火曜日, 6月 17, 2014

相模原台地散歩 そのⅠ;相模原段丘面と田名原段丘面を画する段丘崖線を辿る

先日、中津川台地を散歩したとき、この中津原台地って幾つかに分けられる相模原台地の段丘面のひとつであることを知った。Wikipediaに拠れば、「相模原(相模野)台地は、多摩丘陵と相模川に挟まれた地域に広がる台地。相模川中下流部の左岸に位置し、主に相模川の堆積作用によって形成された扇状地に由来する河岸段丘である。
大きく分けて3~5段、詳細には十数段の段丘面に区分される。台地の大部分は古い順に相模原面群、中津原面、田名原面群、陽原(みなはら)面群に分けられる。(中略)台地上は相模川によって運ばれた堆積物だけでなく、富士山や箱根山などからの噴出物を中心とする火山灰層(関東ローム層)によって覆われている」とある。
相模原台地のイメージとしては相模原にしても、橋本にしても、昔軍の軍需工廠があったところであり、現在は工廠に代わって工場群が建ち並ぶ平坦な台地にといったイメージしかなく、高位段丘面(相模原面群、中津原面)、中位段丘面(田名原面群)、低位段丘面(陽原(みなはら)面群)といった数段に分かれる段丘面から成るといったことは結構新鮮な驚きであった。
で、段丘面がある、ということはそれぞれの段丘面の境には崖線があるだろう、崖線があれば湧水もあるだろう、湧水があれば、それを水源とした清流もあるだろうと、俄然相模原台地散歩にフックがかかった。実際カシミール3Dで等高線に従い色分けした彩色図をつくると、明らかに段丘面が色分けされる。そして、その色分けされた段丘面を見るに、相模原面には境川、田名原面には道保川、姥川、鳩川が流れ、陽原面には八瀬川が流れていた。
ということで、相模原台地の崖線・湧水巡りに出かけることに。最初は上位面の相模原面と中位面の田名原面を区切る崖線・湧水散歩。二回目は中位面の田名原面と低位面の陽原面の崖線・湧水散歩とし、その後はどうせのこと、「後の祭り」があるだろうから、成り行きで、そのフォローの散歩でも、といった大雑把な段取りではある。
本日のルート;京王線・橋本駅> てるて橋>県営企業団・北相送水管>公共下水道雨水吐き室>道保川源流域>道保川公園>道保川>淡水魚増殖試験場>横浜水道みち緑道>姥川・枡田橋>姥川・鳩川合流点に >大正坂下交差点>道保川から鳩川との分水界を辿る>下溝八幡宮>姥川が鳩川に合流>鳩川・道保川合流>姥川分水路が相模川に>三段の滝>相模線・下溝駅

相模線・南橋本駅
京王線橋本から相模線に乗り換え南橋本駅に。相模線は神奈川県茅ケ崎駅と相模原市の橋本駅を結ぶJR東日本の路線。もとは、大正10年(1921)、相模川の砂利運送を目的に私鉄の相模鉄道として建設されたが、戦時中、首都東京が攻撃されたときに備え、首都圏の迂回ルート路線として国有化され、国鉄の民有化を経て現在に至る。
駅から成り行きで南に下り、国道129号・上溝バイパス「下の原」交差点に。この辺りから道は下りとなる。相模原段丘面と田名原段丘面の境に差し掛かった、ということだろう。

日枝神社
バイパス脇の坂を下る。道の北に日枝神社。作ノ口地区の鎮守さま。道脇に幾つかの石碑が建つ。中には「百番観音」と刻まれた石碑もあるようだ。その石碑は日枝神社の逆側、バイパスから分かれる脇道の「観音辻」にあったものが、道路拡張にともなってこの社に移された、と言う。日枝神社のあたりの坂を観音坂と称するようだが、その由来となる観音様であろうか。
鳥居を見ると、左は「日枝神社」、右は「蚕影山神社」、拝殿前の石碑は「御嶽神社」とある。幾多の神様が同居しているのは、明治期に集落の社を合祀したものだろう。拝殿にお参り。創建不詳。祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)。

