日曜日, 11月 07, 2010

尾瀬散歩そのⅠ;鳩待峠からアヤメ平に尾根を辿り、尾瀬ヶ原へと

秋の尾瀬を歩くことにした。ルートは鳩待峠から鳩待通りを横田代、アヤメ平に進み富士見小屋あたりから長沢林道を下り尾瀬ヶ原に。尾瀬ヶ原の竜宮十字路に進み、そこからは湿原を横切り下田代の山小屋に泊まる。翌日は尾瀬沼に上り、沼尻から沼の南岸を三平下まで進み、三平峠を越え大清水に下る、といったもの。片品村での前泊をも含め2泊3日のゆったりとした山行である。
きっかけは義兄のお誘い。いつだったか、いまは大学生となった子供達が誠に幼かった頃だから、結構前のことではあるが、家族で尾瀬に行ったことがある。そのときは福島県の檜枝岐から沼山峠を越え、大江湿原を楽しみながら尾瀬沼を三平下まで歩いた。夏が来れば思い出してはいた尾瀬ではあるが、その尾瀬には尾瀬沼と尾瀬ヶ原があるということも、その時までまったく知らなかった。当時のお散歩メモには、次回は尾瀬ヶ原へ、などと書いている。今回のルートは尾瀬ヶ原から尾瀬沼へと抜けるコース。しかも片品在住の山歩きのベテランがガイドについてくれる、と言う。頃は秋、紅葉も楽しめそう、ということで、一も二もなく諾、とした。



本日のルート:

初日;片品村

二日目;鳩待峠>横田代>中原山>アヤメ平>富士見小屋>長沢新道下り>土場>長沢新道下山>竜宮>沼尻川交差>燧小屋

三日目;燧小屋>イヨドマリ沢交差>ケンゴヤ沢>白砂田代>沼尻田代>小沼湿原>大清水平分岐>三平下>三平峠>車道停止点>冬路沢交差>長靖終焉の地>三平橋>一ノ瀬休憩所>大清水小屋

初日

沼田
義兄の車で関越自動車道を進む。沼田インター手前の片品川に架かる巨大なトラス橋からの景観はいつ見ても圧倒される。『定本 尾瀬 その美しき自然;白籏史朗(新日本出版社)』によれば、この大断崖は片品断層崖と呼ばれ、大断層・フォッサマグナの東端であるとする。大断層東端か否かは議論の別れるところではあるが、それはともかく、これほどまでに発達した河岸段丘はあまり見かけたことがない。比高差100m、九つの段丘面を有する、とか。片品川を中心に、利根川や赤城山麓の根利川、その西の薄根川、発地川などが合わさり、気の遠くなるような時間をかけてつくりあげたものだろう。
タレントのタモリさんは崖線とか河岸段丘といった地形が大好き、と聞く。『タモリのTokyo坂道美学入門(講談社)』といった著書もある。そのタモリさんが、大学生として上京したとき、最初に旅したところがこの沼田の河岸段丘であった、とか。いつだったか津久井湖の南、串川流域の発達した河岸段丘に魅せられ、その地を数回彷徨ったことがあるのだが、この沼田の大断崖へもそのうち彷徨う、べし。

花咲峠
沼田インターで高速を下り、国道120号線に。すぐ左に折れる県道64号・平川沼田線に入り、道脇の川場温泉、武尊温泉の看板を見やりながら川場村を進む。武尊温泉の手前に赤倉川が流れる。昨年、義兄とこの赤倉川に沿って赤倉峠に進み、花咲へと下ったことを思い出す。木賊を過ぎ、次第に高度を上げる峠道を進む。木賊は「とくさ」と読む。武田勝頼最後の地である甲州の天目山にもこの地名があったが、シダの一種のようである。曲がりくねった峠道を進むと、上りきったところに背嶺トンネルが現れる。ここが川場村と片品村を結ぶ花咲峠(背嶺峠)であり、トンネルを抜けると片品村に入る。この背嶺峠に限らず、四方を山に囲まれた片品村に入るには、どこからのアプローチも峠を越えることになる。沼田市から片品村に入るには現在では国道120号線の椎坂峠を越えるが、昔は栗生峠を越えていた。椎坂峠へ上る高平集落のあたりで国道120号と別れ、白沢川に沿って上ると栗生トンネルがあるが、そこが昔の栗生峠。昔の道はそこから大原集落に向かって下り国道120号線の道筋に出たようだ。現在は通行止めのようである。栃木県からのアプローチは奥日光・金精峠を越えて菅沼・丸沼へ。群馬の水上町からは坤六峠を越えて片品村戸倉へ、そして福島県からは沼山峠を越えて尾瀬沼に出る。誠に、片品はすべて山の中、である。

