峠を下ったあとは、吉野川水系となった谷筋を大窪寺へと向かうことになる。途中、東谷川筋から槇川の谷筋へ支尾根を越えるがこれも比高差50mほどの緩やかな上りである。
その後大窪寺へと槇川の谷筋を上るが、結願の寺ということで険路・山道を想像していたのだが、遍路道は国道377号といった整備された道であった。
本日のルート;八十七番長尾寺>清水九兵衛地蔵座像>茂兵衛道標(139度目)>塚原橋北詰の標石>地蔵堂と「誰が袖」標石>石造大灯籠と地蔵堂>一心庵>高地蔵と石仏群>一貞作の石仏群>徳右衛門道標>「伊勢大神宮献鐙田」の自然石碑>前山ダム>茂兵衛道標(242度目)>前山おへんろ交流センター>峠道の徳右衛門道標>花折峠道の遍路休憩所>花折峠の地蔵標石>69丁石・68丁石>先生墓と67丁石>66丁石>お堂と65丁石>64丁石・63丁石>60丁石・57丁石>細川家住宅>56丁石と小祠脇に55丁石>3基の地蔵丁石と馬頭観音>45丁石と一夜庵>二百万遍供養塔>分岐点に標石>38丁石・34丁石跡>>遍路休憩所傍に30丁石>不動明王と29丁石・27丁石>26丁石と地蔵堂前の丁石>>21丁石>国道377号と県道3号の分岐点に石造群>20丁石と槇川の庚申塔>19丁石・18丁石>17丁石・(16丁石・15丁石・14丁石)13丁石>?丁石・11丁石>お堂の10丁地蔵標石と石仏群>10丁石・9丁石>8丁石・7丁石>6丁石・5丁石>4丁石・3丁石>八十八番札所・大窪寺
長尾寺から大窪寺へ
清水九兵衛地蔵座像
先回の散歩で、長尾寺手前で同じく清水久兵衛の標石があったが、その説明に「六年後の明和九年に、南の県道高松・長尾・大内線と市道筒井・北原線の交差点北詰の、木戸家の墓地に清水九兵衛は立派な三界万霊供養の地蔵坐像を建立している」とあった地蔵座像がこれである。
茂兵衛道標(139度目)
塚原橋北詰の標石
●鴨部川
多和地区の額峠(がくたわ)の北の河川の水を集め讃岐平野を下る。県道3号も通る額峠は分水界。峠を越えると吉野川水系曽江谷川の上流部となる。
地蔵堂と「誰が袖」標石
手印と共に正面に「右長尾道 十五丁 やくり三里」とある。「右」は長尾寺と逆方向。道の反対側にあったとすれば長尾寺も八栗寺も方向としては理屈に合うが、そうなれば手印は長尾寺と逆を指すことになる。どういうこと?
●誰が袖標石
「誰(た)が袖標石」は便宜的につけたもの。古今集にある「色よりも香りこそあわれと思ほゆれ 誰が袖触れし宿の梅ぞも」の風情より。
石造大灯籠と地蔵堂
四つ辻に道案内があり、遍路道は直進、左「行基苑 から風呂」 とあった。
●行基庵・から風呂
から風呂は古代のサウナ。行基が地元民の病気治癒を願って造ったと伝わる。から風呂傍に行基堂(行基苑は公園)もあるようだ。場所は熊田池の畔。先回メモした静御前が義経の菩提を弔うべく結んだ庵・静薬師堂は熊田池の直ぐ南、鍛冶池の畔にある。
一心庵
正面建物には真言宗一心庵。手水鉢のある右手のお堂前には「波切不動」と記された石碑がある。お堂には波切不動が祀られているのだろう。
お堂傍、道沿いに自然石の標石。手印と共に「右へんろ道 大窪寺二里 文化四」といった文字が刻まれる。指示方向と大窪寺方向が合わない。道の左手にあったものだろう。
高地蔵と石仏群
地蔵菩薩は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上と輪廻する衆生を救済してくれるところから、当地では毎年3月に、この地蔵を「流れ灌頂の本尊」として法要を行い、「三界万霊」「永代有縁無縁」の供養をしている。
「大師堂」は、自然の巨岩に大師像を彫ったものをお堂で覆い、阿弥陀三尊をもお祀りしている。 少し奥まったところに「忠左衛門」の墓碑がある。四国霊場を136度巡拝したという、芸集(広島)山形郡中原村の忠左衛門を供養するために、地元の弁蔵・伊三良が発起人となって建立したものである。
