月曜日, 9月 16, 2013

四国 歩き遍路;札所61番・香園寺から逆打ちで札所60番・横峰寺へと辿る

少し前のことになるのだが、春に田舎の愛媛県新居浜市に戻った時、例によって弟と四国八十八ヵ所を歩こうということになった。で、地元の山や沢を登り倒している弟が選んだのが札所61番・香園寺から「逆打ち」で札所60番・横峰寺へと比高差600mほど尾根道を登り、復路は西の谷筋を湯浪へと下り、湯浪から往路を辿った尾根筋へと続く尾根に這い上がり、札所61番・香園寺に戻ろうといったもの。国道11号の大頭から湯浪をへて60番札所・横峰寺に辿る道は「お山道」とも称され、今治市にある59番札所・国分寺から60番札所・横峰寺への「順打ち」遍路道であるわけで、今回のルートは「ダブル逆打ち歩き遍路」となった。
しかし、往路での湯浪から尾根道へとの計画は尾根への取り付き道が見つからず、結局は松山自動車道が走る里まで戻ることになってしまい、しかも、松山自動車道の脇も予想に反し途中で道が切れ、結局結構な藪漕ぎをしながら出発地点までもどることになった。
結構面白い札所巡礼ではあったのだが、今に至るまで散歩のメモをしないでいた。理由は特にないのだが、霊場散歩が実家とそれほど離れてなく、それだけのことで「有難味」が薄れていたのかとも思う。そろそろメモを残さなければと、夏に実家に戻ったおりにメモにとりかかった。


本日のルート;61番札所・香園寺>大谷池>香園寺奥の院>駐車地点>尾根道>尾根分岐>林道交差>本谷林道交差>綱付山からの尾根道と合流>平野林道との合流点>60番札所・横峯寺>西の遥拝所>古坊地蔵堂>滝>巡礼道入口>御来迎所>尾根道へのアプローチ地点>尾崎八幡神社>太子堂>高森神社>露出地層(?)>松山自動車道>藪漕ぎ>大谷池>車デポ地点

札所61番・香園寺;午前8時半_標高46m
実家のある新居浜から国道11号を西に進み、JR伊予小松駅の先で今治方面へと向かう国道196号を別けたすぐ先の西条市小松町南川交差点を左に折れると栴檀山香園寺。境内には本堂と大師堂を兼ねた近代的大聖堂が構えるが、このお寺さまは聖徳太子の開基という四国霊場屈指の古刹である。
縁起によると、用明天皇の病気平癒を祈願し、その皇子である聖徳太子が建立したと伝わる。この時、太子の前に金衣白髪の老翁が平石、本尊の大日如来を安置した、とも。真偽のほどは、それはそれとして、道後温泉への太子湯行など瀬戸内海の両岸に太子足跡の事例が多い。どこかの本で瀬戸内の両岸随処に領地と持っていたとの記事を読んだ覚えがある。兵庫には太子町といった地名も残る。尾道にも太子開基と伝わる寺がある。尾道といえば瀬戸内の海運の要衝地。各地の領地をもとに海運の支配をもしていたのだろう、か。単なる妄想。根拠無し。
香園寺には天平年間(668?749)には行基菩薩、大同年間(806?10)には弘法大師が順錫。弘法大師にまつわる縁起には、弘法大師が寺の麓で難産に苦しむひとりの女性を見かけ、祈祷をすると男の子を安産。大師は、唐から持ち帰った大日如来を本尊の胸の中に納め、栴檀の香を焚いて護摩修法をおこない、「安産、子育て、身代わり、女人成仏」の4誓願と祈祷の秘法を寺に伝え霊場に定められた、と。
以来、安産、子育ての信仰を得て栄え、七堂伽藍と六坊を整えたが、長曽我部元親の「天正の兵火」ですべて焼失し、寺運は衰退の一途を辿る。何カ月か前、阿波の忌部氏ゆかりの神社を尋ねたことがあるが、そこでも四国統一を図る長曽我部勢に焼き落とされた寺社の多いことを知ったが、田舎の新居浜など愛媛に長曽我部勢により焼失した寺社は多い。
「天正の兵火」で焼失し、衰退の一途を辿った 寺運が復興したのは明治になってから。明治36年(1903)住職となった山岡瑞園師は大正のはじめ「子安講」を創始し、四誓願をスローガンに、日本国内はもとより、朝鮮、台湾、満州、関東州、青島、そしてアメリカまで行脚し昭和23年(1948)に亡くなるまでに20万名の講員を成した、とも言う。こうした山岡瑞園師の献身により、荒廃した寺は現在「子安の大師さん」として親しまれている。
このためもあってか、本尊は大日如来ではあるが、信仰は脇仏の子安大師に集まっているようである。実際、私もこどもを連れて帰省の折り、両親からまず一番に連れてこられたのがこの「子安のお大師さん」であった。

