如何なる天の配剤か、繋ぎを完結するお寺様である四十三番札所・明石寺は愛媛の遍路道繋ぎの旅のきっかけとなったお寺さまでもある。いつだったか、四十四番札所・大宝寺から四十四番札所・岩屋寺までを、単に「八丁坂」越えという語感に惹かれて歩いた折、大宝寺の前の札所が明石寺であり、80キロもあるという距離もさることながら、その途中にある農祖峠、下坂場峠、鶸田峠、真弓峠などに惹かれ、明石寺から大宝寺までの遍路道を繋いだ。
この明石寺からの遍路道繋ぎ散歩がきっかけとなり、どうせのことなら愛媛の遍路道をすべて繋いでしまおうとなったわけである。その明石寺に向けて、最後の仕上げに出かけることにする。
本日のルート;
■仏木寺道を下り四十二番札所・仏木寺へ■
徳右衛門道標を右折し駐車場へ>裏山に入る手前に道標>仏木寺道に3基の道標>仏木寺道と県道31号合流点脇に道標>道標>>沖戸橋>常夜灯と観音さま>四十二番札所・仏木寺
■仏木寺から歯長峠を越えて明石寺へ■
三間川・西谷橋を右折し右岸を北に>歯長橋からの道を左折し西に向かう>歯長峠上り口>道標>県道31号と合流>県道31号から分かれ土径に>土砂崩れ・道崩壊箇所>歯長峠>歯長隧道からの林道と交差>道標>県道31号に出る>歯長橋・地蔵堂>下川橋>道引大師堂・茂兵衛道標>岩瀬川左岸に>宇和高等学校体育館横の道標>「四国のみち」の木標>三差路の道標>明石寺奥之院>道の分岐点に道標>参道鳥居前に茂兵衛道標>四十三番札所・明石寺
■仏木寺道を下り四十二番札所・仏木寺へ■
徳右衛門道標を右折し駐車場へ
裏山に入る手前に道標
はっきり読めなかったが「右へ右へ」とあるのは二本を一本にまとめたものでは、ともあった。
仏木寺道に3基の道標
仏木寺道と県道31号合流点脇に道標
道標
常夜灯と観音さま
遍路道は三間町則(すなわち)の家並みに入り、やがて県道と合流する。「即」は「須之内」からの転化、かも。「須之内」は愛媛県西条市の「洲之内」をルーツとする、といった記事もある。そこから移り住んだのだろうか。「洲之内」は読んで字の如くの意味だろう。
●バリエーションルート
道を北に進み、車道が右に折れるところを直進し田圃の畦道を進み、しばらく歩き先ほど分かれた車道に合流。
四十二番札所・仏木寺
家畜堂
この寺と牛のかかわりは、寺に伝わる一つの大師伝説に由来する。武田明は、『巡礼の民俗』の中でその伝説を、「弘法大師がこの地を通りかかると牛をひいた老人にあった。みちびかれて楠の下を通ると上から宝珠が落ちてきた。その宝珠は大師が唐にいた時に三鈷と共に東にむかって投げた宝珠であった。大師はその楠で大日如来を刻み仏木寺を建てた。本尊大日如来は牛馬の本尊で牛の病平癒のために絵馬をあげると言う」とある。
本尊は大日如来であり、大日如来が牛に乗って現れる、といった話は時に聞く。当寺は、一カ(カは王偏に果)山毘盧舎那院(びるしゃないん)と号す。毘盧舎那院(びるしゃないん)は「遍く照らす」の意で、大日如来の別名であり、奈良の大仏(廬舎那仏)も大日如来の尊像である。
●大日如来
以上3つのグループの諸尊に対して、「天部」に属する諸尊は、仏法の守護神・福徳神という意味合いが濃く、現世利益的な信仰を集めるものも多数存在している」とある。天部に属する尊像としては仁王(金剛力士)、鬼子母神、吉祥天などである。
●一カ(カは王偏に果)山
このお寺さまは中世期には宇和町を本拠とする西園寺氏の分家筋の菩提寺。江戸期には宇和島・吉田藩伊達氏の祈願所として本堂の造営などが行われている。
●道標
茂兵衛道標には添句も刻まれる。「吹風も清し蓮乃花の寺 白杵陶庵」とある、と。陶庵の詳細は不明。この道標は巡礼百度を記念するものでもあり、茂兵衛が尊敬した僧侶ではないかとも言う((『四国遍路道シリーズ 遍路道 伊予編(梅村武』)。
なお同書には陶庵の添句として同じく百度目の標石である五十二番札所太山寺の道標にも「阿ハ礼可シ。。。(あはれかし今世に迷う人々を たすくる石に道しるべけり)」と刻まれるという。
■仏木寺から歯長峠を越えて明石寺へ■
三間川・西谷橋を右折し右岸を北に;13時39分
ここからは峠越えの参考として時間と山間部では標高を記しておく。
歯長橋からの道を左折し西に向かう:13時48分
車居池を左に見遣り、松山道の作業所のフェンス脇を少し西に進むと登山口に至る。
歯長峠上り口;13時58分(標高230m)
道標;14時5分(標高285m)
県道31号と合流;14時14分(標高330m)
県道31号から分かれ土径に;14時19分(標高350m)
