本日のルート;小田急線・玉川学園前>南口>玉川学園7丁目>奈良町第三公園>奈良町第二公園>奈良川源流部>協和緑病院>奈良町第四公園>奈良保育園前>鶴川街道・こどもの国西口交差点>こどもの国駐車場南を西に>奈良川・こどもの国線交差>奈良1丁目・奈良山公園南端>T字路>尾根道に上る>尾根道を北に>奈良5丁目・成瀬台4丁目>成瀬台4丁目>東玉川学園2丁目>昭和薬科大学・町田キャンパス>キャンパス南端を西に>かしの木山自然公園>南大谷中学>恩田川>恩田川自転車歩行者専用道路>小田急線交差>桜橋>稲荷坂橋>恩田川分岐>日向山公園脇>本町田東小学校脇>親水公園>今井谷戸>鎌倉街道を南に>木曽団地東交差点を西に>恩田川分流の源流・湿地帯・調整池>本町田小学校脇>町田街道>境川橋>JR横浜線・古淵駅
小田急線・玉川学園前駅
少々の雨模様の中、奈良川の源流点に近い、小田急線・玉川学園前駅に。南口に下りる。駅前に台地が迫る。谷戸・丘陵の広がるこの地を開発したのは玉川学園の創設者。地価の安い「原野」を開発し、駅をつくり地価を上げ宅地を売り出し、学園建設資金にまわした、という。たしか、駅の建設費用も学園が負担したとか、しないとか。阪急電鉄の小林一三翁といった電鉄会社の経営手法が頭によぎった。
で、ふと何故「玉川学園」なのか気になった。創設者は小原さん、ということだし、玉川という言葉との関連は?小原さんって、世田谷の成城学園にも関係していた方である。世田谷には二子玉川など、「玉川」が多い。それが学園命名の由来だろう、か。
それにしても、そもそも何故「玉川」であり、「多摩川」でないのだろう?「玉川」と「多摩川」の違いは?気になりチェック。大きな思い込み・勘違いがわかった。大河・多摩川のその存在の大きさ故に、多摩川が「本家」で「玉川」が分家、と思っていたのだが、どうもそうではないらしい。「多摩川」は明治になるまで「玉川」と呼ばれていいたようだ。多摩川の羽村で取水され、江戸まで引かれた上水が「玉川上水」であり、「多摩川上水」でない理由がよくわからなかったのだが、江戸時代、「多摩川」はなく「玉川」が流れていた、とすれば、至極あたりまえのことである。
玉川が多摩川となった経緯は定かではない。が、思うに、明治26年、多摩三郡(北多摩、南多摩、西多摩)が神奈川から東京に移管されたことがきっかけ、ではなかろうか。そもそも三多摩の東京への移管は、東京の上水地の水源である、とも言われる。水源地である多摩郡に「敬意」を払い、玉川を多摩川としたのではないか、との説もある。玉川って、玉=清らかな・宝のような川、である。玉川学園、って、そういった清らかな大河、に由来するのだろうか。まったくの根拠なし。
奈良川の源流域
駅前の台地を上る。玉川学園7丁目あたりの台地上の道を進み、玉川学園の敷地方向に。敷地に沿った車道を台地から下り、奈良川の源流点に向かう。源流点とはいうもの、車道の周囲は住宅街である。前方は奈良北団地、学園奈良団地の高層マンションであろう。
坂を下り奈良町第三公園で左折、宅地に入る。先に進み奈良町第二公園。その先は深く落ち込んでいる。典型的な谷戸の景観。坂道を下る。細い水路が流れている。奈良川の源流域、であろう。水路は北に向い玉川学園のほうに続いているのだが、フェンスに囲まれよく見えない。少し北に進むが、学園にそって急な石段が続く。どうも、これ以上進めそうもない。源流点さがしはここでストップ。Uターンし、奈良川を下ることに。
土橋谷戸
