その因は明治の神仏分離令にある。もとの六十八番札所は琴弾八幡宮。それが神仏分離令により本尊が観音寺境内にある西金堂に移され、琴弾神社別当寺であった神恵院(じんねいん)が六十八番札所・神恵院本堂となった。
神恵院が六十九番札所観音寺境内に移されたのは、琴弾八幡宮と観音寺の深いつながり故。寺伝によれば観音寺は空海が開基した、と言う。大同2年(708)琴弾八幡の別当寺であった法相宗弥勒帰敬寺に第7代住職として止宿。阿弥陀如来尊像を描き本尊とし琴平山神恵寺と名付けた。
空海は続けて、八幡宮に祀られる神功皇后が聖観音菩薩の生まれ変わりとし、自らの手で聖観音菩薩を刻み、この地に七宝山観音寺を開創した。平城天皇の勅願によるものと、言う。
かつて観音寺は琴弾八幡宮の神宮寺・別当寺として琴弾八幡宮の納経をおこなっていた。それが、観音寺も六十九番札所となったため、琴弾八幡宮は神恵院の院号で納経をおこなうことになったわけだが、神仏分離のためその琴弾八幡の本尊が引っ越すことになる。この折、観音寺境内のお堂を提供し六十八番札所神恵院(じんねいん)とたわけだが、上記歴史的繋がりからみれば、なんら違和感はない。
大興寺から神恵院・観音寺のある琴弾山までおおよそ7キロ。里道を観音寺市内へと向かうことにする。
本日のルート;一丁標石(?) > 二丁標石>三丁・四丁標石 / 五丁標石>六丁標石 / 自然石標石>茂兵衛道標と八丁地蔵標石>九丁標石>茂兵衛道標と大師坐像 >十三丁・十四丁標石>六十八番道標石>真念道標>お堂脇に標石>二十三丁標石/二十一標石>県道6号角に茂兵衛道標>池之尻交差点の道標>三十一丁標石 / 三十二丁標石>三十三・三十四丁標石>三十五・三十六丁標石>三十七 ・三十八丁標石>四国中千躰大師>旧伊予街道との交差箇所に茂兵衛道標と真念道標>柏木神社手前の舟形地蔵>植田天満宮>加茂神社の道標>県道237号にあたる>予讃線余茂田踏切>市谷川左岸を県道6号・明治橋へ>地神様に2基の道標>光明寺の道標>殿町交差点に2基の道標>三架橋>琴弾八幡宮>琴弾八幡から神恵院・観音寺へと琴弾山を下る>本殿裏の石段下り口に丁石>「椿説弓張月」の案内>象ケ鼻展望台>六十八番札所・神恵院 / 六十九番札所・観音寺
■天空の鳥居・高屋神社
一丁標石(?) / 二丁標石
左岸に渡った道を進むと、右手のガードレールの外に丁石。二丁とあるので、手前の丁石は一丁の地蔵標石だろう。
三丁・四丁標石 / 五丁標石
五丁標石は道を進んだ左手、民家の石垣とブロック塀の間に立つ。
六丁標石 / 自然石標石

遍路道が比較的大きな車道に合流する角に自然石の標石がある。手印と共に「左 へんろ 嘉永三戌 上河内中」と刻まれる。
茂兵衛道標と八丁地蔵標石
●遍路道の案内を左に入らず直進すると国道に合わさる箇所に2基の道標が立つ。 大きいのが茂兵衛道標。手印とともに「神恵院 小松尾寺 明治二十九年」と刻まれる。茂兵衛149度目の巡礼時のもの。
その横の舟形地蔵丁石には「是ヨリ小松尾寺江八丁」と読める。逆打ち遍路の標石となっている。手には錫杖をもつ。
◆中務茂兵衛
中務茂兵衛。本名:中司(なかつかさ)亀吉。弘化2年(1845)周防(すおう)国大島郡椋野村 (現山口県久賀町椋野)で生まれた中務茂兵衛は、22歳の時に四国霊場巡礼をはじめ、大正11年(1922)に78歳で亡くなるまで生涯巡礼の旅を続け、実に280回もの巡礼遍路行を行った。
道標は、茂兵衛が厄年である42歳のとき、遍路行が88回を数えたことを記念して建立をはじめ、その数250基以上にも及ぶ(230基ほどは確認済、とか)。文化遺産としても高く評価されている道標の特徴は、比較的太めの石の四角柱(道標高の平均約124cm)で、必ず建立年月と自らの巡拝回 数を刻んでいる、と。
