水曜日, 3月 20, 2013

三増合戦の地を辿る;三増峠越え

三増合戦の地を辿る;三増峠越え  

武田・北条が相争った三増合戦の地・三増峠を越える

何時だったか、何処だったか、古本屋で『八王子南郊;史話と伝説(小泉輝三朗;有峰書店新社)』を買ったのだが、その中で「三増合戦」という記事が目にとまった。津久井湖の南の三増峠の辺りで、武田軍と小田原北条軍が相争った合戦である、と。両軍合わせて5千名以上が討ち死にした、との記録もある。日本屈指の山岳戦であった、とか。
「三増合戦」って初めて知った。そもそも、散歩を始めるまで、江戸開幕以前の関東、つまりは小田原北条氏が覇を唱えた時代のことは、何にも知らなかった。お散歩をはじめ、あれこれ各地を歩くにつれ、関東各地に残る小田原北条氏の旧跡が次々にと、登場してきた。寄居の鉢形城、八王子の滝山城、八王子城、川越夜戦、国府台合戦、などなど。三増合戦もそのひとつである。
三増合戦についてあれこれ調べる。と、この地で激戦が繰り広げられたのは間違いないようだが、合戦の詳細については定説はないよう、だ。新田次郎氏の『武田信玄;文春文庫』の「三増合戦」の箇所によれば、峠で尾根道で待ち構えていたのが北条方とするが、上記書籍では、北条方が山麓の武田軍を追撃した、と。峠を背に攻守逆転している。峠信玄の本陣も、三増峠の西にある中峠という説もあれば、三増峠の東の山との言もある。よくわからない。これはう、実際に歩いて自分なりに「感触」を掴むべし、ということに。どう考えても一度では終わりそうにない。成り行きで、ということに。
(2005年9月の記事を移行)


本日のルート:小田急線・本厚木>金田>上三増>三増峠ハイキングコース>三増峠>小倉山林道>相模川>小倉橋と新小倉橋>久保沢・川尻>原宿・二本松>橋本

小田急線・本厚木
三増への道順を調べる。小田急・本厚木駅からバスが出ている。北に進むこと40分程度。結構遠い。だいたいの散歩のルーティングは、三増峠を越え、津久井湖まで進み、そこからバスに乗り橋本に戻る、ということに。
小田急に乗り、本厚木駅に。北口に降り、線路に沿って少し東に戻り、バスセンターに向かう。バスの待ち時間にバスセンター横にあるシティセンター1階にあるパン屋に立ち寄る。奥はレストランになっている。店の名前は「マカロニ広場」。サツマイモを餡にしたくるみパンが誠に美味しかった。
厚木の名前の由来は、この地が木材の集散地であったため「あつめ木」から、といった説もある。が、例によって諸説あり。ともあれ、厚木が歴史書にはじめて登場したのは南北朝の頃。江戸の中期は、宿場、交易の場として繁盛した、と。

金田
バスに乗り、北に向かう。市街を出ると川を越える。小鮎川。すぐ再び川。中津川である。川に架かる第一鮎津橋を渡ると、妻田あたりで道は北に向かう。ちょうど、中津川と相模川の間を進むことに成る。
金田交差点で国道246号線を越えると、道は国道129号線となり、更に北に進む。下依知から中依知に。この辺りは昔の牛窪坂といったところ。三増合戦にも登場する地名である。
小田原勢の籠城策のため、攻略戦を一日で諦めた武田軍は小田原を引き上げる。どちらに進むのかが、小田原方の最大の関心事。武田方が陽動作戦として流布した鎌倉へと進むか、相模川を渡り八王子方面に進み甲斐路を目指すか、はたまた三増峠を経て甲斐に引き上げるのか、はてさて、と思案したことだろう。
で、結局のところ、平塚から岡田(現在の東名厚木インターあたり)、本厚木、妻田、そしてこの金田へと相模川の西を進んできた信玄の軍勢は、相模川を渡ること無く、牛窪坂の辺りで相模川の支流である中津川に沿って進むことになる。それを見届けた北条方の物見は、三増峠に進路をとると報告。中津川を上流に進めば、三増峠の麓へと続くことに、なるわけだ。

