河川の流路を別水系の流れがその流路を奪うことを「河川争奪」と言う。早戸川が中津川にその流路を奪われたのは地形の隆起とか、断層のズレのためとも言われるが門外漢にはいまひとつよくわからない。
河川争奪の要因はわからないが、早戸川がその流路を中津川に奪われ合流した地点は宮ヶ瀬である。が、現在その合流点は宮ヶ瀬湖の湖底に沈む。一方、早戸川の流れを奪われた串川はその宮ヶ瀬湖底の合流点のすぐ北を東へと流れる。地形図で見るに、かつて早戸川と串川が合流していた地点であろう辺りより、少し下ったところは、現在の串川に比べてアンバランスに大きい平坦地が広がっている。
早戸川と中津川が合流した地点は湖底で見ることはできないだろうが、それぞれの川が丹沢山塊から下り合流する谷筋の景観、そしてかつての串川と早戸川の合流点辺りの地形を見てみようと宮ヶ瀬湖に向かう。合流点から後のルートは時間の許す限り串川の流れに沿って、流路の周囲に拡がるかつての「大河」の痕跡でも見てみようと、晩春の週末、「河川争奪」の地に散歩に出かけることにする。
本日のルート;愛川町半原>半原水源地>石小屋ダム>石小屋跡>津久井導水路取水口>大沢の滝>宮ヶ瀬ダム>やまびこ大橋>熊野神社>宮ヶ瀬湖畔園地>虹の大橋>鳥居原園地>串川の風隙>道場>御屋敷>東陽寺>諏訪神社>地震峠>光明寺>国道412号・関交差点>青山神社>長竹三差路>串川橋>根古谷中野バス停
愛川町半原
通い慣れたる小田急線・本厚木駅より半原行きのバスに乗り終点の半原に向かう。半原を最初に訪れたのは数年前。武田信玄と小田原北条氏が戦った三増合戦の地を訪ねて志田峠を越え、折り返し国道412半原バイパスを半原の地に戻って以来のことである
。 半原は明治から大正、そして昭和にかけ「撚糸の町」として知られていた。戦前は陸軍飛行場、現在は工業団地となっている中津原段丘面は一面の桑畑であったようで、半原は相模三大養蚕地帯のひとつでもあり、中津川により四季を通して一定の湿度が保たれる、八王子という生糸の集散地・絹織物の生産地に近い、といった地の利、また養蚕地帯故に家庭で糸を扱うことに馴れた村人も多いといった人の利も相まって撚糸業が興った、と言う。
因みに、撚糸(ねんし)とは「糸に撚(より)をかけること」。早い話が「捻(ねじ)り合わせる」ことである。その目的は、繭からほぐした糸は細く、何本か束にしなければならないが、そのままでバラバラして扱いにくいため生糸の束を軽く捻り合わせ、丈夫な一本の糸とする。そうすることによって生地に光沢といったものも出てくるとのこと。ついでのことながら、「腕に撚りをかける」とか、「撚りを戻す」ってフレーズは、この糸を撚ることから来ているようである。
半原水源地
バスで台地から半原の町に下る時、バスの窓から目視しており、バス停から日向橋の南詰に向かい中津川右岸を少し上流に進み、途中、若宮八幡にお参りし半原水源地に。
柵で囲まれた水源地の中には幾つかの沈殿池があり、この水源地の上流500mほどのところにある取水口から取り入れ沈殿池の砂利などで濾過した後、およそ53キロ離れた横須賀の逸見浄水場に自然流下で送られていたようだが、平成19年(2007年)4月より送水は休止中とのことである。
石小屋ダム
先に進むにつれ深い谷を塞いだ堤高156mの宮ヶ瀬ダムが姿を表す。ほどなく石小屋の石碑があり、その先に石小屋ダム。正式には宮ヶ瀬副ダムと称する。水位が低下したときには、宮ヶ瀬ダム建設時、中津川の水を上流で堰止め、2キロに渡り中津川右岸に通した工事用排水管の排水口が見えるようだが、今回は水量豊かなために見ることは叶わなかった。
案内によると石小屋ダム建設の目的は大きく3つ。第一は宮ヶ瀬ダムの放流水の勢いを弱め、下流での洪水被害を防ぐ、第二は津久井導水路導水路の水位確保、そして第三は発電(愛川第二発電所)の水位確保、とのこと。
