いつだったか古本屋で手に入れた、『多摩の山と水 下;高橋源一郎(八潮書店)』の中に、高橋源一郎さんの日原と浦山の記事があった。浦山は大正4年、日原は大正15年の紀行文であるが、そこには着るもの食べるものといった習俗習慣すべてが平地と異なる僻地、いかにも「毛物」が住む、と言われる辺僻未開の地へと辿る記事があった。紀行文には「探検」といった言葉を使っている。「探検」の結果は、日原も浦山も秩父の他の村落とそれほど変わることのない、とのまとめではあったが、それにしても、大正の頃は、山間の僻地であったことにかわりはない。その「秘境」を結ぶ道をその昔、夥しい人々が往来した、と言う。
日原往還を歩く。とは言いながら、この「日原往還」って言葉が定着しているわけではない。なんとなく、古道っぽい雰囲気がするので、勝手に名づけただけである。で、この往還、その往来の流れは奥多摩から秩父へと、といったものが主流と勝手に思い込んでいた。奥多摩の秘境より、当時の大都市・秩父への流れが主流と思っていた。秩父観音巡礼、三峰参拝へと辿る道かとも思っていた。が、実際はどうもそれだけではない。秩父・北関東からこの奥多摩へと向かう大きなベクトルがあった。「信仰」の道があった。
日原は鍾乳洞で有名である。で、この鍾乳洞、一石山大権現とも称されるように、一帯のお山全体を大日如来の浄土とする中世以来の一大霊場。一石山参拝の人々で賑わった。また、日原は北関東から富士山を目指す富士講の通り道。仙元峠を越え日原を経て小河内を進み、富士へと向かった、と言う。秋のとある週末、その信仰の道・日原往還を歩くことにした。
本日のルート;奥多摩:8時28分>東日原 8時58分,標高630m>尾根道到着 標高973m、9時53分>滝入りの峰 標高1249m、10時25分>倉沢分岐標高1275m、10時40分>天目山分岐 標高1433m,11時15分>一杯水 標高1458m,11時34分>仙元峠着 標高136m,12時18分_出発;12時36分>大楢 標高1152m,13時4分>送電線鉄塔下 標高902m,13時46分>道に迷った地点標高893m,13時55分>引き返し点 標高896m,13時57分>原点復帰;13時59分>大日堂 標高452m,14時35分>日向バス停
標高434m,16時2分
奥多摩駅
S君と立川で待ち合わせ。午前7時6分発の奥多摩行きで一路奥多摩駅に向かう。8時28分奥多摩着。駅前から東日原行きのバスに乗る。東日原行きのハイカーも多く、バスは2台続けて走る。日原川を渡り、県道204号線・日原街道を北に進む。
日原川の東側に山肌に張り付く工場が見える。宇宙基地といった風情。S君の説明によると奥多摩工業の石灰工場とのこと。昔は下流の二俣尾あたりでも採掘していたようだが、現在は日原に採掘場がある、と。そこから4キロ弱の距離をこの地までワイヤで曳かれたトロッコで石灰を運んでいる。現在ではハイカーで賑わう奥多摩駅もつい最近、1989年頃まで石灰の積み出し駅であった、という(1999年貨物業務停止)。
奥多摩工業曳鉄線
日原川に沿ってバスは進む。大沢、小菅を過ぎ、川乗谷からの川筋が日原川に合流する手前、白妙橋を越えた道路の上にちょっとした「鉄橋」が見える、とS君の言。 先ほどの奥多摩工業の石灰運搬トロッコ、奥多摩工業曳鉄線の鉄橋が道を跨いでいる。曳鉄線はほとんど山中のトンネルを進むが、数箇所地表に出たところがあり、ここはそのひとつ。残念ながら、見落とした。
日原トンネル
川乗(苔)谷に架かる川乗橋バス停で、半分以上の人が降りる。川苔山を目指す人たちだろう。バスは進み倉沢谷の谷筋を越えると日原トンネル。昭和54年(1979年)完成。全長1107m。トンネルを覆う山塊は氷川鉱山の採掘とか。昔はここに「トボウ岩」という、幾百尺、幾千尺ともいわれる絶景の巨大岩があった、と前述の高橋源一郎氏は描く。トボウは「入り口」の意味。その昔、日原の集落への入口であったのだろう。が、現在は、その姿は大崩落やトンネル工事、鉱山採掘などにより、消え去った。それらしき姿、なし。
日原
トンネルを抜けると日原の集落。今をさる500年の昔、天正というから16世紀後半、戦乱の巷を逃れ原島氏の一族が武蔵国大里郡(埼玉県熊谷市原島村のあたり)よりこの地に移り住む。原島氏は武蔵七党、丹党の出。日原の由来は、新堀、新原といった、新しい開墾地といった説もあるが、原島氏の法号「丹原院」の音読みである「二ハラ」からとの説もある。
