本日のルート:JR品川駅>高輪プリンス>高輪公園>東禅寺>桂坂>引き返し>高輪警察署前交差点>伊皿子交差点>伊皿子坂>泉岳寺>伊皿子交差点に引き返 し>魚藍坂>魚藍坂下>国道1号線・桜田通り>立行寺>白金商店街>四の橋>楽園坂>仙台坂上>仙台坂>善福寺>麻布十番>新一の橋>赤羽橋>芝公園>芝丸山古墳>東照宮>芝・増上寺>JR浜松町駅
R品川駅
東禅寺の最寄の駅JR品川駅に。品川駅は明治5年、横浜の桜木町駅とともに開場した日本最初の駅。品川区でメモしたように、この品川駅は港区にある。で、港区の名前の由来であるが、この地域が東京港を抱えているので、「東港区」という案があった。とはいうもの、「東京都東港区」では、早口言葉のトレーニング でもあるまいし、ということで「東」を除き、「港区」と。結構、いい加減。
高輪公園

「この公園の付近は、三方を丘で囲まれた静かな窪地で、江戸入口の(高輪)大木戸から南方に当たり、国道東側まで海があって、景色のよいところであった。今から約300年前の寛永13年(1636年)に近くにある東禅寺が赤坂から移った。この禅寺を中心に多くの寺が建ち、その周辺には井伊家、本多家などの下屋敷があった。幕末には東禅寺は最初の英国公使館となった。付近の一部は江戸時代を通じ、荏原郡高輪村、と呼ばれた。高輪の名は、「高いところにある真っ直ぐな道」という意味の「高縄手道」が略されたもと、とか、岬を意味する「高鼻」がなまったもの、とも言われる。この地は酒井家のものであった」と。こういった、思いがけない案内に当たるのが、散歩の楽しみである。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
東禅寺
桂坂
高輪台の戦い
昔、このあたり一帯で合戦があった。1524年、小田原・北条氏と江戸城を居城とする扇谷上杉が覇権を求めて争った「高輪台の戦い」である。上杉軍は初戦で敗戦。川越に落ちる。勝利を得た北条氏綱は江戸城を手中におさめ、そこに遠山氏を置いた。その末裔が名奉行・遠山左衛門尉景元。あの遠山の金さん、である。
二本榎通り ・承教寺
伊皿子交差点
二本榎通りを進み「伊皿子交差点」に。北西に下れば「魚藍坂」。南東に下れば「伊皿子坂」。目的地の泉岳寺は「伊皿子坂」下。坂の名の由来は、明国人「伊皿子 (いんべいす)」が住んでいたとか、大仏(おさらぎ)のなまりとも、更には、いいさらふ〔意味不明〕の変化とも、例によっていろいろ。
泉岳寺
討ち入り後、この泉岳寺までのルートをメモしておく。吉良邸を出たのが午前6時。泉岳寺に着いたのが午前10時頃、とされる。両国駅近くの吉良邸>回向院>万年橋>永代橋>霊岸島>稲荷橋>築地・鉄砲洲(浅野家上屋敷)>汐留橋>日比谷>金杉橋>将監橋>田町駅あたりの東海道(だろうか)道筋を泉岳寺へ。
回向院では入山を拒否された、とか。血まみれ、さんばら頭の姿をみて、坊さんは肝をつぶしたのだろうか。で、もともとは、両国橋東詰めで、追っ手を待って、切り合い、といった段取りではあったようだが、その気配もない。ということで、泉岳寺へと。それも、両国橋コースでは武家地が多く、なにが起きるかもわからない、ということで、町屋の多い永代橋コースを取った、と言われている。
魚藍坂
立行寺
重秀寺
すぐ裏手の台地上に重秀寺(ちょうしゅう)。坂道は結構きつい。開基は旗本・上田主水重秀(うえだもんどしげひで)。旗本のプライベート・MY菩提寺、ってほかにあるのだろうか。なんとなく惹かれる。
氷川神社
麻布善福寺
三光寺坂下からは、次の目的地・麻布善福寺に向かって一直線に北に進む。道筋は、先回歩いた白金商店街を進み「四の橋」に出る。四の橋からは薬園坂をのぼる。周りにはお寺が多い。のぼりきったところが仙台坂上。坂の南、現在韓国大使館のあるあたり一帯に、仙台藩・松平陸奥守の下屋敷があったから。
善福寺。開基は天長元年(824年)。弘法大師が真言宗を武蔵一円に広めるために建てた、という。その規模高野山にならい、新高野と呼ばれ、関東屈指の霊場であった。都内では浅草・浅草寺に次ぐ古い歴史をもつ。
鎌倉時代になると、越後での流罪を許されて京に帰る途中の親鸞聖人が、この寺を訪れる。その謦咳に接した善福寺の了介上人は、全山あげて浄土真宗に改宗。以来、浄土真宗の寺として歴史を刻む。一向一揆や、大阪・石山本願寺など、浄土真宗と織田信長との争いには、援軍を送ったりもしている。秀吉は関東平定に際しても、寺領保護を約している。江戸になっても徳川家の庇護篤く、特に三代将軍家光は本堂を寄進したほど。寺領も広く、港区・虎ノ門という地名も、当時の善福寺の山門、とか。また、杉並の善福寺池は当時の奥の院跡、と言われている。広大な寺域を誇っていたのであろう。