道路の改修で、昔と面影は変わったが、人々は聖地の霊験を信じて、近在のいやしの空間となっている」とある。

●馬の墓
この付近は燃料である薪炭や、前山の水車で製造された小麦粉などが荷馬車で運ばれた。 志度・長尾から今の前山ダムのある中津までの馬車も通っており、長い年月の間には曳き馬が死ぬこともあったのである。
こうした馬の墓が何か所かある。人の墓と同じように動物の墓も作られ、懇ろに葬られるのである」と記される。
傍には石に馬が彫られた「馬の墓」があった。このように実際に馬が彫られたものはあまり見かけることはなかった。
一貞作の石仏群
石仏群の中に手印と共に「へんろ道」と刻まれた自然石の標石があった。
徳右衛門道標
徳右衛門は文化十一年(1814)十二月に没するまで約百基の道標を建てているが、この道標はいよいよ初期のものである。
さぬき市内にはこれをいれて四基の徳右衛門道標がある」と記されている。
遍路道を歩くと時に徳右衛門道標に出合うが、この道標は常の徳右衛門道標と異なっている。柱頭は常のカマボコ型ではなく四角錘。大師像も常のものより大きく、また通常大師像の上にある梵字はない。また、常は側面や裏面に架かれる施主や願主、建立年などがすべて前面だけに刻まれている。
「伊勢大神宮献鐙田」の自然石碑
前山ダム
鴨部川の洪水治水対策、長尾・志度の上水利水対策として建設された。
茂兵衛道標(242度目)
その傍に「遍路道」の案内と大窪寺までのルートが示されており、「前山ダムより西に入って、花折峠を越え、谷川沿いの谷川沿いを辿ったものでした」と記される。この記述が現在のことか、過去のルートのことかわかりにくい。また「前山ダムを西に入る」もちょっと混乱。県道3号は鴨部川に沿って西に向かいその先で南に折れて前述「額峠」を越えて続くが、花折峠は前山ダムの西端部に南から流れ込む鴨部川支流に沿って花山峠に向かうようだ。
説明は少しわかりにくいが、地図があるのでそれを目安とすればいい、かも。
前山おへんろ交流センター
花折峠への道を確認すべく地図をみていると、前山ダム湖の南、県道3号わきに「前山おへんろ交流センター」があった。花折峠越えの前にちょっと立ち寄り休憩とする。
●茂兵衛道標
●納札俵
それ故、接待の証左となる納札は大切にされ、その集積となる俵を家屋の梁に括り、家内安全を願った。また、稲わら製であることから五穀豊穣の祈願にもなるという。
この度は大・小ふたつの俵を出品するが、ちいさいものには数十年、大きな俵になると100年間を越える納札が納められているという」とあった。
●往来手形
そのほか興味深い品が数多く展示されていた。
峠道の徳右衛門道標
鴨部川水系の花折川の谷筋左岸を進み大きなヘアピンカーブで右岸に移る。峠道を上りはじめて20分ほど、高度を50mほど上げたところ、道の左手に大師座像を刻んだ自然石の道標が立つ。「是より於くぼ迄 二里 願主 予州 *右ヱ門」と刻まれるようであり、徳右衛門道標とされる。
花折峠道の遍路休憩所
標高350m辺りからは緩やかに高度を上げ標高385mの辺りに遍路休憩所があった。傍に「古道と砦」の案内。「江戸時代初期に、「元暦のむかし、義経が矢(屋)島に向かった路」と澄禅大徳が『邊路日記』に書き、巨石に目印として銭をはさんで、平氏が祖谷へと落ちて行ったとの伝承のある古道―花折道(約2キロ)、少し北へ下ったところに標識がある。 東讃岐の豪族寒川氏の居城『昼寝城』関連の砦跡が、今も山の尾根で観察できる場所がすぐ北側にある」と記される。
阿波の勝浦に上陸し、海岸線に近い阿讃国境の大阪峠を越え海岸線を進み、長尾街道で道を西にとり、田面峠を越えて長尾に至り、そこから北上し屋島に向かった、とするのがよく言われる奇襲路とすれば、この花折道を通ることはないだろうな?とも思いながら、それよりなにより、今更北に戻る気力もない。あれこれチェックすると舗装道から離れた道を地元の有志が開きているとのこと。それが花折道ということだろうか。