●国道377号

〇金毘羅街道
伊予・土佐からの金毘羅道(伊予・土佐街道)は、伊予の川之江で土佐街道を合わせ、余木埼で伊予から讃岐に入り箕浦に。豊浜からはおおむね国道377号に沿って伊予見峠を越え、牛屋口から金毘羅宮に向かう。
九丁標石
●干支(えと)
明香は明和のことのようだ。10の干と12の支の組み合わせからなる60干支のうちの24番目。西暦を60で割って27余る年が丁亥(ひのとい)となる。明和四年は西暦1767。29 x 60 +27=1767とぴったりと合う。
因みに日本での干支は10の干(かん)と12の支(し)からなる干支の、12の支だけを取り出して「干支」とする。Wikipediaによれば、「日本では「干支」を「えと」と呼んで、ね、うし、とら、う、たつ…の十二支のみを指すことが多いが、「干支」は十干と十二支の組み合わせを指す語であり、「えと」は十干において「きのえ(甲)」「きのと(乙)」「ひのえ(丙)」「ひのと(丁)」と陽陰に応じて「え」「と」の音が入ることに由来するので、厳密には二重に誤りである」とある。
因みに、上述車道合流部の自然石に刻まれた「嘉永三戌」であるが、嘉永3年は西暦1850年。干支でいえば康戌(かのえいぬ)となる。「康」が消えているのだろうか。
茂兵衛道標と大師坐像
●茂兵衛道標
●大師坐像
〇十方施主
仏教では東・西・南・北を四方。上・下を二方、東西南北の間の四維(東南・西南・西北・東北)を加えたものを十方と言う。十方世界とは全ての世界、ということ。十方施主とはこの世のすべての人の勧請により建てられた、ということを意味する。
●光明真言
Wikipediaには「光明真言とは密教の真言(真実の言葉)。神秘性を保つため梵語で唱える。
「om amogha vairocanaオーン 不空なる御方よ 毘盧遮那仏(大日如来)よ オン アボキャ ベイロシャノウ
maha-mudra mani padma偉大なる印を有する御方よ 宝珠よ 蓮華よ マカボダラ マニ ハンドマ
jvala pravarttaya hum 光明を 放ち給え フーン (聖音)ジンバラ ハラバリタヤ ウン」
光明真言は大師堂に掲げていることも多いので目にすることも多いだろう。
光明真言の功徳としてWikipediaには:
「過去の一切十悪五逆四重諸罪や、一切の罪障を除滅する。 十悪五逆四重諸罪によって、地獄・餓鬼・修羅に生まれ変わった死者に対し、光明を及ぼして諸罪を除き、西方極楽国土に往かせる。先世の業の報いによる病人に対し、宿業と病障を除滅する」とある。
十三丁・十四丁標石
細路より国道を渡ったところから、農地の間を成り行きで進むと溜池の南西角に十三丁・十四丁標石が立つ。
六十八番道標石
真念道標
●金神神社
当地に住みついた鋳工がお祀りしたのだろう。
また、「三寶大荒神」は日本で生まれた仏神のようだ。神道、密教、山岳信仰などさまざまな信仰が混淆し生まれた、と。仏法僧の三宝を守護し、不浄を厭離する。古来日本では台所や竈が最も清浄なる場所とされたため、民間信仰として火や竈の神として祀られるようになった(Wikipedia)。
お堂脇に標石
大通寺西の四つ角を越え少し西に進むとお堂があり、山界万霊碑が祀られる。そのお堂脇に標石が立つ。「観音寺五十丁 小松尾寺二十丁 大正八年」とある。正面は修繕され文字は見やすくなっている。
二十三丁標石/二十一標石
ここには二十五丁の標石があるようだが、中央の地蔵は上半分が欠けており、右端は摩耗が激しく文字は読めなかった。
県道6号角に茂兵衛道標
〇金毘羅道