●四国のみち
土径に入る県道先のコーナー部に「四国のみち」の案内がある。先にメモした龍光寺から仏木寺へのバリエーションルートとしての「四国のみち」も記載されていた。その脇には「歯長峠 この峠は法華津連峰の一隅にあり、三間町と宇和町を結ぶ交通の要衝です。
この地点からは足摺宇和海国立公園のリアス式海岸が一望できるほか、はるかに鬼ヶ島連山が望め四季折々の変化のある景観が眼下に展開されます」とあった。
木々が全面を遮り展望はよくないが、木々の間からそれらしき景観が少し楽しめた。
土砂崩れ・道崩壊箇所;9時45分(標高440m)
歯長峠;9時56分(標高490m)
ブロック造りの祠に祀られる石仏にお参り。「えひめの記憶」によると、祠には見送大師が祀られると言う。
●見送大師
地元の人の話によると、この大師堂は、もとは六角屋根の木造のお堂で、「四十二番札所仏木寺奥之院」の木札が掛かっていた。しかし、昭和39年(1964)に遍路の失火によって焼失し、昭和42年に地域が大干ばつに見舞われた折に、「あのお堂の地蔵さんを雨曝(あまざら)しにしている崇(たた)りではないか。」と資金を出し合ってお堂を再建したという。現在はブロック造りの簡易なお堂となっている。
峠の平坦地からは、リアス式の海岸は見ることはできなかったが、この峠からは眼下の連山の遠望を楽しむことができた。
平坦場には営林記念の石碑が立つ。かつての歯長峠について、「えひめの記憶」には「歯長峠には昔は茶店もあった。今もその遺構らしき石が残っている。門多正志氏の『宇和歴史探訪記』によると、明治から大正時代にかけての宇和町内の児童の修学旅行は、歯長峠を越えて三間町の宮野下(みやのした)まで歩き、それから汽車に乗って宇和島に行くのが通例であったという。
●歯長峠の由来

多分に伝説的な人物である東国武将足利又太郎忠綱は末代無双の勇士で,源氏の出自ながら故あって平氏側について功名を馳せ,その後,源氏に追われて西国に逃れ,この地に居住した。
力は百人力,声は十里四方にも及び,その歯の長さは実に一寸余。又の名が歯長又太郎。ここで庵を結んだことがら,庵寺にも峠にも歯長の名がついた(現在宇和町伊賀上の歯長寺に歯長又太郎の供養五輪があり,歯痛の神ともなっている)。
宇和への入り□であり,戦略上の要衝でもあったこの峠は宇和と土佐勢の攻防の舞台であり,幾多の合戦の後,長曽我部軍に攻略されたと伝えられている 西予市教育委員会」とあった。
●道標
歯長隧道からの林道と交差;10時10分(標高420m)
●歯長隧道
道標;10時23分(標高330m)
林道交差部から高度を120mほど下げたところ、倒れた松の下に道標がある。「明石寺 是ヨリ二里 寛政七」といった文字が刻まれると言う。
この道標、巨木に隠れ見逃しやすい。実際当日も往路は見逃したのだが、復路で見つけた。ピストン行の賜物でもある。
県道31号に出る;10時37分(標高210m)
県道31号合流手前の沢に石橋が架かり、その手前山側には道標が立つ。「えひめの記憶」に拠れば、「この道標には、石橋の寄付をした16名の名前が刻まれているが、「仏木寺一里半」「明石寺一里半」の文字も見え、ここが両札所のちょうど中間地点であることを示している」とある。
歯長峠から1時間20分程度で里に下りた。歯長峠へと県道31号から土径に入り峠を越えて里に下りるまでおおよそ2時間程度であった。
歯長橋・地蔵堂
下川橋
道引大師堂
●明治の下川集落
「えひめの記憶」には、「明治40年(1907)に遍路した小林雨峯は、『四國順禮』の中で次のように記しており、当時の宿の様子をうかがい知ることができる」とし、「下川(しもがわ)の木賃(ぼくちん)に宿(やど)る。一水(すゐ)を隔(へだ)てヽ渓山前(けいざんまえ)に峙(そばだ)つ。二軒(けん)の木賃(ぼくちん)あり競(きそ)ふて杖(つゑ)を引(ひ)く、若(わか)き女主頗(ぢょしゅすこぶ)る勞(いた)はる。此夜(このよ)、予等(よら)の宿(やど)りし木賃(ぼくちん)の客(きゃく)十五六人(にん)ありて、ガヤガヤゴタゴタ遍路始(へんろはじ)めて以來(いらい)の大勢(おおぜい)なり。然(しか)れども女主(ぢょしゅ)の言(げん)に依(よ)れば春先(はるさき)は五十、八十の客(きゃく)を泊(はく)せしむと。此家(このいえ)に拂(はら)ひし米代宿料左(こめだいしゅくりょうさ)に示(しめ)すべし。金(きん)拾八錢(せん)、米(こめ)一升代(しやうだい)、金(きん)拾貳錢(せん)、宿料二人分(しゅくりょうふたりぶん)、金(きん)四錢(せん)、菓子代(くわしだい)、金(きん)壹銭(せん)五厘(りん)、ワラジ代(だい) 女主云(ぢょしゅい)ふ、明晩(みやようばん)なれば、毎月何人(まいげつなんにん)にてもうちではお接待(せったい)いたしますのにと、この毎月(まいげつ)二十日(か)は大師忌日(だいしきじつ)の逮夜(たいや)なればなり。民俗(みんぞく)の大師信仰(だいししんかう)の状此(じやうこれ)にても早(はや)く知(し)る」と明治の頃の下川集落を描いている。
