水曜日, 2月 25, 2009

奥武蔵散歩:越生から高山不動へ

龍穏寺に行く事にした。太田道灌ゆかりの寺である。越生の奥、龍ガ谷の中央にあり、市街からは結構離れている。市街とのピストン往復では、いかにも味気ない。地図でチェックする。と、龍穏寺の北の梅本集落から林道が奥武蔵高原の尾根道まで通じている。これは、いい。どうせのことならと、この尾根道、通称奥武蔵グリーンラインに進むことにした。
幾つもの峠が連なるこの尾根道はその昔、越生と吾野、秩父を結ぶ幹線道路であった。
信仰のため、商業活動のため、日々の生活のため、そして時には山中の寺で開帳される「賭博」のための往還でもあったのだろう。奥武蔵グリーンラインから先は、しばし尾根道を南に辿り、高山不動を経て吾野に下ることにする。高山不動は龍穏寺の奥の院。偶然とはいいながら、散歩のはじめと終わりが龍穏寺からみ、とは、これもなにかの因縁、か。



本日のルート:東武東上線越生駅>上大満>越辺川>竜ガ谷集落>下馬門>龍穏寺>龍穏寺の熊野神社>山神社>瀧不動_男瀧と女瀧>林道梅本本線>林道梅本支線>行き止まり>障子岩名水>大平尾根合流>野末張見晴し台>グリーンロード>飯盛峠>グリーンロード>関八州見晴し台>高山不動>三輪神社>高山不動の 参道と志田林道の合流点>高山不動参道口>瀬尾>下長沢>国道299付近>高麗川>西武秩父線吾野駅


東武東上線越生駅
池袋から東武東上線に乗り、坂戸で東武越生線に乗り換え越生の駅に。越生は今回がはじめてではない。何時だったか、道灌ゆかりの「山吹の里」を訪ねてこの地に足を運んだ。龍穏寺のことを知ったのも、その時である。
「七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき」で知られる「山吹の里」は散歩の折々にそこかしこで出会うので、それはそれでいいとして、名刹・龍穏寺がなにゆえ、この越生にあるのか気になっていた。なにせ、奥武蔵の山の中である。チェックする。と、越生はその昔、このあたりの中心地であった、よう。鉄道が通る現在では中心は飯能であり、秩父に移っているわけだが、それが鉄道もなかった昔からの中心地であったかどうかは、別の話である。「現在軸」からの思い込みには注意が必要、か。

麦原バス停
越生駅より黒川行きのバスに乗る。山裾に沿って市街地を北に向かい、山稜が切れたあたりを西に折れる。山稜が切れたところを越辺川が流れる。越辺川によって開かれた山稜の間の低地を西に進む。津久根地区と呼ばれる。
津久根を西に向かい、越生梅林あたりからは南西に向かう。越辺川によって開析された谷筋である。川に沿って進むと麦原バス停。ここは、小杉、アジサイ公園、麦原を経て飯盛峠に向かう昔の秩父越生道の入口。吾野の谷や秩父から、背に炭を背負い峠を越え、食料や衣料と交換するために物々交換の中心地である越生にやって来たのだろう。

上大満バス停
麦原バス停を過ぎ、大満地区を1.5キロほど進み上大満バス停で下車。越生の駅から30分ほどかかっただろう、か。バス停の脇を流れるのは越辺川の支流・龍ガ谷川。龍穏寺はこの龍ガ谷川を2キロ弱上ったところにある。
大満とはいかにも奇妙な地名。気になってチェックした。すると、その地名は龍ガ谷にまつわるある伝説に由来する、と。
昔々、この龍ガ谷一帯は大きな湖であった。底には龍が棲んでいたとのことだが、それはそれとして、ある日大雨で堤が決壊し、一面が水浸しとなった。大満とは、その「水が溢れた地」のこと。ちなみに、バスで通り過ぎた津久根は、もともとは「築根」。決壊した水を防ぐべく堤防を築いたところ。そういえば、津久根の地は、越辺川が山間から平地に流れ出す喉元。ここに堰をつくれば、確かに洪水が防げそうではある。
そうそう、湖に棲んでいた龍の話。名栗の龍泉寺から越生の龍穏寺にお手伝いに来ていた小坊主さんを背に乗せて名栗と越生を往復していた、とか。龍泉寺の和尚さんの看病のためである。で、洪水で棲むところをなくした龍は名栗の有馬の谷に逃れ、そこに棲むことになった、とか。直線距離でも10キロ以上はなれている名栗と越生ではあるが、このふたつの地域は一衣帯水であったということ、か(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

