので、一国一城の主となった折には、領地内をすべて日蓮宗の寺院とするといったものである。

土気トンネル;午前11時31分_標高78m
西谷寺を離れ、大網街道を右に折れ土気トンネル上に。現在の土気トンネルは全長881m。明治29年(1896)、千葉市街と外房を結ぶべく開業した房総鉄道が幾多の変遷を経て、全線電化され外房線(千葉駅と安房鴨川駅間)と改称された昭和47年(1972)にこのトンネルも開通されたようである。
土気トンネルはここから北東へと向かうが、旧鉄路は外房線の南に回り込んでいた。大網街道の南を東に進み、調整池らしき池の辺りで大網街道とクロスする道筋は、如何にも鉄路跡のように見える。

切り通しの跨線橋跡;午前11時42分_標高76m
大網街道をクロスし、東へと善勝寺への山門へと緩やかな道を進む。道の北側が旧鉄路跡。切り通しがあった、とのこと。山門手前の北側には跨線橋跡が残る。現在は埋め戻されその深さ20mとも言われたV字の深い切り通しの名残はなにも、ない。
房総鉄道が開業された当初はトンネルが開削されていたが、大網方面から25パーミル(1キロを25m上る)というその急勾配を登り切った丘陵頂上に353mものトンネルがある、というのは煙モクモクの最たるもの。その煤煙を軽減する目的で昭和26年(1951)から2年かけてトンネル上部の覆土を撤去する工事を行い、一部トンネル部分を残して大部分を深さ20mもの切り通しとした。切り通しで出た残土は土気小学校裏の谷を埋め校庭造成に使われた、と言う。
その切り通しも旧鉄路が廃線となるにおよび跨線橋跡の西は昭和55年(1980)頃には埋め戻され、その東は平成12年(2000)頃までは切り通しが残っていたようだが、宅地造成で出た残土置き場として埋め戻され、現在深いV字の切り通しの面影はどこにも見当たらない(当時の切り通しの写真はこのサイトをご覧ください)。


善勝寺;午前11時47分_標高90m
善勝寺の山門に入る。参道を進み右に曲がると本堂があった。このお寺さまも、元は真言宗であったが、酒井氏の「上総七里法華」の令により法華宗に改宗。当時の名前は「善生寺」であったが、酒井氏が天正18年(1590)の秀吉による小田原の北条征伐に際し小田原北条氏に与し自領を失った後は、家康により寺領50石を受け、寺の名前も「善勝寺」と改められた。現在も七里法華屈指の名刹として、京都の総本山妙満寺の輪番十ケ寺となっている。
境内には土気城最後の城主である酒井氏の子や孫の墓塔が祀られる。この寺は善勝寺砦とも称されたように、土気城郭の一部でもあったようで、境内には土塁跡が残る。寺は丘陵東端の尾根にあり、大網・東金の低地を睥睨する要衝の地でもあったのだろう。

埋め戻された切り通し跡の台地;午前12時5分_標高78m
善勝寺をお参りした後、切り通しの東口、というか、旧土気トンネルの東口辺りから東の鉄路跡の景観が如何なるものか、残土置き場となった切り通しの埋め戻しの場所に入り込む。残土の上には雑草が茂り、藪漕ぎと言うか、草漕ぎをしながら残土埋め立て東端に。そこから先は深い谷となり、先に進むのは難しそう。地図には東に向かう細路が見えるのでそれらしき道筋を藪漕ぎしたのだが、先日の沢登りで出合ったマムシを思い出し、途中で撤退し、切り通し・旧トンネル東端と思しき辺りから急勾配の鉄路を想い、且つ大網方面の眺望を楽しむことに。房総丘陵と九十九里浜への境目との言葉のとおり、眼下に大網白里や九十九里平野の景観が広がっていた。
先回の散歩で土気の地名の由来をメモした。土気の由来は諸説あるも、土気城跡が天然要害の地故に「峠ノ庄」と呼ばれた「峠」>とけ、との説、険しい坂道=嶝嶮(とうけん)の説などの説があったが、先回の散歩まではこれらの説を実感できなかったのだが、この場に到りて大いに納得。

