給水所の辺りには池があった、とも伝わる。また、玉川上水の新水路建設の際の記録に、その谷頭付近は「(新水路)引込口より下流約250間は湧水が多かった」ともある。そもそもが、地名が和泉と言う位であるから、源流点辺りには湧水が多くあっても、さほど不自然ではない。
和泉川と呼ばれたその小川は、南・北の二流に別れ窪地を下り、途中で、玉川上水からの分水も含め、幾つもの窪地からの細流を集めながら渋谷区本町あたりで二流が合わさり、南台・弥生町の台地が切れた辺りで神田川に注いでいた、とのことである。
この川筋跡、と言うか道筋は、自宅から新宿へ「気まぐれ」に、そして、成り行きで何度も辿った道筋でもある。如何にも川筋のような緩やかな蛇行で進む道筋や、偶然出合わす暗渠などを見て、用水路跡かな、などと思ってはいたのだが、和泉川とも、神田川笹塚支流などと呼ばれる、神田川水系のひとつの流れであるとは思っていなかった。
暗渠だけの、今は名のみの「川」跡ではあるが、今回は和泉川の本流でもある南流、次回は北流と、二度に分けて歩いてみようと思う。
本日のルート;和泉川南流源流点>源流点からすぐに民家の敷地に入る>431号に向かって北東に進む>東放学園東を北に進む道とクロス>和泉商店会の道筋に向かって南東に向かう>道筋を越え少し西に進み、道なりに北東に向かう>南北に通る沖縄タウン商店街を越え、都道431号角筈和泉線の一筋手前を環七・泉南交差点に>泉南通り交差点を越え、水道道路脇下の道を一筋南に入った道を進む>荻窪;荻窪に注ぐ北からの流れ、幡ヶ谷分水の流れを集め、水道道路を南に越える>水道道路脇を進む。弧を描いた上端部が境橋跡>先に進むと水路は富士見学園の敷地に入る>一時迂回。迂回路は和泉川北流>十号通り坂商店街を南に折れ、富士見学園敷地からの水路跡に合流。一の字橋跡>明治橋>中野通り>中幡庚申堂。牛窪からの流れ(東流と西流れ)もここで合流>大きな通りを中幡小学校前へと>途中、和泉川北流の神橋跡を確認>中幡小学校;幡ヶ谷からの小流が中幡小学校東端に合流>中幡小学校を越えると、すぐに左手に細路に入る>新道橋>氷川橋跡>柳橋>地蔵橋手前に地蔵窪からの流露が和泉川に合流>地蔵橋>小笠原窪に進む>児童センター前交差点>本村隧道>旗洗池>小笠原窪再上端>本村隧道手前で出羽様池からの流れと合流>小笠原窪と出羽様池の水流を集め和泉川に>再び地蔵橋に戻る>本町小学校裏に登下校用橋跡>新橋>本村橋>村木橋>弁天橋>二軒家橋>杢右衛門橋>山手通り_清水橋交差点>方南通りの東放学園裏手を弧状に迂回>大関橋>つみき橋>柳橋>羽衣橋>羽衣の湯;神田川の歌>長者第一号橋>長者第二号橋>神田川と合流
和泉川南流源流点
沖縄タウン
通りを越えた川筋は民家の軒先といった細路を北東へと向かい、和泉明店街、通称沖縄タウン、を南北に通る道筋とクロスし、その通りを越えると都道431号角筈和泉線の一筋南の細路を環七・泉南交差点へと向かう。異常に多いマンホールが印象に残る。
環七・泉南交差点環七・泉南交差点を渡る。玉川上水新水路が造られたときは、ここには十五号橋が架かっていた、とのこと。環七建設の構想は古く、とはいっても、昭和2年の頃に素案ができた、と言うから、環七も当時は現在のような幹線道路でもなく、田舎の小径といったものではあったのだろう。
環七は、戦前には一部着工するも、戦時下には中止となり、戦後も計画は遅々として進まなかったようである。Goo地図で見ると昭和22年の航空写真には、環七の道筋に代田橋あたりから青梅街道手前まで、世田谷通りから国道246号まで、など環七の道筋が断片的に見て取れる。
状況が動いたのは1964年(昭和39年)の東京オリンピック。駒沢競技場や戸田のボートレース会場、そして羽田空港を結ぶため計画が急速に動き始め、オリンピック開催までには大田区から新神谷橋(北区と足立区の境)まで開通した。Goo地図で見ると、オリンピックを翌年に控えた昭和38年の航空写真には荒川の神谷橋あたりまで道筋が開通している。
その後、計画は少し停滞し、最終的に葛飾区まで通じ、全面開通したのは1985(昭和60年)のことである。構想から全面開通まで60年近い年月がかかったことになる。ちなみに、環七、環八、および環六(山手通り)は知られるが、その他環状一号から五号も存在する。環状一号線は内堀通、二号は外掘通り、三号は外苑東通り、四号は外苑西通り、五号は明治通り、とのことである。