○大山咋命
Wikipediaに拠れば、「名前の「くい(くひ)」は杭のことで、大山に杭を打つ神、すなわち大きな山の所有者の神を意味する、と。『古事記』では、近江国の日枝山(ひえのやま、後の比叡山)および葛野(かづの、葛野郡、現京都市)の松尾に鎮座し、鳴鏑(なりかぶら;注「音をたてて飛ぶ鏑矢」)を神体とすると記されている。
比叡山に天台宗の延暦寺ができてからは、天台宗および延暦寺の守護神ともされた。(中略)太田道灌が江戸城の守護神として川越日吉社から大山咋神を勧請して日枝神社を建て、江戸時代には徳川家の氏神とされ、明治以降は皇居の鎮守とされている。
比叡山の麓の日吉大社(滋賀県大津市)が大山咋神を祀る全国の日枝神社の総本社である。日吉大社には後に大物主神が勧請されており、大物主神を大比叡、大山咋神を小比叡と呼ぶ。山王は二神の総称である。大物主神は西本宮に、大山咋神は東本宮に祀られている」とある。

ところで、山王権現は日吉山王権現と称される。日吉山王権現という名称は、神+仏+神仏習合の合作といった命名法。日吉は、もともと比叡山(日枝山)にあった山岳信仰の神々のこと。日枝(日吉)の神々がいた。次いで、伝教大師・最澄が比叡山に天台宗を開き、法華護持の神祇として山王祠をつくる。山王祠は最澄が留学修行した中国天台山・山王祠を模したもの。ここで、日吉の神々と山王(仏)が合体。権現は仏が神という仮(権)の姿で現れている、という意味。つまりは、仏さまが日吉の神々という仮の姿で現れ、衆生済度するということ。本地垂迹というか神仏習合というか、仏教普及の日本的やり方、とも。

○蚕影神社・御嶽神社
蚕影神社(こかげじんじゃ)は、茨城県つくば市神郡に総本社のある社。正式表記(旧字体)は蠶影神社。蚕影神社は神衣を織るための養蚕、製糸、機織の技術伝来の地として養蚕の神を祀っている(Wikipedia)。
境内にある小さな祠が蚕影神社だろう、か。また、御嶽神社は明治期、一時合祀されたが、悪いことが続いたため再び元の場所に戻して祀るようになった、という。下九沢に御嶽神社があるが、それがこの御嶽神社だろう。
○観音辻
観音辻には「大山道」の石標が残る、という。八王子、橋本から作ノ口、上溝を経て下当麻に進み、当麻の渡しで上依知に渡り大山へ向かった道である。「埼玉往還」、「八王子道」などとも呼ばれた。
また観音辻付近、現在の「作の口踏切」辺りにその昔「相模線・作の口駅」があったが、相模線の国有化の際に廃止されたようである。

田名原段丘面
観音坂を下り切り、後ろを振り返るに崖線の斜面林が相模原段丘面と田名原段丘面を区切り、南西へと弧を描いて連綿と続く。段丘面の比高差は30mほど。フラットと思っていた相模原台地の段丘面のギャップをはじめて実感する。