大谷池;午前8時45分_標高52m
香園寺を離れ車で進むと大きな池。大谷池と呼ばれる。案内よると;明治30年(1897)以降、農業立国推進の中、この小松大谷池築造計画が持ち上がった。しかし堤防決壊による洪水を怖れる周囲農民の理解を得るのは難しく反対運動が起き、結局地域農民の理解を得て小松町耕地整理組合が成立したのは大正3年(1914)のことである。
増築工事は人力による土木工事で、堤防の搗き固めには亀の子を使用。亀の子に8人から10人(婦人労力)が必要で、毎日20個の亀の子を使用し、毎日200名もの人が働き、事業開始から3年の歳月をかけて大正6年(1017)に完成した、とあった。

香園寺奥の院;午前8時53分_標高86m
大谷池からおおよそ1キロ進むと香園寺奥の院。昭和8年(1933)、香園寺住職・山岡瑞円和尚が創建。本尊は不動明王で、両脇に「金伽羅(コンガラ)」「制多迦(セイタカ)」二童子を従えた銅像を5mほどの滝の上の岩に造設し、滝に打たれる修行の場になっている。滝は白滝と呼ばれ、御不動様は白滝不動とも称される。

駐車地点;午前8時55分_標高115m
奥の院から車を進め、横峰寺への道標がある辺りに停車。これから横峰寺へと直線距離7キロ、比高差600mほどの山道を上ることになる。道標には「下城方面」との案内もある。
○下城
下城ってなんだろう、と好奇心にかられてチェックすると、築城年代は定かではないが南北朝の時代に岡氏によって築かれた「幻城」と呼ばれる山城の砦のひとつのよう。砦は下城と上城からなり南北に尾根続き2キロに渡る山城である。上城は綱付山の西方1キロ程、標高488.3mの山頂に築かれ、下城は直線距離で1.1キロ、比高差250m下の所に築かれている。
この砦は河野一族の支配下にあり、南北朝の頃、一族の信家が岡の庄を領し岡氏を称するようになる。その後信家の七代の孫である通昌が田滝村に住み幻城代となった。
因みに、岡の庄がどこにあるのか承知しないが、越智郡の生名島に「岡庄」と呼ばれる集落がある。この島は河野水軍の支配下にあった島であるので、この辺りだろう、か。田滝村は丹原町(現在は西条市に合併)の田滝地区だろう。道前平野の南西、高輪山の裾にある。

興国3年(1342)後村上天皇は新田義貞の弟脇屋義助を伊予に派遣したが、義助は伊予国府にて病死した。この機に乗じて北朝方の四国総大将細川頼春は伊予へ侵攻し、川之江城などを落として新居郡(新居浜市も昔は新居郡)に侵攻、大保木天河寺に陣を構えて幻城に攻め寄せた。このとき、上城には大将岡若丸、下城には岡弾正が詰めていた。
下城の城主岡弾正は城兵600余騎を率い討って出て合戦となり、敵将の香西出雲守と戦って相討ちとなって討死した。上城の大将の岡若丸は細川方の二陣の将矢野肥前守と切り結んで討ち取ったが、城に入って自刃して果てた。このとき玉砕した将兵600余人の霊を祀る五輪の塚が下城ふもとにあり、千人塚と呼ばれている、と。
天文年間(1532年~1555年)になると剣山城(大谷池の南西)城主黒川肥前守元春が幻の古砦を改修して出城としていたが、天正13年(1585年)、豊臣秀吉による四国征伐の後に廃城となった。

