直接曼荼羅寺を目指すルートは、弥谷寺仁王門前の石段右手に立つ茂兵衛道標から右に折れ、おおよそ3キロ強の曼荼羅道を歩く。海岸寺経由の遍路道は、弥谷寺護摩堂から本堂の逆方向、天霧山への尾根道を進み、弥谷山と天霧山の間の鞍部から山道を里に下り、予讃線海岸寺駅近くにある海岸寺へと北に向かう。その距離おおよそ5キロほど。そこから5キロほど南へと折り返し曼荼羅寺を目指す道である。
曼荼羅道は弥谷山西麓の土径を進むもの。海岸寺道は荒れているではあろう山道を下るもの。どちらにも惹かれる。ということで、曼荼羅寺への遍路道はふたつともカバーすることにした。最初は海岸寺道経由、次いで曼荼羅道を辿り曼荼羅寺への遍路道をメモする。
本日のルート;
■海岸寺を経由して曼荼羅寺へ向かう遍路道■
弥谷寺護摩堂を左に>48番西林寺の石仏>52番太山寺の石仏>泰山寺の石仏>番道の合流点に石仏2基>白方遍路道分岐点>(天霧城跡へ)>犬返し・犬走り道分岐点>犬走り道から二の丸跡に>天霧城跡>犬返しの険>白方遍路道への分岐点に戻る>岩屋霊場>砂防ダム>車道に出る>虚空蔵寺>畠の中に標石>観音堂川傍分岐点の標石>民家脇の標石>白方小学校傍の標石>県道21号合流点手前に2基の標石>海岸寺>海岸寺奥の院>県道21号右角の標石>仏母院>熊手八幡宮>JR予讃線踏切>遍路道はふたつに分かれる>東西神社参道口に標石>県道48号の茂兵衛道標>曼陀羅寺手前の茂兵衛道標>曼陀羅寺
■海岸寺を経由して曼荼羅寺へ向かう遍路道■
◆弥谷寺から海岸寺へ◆
四十八番札所西林寺の本尊石仏;9時40分
そのすぐ先、道の右手に石仏が立つ。台座に「四拾八番 西林寺」と刻まれる。右手は垂下、左手には蓮華を活けた花瓶をもった姿。本尊の十一面観音だろう。松山市の札所。
●多度郡・那珂郡

また、那珂は全国各地にある地名。海部族に関わる地名のことのよう。「なか」の「な」は「灘」の「な>海、海岸線」、「か」は格助詞「の」の連体修飾語、「学校の友達」の「の」の意とも言う。「なか」は「海の(ある)郡」といった由来だろうか。単なる妄想ではある。
第五十二番 太山寺の本尊石仏;9時45分
五十六番札所 泰山寺の本尊石仏:9時50分
道の合流点に石仏2基;9時52分
この先遍路道に四国霊場の本尊石仏は見当たらない。五十六番札所で切れるのも、ちょっと中途半端。見つけられなかったのだろうか。
それにしても弥谷寺の石仏の並びはどのようになっているのだろう。先回の散歩で仁王門手前、弥谷寺入り口ともいえるところに第二十九番札所国分寺の本尊・千手観音、十二番札所焼山寺の舟形地蔵(右手に宝剣、左手に宝珠をもつ本尊の虚空蔵菩薩とはお姿が異なる)が置かれていた。場所柄、とってつけた、というか唐突な印象を受けた。元々はどのような配置で石造が並んでいたのだろう。
白方(海岸寺)遍路道分岐点:9時59分
2基の石仏の先に「白方へ へんろみち」左の木標と、「天霧城本丸」への木標が立つ。弥谷寺に来るまでは天霧城のことは何も知らなかったのだが、寺入り口の案内にあった「国指定史跡」の文字に惹かれ、ちょっと立ち寄ることに。
犬返し・犬走り道分岐点;10時14分
それから更に5分、犬返し・犬走り道分岐点に。右手の上りが犬返し道、左手の尾根を巻く道が犬走り道。犬も通りたくないような険路は勘弁と、迷うことなく犬走り道を選ぶ。犬走り道は「空堀/古井戸」と続くとの案内もあった。
犬走り道から二の丸跡に這い上がる;10時25分
GPSを頼りに結な構傾斜を30mほど尾根に向かって這い上がる。とそこ天霧城二の丸跡とあった。もう少々犬走り道を我慢すれば古井戸があり、そこから本丸に上れるようであった。
天霧城跡
北東端の方形郭の標識には「東西神社へは降りることができません」と書かれている。天霧山の南麓が採石場として山肌が大きく削られている。それが通行止めの因だろうか。
途中空堀への案内はあるのだが、いかにも空堀跡といった崖と平坦部コントラストを感じるところに肝心の空堀の標識は無く、ちょっと戸惑ったりはしたが一応天霧城跡をカバー。遺構らしき遺構を見分ける力があるわけでもなく、城跡からの遠景を楽しみ遍路道分岐点に下り返す。
