しかし、往路での湯浪から尾根道へとの計画は尾根への取り付き道が見つからず、結局は松山自動車道が走る里まで戻ることになってしまい、しかも、松山自動車道の脇も予想に反し途中で道が切れ、結局結構な藪漕ぎをしながら出発地点までもどることになった。
結構面白い札所巡礼ではあったのだが、今に至るまで散歩のメモをしないでいた。理由は特にないのだが、霊場散歩が実家とそれほど離れてなく、それだけのことで「有難味」が薄れていたのかとも思う。そろそろメモを残さなければと、夏に実家に戻ったおりにメモにとりかかった。
本日のルート;61番札所・香園寺>大谷池>香園寺奥の院>駐車地点>尾根道>尾根分岐>林道交差>本谷林道交差>綱付山からの尾根道と合流>平野林道との合流点>60番札所・横峯寺>西の遥拝所>古坊地蔵堂>滝>巡礼道入口>御来迎所>尾根道へのアプローチ地点>尾崎八幡神社>太子堂>高森神社>露出地層(?)>松山自動車道>藪漕ぎ>大谷池>車デポ地点
札所61番・香園寺;午前8時半_標高46m
縁起によると、用明天皇の病気平癒を祈願し、その皇子である聖徳太子が建立したと伝わる。この時、太子の前に金衣白髪の老翁が平石、本尊の大日如来を安置した、とも。真偽のほどは、それはそれとして、道後温泉への太子湯行など瀬戸内海の両岸に太子足跡の事例が多い。どこかの本で瀬戸内の両岸随処に領地と持っていたとの記事を読んだ覚えがある。兵庫には太子町といった地名も残る。尾道にも太子開基と伝わる寺がある。尾道といえば瀬戸内の海運の要衝地。各地の領地をもとに海運の支配をもしていたのだろう、か。単なる妄想。根拠無し。
香園寺には天平年間(668?749)には行基菩薩、大同年間(806?10)には弘法大師が順錫。弘法大師にまつわる縁起には、弘法大師が寺の麓で難産に苦しむひとりの女性を見かけ、祈祷をすると男の子を安産。大師は、唐から持ち帰った大日如来を本尊の胸の中に納め、栴檀の香を焚いて護摩修法をおこない、「安産、子育て、身代わり、女人成仏」の4誓願と祈祷の秘法を寺に伝え霊場に定められた、と。
以来、安産、子育ての信仰を得て栄え、七堂伽藍と六坊を整えたが、長曽我部元親の「天正の兵火」ですべて焼失し、寺運は衰退の一途を辿る。何カ月か前、阿波の忌部氏ゆかりの神社を尋ねたことがあるが、そこでも四国統一を図る長曽我部勢に焼き落とされた寺社の多いことを知ったが、田舎の新居浜など愛媛に長曽我部勢により焼失した寺社は多い。
「天正の兵火」で焼失し、衰退の一途を辿った 寺運が復興したのは明治になってから。明治36年(1903)住職となった山岡瑞園師は大正のはじめ「子安講」を創始し、四誓願をスローガンに、日本国内はもとより、朝鮮、台湾、満州、関東州、青島、そしてアメリカまで行脚し昭和23年(1948)に亡くなるまでに20万名の講員を成した、とも言う。こうした山岡瑞園師の献身により、荒廃した寺は現在「子安の大師さん」として親しまれている。
このためもあってか、本尊は大日如来ではあるが、信仰は脇仏の子安大師に集まっているようである。実際、私もこどもを連れて帰省の折り、両親からまず一番に連れてこられたのがこの「子安のお大師さん」であった。
大谷池;午前8時45分_標高52m
増築工事は人力による土木工事で、堤防の搗き固めには亀の子を使用。亀の子に8人から10人(婦人労力)が必要で、毎日20個の亀の子を使用し、毎日200名もの人が働き、事業開始から3年の歳月をかけて大正6年(1017)に完成した、とあった。
