火曜日, 6月 16, 2009

塩の道散歩 そのⅠ;千国越え

5月も末の週末、2泊3日で塩の道・千国街道を歩いた。千国街道って、日本海側の糸魚川から信州の松本まで続く全長120キロにも及ぶ道筋。明治にいたるまで、日本海側からは塩や魚、信州側からは麻や木綿、タバコや炭などが人や牛の背により運ばれた物流の道である。今回歩いたのは、栂池高原から南小谷へと続く「千国越え」、それとその先、大網の集落から大網峠を越え山口集落に続く「大網峠越え」。合わせて20キロ程度の行程となった。距離としては全体の六分の一、といったところだが、「千国越え」も「大網峠越え」も、どちらも塩の道・千国街道散歩の代表的コース。千国越えは姫川西岸の高原山麓をゆったり・のんびりと歩くコース。大網峠越えは、姫川東岸・艱難辛苦の「峠越え」。結構変化に富んだふたつのタイプの散歩が楽しめた。

そもそも、塩の道散歩のきっかけは、義兄からのお誘い。昨年の初冬、「塩の道を歩きませんか」、と。同じころ古本屋で、『塩の道・千国街道物語;亀井千歩子(国書刊行会)』を買い求め、読み始めていた。奇しくも、はたまたなんたる因縁、というわけでもないのだが、街道歩き大好きなわが身としては、一も二もなく話に乗った。
さてと、塩の道を歩く、といっても、どこを歩けばいいのやら皆目見当がつかない。前述の『塩の道・千国街道物語』は塩の道にまつわる歴史や民俗についての学術書といったもの。とてものこと、お散歩コースを確定するといった実用書ではない。ということで、インターネットで情報を探し、データを補強するため書籍を探した。『塩の道一人行脚;宮原一敏(文芸社)』、『古道紀行 塩の道;小山和(保育社)』などを買い求め、あれこれ検討した結果が上に述べた、「千国越え」であり、「大網峠越え」というわけである。

コースは決まった。で、「道行きの日」ということになるのだが、さすがに初雪の峠越えは少々怖い、ということで、年を越し気候もよくなる5月ということにした。出発まで半年の準備期間。いきあたりばったりのお散歩を身上としているわが身には少々「まだるっこしい」のだが、宮本常一さんの『塩の道(講談社学術文庫)』(講談社刊の『道の文化』でも同じ記事を読んだ)を読んだり、『北アルプス 小谷ものがたり;尾沢健造他(信濃路)』を読んだり、『塩の道を探る;富岡儀八(岩波新書)』を読んだり、道があまり整備されていないかも、との恐れゆえGarmin社のGPS専用端末を購入したり、熊がでるかも、との恐れゆえ3000円ほど投資し、スイスのアーミーナイフ・VICTORINOXを購入し、熊と戦うシミュレーションを繰り返し行うなど、それなりに熟成期間を楽しみ出発の日を迎えた。

本日のルート;大糸線白馬大池駅>「千国越え」のスタート地点・松沢口>百体観音>前山>沓掛>親坂>親沢>千国番所跡>千国諏訪神社>源長寺>黒川沢>大別当小土山>三夜坂>南小谷

大糸線5月23日(土曜日)、千国越えコースの始点のある、栂池高原スキー場へと向かう。最寄りの駅は大糸線白馬大池駅。新宿発午前7時のスーパーあずさで松本駅に。松本からは大糸線に乗り換え大町に。大町で再び大糸線に乗り換え白馬大池に向かう。
この大糸線、昭和のはじめ、大町から北に向かって建設がはじまった。で、糸魚川につながったのは昭和32年。戦時中には工事が止まるばかりではなく、敷設された線路や鉄橋までも戦地で使うために取り外されるなど、紆余曲折をへての完成であった、とか。
大糸線の完成が塩の道・千国街道の物流ルートとしての役割に与えた影響はあまり、ない。明治23年には姫川に沿って道が完成し、馬車による塩の運搬が可能となっているし、それよりなりより、明治22年には中央線が名古屋から松本まで開通し、名古屋経由で瀬戸内の塩か運搬されるようになっている。糸魚川からの塩(北塩)は既に、その歴史的割を終えていたわけ、だ。
ちなみに大糸線って、大町から糸魚川と思っていたのだが、実際は松本から糸魚川まで。これは、「松本から大町」を走っていた私鉄が戦時中の国策で国有化され「大町から糸魚川」を走っていた国鉄と一体化したため、と。