花折峠の地蔵標石
南へ数百メートル行った、道の右側の主を、先生墓(医者の墓明治五年没)と呼んでいる。紀州若山春日山の住人とお位牌にある。
晩年当地で施療していたが、遺言によって、ここに墓を建てた。回向をお願いします」とあった。
今まで花折峠と書いてきたが、「東花折峠」が正確な呼称のようだ。その峠の左手、ブロックの中に地蔵座像。台座に「七十丁」と刻まれる。またその右側には遍路墓。「寛政七年 大阪」「寛政六年」といった文字が刻まれる。
左手には地蔵世話人の石碑が立っていた。峠さんという名前も刻まれる。この辺りには多い姓のようである。
●馬の墓
69丁石・68丁石
先生墓と67丁石

先生墓の傍にも丁石。これも摩耗し文字が読めないが、この先で現れた丁石が六十六とあったので、ここは六十七丁ではあろう。先の「六十八」丁石も、この六十七からの逆算ではある。
66丁石
南へ約1キロメートル行くと、左かなたの山麓に細川家住宅が見えてくる。右へ少し山を登ると、旧へんろ道の石垣上に「御接待 一萬五千人所」と書いた供養碑が建っている」と記される。
案内板傍には丁石ともう1基石仏が並ぶ。牛の首峠、山伏峠、また「御接待 一萬五千人所」の碑は特定できず。
お堂と65丁石
その傍に「*十五丁」と刻まれた舟形地蔵丁石が立つ。傍には「六十五丁 南進して大窪寺へ六十五丁(約7キロメートル)このあたりを額峠という。 昔、讃岐国の現さぬき市以東と小豆島を領有した昼寝城主寒川氏の重臣で、奥山村政所額氏の領邑である。
源平合戦のとき開戦の合図の鏑矢が到着した場所をヤトコと呼んだという伝承がある。また、義経の一隊が屋島からの兵士を捕らえて平家の布陣を聞き出したとも言い伝えている。 額村から「ヒロソ」を経て墓松のところから昼寝城へ通じる道があって、古大窪へも行くことができた。
北進すると中津(前山ダム)へ下り、西へ行くと鹿庭(三木町神山)に通じる」と記される。
案内にある説明がよくわからない。とりあえず、ここに65丁石がある、ということだけに留めて先に進む。
●額峠(がくとう)
里道が県道3号と交差する辺り、標高368m地点が額峠であろう。峠の北には前述鴨部川の源流域、峠の南には吉野川水系祖江谷川へと水を集める支流(槙川・額川)の上流部となっている。額峠が分水界ということだ。
峠の南も香川県さぬき市ではあるが、讃岐に注ぐ水系を離れ、阿波に注ぐ吉野川水系に足を踏み入れたわけであり、往昔の往来の観点から云えばここは文化圏としては阿波だろう。嫁取りも阿波が多かった、とか。ちなみにこの地を開墾した真部助光氏の祖は額孫右衛門。讃岐でしばしば登場する神櫛王の末裔とする、との記述があった。
64丁石・63丁石
この辺り多和額。多和は一般的には「たわんだ」ところ。ただ、この多和はかつて奥山村と呼ばれたところ。大正8年(1919)に奥山村から多和村に改名したようだ。たわんだ=湾曲した地形からの命名ではあろうが、多和は北から南まで結構長く、どこがたわんだ地形として特徴的であったのか特定できない。
60丁石・57丁石
少し進むとT字路が。その角に57丁が立つ。遍路道は先に進むが、T字路を左に折れて細川家住宅にちょっと立ち寄る。
細川家住宅
昭和四十六年六月に国の重要文化財に指定され昭和五十二年に解体修理を行い元の姿に復元された。 昭和五十三年三月」とある。
江戸時代に普通に見られた農家ということである。ツクダレ形式とは雪を滑り落ち易くするため、軒先まで低く草葺屋根を葺き下ろしたものである。
56丁石と小祠脇に55丁石

更に道を進み、同じく右手に小祠がふたつ並び、その傍に舟形地蔵。「五十五丁」と刻まれる。
3基の地蔵丁石と馬頭観音