東日原バス停で下車。時刻は9時前。おおよそ30分弱でついた。道脇から日原川の谷筋を見下ろす。誠に深い。川の向こうに日原のシンボル「稲村岩」とS君。「イナブラ」とも呼ばれていた。稲を束ねてぶら下げた形と言えなくも、ない。石灰岩でできた砲弾型の奇峰。トボウ岩って、こういったものであったのだろう、か。で、日原鍾乳洞であるが、ここから20分ほど小川谷筋を歩くことになる。大日如来の浄土信仰の霊地に行ってみたいとは思えども、本日は先を急ぐ、ということで鍾乳洞行きは、なし。
バス停よりあたりを見渡す。四方は山、前面は深く刻まれた谷。トンネルにより山塊を穿ち道が通じるまでは山間の僻地ではあったのだろう。秘境とも呼ばれていた。とはいうものの、秘境っていつの頃から呼ばれたのだろう。この秘境って、いかにも大都市東京からの視点。また、発達した車社会からの始点。日原が浄土信仰の霊地として賑わっていた頃、東京など影も形もなく、一面の芦原であった、はず。車の通る道が無く、交通不便をもってそれが「秘境」と呼ばれても、歩くのが移動の基本であった時代、峠を越え、山道を歩くのが往来の基本であった時代、山間の僻地がそれほど他の地域と違っていたとも思えない。
その昔、車が往来の主流となる以前、日原は東西南北から多くの人の往来があった。日原は仙元峠を越えてくる北関東からの道者の往来があった。また、秩父・北関東だけでなく、瑞穂、青梅筋からの往来も多かった、よう。瑞穂、青梅に「日原道」の道標が残る。日原は江戸との交流も多かったようだ。
信仰の霊地・日原鍾乳洞は上野の東叡山寛永寺の支配下にあり、運営は輪王寺宮の下知に従っていた。と言う。江戸との交流が頻繁であっても不思議ではない。実際、日原の特産品であった白箸は江戸市民の必需品。正月三が日、その白箸を必ず使うといった仕来りになっていた、と。輪王寺宮の御用箸師が日原の木でつくった白箸を幕府柳営で使うようになったため、柳箸と名前を変え、次第に一般市民が使うようになった。ちなみに、柳営の語源は中国から。匈奴征伐の漢の将軍が軍営を置いたところが「細柳」であった、から。
ことほどさように、日原は江戸との結びつきが濃かったわけで、「秘境」なんで呼ばれる筋合いはさらさらない、といった堂々たる「山間の僻地」であったわけ、だ。はてさて、イントロが長くなってしまった。とっとと日原往還を辿ることに。
尾根道へ
バス停を離れ、登山道に。道成りに少し先に進むと道脇に道標。「一杯水を経て天目山 酉谷山登山口」の案内。案内に従い、民家前の細い坂道を上る。土手に沿って進む。いくつかの民家の脇を越えると舗装も切れる。20分程度歩くと道脇の林の中に貯水槽。山の水を集落へ送っているのだろう、か。標高は700mを越えている。日原が610mほどなので、100mほど上った。このあたりから、杉の植林帯に入っていく。
杉林の中の道は傾斜を増す。ジグザグの道を進む。結構きつい。道の前方にフェンス。石灰採掘場だろう。フェンスに沿って進む。フェンスから離れ、植生も自然林となるあたりでやっと尾根道に。標高973m。時刻は9時53分。1キロ弱の距離を400m弱上ったことになる。GPSのデータをチェックすると斜度40度といったものが数箇所あった。このデータがどこまで正確かは別にして、実感でも少々きつい上りであった。
ヨコスズ尾根
尾根道を進む。道はトラバース気味に巻き道を通っている。「昔道は、尾根のピークを通る道ですよ」とS君。昔の人たちの気持ち追体験の散歩ではあるけれど、そこまでの厳密性を求めるわけもなく、迷うことなく巻き道を選ぶ。
ところどころに痩せ尾根。倉沢谷と小川谷に削られ細くなっている。この尾根道をヨコスズ尾根と呼ぶ。スズ=鈴、ということで、なんと妙なる名前かと思ったのだが、この尾根筋に横篶山(よこすず)というピークがあるようで、とすれば、スズ=篶>篠竹、と言うこと。鈴ならぬ竹の茂る道と、少々無粋な名前と相成った。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
倉沢への分岐
滝入ノ峰を巻いて進む。時刻は10時25分。標高1249m。1時間以上歩いたことになる。このあたりまで来ると傾斜もほとんどなく、ゆったりとした尾根道を楽しめることになる。