大糸線白馬大池駅
午前11時過ぎに白馬大池駅に。駅は無人駅。駅前を流れる姫川のほかにあたりに何も、ない。川の向こうに河岸段丘が迫る、のみ。有名な栂池高原スキー場へのアプローチ駅であり、土産物屋のひとつもあるだろうし、そこで食事でもなどと目論んでいたのだが、駅前の店もシャッターを閉じている。
食事は我慢するとしても、困ったのは足の便。乗り合いバスはない、ということはわかっていたのだが、駅から千国越えコースのスタート地点まではタクシーでも、などとのお気楽に考えていた。少々甘かった。ということで、スタート地点の栂池高原・松沢口へと歩くことに。距離は3キロ弱、比高差は300mといったところ、か。[大糸線白馬大池駅;11時21分、標高592m]


駅前を離れ、姫川を渡る。川に沿って国道148号線を越えて高原へと続く道へと進む。川床より河岸段丘に這い上がる、といった感じ。道は曲がりくねる。歩き始めるとすぐに、いかにもショートカットといった畦道。これはいい、と進んだ瞬間、道に蛇。蛇はご勘弁、ということで退却を、とは思うのだが、パートナーは少々強気。渋々後を追い、とっとと本道に戻る。30分ほど歩くと、道脇に「そば」の幟。古民家を改築したような趣のある建物。一時はお昼抜きを覚悟したパーティ二人、迷うことなくお店へと。
しばし休息の後、再び歩を進める。曲がりくねった車道を上る。30分も進むと峠を越える。眼前には北アルプス、そしてその山麓にスキー場が広がる。目指す栂池高原スキー場である。雄大な眺めをしばし楽しむ。
山裾に広がるスキー場のあたり、峠と北アルプスの山地の間は、お椀の形のような窪んだ地形になっている。『北アルプス 小谷ものがたり』によれば、往古、姫川はこのあたりを流れていた、と。急峻な北アルプスからの流れにより、気の遠くなるような時間をかけて形成された扇状地が、姫川の流れにより、これまた気の遠くなるような時間をかけ、やや幅広い谷がつくられる。そして、その後再び浸食をはじめ、さらに深い谷(現在の姫川)がつくられた。
現在、扇状地や広い谷の一部が川岸に沿って二、三段の河岸段丘となって分布していると言われるが、スキー場一帯の平原というか、高原は、その扇状地の名残か、はたまた、広い谷となって残る高位段丘面であろう、か。[峠;12時20分、標高807m]


「千国越え」のスタート地点・松沢口
峠より、少し窪んだ高原に向かって道を下る。ほどなく道脇に「千国街道」の標識。千国越えコースのスタート地点・松沢口である。千国街道は、この松沢口から南へと山裾を進み、姫川に沿って南に下るが、千国越えはこの地より北に向かうことになる。
千国越えの始点なっているこのあたりは親の原と呼ばれる。昔は共同の茅場であったようだが、現在はスキー場のゲレンデだろう。フラットな平地が広がる。親の原の名前の由来は、親王原から、との説がある。その昔、この地に後醍醐天皇の皇子である宗良親王が足跡を残したから、と。大町を中心にこのあたり一帯に覇を唱えた仁科氏は南朝方の武将。南朝方の総帥として伊那谷を拠点に各地を転戦した宗良親王が仁科氏を頼ってこの地に来ることは大いにあり得る。
とはいうものの、親の原には湿原を現す「ヤチ」に由来する、といった説もある。「オオヤチハラ>オオヤノハラ>オヤノハラ」ということだ。現在でも近くに湿原が残っておるとのことだし、その昔、ここを姫川が流れていたとすれは、この説も捨てがたい。はてさて。ともあれ、歩を進める。[松沢口;12時39分、標高800m]

