土曜日, 5月 19, 2007

利根川東遷事業の川筋を歩く;中川そして葛西用水上流部

利根川東遷事業の川筋を歩く;葛西用水、会の川から中川へ 中川の上流域を歩こうと思った。先日権現堂川を歩いたとき、権現堂堤近くで合流した川である。利根川の瀬替えによって取り残された川筋をつなぎ、まとめあげた水系、とのこと。八甫(鷲宮町)、川口(加須市)、島川(栗橋町)といった地名が川筋に沿って見える。昔の舟運とか利根川東遷の際に、しばしば登場する地名である。また、鷲宮町には。関東最古の社、とも言われている鷲宮神社もある。ということで、今回の散歩は鷲宮町の鷲神宮からスタートし、中川に沿って川口、八甫へと進み、権現堂川との合流点で締め、といった段取りとした。実際は大きくコースが変わることになるのだが、それも成り行き次第の気ままな散歩の妙味でもあろう。

本日のルート;鷲宮郷土館>天王新堀>鷲宮神社>中川と葛西用水の最接近部・川口>葛西用水・川口分水工>会の川>県道125号線>川口>門樋橋>JR宇都宮線交差>行幸橋 ・行幸堤碑>幸手駅

鷲宮郷土館
湘南新宿ライン・宇都宮線直通電車で東鷲宮に。駅の西口に降り、線路に沿って北に。県道152号を西に。3号線と交差。先に進む。しばらく進むと葛西用水と交差。葛西用水に出合うとは思っていなかったので、少々流れが気になる。気にはなりながらも、本日の散歩は中川筋を歩くこと。先を急ぐ。
橋を渡ると鷲宮郷土館。しばし鷲宮の歴史を概観。縄文期からはじまり、平安期の荘園領・太田荘の頃、中世・古河公方との強い関わり、といったこと、それと、中川筋の交通の要衝であったこの地の歩みをスキミング&スキャニング。そもそも鷲宮って地名を知ったのは、古河を歩き、古河公方のあれこれを調べたとき。古河公方がこの地を物流の要衝として重視していた、ということだった。鷲宮の何たるかを再確認。

天王新堀
郷土資料館を離れ、西に進む。道の北側に水路。天王新堀である。この掘は、加須市東栄町1丁目あたりの都市排水路が基点。上流域は「六郷掘」と呼ばれる。加須市内を東武伊勢崎線に沿って下り、東北道を越え、鷲宮で東武伊勢崎線と交差する。それより下流が天王新堀と呼ばれている。この流れは葛西用水と青毛掘川の間を下り、久喜市吉羽で青毛掘川に合流。全長10キロ程度の都市排水路である。もともとは、農業用排水路であった。

鷲宮神社
道を更に西に進むと鷲宮神社。立派な構え。由来書によれば、「出雲族の草創に係る関東最古の大社。武蔵国の経営に東に下った天穂日命とその子・武夷鳥命がこの地に到着。お供の出雲族が当地に大己貴命を祀る。その後、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国平定の折り、この地に宮を建て天穂日命とその子・武夷鳥命(天夷鳥命、天鳥舟命;あめのひなとりのみこと)を祀った、と。大己貴命(おほなむちのみこと)は出雲の大国主命。出雲族がまつったことは理にかなっている。神話のことは、ともかくとして、境内には縄文から古墳期にかけての複合遺跡「鷲宮堀内遺跡」も残っており、古くから開けたところでは、あったのだろう。

いつだったか、足立区花畑の大鷲神社を訪ねたことがある。この神社は「お酉様」の本家、とか。大鷲神社の産土神(うぶすなかみ)は天穂日命の御子・天鳥舟命であった。この地の鷲宮神社と同じ、である。この天鳥舟命、って「土師連」の祖先。「土師(はじ)」を後世「はし」と呼ぶようになり、「はし」を「波之」とか「和之」と表記。それを、「わし」と読み違え、「鷲」となり、神社の名前が「鷲宮神社」となった、とか。