奈良町第二公園あたりまで戻る。道は川筋から少し離れる。いい風景。里山、というか穏やかな谷戸の景色が広がる。「土橋谷戸」と呼ばれているようだ。しばらく歩くと「緑協和病院」。道は五差路となる。奈良町第四公園脇を奈良川にそって下る。東の台地上はTBS緑山スタジオ。奈良保育園前交差点を越え、奈良小学校を西に見ながら進み鶴川街道・こどもの国西側交差点に。奈良保育園前交差点を西に進めば、先ほど奈良川源流に向かって下ってきた玉川学園脇の坂道に続く。
国西側交差点・鶴川街道
こどもの国西側交差点からはしばらく鶴川街道を進む。歩道が整備されていないので、通過する車が怖い。こどもの国駐車場、こどもの国線・こどもの国駅を越える。西に奈良山公園の緑。西に向かって川を越えたいのだが、なかなか橋がない。また、橋があっても線路で行き止まり。結局、住吉神社手前まで、引っ張られることに。住吉神社前交差点を西に折れ奈良山公園の南端に沿って進む。少し歩くと、大きな道筋。先ほどの「こどもの国西側交差点」から南に下る道筋である。先に進むと、先日歩いた恩田町の「子之辺神社」の西に通じている。
奈良尾根緑地
宅地開発されたばかり、といった街並みの中を南に下る。西に台地が見える。なんとか台地に上りたい、とは思えども道がない。結局、奈良3熊ケ谷公園あたりまで歩くことになった。西に通じる車道が通る。交差点を折れ、台地方向へと向う。道は台地下のトンネルをくぐる。トンネル脇に台地に上る道。迷うことなく台地上に続く細路に進む。坂をのぼると尾根道に。いい感じの散歩コースになっている。尾根道を南に進めば「成瀬山吹緑地」、北に進めば「奈良尾根緑地」に続く、と。この尾根道は青葉区と町田市成瀬との境界線、南のあかね台から北の奈良町まで続いている。
北に上るか、南に下るか、どちらに進むか結構迷う。で、結局、北に向かう。あとからGoogle Mapの航空写真でチェックすると、南方向は先日歩いた「子之辺神社」の西を通り、あかね台の県道140号線あたりまで緑が続いている。少々惹かれる。そのうちに歩いてみたい。ともあれ、北に進む。しばらく歩くと、木立の中の散歩道はなくなり、東は台地端、西は住宅地の続きとなる。
奈良5丁目と成瀬台4丁目境・奈良尾根緑地の北端
どこだったか、一度台地を下り、車道を渡り再び台地に上る。もう、尾根道というよりも、台地端に迫る住宅街の道を歩く、といった状況となる。この車道は「こどもの国駅」あたりから西に通る車道ではないか、と思う。更に先に進む。大きな車道を跨ぐ陸橋に。すぐ先に奈良北団地交差点。このまま進めば、「スタート地点」に戻ることになりそう。北に進むのを止め西に向かうことに。奈良5丁目と成瀬台4丁目の境、こどもの国西側交差点の少し南から、西に向かって続く車道が大きく湾曲するあたりで陸橋を下り西に道をとる。次の目標は「かしの木山自然公園」。目印は東玉川学園3丁目にある昭和薬科大学、である。
昭和薬科大学
成瀬台から東玉川学園の住宅街を進み、薬科大学町田キャンパスに。構内を抜ける道もありそうだが、残念ながら構内通行不可。仕方なく、キャンパスの縁を南に進み、南端で西に折れる。塀にそって台地を上る。台地の頂上付近から雑木林。雑木林を下り、テニスコート脇の竹林を抜け、峠道に当たると、そこは「かしの木山自然公園」の入り口、となっていた。
小田急線・玉川学園前駅