■相模原台地
田名原段丘面も、はるか昔に相模川によって形作られたものと言う。相模原面の等高線を見ると、南西に向かって地形が下っている。もともと、といっても、はるか昔の、その又昔(50万年前)、相模川は多摩川方面へと流れ東京湾に注いでいた。それが、なんらかの地殻変動により地形に変化が起こり、30万年前頃、その流路を南に変え、橋本から藤沢にかけて大きな扇状地をつくった。これが相模原台地の土台となっている。その台地には40万年前から活動をはじめた箱根火山からの大漁の火山灰・軽石が降り注ぎ台地を覆っていった。これが5万年前頃まで続いた、とか。
その相模台地に変化が起こったのは5万年前から1万年前に起きた氷期。2万年前をピークとする氷期により海面が低下し現在より100mも低くなった、とのこと。その結果傾斜が急になった相模川の流れは急流となり、台地を開析し、新たな段丘面を形成した。これが田名原段丘面であり、おおよそ3万年ほど前のこととも言われている。
現在相模原段丘面にも田名原面に相模川は流れていない。氷期がピークを越えた後、6000万年前の頃と言うから縄文時代に温暖化が進み、氷が解け海面が上昇し、相模川の谷筋に海水が入り込んだ、とか。この縄文海進期に緩やかな傾斜となった相模川が「探し当てた」流路が現在の流路なのだろう。
相模原面の境川は往昔の相模川の名残とも言われる。また田名原面には現在、鳩川、姥川、道保川が流れる。往昔は崖線より湧き出した湧水が源流だろうが、さて現在はどうだろう。実際に歩いて確かめてみる。

鳩川
段丘面を分ける崖線の下を流れる姥川の源流点が最初の目的地ではあるのだが、「作ノ口交差点」のすぐ先に鳩川が流れる。この地の北、相模原の上九沢の大島団地付近にその源を発し田名原面を下り、海老名で相模川に合流する姥川は、この作ノ口交差点辺りでは、崖線から離れ段丘面の真ん中を流れるが、地形図をチェックすると源流部辺りでは相模原段丘崖傍を下っている。田名原段丘面形成に「貢献」したであろう鳩川に「敬意」を表し、ちょっと立ち寄る。市街地をゆったり流れる鳩川を眺め、姥川源流点に向かう。

姥川源流点
上溝バイパスを「作ノ口交差点」まで戻り、その右手にある姥川源流点に向かう。成り行きで道を進むと緑の植え込みといった一隅があり、そこから暗渠が続いている。この緑の植え込みの辺りが源流点でのようである。姥川源流付近は、工業用地からの排水や雨水対策のため河川改修工事が行われたようであり、その結果として現在の姿ではあろう。現在では崖線からの湧水といった風情とはほど遠い姥川の源流点である。




横山丘陵緑地・姥沢地区

源流点からの暗渠はすぐ終わり、排水兼流量調節用のような水門からコンクリート溝の開渠となって民家の間を流れる。この水門は昔の工業用地からの排水を行っていたときの名残なのだろうか。さすがに工場排水を垂れ流しはしていないだろうが、現在でも処理された工場排水や雨水が姥川の源流点へと流されているのだろうか。
源流からの流量の名残も見えない姥川が、この水門から先には清冽とは言い難い水が流れ出ていた。現在はわからないが、平成22年(2010)の記事には「姥川では上流部で水質管理されていない排水が流れ込んでいる」とあるので、現在もその状況が続いているのかもしれない。
突如水路が現れた姥川の流路を少し辿った後、流路から離れ相模原段丘面と田名原段丘面の崖線に整備された横山丘陵緑地に向かう。案内に従って歩を進めると、かつては崖線からの豊かな湧水に浸されてだろうと思われる緑地が現れた。

○「照手姫遺跡の碑」
緑地は谷戸と言った景観を呈し、緑地入り口から湧水によって刻まれた「谷」へと崖道を下る。緑地には木道が整備されたおり、先に進むと「照手姫遺跡の碑」があった。
碑文には「この地は姥川の水源地として常に清水こんこんと湧き出づる泉であった。里俗称するところによればかっては横山将監の娘照手姫の産湯の水に使い、長じては朝な夕なにその玉の肌をみがいたともいう。照手姫は小栗判官満重との説話の主である。
往時茫々 今や市勢進展とともに工業用地の排水路となり、清泉涸れはてて僅かにその伝承のみを残すにいたった。
巷間謡わるる ほんに横山照手の前の 眉に似たよな三日月がかかり 虫も音を引くほそぼそと の風情を偲びつつ 永くその跡を伝えんとするものである」と刻まれていた。