ここにも金毘羅道の案内がある。上述の国道377号の金毘羅道と結構離れている。金毘羅道といっても一本というわけではなく、鎌倉街道と同じく金毘羅さんに向かう道はすべからく金毘羅道というわけで、この金毘羅道は上述伊予見越えのルートができる以前の、高瀬から金蔵寺を経て金毘羅宮に向かう「金毘羅古道」ともいうルートではなかろうかと思う。古道というだけで、なんとなくトレースしてみたくなった。そのうちに。
池之尻交差点の道標
三十一丁標石 / 三十二丁標石
また、池之尻交差点から県道6号を少し進むと、道の右手の生垣に三十二丁の標石があった。
三十三・三十四丁標石
三十五・三十六丁標石
遍路休憩所はバス停でもあるようで、バス停の案内ポールが立つ傍、電柱の前に2基の標石がある。三十五、三十六丁の標石だ。高松道建設時に移されたのかとも思ったのだが、三十三・三十四丁標石も含め、それ以前の記録に既にまとめられている。
県道6号の始まりは昭和34年(1959)に認定された徳島県道・香川県道込野観音寺線。昭和47年(1972)には徳島県道・香川県道110号込野観音寺線として再認定。さらに平成5年(1993)に主要地方道として指定され、平成6年(1994)島県道・香川県道6号込野観音寺に認定されている。道路変遷の過程での移設だろうか。
三十七 ・三十八丁標石
ところで、舟形地蔵のお姿であるが、舟形は後光を表すものだろう。お地蔵さまも錫杖を持つもの、持たないもの、宝珠を持つものなどがあるようだ。いままであまり気にしていなかったのだが、今回あるきはじめた大興寺からの舟形地蔵丁石では、八丁と九丁の標石だけが錫杖をもち、その他の地蔵丁石は合掌するお姿であった。
四国中千躰大師
この大師坐像(手印付)は真念の道標建立の志を受け継ぎ、四国中に千躰の大師像(手印付き)を立てようとした阿波の人・照蓮が建てた大師像。現在阿波に50基、土佐六基、讃岐三基が確認されている。伊予にないのは、文化六年(1809)から十二年(1815)にかけて標石を建立した照蓮に先立ち、標石建立をなした武田徳右衛門が伊予出身であるため、と。徳右衛門建立の標石百十四基の半数以上が伊予に立っている。
千躰建立はならなかったものの、その構想は壮大。江戸の頃、真念から徳右衛門、照蓮と続き、明治に至り中務茂兵衛へと続く遍路道標建立の流れの一翼を担う人物である。照蓮の詳細は不詳とされる。
旧伊予街道との交差箇所に茂兵衛道標と真念道標
茂兵衛道標は風化が激しく「百*い*度目為供養」といった文字が微かによめる、と。真念道標には「南無大師遍照** これよりくわんおんじ」といった文字が刻まれる。
●旧伊予街道
この道は古代の南海道太政官道筋と言われる。讃岐の国府と伊予・土佐の国府を結ぶ古代に官道である。7世紀の中頃、大化の改新により中央集権が強化され、中央と地方の連絡のため国府を結ぶ官道を整備し駅伝の制度をつくった。
讃岐国には大川郡から三豊郡まで、刈田・松本・三谿(みたに)・河内・甕井(みかい)・柞田(くにた)駅の6駅がおよそ20キロ毎に設けられた。柞田(くにた)駅は国道 11号を南に下った柞田川を渡った先にその跡が残る。
柏木神社手前の舟形地蔵
道を少し進むと柏木神社手前の四つ角、民家の塀に埋め込まれたような舟形地蔵が立つ。錫杖を右肩に乗せたお姿である。遍路道はこの辻を左に折れる。
植田天満宮
お手植え松は枯れ、その巨大な株だけが社殿左手にある覆屋下に保存されていた。 株の左右に2基の道標が残される。
右手の道標には正面に「従是下植田」、側面に「丸亀江五里半 金毘羅江四里半 川之江四里 琴弾山迄廿五丁 観音寺町口迄十五丁 すしかへはか道 弘化三丙午年九月建立」と刻まれる。 「すしかへはか道」は何だろう?