貴船城跡;午後12時24分_標高90m
善勝寺から土気城跡へと向かう。切り通しを埋め戻した跨線橋跡を「渡り」、北に向かい、T字路を右に折れ、道なりに進むと竹藪に覆われた道の両側に空堀と右の小高い堤に小祠がある。石段を登りお参り。祠脇にある石碑の案内によると、「貴船城 聖武天皇の神亀元年(724)、蝦夷の侵入に備えて、陸奥の国(宮城県)に多賀城を築き、蝦夷の軍事拠点として土気に金城又は貴船城と呼ばれる砦を築いたと伝えられる。 鎌倉時代に入り千葉氏の一族相馬胤綱の次子土気太郎が土気の荘の地頭に任ぜられ居住したと言う。 戦国時代畠山重康の居城となるが、下総中野城にいた酒井定(貞)隆の勢力に押されこの地を撤退する。長享2年(1488)定隆は土気古城跡を修築し土気城を再興する」とあった。
小高い堤は戦国時代に酒井氏が土気城を修築したときに整備された馬出し曲輪(大手入口)の土塁跡のようであった。空堀の深さは6m、幅8mほどのよう。曲輪内側の空堀は埋められてしまったようである。

道祖神と「土気城跡」の案内;午後12時29分_標高90m
貴船神社を少し進むと道祖神とその脇に「土気城跡」の案内;土気城は平安時代の鎮守府将軍であった大野東人が東北地方の蝦夷に対抗する軍事拠点のひとつとして築いたものと伝えられる。その後、長享2年(1488)、中野城主(下総中野城;千葉市若葉区中野)であった酒井定隆がこの城を修復して入城し、以降、5代・約100年に亘って酒井氏の居城として上総の地に君臨した。
城は鹿島川や村田川の水源となっている標高90mを越える台地上に、その急峻な地形を利用して築かれ、難攻不落の名城として知られていたが、1590年(天正18年)豊臣秀吉の房総攻めの際に敗れ、廃城となった。本丸、二の丸などの中核になる部分は現在日本航空研修センター(注;現在は「ひまわりの郷」と称する高齢者専用賃貸住宅となっている)の敷地となっており、部分的な改修はあるものの全体の保存状態は良好で戦国時代の形態を良く残している」とあった。
○酒井氏
酒井氏の出自については定かではなく、遠江とも美濃とも上州新田氏の流れとも言われている。酒井定隆は古河公方足利成氏に仕えた後に安房の里見義実や小弓城の原氏を頼り中野城主となったという。
酒井氏は五代百年に亘り土気城主として君臨したが天文7(1538)年の第一次国府台合戦には小弓公方側として参戦し、小弓公方足利義明の討ち死にによって北条氏に降った。永禄7(1564)年の第二次国府台合戦では北条氏から里見氏に寝返り、敗走する里見勢を稲毛海岸で護ったが、酒井胤治の代、永禄10年(1567)北条氏に降伏した。
天正18年(1590)の小田原征伐に際し、酒井康治は小田原城へ参陣。小田原城の開城とともに土気城も降伏し浅野長政に接収された後に廃城となった。
案内脇に城の構えが記されており、この案内の前に広がる一帯が三の丸、その先に大きな空堀があり、二筋の空堀の先には二の丸と本丸となっている。

土気城跡;午後12時31分_標高91m
先に進み、二重の空堀と土塁で食い違いで形成されている虎口のようなところを通り、ひまわりの郷敷地にお邪魔。空堀にそって盛られた土塁は規模が大きく登るのにちょっと苦労した。







クラン坂;午後12時28分_標高90m
敷地内をあまり彷徨うのも気が引け、二の丸と本丸の間を抜ける道をすすむと、のんびりした風景は一変。薄暗い切り通しの道となる。「クラン坂」と称されるこの切り通しは規模が大きく迫力がある。クラン坂の切り通しには鎌倉でよく目にした「ヤグラ」も残る、とか。
ヤグラとは横穴式のお墓のこと。「岩蔵」がその由来と言う。「クラン坂」の由来も「ヤグラの坂」であろう、か。「昼でもなお暗い」との由来もあるようだが、それはそれとして、この地は酒井勢と後北条勢が激闘を繰り広げた場所でもあり、足早に去る。