香園寺奥の院;午前8時53分_標高86m
駐車地点;午前8時55分_標高115m
奥の院から車を進め、横峰寺への道標がある辺りに停車。これから横峰寺へと直線距離7キロ、比高差600mほどの山道を上ることになる。道標には「下城方面」との案内もある。
○下城
この砦は河野一族の支配下にあり、南北朝の頃、一族の信家が岡の庄を領し岡氏を称するようになる。その後信家の七代の孫である通昌が田滝村に住み幻城代となった。
因みに、岡の庄がどこにあるのか承知しないが、越智郡の生名島に「岡庄」と呼ばれる集落がある。この島は河野水軍の支配下にあった島であるので、この辺りだろう、か。田滝村は丹原町(現在は西条市に合併)の田滝地区だろう。道前平野の南西、高輪山の裾にある。
下城の城主岡弾正は城兵600余騎を率い討って出て合戦となり、敵将の香西出雲守と戦って相討ちとなって討死した。上城の大将の岡若丸は細川方の二陣の将矢野肥前守と切り結んで討ち取ったが、城に入って自刃して果てた。このとき玉砕した将兵600余人の霊を祀る五輪の塚が下城ふもとにあり、千人塚と呼ばれている、と。
天文年間(1532年~1555年)になると剣山城(大谷池の南西)城主黒川肥前守元春が幻の古砦を改修して出城としていたが、天正13年(1585年)、豊臣秀吉による四国征伐の後に廃城となった。
○大保木天河寺
興味を抱きちょっと深堀りすると自分の知らなかった地元の歴史が現れてくる。上にメモした下城などもそうであるが、その中に「大保木天河寺に陣を構え」と簡単にメモしこの天河寺も興味深い。現在西条市から鴨川に沿って石鎚山ロープウエイに行く途中、大保木地区に極楽寺というお寺様がある。室町期末に焼失したという天河寺の法灯を伝えるお寺さまである。
天河寺があった場所などをチェックしていると、弟のホームページに天河寺のメモがあった。そのメモや極楽寺のHPを参考にまとめると、「修験道の祖である役の行者神変大菩薩が、伊予國石鎚山に白鳳八年(675年)入山し、龍王山に籠もられ、密言浄土の実現を祈りつつ、厳しい修行を続けられたと云う。金色燦然(さんぜん)と輝く御来迎を拝され「阿弥陀院三尊」を感得、その姿を永遠に留めるべく、龍王山に堂宇を建て、日々一礼三刀をもって霊木を彫り刻み阿弥陀三尊(本尊の阿弥陀如来、両脇立の観世音菩薩、勢至菩薩)と、三体の権現さま(本尊の阿弥陀如来を石鎚蔵王大権現、両脇立を「龍王吼蔵王大権現」「無畏宝吼蔵王大権現」)を祀った。これが天河寺であり、役の行者の修行の聖地であった。
この、石鎚山の根本道場であった天河寺が、室町時代末期には焼失するに至ったのであるが、その時、蔵王権現御分霊を瓶ヶ森に祀り、天河寺より山を拝し、且つ、修業のため登るようになるも、天長5年(828)、今の石鎚山頂に遷座して今日に至る。そして天河寺が焼失の折、「阿弥陀院三尊」を奉持し、龍王山を下り、大保木の地に天河寺を仰ぎ見られる場所を探し建立したのが極楽寺である」、と。
どうも、石鎚山や瓶が森が開山される前は、龍王山が修験道場であったようだ。また瓶ヶ森が石鎚権現の霊山の時代には、天河寺が常住としての役割を果たしていたものと思われる。石鎚信仰と言えば前神寺、横峰寺と思っていたのだが、それは天河寺が焼失し、石鎚山に蔵王権現が祀られるようになって以降のことのようである。なお、龍王山や天河寺の場所は弟のホームページに掲載されている。それにしても、自分の足元のことを知らないなあ、と少々反省。
尾根道;午前9時21分_標高305m
尾根分岐;午前9時41分_標高403m