少々の雨模様の中、奈良川の源流点に近い、小田急線・玉川学園前駅に。南口に下りる。駅前に台地が迫る。谷戸・丘陵の広がるこの地を開発したのは玉川学園の創設者。地価の安い「原野」を開発し、駅をつくり地価を上げ宅地を売り出し、学園建設資金にまわした、という。たしか、駅の建設費用も学園が負担したとか、しないとか。阪急電鉄の小林一三翁といった電鉄会社の経営手法が頭によぎった。
で、ふと何故「玉川学園」なのか気になった。創設者は小原さん、ということだし、玉川という言葉との関連は?小原さんって、世田谷の成城学園にも関係していた方である。世田谷には二子玉川など、「玉川」が多い。それが学園命名の由来だろう、か。
それにしても、そもそも何故「玉川」であり、「多摩川」でないのだろう?「玉川」と「多摩川」の違いは?気になりチェック。大きな思い込み・勘違いがわかった。大河・多摩川のその存在の大きさ故に、多摩川が「本家」で「玉川」が分家、と思っていたのだが、どうもそうではないらしい。「多摩川」は明治になるまで「玉川」と呼ばれていいたようだ。多摩川の羽村で取水され、江戸まで引かれた上水が「玉川上水」であり、「多摩川上水」でない理由がよくわからなかったのだが、江戸時代、「多摩川」はなく「玉川」が流れていた、とすれば、至極あたりまえのことである。
玉川が多摩川となった経緯は定かではない。が、思うに、明治26年、多摩三郡(北多摩、南多摩、西多摩)が神奈川から東京に移管されたことがきっかけ、ではなかろうか。そもそも三多摩の東京への移管は、東京の上水地の水源である、とも言われる。水源地である多摩郡に「敬意」を払い、玉川を多摩川としたのではないか、との説もある。玉川って、玉=清らかな・宝のような川、である。玉川学園、って、そういった清らかな大河、に由来するのだろうか。まったくの根拠なし。
奈良川の源流域
駅前の台地を上る。玉川学園7丁目あたりの台地上の道を進み、玉川学園の敷地方向に。敷地に沿った車道を台地から下り、奈良川の源流点に向かう。源流点とはいうもの、車道の周囲は住宅街である。前方は奈良北団地、学園奈良団地の高層マンションであろう。
坂を下り奈良町第三公園で左折、宅地に入る。先に進み奈良町第二公園。その先は深く落ち込んでいる。典型的な谷戸の景観。坂道を下る。細い水路が流れている。奈良川の源流域、であろう。水路は北に向い玉川学園のほうに続いているのだが、フェンスに囲まれよく見えない。少し北に進むが、学園にそって急な石段が続く。どうも、これ以上進めそうもない。源流点さがしはここでストップ。Uターンし、奈良川を下ることに。
土橋谷戸
奈良町第二公園あたりまで戻る。道は川筋から少し離れる。いい風景。里山、というか穏やかな谷戸の景色が広がる。「土橋谷戸」と呼ばれているようだ。しばらく歩くと「緑協和病院」。道は五差路となる。奈良町第四公園脇を奈良川にそって下る。東の台地上はTBS緑山スタジオ。奈良保育園前交差点を越え、奈良小学校を西に見ながら進み鶴川街道・こどもの国西側交差点に。奈良保育園前交差点を西に進めば、先ほど奈良川源流に向かって下ってきた玉川学園脇の坂道に続く。
国西側交差点・鶴川街道
こどもの国西側交差点からはしばらく鶴川街道を進む。歩道が整備されていないので、通過する車が怖い。こどもの国駐車場、こどもの国線・こどもの国駅を越える。西に奈良山公園の緑。西に向かって川を越えたいのだが、なかなか橋がない。また、橋があっても線路で行き止まり。結局、住吉神社手前まで、引っ張られることに。住吉神社前交差点を西に折れ奈良山公園の南端に沿って進む。少し歩くと、大きな道筋。先ほどの「こどもの国西側交差点」から南に下る道筋である。先に進むと、先日歩いた恩田町の「子之辺神社」の西に通じている。