10時40分、倉沢への分岐 。標高1275m。ここを下ると倉沢谷に下る。この谷筋にも大きな鍾乳洞があるようで、その鍾乳洞も日原鍾乳洞と同様に信仰の霊地。倉沢山大権現と呼ばれ、東叡山寛永寺の支配下にあった。
倉沢の倉は、岩を意味すると言う。また、くら=えぐられたような崖地や渓谷、といった説もある。どちらにしても、岩場ではあるのだろう。
両替場のブナ
分岐点を少し進んだあたり、尾根道に堂々としたブナが聳える。姿が如何にも美しい。両替場のブナと呼ばれたブナがこれだろう。往古、日原の鍾乳洞の一石大権現、倉沢鍾乳洞の倉沢山大権現への信仰篤き頃、秩父や北関東からの参詣者への両替の便宜をはかったところ。大権現たる鍾乳洞では、先達の松明に導かれ、参詣者は唱名念仏をとなえお賽銭の小銭を撒きながら洞内を進んだ、と。ここはその小銭の両替場。旅に小銭は荷物となるので、金銀の粒をこの場で両替していたわけだ。
一杯水
両替場のブナを過ぎ、倉沢谷とカロー谷に削られた痩せ尾根などを歩き、11時15分、天目山との分岐点、一枚水避難小屋に到着。標高1275m。結構立派な山小屋。山が好きな人は、こういった小屋に寝泊りして山を歩くのだろう。
カロー谷は、賀廊谷と書く。かろう>唐櫃からの当て字という。お櫃のように聳え、切り立った谷があるのだろう。カロー大滝といった滝もあるようだ。先ほど滝入リ峰脇を通ったが、この滝って、こういった大滝と関連した地名のように思のだが、真偽の程不明。
小屋の前のベンチで小休止し、先を急ぐ。11時34分、一杯水に。沢からの水をホースで集めている。ほんの少ししか水は出ていない。足らなければ沢を少し下りなさい、とのこと。
一杯水と言えば、下関・壇ノ浦の「平家の一杯水」が知られる。また、熱海の石橋山での挙兵に一敗地にまみれた頼朝ゆかりの「頼朝の一杯水」もある。地を離れての源平の「一杯水」。奇しき因縁なのか、どちらかが真似たのか、はてさて。
長沢脊稜
一 杯水を離れ先に進む。日原から一杯避難小屋にかけて南北に走るヨコスズ尾根このあたりで終わり、ここからは東西に走る別の尾根道となる。長沢脊稜と呼ぶ。 最初、長沢背稜、かと思っていた。「脊」ではなく「背」かと思っていた。たまたま、「背」稜って、どういう意味だろうとチェックして、どうも背中ではなく脊髄である、ということが分かった。長沢山って、この稜線上、西のほうにある。名前はそこから来ているのだろう。尾根道を進み12時18分、標高1436mの仙元峠に到着した。ここで大休止。
仙元峠
峠って、通常は稜線の鞍部にある。が、この仙元峠は稜線のピークにある。この峠は富士浅間詣の御旅所。足腰に自信のない人は、ここから富士浅間さまを遥拝し、引き返す。元気な人は、ここから両替場、大茶屋、道者道を進み日原の御師である原島右京、淡路の家に泊まり一石山の御岩屋(日原鍾乳洞)に参詣、山越に小河内を経て富士参りをした、と言う(『奥多摩風土記;大舘勇吉(有峰書店新社)』)。峠の由縁表示板には、「仙元」=「水の源」とあったのだけれども、仙元は「浅間」からきているのではないか、と思う。
峠に佇む祠も浅間神社。この祠が浦山の人たちによって建てられたのは大正の頃、と言う。浦山の人たちが建てたわりには、祠は奥多摩に面している。それは、大正のころには浦山から仙元峠へのルートは、細久保谷から一杯水に上り稜線を仙元峠に至る道が開かれていた、ため。林道でも通ったのだろう。ために、上った正面は奥多摩向きとなった、とか。休憩20分弱。12時38分、
大楢
浦山に向かって峠を下りはじめる。誠に険しい急坂。尾根を下りているには違いないのだろうが、はっきりとした尾根道といった雰囲気とは違う。崖を下っている雰囲気。ちょっと一息といったポイント・大楢まで水平距離で1キロ弱。到着時刻は13時4分。標高は1152mであるので、300mほどを30分程度で一気に下る。大楢って何か由来でもと思ったのだが、大楢=ミズナラのこと、だろう。
大楢の道標のところに、明治神宮からの森のマナーのお達し。このあたりは明治神宮の御料地なのだろう。「明治神宮+秩父+森林」で想い起こすのは本多静六博士。林業・造園の専門家。日比谷公園など多くの公園をつくったが、その中に明治神宮がある。現在は鬱蒼とした森となっている明治神宮の森であるが、元々は単なる荒地。そこに植樹を行い、人工の森をつくり、年月を経て自然の森のようになった。で、その造園計画の中心人物の一人が本多博士。