百体観音
松沢口からゲレンデの中の一本道をしばし進む。右側に小高い山が迫るあたり、道脇に石像が並ぶ。百体観音と呼ばれている。江戸の頃、高遠の石工によってつくられた。もともとは、街道の各所に置かれていたようだが、明治期の道路改修のとき、この地に集められた、とか。現在でも80体近くの観音様の石像が残る。
百体観音というのは、百観音巡礼のための観音さま。百観音巡りの思想は平安時代には既があったようだが、百観音とは通常、西国33箇所、坂東33箇所、秩父34箇所の、合わせて百の観音霊場巡礼を指す。百観音霊場巡りの記録は1525年に登場するから、そのころまでには百観音霊場信仰はそれなりに普及していたのではあろう。
平安貴族の西国、鎌倉武家の坂東、江戸庶民の秩父と配列の妙もある。とはいうものの、庶民がおいそれと全国を巡礼するわけにもいかないわけで、その代わりにつくられたのが「うつし百観音巡礼」。庶民が「余裕」をもってきた江戸期のことだろう。この地の百体観音も東国各地に残るそのひとつ。道すがら、ちょっと手軽にその功徳を、といったところだろう、か。

その観音さまを彫った石工のこと。高遠の石工って、散歩の折々に登場する。先日、五日市・秋川筋を歩いていたとき、伊奈の町で出会った。伊奈は石工で名高い。江戸城築城のとき、石垣を組んだのは伊奈の石工と言われる。高遠の出であった、という。

で、何故に高遠が石工で名高いか気になった。調べてみると、高遠の地にはこれといった産業がなかった。ために、大量に産出される石材を使い石工、石屋が盛んになった、と。物事の発達には、それなりの理由がある、ということ、か。そう言えば、宮本常一さんの『塩の道』の中に木地つくりで名高い近江の永源寺町の記事があった。そこは、木地つくりに欠かせないいい鑿がつくれるところであり、その鏨をつくるためのいい鉄の産地であった、と言う。物事には、それを生み出すそれ相応の「理由」がある、ということ、だ。

前山
右手に続く小高い「山地」に沿って歩を進める。百体観音って、前山の百体観音と呼ばれる。ということは、この小山は前山であろう、か。地形図をみると標高873mある。山地は段丘面の端を南北に連なる。先端が盛り上がった地形は段丘面としては少々異な印象がある。ひょっとすると、これって、往古の「土砂崩れ」の名残り?山の中腹斜面が窪み、その下方に地すべりで盛り上がった地形というのが小谷の風情、とか(『北アルプス 小谷ものがたり』)。小谷は地すべり頻発の地で名高い(?)。その要因はこの地を南北に貫く大地溝帯、フォッサマグナの地質と地形に大いに関係があるよう、だ。
フォッサマグナとは日本を東西に分断する大地溝帯。実のところ、このメモを書くまで、フォッサマグナって、姫川の谷筋=線のこと、と思っていた。この谷筋が日本の地形が東西に分断するラインであると思っていた。が、実際のフォッサマグナは大地溝帯と呼ばれるように幅100キロの「面」。西端は北アルプスの山の連なり。「糸魚川・静岡構造線」と呼ばれる。東端は上信越・関東山地の連なり。こちらは西端のように鮮明ではなく、「直江津・柏」のラインなど諸説あるようだ。