片品村
背嶺トンネルを抜け、栗生を越えて綱沢川の谷筋を花咲地区に。日帰り温泉施設「花咲の湯」で一風呂浴び、尾瀬山行のガイドをしていただくYさん宅に。今夜はYさん宅泊まり。炉端に座り、片品村史などを読む。
片品村の歴史は古い。縄文時代の中期の土器が村内から出土する。律令時代には利根郡笠科郷とある。古文書に「加佐之奈」として名前が残る。村の原型ができたのはこの頃だろう。笠科は、「笠ヶ岳のシナの木」との説がある。この笠科が片品の地名の由来である。
時代は下って南北朝の頃には利根一帯を支配した沼田氏が興る。その統治は200年続き、次いで関東管領上杉、小田原北条と支配は変わり真田氏のときに江戸時代を迎える。真田氏の治世は藩の財政難もあり村民には過酷なものとなったようだ。その悪政ゆえに幕府から領値没収され、その後、片品村は奥平氏、本多氏、土岐氏と支配者が変わる。支配が変われども、農民は依然として重税に苦しめられ、また、天明の大飢饉をはじめとする凶作にみまわれるなど、誠に苦しい時代を経て明治維新に至り、明治22年に現在の片品村が誕生した。

二日目
(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

戸倉
元はこどもの自然体験活動のため古民家を移築してつくったY氏邸でゆったりと夜を過ごし、翌朝尾瀬へのアプローチ地点・鳩待峠へ向かう。摺淵地区を進み、片品川を渡り国道120号線に合流。須賀川を越え、鎌田へと。このあたりが片品村の中心地。鎌田交差点で金精峠へと進む国道120号線と別れ、国道401号・奥利根ゆけむり街道を戸倉に。車は鳩待峠まで進めるのだが、今回のルートは尾瀬の西端である鳩待峠から入り、東端の三平峠から大清水へと抜ける。ために、段取り上、車はこの戸倉の駐車場に停め、戸倉から鳩待峠までは乗り合のマイクロバスを利用することに。
戸倉は片品村の最奥の地。倉=くら・くれ、とは「抉られたような崖地や渓谷」を表す。倉=岩ともされる。戸は戸口だろうから、戸倉とは、崖地・渓谷への入口、ということ。戸倉から先は尾瀬への峠越えとなり、その先は会津に抜ける。往古より戸倉は会津と上州を結ぶ交易路の上州口であった。会津口の檜枝岐に口留番所が置かれたように、戸倉にも関所が設けられ、人と物の流れを監視した。人は大工や屋根葺き職人、板割、越後からは出稼ぎも入ってきたようである。物は上州側からは油や塩、日用雑貨、会津側からは米、酒、蚕種、マユ、そして曲輪などが運ばれ、三平平下で中継された。交易の流れは会津側からのものが大半だったようで、そのためもあり戸倉には檜枝岐などに見られる曲り屋様式の民家が多かった、とか。「水の流れがさかさになれば 流れて行きたい檜枝岐 尾瀬の沼へは夏来てごらんヨー 鶴も涼みで舞いあそぶ」と、上州の民は歌う。上州の人にとって会津の檜枝岐は憧れの地であったのだろう。

交易路とはいうものの、主要街道でもなく、山間僻地間の交易地である静かな山村が、その歴史上はじめてであろうが、一転慌ただしくなったのは幕末の戊辰の役の時。会津口の檜枝岐に陣を張る幕府・会津軍と新政府軍との間での戦いの舞台となる。所謂、戸倉戦争と呼ばれる戦いである。
慶応4年(1868)、干支での戊辰の年の5月、檜枝岐に在陣の伝習隊など幕府軍400名が、戸倉在陣の新政府軍60名(片品村には全部で400名ほど)を急襲。新政府軍側に戦死1名・手負い10数名の被害を与える。幕府軍は無傷で檜枝岐に撤収。一時会津軍と交代し白河口に転戦するも、7月に再び檜枝岐に帰陣。その後9月に若松城に戻るまで戦闘は特になかったようである。藤沢周平さんの『雲奔る 小説 雲井竜雄」』で知られる雲井竜雄が、奥羽列藩同盟の意を受け新政府軍の前橋、小幡藩説得のため同士数名と片品村の片貝に潜入するも、事成らず逃亡したのはその間の8月の頃である。