この造園の専門家は貯蓄の才能も豊か。巨万の富を築き、この秩父にも広大な森林を所有した。場所は浦山から秩父湖のほうに入った大滝村のあたり。その森は退官の折にすべて寄付したとのこと。この明治神宮の御料地もひょっとして、などと、ちょっと夢想。
送電線鉄塔下
少し緩やかになった坂を下り、13時46分、東京電力の鉄塔下(新秩父線56号鉄塔)につく。標高902m。40分かけ250mほど下ったことになる。直線距離は2キロ弱なので、傾斜はそれほどでもない。
送電線下で少し休憩。西の長沢脊稜や、東の武甲山から有馬山に続く山稜が見渡せる。その山稜の向こうが名栗の谷であろう。高尾からいくつかの峠を越え、名栗の谷を経て妻坂峠から秩父に入った、鎌倉街道山ノ道散歩が懐かしい。ちなみに、新秩父線とは新秩父開閉所(埼玉県小鹿野)~新多摩変電所(八王子市上川町)間の49Kmを結ぶ500KV送電線である。
道に迷う
小休止の後、浦山に向かう。鉄塔下から直進。次第に道が消えてゆく。木立に行く手を阻まれる。それでも少し進むが、どう見てもオンコースとは思えない、とS君。元に引き返すことに。「新秩父線57号に至る」と書かれた東京電力の黄色の道標のあたりまで戻る。かろうじて直進をダメだしする小ぶりの丸太が道に置かれていた。見落としていた。とは言うものの、これではほとんどの人は気づかないだろう、と思う。いくつかのホームページにも、この地で道に迷ったことが書かれていた。
黄色の道標を左に折れる。整地された道が続く。一安心。今回は二人なので心強かったのだけれど、迷い道で一人だったら、と釜伏峠・日本水で道に迷いパニックになったときを思い出した。山はやはり怖い。
急坂
鉄塔と高圧線につかず離れず尾根を下る。57、58、59、60と続く。60号を離れたあたりから坂は急勾配となる。ジグザグ道をどんどん下る。直線距離2キロ弱を30分で450mほど下ることになる。GPSのデータで斜度40度といったレコードも残っていた。14時35分、浦山大日堂前に下りてきた。標高452m。仙元峠から一気に1000m近くも下ったことになる。逆コースでなくてよかった。
浦山大日堂
お堂の前にリュックを下ろし、しばし休憩。お堂は新しい。近年改築されたのだろう。堂脇に寄付者の一覧がある。浅見さんという名前が多かったのが記憶に残った。浅見さん、って名前は秩父の古くからある名前と聞いたことがある。現在でも秩父市で最も多い名前と言う。
それはともあれ、このお堂、歴史は古い。江戸の頃、名栗の谷から鳥首峠を越えてこのお堂に参詣来る人も多かった、と。昭和50年に地元の人により立てられた大日堂記念碑には「此の地に大日如来尊が勧請されたのは今を去ること四百五十余年前の秋、麻衣藤杖翁形の丹生明神の仙元越えに依ると伝わる」とある、と。 丹生明神、って日原の中心にある神社。日原を拓いた原島氏の祖先である武蔵七党の丹党の祖神である。日原から仙元峠を越えてこの地に勧請されたもの、のよう。峠を越えて日原の大日如来の浄土まで行くことのできない人のため、便宜をはかったのだろう、か。この地に伝わる伝統の獅子舞も日原から伝わったもの、と言うし、往古、日原って結構な存在感のある大日如来の霊地であったことを改めて実感。
日向バス停
休憩終了。大日堂の浦山川を隔てたところにバス停が見える。事前のチェックによればバスは14時25分に浦山を出る、と。大日堂に下りたときには30分過ぎ。次は5時頃までない。どうにもならない、とは思いながら、大日堂を離れ、バス道に出て、気休めに時刻表をチェックする。なんと、浦山発は14時、それと16時頃にもあった。チェックした時刻表って一体、とは思いながらも少し嬉しい。それにしても1時間以上時間もある。近くにお休み処があるわけでもない。ということで、浦山ダム方面に向かい、行けるとこまで歩くことに。