フォッサマグナ東端の詮議はともあれ、西端はこの小谷のあたり。2億年のその昔、北アルプス・中央アルプスを境として、その東の大地が幅100キロにわたって陥没し海となる。北アルプスの山並みを考慮すれば、深さは数千メートルになるだろう。陥没し海底に沈んだ「溝」には北アルプスや中央アルプスの山並みから大量の土砂が流れ込み海底に厚い地層をつくった。その後、2000万年ほど前、海底が松本・諏訪方面から隆起をはじめた。この小谷のあたりも1000万年前ころ隆起をはじめ山地となった。これが姫川の東に連なる山々・小谷山地である。小谷山地に限らず、北アルプス・南アルプスと上信越・関東山地の間にある山々は、陥没した地形・フォッサマグナの上に盛り上がった山地ということ、だ。

で、この小谷山地であるが、その地質は砂岩とか泥岩からなる。海底に蓄積された土砂からできたものであり、年代も1000万年と比較的(?!)新しい。当然のことながら、地質はもろく、浸食されやすい。しかも小谷山地の地形が造山活動の圧力で曲がりくねり、急傾斜となった。小谷が地滑りの要因がフォッサマグナにその要因がる、というのはこう言うことである。物事には、それ相応の理由がある、ということ、か。実際、姫川筋では昭和36年から48年の間に20回もの大規模地滑りが記録されている。
フォッサマグナへと少々寄り道が長くなった。長くなったついでに、姫川西岸の土砂崩れについて。実際、土砂崩れは西側でも起きている。代表的なものは明治に大災害をもたらした稗田山の崩壊。大量の土砂によって姫川筋の川床が65mも盛り上がり、大きな湖ができた、と言う。北アルプスの山々は2億年の年月を経た硬い結晶片岩といった硬い土質が中心だが、白馬山の北あたりは少々地質の軟弱。しかも火山帯の断層面が走るため、土砂崩れを起こしやすい、とのことである。現在でも土砂崩れのたびに道路が寸断され交通が遮断される。昔はもっと頻繁に災害にみまわれたのであろう。千国街道も姫川筋を避け、比較的安定している尾根道、峠越えのルートがいくつもある。そのことが少々のリアリティをもって感じられてきた。塩の道散歩へと先を急ぐ。

沓掛
左手に北アルプスを眺めながら、前山(?)の山裾を1.キロ強進むと舗装された道路にあたる。沓掛の集落である。と、ほどなく道脇に牛方宿。塩や魚類を背に、街道を往来した牛とその手綱をひいた牛方のお宿。藁ぶき屋根のこの建物は19世紀初頭のもの、と言う。
牛は明治になって、姫川筋に馬車道が通るまで、千国街道における「大量輸送」の主役であった。6頭から7頭をひとつのユニットとして、背に塩俵2表をのせた牛が街道を往来した。塩の道も、松本から南の街道では輸送の主役は馬である。千国街道が馬ではなく牛が使われた理由は、その地形から。難路、険路の続くこの千国街道では「柔」で「繊細」な馬では役に立たなかったのだろう。しかも、馬に比べて牛はメンテナンスがずっと簡単、と言う。馬のように飼葉が必要というわけでもなく、路端の「道草」で十分であった、とか。
それでは、どのくらいの牛がこの街道を往来したのか。詳しい資料はわからないが、糸魚川の3つの問屋に、1日300頭の牛が集まったという記録がある(『塩の道 千国街道物語』)。トラック300台の物流スケールと考えれば、結構な規模感、かも。[沓掛;13時3分、標高772m]

親坂

牛方宿を離れ車道を少し進む。道が大きくカーブするあたりに千国街道の道標。脇に庚申塚。道はここから車道を離れ、坂を下る。親坂と言う。名前の由来は、千国越えのスタート地点であった親の原に続く坂、とのこと。そういえば牛方宿のあった沓掛って地名も、親の里と同様に、この親坂と大いに関係ありそう。沓とは牛や馬にはかせる「わらじ」といったもの。坂道にさしかかる手前で沓を履き替え、履き替えた沓を道中の安全を祈って木などに掛けた。難路・親坂の手前で、沓を掛けたところだから沓掛とよばれたわけだ。
坂を下る。石ころ道で少々足元に注意が必要。坂道の途中に「弘法の清水」、「錦石」、「牛つなぎ石」といった案内が。弘法大師が錫杖を地面に立てたところ、あら不思議、水が湧き出た、という弘法の清水って全国に数百ある。四国八十八箇所の札所だけでも8箇所ある、と言う。この清水、上段が人用で下段が牛用。佇む弘法大師像は安永3年というから、1774年の作。親坂のことを清水坂と呼ぶこともあるようだが、それって、この弘法の清水からきているのだろう。
錦岩は、天候によって石の色が変化するとか、しない、とか。牛つなぎ石は、牛の手綱を通す穴のあいた岩。散歩をしていると、牛ばかりではなく馬をつなぐ石にも折に触れて出会う。駒繋ぎ石と呼ばれている。[親坂;標高761m]