奈良尾根緑地
宅地開発されたばかり、といった街並みの中を南に下る。西に台地が見える。なんとか台地に上りたい、とは思えども道がない。結局、奈良3熊ケ谷公園あたりまで歩くことになった。西に通じる車道が通る。交差点を折れ、台地方向へと向う。道は台地下のトンネルをくぐる。トンネル脇に台地に上る道。迷うことなく台地上に続く細路に進む。坂をのぼると尾根道に。いい感じの散歩コースになっている。尾根道を南に進めば「成瀬山吹緑地」、北に進めば「奈良尾根緑地」に続く、と。この尾根道は青葉区と町田市成瀬との境界線、南のあかね台から北の奈良町まで続いている。
北に上るか、南に下るか、どちらに進むか結構迷う。で、結局、北に向かう。あとからGoogle Mapの航空写真でチェックすると、南方向は先日歩いた「子之辺神社」の西を通り、あかね台の県道140号線あたりまで緑が続いている。少々惹かれる。そのうちに歩いてみたい。ともあれ、北に進む。しばらく歩くと、木立の中の散歩道はなくなり、東は台地端、西は住宅地の続きとなる。
奈良5丁目と成瀬台4丁目境・奈良尾根緑地の北端
どこだったか、一度台地を下り、車道を渡り再び台地に上る。もう、尾根道というよりも、台地端に迫る住宅街の道を歩く、といった状況となる。この車道は「こどもの国駅」あたりから西に通る車道ではないか、と思う。更に先に進む。大きな車道を跨ぐ陸橋に。すぐ先に奈良北団地交差点。このまま進めば、「スタート地点」に戻ることになりそう。北に進むのを止め西に向かうことに。奈良5丁目と成瀬台4丁目の境、こどもの国西側交差点の少し南から、西に向かって続く車道が大きく湾曲するあたりで陸橋を下り西に道をとる。次の目標は「かしの木山自然公園」。目印は東玉川学園3丁目にある昭和薬科大学、である。
昭和薬科大学
成瀬台から東玉川学園の住宅街を進み、薬科大学町田キャンパスに。構内を抜ける道もありそうだが、残念ながら構内通行不可。仕方なく、キャンパスの縁を南に進み、南端で西に折れる。塀にそって台地を上る。台地の頂上付近から雑木林。雑木林を下り、テニスコート脇の竹林を抜け、峠道に当たると、そこは「かしの木山自然公園」の入り口、となっていた。
かしの木山自然公園
かしの木山自然公園。東の成瀬台、西の南大谷、高ケ坂地区の境に位置する。緑豊かな5haほどの公園。園内にはわずかな距離ではあるが、鎌倉古道も残る。園内に入り、鎌倉古道を歩く。が、あっという間に終了。コナラやクヌギの林の中を進むと「シラカシの森」がある。かしの木山自然公園の名前の由来、である。
シラカシはシイやカシ、そしてツバキなどとともに(常緑)照葉樹と呼ばれる。太古武蔵野を覆っていた植物群である。その後、人が住むようになり、原野を切り開く。焼畑で焼き払われた後には3,4年たつと、一面のススキ。 それが15年くらいでススキの間からクヌギやコナラといった落葉広葉樹が伸びてくる。これがいわゆる雑木林というものである。江戸が大都市になるにつれ、燃料としてこういった落葉広葉樹が必要になるわけで、人工的にも「雑木林」が増える。これが武蔵野の雑木林。
武蔵野の雑木林・落葉広葉樹も、管理することなく放置しておくと、百年ほどで林床に芽生えた(常緑)照葉樹にとって替わられる。落葉広葉樹は日当たりのいい所ではよく育つのだが、(常緑)照葉樹が増えると日当たりが悪くなり、消え去る。そして最後には極相とよばれる、植物遷移の最終段階の「シラカシの林」となるわけである(『雑木林の四季;足田輝一(平凡社カラー選書)』)尾根道を進み公園の西端近くに。恩田川によって開かれた谷筋が下に見える。散策路を歩き、南口に。台地を下り、西に進むと恩田川にあたる。