●天霧城
弥谷寺入口にあった案内を掲載する;
その後、西讃岐守護代の地位を得た香川氏が、有事に備えた詰めの城が天霧城です。本台山から天霧城までは直線で3km程、また、中世山城の基本的構造である『守るに易く攻めるに難い』という理想的な山城でした。
香川氏が天霧城を築城した天霧山は、善通寺市・三豊市・多度津町と境を接し、瀬戸内海に臨む弥谷山系の北東部に一段高まる山塊です。弥谷山(標高382m)から天霧山(381m)にかけての山頂部には、数か所に高まりがあります。また、山の周囲は急崖急坂の斜面で、全山が自然の要害地形を形成しています。
この城は土佐の長曾我部氏の四国制覇の折に降伏し臣下の礼をとる。その後秀吉の四国攻めの折には城を棄て長曾我部氏のもとに逃げ廃城となったようである。 なお、この城は大化の改新の時、東讃の屋島軍団(牟礼軍団)、中讃の城山軍団(阿野軍団)とともに、西讃の多度郡三井郷に天霧軍団(白方軍団)が置かれたとき、その居城をこの城に求めたとも言われるが、定かではない。
犬返しの険;10時52分
尾根道を隠砦へと向かう途中、送電線鉄塔のある辺りから天霧山から瀬戸の海の遠景を楽しみ遍路道分岐点に戻る。
白方遍路道への分岐点に戻る;11時18分
十一面観音(三十三番谷汲山華厳寺) |
遍路道に立つ西国観音霊場の本尊石仏
聖観音(三十一番姨綺耶山 長命寺) |
千手観音(二十番西山善峯寺) |
実のところ、遍路分岐点にあった三十三番も含め、遍路道に並ぶ番号付きの石仏は里に下るまで四国霊場の札所と思い込んでいた。これが西国三十三観音霊場の本尊石仏では?と思ったのは、山道を下り切った里の虚空蔵寺にあった石仏に「一番 那智山」とあったため。
馬頭観音(二十九番青葉山 松尾寺) |
●観音菩薩
Wikipediaをもとに簡単にまとめる;観音菩薩は大慈大悲を本誓とする菩薩。ために、あまねく衆生を救済すべくさまざまな姿に変えて現れる。基本となる一面二臂(ひとつの顔とふたつの腕)からなる聖観音(しょうかんのん)のほか、千手観音、十一面観音など、変化観音と呼ばれる様々な形で現れる。あらゆる人を救い、人々のあらゆる願いをかなえるという観点から、多面多臂(多くの顔と多くの腕)の超人間的な姿に表されたわけである。
〇六観音
なお、千手観音は経典においては千本の手を有し、それぞれの手に一眼をもつとされているが、実際に千本の手を表現することは造形上困難であるために、唐招提寺金堂像や葛井寺の乾漆千手観音坐像などわずかな例外を除いて、42本の手で「千手」を表す像が多い。
この山道に並ぶ観音像には聖観音、十一面観音、千手観音、不空羂索観音、如意輪観音があった。准胝観音(十一番深雪山醍醐寺の本尊)もあったように思う(?)のだが、写真を撮り忘れた。
岩屋霊場;11時44分
「天霧八王山奥之院」とは、これから下る里にある虚空蔵寺の奥の院とのこと。お堂内部の石窟は幅・高さは4m、奥行き2m弱といったものであった。ここで空海が修行した、とのである。
砂防ダム:11時59分
不空羂索観音(九番興福寺) |
●不空羂索観音
Wikipediaには、「「不空」とは「むなしからず」、「羂索」は鳥獣等を捕らえる縄のこと。従って、不空羂索観音とは「心念不空の索をもってあらゆる衆生をもれなく救済する観音」を意味する」とある。
車道に出る;12時5分
西国観音霊場二番 紀三井寺 護国院の本尊十一面観音石仏;12時5分
●天霧城の案内
〇七ヶ所まいり
Wikipediaには「七ヶ所まいり(しちかしょまいり・ななかしょまいり)とは、四国八十八箇所霊場のうち、香川県にある第71番札所弥谷寺から第77番道隆寺までを遍路する参拝方法の総称。江戸時代後期の寛政12年(1800年)に書かれた『四国八十八番寺社名勝』には「足よはき人は此印七り七ヶ所めぐれば四国巡拝にじゅんず」とあり、古来1日で巡礼できる遍路として利用されていたことが窺える。
また、71番より遍路を始める風習は、弥谷寺ふもとの多度津湾が金刀比羅宮に参拝するための海の玄関口として栄えていたこと。1770年以降より旅籠屋で配られた道中案内記によれば、善通寺(私注;第75番)を誕生の地、弥谷寺を入学の地、海岸寺を産湯の地として金比羅山とあわせて紹介しており、四国八十八箇所遍路の大衆化以前より、弘法大師ゆかりの三箇所と金比羅山の参詣がすでに一般化していたことなどが理由とされている。