左手の道標には「右 うゑ田松 松より観音寺すくみちあり 寛政十年戌午七月」などと記される。
●年号(元号)と干支
加茂神社の道標
道標には手印と共に「へんろ道 加茂神社」と刻まれる。また、常夜灯の竿の部分に「道観音寺 嘉永六癸丑(みずのとうし)六月吉祥日」と刻まれる。
県道237号にあたる
さらに道を進むと左手に回転寿司チェーン店があり、そこで県道237号に当たる。
予讃線余茂田踏切
市谷川左岸を県道6号・明治橋へ
■旧伊予街道からのもうひとつの遍路道
この道筋には特段の道標などはないが、途中道の右手に薬師庵がある。元禄時代に建てられたもの。薬師堂と観音堂は釣り屋(渡り廊下)でつながれているが、老朽化が激しく崩れてしまいそうになっていた。
地神様に2基の道標
道を進み比較的大きな道と交差する手前、道の左手に地神の石祠があり、そこに2基の道標が置かれている。
1基は手印と共に「琴弾神社 小松尾寺 明治丗二年」、もう1基には「右 へん*」と刻まれる。
光明寺の道標
殿町交差点に2基の道標
交差点の北東角に2基の道標。1基は「右小松尾道」とはっきり読めるが、もうひとつは手印らしきものが見えるだけではあった。
三架橋
Wikipediaには「三架橋(さんかばし)は、香川県観音寺市にある鉄骨コンクリート製の橋である。財田川の下流にかかっており、海から数えて三番目の橋。日本百名橋にも選ばれた観音寺市を代表する名橋。三連のアーチを描く欄干が特徴。
三架橋の歴史は古く、「金比羅参詣名所図会」(1848年(嘉永元年))に「三架橋は、琴弾山麓の染川にあり、3橋つづいて架かるゆえに号したという。川原で染物をなし、その橋詰は観音寺の町で商家、蔵が建ち3つの太鼓橋が架かっている」と記されています。また、これとは別に、三架橋の名は、琴弾八幡宮の参賀橋であることに由来するとも言われている。江戸時代には、三連の太鼓橋であった。明治18年に平面の木橋に改められ、1935年(昭和10年)に現在の橋に替えられた」とある。
●旧遍路道
光明寺から三架橋までの旧遍路道もはっきりしない。光明寺を左折せず直進すると現在「ひがし児童公園」となっている辺りに観音寺城1跡が残る。旧遍路道は今歩いた道の少し北を進んだとも言われる。
琴弾八幡宮
山裾の境内も広い。駐車場を兼た境内には参集殿、神幸殿や摂社、忠魂碑、源氏との深いつながりを示す源平屋島合戦の案内などもあった。
●一夜庵道しるべ
一夜庵は宗鑑が享禄元年(1528)結んだ数寄屋造りの庵で、日本最古の俳蹟と言われる。一夜庵は、一夜以上の滞在を許さなかったことに由来する、と。で、句にある「下下の宿あり一夜庵」ってどういう意味?宗鑑の句に「上は立ち 中は日ぐらし 下は夜まで 一夜泊まりは下々の下の客」がある。庵を訪ねる客のうち、上客はすぐに退去する人、ほどほどの(中)客は日暮れまでいる人、よくない客は夜までいる人、一晩泊まるのは最悪の客」と。
この句はどうも逆説的な言い方のようで、下下と言われようが、堂々と泊まっていく俳人を期待したようだ。一茶クラスになるとは「下下も下下下下の下国の涼しさよ」と詠む。
三架橋の南詰の西側にある専念寺境内には小林一茶の句碑が建つ。「 元日や さらに旅宿と おもほえず」。年が明けたが、ここが旅の宿とは思えない、と。一茶はこの地に四年間滞在したとある。