(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


親沢
急な坂を下っていくと沢に出る。親沢と呼ばれる。沢にかかる橋の手前に石仏群。馬頭観音が佇む。牛馬へのご加護を祈ったのであろう。親沢は乗鞍岳東麓を源流とし千国で姫川に合流する。この沢には何箇所か滝がある、と言う。滝って、川や沢による谷筋の開析が、もうこれ以上進めない、というところ。滝の上流の地質が硬く削れないのだろうか。はたまた、下流の開析のスピードに上流部分がついていけず、一時的に段差ができているだけなのだろう、か。下流の姫川って、名にしおう暴れ川。1000分の13の勾配で流れる川である。とすれば、後者の可能性が強いように思うが、はてさて。
ともあれ、こういった段差って、地すべりのもと、である。事実、昭和14年にこの親沢で大規模な地すべりが起きた。とはいうものの、このときの地滑りは姫川対岸の風張山が崩れ、その土砂が親沢地区にまで押し寄せた、とのことである。[親沢;標高658m]

千国番所跡
沢を渡り県道千国北城街道に出る。舗装された道を下ると千国の集落。集落の中ほどに千国庄資料館。いくばくかのお代を払い中に。千国番所跡や塩倉があった。昔ながらの民家の風情を残す資料館の炉端に座り、千国街道のビデオを見ながら、しばし休憩。
この地の歴史は古い。はじめて開かれたのは平安の頃。平将門を征伐した藤原秀郷、と言うか、むかで退治で名高い田原(俵)藤太の子孫と称する田原千国がこの地を開拓した、と。鎌倉期には白川上皇の長女の御所である六条院の荘園・千国庄となる。地方豪族の税金逃れとして荘園を寄進したのだろう、か。実際、大町に覇を唱えた仁科氏は伊勢神宮に領地を寄進し、「仁科御厨」として税金対策を実施している。で、六条院が亡くなった後は、その菩提寺となった万寿院領に組み入れられる。その時の実際的支配者は仁科氏の支族、というから千国庄が地方豪族の税金対策って空想も案外当たっている、かも。で、千国は領地支配の役所である政所としてこの地方の中心地となった。

戦国時代には武田方により口止番所が設けられる。信濃領最北の要衝の地として、千国街道の往来に睨みをきかせることになる。江戸時代は松本藩の番所として、一日千荷駄と言うから、俵にして2000俵が行き交う。が、明治になり、姫川筋に馬車道が作られて以降は経済・流通の幹線から外れ、静かな山村として今に至る。

千国街道が、この重要拠点であった千国の地名に由来することは、言うまでも、ない。この「ちくにみち」が歴史上に登場したのは平安期。六条院領となり、領主の住まいする京の都との往来に使われたのだろう、か。実際、大町の豪族仁科氏、京に対する憧れも強く、大町を京風に仕上げたようなのだが、それはともあれ、京との往来は越の国、つまりは新潟とか北陸経由であった、と言う。千国街道を往来したことだろう。鎌倉期になると、信濃や越後は鎌倉幕府の領地となる。当然のこととして、越後と鎌倉との往来が盛んになる。政治・経済、そして軍事上の道として、千国街道はその「存在感」を強めたこと、だろう。