○大保木天河寺
興味を抱きちょっと深堀りすると自分の知らなかった地元の歴史が現れてくる。上にメモした下城などもそうであるが、その中に「大保木天河寺に陣を構え」と簡単にメモしこの天河寺も興味深い。現在西条市から鴨川に沿って石鎚山ロープウエイに行く途中、大保木地区に極楽寺というお寺様がある。室町期末に焼失したという天河寺の法灯を伝えるお寺さまである。
天河寺があった場所などをチェックしていると、弟のホームページに天河寺のメモがあった。そのメモや極楽寺のHPを参考にまとめると、「修験道の祖である役の行者神変大菩薩が、伊予國石鎚山に白鳳八年(675年)入山し、龍王山に籠もられ、密言浄土の実現を祈りつつ、厳しい修行を続けられたと云う。金色燦然(さんぜん)と輝く御来迎を拝され「阿弥陀院三尊」を感得、その姿を永遠に留めるべく、龍王山に堂宇を建て、日々一礼三刀をもって霊木を彫り刻み阿弥陀三尊(本尊の阿弥陀如来、両脇立の観世音菩薩、勢至菩薩)と、三体の権現さま(本尊の阿弥陀如来を石鎚蔵王大権現、両脇立を「龍王吼蔵王大権現」「無畏宝吼蔵王大権現」)を祀った。これが天河寺であり、役の行者の修行の聖地であった。
この、石鎚山の根本道場であった天河寺が、室町時代末期には焼失するに至ったのであるが、その時、蔵王権現御分霊を瓶ヶ森に祀り、天河寺より山を拝し、且つ、修業のため登るようになるも、天長5年(828)、今の石鎚山頂に遷座して今日に至る。そして天河寺が焼失の折、「阿弥陀院三尊」を奉持し、龍王山を下り、大保木の地に天河寺を仰ぎ見られる場所を探し建立したのが極楽寺である」、と。
どうも、石鎚山や瓶が森が開山される前は、龍王山が修験道場であったようだ。また瓶ヶ森が石鎚権現の霊山の時代には、天河寺が常住としての役割を果たしていたものと思われる。石鎚信仰と言えば前神寺、横峰寺と思っていたのだが、それは天河寺が焼失し、石鎚山に蔵王権現が祀られるようになって以降のことのようである。なお、龍王山や天河寺の場所は弟のホームページに掲載されている。それにしても、自分の足元のことを知らないなあ、と少々反省。



尾根道;午前9時21分_標高305m
駐車したところから沢に沿って山道に入る。標高200mまでは沢筋を進み、その先は尾根に向かって直線距離で500mほどを100m上ることになる。道脇には横峰寺までの距離を示すものであろう「丁石」があり「丁」数が刻まれているのだろうが、よく読めない。道を登り切ったところに「道標」があり、「下城方面 横峰方面」の案内があった。

尾根分岐;午前9時41分_標高403m
右手が開けた尾根道を進む。尾根道にはふたつほど「丁石」があったが、丁数は読めなかった。尾根道を20分、100mほど高度を上げたところに休憩所があるが、そこには東からの尾根が合流する。予定では、帰路は湯浪の辺りから続くこの尾根道に這い上がり、この分岐点に出るつもりではある。



林道交差;午前9時50分_標高405m
尾根の合流点を南へと横峰寺への尾根道を進むと、10分ほどで山を切り開いた林道が現れる。地形図でチェックすると、現在辿っている香園寺から南に続く尾根筋と東にある綱付山を隔てる小松川(?)の谷筋を通る本谷林道(?)から分かれた支沢に沿って東に向かい、この地で尾根をクロスして湯浪方面に進む林道だろう、か。地形図を見ると、このクロスポイントが小松川の谷筋と西の妙之谷の谷筋を隔てる最も「薄い」尾根となっている。

本谷林道交差;午前10時17分_標高464
尾根道を20分ほど進むと林道がクロスする。はっきりした名前はわからないのだが、小松川の谷を登ってきた本谷林道ではないだろうか。クロスポイントの右に下る道脇に「三穂」と神社らしきマークが杉の木にペンキで書かれていた。何のマークだろう。






綱付山からの尾根道と合流;午前10時26分_標高457m
綱付山からの尾根道と合流点あたりに「香園寺道 奥之院ヲ経テ一里十六丁 香園寺へ一里二十丁」と刻まれた石標がある。その先にも「舟形地蔵丁石」が見える。

平野林道との合流点;午前11時15分_標高656m
綱付山から2キロほどの尾根道を進む。道脇に舟形地蔵丁石がいくつか目につくが、唯一読めたのは「21丁」と刻まれた舟形地蔵丁石ではあった。これらの舟形地蔵丁石「は「新屋敷村地蔵講中」の刻字があり、ふもとの旧新屋敷村(小松町新屋敷)の人々が建てたものとのことである。
雑木林を進み、最後に20段ほどの階段を登ると、西条市大保木平野から伸びてきた平野林道と合流する。