善福寺。開基は天長元年(824年)。弘法大師が真言宗を武蔵一円に広めるために建てた、という。その規模高野山にならい、新高野と呼ばれ、関東屈指の霊場であった。都内では浅草・浅草寺に次ぐ古い歴史をもつ。
鎌倉時代になると、越後での流罪を許されて京に帰る途中の親鸞聖人が、この寺を訪れる。その謦咳に接した善福寺の了介上人は、全山あげて浄土真宗に改宗。以来、浄土真宗の寺として歴史を刻む。一向一揆や、大阪・石山本願寺など、浄土真宗と織田信長との争いには、援軍を送ったりもしている。秀吉は関東平定に際しても、寺領保護を約している。江戸になっても徳川家の庇護篤く、特に三代将軍家光は本堂を寄進したほど。寺領も広く、港区・虎ノ門という地名も、当時の善福寺の山門、とか。また、杉並の善福寺池は当時の奥の院跡、と言われている。広大な寺域を誇っていたのであろう。
このお寺は幕末の1859年には、初代アメリカ公使館。安政の仮条約以降明治まで、ハリス以下の公使館員を迎えることになる。福沢諭吉もこの寺に出入りしていた、とか。その故か、諭吉の墓はここにある。越路吹雪のお墓も、ここにある。
境内、というか総門内に「柳の井戸」。現在でも清水が湧き出ている。弘法大師が鹿島大明神に祈願して柳の下に錫丈(しゃくじょう)を突き立てると、清水が湧き出した。ために、鹿島神社の七つの井戸のうち一つは空井戸になった、とか。また、とある上人さまが柳の小枝で地面を払ったら清水が湧き出した、とも伝えられている。関東大震災や東京大空襲のとき、多くの人たちの渇きを癒した湧水、としても知られている。
元神明神社
寺を離れ、「二の橋」で古川を越え、そのまま東へ進む。オーストラリア大使館を越えたあたりで北に。先に進むと小高い台地に「元神明神社」。古いような、新しいような、なんとも言われぬ雰囲気に惹かれて石段をのぼる。思いがけない、「あれこれ」に出会うことになる。創建は平安時代の寛弘2年(1005年)。渡辺綱の産土神。
そういえばこの近くに「綱坂」などもあった。江戸になり、飯倉神明(芝大神宮)に移す、との徳川家の命に対して、ご神体を隠し留め、以来「元神明宮」として、多くの人々の信仰を受ける。
水天宮
またこのお宮さんには、水天宮が祀られている。この水天宮は隣接する有馬藩邸の屋敷神として、九州・久留米水天宮から分祀されたもの。明治元年有馬邸が青山に移るに際し、このお宮さんに分霊。その後青山の有馬邸は日本橋蛎殻町の現水天宮に移ったわけだ。『江戸切絵図』をチェックすると、中の橋から赤羽橋にかけて確かに、有馬中務大輔の屋敷が描かれている。
水天宮といえば、ほんの数日前、九州・福岡での学会に出席。少々の空き時間を見つけ、久留米まで足を延ばし、本家門元の「水天宮」、有馬侯の「篠山(ささやま)城」を見てきたばかり。奇しくも、というか、絶妙の「襷」のかかり方。
水天宮にはじめて出会ったのは、もちろん、子供の無事なる誕生を願ってのときではある。散歩で最初に出会ったのは確か狭山丘陵。トトロの森にあった久米水天宮。このとき、由来などチェックして、本家が九州の久留米にあることがわかった。久留米は親父が召集され、陸軍幹部候補生学校の生徒として青春の一時期を過ごしたところでもある。水天宮と親父の若かりし頃の地を求め、久留米に飛び出した、次第。それから数日もしないうちに、全くの偶然で「水天宮」&「有馬侯」と出会った。奇しくも、というより、予定調和、といった「襷」のかかり方であった。
中の橋・芝公園
元神明宮を離れ、「中の橋」交差点に。東に進み桜田通り・赤羽橋交差点を越えると芝公園。赤羽は、北区の赤羽とおなじく「赤埴」から。土器などをつくる良質の赤粘土がとれたのだろう。たしか、近くの麻生台2丁目には、「土器坂(かわらけざか)」といった、そのものずばりの地名もあった、よう。
芝・丸山古墳
芝公園の中に「芝・丸山古墳」がある。適当に公園に入る。結構な台地。こんなところに古墳があるとは、思ってもみなかった。それよりも、この公園の中に台地があるなど、想像もできなかった。古墳の麓に「丸山貝塚」の碑;「芝公園の丸山と呼ばれる丘陵東南斜面に貝層が残存。正式な学術調査はおこなわれていない。縄文時代後期のものと推測されている」。