第一の目的は芦ノ湖に匹敵する水量を貯めた宮ヶ瀬湖の水を堤高156mもある宮ヶ瀬ダムからの放水による急激な水量による弊害を避けるため。 第二の津久井導水路導水路とは宮ヶ瀬ダムの水を城山ダム(津久井湖)に導水するおよそ5キロの隧道。城山ダムの上流の道志川に水を送り、相模川本川が水不足で中下流の磯部頭首工、相模大堰、寒川取水堰などで取水が困難になりそうになった時、津久井湖に水を供給するためのものである。ふたつのダムが連携し水資源の有効活用を図るというわけである。第三の愛川第二発電所は石小屋ダムの左手下に見える。
このような目的で、「副」とは言いながら堤高35m弱という本格的な石小屋ダムは宮ヶ瀬ダムと共に建設が開始され、2000年(平成12年)に宮ヶ瀬ダムと共に完成した。
○相模導水
導水路といえば、宮ヶ瀬ダムには相模導水があり、この場合は津久井導水路とは逆に道志川の水を宮ヶ瀬湖に送る。集水面積は小さいが貯水容量の大きい中津川水系の宮ヶ瀬ダムと、逆に集水面積は大きいが貯水容量の少ない相模川水系の城山ダムや相模ダムが連携しての水資源の活用を行っている。
石小屋跡
○中津渓谷
ところで、宮ヶ瀬ダムができる前はこの石小屋から宮ヶ瀬・落合地区までの3キロは渓谷美で知られ中津渓谷と称された。当時は数件の旅館もあったようである。中津渓谷に架かる石小屋橋は少し上流、現在の宮ヶ瀬ダムの少し手前辺りにあったようである。
津久井導水路取水口
大沢の滝
宮ヶ瀬ダム
また、目には見えないがダムの堤の内側には「選択取水設備」があり、「水温、濁りに配慮した放水をおこなうため、さまざまな水深からの取水を可能としている」との説明があり、イラストでその選択取水設備から愛川第一発電所と「利水放水設備」へと水管が続いていた。「利水放水設備」とは「灌漑、水道用水、工業用水等の利水利用のための放流設備」。相模川水系、酒匂川水系とともに神奈川を潤す。特に上にメモしたように、相模川水系とは水の「貸し借り」をしながら連携して効率的な水資源利用を図る。
○インクライン
最大斜度35度というインクラインは建設工法を重力式とする宮ヶ瀬ダム建設時、大量に必要となるセメントを積載トラックごと運び上げたという。建設当時の写真を見るに、中央に直線が二本、左右に斜めにそれぞれ一本のツリー型のインクラインが見える。電力を多く使うインクラインの電力負荷を軽減するためカウンターウエイトのラインを設けていた、とのことである。上りと下りを同時に動かし、上りの負荷を軽減したのだろう、か。
○重力式ダム
重力式ダムとは、コンクリートを大量に使い、その質量をもとに自重で水圧に耐えるダムの建設工法。他にアーチ式ダム、フィル式ダムなどがある。アーチ式ダムはダムをアーチ型にし、左右の堅い岩盤に水圧を分散させる工法。重力式ほどコンクリートを必要としない。また、フィル式は岩石や土砂を積み上げてつくる工法。岩石を積み上げるダムはロックフィルダムと呼ぶ。
宮ヶ瀬ダムの天端
○宮ヶ瀬湖建設までの経緯
宮ヶ瀬湖建設までの経緯を簡単にメモすると、昭和22年(1947)には相模川水系の相模ダム(相模湖)が完成、また昭和45年(1970)にはその下流に城山ダム(津久井弧)完成。そして昭和47年(1972)には相寒川取水施設(寒川取水堰(せき))も完成し、相模川水系の水資源の活用が図られた。
酒匂川水系においても、昭和54年(1079)に三保ダム(丹沢湖)が完成。飯泉取水施設(飯泉取水堰(ぜき))も造られ酒匂川の水利用も推進された。
しかしながら、水需要の増大は当初の計画以上と想定される状況に至り、その対応として中津川水系の水資源総開発が計画。当初は相模川、酒匂川水系と同じく県営事業として中津川ダム建設が計画されたが、最終的にはその規模を各段に大きくした宮ヶ瀬ダムが建設大臣直轄事業として実施されることになる。
平成10年(1998)に宮ヶ瀬ダム本体と津久井導水路が完成し、平成11年(1999)4月より、上でメモした宮ヶ瀬ダムの一部運用に伴う既設ダム群との総合運用を開始し、平成13年(2001)4月からは宮ヶ瀬ダムの全面運用に伴う本格的な総合運用を開始。相模取水施設(相模大堰(ぜき))のほか既存の寒川取水施設(寒川取水堰(せき))等も暫定的に使用して宮ヶ瀬ダムの水を有効活用している。