60番札所・横峰寺;午前11時43分_標高740m
舗装された林道を進み横峰寺に。神社風の権現造りの本堂と、境内にある大師堂にお参り。本堂から大師堂の横の山一面に「石楠花(しゃくなげ)」が植えられている。
境内にあった案内によると;たて横に峰や山辺に寺たてて あまねく人を救うものかな」と、御詠歌に詠われるこの寺は、標高750m、八十八か所のうち第三番目の高さにあり、四国遍路における三番目の「関所」。
修験道の開祖、役小角の開基といわれ、弘法大師が石楠木に刻んだ大日如来が本尊として安置されている。ここから600mほど登ったところに、弘法大師が厄除けの星供養をしたと言われる「星が森」があり、石鎚山の西の遥拝所となっている。
関所;悪いことをした人、邪心をもっている人は、お大師さんのおとがめを受けて、これから先には進めないと言われている。 四つの関所;19番札所・橋池山立江寺、27番札所・竹林山神峰寺、60番札所・石鉄山横峰寺、66番札所・雲辺寺山雲辺寺」、とあった。


西の遥拝所;午前11時59分_標高815m
本堂を離れ西の遥拝所に。天気がよければ鉄の鳥居より石鎚山を一望とのことであるが、当日は天気が悪く残念ながら石鎚山を拝むことは叶わなかった。 石で囲われた祠にお参りし、脇の石碑を読むと、「白雉2年(651)役小角この地より石鎚山を遥拝し蔵王権現を感得せらる。弘法大師四国巡錫の砌り四十二歳厄除けのため星祭を修し給う因ってこの地を星森と名づく。寛保2年建立の鉄の鳥居があるので「かねの鳥居」と云う」、とあった。



この石碑の縁起によれば、役小角がこの地より石鎚山を遥拝し蔵王権現を感得せらる、とされる。ところが、先にメモした大保木天河寺の縁起によれば、役小角は龍王山に籠もり、石鎚山を遥拝し厳しい修行を続け石鎚蔵王大権現を祀る堂宇として天河寺を建てた、とあった。天河寺が役の行者の修行の聖地であり、蔵王権現の分霊も瓶が森に祀られ、前神寺やこの横峰寺が石鎚信仰の中心となっていったのは天河寺が焼失した室町末期、石鎚山に蔵王権現が祀られるようになって以降のこと、とも言う。
横峰寺の縁起にはその他にも、行基菩薩も巡錫し大日如来を刻み、その胸に役小角作の蔵王権現を納めた、と言ったものもある。縁起は所詮縁起と思い込むことだろう、か。
因みに、横峰寺は、廃仏毀釈の嵐に巻き込まれ。明治4年(1871)に石鎚神社西遥拝所横峰社となって廃寺となった。60番札所は、小松町新宮にある清楽寺に移されたが、明治10年(1877)に横峰寺の再建願いが出され、翌年愛媛県令から再興を認められ、明治13年(1880)に「大峰寺」という名称で復活。その後明治18年(1885)にはの清楽寺との和解によって清楽寺は前札所となり、再び60番札所に戻り、明治41年(1908)、ようやく横峰寺の旧称に復帰することになった。この間、遍路は59番国分寺より清楽寺を経て香園寺へと巡拝していたのだろう。

○石鎚への参道
西の遥拝所から南に「モエ坂」が加茂川に向かって下る。加茂川が左右の谷から合流する河口地区に三碧橋が架かるが、その昔石鎚山への参道は横峰寺からこの河口(こうぐち)地区に下り山麓の成就社に上っていった。ルートはふたつ。ひとつは今宮王子道、もうひとつは黒川道。今宮王子道は河口から尾根へと進む。尾根道の途中に今宮といった地名が残る。昔の集落の名残だろう。
一方黒川道は行者堂などが地図に残る黒川谷を辿り、尾根へと上っていくようだ。どちらも成就社まで6キロ前後、3時間程度の行程、といったところ。今宮王子道にはその名の通り王子社が佇む。石鎚頂上まで三十六の王子社の祠がある、とのこと。数年前、熊野古道を歩いたことがある。そこには九十九王子があった。『熊野古道(小野靖憲;岩波新書)』によれば、熊野参拝道の王子とは、熊野権現の分身として出現する御子神。その御子神・王子は神仏の宿るところにはどこでも出現し参詣者を見守った。
王子の起源は中世に存在した大峰修験道の100以上の「宿(しゅく)」、と言われる。奇岩・ 奇窟・巨木・山頂・滝など神仏の宿る「宿」をヒントに、先達をつとめる園城寺・聖護院系山伏によって 参詣道に持ち込まれたものが「王子社」、と。石鎚の王子社の由来もまた、同様のものであったのだろう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