『新編武蔵風土記稿』によれば、「浦山村は郡の南にして多摩郡に続き武光山(ママ)を後ろにして深く山谷に囲まれ、遠く四隣を隔てし一方口の僻地にて一区の別境ない」とある。道路の状況は「路経を云わば、或いは高く或いは低く、又は険しく、足の止まらぬ所あり。又は狭く荊棘の左右より生ひ塞がる所あり。木を横へ桟道もあり。独木を架せる橋もあり」とある(『多摩の山と水 下;高橋源一郎(八潮書店)』)。もとより浦山ダム工事の完成した現在、かくの如き趣き、あるわけもなし。静かで落ち着いた、どこにでもある山村であり山間の道である。
5キロほど歩き、浦山ダムの畔にある日向バス停でバス到着時間。谷間に響き渡る「証城寺(しょうじょうじ)の狸囃子(たぬきばやし)」. だったか、なんだったか忘れてしまったが、ともあれ数キロ先からその接近が分かる童謡を鳴らしながら
接近するコミュニティバスに乗り、西武秩父に行き、本日のお散歩を終える。童謡はダムを離れ交通頻繁な国道140号に合流いたときに、即、音が消えたことは言うまでもない。
峠を越えての秩父入りはこれで五つ目。寄居からの釜伏峠越え、小川からの粥仁田峠越え、吾野・高麗川筋の旧正丸峠越え、名栗の谷からの妻坂峠越、そして今回の奥多摩からの仙元峠越え。S君のお誘いにより、次回は信州からの十文字峠越えとなりそう。大いに楽しみである。
奥多摩駅
S君と立川で待ち合わせ。午前7時6分発の奥多摩行きで一路奥多摩駅に向かう。8時28分奥多摩着。駅前から東日原行きのバスに乗る。東日原行きのハイカーも多く、バスは2台続けて走る。日原川を渡り、県道204号線・日原街道を北に進む。
日原川の東側に山肌に張り付く工場が見える。宇宙基地といった風情。S君の説明によると奥多摩工業の石灰工場とのこと。昔は下流の二俣尾あたりでも採掘していたようだが、現在は日原に採掘場がある、と。そこから4キロ弱の距離をこの地までワイヤで曳かれたトロッコで石灰を運んでいる。現在ではハイカーで賑わう奥多摩駅もつい最近、1989年頃まで石灰の積み出し駅であった、という(1999年貨物業務停止)。
奥多摩工業曳鉄線
日原川に沿ってバスは進む。大沢、小菅を過ぎ、川乗谷からの川筋が日原川に合流する手前、白妙橋を越えた道路の上にちょっとした「鉄橋」が見える、とS君の言。 先ほどの奥多摩工業の石灰運搬トロッコ、奥多摩工業曳鉄線の鉄橋が道を跨いでいる。曳鉄線はほとんど山中のトンネルを進むが、数箇所地表に出たところがあり、ここはそのひとつ。残念ながら、見落とした。
日原トンネル
川乗(苔)谷に架かる川乗橋バス停で、半分以上の人が降りる。川苔山を目指す人たちだろう。バスは進み倉沢谷の谷筋を越えると日原トンネル。昭和54年(1979年)完成。全長1107m。トンネルを覆う山塊は氷川鉱山の採掘とか。昔はここに「トボウ岩」という、幾百尺、幾千尺ともいわれる絶景の巨大岩があった、と前述の高橋源一郎氏は描く。トボウは「入り口」の意味。その昔、日原の集落への入口であったのだろう。が、現在は、その姿は大崩落やトンネル工事、鉱山採掘などにより、消え去った。それらしき姿、なし。
日原
トンネルを抜けると日原の集落。今をさる500年の昔、天正というから16世紀後半、戦乱の巷を逃れ原島氏の一族が武蔵国大里郡(埼玉県熊谷市原島村のあたり)よりこの地に移り住む。原島氏は武蔵七党、丹党の出。日原の由来は、新堀、新原といった、新しい開墾地といった説もあるが、原島氏の法号「丹原院」の音読みである「二ハラ」からとの説もある。
東日原バス停で下車。時刻は9時前。おおよそ30分弱でついた。道脇から日原川の谷筋を見下ろす。誠に深い。川の向こうに日原のシンボル「稲村岩」とS君。「イナブラ」とも呼ばれていた。稲を束ねてぶら下げた形と言えなくも、ない。石灰岩でできた砲弾型の奇峰。トボウ岩って、こういったものであったのだろう、か。で、日原鍾乳洞であるが、ここから20分ほど小川谷筋を歩くことになる。大日如来の浄土信仰の霊地に行ってみたいとは思えども、本日は先を急ぐ、ということで鍾乳洞行きは、なし。
バス停よりあたりを見渡す。四方は山、前面は深く刻まれた谷。トンネルにより山塊を穿ち道が通じるまでは山間の僻地ではあったのだろう。秘境とも呼ばれていた。とはいうものの、秘境っていつの頃から呼ばれたのだろう。この秘境って、いかにも大都市東京からの視点。また、発達した車社会からの始点。日原が浄土信仰の霊地として賑わっていた頃、東京など影も形もなく、一面の芦原であった、はず。車の通る道が無く、交通不便をもってそれが「秘境」と呼ばれても、歩くのが移動の基本であった時代、峠を越え、山道を歩くのが往来の基本であった時代、山間の僻地がそれほど他の地域と違っていたとも思えない。
