水曜日, 6月 19, 2024

愛媛 ふるさとの山 ②:石鎚蔵王権現と六地蔵に瑞応寺から上り深谷川の支沢筋を下る

過日田舎の家の裏山ともいえる大永山、そこから辻ヶ峯へと向かう尾根筋に鎮座する石鎚蔵王権現と六地蔵を訪ねた。ルートは秋祭りの初日、10月15日の午後4時からはじまる角野地区太鼓台の宮入りがおこなわれる内宮神社から山入りし、石鎚蔵王権現と六地蔵を確認し北へと進み別子銅山の旧鹿森社宅跡より旧端出場選鉱所跡である道の駅マイントピア別子へと下りた。
その途次、内宮神社から山入りし、よく踏まれた住友共電の鉄塔巡視路の標識に沿って住友共電物部線183号送電線鉄塔に向かって上ってゆくと、三番目の鉄塔巡視路のあたりに道の合流点とおぼしきところがあった。古刹・瑞応寺からも住友共電物部線183号送電線鉄塔への巡視路があるという。ひょっとしたらこれが瑞応寺からのルート?。
ということで、今回は瑞応寺から山入りし石鎚蔵王権現と六地蔵にお参りし、帰路は六地蔵手前に国土地理院地図に描かれるルートに沿って北に下り深谷川の沢筋から里に下りることにした。
結果的には瑞応寺からの道は道なりに進むと当初予定した住友共電物部線183号送電線鉄塔手前の合流点ではなく,一筋西の尾根筋にある住友共電物部線184号送電線鉄塔に出た。道は一部巡視路標識の指示がはっきり「しないところもあったが、概ね快適に住友共電物部線184号送電線鉄塔に出た。 そこから石鎚蔵王権現・六地蔵までは前回と同じルート。石鎚蔵王権現・六地蔵にお参りした後は、辻ヶ峯と大永集落への分岐点まで戻り、そこから国土地理院地図に描かれた北に下りるルートに沿て下った。道はよく踏まれており迷うことはない。藪が心配ではあったのだが途次木々の伐採などが行われており、そのための作業道なのか、しっかりした道が下っていた。
この袋のルートは、大永山を巻いた後は、基本尾根筋を進むのだが、最終部分で国土地理院地図に記されたルートを外れ深谷川の沢筋に下り、しばらく沢に沿った土径を進み舗装された林道に出た。 行程は9時前に瑞応寺を出発し林道へ下山したのが午後1時前。おおよそ4時間程度。途中最終に近い沢筋の土径で浮石を踏み痛めて正座もできない膝を、思い切り「くの字に曲げられ」、痛みの余り結構休んだりしていたので、本来ならもっと短い時間でカバーできるかと思う。
それにしても当初予定していた先回出合った瑞応寺からのルート合流点への道筋はどこ?道なりに進んだのだけど出合えなかった。そのうち内宮神社から再び巡視路を上り、合流点らしきところから瑞応寺を繋いでみようと思う。膝の痛みが消えるのはいつだろう。



本日のルート;
■瑞応寺
(山門・鐘楼門・本堂・長泉堂・天女堂・僧堂・大銀杏樹・輪転堂・開基墓・西国33所観音霊場の舟形石佛・男坂・女坂・金毘羅大権現の社・梵鐘
瑞応寺から石鎚蔵王権現・六地蔵
梵鐘脇から山道に入る>住友共電力物部線183号送電線鉄塔への分岐点は?>鉄塔巡視路標識>鉄塔巡視路標識>住友共同電力物部線184鉄塔>184号鉄塔からシダの藪漕ぎで尾根筋に入る>三等三角点「大永山」(495.8m)>住友共同電力西条連絡東線送電線鉄塔19号>立川分岐点に鉄塔標識>辻ヶ峰・大永部落分岐点>分岐点を辻ヶ峰へのルートに入ると直ぐ石仏>六地蔵の祠>石鎚蔵王大権現
石鎚蔵王権現・六地蔵から深谷川の谷筋を里に下る
分岐点に戻り下山開始>送電線鉄塔巡視路標識>送電線鉄塔巡視路標識>深谷川の沢筋に下りる>沢筋に沿った細路を北に下ると砂防堰堤>砂防堰堤の先の舗装道に出る>深谷神社>宝篋印塔>蘭塔場の墓碑>門前の車デポ地に




■瑞応寺■

瑞応寺門前に車デポ
お寺の駐車場に車をデポし上下左右に広い緩やかな参道の石段を進む。以下瑞応寺に関する記述は『伊予瑞応寺史:佛国山瑞応寺』、『瑞応寺の今昔:佛国山瑞応寺』、『瑞応寺史余韻:佛国山瑞応寺』を元に作成した。個々の引用クレジットは省略します。
山門
直ぐ山門。左手に「瑞応寺専門僧堂」と書かれる。瑞応寺は明治30年(1897)、25世の道胤仙室大和尚の時に僧堂が開設され、修行僧を養成する寺ともなった。「瑞応寺専門僧堂」と改称したのは、昭和26年(1951)、29世の大玄一光大和尚の年とされる。大玄一光大和尚は楢崎一光、通常は方丈さんと読んでいた。親父の知人でもあり、よくお会いしたことがある。現代の名僧として書籍にも紹介さてている。
楢崎一光老師:28世大玄一光大和尚
楢崎一光老師(1918~1996)は、大正7年、広島県向島町に誕生。昭和5年(1930)12歳で出家得度。第二次大戦時は南方戦線に従軍し大隊副官連隊旗手を務める。終戦後、昭和21年(1946)若干28歳で師席を継ぎ、瑞応寺の住職となる。
就任後、ただちに専門僧堂を再開し橋本恵光老師を師家に迎え若き修行僧とさがを共にすること50年の長きに至り、純粋出家道を貫き、ひたすら道元禅師の仏法を志慕された。
また、宗門の重鎮として曹洞宗大本山永平寺の後堂、また晩年は副貫主という要職も務め、日本はもとより海外にも、その禅風を慕われ、正伝の禅を多くの人々に唱導された。
老師は筆道本源入木道を継承、高潔な筆痕で多くの人を魅了し、洞門屈指の能筆家として知られている。
鐘楼門
山門を潜り急な石段を上ると鐘楼門がある。2階に小さな梵鐘が置かれている。鐘鼓楼(教体楼)とも称される。鐘楼門を潜ると正面に本堂。本堂前の境内の中庭は砂利が敷かれ浪模様に整えられている。静謐な感がある。本堂の大屋根は昭和11年(1956)み別子銅山の銅で葺かれもの。雄大で荘厳。中庭を囲む回廊もいい雰囲気。