鳩待峠;8時30分_1591m
乗り合いマイクロバスに乗り、鳩待峠へ向かう。戸倉川に沿って大清水へと向かう国道401号線と離れ、県道63号線を笠科川に沿って上る。県道63号線は水上片品線とも呼ばれる。群馬県のみなかみ町と片品村戸倉を結ぶ。上でメモしたように、笠科川は、笠ヶ岳のシナの木にその源を発する故をもって名付けられた。
よく整備された1.5車線の道を進む。スノーパーク尾瀬戸倉スキー場を越える辺りから、谷を狭める片科川に沿って、更に高度を上げ津奈木沢に架かる橋を越える。ここからは坤六峠を越えて水上に向かう県道63号線と別れ、県道260号・尾瀬ヶ原土出線を津奈木沢に沿って鳩待峠に。
鳩待の名前の由来は諸説ある。八幡太郎義家がこの峠を越えるとき鳩を放って吉兆を祈った、と。また、南に帰る鳥を捕らえるべく霞網を張って鳥のかかるのを待っていたから、との説もある。鳩待峠が1580mと他の峠に比べて標高が低く、ために鳩も通り道として鳩待峠を良し、とした。そのほか、炭焼きや木地採りに山に入った村人が、里に下りる目安としてキジバト、アオバトの鳴き声を心待ちにしていたから、といった説もある(『定本 尾瀬 その美しき自然;白籏史朗(新日本出版社)』より)。

鳩待通り
鳩待峠を出発。コースは横田代、アヤメ平を経て富士見峠手前の富士見小屋へと。20分程度の急な上りから始まる。ブナの林がオオシラビソの林へと変わる頃には平らな道が多くなる。尾瀬は標高1600mあたりまで落葉広葉樹のブナの林で覆われる。林床はチシマザサが生育し、このブナとチシマザサの組み合わせで森が造られる。針葉樹のオオシラビソは尾瀬では標高1600mから1800m位のところに林をつくる。
ところで、「落葉」って、どういうことなのだろう。ちょっと気になりチェックする;日照時間が短くなり気温が下がると、根の水分を吸い上げる力が弱くなる。広葉樹は文字の通り、葉が広く水分が蒸散しやすい。需要の割に供給が追いつかない。そのままにしておくと乾燥する冬には葉の裏から水分が奪われてしまうため木が枯れてしまう。そこで葉を落とすことで水分需給のバランスを計り生命を維持することになる。また、日照時間が短くなり気温が下がることにより葉の葉緑体での光合成の機能が一挙に低下する。これも葉を付けたままであれば栄養失調となり木が枯れる。落葉って、どうも、己の身を護るためのようだ。
常緑針葉樹は葉が尖り、蒸散する面積が少ないため毎年葉を落とさなくてもいい、とのこと。いい環境の地を広葉樹に取られ、厳しい環境の中で生きなければならなかった針葉樹は自己防衛機能がデフォルトで備わっているのだろう。ちなみに、常緑針葉樹といっても葉が散らない、というわけではなくそのサイクルが長い、ということらしい。

先に進むと木道が出てくる。木道に使われるのはカラマツが多いとのこと、尾瀬では尾瀬沼ほとりの三本カラマツが有名であるが、もとより国立公園内の樹木の伐採ができるとは思えない。他県や、ひょっとすれば片品あたりで植林したカラマツを使っているのではないだろう、か。戦後の復興期、戸倉の山林からは多くの木が切り出され、そこには寒冷地でも育つカラマツが植えられた、ようである。しかしながら、カラマツが生長した頃にはすでにそのニーズが消え失せた。当初炭鉱の杭とか電柱に使う予定であったようだが、そもそもその炭鉱がなくなったり、電柱には他の合板などが使われたりするようになったため、行き何処が無くなった、ということだろう。松ヤニがあるためパルプにも使えず、はてさて、ではあったが、木道用の材木としてここでは役立っている、とか。ちなみにカラマツは日本における針葉樹のうち唯一落葉する落葉針葉樹である。ために、落葉松とも書く。