やまびこ大橋
○中津川
丹沢山地のヤビツ峠付近にその源を発し、4キロほど北流しタライゴヤ沢合流点辺りまでは藤熊川、その合流点から更に北に3キロほど北流し本谷川との合流点辺りまでは布川戸呼ばれる。その合流点から下流は中津川となり、大山を水源とする唐沢川などを集め宮ヶ瀬湖へと注ぐ。
○宮ヶ瀬ダムと宮ヶ瀬村

ダムの底に沈んだ中津川や、中津川に合流した早戸川、そして宮ヶ瀬村の姿を「ふるさと宮ヶ瀬;ふるさと宮ヶ瀬を語り継ぐ会(夢工房)」をもとに以下メモする。現在芦ノ湖ほどの広さをもつ宮が瀬湖であるが、昭和41年(1966)、県営事業として中津川水系の利水開発、所謂「三点ダム構想」が発表されたときは、中津川(宮ヶ瀬字一之瀬;唐沢川との合流点の下流)、早戸川(宮ヶ瀬字落合上流)をロックフィルダムで堰止めて調整、自然流水を石小屋から津久井湖に導水し、既存の県営利水設備に機能させ水需要に対応しようというものであった。しかし3年かけて準備してきたこの計画は昭和44年(1069)、建設省によって発表された巨大ダム構想に取って代わられる。その結果、県営事業では想定していなかった宮ヶ瀬村が湖底に沈むことになった。
当時の宮ヶ瀬村は240戸ほど。交渉の結果、昭和44年(1069)宮ヶ瀬ダム計画を受け入れた住民は補償金とともに代替地に移転することになる。いくつかの候補地の中から厚木市中荻野(現、宮の里)に200戸、宮ヶ瀬(現在の水の郷、宮の平)におよそ30戸、その他の町村に残りの村民が移住した。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)
■北集落
川弟川が中津川に合流した下流左岸。現在のやまびこ大橋の西詰めの南、宮ヶ瀬村の氏神が鎮座する熊野神社の東の湖底に沈む。この熊野神社も水没を避け移築したものである。北集落の少し北、現在の「やまびこ大橋」の辺りには、中津川を渡る「宮ヶ瀬橋」が架かっていた。 ■馬場集落
川弟川が中津川に合流した下流左岸。地名の由来は、昔、津久井郡青根村から入植した人がはじめて馬を飼ったところ、から。宮ヶ瀬村の中心であり大正4年(1915)には宮ヶ瀬小学校、昭和22年(1947)には中学校が出来た。 ○異人館と唐人河原
この地には異人館があり、幕末から明治初年にかけて横浜居留地の外国人がこの地を訪れた。安政5年(1858)諸外国と締結された「修好通商条約」によって外国人は十里四方以遠への旅行を制限されており、この宮ヶ瀬が横浜から旅行できる山紫水明の地として重宝されたのであろう。写真家のベアトやヘボン式ローマ字のヘボン氏などがこの地を訪ねている。集落から川を隔てた対岸は「唐人河原」と呼ばれていたようである。
いつだったか飯山観音を訪れた時、幕末の報道写真家、フェリックス・ベアトが宮ケ瀬への途中、庫裏橋を撮った写真があった。藁だか萱だかで葺いた屋根の民家。橋の袂に所在なさげに座る人。その横で箒をもつ人。掃き清められ清潔な風景が切り取られている。素敵な写真である。その時はなぜ宮ヶ瀬に?と思っていたのだが、これでその時の疑問が解決した。
■久保の坂集落
馬場集落の南。中津川左岸の川辺であり、急坂の両側に集落があった。この集落には湧水があり伊勢原、厚木への往還、大山参りの人の渇きを潤していた。
■南集落
久保の坂集落の南。中津川上流の札掛に向かう道筋であり、丹沢への登山口への道筋でもあった。札掛は中津川の上流、藤熊川沿いにある地名。樅(モミ)の原生林や欅(ケヤキ)の大木などが繁る森は、江戸幕府の御料林であり、杉・ひのき・モミ・ツゲ・ケヤキ・カヤは「丹沢六木」称され建材としてとして厳重に保護されていた。札掛の由来は役人が欅の大木を見回り、掛けた札による。 御用林は明治に皇室の御料林となり、昭和6年(1931)には県有林となった。
■和田集落(川弟川方面)
煤ヶ谷方面、土山峠付近より北上する川弟川が中津川に合流した右岸。中津川の堆積土上に集落があった。対岸の久保の坂集落とは「宮ヶ瀬大橋」で結ばれていた。
■上村集落(川弟川方面)