龍穏寺
上大満バス停から龍ガ谷川に沿って歩く。半時間弱で龍穏寺の入口。如意輪観音様が迎えてくれる。龍穏寺は役の行者の創始とされる。縁起は縁起として、開山は14世紀末とも15世紀初め、とも。足利義教だか、足利義政だか、ともあれ足利氏が尊氏以下の足利氏の冥福を祈るため、関東官領上杉持朝に命じて開いた。その後、兵火に焼失。15世紀の後半に太田道灌、道真が再建した。
16世紀末には豊臣秀吉より御朱印100石。17世紀初頭には徳川家康より総寧寺(千葉県・市川市)、大中寺(栃木県・大平町)とともに関三刹とも呼ばれる大寺院に。全国の曹洞宗寺院のうち、23ヶ国の寺院、その僧侶など二万人を統括していた、とか。

参道を進むと堂々とした門。無相門。彫刻は榛名の名工岸亦八の手による。先に進むと江戸城の石。江戸城外濠に架かる神田橋の橋台として使われていたものである。本堂にお参りし、続いて太田道灌銅像に。案内をメモ;「太田道灌公墓;永享4年(1432)龍穏寺寺領(父・居城居城居城居城居城太田道真の)に生る幼名鶴千代丸後雲崗舜徳襌師(龍穏五世)について出家道灌と号す「瑞巖主人公」の公案を受け大悟徹底す長禄元年(1457)江戸城(皇居)を築き川越城・岩槻城・鉢形城を修築し野戦に長じ関東雄将たり。しかるに惜むべし文明18年(1486)神奈川県伊勢原市にて謀殺される。法名香月院殿春苑道灌大居士分骨して当山に葬る、と。少々きらびやかな経堂の外壁を彩る彫り物を眺め、境内脇にある熊野神社にお参りし、お寺を離れる。

梅本林道
少し進むと食事処・山猫軒。築130年という旧家を改築したもの。散歩をしていると、時々山の中、と言ってもいいようなところに洒落た食事処がある。高尾から津久井の城山湖に向かって歩いていた時も、案内川に沿って甲州街道を進み、峰の薬師参道を峠道に入った山中にも同じような雰囲気の食事処があった「うかい竹亭」。山中ではないけれど、仙川に沿って武蔵小金井をぶらぶらしていると懐石料理で名高い尼寺・三光院に出会った。食通にはうれしいお店ではあろうが、食にあまり興味のないわが身には、有難さも中位といったところ、である。
歩を進め、道が分岐するあたりの道脇にこじんまりとした社、というか祠。山神宮八幡神社とあった。ここから左に分岐する道は、高山街道へ続く道のようである。高山道は四寸道とも呼ばれる、越生から高山不動への参拝道。起点は大満の越辺川と龍ガ谷川の合流点より少し黒山に向かって進んだ下ケ谷の下ケ谷橋の袂。そこから下ケ谷薬師を経て、越辺川と龍ガ谷川に挟まれた尾根道上を薪山>駒ヶ岳>峰山、関場ガ原(関八州見晴台)と上り高山不動を目指す。
この梅本の分岐は龍穏寺から尾根道に直接進むショートカットのルートだろう、か。高山不動は龍穏寺の奥の院とも言われているので、昔は参拝人でにぎわったのだろうが、現在高山道は廃道寸前となっている、とか。ちなみに、高山道の別名四寸道の由来は、幅が四寸の露岩のやせ尾根を行くから、と。