上三増
国道129号線を進み、山際交差点で県道65号線に折れる。この県道は、三増峠下をトンネルで貫き、津久井に至る。道は中津川に沿って進んでいる。三増に近づくにつれ、山容が迫る。『八王子南郊;史話と伝説(小泉輝三朗;有峰書店新社)』によれば、「三増は、丹沢・愛甲の山々が相模川まで押し出して、南相模と都留・津久井がつながる狭い咽首(のどくび)になっているところだから、昔も今も交通の生命線である。(中略)。その咽首の狭いところを志田山という小山脈がふさいでいて、越すにはどうしても小さいが峠を通らなければならない。東に三増峠、真ん中に中峠、西に志田峠の三カ所があった」、とある。北に見える尾根が三増峠のあたりなのだろう、か。
終点の上三増でバスを降りる。バス停は峠に上る坂道のはじまるあたり。近くには三増公園陸上競技場などもあった。バス停の近くにあった史跡マップなどをチェックし、三増峠へと進むことにする。

三増峠ハイキングコース
県道65号線を峠方面に進む。車も結構走っている。道の先に尾根が見える。標高は300m強といったところだろう。しばらく進み、三増トンネルのすぐ手間に旧峠への入り口がある。「三増峠ハイキングコース」とあった。スタート時点は簡易舗装。しばらく進むと木が埋め込まれた「階段」。上るにつれ古い峠道の趣となる。深い緑の中を進み、峠に到着。それほどきつくもない上りではあった。
三増合戦のとき、この三増峠を進んだ武田方は、馬場信房、真田昌幸、武田勝頼の率いる軍勢。新田次郎の『武田信玄』によれば、峠の尾根道で待ち構える北条方では「勝頼の首をとるべし」と待ち構えていた、とか。もっとも、先にメモしたように、陣立てには諸説あり、真偽のほど定かならず。愛川町教育委員会の「三増合戦のあらまし」を以下にまとめておく。

三増合戦のあらまし :
永禄十二年(1569年)十月、武田信玄は、二万の将兵をしたがえ、小田原城の北条氏康らを攻め、その帰路に三増峠越えを選ぶ。これを察した氏康は、息子の氏照、氏邦らを初めとする二万の将兵で三増峠で迎え討つことに。が、武田軍の近づくのをみた北条軍は、峠の尾根道を下り、峠の南西にある半原の台地上に移り体勢をととのえようとした。
信玄はその間に三増峠の麓の高地に進み、その左右に有力な将兵を配置、また、峠の北にある北条方の拠点・津久井城の押さえに、小幡信定を津久井の長竹へ進める。また、山県昌景の一隊を志田峠の北の台地・韮尾根(にろうね)に置き、遊軍としていつでも参戦できるようにした。
北条方からの攻撃によりたちまち激戦。勝敗を決めたのは山県昌景の一隊。志田峠を戻り、北条の後ろから挟み討ちをかけ、北条軍は総崩れとなる。北条氏康、氏政(うじまさ)の援軍は厚木の荻野まで進んでいたが、味方の敗北を知り、小田原に引き上げた。
信玄は合戦の後、兵をまとめ、寸沢嵐・反畑(そりはた・相模湖町)まで引き揚げ、勝鬨をあげ、甲府へ引きあげたという。「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


三増峠

峠に到着。2万とも言われる北条の軍勢がこの尾根道で待ち構えるとは、とても思えない。愛川町教育委員会の説明のように、尾根道を下り、半原の台地で待ち構えていたのでは、などと思える。足もとから車の走る音。峠を貫く三増トンネルの中から響くのだろう。
さて、峠を西に向かうか、東に向かうか。標識が倒れておりどちらに進めばいいのかわからない。
少々悩み、結局東に向かう。これが大失敗。当初の予定である津久井の根小屋への道は、西方向。そうすれば、峠を下り、トンネルの出口あたりに進めたのだが、後の祭り。あらぬ方向へ進むことになった。