林道交差;午前9時50分_標高405m
本谷林道交差;午前10時17分_標高464
綱付山からの尾根道と合流;午前10時26分_標高457m
平野林道との合流点;午前11時15分_標高656m
雑木林を進み、最後に20段ほどの階段を登ると、西条市大保木平野から伸びてきた平野林道と合流する。
60番札所・横峰寺;午前11時43分_標高740m
境内にあった案内によると;たて横に峰や山辺に寺たてて あまねく人を救うものかな」と、御詠歌に詠われるこの寺は、標高750m、八十八か所のうち第三番目の高さにあり、四国遍路における三番目の「関所」。
関所;悪いことをした人、邪心をもっている人は、お大師さんのおとがめを受けて、これから先には進めないと言われている。 四つの関所;19番札所・橋池山立江寺、27番札所・竹林山神峰寺、60番札所・石鉄山横峰寺、66番札所・雲辺寺山雲辺寺」、とあった。
西の遥拝所;午前11時59分_標高815m
横峰寺の縁起にはその他にも、行基菩薩も巡錫し大日如来を刻み、その胸に役小角作の蔵王権現を納めた、と言ったものもある。縁起は所詮縁起と思い込むことだろう、か。
因みに、横峰寺は、廃仏毀釈の嵐に巻き込まれ。明治4年(1871)に石鎚神社西遥拝所横峰社となって廃寺となった。60番札所は、小松町新宮にある清楽寺に移されたが、明治10年(1877)に横峰寺の再建願いが出され、翌年愛媛県令から再興を認められ、明治13年(1880)に「大峰寺」という名称で復活。その後明治18年(1885)にはの清楽寺との和解によって清楽寺は前札所となり、再び60番札所に戻り、明治41年(1908)、ようやく横峰寺の旧称に復帰することになった。この間、遍路は59番国分寺より清楽寺を経て香園寺へと巡拝していたのだろう。
○石鎚への参道

一方黒川道は行者堂などが地図に残る黒川谷を辿り、尾根へと上っていくようだ。どちらも成就社まで6キロ前後、3時間程度の行程、といったところ。今宮王子道にはその名の通り王子社が佇む。石鎚頂上まで三十六の王子社の祠がある、とのこと。数年前、熊野古道を歩いたことがある。そこには九十九王子があった。『熊野古道(小野靖憲;岩波新書)』によれば、熊野参拝道の王子とは、熊野権現の分身として出現する御子神。その御子神・王子は神仏の宿るところにはどこでも出現し参詣者を見守った。
王子の起源は中世に存在した大峰修験道の100以上の「宿(しゅく)」、と言われる。奇岩・ 奇窟・巨木・山頂・滝など神仏の宿る「宿」をヒントに、先達をつとめる園城寺・聖護院系山伏によって 参詣道に持ち込まれたものが「王子社」、と。石鎚の王子社の由来もまた、同様のものであったのだろう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)
古坊地蔵堂;午後12時29分_標高632m
仁王門から20分弱。杉並木の中を下り、小さな沢を越えると古いお堂がある。「南無観世音菩薩」の赤い幟が建つ道内には特に何も祀られてはいないようだが、本尊は横峰寺の大師堂に祀られる、とか。堂の周囲には六地蔵や石仏が佇む。
滝;午後12時 51分_標高412m
巡礼道入口;午後13時17分_標高276m
○四国のみち
御来迎所;午後13時31分_標高189m
県道147号(県道石鎚丹原線)を妙之谷に沿って下る。前方には東西に伸びる尾根が見えるが、首尾よくいけばその尾根道を辿り香園寺からの山道にあった分岐点に進めることになるのだが、などとあれこれ考えながら20分ほど歩くと道脇のコンクリートの擁壁に「御来迎所 文化十四年」と刻まれた石碑、「横峰寺御来光出現」と刻まれた石碑、そして祠の中に地蔵様が祀られている。