旧秩父道への分岐
少し進み梅本集落の入口付近の道端に滝不動。ブロックの祠の中に、年代を経たお不動様。滝不動と呼ばれるように、男滝と女滝があるのだが、どちらもいかにもつつましやかな滝である。
滝不動を越えると、梅本林道の標識。ここから飯盛山の大平尾根へと上る林道がはじまる。林道を尾根に向かってゆったり上る。龍穏寺から2キロ強歩いたところで、梅本林支線が分岐。草むらに旧秩父街道との案内。秩父越生街道って、龍穏寺へのバスの途中、小杉、麦原から太平尾根に上っていた道筋。この道は龍穏寺方面からこの秩父越生街道に通じる道だったのだろう、か。
支道入口は通行止めとはなっていたのだが、これって車がダメだが、歩きは大丈夫だろうと、無理矢理解釈。とりあえず、どんな道筋か本線を離れ支道にはいる。ぐるりと曲がったゆったりとした坂道を上ると障子岩。断層としては専門家にはありがたい岩のようだが、門外漢には岩よりも、そこから流れ出す障子岩名水がありがたい。一口飲んで先に進む。が、ほどなく道は行き止まり。進めるかどうかブッシュの中に分け入るも、どうにも進めそうも無い。諦める。林道によって道筋が代わり、廃道となったのだろう。仕方なく本道に戻る。整備はされている。

野末張(のずはり)見晴台
尾 根に向かってジリジリと上ってゆく。旧秩父道への分岐から1キロ弱歩き、ほとんど180度ターンをするカーブのあたりで道の周囲は開ける。ほぼ尾根筋に来たのだろう。ヘアピンカーブのところに東のほうから林道に合流する尾根道があった。チェックすると、アジサイ公園方面との案内。ということは、ここらあたりが大平尾根。ということは、合流してきたこの尾根道は小杉、麦原方面から上ってきた秩父越生道なのだろう。少し尾根道を歩き、なんとなくの秩父越生道の雰囲気を楽しみ、元に戻る。
180度の折り返しの「中州」のところに展望台。野末張見晴台と呼ばれる。いやはや、素晴らしい展望。思いがけないプレゼントといった感じ。山並みのどこがどこだかわからないながらも、見晴らしを楽しむ。後でチェックすると、北は赤城山とか日光連山、南は新宿の高層ビルまでもカバーしていたようだ。


奥武蔵グリーンライン

尾根道を2キロほど進むと奥武蔵高原道路、通称奥武蔵グリーンラインに合流。案内に右に折れると飯盛峠、左は関八州見張台、どちらも1キロ程度。先を急ぐのだが、飯盛峠って、どんなものかピストン往復を。

飯盛峠
奥武蔵グリーンラインを飯盛峠に向かう。奥武蔵グリーンラインって、外秩父の尾根を走る林道。この尾根道には大野峠、七曲り、刈場坂峠、ブナ峠、飯盛峠、アラザク峠、傘杉峠、顔振峠といくつもの峠が連続する。このようにいくつもの峠が開かれた理由は、高麗川の谷筋に沿った吾野の村々、また、芦ケ久保といった秩父の集落から越生に通じる道が必要であった、から。今でこそ西武線が通り飯能や秩父にすぐに行ける吾野の町ではある

が、その昔は、生活物資を求めてこの地域の中心地である越生に向かうしかなかったようだ。
谷筋の村々からは炭を背負い、峠をこえて越生に向かい、そこで食料や衣料と交換した。また、芦ケ久保の集落からは、距離的には秩父が近いわけだが、お米など秩父までの運賃が高く、であれば、ということで秩父に比べて安いお米が手に入る越生に向かって、峠を越えた、と言う。(『ものがたり奥武蔵:神山弘(岳書房)』より)。今となってはどうということのない峠だが、昔は人々が足しげく往還したのだろう。少々の感慨。
尾根道を進むとほどなく飯盛峠。標高810m。ヒットエンドランでもあり、道端にある飯盛峠の標識にタッチし、梅本林道との合流点に戻り、そのまま尾根道を関八州見晴台に向かう。