境内、というか総門内に「柳の井戸」。現在でも清水が湧き出ている。弘法大師が鹿島大明神に祈願して柳の下に錫丈(しゃくじょう)を突き立てると、清水が湧き出した。ために、鹿島神社の七つの井戸のうち一つは空井戸になった、とか。また、とある上人さまが柳の小枝で地面を払ったら清水が湧き出した、とも伝えられている。関東大震災や東京大空襲のとき、多くの人たちの渇きを癒した湧水、としても知られている。
元神明神社
そういえばこの近くに「綱坂」などもあった。江戸になり、飯倉神明(芝大神宮)に移す、との徳川家の命に対して、ご神体を隠し留め、以来「元神明宮」として、多くの人々の信仰を受ける。
水天宮
またこのお宮さんには、水天宮が祀られている。この水天宮は隣接する有馬藩邸の屋敷神として、九州・久留米水天宮から分祀されたもの。明治元年有馬邸が青山に移るに際し、このお宮さんに分霊。その後青山の有馬邸は日本橋蛎殻町の現水天宮に移ったわけだ。『江戸切絵図』をチェックすると、中の橋から赤羽橋にかけて確かに、有馬中務大輔の屋敷が描かれている。
水天宮といえば、ほんの数日前、九州・福岡での学会に出席。少々の空き時間を見つけ、久留米まで足を延ばし、本家門元の「水天宮」、有馬侯の「篠山(ささやま)城」を見てきたばかり。奇しくも、というか、絶妙の「襷」のかかり方。
水天宮にはじめて出会ったのは、もちろん、子供の無事なる誕生を願ってのときではある。散歩で最初に出会ったのは確か狭山丘陵。トトロの森にあった久米水天宮。このとき、由来などチェックして、本家が九州の久留米にあることがわかった。久留米は親父が召集され、陸軍幹部候補生学校の生徒として青春の一時期を過ごしたところでもある。水天宮と親父の若かりし頃の地を求め、久留米に飛び出した、次第。それから数日もしないうちに、全くの偶然で「水天宮」&「有馬侯」と出会った。奇しくも、というより、予定調和、といった「襷」のかかり方であった。
中の橋・芝公園
元神明宮を離れ、「中の橋」交差点に。東に進み桜田通り・赤羽橋交差点を越えると芝公園。赤羽は、北区の赤羽とおなじく「赤埴」から。土器などをつくる良質の赤粘土がとれたのだろう。たしか、近くの麻生台2丁目には、「土器坂(かわらけざか)」といった、そのものずばりの地名もあった、よう。
芝・丸山古墳
台地をのぼる。「円山随身稲荷大明神」。このあたり一帯が古墳跡。案内板;「全長106m前後。後円部径64m。前方部前端幅約40m。くびれ幅約22m。都内最大級の前方後円墳。江戸時代以降、原型は相当損じられている。前方部が低く狭い形態や占地状態などから5世紀時代の築造考えられる。付近の低地の水田地帯に生産基盤をもち、南北の交通路を押さえていた、南武蔵有数の族長の墓だったと考えられる。坪井正五郎が発掘・調査した」と。
散歩をはじめるまであまり知らなかったのだが、東京にも結構古墳がある。多摩川台古墳群、亀甲山古墳、宝莱山古墳。上野公園・擂鉢山古墳。足立区・毛長川流域。北区・王子、葛飾の中川・江戸川流域などなど、散歩の時に出会った古墳も多い。今ひとつ、この時代のことに興味・関心が少々薄いのではあるが、そのうちに、あれこれ調べてみよう。
芝・東照宮
公園内を通り、芝・東照宮に。明治に神仏分離で増上寺から別れるまでは、安国殿と呼ばれる。家康公の法名「一品大相国安国院殿徳蓮社崇誉道大居士」に由来する。ご神体である家康の等身大の彫刻は家康が60歳のとき、自らつくらせた、とか。
散歩をはじめるまであまり知らなかったのだが、東京にも結構古墳がある。多摩川台古墳群、亀甲山古墳、宝莱山古墳。上野公園・擂鉢山古墳。足立区・毛長川流域。北区・王子、葛飾の中川・江戸川流域などなど、散歩の時に出会った古墳も多い。今ひとつ、この時代のことに興味・関心が少々薄いのではあるが、そのうちに、あれこれ調べてみよう。
芝・東照宮
芝・増上寺

江戸にはいり、徳川家康の庇護を受け、徳川家の菩提寺となり、慶長3年(1598年)には、現在の芝の地に移転。関東18壇林のひとつとして多くの学僧が学んでいた、とか。寺内には二代秀忠公、六代家宣公、七代家継公、九代家重公、十二代家慶公、十四代家茂公の、六人の将軍の墓所がもうけられている。この大伽藍も戦災で焼失。正面入口の山門とふたつの霊廟の入口にあった総門がかろうじて難を逃れた。現在の本堂は昭和49年再建されたものである。本日の散歩はこれで終了。芝大門からJR浜松町駅に進み、一路家路に。
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