佛国山瑞応寺 本堂
瑞応寺の創建は文安5年(1448)、生子山城第11代城主松木景村公が父母の菩提を弔うべく鎌倉より月担老師を招聘し、堂宇を建立。鎌倉建長寺派臨済宗の寺として開山された。
当寺の名称は景村公の奥方の法名である「玉林院殿寒山瑞応大禅定尼」と康正元年(14551)に没した景村公の法名である「佛国院殿柏翁天真大禅定門」より「佛国山瑞応寺」と名づけられた。
「瑞応」とは 「帝王の徳治(徳による教化で世を治めること)や天下太平などに応じて、天が下す吉兆、つまりおめでたい兆しの意味という。
その後天正の陣において、天正13年(1585)生子山城が落城。城主松木三河守安村は戦死、瑞応寺も灰燼に帰した。
万治元年〈1660)に至り、当時の西条藩主一柳直興に当寺の復興を命ぜられた当地の庄屋である川端・神野両家の奔走により分外禅師を招き当寺を再興し、元禄10年(1697)広島県東城徳雲寺九世白翁禅師を迎えて開山におよんだ。このときより永平寺を本山とする曹洞宗に属することになる。 その後、文政11年(1828)に庫裡から出火し諸堂すべて焼失したが、天保元年(1830)に庫裡と梵鐘が造られ、弘化四4年(1847)に本堂と僧堂が、安政3年(1856) 山門と中門、廻廊等が完成した。 明治にはいり、更に明治30年(1897) 専門僧堂を開設し禅門修行の道場となったことは前述の通り。 26世の代には宗門最高の寺格である「別格」に列した。26世には東京において仏教青年会などを組織し積極的に活動していた高田道見氏を三顧の例で迎えたという。高田道見は東京と四国を兼務往復するという条件で就任されたようである。
本尊は釈迦如来像。そういえばこの寺名には院号がない。院号は主に天台宗、真言宗、浄土宗などの寺院に見られるが、曹洞宗や臨済宗の寺院では一般的には用いられないようだ。
前瑞応寺
佛国山瑞応寺開基の100年以上前、この地に大通山智勝寺が建っていた。この寺も松木氏の手によるものである。伊予の豪族、河野通有公に従い弘安の役に出陣し、その軍功により松木資俊公がこの地を領し、生子(庄司)山に城塞を築き、新居の松木氏の祖となる。
乾元元年(1302)松木氏初代の資俊公が没し、法名を「智勝院殿聖山本領大居士」と号した。公の奥方は剃髪染衣の身となり「大通比丘尼」と号した。 大通比丘尼が没するにおよび、松木氏二代広俊公が一寺を建立し、山号寺号を両親の法名により「大通山智勝寺」と名づけた。鎌倉建長寺派臨済宗の寺である。
「大通山智勝寺」がいつころまで続いたのかはっきりしないが、第6代俊村公は四国掌握を目する細川氏の侵攻を受け討死する。康暦元年(1379)のことである。とすれば 大通山智勝寺は六十余年で廃寺となったとされる。
その後、文安5年(1448)、生子山城第11代城主松木景村公が「佛国山瑞応寺」として創建されたのは上述の通りである。

長泉堂
27世雄道百英大和尚の代には千里亭(方丈 応接間)を新築し、28世の慈雲孝如来大和尚の代に本堂を銅板葺とし開山堂を増築した。
本堂につながった左手に長泉堂がある。別子銅山での殉職者を祀るために別子銅山の支配人広瀬宰平氏などの尽力で建てられた。瑞応寺と銅山の繋がりは強く、旧別子にある蘭塔場は、元禄7年(1694)4月25日に発生した大火災の犠牲者132名を祀るためにつくられたものであるが、大正5年(1916)の旧別子撤退に伴い、蘭塔場の墓碑はここ瑞應寺に移され、西墓地に祀られている。また、東墓地には明治32年(1899)の大水害の犠牲者の霊が祀られている、という。
中国人俘虜殉難者慰霊碑
また境内というか、寺域東端には戦時中別子銅山に強制連行された中国人労働者の霊を慰める慰霊碑が建立されている。当時別子銅山に送りこまれた中国人労働者は681名で、そのうち208名の犠牲者がでている。戦後、労働組合を中心として慰霊碑の建設が計画され、昭和29年6月東平に慰霊碑が建てられた。その後、四三年に東平が閉山したため、同碑を瑞応寺境内に移し、57年には日中国交回復10周年記念行事として、新居浜市中国人殉難者慰霊祭が催された。

天女堂
本堂・長泉堂の東、少し奥まったところに池がありその山裾にお堂が建つ。池とお堂の配置がなかなか、いい。天女堂と呼ばれる。
元は養老院。享保11年(1726)第5世月庭禅師が弁才天を本尊に創立したもの。後に和尚の隠居所として改造するに際し、現在地に移された。美しい女体で琵琶を弾ずる姿でしられるが、言辞柔柔で衆生の心を悦ばしめ歓喜を生じせしめる女神である、元はインドの川の精霊を神格化したものであり、ために水辺に祀られるのが通例となった。
後に福徳付与の吉祥天とも混じ、「弁財天」ときされるようにもなった。

僧堂
長泉堂の東に坐禅修行の僧堂が立つ。子供の頃はなかったと思うのだが、29世の楢崎一光老師の代に 僧堂を改築したという。出来た当初は建物の木も新しくちょっと趣きに欠けていたのだが、現在は年を経ていい雰囲気になってきている。
例年大寒の頃(1月20日)、素足に草鞋、網代笠で市内を托鉢して歩く寒行托鉢が名物行事ととして知られるが、近年心持ち修行僧の数が多くないようにも思える。少し寂しい。