右手の多和浦山方面から合わさる沢の合流点辺り、県道右手に壊れた石仏群を見遣り先に進み、多和助光で道は左に折れる。この道は県道3号と国道377号の並走区間となっているようだ。
●助光
助光の地名は、この地を開いた真部助光の名に由来する。
45丁石と一夜庵
そのすぐ先、石仏群や青面金剛像が彫られた東谷庚申塔が並ぶお堂があり、案内に「一夜庵 唐から帰国して真言密教の道場の地を探して巡錫していたお大師さんが、当地においでになったとき、山が火を噴き、大鳴動して、人々が恐れおののいていたという。
●護摩山・矢倉山
一夜庵の案内の直ぐ先に「護摩山・矢倉山」の案内があり、「護摩山・矢倉山 東谷川を中にして、南に護摩山、北に矢倉山と、当地は西日本では珍しい山や地質で注目されている。 ひつとは千五百万年前の火山活動で、花崗岩の割れ目にマグマが貫入して、そのまま冷えて固まった流紋岩からできた護摩山で、この山の岩頚は香川県自然記念物に指定されている。 もうひとつの矢倉山は、角ばった小石が堆積した角礫凝灰岩でできている。
護摩山には新四国八十八箇所の霊場の石仏が点在し、頂上には大師が護摩を焚いて祈願した巨石がある。
一方、矢倉山には西国三十三箇所霊場の移し霊場が祀られている」とある。
矢倉山にはこの案内板の奥に建つ慰霊碑辺りから上るようだ。
二百万遍供養塔
●護摩山に立ち寄り
分岐点に標石
しばらく進むと、道の左手、ガードレールの端、左に道を分けるところに標石。手印と共に「右 へんろ* 左 山道 昭和十二年」とある。なんとなく左に進みそうな道筋であるため、あえて注意をしてくれているのだろう。
38丁石・34丁石跡
標高350m辺りの東谷川の谷筋から50mほど標高を上げた標高410m辺りが尾根のピークとなるが、その辺りで道の右手から道が合流する。国道改修以前の道筋だろうか。それはともあれ、その合流点の少し手前、法面の窪みに「三十四丁石」の案内。
「雲の峰 三十四丁石 新しい国道の工事で少し位置は動いたが、丁石は崖の上にある。大窪寺の丁石は宝暦十二年(1762)五月から三年間で、七十丁建てられたのである。
一丁目の石碑を除いて、その他の石材は当地より数キロメートル徳島側に入った砥石谷より切り出したものと考えられる。
近世の讃岐は製糖が盛んであった。煮汁を煮詰める大鍋の底を砥ぐために盛んに切り出された」とある。
●旧遍路道
道 案内のある上を彷徨ったが三十四丁の丁石は見付けられなかった。それはそれでいいのだが、ひょっとして遍路道は右から合流する道筋では?国道筋に三十八から三十四までの間の丁石もなかったしなあ、とGoogle Street Viewでチェックする。三十八丁から国道を逸れた道筋に丁石の案内が立っていた。ミスった。が、道を戻る気力なし。
遍路休憩所傍に30丁石
三十丁、二十九丁の丁石は、高松塩屋町の中條氏の二人の尼僧が施主となっている。「法界萬霊」のためとして、あらゆる霊魂の菩提を祈るもので、この地で二百五十年の歳月を経たものである。このあといよいよ結界に近づく」と記される。
●旧遍路道の丁石
三十四丁の案内の先、国道から左に逸れる道がある。34丁から30丁まで丁石が空いているので、これももしやとGoogle Street Viewでチェックすると、道筋に丁石の案内が立っていた。遍路道はこの国道を逸れた道。ここもミスった。
不動明王と29丁石・27丁石
国道377号は槇川の谷筋へと下り、右手より槇川に沿って上って来た道と合流する手前に27丁石。「廿七丁」と刻まれる。
26丁石と地蔵堂前の丁石

21丁石
案内の遍路道が往昔のものか、現在のものかよくわからない。指示によれば槇川橋西詰から槇川右岸を進み50mほど進んで左岸に渡り庚申塔へ、とあるが、橋らしきものも確認できず、まま、国道筋を進むことにした。少し先に石造物群が見えたのも、国道筋をルートにとった一因。
国道377号と県道3号の分岐点に石造群