鷲宮神社は中世以降関東の総社、また関東鎮護の神。藤原秀郷や源義家といった武将から庇護を受けた。鎌倉時代には源頼朝が神馬奉献・社殿造営。北条時頼が神楽奉納。北条貞時が社殿造営。小山義政が社殿修理。室町時代には古河公方の保護を受ける。徳川期には、徳川家康により400石の御朱印地を与えられた。 この神社の近く、中川、昔は島川であり、浅間川であったのだろうが、ともあれ現在の中川筋に川口とか八甫といった河岸があり、舟運が盛んであった、とか。近辺が交通・物流の要衝として栄えていたのも、多くの武将がこの神社を崇めたことと関係ないわけではないだろう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

中川と葛西用水の最接近部・川口
神社を離れ、鷲宮3丁目を成行きで中川に向かって進む。葛西用水が再び登場。気になる。水路脇の案内に、「川口分水工」とか「会の川合流点」といった記載。少々迷う。予定通り、すぐ北、というか、用水のすぐ東を流れる中川の土手に出て、八甫に向かうか、それとも、「会の川」に向かうか、少々迷う。距離も結構ある。予定とは真逆の方向。また、会の川といっても、源流は遥か彼方で、単に葛西用水との合流点であるだけではあるのだが、はてさて、の迷い。が、結局、利根川東遷事業のはじまりともなった「会の川」って言葉に惹かれて予定変更。会の川との合流点を求め、葛西用水を西に向かうことに、した。

葛西用水・川口分水工
鷲宮地区を越え、葛西用水に沿って、川口3丁目に。「川口分水工」がある。「北側用水」が分流している。川筋をチェックすると、中川に沿って下り、権現堂堤あたり、国道4号線を越えると権現堂用水となっている。そこから、中川にそって更にくだり、杉戸町・並塚で一瞬、神扇落に合わさり、すぐに中川に合流。なお、神扇落は、幸手市下吉羽で権現堂用水路から分流した用水である。
葛西用水のすぐ北に中川が流れる。このあたりが両水路の最接近地。とは言っても、昔は中川があったわけでなく、このあたりは南利根川とも呼ばれ、東遷事業以前の利根川の主流のひとつでもあった「会の川」がふたつに分かれたところ。ひとつが現在の中川筋、もうひとつが現在の葛西用水の川筋(昔の古利根川筋)であったわけで、正確には、最接近と言うより、ここが「会の川」の分岐点であった、ということである。

会の川
葛西用水、つまりは昔の「会の川」筋を活用した川筋だが、この用水に沿って西に進む。西に進むにつれて、中川との距離は開いてゆく。のんびりとした田園風景の中を進む。川面橋を越え、国道125号線に架かる新篠合橋に。この橋のすぐ西に「会の川」の合流点があった。

 「会の川」って、利根川東遷事業のはじまりとも言える、「会の川」締め切り、ということで結構気になっていた。現在は中川水系の川とはなってはいる。が、昔は中川があったわけではない。そのことは上にメモした。
近世以前の利根川は八百八筋と呼ばれるほど、派川が多く、乱流していた。「会の川」は、その利根川の「本流」のひとつであった、とか。現在の「会の川」は、羽生領上川俣で利根川からわかれ、行田市と羽生市の境界線を走り、羽生市砂山あたりで東に流れを変え、そこからは羽生市と加須市のを通り、加須市南篠崎と大利根町大桑の境界で葛西用水に合流する。その合流点が新篠崎橋近くの合流点である。

県道125号線
合流点を確認し、中川に戻ることに。125号線を東に。トラックの往来が多い。太田市を含めた北関東一帯って、「北関東工業地帯」と呼ばれていると。国内有数の工業地帯となっている、とか。そういった活発な生産活動ゆえ、ではあろうが、歩く立場からすれば、大型トラックの風圧など結構怖いものである。 北大桑の香取神宮を越えたあたりでなんとか車道から離れた野道があった。北東に進む。中川の堤に出る。中川に沿った土手道を歩く。遊歩道といった雰囲気ではない。野趣豊かな土手道である(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

川口
古門樋橋に。このあたりから、土手道もあやうくなる。川筋東側は通行止め。西側も工事中のような、そうでないような、微妙な雰囲気。とりあえず進む。なんとか進める。自然のままの土手道。土手脇に鹿島道路栗橋テクノセンターがある。この工場がきれるあたりが、中川と葛西用水の最接近の場所。葛西用水を西に向かったスタート地点・川口地区にやっと戻った。