大銀杏樹(県指定天然記念物)
僧堂の南に大銀杏が聳える。大銀杏の前には鳥居が立ち、鳥居傍に立つ案内には、「瑞応寺は文安五年生子山城主松木越前守景村公の建立によるものであるが、天正十三年の役に生子山城落城の兵火にかかり、戦後再建されたが、また文政十一年焼失の厄にあっている。
明治三十年曹洞宗専門僧堂開設、禅門修行の名刹として世に知られるに至った。
この老銀杏樹は鎮守金比羅大権現の奉祝にまつわる乳銀杏で、樹齢八百年と推定され、目通り8.5メートル、高さ27メートルの巨木で昭和三十一年十一月三日愛媛県の天然記念物に指定されている。 昭和五十四年一月二十四日新居浜市教育委員会」とある。
奉讃鎮守金比羅大権現御勧請三百年
鳥居の東にに「奉讃鎮守金比羅大権現御勧請三百年」と刻まれた石碑ある。石碑建立の日付は平成九年四月十六日(旧三月十日)」と石碑裏に刻まれる。平成九年といえば1997。300年前といえは元禄10年(1697)となる。元禄10年といえば花尾山金毘羅大権現の縁起にある、瑞應寺の五世月庭大和尚が、金比羅権現を勧請された年である。
月庭大和尚は特に金毘羅大権現を信仰しておられ、ある時村の衆数人と讃岐に参詣に行くことを約束しておられたが、前夜の霊夢によって翌朝この大銀杏に祈念したところ、天より金の御幣が燦然として降臨せられ、懇にお祀りをして、三体の内の一体は当山の鎮守として、他の二体は隣村の萩生と金子にお祀りされたという。 内ノ宮社記には、「ある夜、銀杏樹の上に天の羽衣を着る神人あり。月庭和尚すなわち、斎戒、沐浴、 焼香、礼拝、誦経すれば空中より金弊下る。一心祈願すれば紫雲たなびき、天華乱墜して神霊形を現わす。よってこれを勧請し奉る。時に霊異あり云々。」と記される。

輪転堂の大転輪経蔵(県定文化財)
大銀杏樹を少し東に向かい山入り地点となる金比羅大権現のお堂に上る長い石段前に立つ。石段左手、一段高いところにふたつのお堂があり、東側のお堂・転輪蔵には大転輪経蔵が収められているとここと。非公開であるため傍で見ることはできないが、扉の脇の間から姿はわかる。
案内によると、大転輪経蔵(県定文化財) この転輪経蔵は、将軍足利義満が山名氏の冥福を祈るために作り、京都の北野天満宮に奉納されていたが、明治四年神仏分離の際に、瑞応寺二十世黙仙方丈が、住友家はじめ多くの人々の喜捨を得て天満宮より譲り受けたもので、転輪蔵の中央には土台から屋根裏に届く太い中心柱があり、その柱を軸として周縁に取りつけた棚に、黄檗版二千余冊の一切経が納められ、転輪蔵をぐるぐる廻して礼拝すれば、一切経読誦の功徳があるとされており、昭和四十五年三月二十七日文化財として愛媛県の指定を受けている。
昭和五十三年三月三日 新居浜市教育委員会」とあった。

開基墓
石段左、少しおくまたったところが開基墓。いくつかの石碑とともに縦に長い3基の石柱が並ぶ。 左は「智勝院殿朝散太夫聖山本領大居士」とある。大通山智勝寺を建てた初代資俊の碑。右は「佛国院殿越*太守柏翁天真大禅定門」とある。佛国山瑞応寺を建てた六代景村公の碑。ここまではわかるのだが、中央の石碑には「瑞応寺殿本嶽自性大居士」とある。天正の陣において野々市ケ原の戦いで戦死した最後の城主安村公の法名である。開基墓と言うからてっきり元禄10年(1697)、曹洞宗佛国山瑞応寺開山の白翁禅師の名でもあるのかと思ったのだが、生子山城最後の城主松木安村公の碑となっていた。その理由はわからない。
遠藤石山碑
また開基墓の北端に石碑がある。遠藤石山という儒家の顕彰碑とのこと。 『愛媛県史 人物』には「天保3年~明治40年(1832~1907)天保3年7月13日小松藩士の家に生まれる。通称徳蔵。瑛玉とも号した。近藤篤山に学び19歳のとき江戸に出て昌平黌に入り、帰郷後は藩校養生館の教授となる。幕末、勤王の士として京阪を奔走。維新後、風早、竹原、尾道、泉川、宇和島に私塾を開いた。書画にも堪能。明治40年11月18日75歳で死去。」とある。泉川に開いた私塾は稽崇館。星原町の個人宅にあった「遠藤石山垂教之地記念碑」は現在泉川小学校に移されている。泉川小学校の校歌にも「石山」先生が唄われているようだ。
瑞応寺のこの地に顕彰碑が建てられたのは大正2年(1913)。第二十六世高田道見大和尚の時と言う。 初代の師家(禅宗で修行僧を指導する力量を具えた者をさす尊称)とも書の指導者として交流があったというが、開基墓の一画に建つ理由は不詳。

西国33所観音霊場の舟形石佛
1番:青岸渡寺の如意珍観音
2番:紀三井寺の十一面観音
金比羅社に続く石段の両側に舟形後背の形をした石仏が並ぶ。西国33所観音霊場それぞれの寺の本尊が彫られるいるようだ。第一番の和歌山の青岸渡寺の本尊は如意珍観音。これは摩耗もあり少しわかりにくい。その後2番紀三井寺の十一面観音、3番粉河寺の千手観音、その後千手観音、如意輪観音、十一面観音が続き、9番興福寺は不空羂索観音。
3番:粉河寺の千手観音
9番:興福寺の不空羂索観音

観音は文字通り「音」を聞く菩薩。33の姿にその身を変化し苦しむ衆生の「声」を聞き、慈悲の心で済度する。千手、十一面は文字通り。不空羂索観音は「心念不空の羂索(狩猟用の投げ縄)をもってあらゆる衆生をもれなく救済する観音菩薩である。
ところでなにゆえ瑞応寺に西国写し霊場があるのだろう。あれこれチェックすると上述26世方丈の高田道見老が明治42年(1909)に観音講を組織して檀信徒の信仰を鼓吹したという。そのことと関係あるのだろうか。社務所の修行僧にお訪ねしたがわからない、とのことであった。