●伊藤萬蔵の標石
道路側の大きな石碑の正面には「名古屋市西區塩町 伊藤萬蔵」と刻まれ、手印と共に「四国八十八番大窪寺道 四国第八十八番奥之院 阿波国大滝寺江百五十三丁」とある。
伊藤萬蔵寄進の石灯籠や香台は遍路歩きの途次に時に見かけるが道標はあまり記憶にない。
〇伊藤萬蔵
伊藤 萬蔵(いとう まんぞう、1833年(天保4年) -1927年(昭和2年)1月28日)は、尾張国出身の実業家、篤志家。丁稚奉公を経て、名古屋城下塩町四丁目において「平野屋」の屋号で開業。名古屋実業界において力をつけ、名古屋米商所設立に際して、発起人に名を連ねる。後に、全国各地の寺社に寄進を繰り返したことで知られる。68番神恵院の石灯籠、74番甲山寺の香台など遍路歩きの各所で萬蔵寄進の石灯籠、香台に出合った
●徳衛門道標
●舟形地蔵標石
徳右衛門道標の左は舟形地蔵標石。「左扁んろ道 宝暦十四年 當村おくに」といった文字が刻まれるようだ。
20丁石と槇川の庚申塔
その対面に国道から下りるステップがあり、そこにお堂が建ち庚申塔が祀られる。 案内には「五穀豊穣・悪疫退散・無病息災・子孫繁栄などを願う庚申信仰は、千年の歴史をもつ民間信仰である。
それは、干支の十干の甲・乙・丙の『庚』と、十二支の子・丑・寅・卯の『甲』の組み合わせで六十日あるいは、六十年ごとに巡ってくる『庚申』に祈願するものである。
ここ槙川の庚申塔は、文化九年(一八一二)に建てられて、四国西国一といわれている。 上の日月から、尊像と六つの手と法具、下の『見ざる』『言わざる』『聞かざる』の三猿や、朝を知らせる鶏まで、儀軌の約束通りの立派な石像である。
主尊は当地のような青面金剛のほかに、帝釈天・猿田彦神などがあって、庚申の日を縁日にしており、古くから地域間の交流がみられたのである」とあった。
高さは1メートル強もある立派なもの。「槇川講中 世話人甚右衛門」と刻まれる。
これが21丁石のところにあった庚申塔。道が改修整備される以前は、21丁石から槇川筋からこの地に遍路道があったのだろう。
19丁石・18丁石
17丁石・13丁石
●16丁石から14丁石
〇16丁石
〇15丁石
北を見ると、瀬戸内海を一跨ぎにして、はるか南海の果てへ通り過ぎていった巨人の伝説で、足蹴りにしたという岩山の情景は、矢筈山の山容を一望できる。 地主墓や弘法大師座像が横に建ち並び、川の水音と、鳥や虫の鳴き声に見せられる場所である」とあった。
巨人伝説のくだりは、そのつながりがよくわからないが、15丁石の横に並ぶ石仏像は大師座像、16丁石横の自然石は地主墓ということだろうか。
〇14丁石
竹林を抜け、細くなった槙川に架かる橋を渡り左の藪へと入る。道は少々荒れ、大丈夫かな、などと不安になる頃に、「十四丁石」、「十三丁石」の案内。十三丁石は先を指すが、十四丁石は谷側を指すように見える。目をこらすと、道の下、槙川傍に舟形地蔵が見える。
立ち木で体を支え斜面を下りるとそこに「十四丁」と刻まれた舟形地蔵丁石が佇んでいた。橋の架かる以前のへんろ道筋ではあったのだろう。
〇13丁石へ戻る
十四丁石から元の土径に戻り、国道377号下のコンクリート水路溝を進み、民家庭先を抜けて国道377号へのアプローチとなる坂道を上る。国道と対面には先ほど見た13丁の舟形地蔵丁石が立っていた。これで丁石はなんとかつながった。また往昔の遍路道らしき道筋も少しばかりトレースできた。
⒓丁石・11丁石
お堂の10丁地蔵標石と石仏群
その周辺は庚申さん、地神さまが祀られる兼割の聖地である」と記される。
中には台座に梵字と供に「三界萬霊 従是札所 十丁有」と刻まれた地蔵坐像、台座に手印の刻まれた地蔵坐像、案内にあった地蔵立像(摩耗し文字は読めない)などが並ぶ。お堂傍には青面金剛の彫られた兼割庚申塔も祀られていた。
●お堂から先の遍路道