外房線跨線橋;午後12時53分_標高47m
クラン坂を下ると外房線の跨線橋に出る。跨線橋のすぐ西に土気トンネルの出口が見える。旧房総線はこの地の少し南を山肌を善勝寺脇の切り通しへと向かった、と言う。なんらかの痕跡でもないものかと辺りを注意しながら進む。

旧鉄路跡;午後12時57分_標高35m
跨線橋から少し南に下ると、フェンスで囲まれた藪が一瞬切れて枕木のようなものがフェンスに替り道脇に縦に立ち並ぶ。どうもこの地が廃線跡のようである。道の東は藪が酷く入れないが、西側は比較的容易に入ることができた。なにか痕跡でもと思いながら少し進むと切り通しが現れた。鉄路と関係あるような気もするのだが、切り通しの先の藪が激しく先に進むことはあきらめた。ともあれ、善勝寺脇の切り通しから、鉄路は谷に下りることなく山肌を此の地まで進んできたのだろう。
旧鉄路はこの地から東は西の谷池の辺りで現在の外房線の路線に戻るが、そこまでのルートを推測するに、地形図を見るとこの地から西の谷の外房線北の池に向かって40m級の丘陵が続いている。鉄路はこの丘陵を進み外房線の路線に戻っていたのではなかろう、か。旧鉄路はその外房線との合流点から先は外房線と同様のルートを丘陵の山肌を大網に向かて下って行ったようである。

南玉不動の滝;午後13時15分_標高26m
道なりに南玉不動の滝に向かう。場所は池田地区の南玉池の北。道なりに南に進み、途中で南玉池へと右に折れて進むと丘陵と平地の境に豊かな水量の滝があった。案内によると;「土気古城再興伝来記」の南玉不動尊略縁起によれば、「嵯峨天皇の御代、弘仁3年(812年)夏の初め、山の中腹の滝の付近から怪しい放光があったので、里人は善勝寺(千葉市土気町)から住職を招請して不動尊を安置し、清岸坊と称した」と記されている。
この滝は、山の中腹の湧水で、俗に地下数千尺といわれ、清岸寺境内まで導管で導かれ、銅製の滝の口から落下して、南玉貯水池の水源となっている、とあった。




南玉不動尊(清岸寺):午後13時26分_標高46m
で、案内にある清岸寺とは滝の上に立つ堂宇。南玉不動尊と称される。滝の脇の細路を辿ると朱に塗られた堂宇があった。そこにあった「南玉不動尊縁起由来」を簡単にまとめると、滝の由来と同じく怪しい放光を止めんと不動尊を安置し、その堂宇を「不動山清岸坊」と名付けた。また、この堂宇は真言宗であり、土気城主酒井氏の「七里法華」の令に従わなかったが、日泰上人が堂参し、妙法の法の九の字を切ると、不動尊の火炎が九字の相を背負う姿となったため、九字不動尊とも称された。さらに、頼朝が伊豆で敗れ、安房上総に逃れ再起を期した折、この堂宇に参詣し戦勝を祈願。その際、滝に箙(えびら;矢を入れ腰や肩にかける容器)に納めた故をもって、御箙の滝とも呼ばれた、といったことが記されていた。
「南玉の滝の由来」も記されており、そこには上記説明以外に、日泰上人の唱えた功徳により、病気快癒・開運多く、上総の信仰の中心であった。と。
また、先ほど通ってきた「南玉溜池」の説明もあり、土気城主の酒井氏の家老であった横佐内孫大夫が、酒井氏が滅びるに及び南富田に百姓として土着。土地の人を従えて土手を築き水を引き溜池をつくった。当時は池田四分に南玉六部の配分であったが、相対立の結果現在は五分五分となっている、といったことが記されていた。

で、旧鉄路はこの不動尊の北の山肌を通っていたようである。なんらかの痕跡とも思い、堂宇から少し崖道を登ったが、これも藪が激しく即引き返す。先日沢で出遭ったマムシがどうも頭に残っているようである。

外房線高架橋;午後14時6分_標高18m
南玉不動尊で休憩をとっているとき、土気トンネルを抜けた後に続く外房線の高架橋を見落としていることを思い出し、少々気が重いのだが引き返すことに。もと来た道を土気トンネル跨線橋近くまで戻り、東に向かって丘陵地を下る。丘陵部を下りきった辺りで北を見ると谷戸を渡る高架橋が目に入る。
土気トンネルを抜けた外房線は少し丘陵部分を進んだ後、谷戸を高架橋で跨ぎ、旧房総線の鉄路と合流する丘陵部分と繋ぐ。現在の技術力で丘陵間を力任せに押し渡っているわけである。