男坂・女坂
11番:醍醐寺の准胝観音
女坂
石段を少し上ると参道はふたつに分かれる。直進は緩やかな坂。女坂と呼ばれる。西国33所は女坂の左右に続いていく。分岐点までは10番まで、分岐点から先11番は醍醐寺の准胝観音。菩薩とも仏母ともされる、慈悲深い清浄をもたらす神。

21番:穴穂寺の聖観音
29番:松尾寺の馬頭観音
その跡も千手観音、如意輪観音、十一面観音などが続き、21番は穴穂寺の聖観音。もともとは「正法明如来(しょうほうみょうにょらい)」という仏であったが、衆生の救済のため人間界に近い菩薩の身となった、とのこと。更に千手観音、十一面観音、聖観音、如意輪観音が続き、29番松尾寺の馬頭観音。十一面観音のような姿となっていた。
分岐wp左に折れると急な石段が続く男坂。どちらも坂を上り切ると金毘羅宮の社前に出る。

金比羅大権現の社
男坂
金毘羅大権現の社
仏法寺守護・伽藍鎮守の社。神仏混交の名残が色濃く残る。大銀杏の案内にもあったように少なくとも300年以上前に建立されたようだ。『新居浜のむかしばなし:新居浜市教育委員会』には、萩尾山金毘羅宮由来記として以下の記事がある:ある年のある日のこと、空がにわかに暗くなったかと思うと、南の山の方がぼおおっと明るくなりました。お百姓さんたちは大雨でも来るのかと、畑から帰りじたくをしたり、庭にいた人は家の中へ入ろうとしていた時だそうです。
南方の一部の空が明るくなったので、みんながその方へ目を向けたとき、空からひらひらと金色の御幣が降って来て、瑞応寺の東側の山の中へ落ちるのを見たそうです。今まで暗くなっていた空がもとのとおりとなり、天から降って来た御幣を見た人たちは大騒ぎとなり、つぎからつぎへとそのことが伝えられました。
瑞応寺さんでも、それを見ておられ、時の和尚さんが御幣の落ちたところへ行ってみると書かれた大きな御幣が土に刺さっていたということです。
和尚さんはこの頃各地に「金毘羅講」がつくられ、その講連中の中から代表者が、讃岐の金刀比羅宮へ参拝にいく、「金毘羅参り」が盛んになっていた時なので、讃岐の金毘羅様が、わざわざ百姓がひまをつぶして讃岐路を訪れると丸二日はかかる。その二日間働けば仕事もはかどるし、藩からもいろいろいわれないだろうから金毘羅様をここにお祀りしろということだとお考えになり、うわさを聞いたり、現実に見たりした者が瑞応寺境内へ集まって来た時、そのわけをみなに話し、庄屋らにも頼み、御幣の立っていた場所に建立したのが、萩(まま:「花」が正しいかも)尾山金毘羅宮だといわれています。
今でこそ参拝者も少なくなりましたが、戦前までは正月、三月、十月の十日を「お十日さん」といい、一日中雑沓の中でお参りせねばならぬほどの参拝者があり、当日は拝殿下の土俵では奉納相撲も行われていました。
ここの常夜灯などの一番古い年代は天明八年(一七八八) 春三月吉日で、天保八年(一八三七)のものもあり、鳥居は天保三年(一八三二)九月、狛犬は天保九年(一八三八)八月献納と彫られています。また各地区にも寛政六年(一七九四)頃より常夜灯をつくり、奉献したらしく、現存のものでもJR線路より南に三六基、北に五基、この外に萩生南の坊萩生金毘羅宮のものと思われる常夜灯が三基あるようです。」とあった。
そういえば女坂の広場に相撲の土俵があり、子供の頃、祖父母に連れられ相撲を見に行った記憶が残る。娯楽もすくない当時のイベントではあったのだろう。
金毘羅大権現の勧請時期
上記は境内大銀杏のところでメモしたように毘羅大権現の勧請時期は月庭和尚の、元禄10年(1697)の頃となるが、異説もある。
「瑞応寺の今昔」には「『東予古鑑』によると、長寛二年十月十日、河野 伊予守通清は崇徳院の霊夢を感じ国中に十四の金毘羅神を祀る。花尾山はその一つなり。 (伊予漫遊記)とある。信憑性に於いてはいまひとつというところですが河野通清公は、崇徳上皇様にご同情申し上げ、陰に陽にお力添えされるほど入魂であられた為か、ご崩御の後四十九日にあたる十月十日、通清公の夢枕に立たれたというわけです。通清公は、崇徳上皇様がご生前金毘羅大権現に祈願参籠されたとゆうことで、国中に十四の金毘羅神を祀り追悼された。その一つが花尾山金毘羅大権現であります。従って、佛國山瑞應寺の前身である大通山智勝寺の、さらなる前身が花尾山であったというわけです。 黙して語らぬ大銀杏ですが、昭和三十一年十一月、県の天然記念物に指定された際、植物の権威者である八木繁一先生が、この大銀杏の樹齢は八百年より若くはない、県下でも一、二の古木である、と言われました。 大銀杏の樹齢が八百年)とすれば花尾山金毘羅大権現の創祀の年代と符号するので、昭和三十九年に八百年のお祭りをした次第であります。」とある。長寛二年は西暦1164年であり800年後は昭和39年(1964)であり、辻褄は合う。
梵鐘
金比羅宮の東に昭和二十三年秋万国英霊平和記念として三〇〇貫の大梵鐘を鋳造して吊されて いる。戦前にあった梵鐘は昭和20年、第二次世界大戦に際し金属回収令に協力し拠出し四阪島で溶かされたという。
なお、この戦前の梵鐘の発願は上述高田道見老師によるもの。当山鎮守金比羅様は日清・日露戦争中、戦勝・安全祈願する参詣者で広く信仰を集めていたという。で、戦争終結を期して平和の梵鐘を発願され、三百貫の大梵鐘奉納を高田住職最初の事業としたようだ。殿前の境内を拡張し、鐘楼を建て、各家よりお布施を集めるなどして檀信徒総掛かりで、しかも寺内の潜竜池の下で鋳造され明治41年11月12日に最初の鐘音が響いたとのことである。
なんだか瑞応寺で時間が取られた。近くにあるためその歴史などあまりしらなかったためあれこれチェックし少しだけわかってきた。
ここからが本日のメーンエベント。瑞応寺を離れ山入りする。