恩田川
尾根道を進み公園の西端近くに。恩田川によって開かれた谷筋が下に見える。散策路を歩き、南口に。台地を下り、西に進むと恩田川にあたる。
恩田川。町田市の七国山、というか今井谷戸あたりが源流。長津田の北で奈良川と合流。横浜線・中山駅の西、中原街道・落合橋あたりで鶴見川に合流する。いつだったか、源流点・今井谷戸あたりを歩いた。谷戸とはいうものの、鎌倉街道などの主要車道が交差しており、とてものこと、谷戸とか里山の面影など感じられなかった。川を遡れば、それなりの開析谷の景観が見えるか、はたまた、新百合丘で見たような強烈な宅地化が待ち受けているのか、ともあれ、源流点・今井谷戸に向かって歩きはじめる。
今井谷戸交差点
恩田川の川筋には自転車歩行者専用道路が整備されている。南大谷中、南大谷小脇を進む。小田急線と交差。桜橋、大谷一号橋、本町田団地を過ぎると稲荷坂橋。その先で鶴川街道と交差する。鶴川街道を少し西に行けば菅原神社。少し進むと恩田川はふたつに分かれる。西に向かえば町田街道・滝の沢。このあたりも恩田川の源流のひとつ。北に進む。里山の景観もなければ、インパクトのある宅地が広がることもない。
少し歩くと、また恩田川がふたつに分かれる。西に進み川筋は、鎌倉街道のすぐ西にある町田木曽住宅あたりまで続いている。鎌倉街道に沿って北に進む。日向山公園、本町田小学校を越える。川筋は消え、親水公園といった人工水路になる。今井谷戸交差点の東を鎌倉街道のあたりまで川筋を探す。結局人工の水路しか見当たらなかった。で、源流点チェックはこのあたりで終わりとする。結局、里山の景観もなければ、インパクトのある宅地が広がることもなかった。
木曽団地交差点
今井谷戸交差点を離れ、境川を越えて相模の国に進む。鎌倉街道に沿って南に下る。鎌倉街道、といっても車の多い幹線道路。先ほど恩田川に沿って上った道を戻る感じ。今井谷戸から西に進む道筋もあったのだが、なんとなく上りとなっていたので敬遠した、次第。この鎌倉街道は、南に道なりに進むと鶴川街道に合流。そこを鶴川街道に乗り換えれば町田の駅近くに達する。が、今回は町田ではなく、なんとなく、西に進みたい、と思った。
木曽団地交差点で鎌倉街道を離れ、西に折れる。少し歩くと町田木曽団地の前に調整池。人工の調整池、というよりも、湿地帯をそのまま残している雰囲気。地図をみれば、恩田川の支流水路が、このあたりまで続いている。昔は恩田川の水源のひとつ、だったのではないか、と。
境川
道は上りが続く。多摩丘陵を越え、境川に向かって「下る」というイメージとは真逆の地形。いつ、下りになるのだろう?しばらくすすむと「町田街道」に。交差点を越えると、心持ち下る道筋。しかし前方には丘の高まりが見える。あれ?一体どうなっているのか?少々混乱。少し進むと境川。武蔵と相模の境となる川筋。昔は相模川の一支流、であったよう。堺川を越えると、丘に向かっての上り坂。横浜線・古淵駅は、坂を上りきったところにあった。さっぱり訳がわからなくなってしまった。多摩丘陵をグンと下り、境川へと、と思っていたのが、今井谷戸、というか恩田川から先は、下りというより、ずっと上り、といった地形であった。
電車に乗る。窓から地形を見る。が、線路の東に台地の高まりは見えない。平坦な台地上を走る。多摩丘陵の高まりが遠くに見えたのは、相模原だったか、橋本だったか、ともあれ、結構北に走ってからであった。