谷戸に立ち高架橋の逆側、南を見ると丘陵部が続く。旧鉄路は一度谷に下りたら大変と、この丘陵部を進み、外房線高架橋東端の丘陵部へと向かったのだろう。何か痕跡でもないものかと、丘陵部にちょっと入り込むが、ここも藪が厳しく撤退した。


水資源機構房総導水管理所;午後14時30分_標高15m
再びもと来た道を南へ辿る。低地を丘陵地を越えてきた大網街道へと向かう途中、道脇に(独)水資源機構房総導水管理所の施設があった。何をするところなのか、好奇心からチェックすると、この施設は、千葉市の臨海工業地帯の工業用水、東金・茂原など九十九里浜の低地帯の水道水の需要の増大を受け、利根川の水を取水し、南房総の大喜多までもの100キロを導水する房総導水路を管理するもの。構想は、既存の「両総用水」施設を共用して水を取り入れ、新しく作られる導水幹線水路で導水。その水を東金ダム、長柄ダムに貯留調整することで、毎秒8.4立方メートルを上記の地域の工業用水や水道用水として供給する事業となっている、と。

○房総導水路
千葉県香取市佐原の両総用水第一揚水機場で利根川から取水し栗山川源流に流し込み、栗山川の部分を両総用水と共用して、下流の横芝光町於幾にある横芝揚水機場でポンプアップし、房総丘陵に沿っておおむね地下水路を通して大多喜町まで送水している。横芝揚水機場の近くに坂田調整池があり、途中に東金ダムと長柄ダムがある。昭和46年横芝・長柄ダム間の導水路建設着工を皮切りに、工事が開始され平成9年南房総導水路(長柄ダム・大多喜間)の完成で一応の事業が完成した。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

○両総用水
かつての九十九里浜には幾多の湖沼群、ラグーンが点在していたが、明治以降の工業化により湖沼群は消滅。大河のない南部地方は農業用水が慢性的に不足の状況となる。一方で利根川の東遷事業により利根川に統合された上部河川の水により、佐原一帯は水害の被害に見舞われるようになっていた。このような状況を打破すべく、昭和18年(1843)工事に着手。戦時下の中断を経て昭和40年(1965)竣工。
概要は、千葉県香取市佐原の第1揚水機場で利根川から取水し、香取市伊地山で栗山川に流し込み、栗山川下流の山武郡横芝光町寺方の第2揚水機場で再度取水し、東金市や茂原市などの九十九里平野南部まで農業用水を供給する。全取水量14.47m3/s、用水を供給している受益面積は約20,000ヘクタールになる。

御霊大神;午後14時38分_標高25m
先に進むと丘陵を越えてきた大網街道にあたる。大網街道の下をトンネルで抜け、道なりに少し進むと道の右側に緑の森と鳥居が見える。そこが御霊大神の社である。 祭神は景行天皇の皇子・日本武尊(やまとたける)。境内の案内によると、東国遠征の折、当地で休息。その時に村人が間食(ちょっとした食事;小食)を献上したと伝わる。その故事故に、この地を小食土(やさしど)と称す、と。
昭和の森分水界散歩の一回目に目もしたのだが、間食(ちょっとした食事;小食)を食べたからこの地を小食土との故事は、漢字表記の点からは説得力はあるのだが、「音」の「やさしど」との関連はこの説明ではわからない。もう少し深堀してみると、「やさしい」という言葉は「やせる」から出来たとの説がある。そのことから、「立派な人を目の前に、気が引けて、身が痩せるような思いをする」というのが「やさしい」の元々の意味である、とか。日本武尊といった貴人を前に「気が引けた、身が痩せる」思いから、やさしい=身が痩せる、に「小食」という文字をあてたのだろう、か。単なる妄想。根拠はないが、自分だけは結構いい線いっているようにも思う。
また、この地を吾妻山と称するのもこの故事故のこと。日本武尊が妃の弟橘媛を偲んで詠んだ、「吾妻(あづま)はや」に由来することは言うまでもない。
案内にはそのほか、「寛政10年(1798)に建造。明治2年に現在の名に改められる。境内に二社。一社を天満神社。一社を子安神社。境内には神楽殿。かつては神楽の奉納あるも現在はとだえている」といったことが刻まれていた。説明の通り、神楽殿は崩れかけ、といった様ではあった。