その昔、車が往来の主流となる以前、日原は東西南北から多くの人の往来があった。日原は仙元峠を越えてくる北関東からの道者の往来があった。また、秩父・北関東だけでなく、瑞穂、青梅筋からの往来も多かった、よう。瑞穂、青梅に「日原道」の道標が残る。日原は江戸との交流も多かったようだ。
信仰の霊地・日原鍾乳洞は上野の東叡山寛永寺の支配下にあり、運営は輪王寺宮の下知に従っていた。と言う。江戸との交流が頻繁であっても不思議ではない。実際、日原の特産品であった白箸は江戸市民の必需品。正月三が日、その白箸を必ず使うといった仕来りになっていた、と。輪王寺宮の御用箸師が日原の木でつくった白箸を幕府柳営で使うようになったため、柳箸と名前を変え、次第に一般市民が使うようになった。ちなみに、柳営の語源は中国から。匈奴征伐の漢の将軍が軍営を置いたところが「細柳」であった、から。
ことほどさように、日原は江戸との結びつきが濃かったわけで、「秘境」なんで呼ばれる筋合いはさらさらない、といった堂々たる「山間の僻地」であったわけ、だ。はてさて、イントロが長くなってしまった。とっとと日原往還を辿ることに。
尾根道へ
バス停を離れ、登山道に。道成りに少し先に進むと道脇に道標。「一杯水を経て天目山 酉谷山登山口」の案内。案内に従い、民家前の細い坂道を上る。土手に沿って進む。いくつかの民家の脇を越えると舗装も切れる。20分程度歩くと道脇の林の中に貯水槽。山の水を集落へ送っているのだろう、か。標高は700mを越えている。日原が610mほどなので、100mほど上った。このあたりから、杉の植林帯に入っていく。
杉林の中の道は傾斜を増す。ジグザグの道を進む。結構きつい。道の前方にフェンス。石灰採掘場だろう。フェンスに沿って進む。フェンスから離れ、植生も自然林となるあたりでやっと尾根道に。標高973m。時刻は9時53分。1キロ弱の距離を400m弱上ったことになる。GPSのデータをチェックすると斜度40度といったものが数箇所あった。このデータがどこまで正確かは別にして、実感でも少々きつい上りであった。
ヨコスズ尾根
尾根道を進む。道はトラバース気味に巻き道を通っている。「昔道は、尾根のピークを通る道ですよ」とS君。昔の人たちの気持ち追体験の散歩ではあるけれど、そこまでの厳密性を求めるわけもなく、迷うことなく巻き道を選ぶ。
ところどころに痩せ尾根。倉沢谷と小川谷に削られ細くなっている。この尾根道をヨコスズ尾根と呼ぶ。スズ=鈴、ということで、なんと妙なる名前かと思ったのだが、この尾根筋に横篶山(よこすず)というピークがあるようで、とすれば、スズ=篶>篠竹、と言うこと。鈴ならぬ竹の茂る道と、少々無粋な名前と相成った。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
倉沢への分岐
滝入ノ峰を巻いて進む。時刻は10時25分。標高1249m。1時間以上歩いたことになる。このあたりまで来ると傾斜もほとんどなく、ゆったりとした尾根道を楽しめることになる。
10時40分、倉沢への分岐 。標高1275m。ここを下ると倉沢谷に下る。この谷筋にも大きな鍾乳洞があるようで、その鍾乳洞も日原鍾乳洞と同様に信仰の霊地。倉沢山大権現と呼ばれ、東叡山寛永寺の支配下にあった。
倉沢の倉は、岩を意味すると言う。また、くら=えぐられたような崖地や渓谷、といった説もある。どちらにしても、岩場ではあるのだろう。
両替場のブナ
分岐点を少し進んだあたり、尾根道に堂々としたブナが聳える。姿が如何にも美しい。両替場のブナと呼ばれたブナがこれだろう。往古、日原の鍾乳洞の一石大権現、倉沢鍾乳洞の倉沢山大権現への信仰篤き頃、秩父や北関東からの参詣者への両替の便宜をはかったところ。大権現たる鍾乳洞では、先達の松明に導かれ、参詣者は唱名念仏をとなえお賽銭の小銭を撒きながら洞内を進んだ、と。ここはその小銭の両替場。旅に小銭は荷物となるので、金銀の粒をこの場で両替していたわけだ。
一杯水
両替場のブナを過ぎ、倉沢谷とカロー谷に削られた痩せ尾根などを歩き、11時15分、天目山との分岐点、一枚水避難小屋に到着。標高1275m。結構立派な山小屋。山が好きな人は、こういった小屋に寝泊りして山を歩くのだろう。