瑞応から石鎚蔵王権現・六地蔵へ:往路

梵鐘脇から山道に入る:午前9時
ここから山に入る
梵鐘の立つ広場の北東端、コンクリート砂防壁が切れるところから山道に入る。下からも作業道が続いている。踏み跡がジグザクに南に上る。最初はシダに囲まれた踏み跡だが直ぐ開けた踏み跡に出る。
道は尾根筋をどんどん上る。金比羅宮の標高は150mほど。80mほど高度を上げると道はシダに覆われる。ついに藪、と思ったのだがシダの下にはしっかりと踏み跡が残っており案ずることはなかった。

住友共電力物部線183号送電線鉄塔への分岐点は?:午前9時25分
過日出合った住友共電力物部線183号送電線鉄塔手前の瑞応寺からの分岐点への道筋を意識しながら尾根筋を上るが一向にしれらしき分岐は現れない。
尾根筋を進み標高280mあたり、少し道が開けたところで左の筋に向かう踏み跡があった。少し谷筋に下ったのだけど踏み跡はぼやける。瑞応寺からの合流点の標高は220mほどであるのでどうしたところでこの辺りではあろうと思うのだが、はっきししないため元に戻る。

鉄塔巡視路標識:9時40分
その先標高290mあたりに住友共電鉄塔巡視路標識があり、「左 物部線184 右 物部線185号」と記される。案内に従い左への踏み跡を進むが、これもすぐ道がぼやける。結局標識まで戻り、左というより標識の左の尾根筋をのぼることにした。結果的にこの尾根筋を上るのがオンコースではあったのだが、標識の指示がいまひとつはっきりしなかった。

鉄塔巡視路標識:午前9時54分
標高320m辺りで道は東に折れる。等高線を見ると、ほぼ一筋東の尾根を隔てていた谷筋も源頭部をこえており、谷に下りなくてもいいところまで来ている。
道を東に振るとすぐ住友共同電力鉄塔巡視路標識。進行方向に物部線184号。逆方向に物部線185号鉄塔とのマークがある。先に鉄塔も見えてくる。

住友共同電力物部線184鉄塔:午前10時3分
184号送電線鉄塔に党略。184号鉄塔から里を見る。右手に183号鉄塔。一筋東の稜線先端部にエントツ山のエントツも見える。
物部線
物部線って何処から何処に?送電線をトレースすると高知県香美市物部町押谷の住友共同電力仙頭発電所(最大7,100kW・常時出力:1100kW:昭和32年(1957)7月運用開始)、仙頭発電所より物部川を上流に進んだところに川口発電所(最大7,100kW・1400kW:昭和32年(1957)11月運用開始)、さらに笹川を上流に上った高知県香美市物部中上に住友共同電力五王堂発電所(最大12,200kW・常時出力:2300kW;昭和35(1960)7月運用開始)と繫がった。
あれこれチェックすると物部線の要は仙頭発電所のよう。3発電所で作り出された電気は仙頭発電所に集められ、11万ボルトに電圧を上げた後、全長70kmの送電線を使い、四国山脈を縦断して新居浜まで送られる。
住友共同電力の物部線の送電線ははるか高知の物部川に造られた発電所から四国山地を超えて瀬戸内に面した新居浜まで送られてきている。どうして物部川と言った100キロほども離れた遠くに発電所を作ったのだろう。ちょっと気になりその経緯をチェック。
住友共同電力 物部川発電所 建設の経緯
住友共同電力が物部川に発電所を建設したのは、大正8年(1919)のこと。当時、住友合資会社(現・住友グループ)は、愛媛県新居浜市に銅製錬所を運営していた。製錬所には膨大な電力がが必要であったが、当時は火力発電が主流であり、燃料費が高く安定供給も困難であった。
そこで、住友合資会社は水力発電に着目し、物部川に発電所を建設することを決意しました。物部川は四国山脈の中央部に位置し、豊富な水量と急峻な落差を有しており、水力発電に適していたのがその主因のようだ。
が、物部川は新居浜から約100km離れており、送電線の建設には莫大な費用と技術が必要であった。当時としては画期的な長距離送電技術を駆使し、大正14年(1925)に送電線を完成させ、物部川からの電力を新居浜製錬所に送電することに成功した。
物部川発電所の建設は、日本の電力史において大きな転換点となったと言われる。このプロジェクトは、長距離送電技術の発展に大きく貢献し、その後全国各地に水力発電所が建設されるきっかけとなった。
〇物部川発電所を選んだ理由
物部川発電所が建設されたのには、以下のような理由がある。 豊富な水量: 物部川は四国山脈の中央部に位置し、豊富な水量を誇っていた。これは、安定した発電量を確保するために重要。
急峻な落差: 物部川は急峻な落差を有しており、水力発電に適していた。落差が大きいほど、発電効率が高くなる。
送電線のルート: 物部川から新居浜製錬所までの送電線のルートは、山間部を避けて比較的平坦な地帯を通っていた。これは、送電線の建設コストを抑えるために重要であった。
当時の技術と課題
物部川発電所の建設には、当時としては画期的な技術が必要であった。特に、以下の技術が重要だたと言う。
長距離送電技術: 大正14年(1925)当時、100kmを超える長距離送電は技術的に非常に困難であった。住友合資会社は、独自の送電技術を開発し、この課題を克服した。
高圧送電技術: 送電損失を抑えるために、高圧送電技術が必要であった。住友合資会社は、日本初の66kV送電線を建設し、この課題を克服した。
物部川発電所の建設には、多くの困難が伴った。しかし、住友合資会社の技術力と努力によって、これらの課題を克服し、日本初の長距離送電を実現することができた。
物部川発電所のその後
物部川発電所は、1925年以来、100年以上にわたって稼働を続けている。現在は四国電力が運営しており、出力は約7万kW。
物部川発電所は、日本の電力史において重要な役割を果たしただけでなく、現在も地域に電力を供給し続ける重要なインフラ施設となっている。

184号鉄塔からシダの藪漕ぎで尾根筋に入る:午前10時10分
ここから先、石鎚大権現と六地蔵までは先回と同じルート。記事も先回の記事をベースに作成する。184号鉄塔から尾根筋に入るのだが、鉄塔と尾根筋の樹林帯の間にはシダが茂る。どこから入っても同じようなのだが、鉄塔の南傍にある巡視路標識(「183下り」の指示)辺りから入り込む。入り口の立木は伐採されているのだが、これが行く手を遮りちょっと厄介。その先、顔まで埋まりそうなシダを藪漕ぎ。20mほどではあるが結構キツイ。藪を抜けると木立に覆われた踏まれた道筋に出る。