荻窪の流れ合流点跡環七・泉南交差点を越えた南流水路は、水道道路の南に出る。水道道路の南に沿って、道路と少し段差のある細路が東に続く。この道が南流の流路かとも思ったのだが、和泉川南流は環七を越えてすぐ、少し南に折れ、水道道路の二筋南の細路を進んでいた、ようである。
先に進み、比較的広い道とクロスするあたりで和泉川南流は北に折れ、水道道路の北側に移った、とのこと。 和泉川南流が流路を北に変えるこのあたりは荻窪と呼ばれる窪みであった、とのこと。北に流路を変える道筋を、そのまま東に進むと緩やかな上りとなっているし、また、南からも窪みに向かって如何にも水路跡らしき小径が下ってくる。これは、甲州街道に沿って東進してきた玉川上水が、荻窪の「窪地」を避けるべく、代田橋で流路を南に変え、環七を渡った辺りにある荻窪の最上端部から下る流れと、笹塚駅近く、稲荷橋あたりからの玉川上水幡ヶ谷分水が合わさり、この窪地へと流れる細流跡とのことである。
荻窪への流れの最上端は玉川上水が環七を渡ってすぐの公園脇。環七を渡って最初の、北に一直線に進む路地の入口辺りが、荻窪への流れの最上端と言われる。流路はおおよそ西の世田谷区、東の渋谷区の区境を下っている。京王線を越え、甲州街道の手前あたりは、世田谷区、渋谷区、そして杉並区の区境となっている。
ちなみに、地形図をみると、このあたりは、北は和泉川・神田川水系、西は北沢川・目黒川水系、東は宇田川・渋谷川水系といった3つの水系の分水界。玉川上水が代田橋あたりから先、南へ北へと蛇行するのは、言い換えれば、分水界の尾根道を外れないように進んでいる結果でもあろう。
より大きな地図で 和泉川(神田川笹塚支流) を表示
水道道路の北側に移る
大正時代、関東大震災など二度の地震で水道道路、当時の玉川上水新水路は二箇所決壊し大きな被害を出した、と言う。一箇所は現在中野通りが通る窪地に築いた築堤、そしてもう一箇所は、この荻窪の辺りのようである。
境橋
弧を描いた道筋は、再び水道道路脇に接近し、しばらく水道道路と平行して東に進み、北東へと流路を変えると、ほどなく富士見学園の敷地内へと進む。
一の字橋
通りを進み、富士見学園東側を南北に通る道筋に戻る。ここは笹塚十号坂商店街とある。十号とは、玉川上水の新水路が和泉の水衛所(水圧調整所・和泉給水所)から新宿の淀橋上水場まで造成されたとき、新宿から和泉にむかって一号から順番に架けられた橋の名前。一号と二号は淀橋上水場の敷地内であったが、三号橋は山手通りに架けられていた、と言う。
笹塚十号坂商店街を北に上り、途中、富士見学園から出てきた、と思える道筋・川筋跡をチェック。休憩所のようなコーナーとなっていた。道筋は商店街の通りを越えて民家の間を進むが、和泉川南流がこの笹塚十号坂商店街の道筋とクロスするところに、一の字橋が架かっていた、とのこと。橋の名残はなにも、ない。
明治橋跡
中幡庚申塔
牛窪からの流れが合流中幡庚申塔の辺りには牛窪と呼ばれた窪地からの流れが合流する。玉川上水が笹塚から大きく南に迂回し、中野通りが井の頭通りとクロスする手前で再び流路を変え、弧を描いて北に向かうのは、玉川上水が荻窪を迂回している、ということである。
荻窪の最上端 は、南へと大きく弧を描く玉川上水と中野通りがクロスする辺り。荻窪の最上端近く、中野通りの少し西からふたつの流れが和泉川南流へと注いでいた。ひとつの流れは中野通りの西を下り、あとの一流はすぐに中野通りの東へと向かい、通りにそって下り、二流は水道道路・笹塚出張所前交差点で合わさり、中幡庚申塔のあたりで和泉川南流に注いでいた、ようである。
和泉川北流・神橋中幡庚申塔から先は比較的大きな通りを進む。緩やかなS字のカーブが如何にも、往昔の川筋の風情を残す。先に進み、公園脇の道を、何の気なしに北に進み、ちょっと寄り道。東西に走る細路の脇に橋の支柱らしき、もの。神橋とあり、和泉川北流唯一の橋跡であった。
中幡ヶ谷小学校・幡ヶ谷からの細流跡
流路は最上端より北東に、川筋跡と思われる細路を駅に向かう。ほどなく川筋は商店街に呑み込まれ流路跡は消える。甲州街道を渡り、駅前商店街の雑居ビルの敷地をクランク状に進むようである。水路跡らしき道筋が現れるのは幡ヶ谷の駅に続く道筋。水路は北に進み、観音湯西端の細路を進み水道道路に当たる。