この石碑はもともとは、先ほど訪れた姥川の源流点辺りに昭和37年(1962)頃、河川改修を記念して建立されたようであるが、平成 14 年(2002)頃、姥沢地区の横山緑地が整備された時にこの地に移された。碑文にあった、「工業用地の排水路となり、清泉涸れはてて」といった下りは、当時の源流点での工事を記念して建立されたものであり、この地のことを指すのではないようだ。

○照手姫
照手姫って、説教節で名高い『小栗判官』の悲劇のヒロイン。この緑地の地名の由来とも言われる横山党一族の館がこの崖線上にあり、照手姫は横山氏の姫とか、あれこれ説はあるが、そもそも実在の人物かどうかもはっきりしていない。実際、甲州街道の小仏峠を越えた時、美女谷温泉に照手姫出生の地との伝説が伝わっていた。

 ○小栗判官
先日、相模のサバ神社を辿る散歩の折り、西俣野で「伝承小栗塚之跡」の石碑に出合った。諸説あるなかで、照手姫と小栗判官が最初に出合った地とされる西俣野に伝わる小栗判官と照手姫の話をメモする。
「小栗判官」は遊行上人が、仏の教えを上手な語りで人々に説き教える「説教節」のひとつ。中世(室町期)にはじまった口承芸能であるが、江戸期には歌舞伎や浄瑠璃の流行で廃れ今は残っていない。森鴎外の「山椒大夫」も説教節の「さんせう大夫」をもとにしたものである。

で、その「小栗判官」であるが、常陸国の小栗城主がモデルとはされるも、「小栗判官」自体は創作上の人物ではある。物語も各地を遊行した時宗の僧(遊行僧)により全国に普及し、縁のある各地にそれぞれ異なった伝承が残り、また浄瑠璃、歌舞伎などで脚色され、いろいろなバージョンがあるようだが、西俣野に伝わる小栗判官の物語は、各地を遊行した時宗の僧侶の総本山である藤沢市遊行寺の長生院(元は閻魔堂とも称された)に伝わる物語をベースにしたものである。

その原型は室町時代、鎌倉公方と関東管領の争いである上杉禅秀の乱により滅亡した常陸国の小栗氏の御霊を鎮める巫女の語りとして発生。戦に破れ常陸を落ち延びた小栗判官。相模国に潜伏中、相模の横山家(横山大膳。戸塚区俣野に伝説が残る)に仕える娘・絶世の美女である照手姫を見初める。しかし盗賊である横山氏の知るところとなり、家来もろとも毒殺される。照手姫も不義故に相模川に沈められるが、金沢六浦の漁師に助けられる。が、漁師の女房の嫉妬に苦しめられ、結果人買いの手に移り各地を転々とする。
閻魔大王が登場。裁定により、小栗判官を生き返らせる。そのとき閻魔大王は遊行寺の大空上人の夢枕に立ち「熊野本宮の・湯の峰の湯に入れて回復させるべし」、と。上人に箱車をつくってもらい「この車を一引きすれば千僧供養・・」とのメッセージのもと、西へと美濃へ。
その地、美濃国大垣の青墓で照手姫が下女として働いていた。餓鬼の姿を見ても小栗判官とはわからないながら、5日の閑をもらい大津まで車を曳いていく。その後は熊野詣の人に曳かれ湯の峰の湯に浸かった餓鬼は回復し元の美男子に。やがて罪も許され常陸国の領主となり、横山大膳を討ち美濃の青墓で照手姫とも再会しふたりは結ばれた、って話。

なお、下俣野には小栗判官ゆかりの地が残る。下俣野の和泉川の西には閻魔大王が安置され、名主である飯田五郎右衛門宅にあったものが移管された地獄変相十王絵図、閻魔法印、小栗判官縁起絵が残る花応院などがある。

横山丘陵緑地・姥沢地区を彷徨う
「照手姫遺跡の碑」から少し谷頭に近い崖線方向へと彷徨っていると、排水管なのか導水管なのか、ともあれ水管が残っていた。その時は、乏しくなった姥川源流域の湧水を補う相模原段丘面の雨水「養水」口だろうか。
崖線から「照手姫遺跡の碑」に戻り、緑に囲まれた木道を先に進む。嘗ては豊であっただろう湧水地も、現在ではちょっと湿った、といった程度でしかない。それでも足元の一面の緑は気持ちいい。崖線上下の比高差も20m以上はありそうだ。