素掘りの隧道;午後14時48分_標高28m
南玉不動尊から小中川の源流点である小中池に向かう。道なりに南に進むと如何にも手掘りといった隧道(素掘りの隧道)が現れた。その時は素掘りの隧道と言うだけで、その偶然の出合いを有難く思い、トンネルを抜けたのだが、メモをする段になって、どうもその隧道には貝の化石が露出していた、といった記事を目にした。縄文時代の所謂、縄文海進期には上総丘陵地まで海が迫っていたのだろう。
それと、これもメモする段なってわかったことであるが、この房総半島と越後妻有地域は多くの素掘りで知られるとのことである。どちらの地域も泥岩や凝灰岩などの柔らかい地層がそれを可能とした、と。茂原市押日地区には数百mの範囲内に7つもの素掘り隧道がある(押日素掘り隧道群)、という。房総全体でどのくらいの数の素掘り隧道があるのだろう。興味深い。
素掘りの隧道の目的は、当たり前のことではあるが、耕作地に向かうため農機具や牛馬、収穫物の運搬に急な丘陵を越えるのが難儀なため隧道を掘ったと言う。この素掘りは江戸末期からはじまり、昭和40年頃まで続いた、とか。また、この往来の便以外の素掘り隧道のもくてきとしては、山間部の蛇行する川筋に隧道を通すことによって川筋を変え、元の流路を新田として開拓するといった目的もあったようである。この素掘りの隧道の手前に河川が流れるが、それほど蛇行もしておらず、新田開発ではなく、丘陵の先へのショートカットが目的のように思える。

小中川;午後14時55分_標高21m
隧道を抜け谷戸に入り、少し進むと小中川に出合った。緑の雑草の中を一筋の細い水路が直線に続く。よく見ると、南北の舌状台地の先に水路の前進を阻む丘陵が見える。地形図を見ると、南の丘陵が直角に北に折れ、水路もその地形に沿って北に進路を変えている。この小中川は南白亀(なばき)川水系の支流。大網駅辺りまで北東にのぼり、そこから南東へと下り大網白里市と茂原市の境を流れ南白亀川と合流する。
佐倉市で偶然目にした鹿島川の源流点を辿ろうとはじまった今回の散歩。昭和の森が東京湾、内陸の昔の内海の名残の印旛沼、そして外房の分水界ということも知らず、最初の散歩は鹿島川散歩のつもりが村田川の谷戸に入ってしまい、2回目に鹿島川を辿り、今回は房総の丘陵地と九十九里浜に続く境目である昭和の森の丘陵と低地のギャップを感じながら、やっと小中川に到着した。途中、いくつかの水路にも出合った。これらの水路は小中川の支流としてい、水を合わせ、南白亀川へと注いでいるのだろう。

小中池;午後15時55分_29m
小中川の水路のすぐ東に高い堤が見える。小中池である。堤手前の公園で遊ぶ家族を目にしながら、堤に登り東を見ると、小中川を囲む丘陵、前面で直進を阻む丘陵などが一望できる。地形図を見るに、外房線・大網駅辺りまでは丘陵に挟まれた谷戸を自然の地形に逆らうことなく進んでいるように見える。
堤に小中池の案内;このダムは大網白里町(旧大網町、瑞穂村、山辺村、増穂村、福岡村)茂原市(旧本納町、豊岡村)千葉市(土気町)に関わる水田715haの用水補給を目的とした、農業専用ダム。昭和8年8月山武郡小中川排水改良事業として、当時県議会の承認を得て着工され、途中第二次世界大戦の勃発による悪条件の中で、昭和22年2月迄、14年の歳月と15万人の労力、湖底に沈んだ田畑山林は12haにもおよび完成、とあった。