千国街道が「塩の道」として歴史に登場するのは永禄年間というから16世紀の中頃。全国に幾多の塩の道があるなか、この千国街道が「代表的」となったのは、上杉謙信の義塩のエピソード。今川氏との対立のため太平洋側からの塩(南塩)が止められた宿敵・武田信玄に対し、塩を送った、と。この美談、実際に「お助け塩」を送ったといった記録はないようだ。が、信濃への送塩を意図的に止めることもなかった、よう。とはいうものの、後世信州の松本藩が南塩の搬入を禁じ、北塩のみを受け入れた時期が長かったことを考えると、信濃の人が越後に恩義を感じる、何かがあったの、かも。ちなみに、「塩の道」という言葉が定着したのはそれほど昔のことではない。20~30年程度前のこと。地元の有志が千国街道の整備をはじめ、観光資源としてPRし始めた頃のこと、と言われている。[千国番所跡;13時34分、標高620m]

千国諏訪神社

千国番所跡を離れ、先に進む。千国の集落を少し進むと道はL字に曲がる。趣のある民家を眺めながら道なりに進むと小谷小学校。道の下に国道148号線が接近する。千国越えは、小学校を越えたあたり、街道案内の道標を目印に脇道に入る。少し進むと千国諏訪神社。
千国諏訪神社の祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)。信濃国を開いたという神である。父は出雲の大国主命(おおくにぬしのみこと)。出雲の神であった建御名方命が国譲りを潔しとせず、出雲を追われて科野(信濃)に逃れるが、その際の経路として、越(高志)の国・新潟から、姫川を上った、と。母は姫川の由来ともなった奴奈川姫(沼河比売)である、ということでもあるので、建御名方命の姫川遡上説は、神話ではあるが、ストーリーとしては違和感が、ない。実際、姫川筋には20もの諏訪神社がある、と言う。[千国諏訪神社;14時10分、標高588m]

源長寺
諏訪神社を離れ、細路を進む。ほどなく源長寺。おおきな道祖神、庚申塔わきの石段を上る。六地蔵、筆塚、子持ち地蔵、西国33観音像などが境内に。元亀元年というから室町末期、16世紀後半の開基。開基の洞光和尚は小蓮華(2766m)に大日如来をまつったことで知られる。小蓮華山は新潟県で最高峰の山。大日如来故に、大日岳とも呼ばれる。数ヶ月前、新田次郎さんの『槍ヶ岳開山;文春文庫』を読み終えた。3180mの鋭峰を開く幡隆上人の物語。上人たちは、天に聳える高峰に清浄静寂な極楽浄土を見るのであろう、か。ちなみに、幡隆上人は飛騨の霊峰笠ケ岳(2898m)も開いている、
それはともかく、この源長寺は赤蓑騒動で知られる。凶作に苦しむ姫川筋の農民が蜂起。一時は千国番所を打ち破り南に下る勢いであったが、この寺の和尚が宥め、暴徒化することを鎮静化させた、とか。今は、なんということのない静かなお寺さまではあるが、往時、この小谷の地の中心的なお寺さまであったのだろう。

黒川沢
源長寺の前の道を進む。山に向かっている。どうも、この道ではないよう。源長寺前に戻り、古道らしき道筋を探す。パートナーが崖下に道標を見つける。千国越えで唯一、道に迷ったところであった。崖下の細路を進む。小谷中学校の裏手といったところ。沢筋まで進む。道は沢筋を右手に眺めながら、少し上流に進み簡易な木橋で沢を渡る。この沢は黒川沢と言う。[黒川沢;14時34分、標高593m]