横田代;10時27分_1856m
鳩待峠から2時間弱歩いただろうか、横田代の湿原に出た。なめらかな稜線に広がる湿原と点在する池塘(湿原の泥炭層にできる池沼)群、そして針葉樹林の組み合わせは如何にも、いい。振り返れば利根の水源の山々や至仏山を遠景も美しい。湿原とその中に敷かれた木道と尾瀬を取り巻く山々の姿もなかなか、いい。
横田代の「田代」は、湿原中に並ぶ池塘の姿が田圃の苗代のようでもあり名付けられた。また、雪代(雪汁の転。雪解けの水)による水位の上昇で泥田(これを田代とも呼ぶ)のようになるための命名とも言われる。湿原とは「土壌が低温、過湿などのために枯死体の分解が阻害され、泥炭が堆積された上に発達する草原(『岩波生物学辞典』)」。と定義される。そしてこの横田代のように、斜面に形成された湿原を傾斜湿原と言う。傾斜湿原に堆積する泥炭は傾斜に応じて厚みに変化はあるものの、総じて板状になる、と言う。なだらかな斜面が続くように見える傾斜湿原は、実際は段々畑のように階段状となっている、とか。それが「横」田代の由来だろうか。それとも、傾斜面に広がる「横」ベクトル故の由来だろうか。ちなみに、泥炭階段の縁にはチングルマが生育し、泥炭層の流失防止と貯水に一役かっている。横田代は山地湿原のため泥炭の堆積速度も遅く、すぐ下が岩盤。表土がかなり少なく、酸性度が尾瀬中で最も高いことから植物にとっては厳しい生育条件の場所である。

アヤメ平;11時21分_1956m
横田代を通り抜け、笹原と針葉樹林が混交するあたりを進む。ゆるやかな上りの木道を進み、中原山山頂(標高1968メートル)を経てアヤメ平に。360度の視界が広がる。湿原と点在する池塘群、その遠景に至仏山、平ヶ岳、景鶴山、そして燧ヶ岳、といった尾瀬の山々が美しい。片品村方面へはなだらかな山並みが一望のもとに見せる。
アヤメ平の湿原にはところどころで緑が薄く、表土が露出し、四角い木枠で囲まれた箇所がある。そこは荒れた湿原でありその回復作業の箇所である。昭和24年(1949)、NHKラジオで「♪夏が来れば思い出す はるかな尾瀬青い空♪」の『夏の思い出』が放送され、昭和30年代のハイキングブームも相まって、空前の尾瀬ブームが起きた。尾瀬の中でも人気ポイントであったアヤメ平は、当時木道も完備しておらず、また自然保護といった考え方も乏しかった時代風潮もあり湿原が踏み荒らされる。湿原を形成する泥炭層が剥き出しになり、1ヘクタールもの湿原が裸地となった、と言う。15センチも削られた泥炭層もある。1年に1mm弱しか泥炭化しないわけだから、およそ150年から200年分の泥炭層が踏み荒らされた、ということだ。ビニールシートの普及が湿地荒廃に拍車をかけたと、Yさん。
湿地回復作業は昭和41年頃から始められた。試行錯誤を重ねながらの回復作業は半世紀近くをかけ、現在ではおおよそ90%ほどが回復した、という。回復作業の手順は、まず、土留めの枠をつくる。その中にミタケスゲの種を蒔く。ミタケスゲはまず緑を取り戻し、キンコウカなどの植物が自然に移入し繁殖できるような環境をつくる役割をもつ。そして、蒔いたミタケスゲの種が風に飛ばされないように藁ゴモで覆い、藁ゴモは篠竹で固定する。これが一連の手順。未だ裸地に近いところは、あと一世紀近くかかるのだろう、か。ちなみにアヤメ平とは言いながら、アヤメは、ない。キンコウカをアヤメと見誤ったため、と人は言う

富士見小屋;11時52分_1863m>12時15分出発

富士見峠へ向かう。右手に皿伏山、白尾山、荷鞍山の遠景。その手前、お椀のように窪んだ眼下には田代原の紅葉。窪みから続く谷地は硫黄沢、冬路沢に沿って上る戸倉から富士見峠への道筋であろう。紅葉の中、透き通ったクリーム色の葉でアクセントをつけるのはコシアブラと、Yさん。名前の由来は、木から樹脂液をとり,漉して塗料に使ったことによる。天ぷらにしても評判がいい、と。
尾瀬ヶ原に下る長沢新道の分岐あたりの富士見田代の池塘を見やり、針葉樹林に囲まれた道を富士見小屋へと向かう。富士見小屋でお昼休憩。と、下から軽トラックが上がってきた。富士見下より田代原を上る林道が通っている。現在は許可車両しか上れないようだが、昭和30年代の頃はバスも入っていた。戸倉から鳩待峠の車道が開通したのが昭和38年、檜枝岐から沼山峠へのバス道の開通が昭和45年であり、昭和30年代の尾瀬ブームの時の車での入山といえば、この富士見峠へのルートしかなかった。アヤメ平が尾瀬で最も荒廃した理由はこのことだろう。