家に帰って地形図でチェック。城山湖(本沢湖)付近を源流とする境川は多摩丘陵下に沿って下っている。おおよそ桜美林大学のあるあたりまで。その先で、堺川は丘陵下を離れ、南東に相模原台地を下っている。で、多摩丘陵の西端のラインだが、相原駅>多摩境駅>桜美林大学>恩田川流路、を結んだ線。当初恩田川は、多摩丘陵の中の開析谷を流れている、と思い込んでいたのだが、どうも、恩田川って、多摩丘陵の西端下を流れる川であった、ようだ。
思うに勘違いの主因は、本日歩いた成瀬台、であり、長津田のある台地にあったように思う。地形図を見ると、成瀬台は多摩丘陵が西に突き出た舌状台地。そして相模台地面を隔てて長津田の丘陵地が広がっていた。多摩丘陵散歩の仕上げとして、多摩丘陵を相模台地に下る、といったイメージを描いていたのだが、「かしの木山自然公園」を恩田川に向かって下った段階で、多摩丘陵を下り相模台地に入っていた、ということ、であった。ともあれ、一見落着、である。
かしの木山自然公園。東の成瀬台、西の南大谷、高ケ坂地区の境に位置する。緑豊かな5haほどの公園。園内にはわずかな距離ではあるが、鎌倉古道も残る。園内に入り、鎌倉古道を歩く。が、あっという間に終了。コナラやクヌギの林の中を進むと「シラカシの森」がある。かしの木山自然公園の名前の由来、である。
シラカシはシイやカシ、そしてツバキなどとともに(常緑)照葉樹と呼ばれる。太古武蔵野を覆っていた植物群である。その後、人が住むようになり、原野を切り開く。焼畑で焼き払われた後には3,4年たつと、一面のススキ。 それが15年くらいでススキの間からクヌギやコナラといった落葉広葉樹が伸びてくる。これがいわゆる雑木林というものである。江戸が大都市になるにつれ、燃料としてこういった落葉広葉樹が必要になるわけで、人工的にも「雑木林」が増える。これが武蔵野の雑木林。
武蔵野の雑木林・落葉広葉樹も、管理することなく放置しておくと、百年ほどで林床に芽生えた(常緑)照葉樹にとって替わられる。落葉広葉樹は日当たりのいい所ではよく育つのだが、(常緑)照葉樹が増えると日当たりが悪くなり、消え去る。そして最後には極相とよばれる、植物遷移の最終段階の「シラカシの林」となるわけである(『雑木林の四季;足田輝一(平凡社カラー選書)』)尾根道を進み公園の西端近くに。恩田川によって開かれた谷筋が下に見える。散策路を歩き、南口に。台地を下り、西に進むと恩田川にあたる。
恩田川
尾根道を進み公園の西端近くに。恩田川によって開かれた谷筋が下に見える。散策路を歩き、南口に。台地を下り、西に進むと恩田川にあたる。
恩田川。町田市の七国山、というか今井谷戸あたりが源流。長津田の北で奈良川と合流。横浜線・中山駅の西、中原街道・落合橋あたりで鶴見川に合流する。いつだったか、源流点・今井谷戸あたりを歩いた。谷戸とはいうものの、鎌倉街道などの主要車道が交差しており、とてものこと、谷戸とか里山の面影など感じられなかった。川を遡れば、それなりの開析谷の景観が見えるか、はたまた、新百合丘で見たような強烈な宅地化が待ち受けているのか、ともあれ、源流点・今井谷戸に向かって歩きはじめる。
今井谷戸交差点
恩田川の川筋には自転車歩行者専用道路が整備されている。南大谷中、南大谷小脇を進む。小田急線と交差。桜橋、大谷一号橋、本町田団地を過ぎると稲荷坂橋。その先で鶴川街道と交差する。鶴川街道を少し西に行けば菅原神社。少し進むと恩田川はふたつに分かれる。西に向かえば町田街道・滝の沢。このあたりも恩田川の源流のひとつ。北に進む。里山の景観もなければ、インパクトのある宅地が広がることもない。