●茂兵衛道標
●道引大師像
堂内にある道引大師像は導引大師像とも呼ばれる。由来は不明だが、文字面からすれば、どこか有難いところへ導いてくれるのだろう、か。
岩瀬川左岸に
県道31号を進む遍路道は宇和町皆田で県道31号から右に分かれ、松山自動車道の高架を潜り皆田の町並みを抜け、再び県道に合流。左手に肱川を見遣りながら少し進み、宇和町稲生で県道31号から右に分かれる道を進み、道なりに進み、松山自動車道西宇和インターチェンジへのアプローチ部の下を潜る。



●他の遍路道
当日は上述の如く高速道路のトンネルを潜ると、遍路タグに従い右に折れ上述ルートを辿ったのだが、「えひめの記憶」では、そのまま直進し岩瀬川を渡り県道237に出て、そこを左折し宇和高等学校体育館へと向かうルート、また、岩瀬川を渡り北西に進み県道237号に当たるふたつのルートを記している。
その二つに分かれる分岐点にあったという道標も他所に移されており、北西に進むルートの目安となる宇和高等学校の農場、県道合流点とする七丁のバス停も特定できないため、上述遍路タグに従い進んだ遍路道を今回のルートとした。
◆「えひめの記憶」にある遍路道
参考に「えひめの記憶」にある遍路道の記事をメモしておく。
岩瀬川を渡り「やや行くと、元屋地邸(卯之町5)の前に、かつては茂兵衛道標が立っていた。この道標は、平成5年に工事の都合で宇和球場横の小高い丘の上に移されている。道標は手印で仏木寺と明石寺の方向をそれぞれ示しているが、「左 新道」という文字も見え、道標が建てられた明治35年(1902)の時点で、下鬼窪から明石寺に至る道には、新道と旧道があったことをうかがわせている。
地元の人の話を総合すると、新道は、元屋地邸の前から鬼窪の通りを直進して県道鳥坂宇和線(237号)に合流し、そこから県道を北に進み、宇和高等学校体育館横に立つ道標を経て明石寺に至る道であるという。一方、旧道は、元屋地邸の横から入る小路を通り、宇和球場横・宇和高等学校の農場を突き抜けて県道鳥坂宇和線上にあるバス停八丁坂付近に至る道であったようである。この旧道は現在は途中一部が消滅しているが、農園の辺りに「八丁」と呼ぶ地名も残っており、「八丁」は明石寺までの距離を示しているものと考えられる」。
宇和高等学校体育館横の道標
愛媛県歴史文化博物館へのアプローチ道から右に折れる
宇和高等学校体育館の北側を愛媛県歴史文化博物館に上る車道がある。その道を進み、坂道の途中に立つ「四国のみち」の木標を右折。車一台通れる程度の舗装された山裾の道を進むと前方にこんもりと茂る森が見えてくる。
三差路の道標
●たわら津道
道標の不明箇所は「たわら津道」とも言う。この地から県道45号を南西に進むと海岸線に俵津の地名が見える。現在は野福トンネルが通るが往昔は野福峠を越えていったのだろうか、また、野福峠の少し東にある法華津峠を越え、吉田から宇和島へと人々が往来したのだろか。想像するだけで結構楽しい。
明石寺奥之院
白王権現ってあまり聞いたことがない。『宇和旧記』には「十八、九の娘が、願をかけ深夜に軽々と大石を両腕に抱き歩いていたが、当所まで来たとき夜が明けてしまったため、大岩を置き去り消えてしまった。地元の人はその娘が千手観音の化身とも龍女の化身とも崇め、その大岩を白王権現として祠を建てて祀った、とある。
小さな祠は大岩の上にあるようにも思える。明石寺は「めいせきじ」と読むが、地元では「あげいし」さん、と呼ばれる。御詠歌は「聞くならく 千手不思議の誓いには 大磐石も軽くあげ石」とあるのがこの大岩と言うことだろう。
道の分岐点に道標
参道鳥居前に茂兵衛道標
四十三番札所・明石寺
これで宇和島市街から明石寺を繋ぐ散歩を終える。また、これをもって予土国境から予讃国境までの愛媛の遍路道を繋ぐことができた。2月に南予に降った大雪のおかげで、愛媛の遍路道を繋ぐ散歩を始めた明石寺で大団円となったもの、何となく嬉しい。
ついでのことながら、順不同となった愛媛の遍路道を予土国境から順にまとめてブログの静止ページ(「時空附箋」)に整理しておこうと思う。