和田集落の皆南、中津川がつくた河成段丘上に集落があった。和田村を上村に対し下村と呼んだり、前和田・奥和田と称したり、ふたつの集落を合わせて「川前」とも称したようである。また、対岸の集落を「向かい」と呼んだ。
■向落合・前落合集落(早戸川方面)
馬場から津久井方面に2キロほど北に上り、早戸川が中津川に合流する少し上流、早戸川の左岸に向落合、右岸に前落合の集落があった。両集落で70戸ほど。この集落から少し南に下った日陰横根で早戸川は中津川に合流し、記念橋(関東大震災を記念した橋)が架かり、津久井には橋を渡り、愛川へは日陰横根から右に折れて中津川に沿って下っていった。
熊野神社
境内にあった案内をまとめると、「古くは諏訪神社として勧請。当初の守護神であった。しかし、延文3年と言うから14世紀の半ば、武蔵の国・矢口の合戦に敗れた新田義興の郎党矢内入道信吉がこの地に落ち延び、村を隔てる一里余の平地の中津川畔に館を構え、更に遡る布川・塩水川合流点直下に奥野権現を祀り氏神として深く信仰していた。しかし、賊徒の凶刃に斃れ一族滅亡。祭主を失い、荒廃した社を村人が村内に移し、社号を熊野神社と改め明暦元年古社(私注;これが諏訪神社のことを指すのだろう)と合祀した。
時がたち、宮ヶ瀬ダム建設のため氏子の住居とともに水没することとなり、長年鎮座の地より八坂神社とともに当地に移し再建。さらに当地より移転した厚木市宮の里地区に分社を造営。在落落合郷第六天社稲荷神社を春の木丸地区に、更に旧村内各部落祭祀の小社を覆殿に移し、祭っている」とあった。
上で水没する村民は厚木市中荻野(現、宮の里)に200戸、宮ヶ瀬(現在の水の郷、宮の平)におよそ30戸が移転したとメモした。確かに厚木市宮の里には熊野神社が鎮座する。また、宮ヶ瀬地区の移転先である宮ヶ瀬湖畔園地・水の郷(上の案内にある春の木丸:正確には「B代替地;商業地」)の売店脇には水の郷第六天社が鎮座している。因みに宮ヶ瀬・宮の平とは正確には「北原地区(A代替地;住宅地)であり、熊野神社の南にある宮ヶ瀬北原交差点近くにある住宅地のことであろう。
宮ヶ瀬湖畔園地
公園内を進み、県道脇の売店群の北にある水の郷第六天社にお参りし園地を離れ、再び県道に戻る。
虹の大橋
橋から西に見える山峡が早戸川の谷筋である。
○早戸川
早戸川は丹沢山の北麓にその源を発し、しばし北流した後、その流路を東に変え宮ヶ瀬湖に注ぐ。早戸川は「虹の大橋」の中央真下を通り東に進むが、虹の大橋を渡った県道64号が湖畔を離れ北に大きく方向を変える辺りの南でその流路を急激に南方向へと向け、中津川に合流していた。
おおよその場所は、北に大きく方向を変える県道64号の南で湖に向かって突き出る台地の先といったところである。また中津川との合流点はそこから少し南、現在の地形で言えば、虹の大橋に向かって湖に突き出した台地の付け根あたりと、やまびこ大橋を越えた先にあった湖に突きだした台地から線を伸ばしクロスした辺りではあろう。
鳥居原園地
今回の目的は早戸川・中津川・串川の河川争奪の名残を感じる散歩。ポイントは早戸川が急激に流路を南に帰る辺り。その場所はおおよそ予測できたので、そこから串川の流れまで、現在どのような地形になっているか辿ることにする。
虹の大橋を渡り、北東へと緩やかに曲がる県道64号が北へと下るところで県道と離れ、そのまま直進すると「鳥居原園地」がある。「鳥居原ふれあいの館(いえ)」などが整備された総合観光施設である。この園地からの宮ヶ瀬湖、やまびこ大橋、宮ヶ瀬湖畔園地、虹の大橋、そして宮ヶ瀬湖の奥に聳える丹沢の山容が一望のもと。左端の土山峠、その横に辺室山、最奥部に聳える大山、右端に蛭ヶ岳と有名どころの山々も案内写真の助けで遠景を楽しめる。
○湖底の早戸川と中津川合流点
道場・串川の谷底堆積地
串川の周囲の平坦地は、鳥居原園地の風隙から下ってきた道場の集落の上流にある御屋敷集落の周囲にも大きく広がっている。早戸川を巡る串川と中津川の河川争奪は構造線の横ずれと上下運動によって形成された、と言う。このような地殻変動が数度に渡って行われ、流路も変遷を重ねたのだろう、か。単なる妄想。根拠なし。