「足よはき人は此印七り七ヶ所めぐれば四国巡拝にじゅんず」とあるように、足弱きが故に四国八十八箇所を巡ることができない人も、この七ヶ所、七里を巡ることにより四国遍路巡礼と同じ功徳を得ることができる、ということだろう。なお、Wikipediaに産湯の地海岸寺とあることから、この七か所まいりは、今から訪れる海岸寺から始めるように思える。
虚空蔵寺;12時7分
●虚空蔵菩薩
「虚空蔵」はアーカーシャガルバ(「虚空の母胎」の意)の漢訳で、虚空蔵菩薩とは広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩、という意味である。そのため智恵や知識、記憶といった面での利益をもたらす菩薩として信仰される。その修法「虚空蔵求聞持法」は、一定の作法に則って真言を百日間かけて百万回唱えるというもので、これを修した行者は、あらゆる経典を記憶し、理解して忘れる事がなくなるという(Wikipedia)。
空海が弥谷寺の大師堂獅子窟で虚空求聞持法を修したとあった。室戸岬の洞窟・御厨人窟に籠り虚空求聞持法を修したとは知られる話ではあるが、あちらこちらに同様のお話が伝わる。
●西国観音霊場一番那智山青岸渡寺の本尊如意輪観音
如意輪観音(一番 青岸渡寺) |
●如意輪観音
Wikipediaには、「如意輪観音は基本、座像または半跏。片膝を立てる六臂が多いが、これとはまったく像容の異なる二臂の半跏像もある。手には尊名の由来である如意宝珠と法輪をもつ」とあるが、この石仏は方膝を立てた二臂の座像。手には如意宝珠と法輪をもっていた。遍路道にあった西国観音霊場の本尊石仏は確かにこの虚空蔵寺からスタートしていた。
●境内の標石
また、表参道口の右手、車道のガードレール脇に「是ヨリ十八丁 右彌谷寺道 左山道」と刻まれた標石が立つ。
畠の中に標石
観音堂川傍の標石
民家脇の標石
この標石、よく見ると「右」と「屏風浦白方海岸寺」の部分が硯彫りとなって窪んでいる。伊予の札所散歩の折、同名であった円明寺という寺名での混乱を避けるため、延命寺と改名した寺名を硯彫りで刻み直していたが、「右」と書き直す前は「左」と言うことになる。とすれば元の場所は道の反対側、その場合、「左」方向は「弥谷寺」と書かれていたのであれば辻褄が合うのだが、はてさて。
白方小学校傍の標石
県道21号合流点手前に2基の標石
駅の西の踏切を渡り、一旦駅前まで戻り、一応道をつなぎ県道21号へと進む。県道合流点手前の左右に標石が立つ。
右側の標石には「屏風ケ浦 左屏風ケ浦 右まんたら寺道」、左側は「弘法大師御母公旧跡仏母院東三丁 昭和十二年春」と刻まれる。道を渡ると前に海岸寺がある。
海岸寺
案内を簡単にまとめると、「二王門(二力士門) 正式には金剛力士といい、仁王という。正し、昔朝鮮に王(ワン)という兄弟があり、佛門の警護に当たったことに因み二王とも。当寺はその故事による。
貧寺として後世に残る像を造る資力なく、郷土出身の力士の顕彰を兼ねて造立。地元の彫刻家の手による」とある。
迦毘羅城はネパールで生まれた釈尊の地。当寺の院号を迦毘羅衛院(かびらえいん)とするのは、釈尊と対比しての日本の聖地・空海誕生の寺ということを示すのだろう。
大同2年(807)大師34歳のとき弥勒菩薩を刻み堂宇に祀ったのが当寺の開創とされ、往時七堂伽藍を建立し四十九坊を数える大寺であったそうだが、現在は境内には鐘楼と一つの堂宇が残るだけ。境内裏手は海岸に続く公園となっていた。道脇に十三佛が並ぶ。
●十三佛
十王は平安末期、末法思想と共に深く日本に浸透し、初七日、四十九日といった十の節目に、地獄に送るか否かといった審判を行う閻魔王を代表とする十の諸王であるが、鎌倉時代となって十王それぞれに本地としての仏と相対させるようになった。それが十三佛である。
閻魔王の本地仏は地蔵菩薩。閻魔王以外はそれほど知名度がないため省略する。
海岸寺奥の院
●山門前に標石