長沢新道;12時32分_1883m>下山;14時45分_1412m
富士見峠は富士見小屋の少し東。峠からは矢木沢を尾瀬ヶ原の見晴に下るルートや、白尾山、皿伏山、大清水平を経て尾瀬沼への道もある。今回のルートは長沢新道の沢道を尾瀬ヶ原に下るため、富士見峠とは逆方向、鳩待通りを少し戻り、尾瀬ヶ原へ下る長沢新道への分岐に向かう。
分岐近くの富士見田代を見やり林道を下る。道端に咲くツルリンドウやゴゼンタチバナをYさんに教えてもらいながら1キロほど下り、標高1800m弱の地点にある長沢新道土場で小休止。土場とは材木の置き場、とか。国立公園で樹木の伐採ができないとすれば、木道用木材を置いておくところだろうか。

沼尻川の拠水林;15時24分_1399m

土場を過ぎる頃から尾瀬ヶ原が眼下に見えてくる。紅葉したハウチカエデやミズナラの林の中を下り尾瀬ヶ原に。標高2000m弱から1400mあたりまで4キロほどを一気に下ったことになる。道の左手には尾瀬ヶ原の湿原が広がる。右手は樹木が茂り、地図を見ると樹林の中を沼尻川が走る。この林は沼尻川によってつくられた自然堤防上の拠水林(きょすいりん)。湿原の外より流れてくる川は多くの土砂を運び、川の両側に自然の堤防をつくり、そこに樹木が育つ。
尾瀬ヶ原はこの拠水林によっていくつかにわけられる。燧ヶ岳山麓の樹林を東限界とし、沼尻川と只見川に囲まれたところが「下田代」。尾瀬ヶ原の東の部分である。真ん中の部分、今いるあたり一帯は「中田中」と呼ばれる。沼尻川とその西にある上ノ大堀川とヨッピ川に囲まれた湿原部分。川上川・猫又川と上ノ大堀川に囲まれた尾瀬ヶ原の西部は「上田中」と呼ばれる。Google Mapの航空写真を見ると、なるほど湿原を区切る帯のような樹林帯が見える。