カロー谷は、賀廊谷と書く。かろう>唐櫃からの当て字という。お櫃のように聳え、切り立った谷があるのだろう。カロー大滝といった滝もあるようだ。先ほど滝入リ峰脇を通ったが、この滝って、こういった大滝と関連した地名のように思のだが、真偽の程不明。
小屋の前のベンチで小休止し、先を急ぐ。11時34分、一杯水に。沢からの水をホースで集めている。ほんの少ししか水は出ていない。足らなければ沢を少し下りなさい、とのこと。
一杯水と言えば、下関・壇ノ浦の「平家の一杯水」が知られる。また、熱海の石橋山での挙兵に一敗地にまみれた頼朝ゆかりの「頼朝の一杯水」もある。地を離れての源平の「一杯水」。奇しき因縁なのか、どちらかが真似たのか、はてさて。
長沢脊稜
一 杯水を離れ先に進む。日原から一杯避難小屋にかけて南北に走るヨコスズ尾根このあたりで終わり、ここからは東西に走る別の尾根道となる。長沢脊稜と呼ぶ。 最初、長沢背稜、かと思っていた。「脊」ではなく「背」かと思っていた。たまたま、「背」稜って、どういう意味だろうとチェックして、どうも背中ではなく脊髄である、ということが分かった。長沢山って、この稜線上、西のほうにある。名前はそこから来ているのだろう。尾根道を進み12時18分、標高1436mの仙元峠に到着した。ここで大休止。
仙元峠
峠って、通常は稜線の鞍部にある。が、この仙元峠は稜線のピークにある。この峠は富士浅間詣の御旅所。足腰に自信のない人は、ここから富士浅間さまを遥拝し、引き返す。元気な人は、ここから両替場、大茶屋、道者道を進み日原の御師である原島右京、淡路の家に泊まり一石山の御岩屋(日原鍾乳洞)に参詣、山越に小河内を経て富士参りをした、と言う(『奥多摩風土記;大舘勇吉(有峰書店新社)』)。峠の由縁表示板には、「仙元」=「水の源」とあったのだけれども、仙元は「浅間」からきているのではないか、と思う。
峠に佇む祠も浅間神社。この祠が浦山の人たちによって建てられたのは大正の頃、と言う。浦山の人たちが建てたわりには、祠は奥多摩に面している。それは、大正のころには浦山から仙元峠へのルートは、細久保谷から一杯水に上り稜線を仙元峠に至る道が開かれていた、ため。林道でも通ったのだろう。ために、上った正面は奥多摩向きとなった、とか。休憩20分弱。12時38分、
大楢
浦山に向かって峠を下りはじめる。誠に険しい急坂。尾根を下りているには違いないのだろうが、はっきりとした尾根道といった雰囲気とは違う。崖を下っている雰囲気。ちょっと一息といったポイント・大楢まで水平距離で1キロ弱。到着時刻は13時4分。標高は1152mであるので、300mほどを30分程度で一気に下る。大楢って何か由来でもと思ったのだが、大楢=ミズナラのこと、だろう。
大楢の道標のところに、明治神宮からの森のマナーのお達し。このあたりは明治神宮の御料地なのだろう。「明治神宮+秩父+森林」で想い起こすのは本多静六博士。林業・造園の専門家。日比谷公園など多くの公園をつくったが、その中に明治神宮がある。現在は鬱蒼とした森となっている明治神宮の森であるが、元々は単なる荒地。そこに植樹を行い、人工の森をつくり、年月を経て自然の森のようになった。で、その造園計画の中心人物の一人が本多博士。
この造園の専門家は貯蓄の才能も豊か。巨万の富を築き、この秩父にも広大な森林を所有した。場所は浦山から秩父湖のほうに入った大滝村のあたり。その森は退官の折にすべて寄付したとのこと。この明治神宮の御料地もひょっとして、などと、ちょっと夢想。
送電線鉄塔下
少し緩やかになった坂を下り、13時46分、東京電力の鉄塔下(新秩父線56号鉄塔)につく。標高902m。40分かけ250mほど下ったことになる。直線距離は2キロ弱なので、傾斜はそれほどでもない。
送電線下で少し休憩。西の長沢脊稜や、東の武甲山から有馬山に続く山稜が見渡せる。その山稜の向こうが名栗の谷であろう。高尾からいくつかの峠を越え、名栗の谷を経て妻坂峠から秩父に入った、鎌倉街道山ノ道散歩が懐かしい。ちなみに、新秩父線とは新秩父開閉所(埼玉県小鹿野)~新多摩変電所(八王子市上川町)間の49Kmを結ぶ500KV送電線である。
道に迷う