祠のお地蔵さまは「三十丁の地蔵丁石(大師坐像とも)」、「横峰寺御来光出現」には「弘法大師曰く神仏は死んでも無きものではない 生きて此世で救けるものなり 教えに従うところには自由自在に現われて救けるものなり 昭和48年9月12日 出現の時刻10時30分より40分まで」と刻まれ、その横には高知市の58才の女性と56才の男性の名前と住所、そして「同行2人拝す」と刻まれていた。妙ノ谷川の滝(現在は堰堤になっている、と)辺りで、日の光を受けたお大師さまの姿が見えた、と伝わる。
尾根道へのアプローチ地点;午後13時48分_標高204m
予定にしていた尾根道ルートを諦め、遠回りではあるが、妙之谷川に沿って高速道路の松山自動道辺りまで下り、そこから松山自動車道に沿って車のデポ地点である大谷池へと進むことにする。
尾崎八幡神社;午後13時58分_標高172m
太子堂;午後14時32分_標高84m
高森神社;午後14時45分_標高51m
田ノ神地区を進むと道脇に、誠にささやかな社がある。パイプもどきの鳥居と小祠。小祠の前には車のホイールが無造作におかれていた。その脇には愛媛出身の政治家・村上誠一郎氏(大蔵政務次官当時)寄贈らしき石碑が建つ。幸福の栞といった内容のもので高森神社の縁起とは関係ないものであった。
縁起などは全くわからないが、相模にある高森神社は加茂族の祖である高彦根命を祀っているわけで、西条市には加茂族の本拠地がその名も加茂川の東にあり、加茂神社も鎮座する。この高森神社も加茂族に関わる祠であるのだろうか。因みに、三河の松平家は賀茂神社の社家である加茂氏の末裔という説があり、徳川の三つ葉葵は加茂氏の二葉葵が源との説もあるようだ、
露出地層?;午後15 時5分_標高35m
松山自動車道;午後15時7分_標高35m
○お山道 大頭から湯浪、横峰寺を経由して石鎚山に登る道は「お山道」として親しまれた。大大頭とその東の妙口(ようぐち)地区は藩政時代より讃岐街道の宿場町としえ賑わったようである。
その石鎚への西の登山口であるお山道に沿ってあるこの地には石土神社と妙雲寺があり、神仏混淆で蔵王権現を祀ってきた。妙雲寺は札所60番横峰寺の前札所・石鎚登山者の礼拝所として賑わった。
藪漕ぎ;午後15時37分_標高99m
ジャンクション手前で自動車道を跨ぎ国道11号まで続く道はあるのだが、それでは結構大回りとなるので、自動車道に沿って道なき道を藪漕ぎして進むことに。畑地の辺りでアプローチ地点を探し、成り行きで藪を進み、自動車道脇まで引っ張られながら藪漕ぎすること約30分、午後16時7分に大谷池脇の道に下りることができた。
車デポ地点;午後16時41分_標高115m
地図を見ると、面河ダムに貯留された水は、四国山地の山塊を隧道(トンネル)で抜き、中山川の逆調整池まで流下。逆調整池で道前平野側と道後平野側に分水され、道前平野側では逆調整池で中山川に放水され、流下した水を中山川取水堰から取り入れた後、両岸分水工で道前右岸幹線水路と、道前左岸幹線水路に分水。道前左岸分水は南下するが、道前右岸幹線水路はこの大谷池を経て加茂川辺りまで続いている。

大谷池の西岸を進み、車で乗り入れた東岸の道と合流、香園寺の奥の院へ。車のデポ地点まで車を取りに行ってくれる弟を奥の院で待ち、全行程;24キロ。8時間の歩き遍路を終える。