○小中川源流点
小中池から次のルートを想う。選択肢は二つ。小中池北端から丘陵への遊歩道を辿り昭和の森の展望台に行くか、第一回の散歩のとき知った、下夕田(しもんだ)池から小中池へと続く水路を逆に辿るか。で、結局は展望台からの大網・東金方面の景観をとり、遊歩道を昭和の森に上ったのだが、メモをする段になって、小中川の源流点はこの小中池の西南端から水路があるようで、そこには7mほどの滝もあることがわかった。
更に、その上流、通常であれば村田川へと注ぐ水路が河川争奪の結果、源流域の奪い合いが行われ、結局は小中川として太平洋へと流れることになっているようである。昭和の森の分水界としては村田川を経て東京湾に流れるべき水路が小中川筋へと下り、太平洋へと注ぐことになるという、昭和の森の分水界の基本の例外ケースがあった。
こんなことなら小中川源流域の源流域ルートにすればよかった、とは思えども例によって後の祭りである。近い将来、素掘りの隧道散歩の折にでも、小中川源流域を辿ってみたいと思う。もっとも、この源流域、ゴルフ場にから染み出た毒性の高い農薬・除草剤谷戸に捨てられた産業廃棄物、建設廃土で結構汚れでいるようではある。

昭和の森公園展望台;午後15時15分_標高93m
遊歩道を上るとほどなく昭和の森公園に。遊歩道の上り口の少し南に展望台。眼下に小中池、丘陵に挟まれた低地を流れる小中川、その向こうに大網白里市街、九十九里平野が一望のもと。そのはるか彼方には太平洋の水平線も見える、とか。昭和の森公園から九十九里の眺望が散歩3回目にして実現した。もっとも、そのために、小中川源流域の滝や河川争奪の地形を楽しむことはできなかったのは、少々残念ではあった。

辰ヶ台遺跡;午後15時20分_標高91m
展望台の公園施設案内に、公園内には第一回の散歩で訪れた小食土遺蹟の他、辰ヶ台遺跡があるという。場所も展望台のすぐ近く。道なりに進むと遊歩道脇に遺蹟の案内があった。案内によると、遥かかなたに太平洋を望む標高98mの場所にあるこの遺跡は、縄文時代前期(今から約6千年前)および古墳時代から奈良時代にかけての集落跡です。
1986年公園整備の際に行った調査では、縄文をつけた深鉢(ふかばち)形の土器や、黒曜石(こくようせき)・チャートからできた鏃(やじり)のほか、木の実などをたたいたり、すりつぶしたりするのに使った丸い小石などの生活用具といっしょに、長方形の竪穴(たてあな)住居跡が数軒ほど発掘されました。
遺跡の南端で見つかった住居跡は、長辺が9.8m、短辺が4.9m、床面積は約40㎡もあり、当時の一般住居が15~20㎡なのと比べると、かなり大きな住居といえましょう。土間には炉が3か所あり、ムラの集会施設ではなかったかと考えられます」とあった。
縄文海進期には台地下まで海が迫っていたのだろうし、台地上の安全な場所に居を構え、縄文人は海の幸を手にいれていたのだろう。実際、九十九里浜は貝塚の他、栗山川流域を中心に80例にも及ぶ丸木舟が出土されている(日本全国の出土例の40%)ことからも、その状況が推測される。

鹿島川源流域の取水栓;午後15時25分_標高94m
辰ヶ台遺跡から2回目の散歩で辿った鹿島川の源流であったであろう、昭和の森公園のなだらかなスロープを取水栓を探しながら下る。公園として整地される前のこの森はどんな姿で、鹿島川の源流はどのように流れていたのだろう。今は芝生に取水口が残るのみ。 それでも、鹿島川の流路と思しきスロープを進み、公園とあすみが丘東の境目の湿った場所まで進み、先回の鹿島川流路散歩のときに見逃したホキ美術館に。

ホキ美術館;午後15時40分_標高89m
ホキ美術館は日本初の写実絵画専門美術館。写真と見まごうのどの絵画に、あまり情感豊かではない我が身もでも、どのくらいの時間をかけて書き上げたのと、それだけで有難く思う。自然を描いた絵画、人物を描いた絵画など、結構満足して時間を過ごした。

外房線・土気駅;午後16時31分_標高85m
ホキ美術館で少し時間を過ごした後は、先回の鹿島川散歩のルートに沿って土気踏切まで下り、土気駅に到着。本日の散歩を終える。ほぼ18キロ、5時間半の散歩であった。