新道橋
地蔵窪からの流れの合流点跡水路跡を先に進む。幡ヶ谷保育園裏を進み、橋跡を示す鉄製の柵をいくつか見ながら進むと地蔵窪からの流れの合流点に。合流点脇には公文堂製印所と書かれた民家があった。
地蔵窪の源流点は幡ヶ谷駅を少し東に進んだ甲州街道脇にあるエネオスのガソリンスタンドの裏手あたり、とか。往昔、この地には1686年建立のお地蔵様が祀られていた。地蔵窪の名前の由来である。幡ヶ谷地蔵とも子育地蔵とも呼ばれるこのお地蔵様は、現在はガソリンスタンドのすぐ西、陸橋脇のビルの一角に移されている。まことに奇妙な形の祠ではある。
案内によれば、「地蔵信仰は古くから行われていますが、地蔵は苦痛の時に身代わりに現れるとか、冥界と現実界との境にあって死後救ってくれるとか、子供の安全を守ってくくれるとか、いろいろと考えられていました。この地蔵は子育て地蔵と呼ばれており、このあたりの低地は昔から地蔵窪といっています。この地蔵は江戸時代の貞亨3年(1686)年の造立で、もとはすぐ前にお堂がりましたが、甲州街道の道幅を拡げるとき、ここにあった大ケヤキのあとに移され、大勢の人々の浄財によって立派なお堂が作られました(渋谷区教委区委員会)」、と。
本町隧道を潜り、帝京短大の一筋東の細路が水路跡。先に進むと、帝京整形外科の東裏あたりで、北西からの細路が合流していたようだが、これは小笠原窪と出羽様池跡からの水路から分水された流路跡とのことである。小笠原窪と出羽様池跡は後でメモする。
細路を進み、児童センター前交差点からの比較的大きな通りに出るが、水路は三叉路の交差点の手前を突き切り、北に進み和泉川南流に合流していた、と。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)
小笠原窪・出羽様池跡からの流れの合流点地蔵窪からの流れとの合流点の一筋東、氷川神社から南に下る比較的大きな通りとクロスするところには橋跡の名残を残すコンクリートと鉄の柵がある。往昔、このあたりには氷川橋とか本町桜橋があった、と言う。場所から言えば氷川神社の参道とも言えなくも、ない。氷川橋の跡だろうか。
地蔵窪からの水路は甲州街道を越え、北に下る。水路跡を進むと高知新聞・高知放送社宅洗旗荘のビルがある(渋谷区本町1丁目9)。ビルの前に石碑とその案内。石碑には「洗旗池」、その記念碑の案内は「旗洗池」と語順逆転している。案内によると、「平安時代後期に東北地方を舞台にした後三年ノ役(1083~1087)の帰途、源 義家(みなもとのよしいえ、通称:八幡太郎)がこの池で源氏の旗である白旗を洗ったという。このことが幡ヶ谷というこの付近一帯の地名の起源となった。その白旗は金王八幡宮の宝物となり、今残されている旗がそれである。
源義家がはたして白旗を洗ったかどうかの証拠はありません。しかし関東地方特有の源氏伝説のひとつであり、幡ヶ谷というこの付近一帯の地名の起源となった有名な池だったのです(渋谷区教育委員会)」、とある。
金王八幡は渋谷駅からほど近い社。旗洗池で白旗を洗った義家は、その白旗を金王八幡に奉納して上洛した、とのことである。後三年の役は、それまで東北に覇を唱えていた清原氏が勢力を失い、平泉の藤原氏が台頭するきっかけとなった東北地方での騒乱である。
石碑の揮毫は東郷平八郎。日露戦争の雌雄を決する日本海海戦でロシアのパルチック艦隊を殲滅した海軍元帥。明治の頃、小笠原子爵邸を訪れた折に揮毫した、とのこと。
旗洗池を離れた水路は、北に進み、渋谷区本町1-39-1あたりで、東から流れ下ってきた出羽様池からの水路と合流し、流路を北西に変更し水道道路方面へと向かっていた。出羽様池とは新国立劇場の北、水道道路手前にあるテニスコートのあるあたりである。出雲松江藩松平出羽守の屋敷があったのが、出羽様池の名前の由来である。
流路を北西に変えた川筋は、ジョルティ初台とサンシャインコーポベル初台の間の細路を進み、本町図書館の二筋裏手を進み、水道道路にあたる。その後、水路は本村隧道を抜け、比較的大きな通りを児童センター前交差点へと向かう。道は緩やかなカーブを描き進む。如何にも水路跡といった趣きである。児童センター前交差点を越えた川筋は道なりに進み、和泉川南流の合流点へと向かっていたようだ。なお、既にメモしたように、水道道路を越えてすぐ、西へと向かう分水路があり、地蔵窪からの流れと合わさり和泉川南流へと合流する流れもあった、よう。