小倉山林道
東へと進む。快適な尾根道。後でわかったのだが、この道は小倉山林道。歩いておれば、麓が見えるか、とも思うのだが、山が深く、どちらが里かさっぱりわからない。なんとか里に下りたいと思うのだが、道が下る気配もない。山腹を巻き道が続く。人が歩く気配もない。心細いこと限りない。分岐で成り行きで進み、行き止まりになりそうで引き返したりしながら、小走りで林道を進む。頃は春。山桜が美しい。
結局、4キロ程度歩いたただろうか。東へと東へと引っ張られ、気がついたら、小倉山の南の山腹を進んでいた。車の音も聞こえる。ここはどこだ。川らしきものも眼下にちょっと見える。どうも相模川のようだ。やっと、下りの道。結構な勾配。どんどん下る。車の往来が激しい道筋に。道路への出口は鉄の柵。車、というかバイク、などが入れないようにしているのだろう、か。

相模川


道のむこうに相模川。このあたりは城山町小倉。三増峠から、津久井の長竹・根小屋、津久井城の南麓を串川に沿って相模川に進み橋本へ、といったルートは大幅に狂ってしまったが、小倉から串川・相模川の合流点まで2キロ強。どうせのことなら、串川・相模川の合流点まで進み、橋本まで歩くことにする。橋本まで、7キロ強、といったところ、か。
橋を渡り、大きく曲がる上りの坂を進み、新小倉橋の東詰めに。谷は如何にも深い。

小倉橋と新小倉橋

相模川を眺めながら北に進む。串川を越えると小倉橋。趣のある橋ではあるが、幅は狭い。相互通行しかできなかったようで、結果大渋滞。ために、バイパスがつくられた。小倉橋の北に聳える巨大な橋がそれ。新小倉橋、という。2004年に開通した、と。   
久保沢・川尻
台地の道を久保沢、そして川尻へと進む。途中に川尻石器時代遺跡などもある。久保沢とか川尻と行った地名は少々懐かしい。はじめて津久井城跡を歩いたとき、橋本からバスにのり、城山への登山口のある津久井湖畔に行く途中で目にしたところ。江戸時代の津久井往還の道筋でもある。
津久井往還は江戸と津久井を結ぶ道。津久井の鮎を江戸に運んだため、「鮎道」とも。もちろんのこと、鮎だけというわけではなく、木材(青梅材)、炭(川崎市麻生区黒川)、柿(川崎市麻生区王禅寺)などを運んだ。道筋は、三軒茶屋>世田谷>大蔵>狛江>登戸>生田>百合ケ丘>柿生>鶴川>小野路>小山田>橋本>久保沢>城山>津久井>三ヶ木、と続く。

原宿・二本松
川尻から城山町原宿南へと成り行きで進む。原宿近隣公園脇を進む。この原宿の地は江戸・明治の頃には市場が開かれていた、とか。原宿から川尻を通り、小倉で相模川を渡り厚木をへて大山へと続く大山道の道筋でもあり、津久井往還、大山道のクロスする交通の要衝の地であったのだろう。
二本松地区に入るとささやかな社。二本松八幡社。なんとなく気になりお参りに。由来を見ると、もとは津久井町太井の鎮守さま。その地が城山湖の湖底に沈んだためこの地に移る。二本松の由来は、津久井往還の道筋に二本の松があったから、とか。

橋本

車の往来の激しい道を進み、日本板硝子の工場前をへて橋本の駅に。橋本の名前の由来は境川に架かる両国橋から。現在の橋本駅の少し北、元橋本のあたりが、本来の「橋本」である。橋本が開けたのは黄金の運搬がきっかけとなった、と前述、『八王子南郊;史話と伝説(小泉輝三朗;有峰書店新社)』は言う。


久能山東照宮にあった黄金を、家康をまつる日光東照宮に移すことになった。久能山から夷参(座間市)までは東海道を。そこから八王子へと進むわけだが、座間宿から八王子宿までは八里ある。馬は三里荷を積み進み、三里戻るのが基本。途中には御殿峠などもあるわけで、座間と八王子の間にひとつ宿を設ける必要があった。で、どうせなら峠の手前で、ということで元橋本のあたりに宿が設けられた、と。社会的は必要性からつくられた、というより、黄金運搬という政治的目的にのためにつくられた「人工的」宿場町がそのはじまりであった、とか。
少々長かった本日の散歩、ルートも当初の予定から大幅に変更になった。次回は、三増合戦の舞台となった峠のひとつ志田峠、信玄が本陣の旗をたてたとも言われる駒形山などを歩いてみようと思う。

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