●産井
●湯手掛の松
産屋も湯手掛の松も平安末期に大師信仰故に造られた、とも。
●大師堂
●大塔
●文殊堂
●烏瑟沙摩(うすさま)堂
「不浄を浄化するとして、密教や禅宗等の寺院では便所に祀られることが多い」ともあった。
これで弥谷寺から海岸寺までのメモは終了。ここから第七十二番札所曼陀羅寺に折り返す。
◆海岸寺から曼陀羅寺へ◆
海岸寺二王門前、弥谷寺からの遍路道が県道21号にあわさる箇所にあった標石、「弘法大師御母公旧跡仏母院東三丁 昭和十二年春」に従い、大師の母の生まれた地に建つ仏母院に向かう。
県道21号右の標石
標石に向かって西の広田川方面から道が続く。県道整備以前の遍路道は県道21号の南を進むこの径であったかもしれない。県道を右に折れ仏母院に進む。
仏母院
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2014年(Google street view) |
2019年現在 |
●本堂
唐から帰国した空海が寺院を整備し三角寺と名付けた、と。熊手八幡宮の別当寺院となり山号を八幡山とした。
戦国時代の永禄年間(1558年-1570年)に戦乱により荒廃したが、その後、修験者の大善坊が再興したことから、寺院名も大善坊と称したが、江戸時代前期の寛永15年(1638年)嵯峨御所より「仏母院」の院号を下賜され、寺院名が大善坊から仏母院に改められた。
「仏母院」は、仏とも仰がれる大師の母公の御屋敷の地であったことから、一切仏を生み出す胎蔵界曼陀羅仏母院(遍智印)よりのアナロジーにより「仏母院」、三角寺は、胎蔵界曼陀羅仏母院の中央にあり、すべての如来の知恵を象徴する燃え盛る三角の印(三角智印)に由来するようだ。
●虚空蔵のお堂
●御住(みすみ)屋敷跡
本堂の道を隔てた逆側は、御母公堂・位牌堂から北の駐車場を底辺とした三角形となっており、三角(みすみ)地と称する。三角寺、大師母公の御住(みすみ)と、「みすみ」で揃える。三角の地形故か、御住の故か、はたまた曼陀羅由来の三角寺名の故か、なんらかの強い「意図」を感じる。
〇大師産湯の井
〇施入八幡銘石碑
〇甑(こしき)灯籠
〇えな塚
〇道標2基
熊手八幡宮
随身門には神馬と共に高麗犬が社を護る。木製彩色の古風を残す。町有形文化財。社殿にお参り。境内に残る、古の社であろう石の小祠群に惹かれる。
熊手の由来は、神功皇后征韓の折りに用いた御旗、長鉤(熊手)がご神体の故と。凱旋の時、屏風浦に至り蔵を造りてこれを蔵め、とある。
なお、熊手八幡の先、県道合流点に荒魂神社がありお参りしたが、仏母院の縁起にある荒魂神社は八幡山にある荒魂神社ではあった。ちょっとはやとちり。 ともあれ、これで海岸寺周辺の大師ゆかりの地を廻り終えた。ここから第七十二番札所 曼陀羅寺へ向けて遍路道を進む。
JR予讃線踏切
熊手八幡より仏母院に戻り、道なりに南に進み広田川に架かる橋を渡る。橋を渡ると県道217号にあたる。県道を左に折れるとJR予讃線踏切。
この踏切手前の田んぼの端に「北三丁 弘法大師えな塚 御母公仏母院」標石があった、という。現在は見当たらない。と、そういえば先ほど仏母院の御母公堂・位牌堂前前に、同じ文字の刻まれた標石があった。この地から移されたものであった。
遍路道はふたつに分かれる
線路を渡ったところで大きく右に折れ民家の間の道を進む。
東西神社参道口に標石
それはともあれ、神社参道口の伊予街道(旧太政官道)と交差する箇所に標石があり、「従是まんたらしへ十四丁」と刻まれる。
●七人同志碑
県道48号の茂兵衛道標
この茂兵衛道標は予讃線の踏切でふたつに分かれた県道217号を進む道筋。県道は高松道まで続き、そこで左に折れるが、遍路道はそのまま直進し県道48号に合流。その角に茂兵衛道標が立つ。
手印と共に「曼荼羅寺 出釈迦寺 弥谷寺 明治四十四年」と刻まれる。茂兵衛241度目の巡礼時の道標である。
茂兵衛道標
この道標から民家の間を道なりに進むと、ほどなく七十二番札所曼荼羅寺に着く。
これで弥谷寺から海岸寺を経由する曼荼羅寺へのメモはおしまい。次回は弥谷寺から直接曼荼羅寺に向かう曼荼羅道の歩き遍路ルートをメモする。