○照手姫伝説伝承の地・イラストマップ
歩を進め、横山丘陵緑地が姥川に接する辺りに到ると、地面はまったく「湿気」はなくなる。姥川脇には「照手姫伝説伝承地」の案内と「てるて姫の里 ロマン探訪の小路イラストマップ」。
「照手姫伝説伝承地」には、市内に残る照手姫伝説伝承地として、この横山段丘崖を中心に、姥沢地区の他、姥沢源流域や姥沢地区に接する日金沢(ひがん)沢、横山台の榎神社、下溝の古山地区などにその伝承が残されている、とあった。古山地区はここからちょっと離れているため今回辿ることはできそうもないが、そこには伝承地は「十二塚」とか「ババヤマ」といった伝承地が残ると案内されていた。
また、「イラストマップ」には、照手姫遺跡の碑は、清水の湧き出る姥川最上流部からこの地に移されたこと、現在地から少し姥川を遡ったところに照手姫と乳母の日野金子の姿を描いた「姥沢幻想の碑」、姥川を少し下ったところには照手姫が姿を映し化粧をしたという「鏡の泉」、台地上には榎神社などが残ると紹介されていた。その案内を頼りに榎神社と鏡の泉を訪れることにする。

横山緑地・日金沢地区
先に進むと、横山丘陵緑地の姥沢地区と日金沢地区の境を示す道標。日金沢は「ひがんさわ」と読む。照手姫の乳母である日野金子由来の地名、と言う。

せどむら坂
ほどなく「せどむら橋」。橋から「せどむら坂」が崖線を上るが、橋の脇に道祖神や「せどむら坂改修記念」の石碑が並ぶ。坂の名の由来は坂下にあった村名、から。
ヘアピンカーブの坂を上る途中に横穴。入口が木の柵で守られえている。横穴古墳なのか、鎌倉に見られる「やぐら;墓穴」なのか、説明もなく不明である。

榎神社
坂を上り切り崖線を切り裂く相模線を越え、道を右に折れ線路に沿って進み、行き止まりを左に折れると榎神社があった。ささやかな境内に照手姫が祀られている。
案内には「この神社は「榎さま」として親しまれ、伝説の人物照手姫を祀っている。照手姫は武将横山将監の娘で、敵方の武将小栗判官と恋仲になる悲劇の主人公であり、相模原の昔話にも残されている。
榎神社の神木であるこの大榎は、明治18年(1885)に植えられた二代目であるが、初代の榎は照手姫がさした杖に根づいたもので、枝が下を向いた「さかさ榎」であったと伝えられている」とあった。
その初代の榎であるが、あまりにも大きくなり、付近の耕地の日当たりが悪くなり、ために明治16年(1884)頃切り倒したところ、村民に疫病が蔓延したため二代目の榎を植えたとのことである。




○姥沢の横山党

横山党とは児玉党、村山党など共に鎌倉幕府の中核となった武蔵七党のひとつ。多摩の横山庄を中心に武蔵の各地に勢力を拡げた。またその勢力は南下して愛甲氏を破り相模に橋頭堡を確保。一族が愛甲氏を名乗り、海老名氏や波多野市との姻戚関係を結ぶなど相模に勢力を拡げ各地に進出。その地名を性として相模に覇を唱える。相原、小山、矢部、田名など、現在も地名にその名残を残す。その横山党は建保元年(1213)の和田合戦で和田義盛に与し北条氏に敗れ勢力を失うことになる。
で、この照手姫伝説との関連での横山氏であるが、時代は室町で横山党は和田合戦で壊滅しているわけで、由緒ある「横山党」、というより、最初に『小栗判官』ありき、ということで、その話の中に登場する横山某がこの地に住んでいた故の後付けではないか、という説が妥当なところ、かと。