三等三角点「大永山」(495.8m):午後11時5分
尾根筋を外さないように尾根筋を進む。道はよく踏まれており快適。木々の間の道を抜けると樹林帯に出る。この辺りは等高線の間隔も広く踏み跡もなく少々わかりづらい。基本尾根筋に沿って前方に見える標高290mあたりの平坦地へと進むしか術はない。
290mあたりの平坦地に乗る。これと言って明確な踏み跡はないが、大永山の三角点に向かって成り行きで進むと木に巻かれたテープもある(午前10時38分)。
等高線300mを越えた先にもテープ(午前10時42分)。




三等三角点「大永山」(495.8m):午後11時5分
そこから尾根筋をはずさず緩やかな坂を上ると木に括られた小さな赤いリボン(午前11時2分)。その直ぐ先に木に書かれた大永山の標識と三角点があった。三等三角点「大永山」495.8m。樹林に囲まれ見晴らしはよくない。

住友共同電力西条連絡東線送電線鉄塔19号:午後11時11分
大永山三角点から先、明瞭な踏み跡はない。三角点の直ぐ南にある送電線鉄塔を目安に進む。途中木に巻かれたテープなどを頼りに送電線鉄塔に着く。鉄塔手前は少し藪っぽくなっているが、天を仰ぎ送電線を追っかけ鉄塔を確認し、藪から鉄塔に向かって進む。
鉄塔の標識は見当たらず、後でわかったのだがこの鉄塔19号鉄塔とのこと。地図に記される送電線のルートとしては物部線路とは異なる。チェックすると住友共同電力西条連絡東線の送電線鉄塔のようであった。
東にはエントツ山から稜線を進んだ犬返しのある尾根の先に西赤石の稜線が連なる。
住友共同電力西条連絡東線
送電線をトレースすると東は西条市飯岡の電源開発送変電ネットワーク(株)内の伊予開閉所につながっている。そこから東に進み当地を経て国領川に渡り、松山道新居浜IC南で方角を北に向け、国領川右岸に沿って下り海岸近くの新高橋の海側で国領川左岸そばにある住友共同電力新須賀変電所と繋がっていた。
開閉所
送電系統の接続・開放のみを行っているのが開閉所。遮断機、断路器、計器用変成器の接尾を備える。そのためだろうか、この開閉所には六系統の送電線網が接続している。
遮断機は送電の停止や電気の切り替えを行う。落雷による事故が発生した場合、遮断器で送電を停止させ、当該区間の送電線を電気系統から切り離す。断路器は、電路の開閉を行う装置。送電線や遮断器などの保守点検を実施する際は、断路器で電路の切り離しを行い点検作業を行う。計器用変成器は計器(計測・測定する機器類)で電気系統の電圧・電流を測定するため、低電圧・小電流を小電圧・低電流に変換する。尚、各変電所にもこれらの設備は備わっている。

立川分岐点に鉄塔標識;午後11時17分
ここから下る
19号鉄塔の南西側には踏まれた道が下る。国土地理院地図に記されるルートの少し手前に鉄塔巡視路標識があり、左方向への矢印と共に「西連東線路NO.19」、右方向への矢印と共に「西連東線NO.20」と記される。西連東線とは西条連絡東線のこと。左19とあるので、先ほどの送電線鉄塔が19号だとわかったわけだ。
巡視路の少し右に「立川町」と記された標識と踏まれた道が先に続く。ここは立川への分岐点。この辺りの道はよく踏まれているが、途中で道が切れ、結構険しい下りとなっているようだ。

辻ヶ峰・大永部落分岐点:午後11時20分
その直ぐ先、国土地理院地図に記されたルートに出る。心持ち鞍部となっているよう。そこは辻ヶ峰への尾根筋と大永集落への分岐点なっており「辻ヶ峰 大久保」、「大永部落」の標識がある。 また巡視路標識も立ち、北を指す矢印と共に「西連東線NO.19」、南を指す矢印とともに「高藪西線NO.60」と記される。
また、標識はないのだが、ここから西に下りる踏み跡がある。これが国土地理院に記された今回復路としている深谷川の谷筋方向へと下りる道だろう。石鎚蔵王権現と六地蔵にお参りした後はこのルートを辿ることになる。
高藪西線
送電線図をチェックすると高藪西線は土佐郡大川村の住友共同電力高藪発電所(最大出量14300kW・常時出力3200kW:昭和5(1930)年10月)と新居浜市磯浦の西の谷変電所を繋いでいる。 高藪西線は磯浦変電所から高藪西線の送電線網に合わさり「みちの駅マイントピア」にある端出場開閉所まで続く端出場線、端出場開閉所から高藪発電所まで続く高藪東線と端出場開閉所への分岐以外は同じ送電線網で伸びているようだ。

分岐点を辻ヶ峰へのルートに入ると直ぐ石仏:午後11時27分
分岐点を国土地理院地図に記された辻ヶ峰方面へのルートを進むと直ぐ、道の右手に石仏が佇む。
●辻ヶ峰ルート
国土地理院地図に記されたルートは北に進むと辻ヶ峰(958m)に続く。

