過日、大永山の少し南、辻が峰へと向かう尾根道に有ると言う六地蔵と蔵王大権現を訪ねて内宮神社から山に入った。その途次50分ほど山道を進んだところに送電線巡視路標識があり、「左 物部線184号」と示す方向に踏まれた道が西に続いていた。山好きな弟などの話によると、そのルートは瑞応寺から上ってきた巡視路と言う。その時は六地蔵や石鎚蔵王大権現が目的でもあったためsのまま先にすすんだのだが何となくこのルートが気になり、日をおかず瑞応寺よりこの分岐点をつないでみようと道を辿った。
しかし、結構注意しながら尾根筋を上ったのだがこの分岐点に繋がることはなく、結局送電線鉄塔184号まで引っ張られることになった。
で、今回。最初の山入りで出合った瑞応寺に繋がるという巡視路標識分岐点から瑞応寺を繋いでみようと山に入った。分岐点からしばらくは谷筋のトラバース道は踏まれていたのだが、ほどなく道も消え、後は成り行きで瑞応寺から尾根道までトラバースするしかないかと先にすすんだのだが、瑞応寺から送電線鉄塔184号えへと上る尾根の一筋手前の尾根に踏まれた道があり、そこから一筋西尾根筋へとトラバースするルートはなく、結局この尾根筋を上り送電線鉄塔184号に引っ張られていった。
結局のところ、弟たちが言うような巡視路標識から瑞応寺へと直接下る踏まれたルートはなく、巡視路分岐点にあった「物部線184号」鉄塔に繋がり、そこから瑞応寺へと下りることになった。行程は4キロ弱、4時間弱であった。
これで田舎の家の直ぐ裏の山道を3回に分けて歩き終えた。送電線鉄塔を目安に歩いたこともあり、里から送電線鉄塔を見上げながら歩いたルートを想像する。見慣れた山も少し違って見える。
本日のルート:強足神の脇から送電線鉄塔巡視路に入る>鉄塔巡視路標識・物部線No.184>鉄塔巡視路標識・物部線NO.183,184を右に折れる>道が消え尾根筋に這い上がると踏まれた道>シダの藪が行く手を遮る>184号送電線鉄塔絵馬に強烈なシダの藪》住友共同電力物部線184鉄塔>鉄塔巡視路標識>鉄塔巡視路標識
■内宮神社から送電線巡視路184号分岐標識へ■
内宮神社と送電線鉄塔
内宮神社の大鳥居を潜り参道石段を上る:午前9時41分

それにしても、昔は石段舁き上げの宮入りなどなかった。いつ誰が「舁き上げよう」と発案したのだろう。
●内宮神社
Wikipediaには「天正年間、豊臣秀吉の四国攻めに巻き込まれて荒廃し、一時期は土佐に設けた仮殿に遷座した。1614年(慶長19年)、もとの社地に社殿を再興したが、周辺に人家が増加したことから、再び1698年(元禄11年)に遷座し、現在に至る」とあった。
参道は別子銅山下部鉄道線路跡をクロスし更に上に
参道石段とクロスする下部鉄道軌道跡 |
明治35年(1902)には銅山峰の南嶺と北嶺を穿つ第三通洞が完成。北嶺の東平(とおなる)へと鉱石が運び出せることが可能となった。これに合わせ、明治38年(1905)には東平から黒石に鉱石を索道で下した。これにより上部鉄道は明治44年(1911)その使命を終える。
大正4年(1915)第四通洞が完成。明治43年(1910)から開始された工事は並行して第三通洞と第四通洞を繋ぐ立坑の工事も開始しており、この第四通洞の完成により鉱石は端出場への搬出が可能となった。これにより鉱石は端出場から下部鉄道により惣開まで運ばれるようになる。
その後大正5年(1916)、採鉱本部を南嶺の東延から北嶺の東平に移し、さらには昭和5年(1930)採鉱本部を東平からここ端出場に移した。また、昭和10年(1935)には東平から端出場に索道を繋げた。
この下部鉄道は鉱石の運搬だけでなく市内にある社宅に住む鉱夫や職員の通勤、また昭和4年(1929)から昭和30年(1955)までは一般旅客営業も行っていた。一度運転席に乗せてもらった時の嬉しさは今でもよく覚えている。
このように鉱石だけでなく人の運搬の大動脈として働いた下部鉄道も、昭和48年(1975)の銅山閉山後も運行し、昭和50年(1977)廃止となった(昭和52年廃止の記述もある)。
山根収銅所
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坑水路(右)は参道を潜り収銅所へ |
山根収銅所 |
ジグザグの構造の水路は狭い範囲で長い距離を稼ぐ工夫。その水路に鉄のスクラップを入れ銅成分を付着させ銅の成分を取り除く。坑内排水は、ジグザク水路の上端から下端まで2~5時間程度かけて浄化するとのこと。
端出場に第四通洞が完成して以降、別子銅山内の坑内排水は、全て第四通洞に集約され端出場に集められた。別子銅山は昭和48年(1975)に閉山となったが、坑水路は、現在でも第四通洞から山根収銅所まで約3.4キロメートル、さらにこの山根収銅所で浄化された後再び暗渠の坑水路を磯浦まで約6.4キロメートル、総延長約10キロメートルほど流れている。
子供の頃は現在のように完全に暗渠となっていなかったため、坑内排水とは知らず坑水路に入り込み「ウォータースライダー」を楽しんでいた。坑内排水を結構飲んだことだろう。また施設は「沈殿所」と呼んでいた。
因みに、開坑当時の坑内排水の水素イオン濃度は、第四通洞口ではpH3.2~3.3とレモン汁の少し強いくらいの酸性であり石灰を入れて中和処理もしていたようだが、現在では、普通の水と同じくらいの値となっているとのこと(besshi.net参照)。