竜宮;15時2分_1405m
拠水林を離れ湿原の中に敷かれた木道を竜宮に向かう。尾瀬ヶ原のほとんど中心といったところ。木道の十字路には西に「山の鼻」、東に「見晴」、北に「東電小屋」、南は「富士見峠」を示す道標がある。周囲に池塘が点在する。
このあたりを竜宮と呼ぶ。湿原を流れる小川がいったん湿原に吸い込まれ50mくらいで再び湿原に現れる「伏流水」のことを指すようだ。湿原にはこのような伏流水の水脈がいくつも存在している。入り口と出口を結ぶ筒状のトンネルは人が通れるくらいの広さ、とか。入口と出口には淵があり、増水時には渦を巻いて水を吸い込む姿が竜の口に見えた。それが竜宮の名前の由来。
木道十字路に立ち尾瀬ヶ原を見渡す。東には東北以北最高峰の燧ヶ岳(2360m)、西には標高2228mの至仏山が泰然として座し、北には景鶴山が、南にはアヤメ平一帯の山稜が東西に連なる。周囲を山で囲まれた標高1400の地に、東西5キロ余り、南北2キロを超える湿原が広がる。尾瀬ヶ原にはいくつかの水流が蛇行し湿原を貫く。主なものは尾瀬沼から落ちる沼尻川。ヨッピ川と合流し只見川の源流となる。そのほか六兵衛堀、源五郎堀、上ノ大堀川、下ノ大堀など湿原を貫流する水路は、いずれも蛇行し相互に連絡し合いながら水を集め、すべて只見川に落ちる。河岸には拠水林や草原が発達し、この大湿原を区切り、景観に変化を与えている。
尾瀬ヶ原の湿原はミズゴケよりなる。『尾瀬ヶ原の自然史;阪口豊(中公新書)』によれば、それはそれなりの理由があるようだ。振り返ると、はるか、遙か数百万年彼方の大昔、このあたりは西に蛇紋岩の山体(至仏山)が隆起した平坦な高原の地であった。そこに火山活動がはじまる。最初に噴火したのは景鶴山。一帯に溶岩を流した。流れた溶岩は地殻変動によって割れ目ができ、その割れ目に沿って浸食が進み只見川ができる。次いで尾瀬の北や東、そして南のアヤメ平、皿伏山などが噴火し、現在の尾瀬の姿ができあがる。そして最後に燧ヶ岳の噴火。流れた溶岩によって只見川の流れが堰止められ尾瀬ヶ原には浅い湖ができた。また崩壊した燧ヶ岳の山塊は沼尻川の流れを止め、尾瀬沼をつくった。
半水没の尾瀬ヶ原は燧ヶ岳や周辺の山々から流れ出した泥流により扇状地地形をつくる。川は氾濫を繰り返し湖は次第に埋め立てられた。蛇行して流れる川は氾濫を繰り返し、一部が切り離されて三日月湖となる。また溢れた川水がもとの川床に戻れず取り残されて湿地(後背湿地)になる。こうして一帯に湿原の形成がはじまる。8000年前の頃、と言う。
湿地帯の水辺にヨシ、スゲ、ガマが茂る。寒さなどのため完全に水と酸素に分解されることなく、その遺体が水中に堆積し泥炭となる。泥炭が水面まで堆積すると、やや乾燥したところに生育するスギゴケ類、カヤツリ草の類、ときにはハンノキなどの樹木が勢を増す。これら植物の遺体が堆積し泥炭層が厚くなると、泥炭は次第に乾燥し養分が減少する。そして、その環境に耐えうる植物として松やカンバの樹木が育ち、森林が形成されることになる。
この森林も年月とともに泥炭層が厚くなると、下層からの養分吸収ができなくなる。水も下層から吸収できず雨水に頼ることになる。雨水は養分に乏しい。結果、養分の欠乏に耐えられ、雨水を体内に貯留する機能をもった植物だけが生育を許される。それがミズゴケである。ミズゴケの群落は森林中に広がり樹木を取り囲み枯らし、一面がミズゴケの湿原となる。これが現在の尾瀬ヶ原ミズゴケ湿原が形成されたプロセスである。物事にはすべてそれなりの理由がある、ということだ。
なお、尾瀬の湿原は高層湿原とも高位泥炭地とも呼ばれる。これは高原、高地にあるから、といったことではなく、泥炭地と地下水面の比較からくる。高層湿原・高位泥炭地はまわりの地下水面より泥炭地が高くなっている状態の湿原・泥炭地を言う。厚くなった泥炭層のため地下の養分を含んだ水の供給を閉ざされ、雨水だけで生育するミズゴケは高層湿原・高位泥炭の代名詞となっている。

見晴;16時34分_1417m
竜宮の十字路から本日の宿泊地である尾瀬ヶ原の東縁、見晴に向かう。沼尻川の自然堤防につくられた拠水林を抜け、木道を下田代を東へと進む。木道は昭和9年、朝鮮最後の王朝李王殿下の来山のときにはじめてつくられたようだ。当初は風倒木、枯損木を再活用していたようだが、国立公園ともなればそういうわけにもいかず、現在はカラマツをつかっているのは上でメモしたとおり。
左手には燧ヶ岳が見える。原の中程に六兵衛堀。沼尻川の本流であった、とも。河川争奪に結果本流を沼尻川に奪われた、と。燧ヶ岳山麓が尾瀬ヶ原に落ちたあたりの見晴には幾つかの山小屋がある。燧小屋に宿泊。いつだったか丹沢の山小屋に行ったとき、夜具もふくめすべてが「山小屋」であったので、準備万端、寝袋を用意していったのだが、寝具も清潔、お手洗いもウォッシュレット。環境保護のため石鹸は使えなかったがお風呂も入り、快適な尾瀬の宿となる。

参考図書;『尾瀬と鬼怒沼:武田久吉(平凡社)』『尾瀬に死す:平野長靖(新潮社)』『定本 尾瀬 その美しき自然;白籏史朗(新日本出版社)』『尾瀬―山小屋三代の記;後藤允(岩波新書)』『尾瀬ヶ原の自然史;阪口豊(中公新書)』









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