門樋橋
川の北側の土手道を進む。門樋橋手前では、土手道が行き止まり、となる。仕方なく少し引き返し、道なき道を力任せに押し通る、といった感じ。門樋橋を越え土手道を進む。門樋橋の南は雑木林といった有様で歩けない。

JR宇都宮線交差
北側を進む。JR宇都宮線を越える。川の北は島川、南は八甫地区。島川橋を過ぎると北から稲荷木落排水路が合流。しばらく進むと東北新幹線と交差。更に進み、昭和橋の手前には香取神社とか香取大明神、権現堂など。昔はこのあたりに河岸でもあったのだろう、か。

行幸橋 ・行幸堤碑
昭和橋を越え、高須賀池の森を眺めながら、進み東武日光線と交差。道も切れ橋の下をくぐり進む。行幸橋に。まったく道はなし。畑の端を這い上がり、ブッシュを切り抜け上に上がる。橋の東で中川は権現堂川と合流する。
合流点ちかくにあった石碑にあった、中川についてのあれこれをまとめておく。 中川;中川は羽生市を起点とし、埼玉の田園地帯を流れ東京湾に注ぐ全長81キロの河川。起点をチェック。羽生市南6丁目あたり。宮田橋のところで葛西用水を伏越で潜り、宮田落排水路(農業排水路)とつながるあたりが起点、とか。
中川には山岳部からの源流がない。低平地、水田の排水を34の支派で集めて流している。源流のない川ができたのは、東遷・西遷事業がその因。江戸時代、それまで東京湾に向かって乱流していた利根川、渡良瀬川の流路を東へ変え、常陸川筋を利用して河口を銚子に移したこと。また、利根川に合流していた荒川を入間川、隅田川筋を利用して西に移したことによって、古利根川、元荒川、庄内古川などの山からの源流がない川が生まれた。
現在の中川水系一帯に「取り残された」川筋は、古利根川筋(隼人堀、元荒川が合流)と島川、庄内古川筋(江戸川に合流)に分かれていた。幕府は米を増産するために、この低平地、池沼の水田開発を広く進め、旧川を排水路や用水路として利用した。が、これは所詮「排水路」であり「用水路」。「中川」ができたわけではない。
中川水系の水田地帯を潤し、そこからの排水を集めた島川も庄内古川も、その水を江戸川に水を落としていた。が、江戸川の水位が高いため両川の「落ち」が悪く、洪水時には逆流水で被害を受けていたほどである。低平地の排水を改善するには、東京湾へ低い水位で流下させる必要があった。そこで目をつけたのが古利根川。古利根川は最低地部を流れていた。島川や庄内古川を古利根川つなぐことが最善策として計画されたわけである。実際、江戸川落口に比べて古利根川落口は2m以上低かったという。
この計画は大正5年から昭和4年にかけて外周河川である利根川、江戸川および荒川の改修に付帯して実施された。島川は利根川の改修で廃川となった権現堂川を利用したうえで、幸手市上宇和田から杉戸町椿まで約6キロを新開削して庄内古川につながれた。庄内古川は松伏町大川戸から下赤岩まで約3.7キロして古利根川につながれた。こうして「中川」ができあがった。
また、昭和22年カスリーン台風の大洪水のあと、24年から37年にかけて放水路として新中川も開削される。都内西小岩から河口までの約7.6キロ、荒川放水路計画の中で用水路に平行して付け替えて綾瀬川を合流させた。こうして中川・新中川が誕生した。ちなみに、中川って、江戸川と荒川の「中」にあったから。とか。
大雑把に言って、利根川の東遷事業、荒川の西遷事業によって「取り残された」埼玉中央部の川筋を、まとめ直した川筋をして中川水系、と言ってもいいだろう。

幸手駅
御幸橋から権現堂桜堤を経て、幸手駅まで歩き、本日の予定終了。幸手の由来は、アイヌ語で「乾いた土地」から、とか、日本武尊が東征の折上陸した「薩手が島」に由来するとか、例によって諸説あり

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