小休止の後、浦山に向かう。鉄塔下から直進。次第に道が消えてゆく。木立に行く手を阻まれる。それでも少し進むが、どう見てもオンコースとは思えない、とS君。元に引き返すことに。「新秩父線57号に至る」と書かれた東京電力の黄色の道標のあたりまで戻る。かろうじて直進をダメだしする小ぶりの丸太が道に置かれていた。見落としていた。とは言うものの、これではほとんどの人は気づかないだろう、と思う。いくつかのホームページにも、この地で道に迷ったことが書かれていた。
黄色の道標を左に折れる。整地された道が続く。一安心。今回は二人なので心強かったのだけれど、迷い道で一人だったら、と釜伏峠・日本水で道に迷いパニックになったときを思い出した。山はやはり怖い。
急坂
鉄塔と高圧線につかず離れず尾根を下る。57、58、59、60と続く。60号を離れたあたりから坂は急勾配となる。ジグザグ道をどんどん下る。直線距離2キロ弱を30分で450mほど下ることになる。GPSのデータで斜度40度といったレコードも残っていた。14時35分、浦山大日堂前に下りてきた。標高452m。仙元峠から一気に1000m近くも下ったことになる。逆コースでなくてよかった。
浦山大日堂
お堂の前にリュックを下ろし、しばし休憩。お堂は新しい。近年改築されたのだろう。堂脇に寄付者の一覧がある。浅見さんという名前が多かったのが記憶に残った。浅見さん、って名前は秩父の古くからある名前と聞いたことがある。現在でも秩父市で最も多い名前と言う。
それはともあれ、このお堂、歴史は古い。江戸の頃、名栗の谷から鳥首峠を越えてこのお堂に参詣来る人も多かった、と。昭和50年に地元の人により立てられた大日堂記念碑には「此の地に大日如来尊が勧請されたのは今を去ること四百五十余年前の秋、麻衣藤杖翁形の丹生明神の仙元越えに依ると伝わる」とある、と。 丹生明神、って日原の中心にある神社。日原を拓いた原島氏の祖先である武蔵七党の丹党の祖神である。日原から仙元峠を越えてこの地に勧請されたもの、のよう。峠を越えて日原の大日如来の浄土まで行くことのできない人のため、便宜をはかったのだろう、か。この地に伝わる伝統の獅子舞も日原から伝わったもの、と言うし、往古、日原って結構な存在感のある大日如来の霊地であったことを改めて実感。
日向バス停
休憩終了。大日堂の浦山川を隔てたところにバス停が見える。事前のチェックによればバスは14時25分に浦山を出る、と。大日堂に下りたときには30分過ぎ。次は5時頃までない。どうにもならない、とは思いながら、大日堂を離れ、バス道に出て、気休めに時刻表をチェックする。なんと、浦山発は14時、それと16時頃にもあった。チェックした時刻表って一体、とは思いながらも少し嬉しい。それにしても1時間以上時間もある。近くにお休み処があるわけでもない。ということで、浦山ダム方面に向かい、行けるとこまで歩くことに。
『新編武蔵風土記稿』によれば、「浦山村は郡の南にして多摩郡に続き武光山(ママ)を後ろにして深く山谷に囲まれ、遠く四隣を隔てし一方口の僻地にて一区の別境ない」とある。道路の状況は「路経を云わば、或いは高く或いは低く、又は険しく、足の止まらぬ所あり。又は狭く荊棘の左右より生ひ塞がる所あり。木を横へ桟道もあり。独木を架せる橋もあり」とある(『多摩の山と水 下;高橋源一郎(八潮書店)』)。もとより浦山ダム工事の完成した現在、かくの如き趣き、あるわけもなし。静かで落ち着いた、どこにでもある山村であり山間の道である。
5キロほど歩き、浦山ダムの畔にある日向バス停でバス到着時間。谷間に響き渡る「証城寺(しょうじょうじ)の狸囃子(たぬきばやし)」. だったか、なんだったか忘れてしまったが、ともあれ数キロ先からその接近が分かる童謡を鳴らしながら
接近するコミュニティバスに乗り、西武秩父に行き、本日のお散歩を終える。童謡はダムを離れ交通頻繁な国道140号に合流いたときに、即、音が消えたことは言うまでもない。
峠を越えての秩父入りはこれで五つ目。寄居からの釜伏峠越え、小川からの粥仁田峠越え、吾野・高麗川筋の旧正丸峠越え、名栗の谷からの妻坂峠越、そして今回の奥多摩からの仙元峠越え。S君のお誘いにより、次回は信州からの十文字峠越えとなりそう。大いに楽しみである。
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