鏡の泉
榎神社を離れ、再び崖線の坂を下り姥川脇に戻る。緑の斜面林に覆われた崖線下を流れる姥川に沿って少し下ると流路脇に「鏡の泉」。崖線下の岩の間から湧水が流れ出している。姥川に湧水からの水が注ぐのは、ここがはじめて。上にメモしたように、照手姫が姿を映し化粧をしたいという話が残る。

日金沢橋
鏡の泉を少し下った川脇に「相模原市の多自然川つくり(姥川)」の案内。「姥川は、中央区上溝1丁目からはじまり田名原段丘を東に流れ南区下溝で鳩川に合流し相模川へ流れ込む延長6.5キロの河川です。
河川改修を実施する上で、自然環境等に配慮した「多自然川つくり基本方針」を踏まえ、横山丘陵地からの地下水・湧水が自然と流れ込むよう、石材等を詰めた鉄線カゴ(カかごマット)を使用し、常時水が流れる部分は捨石等により蛇行させ、瀬や淵など多様な流れを創出する整備を行っています。これらにより安定的な水循環を確保し、併せて川自身が持つ浄化作用の再生を図る事業を行っております」とあった。
川に沿って歩くと、なるほど説明にあった護岸整備が見て取れる。日金沢橋を越えた辺りでは、鉄線カゴ(カかごマット)の護岸がよくわかる。目には見えないけれど崖線からの湧水が上流部で排水に少々汚れた姥川の水を浄化しているのであろう。

てるて橋
日金沢橋を越えた辺りから姥川は崖線を離れ始める。それにつれて、川の周囲には住宅が建ち並び、自然の景観は乏しくなってくる。先に進むと大きな通りに橋が架かる。この通りは相模線・上溝駅前からの通りでもあり、人通りも多い。少し読みにくいのだが、「てるて橋」と刻まれているようだ。

姥川の源流点辺りから崖線を切り割って走ってきた相模線も上溝駅から大きく弧を描いて田名原段丘面に下りてくる。相模鉄道も南武線や東急玉川線、京王相模原線、西武多摩川線など多くの鉄道事業者と同様、その発足時の主要事業が「砂利採取」であったわけであるから、相模川に近づくのは当然ではあろう。

県営企業団・北相送水管
「てるて橋」を越え、「堰の橋」から「田中橋」へと下る間に姥川にブルーにペイントされた大きな送水管が見える。何となく気になってチェックすると、この水管は神奈川県企業庁(神奈川県が経営する地方公営企業。住民の福利厚生を目的に税金ではなく、独立採算で運営される)がおこなう水道事業網の水管。県営企業団の水道事業は相模川水系の寒川や谷ヶ原で企業庁が取水した自己水源、そして酒匂川・相模川の水を水源とする神奈川県内広域水道企業団(神奈川県、横浜市、川崎市、横須賀市が昭和44年に共同で設立した「特別地方公共団体」)からの受水をもとに、湘南、県央、県北及び箱根地区など12市6町を給水区域とし、神奈川県民の約31パーセントにあたる約278万人に給水している。
で、この水管はその中でも、相模ダムでの発電放流水を下流の沼本ダムで取水し、津久井隧道を経て津久井分水池(津久井湖から西に下る相模川が大きく南に流路を変える辺り)に導き、分水池で県営水道、横浜水道、川崎水道などに分水。県営水道に分水された水は、津久井分水地のお隣にある県営谷ヶ原浄水場で浄水され水道水となり、相模原、厚木、愛川町の45万人を潤している水道網の一環のよう。

○北相送水管の経路
北相送水管の大雑把な経路は谷ヶ原浄水場から、相模川に沿って大島地区に下り、渓松園辺りから県道48号を大島北交差点まで進み、交差点から左に折れ北東に向かい六地蔵に。そこから南東に「作の口交差点」方向へと下り、この地で姥川を渡る。
姥川を渡った水路は南東へと南下を続け、虹吹、七曲をへて、途中相模原に分水しながら、下原交差点で県道52号に当たる。北相送水管は県道で右に折れて県道にそって進み、相模川を昭和橋で渡り中津工業団地当たりの中津配水池に到る。
何気なく撮った一枚の水管写真から、神奈川の送水ネットワークの一部が見えてきた。ちょっとしたことにでも好奇心を、って成り行きまかせの散歩の基本を改めて想い起こす。