大別当
黒川沢を渡り、大別当へと向かう。沢を上ると田圃の畦道と言った道筋となる。眼前に姫川東岸の山々・小谷山地が開ける。心持ち丸みを帯びた山容である。柔らかい地質故に浸食されたものだろう。硬い地質でできている北アルプスの急峻なゴツゴツした山容と比較すると、2億万年の風雪に耐え枯れた風情の北アルプスと、たかだか(?)1000万年ほどの、軟な風情の小谷山地、と言ったこところ、か。
道を進むと大別当の集落に。大別当って、結構ありがたそうな名前。「別当」とは、お寺を仕切る事務長さんといったものだが、政所の長官と言った使い方もあるようだ。千国には六条院の政所があったわけで、それとなにか関係ある地名だろう、か。千国越え始点の親王原しかり、また、近くの中土地区には御所平という地名もある。今は静かな山里ではあるが、往時、やんごとなき方々がこの地を往来したのだろう
路傍に石仏、庚申塚、道祖神。大別当石仏群と呼ばれる。先に進むと杉林に入る。東斜面を、少しづつ下る。30分ほどで小土山(こづちやま)集落に出る。[大別当;14時42分、標高646m]

小土山
穏やかな山麓の集落といった風情の小土地のあたりも明治32年、そして昭和46年と大規模な地滑りに見舞われている。姫川西岸から崩れた土砂は姫川を堰き止めた。行き場を失った姫川の流れは、川に沿って通る国道に押し寄せ、道の両側に連なる家々に被害をもたらした、と(『北アルプス 小谷ものがたり』)。
集落の中ほどに石仏群。庚申塔などの石仏が佇む。千国越えの道すがら、結構、庚申塔を見かけた。庚申信仰の「記念」として60年に一度石塔をたてる、とか。庚申信仰って、あれこれ説があってややこしいが、60日に一度、庚申の日、体内にいる「「三尸説(さんしせつ)」という「なにもの」かが、寝ている間にその者の悪しきことを天帝にレポートする。そのレポートの結果寿命が縮むことになるので、寝ないで夜明け待つ、という。日待ち、月待ち信仰のひとつ、と言う。信仰もさることながら、娯楽のひとつであったのだろう。[小土山;14時52分、標高594m]

三夜坂
風景の開けた小土山を先に進むと杉林に。曲がりくねった坂を下る。この坂を三夜坂と言う。
道脇の少し小高い構えの中に二十三夜塔。二十三夜待ちは月待ち信仰のひとつ。三日月待ち,十三夜待ち,十六夜待ち,十七夜待ち,十九夜夜待ち,二十二夜待ち,二十三夜待ち,二十六夜待ちなどといった月待ち信仰の中で最もポピュラーなもの。満月の後の半月である二十三夜の月が「格好」よかったの、か。皆一緒に月を待つ。庚申待ちと同じく、ささやかな娯楽ではあったのだろう。二十三夜待ちは三夜待ちとも言う。三夜坂の名前の由来だろう。

南小谷
三夜坂を下り国道148号線に出る。南小谷に到着。特急停車の町と言うには、少々静か。山間の町である。小谷の名前の由来は諸説ある。「麻垂」はそのひとつ。麻を垂らす、の意。昭和のはじめ頃までは、小谷の地は麻の名産地であった、とか。
国道の沿って少し進み、おたり名産館や小谷郷土館をひやかし、姫川筋に。両岸の緑が美しい。対岸にある南小谷駅で糸魚川駅行きの電車を待ち、本日の宿泊地である姫川温泉に向かう。本日の散歩はおおよそ4時間、11キロ。


千国越えで気になったのは石仏の多いこと。道祖神とか庚申塚といったものは散歩の折々で目にするのだが、観音さまの石像が多いのが目に付いた。信州は観音信仰が盛んであったとよく言われる。六条院領など親王の領地であったことが京との往来を盛んにし、西国33観音信仰といった観音信仰をもたらしたのか。鎌倉期、信濃は鎌倉幕府の領地。観音信仰がひとかたならぬ将軍頼朝の影響、か。はたまた、その鎌倉幕府が庇護し全国区となった善光寺さんの影響か。よくはわからないが、はっきりしていることは「牛にひかれて善光寺詣り」の牛って観音様の化身。それであれば、幾多の観音様が道端に佇むのは大いに納得。さて、明日は大網峠越え、となる。[南小谷;15時23分、標高502m]

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