六地蔵の祠:午後11時27分
石仏手前を右に、ルートを逸れ少しはいったところに六地蔵の祠が建つ。本日の目標地に到着。上りはじめて2時間30分ほどたっていた。内宮神社からのルートよりは20分ほど早く着いた。痛めた膝を庇いつつとは言い乍ら、時間が掛かりすぎであることは前回と同じ。想定の倍以上時間が過ぎていた。
六地蔵の祠は両側に常夜燈、三方はしっかりとした石組で囲まれており、中には6体の地蔵尊が佇んでいた。『角野の地名といわれ:角野の民話と伝説掘り起こし実行委員会』には、この六地蔵は瑞応寺5代住職月庭和尚が建立したとする。瑞応寺中興の祖月庭和尚の入寂は1729年と言うから、元禄か享保の時代に建立されたのかも知れない。
月庭和尚に関しては「月庭和尚の法力」という話が残る(『新居浜のむかしばなし:新居浜市教育御委員会』)。ある日の夜中、瀬戸内を隔てた尾道のお寺が燃えていると和尚。修行僧とともに瑞応寺の池の水を尾道に向けて懸命に投げかけた。
数日後尾道の天寧寺より使者がお礼に訪れる。訝った修行僧が子細を尋ねると、「伊予東角野村瑞応寺の大幟とともに、滝のような水が降り注ぎ寺は全焼を免れた」と。いつもながら昔の人の想像力ってスゴイ。
またもうひとつこの六地蔵にまつわる伝説が同書に記される。昔この地にはお堂があり庵主さんが住んでいた。ある晩読経をしていると物の怪の気配を感じ振り向くと美しい娘がいた。その娘はゲラゲラ笑い読経の邪魔をする。この娘は人をたぶらかす山女郎と思い、庵主さんは立ち去るように促すが一向に言うことを聞くことなく相変わらず供養の邪魔をする。 我慢できなくなった庵主さんはお教で山女郎を打ちすえようとするがうまくかわされ大怪我をおって亡くなったしまった。そんなこともあってお堂は竹屋敷へと移した(注;竹屋敷は後述)。これも伝説によくある、何をいわんとするのかよくわからない話のひとつではある。

石鎚蔵王大権現:午後11時28分
六地蔵を少し奥に入ったところに石鎚蔵王大権像が建つ(表記が「石鎚」でいいのかどうかわからないが一)。印象的な姿に特段の信仰心もないのだが、手を合せ、あまつさえ般若心経と観音教を唱えてしまった(修験道にこのお教がふさわしいとはとてもおもえないのだが)。 像の台座をチェックする。正面台座には「笹峰石鎚神社」「日乃下教奥ノ院」「大永六地蔵山」「清身権現」。台座左側には「ニイハマ 石工 竹原」、裏側には「昭和八年六月建立」「新居郡中萩村大字大永山」「施主瀧本今太郎」、水鉢には石鎚神社の「石」の印。そして台座正面には誠に小さな 石鎚蔵王大権現の焼き物が置かれていた。裏面には 「伊予國」「前神寺」と刻まれる。前神寺は石鎚山の石鎚蔵王大権現信仰の中心。それが笹ヶ峰神社の蔵王台権現に置かれる?どなたか信者が置いていったものだろうか。

この石鎚蔵王権現像は昭和になって建立されたもの。結構新しい。それとともに、昭和8年頃まではこのルートを歩く石鎚信仰の人がいたということがわかる。
更に、気になったのは「笹峰石鎚神社」の文字。石鎚神の初出は平安初期の『日本霊異記』。現在では石鎚信仰と言えば四国最高峰の石鎚山を指すが、古来石土信仰は笹ヶ峯、瓶ヶ森、そして石鎚山の三山を山岳信仰の霊地として修験の行が行われていた。空海も瓶ヶ森の天河寺を根本道場として石鎚山を遥拝していたとも言う。
その後笹ヶ峰の信仰が衰退、そして室町期には兵火で天河寺が焼失するにおよび、石鎚山の前神寺が勢いを得て、鎌倉期以降は現在の石鎚山(標高1982m)を中心とした地が石鎚信仰の中心地となったとのこと。実際「石土」という地名も笹ヶ峰や瓶ヶ森を指す名であったようだが、その名を授かり、岩場の多い山容故に「石鎚」としたと「えひめの記憶」にあった。また伝説によれば石鎚権現は元は瓶ヶ森(または笹ヶ峰)に祀られいたのを、西条の西ノ川の庄屋が、背負って今の石鎚山に移したともいう。
現在でも、瓶ヶ森には石土蔵王大権現、笹ヶ峰には石鉄蔵王大権現が祀られている。なお新居浜市と西条市の境の大生院の正法寺は笹ヶ峰を石鉄山と称し石鉄蔵王大権現を祀り、お山開きの神事をおこなっていると聞く。
前々から石鎚、石土、石鉄など表記がいくつもあるのがなんでなんだろうなどと思っていたのだが、歴史的経緯を踏まえてのことのようだ。
笹ヶ峰・瓶ヶ森へのルート
国土地理院地図に記されるルートを辿り辻ヶ峰に。そこから先地図にルートは記載されていないが稜線を北に進み黒森山(標高1678.5m).。そこから再び国土地理院地図上にルートが記され、南に進み沓掛山(標高1691m)を経て笹ヶ峰(標高1859.6m)に。 そこから先は寒風山、伊予富士、東黒森、西黒森と稜線を辿ると瓶ヶ森。更にはその先石鎚山まで稜線が連なる。
+

石鎚蔵王権現・六地蔵から深谷川の支沢谷筋を里に下る:復路

分岐点に戻り下山開始:午前11時39分
ここから下り道に入る
石鎚大権現・六地蔵から分岐点に戻り、先ほど確認した西に下りる道に入る。アプローチ部は道の両側に草が茂り、藪はかなわんなあ、などと思っていたのだが、直ぐ植林地帯に入る。作業のためでもあるのだろうが道はしっかり踏まれている。

送電線鉄塔巡視路標識:午前11時45分
テープの巻かれた木の先で道は北へと向きを変える。その曲がり角に送電線鉄塔巡視路標識・「物部線185,186」への方向が示される。




送電線鉄塔巡視路標識:午後12時9分

その先山腹をトラバース気味に北に下る。緩やかな傾斜となり、植林地帯から自生の樹木林の中、快適に道を進む。時に岩肌が道に露出する。スリップに気を付けて道を下る。 20分ほど下り、標高を100mほど下げると送電線鉄塔巡視路標識。「物部線185,186」への巡視路が示される。
快適な山腹トラバース気味の道もここまで。ここから先は尾根筋を下ることになり、少し勾配がきつくなる。

深谷川の沢筋に下りる:午後12時35分
沢筋に
手等巡視路の直ぐ先は植林伐採地。そこを越えると再び自生林地帯に入る。尾根筋を下る道は結構な勾配。処々に岩が道に露出し三点確保でゆっくりと下るところも多くなる。 道なりに進むと標高250m付近で尾根筋に描かれた国土地理院の破線ルートから逸れ、谷筋へと下り始める。尾根筋には明瞭な踏み跡がなかったため、しっかりとした踏み跡のある深谷川の支沢筋へと下る。