合祀社の小祠が並ぶ:午前9時5分
このステップを上ると |
一段高いところに合祀社が並ぶ |
強足神の脇から送電線鉄塔巡視路に入る:午前9時6分
右端の「強足神」小祠から山入り |
直ぐ先に鉄塔巡視路標識 |
鉄塔巡視路標識・物部線No.184:午前9時20分
しっかりした踏み跡を上ると |
鉄塔巡視路標識がある |
●住友共同電力 物部線
住友共同電力 物部線って何処から何処に?送電線をトレースすると高知県香美市物部町押谷の住友共同電力仙頭発電所(最大7,100kW・常時出力:1100kW:昭和32年(1957)7月運用開始)、仙頭発電所より物部川を上流に進んだところに川口発電所(最大7,100kW・1400kW:昭和32年(1957)11月運用開始)、さらに笹川を上流に上った高知県香美市物部中上に住友共同電力五王堂発電所(最大12,200kW・常時出力:2300kW;昭和35(1960)7月運用開始)と繫がった。
あれこれチェックすると物部線の要は仙頭発電所のよう。3発電所で作り出された電気は仙頭発電所に集められ、11万ボルトに電圧を上げた後、全長70kmの送電線を使い、四国山脈を縦断して新居浜市の海岸近く、住友に企業群が並ぶ西の谷変電所まで送られるようだ。
鉄塔巡視路標識・物部線NO.183,184を右に折れる:午前9時56分
よく踏まれた支尾根稜線を上ると |
再び鉄塔巡視路標識 |
踏まれた道も直ぐ消え |
尾根筋に這い上がると踏まれた道 |
尾根筋を下るが、道の消えたあたりに繋がり |
結局尾根筋に引き返す |
シダの藪が行く手を遮り |
藪漕ぎで疲れ果てる |
藪は一瞬切れるが |
送電線鉄塔前に強烈な藪が現れる |
送電線鉄塔前は伐採されている |
●物部線
物部線って何処から何処に?送電線をトレースすると高知県香美市物部町押谷の住友共同電力仙頭発電所(最大7,100kW・常時出力:1100kW:昭和32年(1957)7月運用開始)、仙頭発電所より物部川を上流に進んだところに川口発電所(最大7,100kW・1400kW:昭和32年(1957)11月運用開始)、さらに笹川を上流に上った高知県香美市物部中上に住友共同電力五王堂発電所(最大12,200kW・常時出力:2300kW;昭和35(1960)7月運用開始)と繫がった。
あれこれチェックすると物部線の要は仙頭発電所のよう。3発電所で作り出された電気は仙頭発電所に集められ、11万ボルトに電圧を上げた後、全長70kmの送電線を使い、四国山脈を縦断して新居浜まで送られる。
〇住友共同電力 物部川発電所 建設の経緯
住友共同電力が物部川に発電所を建設したのは、大正8年(1919)のこと。当時、住友合資会社(現・住友グループ)は、愛媛県新居浜市に銅製錬所を運営していた。製錬所には膨大な電力がが必要であったが、当時は火力発電が主流であり、燃料費が高く安定供給も困難であった。
そこで、住友合資会社は水力発電に着目し、物部川に発電所を建設することを決意しました。物部川は四国山脈の中央部に位置し、豊富な水量と急峻な落差を有しており、水力発電に適していたのがその主因のようだ。
が、物部川は新居浜から約100km離れており、送電線の建設には莫大な費用と技術が必要であった。当時としては画期的な長距離送電技術を駆使し、大正14年(1925)に送電線を完成させ、物部川からの電力を新居浜製錬所に送電することに成功した。
物部川発電所の建設は、日本の電力史において大きな転換点となったと言われる。このプロジェクトは、長距離送電技術の発展に大きく貢献し、その後全国各地に水力発電所が建設されるきっかけとなった。
〇物部川発電所を選んだ理由
物部川発電所が建設されたのには、以下のような理由がある。 豊富な水量: 物部川は四国山脈の中央部に位置し、豊富な水量を誇っていた。これは、安定した発電量を確保するために重要。
急峻な落差: 物部川は急峻な落差を有しており、水力発電に適していた。落差が大きいほど、発電効率が高くなる。
送電線のルート: 物部川から新居浜製錬所までの送電線のルートは、山間部を避けて比較的平坦な地帯を通っていた。これは、送電線の建設コストを抑えるために重要であった。
〇当時の技術と課題
物部川発電所の建設には、当時としては画期的な技術が必要であった。特に、以下の技術が重要だたと言う。
長距離送電技術: 大正14年(1925)当時、100kmを超える長距離送電は技術的に非常に困難であった。住友合資会社は、独自の送電技術を開発し、この課題を克服した。
高圧送電技術: 送電損失を抑えるために、高圧送電技術が必要であった。住友合資会社は、日本初の66kV送電線を建設し、この課題を克服した。
物部川発電所の建設には、多くの困難が伴った。しかし、住友合資会社の技術力と努力によって、これらの課題を克服し、日本初の長距離送電を実現することができた。
〇物部川発電所のその後
物部川発電所は、1925年以来、100年以上にわたって稼働を続けている。現在は四国電力が運営しており、出力は約7万kW。
物部川発電所は、日本の電力史において重要な役割を果たしただけでなく、現在も地域に電力を供給し続ける重要なインフラ施設となっている。