古坊地蔵堂;午後12時29分_標高632m
西の遥拝所から仁王門に戻り、遍路道を湯浪へと下る。「湯浪 3.3km」とあるから仁王門のある辺りの標高735mから湯浪の標高185m地点へと、3.3キロを550m ほどを一気に下ることになる。今回は逆打ちであるので下りではあるが、今治市にある59番国分寺から順に札所を打てば、大頭から湯浪を経ての上りとなるわけで、四国札所の難所のひとつと称されるのも納得できる。





遍路道を下ると道端に舟形地蔵丁石が佇む。愛媛県学習センターの資料によると、「湯浪地区では昔から、横峰寺への登り道の舟形地蔵丁石のほとんどは、「寿し駒」によって建てられたと語り伝えられてきたという。「寿し駒」本名日野駒吉(1873~1951) は、「西條人物列伝」(『西條史談』)によると、周桑郡玉之江(東予市)に生まれ、西條吉原(西条市吉原東)ですし屋を営むかたわら大師信仰に生涯をかけたことで知られる人物である。先達として本四国50回・小豆島島四国100回・石鎚登山100回という行者信仰の旅を重ねるとともに、大師蓮華講(れんげこう)を組織したといわれる。西条市の六十四番前神寺境内には、大正5年(1916)、日野駒吉が蓮華講員に呼びかけ、寺に寄進した弘法大師修行の石像が立っている。その右には、大正15年(1926)に建立された五輪塔の日野駒吉頌徳碑(しょうとくひ)が立っている」、とある。
仁王門から20分弱。杉並木の中を下り、小さな沢を越えると古いお堂がある。「南無観世音菩薩」の赤い幟が建つ道内には特に何も祀られてはいないようだが、本尊は横峰寺の大師堂に祀られる、とか。堂の周囲には六地蔵や石仏が佇む。

滝;午後12時 51分_標高412m
雑木が倒れ荒れた沢に沿って下る。下るほどに大岩が沢に転がる。地蔵堂から1キロほどを200mほど下ると小滝が現れる。3mほどの高さがありそうだ。

巡礼道入口;午後13時17分_標高276m
滝から1キロ程、「湯浪1.0km 横峰寺1,9km」といった道標をみやりながら歩き遍路の山道を下ると舗装された県道147号(県道石鎚丹原線)に出る。ここが今治市にある59番札所・国分寺から西条市小松町大頭、湯浪を経て横峰寺に上る歩き遍路の上り口である。




○四国のみち
ここまで61番札所・香園寺から60番札所・横峰寺をへて12キロほどの歩き遍路道を辿ったが、現在このルートの随処に「四国のみち」との標識があった。WIKIPEDIAによれば「四国のみち」とは、四国全域にある歴史・文化指向の国土交通省ルート(1300㎞)と、長距離自然歩道構想に基づく自然指向の環境省ルート「四国自然歩道」(約1600km)からなる遊歩道。起点は徳島市鳴門町、終点は徳島県板野郡板野町となっている。全部で11の区間から成り、この香園寺・横峰寺ルートは10番の「瀬戸の海、燧灘を感じながら、点在する霊場をめぐる東予から中讃へのみち(愛媛県今治市と西条市(旧東予市)の境から、香川県善通寺市までの約160km)」のハイライトのひとつ。あとひとつのハイライトは香川県と徳島県にまたがる札所66番・雲辺寺への山道である。