柳橋
本町小学校・地蔵橋柳橋を越え、川筋跡をしばらく進むと、大きな通りに出る。通りの前には本町小学校がある。ここは、和泉川南流の北をおおよそ平行に流れてきた和泉川北流が合流する地点。地蔵橋という橋跡が残るが、ここでふたつの流れが合流し、神田川へと向かっていた。
登下校用橋跡
新橋跡本町小学校を越えると、南北に走る通りに橋跡が残る。中央部の鉄パイプは外された石の柱が残る。1940年(昭和15年)に造られた新橋跡である。暗渠が南北より一段低くなっており、なんとなく川筋跡の趣が残る。南北に走る通りを北に進むと方南通りに通じる。
本村橋跡
村木橋東西に通る道を越え、斜めに切り上がり、最初にクロスする南北の通りに架かっていたのが村木橋。1955年{昭和30年}に造られた石造りの支柱が残る。支柱の間は鉄の柵。
弁天橋跡
二軒家橋跡先に進み、本町中学校の東側を南北に走る通りとクロスするところに架かって橋が二軒家橋。この橋も近年、あたらしくモニュメントとして作り直されていた。二軒家はこのあたりの字名である。
山手通り・清水橋跡
少し広くなった川筋跡を方南通りに沿って一筋南を進む。山手通り手前には杢右衛門橋があったようだが、山手通りの工事の影響か、コンクリートの段差らしきものしか見つからなかった。
和泉川南流が山手通りと交差することころに架かっていたのが清水橋。山手通りと方南通りの交差点にその名を残す。清水橋の由来は、清水橋交差点を少し北東に入ったところに二軒家公園があるが、そこにあった湧水池の清水による、とか。
大関橋跡
山手通りを越え、川筋は一度方南通りにあたる。このあたりに大関橋があった、とか。橋の痕跡は見あたらなかった。大関橋から先は、ほんの数メートル方南通り、否、正確には方南通りは清水橋で終わり、清水橋交差点から新宿十二社までは都道432号淀橋渋谷本町線と言う、500m弱の極めて短い道に衣替えしているのだが、ともあれ、都道432号に沿って進む。
その432号をほんの少し東に進み、東放学園手前で、学園の裏手に入り込み、南に弧を描くようにして進み、再び都道432に戻る。川筋跡は、自転車置き場となっていた。それにしても和泉川と東放学園は「縁」がある。源流点近くでも、東放学園脇を進み、終点近くでも再び東放学園脇を歩くことになった。
都道432号・都営大江戸線西新宿五丁目駅東放学園の東側を都道432号に出る。水路は通りを横切り、都営大江戸線西新宿五丁目駅中を抜け、通りを北に渡る。往昔、交和橋と呼ばれる橋があった、とか。清水橋交差点を含め都道432号の南は渋谷区、通りの中央から北は新宿区に変わる。
つみき橋
新宿区に入ると、川筋は道の中程に花壇が置かれるなど、遊歩道といった趣きとなる。北東に道を進み、これまた東放学園の東脇を北西に向かう通りとクロスするところに橋跡が残る。支柱の文字はかろうじて読めるといった状態。えのき橋、と読んだのだが、実際はつみき橋。1924年(大正13年)に架けられたこの橋は、石で造られた欄干の中央部がバッサリと切り離され、鉄の柵によってふさがれていた。
柳橋川筋跡を北東にしばらく進むと、北西に通る道と交差。そこに柳橋の跡が残る。1932年(昭和7年)に造られた橋跡は石橋の欄干の中央部分が切り開かれ通路となっている。
羽衣橋跡
長者第一号橋跡羽衣橋を少し北に進むと長者第一号橋跡。東西に通る道とクロスするところに石だったかコンクリートだったか定かではないが、橋跡が残る、1938年、と言うから昭和13年に造られたものである。
長者第二号橋跡
神田川と合流長者第二号橋跡のすぐ先で和泉川南流は神田川に注ぐことになる。合流点には大きな排水溝造られていた。雨水などの排水路として和泉川の暗渠は活用されているのだろう、か。
神田川水系と渋谷川水系の尾根道でもある甲州街道と南台・弥生町の台地の間の窪地の谷頭の湧水や、甲州街道に切り上がるいくつもの窪地の細水を集め、流れ下ってきた和泉川も、ここ南台・弥生町の台地の切れたところで神田川に注いでいた。
和泉川の本流でもあった、南流散歩はこの合流点でお終い。次回は和泉川北流を辿ってみようと思う。
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