公共下水道雨水吐き室
田中橋から川筋を離れ、築堤上を走る相模線をくぐり、久保ヶ谷戸地区に入る。左手に再び崖線の緑の斜面林を見遣りながら宅地化された一帯を成り行きで進むと水道施設らしき構造物と敷地がある。名称をチェックすると「公共下水道雨水吐き室」とあった。
雨水調整池は散歩の折々によく出合うのだが、「雨水吐き室」って言葉ははじめてなのでチェックする。下水道には下水と雨水を別々の管渠で管理する「分流式」と同一の管渠で管理する「合流式」のふたつがあり、「雨水吐き室」は「合流式」の管理方式のひとつ。
この方式では、通常下水は処理場に送られるが、大雨時などに大幅に(晴天時の下水量の3倍から5倍程度)流入したとき、大雨で希釈された下水を室内にある堰を越流させ河川に排出方式のよう。その吐き出し口だろうか、雨水吐き室の少し下流の姥川右岸に、おおきく口を開けた箇所が見える。

道保川源流点
蛇行し、一時崖線に近づいた姥川と離れ崖線方向へと進む。次の目標は少し崖線から離れた姥川に代わり、相模原面と田名原面を画する崖線下を流れる道保川への「乗り換え」のためである。
道脇の小祠にお参りし、崖線を切りさいた車道の「丸崎交差点」に出る。交差点から崖線下を通る道を進んでいると、道脇に崖線に入るアプローチが目に入った。このアプローチが道保公園に続くかどうか不明ではあるが、とりあえず小径に入り込む。小径は道保川公園へと続いていた。
道保川の源流点であろう一帯は湿地と水草に覆われて誠に美しい。湿地には木道が整備されているが、道保川の源流点を求め一帯を彷徨う。グズグズの泥湿地ではあるが、崖下から流れ出すささやかな湧水を見てはちょっと幸せな時を過ごす。
○道保川
道保川は相模原市の上溝地区の道保川公園にその源を発し、模原段丘面と田名原段丘面を画する崖線下を流れ、下溝で鳩川に合流する延長4キロ弱の河川。水源は段丘崖線からの湧水を主源とし、ポンプアップされた環境用水(地下水)。源流点から続く崖線の斜面林と合わせその豊かな環境保全への取り組みが成されている。

道保川公園
源流点一帯から崖線に沿って整備されている道保川公園を進む。進むにつれて如何にも公園といった風情となり、水草の茂る湿地の中の木道を進む。湿地は崖線に沿って南北に延びているが、湿地からは崖線の斜面林に向かって大小いくつかの沢が伸びている。
最初に現れるのが「さえずりの沢」。この沢は野鳥観察をテーマとしている。ついで「こもれびの沢」は山野草観察、「ふたご沢」は森林生態観察がそのテーマとなっており、公園南端の「水鳥の池」の周囲は「せせらぎの沢」と名付けられている。そのせせらぎと野鳥のさえずり故か、平成8年(1996)には環境庁より「残したい“日本の音風景100選”」のひとつに選定されている。
公園内を気ままに彷徨う。沢のテーマに関係なく、沢の谷頭辺りで滲み出す湧水、それが溜まった小池、いかにも「山葵田」跡といった石組みが残る。まさしく「谷戸」といった景観が残る。実際、この地が公園として整備される前は谷戸田であり、山葵が栽培されていたようである。