御来迎所;午後13時31分_標高189m

県道147号(県道石鎚丹原線)を妙之谷に沿って下る。前方には東西に伸びる尾根が見えるが、首尾よくいけばその尾根道を辿り香園寺からの山道にあった分岐点に進めることになるのだが、などとあれこれ考えながら20分ほど歩くと道脇のコンクリートの擁壁に「御来迎所 文化十四年」と刻まれた石碑、「横峰寺御来光出現」と刻まれた石碑、そして祠の中に地蔵様が祀られている。
祠のお地蔵さまは「三十丁の地蔵丁石(大師坐像とも)」、「横峰寺御来光出現」には「弘法大師曰く神仏は死んでも無きものではない 生きて此世で救けるものなり 教えに従うところには自由自在に現われて救けるものなり 昭和48年9月12日 出現の時刻10時30分より40分まで」と刻まれ、その横には高知市の58才の女性と56才の男性の名前と住所、そして「同行2人拝す」と刻まれていた。妙ノ谷川の滝(現在は堰堤になっている、と)辺りで、日の光を受けたお大師さまの姿が見えた、と伝わる。

尾根道へのアプローチ地点;午後13時48分_標高204m
御来迎所から湯浪(ゆうなみ)の集落に。ここから東西に延びる尾根に這い上がり、香園寺からの巡礼道の途中にあった尾根の分岐点に進もうとの計画。妙之谷川の支流を越え、山麓の農家の辺りから尾根への道を探すが、それらしき踏み分け道が見つからない。藪漕ぎ専門の弟はミカン畑を這い上がり、道を探すが見つからない。弟ひとりであれば藪漕ぎをして尾根に這い上がったのだろうが、腰が引けている私を見て尾根への藪漕ぎを断念したようである。 後から地図を見て確認すると、この尾根は単純に東西に伸びているわけではなく、途中に山塊に切れ込む沢があり、一旦北に進み、しばらくして東西に延びる尾根に乗り換えるようであった。
予定にしていた尾根道ルートを諦め、遠回りではあるが、妙之谷川に沿って高速道路の松山自動道辺りまで下り、そこから松山自動車道に沿って車のデポ地点である大谷池へと進むことにする。

尾崎八幡神社;午後13時58分_標高172m
県道に戻り妙之川の本流と支流が合流する辺りに尾崎八幡。参道鳥居の先に古き趣の拝殿、本殿。「おざき」の由来は「突き出した台地の先端=小さな崎」を指すことが多い。妙之川の本流が支流と合流する突起部分にある故の命名だろうか。それとも、杉並区の尾崎地区の地名に由来によれば、源頼義が奥州征伐の折、白旗のような瑞雲が現れ大宮神宮を勧請することになったが、その頭を白旗地区、尾の部分を尾崎とした、と言う。この地の尾崎も同様に「頭」に相当する地区があるのだろうか。単なる妄想。根拠なし。

太子堂;午後14時32分_標高84m
尾崎八幡神社から3キロ弱進むと道脇に大師像と祠。太子堂と称される。地名は「馬返」とある。馬返の由来は不詳だが、日本全国にある馬返の由来は、険路で馬を下りたところ、女人禁制・牛馬禁制の地の境の地名といったものが多い。この地の馬返由来を考えて見るに、昔の遍路道は現在の県道と異なり、大郷(おおご)地区で左に大きくカーブする辺りで分岐し、県道の50mほど上の杉林の中を進んでいたようである。険路であったのだろう。

高森神社;午後14時45分_標高51m
大師堂から1キロほど「山ノ神」地区などと言う興味深い地名がある。農村では春になると「山ノ神」が山から降りて「田ノ神」となり、秋には再び山に戻るという信仰がある。地名の「山ノ神」とは、稲の生育を守っていた「田ノ神」が収穫を終え帰ってゆく場を示すことも多い。この地の田ノ神の由来は如何なるものであろう。因みに山ノ神は一般的に女神であるとされ、これが妻のことを「山ノ神」と称する所以ではあろう。
田ノ神地区を進むと道脇に、誠にささやかな社がある。パイプもどきの鳥居と小祠。小祠の前には車のホイールが無造作におかれていた。その脇には愛媛出身の政治家・村上誠一郎氏(大蔵政務次官当時)寄贈らしき石碑が建つ。幸福の栞といった内容のもので高森神社の縁起とは関係ないものであった。
縁起などは全くわからないが、相模にある高森神社は加茂族の祖である高彦根命を祀っているわけで、西条市には加茂族の本拠地がその名も加茂川の東にあり、加茂神社も鎮座する。この高森神社も加茂族に関わる祠であるのだろうか。因みに、三河の松平家は賀茂神社の社家である加茂氏の末裔という説があり、徳川の三つ葉葵は加茂氏の二葉葵が源との説もあるようだ、