関八州見晴台
梅本林道との合流点から1キロほど尾根道を進むと関八州見晴台。越生と飯能の境目。標高770m。安房、上野、下野、相模、武蔵、上総、下総、常陸の関東八カ国が一望のもと、ということが地名の由来。

見晴台には奥武蔵グリーンロードから少々の高台に上ることになる。高台には高山不動の奥の院。つつましやかな祠といった風情であった。本尊の五代尊不動明王は関東鎮護のため東京に向けられている、とか。しばしの休息の後、本日最後の目的地である高山不動に向かう。

高山不動
杉林の中を下る。はじめは舗装もされているが、途中からそれも切れ山道をどんどん下る。奥武蔵グリーンラインにつかず離れずといった道筋。ほどなく高山不動の本堂脇に到着。素朴であるが堂々とした本堂である。創建の時期は7世紀とも言われるが、正確な時期は明らかでない。少なくとも平安時代末期には坂東八平氏・秩父重遠がこの地に居住し、高山氏を名乗ったわけで、古い歴史をもつことは間違いない。
本堂にお参り。石段の下にはひとつふたつ建物が見えるにしても、成田不動、高幡不動とともに関東三大不動のひとつとも言われる割には、ちょっと寂しい。七堂伽藍が林立、とまではいかなくても、もう少々堂宇が並ぶか、とも想像していたのだが、まったくもってさっぱりしたもの。往時は3

6坊を誇った堂宇も現在は3坊を残すのみ。明治の廃仏毀釈の洗礼を経たためであろう、か。江戸の頃は、参拝客で賑わい、賭博で賑わったお不動さまも、今は静かな風情である。
106段の石段を下ると、ひときわ大きい樹木。子育ての大イチョウと呼ばれる。成り行きで下り、庫裏前を進み道に出るとすぐにつつましやかな三輪神社。ちょっとお参りをし、吾野駅に向かう。
そうそう、高山不動は賭博が盛んであった、とメモした。神社仏閣と賭博はここだけの話でもない。足立区花畑の鷲神社もそうであった。酉の市で知られるこの神社も賭博で賑わった。で、賭博が禁止されると、人の動きがピタリと止まった、とか。信仰だけでなく、なんらかの現世利益、楽しみが必要ということ、か。当たり前と言えば当たり前。

西武秩父線吾野駅

三輪神社を経て上長沢地区の山道をどんどん下り、途中志田林道の合流箇所などを見やりながら高山不動参道入口に。お不動さんから3キロ強といったところ。さらに下り、瀬尾のあたりまで来ると民家も多くなる。瀬尾の集落は高山不動尊の参道として賑わった。道筋には材木店も見える。下長沢地区の山腹に点在する
民家を見やりながら渓流に沿って進み、国道299号線に合流。ここまでくれば吾野駅はすぐそこ、だ。



国道299号線の南には高麗川が流れる。高麗川は刈場坂峠付近に源を発し、飯能、日高、毛呂山と下り、坂戸で越辺川に合流する。名前の由来は、高麗郡より。716年、駿河など7カ国に住んでいた高句麗からの帰化人1799名を武蔵国に集め設置したもの。日高市にある高麗の里の巾着田を歩いたことがなつかしい。
川に沿って吾野の駅に向かい、本日の予定終了。ちなみに、吾野の駅って、西武秩父線の始点,、というか、1969年に正丸トンネルができるまでは西武線の終点であった。で、トンネルができて、秩父とつながったため、西武線終点であった吾野が秩父線の始点となった、ということだろう。西武鉄道のほとんどの電車が、始点・吾野ではなく飯能で折り返しているのは、歴史的経緯としての始点とは関係のない、なにか別の「合理的」理由によるのだろう。それにしても、それにしても、高麗川の谷筋と秩父が電車で繋がったのは、それほど昔のことではなかったわけである。


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