沢筋に沿った細路を北に下ると砂防堰堤:午後12時44分
沢筋に沿って細いけれども、しっかりとした踏み跡のある道が続く。ここでちょっとしたトラブル。浮石を踏みスリップし左膝を思いっきり「くの字」に曲げる。普段正座も出来ない左膝が強制的正座状態。痛みより筋が切れていないか心配したが大丈夫だった。
痛みが少し落ち着いた後、足を引きずり歩くことになる。少し進むと沢に砂防堰堤が見える。国土地理院地図では破線は堰堤辺りで右岸に移っているが、踏まれた道は左岸を進むため、まま道なりに進む。

砂防堰堤の先の舗装道に出る:午後12時50分
松山自動車道のトンネルが下に抜ける辺りを進むと再び砂防堰堤があり、その先に舗装された道が見える。
堰堤を越えると直ぐ右に下る道がある。

少しわかりにくく実際はそもまま直進し舗装道に出たのだが、舗装道にでたところに「大永 辻が峯」の標識があり、その示す方向はどう見ても左。舗装道から左、というか深谷川の左岸に沿って進むと右に上る道があり、復路道と繫がった。 国土地理院の破線とは異なり、途中で尾根を下り、右岸に移ることなくそのまま左岸を下り舗装道に出ることになった。
舗装道の脇にある「大永辻が峰」の標識はいつだったか散歩の折みかけたことがあり、それが復路をこのルートとした理由でもある。

深谷神社:午後13時14分
舗装道を下り里に下りた深谷神社がある。到着時間が午後13時14分と結構時間がかかっているのは膝痛の左膝を引き釣りながらの歩きゆえ。 この深谷神社、常の散歩の折、結構北の生活道路と深谷川が交差するところに深谷神社の鳥居があるのが気になり訪れたことがあるのだが、由緒などは何もわからない。 只、この辺りは深い谷でもないのに深谷という名が残るのは歴史があるようだ。 深谷神社の参道鳥居から少し西に行ったところに深谷寺がある。この寺は嵯峨天皇の皇后、檀林皇后の菩提を弔うため嘉祥3年(850)建立された。檀林皇后は伊予の国司である橘清友の女であり、山城国深谷山に葬られた。大化の改新による薄葬令を遵守し、つつましやかな墓陵ゆえ、その冥福を念じゆかりの伊予の地に深谷山の名をとった深谷寺を建立したとのことである(「「角野のあゆみ:角野公民館」)。
はっきりした資料はないのだが、深谷寺は元はこの深谷神社の辺りにあったようだ。また、明治の神仏分離令の折に「独立して神社(村社)としてお祀りした」と深谷寺の縁起に記されている。深谷神社はこの社ではないかと推測する。
大藏院深谷寺縁起
本寺は嘉祥三年(一一三七年前)開祖は上仙聖人、伊予介從五位下橘朝臣安喜雄が五十五代文徳天皇の勅命を奉じ伊予国司橋清友の女嘉智子(五十二代嵯峨天皇の皇后)の御菩提のために建立された古刹であります。
橘皇后嘉智子(檀林皇后とも申し奉る)は深く佛法を御信心し拾い御尊骸は山城国深谷山(現京都市右京区)に御遺命により大化改新の薄葬令にしたがって密葬され、山陵を営まなかったといわれています。 皇后の前身は伊予国であったのでその追福のために石鉄山麓の山紫水明の当地に一宇霊堂舎を草創し是を深谷寺と号し境内の清流を深谷川と名づけました。境内約六十四町歩の御免地に本尊不動明王(行基作)他多数の佛像、七堂伽藍等悉く備り佛法興隆の道場となり「師の道場」略して「師の場」と呼んでいましたが後に兵火に罹り附近一帯焼野が原となり篠の原と荒れ果てたので現在の「篠場」となりました。
石鉄山修行は開祖より伝来の故に石鉄山大導者先達床頭をつとめ代々妻帯血脈伝来の神佛習合、本山派修験寺であります。正長元年(五五九年前)新居郡東城之荘(西は萩生村東は宇摩郡関ノ峠堀切まで)の祈祷所。弘治元年(四三二年前)金子城主の祈願所また寛永十三年(三五一年前には国家祈祷所となり信徒として帰依するものは阿波・土佐国にもわたり門前市をなし盛を極めました。
明治元年の神佛分離令同五年の修験道廃止令により神の一部は当地で独立して神社(村社)としてお祀りしていましたが事情があって明治四十二年内宮神社(村社)に御社鳥居、石燈、籠狛犬(何れも寛政十一年作で現在参道にあります)と共に合祀いただき御神像(伊弉命)は現在、内宮神社本殿にお祀りされています。
昭和六十二 年一月 本山修験 石鉄山大藏院深谷寺 現住河野栄覚(守孝)謹書」

宝篋印塔:午後13時33分
深谷神社から瑞応寺へと東進する道はない。しかたなく、その先痛い足を引きずりながら深谷神社参道に沿って北に下り深谷神社の鳥居の建つところで車道にでる。そこから直ぐ先、南へと瑞応寺西墓地の中を抜ける舗装道を進む。地図に宝篋印塔のマークがあったため確認にむかったのだが、予想に反して結構新しい造り。案内もないため、造られた目的は不明。

蘭塔場の墓碑:午後13時40分
と、既にメモした「旧別子にある蘭塔場は、元禄7年(1694)4月25日に発生した大火災の犠牲者132名を祀るためにつくられたものであるが、大正5年(1916)の旧別子撤退に伴い、蘭塔場の墓碑はここ瑞應寺に移され、西墓地に祀られている」というくだりを思い出した。今西の墓地にたっているのだが、どこだろう?辺りを見回すがそれらしき石碑は見当たらない。と、宝篋印塔の建つ塚の西端を南に上る道があり、森へと続いている。なんら根拠はないのだが、道を辿ると「住友金属鉱山」の案内があり、銅山で亡くなった方のお墓である旨が記される。そこから森に入り込むと右手に大きな石碑があった。これが蘭塔場の墓碑であろう。

車デポ地に
宝篋印塔まで戻りその前道を進むと前面に森。行き止まりかと思ったのだが土径が続き、その道は「ひかり幼稚園」したの駐車場に続いていた。駐車場を抜け、車デポ地に戻り、本日の散歩を終える。