露出地層?;午後15 時5分_標高35m
妙之川に沿って下る。川の所々で目にするこの川の川床、護岸工事をしないで自然のままに残している崖面の岩の形状に惹かれる。鋸状の川床の岩盤、柱条になった崖面の岩肌などである。西条市は中央構造線が地区西武を縦貫しており、中央構造線に沿った地域では丹原の中山川の衝上断層のように、古代期からの地質が露出されているところがあると言うが、護岸工事を逃れ露出されたままの地質は、なにか意図的に残された断層のサンプルなのだろうか。地質学的に門外漢の私には詳細はわからないのが少し残念である。


松山自動車道;午後15時7分_標高35m
露出地層(?)のすぐ先に松山自動車道(高速道路)が走る。ここからはショートカットをと、松山自動車道に沿って大谷池まで進むことにした。真っ直ぐ進み、国道11号大頭(おおと)交差点へと進めば妙雲寺とか石土神社といった寺社が四国札所ゆかりの寺社があったのだが後の祭り。別の機会のお楽しみとする。
○お山道 大頭から湯浪、横峰寺を経由して石鎚山に登る道は「お山道」として親しまれた。大大頭とその東の妙口(ようぐち)地区は藩政時代より讃岐街道の宿場町としえ賑わったようである。
その石鎚への西の登山口であるお山道に沿ってあるこの地には石土神社と妙雲寺があり、神仏混淆で蔵王権現を祀ってきた。妙雲寺は札所60番横峰寺の前札所・石鎚登山者の礼拝所として賑わった。

藪漕ぎ;午後15時37分_標高99m
松山自動車道に沿った脇道を東に進む。松山自動車道が瀬戸内海を跨ぐ「しまなみ海道」へと進む「今治小松自動車道」と分岐する「いよ小松ジャンクション」辺りで東に向かう道がなくなる。
ジャンクション手前で自動車道を跨ぎ国道11号まで続く道はあるのだが、それでは結構大回りとなるので、自動車道に沿って道なき道を藪漕ぎして進むことに。畑地の辺りでアプローチ地点を探し、成り行きで藪を進み、自動車道脇まで引っ張られながら藪漕ぎすること約30分、午後16時7分に大谷池脇の道に下りることができた。

車デポ地点;午後16時41分_標高115m
車のデポ地点に向けて道を進むと道脇に「道前道後農業水利事業」の案内;雨量の少ない道前道後平野に農業用水を安定的に確保するため、昭和に入り恒久的な用水対策が実施され、昭和32年(1957)から10年かけて面河ダムや道前道後の両平野に水を送る施設を農林省が建設。現在では、古くなった施設の改修と、新たな水需要に対応するため、東温市に佐古ダム、西条市丹原町に志河(しこ)川ダムを造りより安定した農業がおこなえるようになっている。 虹の用水;面河ダムから道前道後平野に届けられる水はいくつもの山並みを越えてやってくる水の連なりが、まるで虹のようであるので、「虹の用水」と呼ばれている。面河渓谷の水をひくにあたっては高知県の協力がなければ完成できなかったため、「感謝の用水」とも。
大谷池;大谷池の1キロ上流に面河ダムより送水している農業用水が地下のパイプをとおして導かれる(通称;右岸幹線用水路)またすぐ傍らに分水工と呼ばれる建物(通称;道前右岸10号分水工)があり、ここのバルブを開き、すぐ下流にある水路を通り大谷池に農業用水を送る、とあった。

地図を見ると、面河ダムに貯留された水は、四国山地の山塊を隧道(トンネル)で抜き、中山川の逆調整池まで流下。逆調整池で道前平野側と道後平野側に分水され、道前平野側では逆調整池で中山川に放水され、流下した水を中山川取水堰から取り入れた後、両岸分水工で道前右岸幹線水路と、道前左岸幹線水路に分水。道前左岸分水は南下するが、道前右岸幹線水路はこの大谷池を経て加茂川辺りまで続いている。
また、中山川水系志河川に建設された志河川ダム(平成16年度に本体工事に着手し、平成22年度に完成)に貯留された水は、中山川を横断する水管橋を通り、上述した両岸分水口に放出され、右岸幹線水路と、左岸幹線水路に分水している、ようである。

大谷池の西岸を進み、車で乗り入れた東岸の道と合流、香園寺の奥の院へ。車のデポ地点まで車を取りに行ってくれる弟を奥の院で待ち、全行程;24キロ。8時間の歩き遍路を終える。

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