御屋敷
櫛を川に落とした姫君の由来譚もそれなりに面白いのだが、実際は、地形から名づけられたものであろう。『相模川歴史ウォーク;前川静治(東京新聞出版局)』によれば、「くし」は海岸線や河川などの屈曲部のところを指す、という。
東陽寺
本流は北からの流れであったのだが、あまり調べず成り行きで進み南の宝樹沢に進んでしまった。しばらく進み、水も絶えた辺りまで行ったところで本流ではないことに気が付き元に戻る。
諏訪神社
歴史は古く、仁治2年(1241)に菱山肥後守入道隆頼公が菱山氏菩提のため、清真寺を此の地(鳥屋中学の西)に建立したと同時に山内鎮守として勧請、享禄3年(1530)に現在地に遷座された(菱山肥後守の詳細はわからない)。
境内前に石仏群。中央に六字名号塔、左右に馬頭観音や廿三夜塔が配置されている。道路拡張等により、ここに集められたものだろう。六字名号塔とは「南無阿弥陀仏」が刻まれた石塔のこと。
地震峠
「ここは中上 標高274m」 、「ここは中下 標高271m」、「ここは渡戸 標高267m」と続いた後、切り通しといった道の南側擁壁の上に「鳥屋 地震峠」の案内があった。案内には関東大震災の全体の説明に続き、「・・・当津久井郡内では、死者三十三名、負傷者十六名、全壊棟数百二十戸、半壊棟数四百二戸となっているが、この内ここ馬石では、死者十六名、埋没棟数九戸で、死体が確認されたのは八人のみ、ある家では六人家族全員が埋没死したのである。当時の串川は現在の県道よりもずっと南側を流れていたが、山津波のために串川がせき止められ、上流五百メートル位まで湖のようになってしまったという。・・・昭和六十一年三月 津久井町教育委員会」とある。
南の山地側の斜面が地震の時崩壊し土砂が押し寄せ、人家を埋め串川を堰止めたのだろう。現在切通しとなっている県道は崩壊土砂を切通して通しているが、串川は崩壊土砂を避け利用に左側に大きく迂回している。
地震による山地斜面の崩壊、河川の閉塞、流路の変更、切り通しとなった道など、自然による地形の変化のサンプルがこの峠に現れている。
光明寺
国道412号・関交差点
関の交差点から東の国道412号は、津久井城から成り行きで串川の谷筋に下り、深く刻まれた串川の谷に沿って串川橋をへて辿った道である。深い谷と進むにつれて現れたささやかな串川の流れ、そして深い谷に代わって現れた発達した川成段丘。そのアンバランスが気になってチェックした結果が今回の河川争奪の散歩に繋がったわけである。
青山神社
境内に「咢堂桜」。尾崎行雄(咢堂)が東京市長のとき、日米友好を記念し、ワシントン市に贈った桜が里帰りしたもの。尾崎行雄がこの津久井出身と言うことで、この津久井に戻ってきた桜の苗木が32本のうちの一本。尾崎行雄は憲政の父。
長竹三差路
三増合戦の時、長竹と言えば、武田方の遊軍・山県勢5千に先立ち、津久井城の押さえのため進軍した小幡尾張守信貞の部隊が「長竹」に伏せたと伝わる。1200名の軍勢が、中峠から韮尾根に下り、串川を渡り、山王の瀬あたりの窪地に隠れ、津久井城の北条方に備えた、と。戦略的立地からして、この「長竹」って、その長竹三差路のあたりでは、なかろうか。
串川橋
このあたりは、三増合戦のとき、武田軍が津久井城の北條方への抑えとしていたところ。『八王子南郊 史話と伝説;小泉輝三郎(有峰書店新社)』によれば、その場所は、山王の瀬の下、と。確かに串川橋の南に山王社がある。 この串川橋には2度ほど訪れている。一度は三増合戦の跡を辿り、志田峠を越え、突如眼前に広がる、高原といった景観を呈する緩やかな傾斜の扇状地に下り、国道412号・韮尾橋を経て串川橋まで下った。2度目は上でメモしたように、津久井城山から串川の谷に下り、深く刻まれた谷筋が次第に発達した河成る段丘へと姿を変える景観を見やりながら上ってきた。 2度目の散歩が、串川をめぐる河川争奪を知るきっかけとはなったのだが、1回目の韮尾根の扇状地にも河川争奪の痕跡が残る、と言う。
根古谷中野バス停