●早苗塚
“早苗とる手もとやむかし しのぶ摺” この直筆短冊を小西帯河が所蔵していたが二六庵竹阿(一茶の師)の指導で句碑建立した。安永四年(1775年)。その後天保十年(1839)再建す」とある。 小西帯河は地元の俳人。「しのぶ摺」はいくつか解釈があるようでここでは思考停止。
●船霊大神
昔はここにお舟があった、とも、元禄二年(1689)に書かれた寂本の『四国遍礼霊場記』には「お琴ならびにお舟は、今にいたるまで殿内に崇め奉られている」と記す。
●木之鳥居
鳥居を支える石の台座には「琴弾宮 三之鳥居 宝暦十一年辛巳」と刻まれる。
●妙見道の道標
妙見道とは?はるか離れた宅間の地に妙見山に妙見宮が鎮座するが、そこではないだろう。かつて、琴弾八幡の参道途中から観音寺へと抜ける道があったようであり、その途中の産巣日(むすび)神社・妙見社でもあったのだろか。標石の記す二丁は観音寺までの距離かもしれない。妙見道へと少し入ったが進めそうもなく元に戻った。
●真念道標
●本殿前の道標
●本殿

〇歴史
社の歴史は古く、上述の大宝3年(703)、日証上人が八幡大菩薩をこの山中に祀ったことにはじまる。このとき社の神宮寺として後に六十八番札所となる観音寺の前身・神宮寺宝光院を建立。
大同2年(807)空海が八幡神の本地仏である阿弥陀如来を描き安置。このときより神仏習合の社となる。その後、室町の頃には札所六十八番となり、観音寺がその別当寺として納経を行う。
中世期は八幡宮の主祭神・応神天皇をその祖先神とする源氏の信仰厚く社殿の造営、寄進を受ける。
明治になり、神仏分離令により本地・阿弥陀如来画像(絹本著色琴弾八幡本地仏像)は観音寺境内の西金堂に移され、琴引神社と改名。第二次世界大戦後ことひき八幡宮と改称された。
〇祭神
祭神は神功皇后、応神天皇、玉依姫の三神。八幡神は応神天皇と同一視される故ではあろう。神宮皇后はその母。この社は八幡神の姫神とも母神とのされる玉依姫を祀るが、八幡三神としては玉依姫に替わり、比売神(ひめがみ)を祀ることも多い。
Wikipediaに拠れば、比売神とは「アマテラスとスサノオとの誓いで誕生した宗像三女神、すなわち多岐津姫命(たぎつひめのみこと)・市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)・多紀理姫命(たぎりひめのみこと)の三柱とされ、筑紫の宇佐嶋(宇佐の御許山)に天降られたと伝えられている」とある。
琴弾八幡から神恵院・観音寺へと琴弾山を下る
●本殿裏の石段下り口に丁石
「椿説弓張月」の案内
「江戸時代の読本作家、滝沢馬琴の書いた「椿説弓張月」のなかに源為朝の妻白縫が観音寺、琴弾の宮で夫の仇討ちをしたという話があります。為朝が京の戦いで敗れたとき、鎮西太宰府の舘(やかた)を守っていた白縫は召し使い八人とともに讃岐観音寺、琴弾の宮に落ち、神仏に夫の無事を祈っていました。 一方京では、敗れ傷ついた為朝は家来の武藤太の家に身をひそめました。その時武藤太は「為朝を捕えた者には過分のほうびをとらす」という敵方のおふれに目がくらんで密告したため為朝は捕われて八丈島に流されました。
主君を敵方に売った武藤太は“痴(し)れ者”として非難され居たたまらなくなって手下二人と西国に落ちました。