少し歩くと、また恩田川がふたつに分かれる。西に進み川筋は、鎌倉街道のすぐ西にある町田木曽住宅あたりまで続いている。鎌倉街道に沿って北に進む。日向山公園、本町田小学校を越える。川筋は消え、親水公園といった人工水路になる。今井谷戸交差点の東を鎌倉街道のあたりまで川筋を探す。結局人工の水路しか見当たらなかった。で、源流点チェックはこのあたりで終わりとする。結局、里山の景観もなければ、インパクトのある宅地が広がることもなかった。
木曽団地交差点
今井谷戸交差点を離れ、境川を越えて相模の国に進む。鎌倉街道に沿って南に下る。鎌倉街道、といっても車の多い幹線道路。先ほど恩田川に沿って上った道を戻る感じ。今井谷戸から西に進む道筋もあったのだが、なんとなく上りとなっていたので敬遠した、次第。この鎌倉街道は、南に道なりに進むと鶴川街道に合流。そこを鶴川街道に乗り換えれば町田の駅近くに達する。が、今回は町田ではなく、なんとなく、西に進みたい、と思った。
木曽団地交差点で鎌倉街道を離れ、西に折れる。少し歩くと町田木曽団地の前に調整池。人工の調整池、というよりも、湿地帯をそのまま残している雰囲気。地図をみれば、恩田川の支流水路が、このあたりまで続いている。昔は恩田川の水源のひとつ、だったのではないか、と。
境川
道は上りが続く。多摩丘陵を越え、境川に向かって「下る」というイメージとは真逆の地形。いつ、下りになるのだろう?しばらくすすむと「町田街道」に。交差点を越えると、心持ち下る道筋。しかし前方には丘の高まりが見える。あれ?一体どうなっているのか?少々混乱。少し進むと境川。武蔵と相模の境となる川筋。昔は相模川の一支流、であったよう。堺川を越えると、丘に向かっての上り坂。横浜線・古淵駅は、坂を上りきったところにあった。さっぱり訳がわからなくなってしまった。多摩丘陵をグンと下り、境川へと、と思っていたのが、今井谷戸、というか恩田川から先は、下りというより、ずっと上り、といった地形であった。
電車に乗る。窓から地形を見る。が、線路の東に台地の高まりは見えない。平坦な台地上を走る。多摩丘陵の高まりが遠くに見えたのは、相模原だったか、橋本だったか、ともあれ、結構北に走ってからであった。
家に帰って地形図でチェック。城山湖(本沢湖)付近を源流とする境川は多摩丘陵下に沿って下っている。おおよそ桜美林大学のあるあたりまで。その先で、堺川は丘陵下を離れ、南東に相模原台地を下っている。で、多摩丘陵の西端のラインだが、相原駅>多摩境駅>桜美林大学>恩田川流路、を結んだ線。当初恩田川は、多摩丘陵の中の開析谷を流れている、と思い込んでいたのだが、どうも、恩田川って、多摩丘陵の西端下を流れる川であった、ようだ。
思うに勘違いの主因は、本日歩いた成瀬台、であり、長津田のある台地にあったように思う。地形図を見ると、成瀬台は多摩丘陵が西に突き出た舌状台地。そして相模台地面を隔てて長津田の丘陵地が広がっていた。多摩丘陵散歩の仕上げとして、多摩丘陵を相模台地に下る、といったイメージを描いていたのだが、「かしの木山自然公園」を恩田川に向かって下った段階で、多摩丘陵を下り相模台地に入っていた、ということ、であった。ともあれ、一見落着、である。
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