さて、これから先は?お堂の地蔵坐像の台座に彫られた手印は左手、つまりは国道377号と真逆の槇川右岸を指す。お堂の廻りは獣除けの柵で囲まれてはいるのだが、槇川には石橋も架かり、右岸に渡れそう。とはいえ、古い遍路道の記事には丁石は現在の国道に沿って残るとのこと。結局国道筋に戻り、丁石を目安とした遍路道トレースを続けることにした。
10丁石・9丁石
8丁石・7丁石
6丁石・5丁石
4丁石・3丁石
3丁石は道の右手、駐車場の出入口前の一段高い所に立っていた。傍にあった案内には「土佐の井筒屋の建てた丁石 宝暦十二年(1762年)五月吉日、遥か土佐国 ( 現 室戸市佐喜浜 ) の廻船問屋井筒屋「利平治」が、六丁までの丁石を寄進している。
「大窪寺」前の ”一丁地蔵尊” だけが、高さが 124cm ある花崗岩に彫られ、精緻な小屋の中に安置されている。
この ”三丁石” は高さ 64cm、”五丁石” が高さ 53cm、”六丁石” は高さ 65cm の砂岩に、地蔵尊 の立像が彫られている」とあった。
八十八番札所・大窪寺
仁王門
山門
石段を上り山門へ。鐘楼門となっているこの山門は二天門と称される。仁王ではなく大梵天と帝釈天がお寺を護る故とのことである。元禄年間再建された、とのこと。
本堂・阿弥陀堂
その後、真済僧正が住職のころ寺領百町四方を結界とし大きく隆盛し、また、女人の参詣を許して勧請を授けたので女人高野として栄えた。そして、天正の兵火や明治33年の大火で苦難を受けたときもあるが結願霊場として法灯を守っている」とある。
本尊の木造薬師如来は常の薬壷ではなく、法螺貝を持つ。厄を吹き払うということのようだ。その法螺貝も痛みが激しく水晶に替えられた、とあった。
また本堂には弘法大師が巡錫中に手にされていた三国伝来(天竺・唐・日本)の杖錫も祀られる、と。大師が唐の恵果大阿闍梨から授かったものと伝わる。168センチ、1.2キロほどのものと言う。一度見てみたい。
この杖錫は天正年間、長曾我部勢の堂宇焼き討ちにも耐え今に伝わるとのこと。それにしても、讃岐の寺は長曾我部勢による兵火で焼失したものが多い。関東では武田信玄の信玄焼きが知られるが、「長曾我部焼き」といった言葉でものこるのだろか。 因みに、天正年間に焼失した堂宇は、江戸時代に高松藩主である松平公にょり七堂伽藍が再建されたが、上述の如く明治33年に失火で股灰燼に帰した。現在の堂宇はほとんどそれ以降の再建と言う。
大師堂
宝杖堂

奥の院胎蔵峯寺
奥の院のある場所は少し開けており。岩場に食い込んだようなトタン張りの小屋とその左手にふたつの小祠に石仏が座る。小屋は施錠され内部は窺えない。祠の石仏は1基は大師像、もう1基は不動明王の姿に見える。祠の左は危険通行止めとなっていた。
参道口の道標
参道口石段前の「八十八番結願所」と刻まれた石碑にも手印で指すように、讃岐の結願の寺から阿波への遍路道を示すようだ。
切幡寺は四国霊場十番札所。阿讃の嶺を越えて10番札所に出る。ルートは大雑把に言えば、大窪寺より吉野川水系日開谷川筋を長野まで進み、そこから南下する日開谷川筋に沿って県道2号を吉野川が開析した低地に向かう。
白鳥は白鳥の社で知られる地。大窪寺から国道377号を長野までは切幡寺ルートと同じ。旧遍路道は長野の先で中尾峠を越えるが、ルートは基本湊川の谷筋を国道377号に沿って進み、途中318号に乗り換え白鳥に。そこからは義経奇襲ルートで知られる大阪峠を越えて1番札所霊山寺に向かうのだろう。1番から10番までは吉野川左岸の低地にあり、それほど距離も離れていないため、ショートカットで切幡寺に下ってから、1番から9番をカバーするということかとも思える。
予土国境からはじめた遍路歩きも、と言うか、標石を目安とした旧遍路道トレースも、当初の伊予をカバーし終え、成り行きで讃岐に足を踏み入れ、讃岐もカバーした。ここまできたら次は阿波と土佐もカバーしようかと。