いまも観音寺市琴弾八幡宮の境内には、この仇討ちを伝える史跡が保存され観光客が絶えません」とあった。
椿説とは珍説・異説。といった意味。椿説弓張月の読みは「ちんぜい ゆみはりつき」と思っていたのだが、「ちんせつ」が元の読み方のようだ。主人公は鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろう ためとも)故に「ちんぜい ゆきはりづき」とも読むよう。
なお、案内はあったが、「椿説 弓張月」の碑は見当たらなかった。
象ケ鼻展望台
案内には「寛永十年(1633年)時の将軍家光公から讃岐巡遣使を派遣するとの知らせを受けて丸亀藩主生駒高俊公が領内巡視の際このことを聞いた地元の古老たちがなにか領主歓迎のためにと銭形の砂絵を一夜のうちに作りあげたとつたえられています。
とはいうものの、寛永通宝がえきたのは寛永十三年(1636)であるから、少々タイムラグがある。お話はお話としておくべきか。
六十八番札所・神恵院 / 六十九番札所・観音寺
象ケ鼻展望台より車道を道なりに下る。しばし進むと道の右手に「神恵院・観音寺」の案内がある。
●西国33観音霊場
●薬師堂
現在、神恵院はこの薬師堂から別の場所に移されているのだが、古い資料を頼りに歩いていた為、薬師堂には六十八番札所本堂の案内もなく、その右手にあるという六十八番大師堂も見当たらず、そのうえ左手にはコンクリート造りの多宝塔・心経殿があり混乱の極み。あちこちと結構彷徨うことになった。
●六十九番札所・観音寺本堂
寺伝によれば観音寺は空海が開基した、と言う。大同2年(708)琴弾八幡の別当寺であった法相宗弥勒帰敬寺に第7代住職として止宿。上述阿弥陀如来尊像を描き本尊とし琴平山神恵寺と名付けた。空海は続けて、八幡宮に祀られる神功皇后が聖観音菩薩の生まれ変わりとし、自らの手で聖観音菩薩を刻み、この地に七宝山観音寺を開創した。平城天皇の勅願によるものとのこと。
伽藍は奈良の興福寺の東西金堂、中本堂の制にならい建立。中本堂は現在六十九番札所本堂となっているこの建物。聖観音と四天王を祀る。西金堂は現在の薬師堂に薬師如来と十二神将を祀り、東金堂(現在の開山堂)には弥勒菩薩を祀った、と。 前述の如く神仏分離令時に琴弾八幡・別当寺であった神恵院を観音寺の西金堂に迎え、一寺二札所ということになったのは、このような歴史的経緯を踏まえてのことであった。
●開山堂

●六十九番観音寺大師堂
●六十八番神恵院の本堂
●六十八番神恵院の大師堂

●伊藤萬蔵寄進の石灯籠
●伊藤萬蔵
伊藤 萬蔵(いとう まんぞう、1833年(天保4年) -1927年(昭和2年)1月28日)は、尾張国出身の実業家、篤志家。丁稚奉公を経て、名古屋城下塩町四丁目において「平野屋」の屋号で開業。名古屋実業界において力をつけ、名古屋米商所設立に際して、発起人に名を連ねる。のち、各地の寺社に寄進を繰り返したことで知られる。
●仁王前の道標2基
●仁王
仁王さまとも称される金剛力士は、仏敵を打ちすえる金剛杖を持つが故の呼称。仁王ももとは二王であったのが仁王となった、とか。
これで本日の散歩はお終い。次は七十番札所本山寺から七十一番弥谷寺あたりまで進もうと思う。
●天空の鳥居・高屋神社