この豊かな湧水に恵まれる道保川源流域も、昭和55年(1980)代より湧水量の低下が顕著となり、沢が涸れるといった状況になったとのこと。原因は崖線上の湧水涵養地である相模原段丘面の宅地化。
相模原を象徴する地形のひとつである、「河岸段丘と斜面林、豊富な湧水、せせらぎを包括的に保全するための施策」が実施され、現在は湧水だけでなく補助水源として地下水を6基のポンプで揚水、また10mから20mの井戸掘削も計6本整備されている。現在、湧水とポンプ揚水量の構成比は豊水期は湧水が10倍程度、渇水期(1月下旬から)でも2,3倍はあるというから、湧水量が低下したというものの、豊かな崖下からの湧水に恵まれている。
豊かな水を湛えた水鳥の池の脇を抜け、久しぶりに湧水を源流とする川の源流域を堪能し公園を離れる。

南へと続く崖線の斜面林
公園を出ると、相模段丘面よりの七曲り坂の下り口辺りで道保川の水は一瞬地表から姿を消すが、道の対面で再び顔をだす。水路は公園での風情とは異なり、深く刻まれた谷となる。南へと連綿と続く崖線の斜面林や道保川の谷筋は野趣豊かであり、谷筋を歩くことはできそうもない。
道保川の谷筋を見下ろしながら道を進む。道保川も道から離れたり、近づいたはするものの、谷筋は整備されておらず道から見下ろすのみ。崖線から流れる沢水を合わせた先に、相模段丘面から下る車道の上中丸交差点に。

淡水魚増殖試験場
道を進み、成り行きで道保川近くを通る小径を進むと道保川と道の間に、いくつかの水槽をもつ施設がある。地図には「淡水魚増殖試験場」とあった。が、あまり活動をしている雰囲気はない。昭和40年(1965)から全国に先駆けて鮎人工種苗生産技術の開発などをおこなったようだが、平成7年(1995)に水産総合研究所内水面試験場として相模原市大島に移転した、とのことである。

横浜水道みち緑道
小径から「下原やえざくら通り」にそって少しすすむと、道の左手の住宅街の中から異様に一直線の道がクロスしてきた。ちょっと気になり周囲を注意すると、道脇に案内があり、「横浜水道みち緑道」とあった。
案内によると、「横浜水道みち トロッコの歴史;三井用水取入れ所から17.5km。この水道みちは、津久井郡三井村(現:相模原市津久井町)から横浜村の野毛山浄水場(横浜市西区)まで約44kmを、1887年(明治20年)我が国最初の近代水道として創設されました。運搬手段のなかった当時、鉄管や資機材の運搬用としてレールを敷き、トロッコを使用し水道管を敷設しました。横浜市民への給水の一歩と近代消防の一歩を共に歩んだ道です(横浜市水道局)」とのこと。
緑道を道保川に向かう。水路橋か水路管など見えないものかと先に進むと橋がある。水路橋はない。それでは水路管など橋下を通っていないものかと橋の両岸をチェックするが柵や木々に遮られ橋下を見ることができない。で、辺りを彷徨っているとフェンスに案内があり「深度;計画川床下6.338m下 外径Φ1500mmコンクリート管 内径Φ1500mmダクタイル鋳鉄管」といった表記がある。昔は水管橋があったようだが、現在は水路管はコンクリート管と二重構造となって川床下を通っているようである。
「横浜水道みち緑道」は崖線から相模原段丘面へと上る。横浜水道みちは自然流下方式であり、下から上って、とは思うのだが、開渠でなく鉄管であれば、取水口と最終配水池の標高差があれば、途中での凸凹は問題ない、とのことである。実際取水口辺りの標高は142m、最終地の野毛山は40m程度である。もっとも、これは創設期の明治の頃であり、その後の改修工事などでポンプによる揚水なども可能になっているのかとも思うのだが、確証はとってはいない。

○横浜水道みち
戸数わずか87ほどであった横浜は、安政6年(1859)の開港をきっかけに急激に人口が増加。しかし横浜は、海を埋立て拡張してきた地であり、井戸水は塩分を含み、良質の水が確保できない状況にあった。
このため当時の神奈川県知事は、横浜の外国人居留地からの水確保への強い要望や、明治10年(1877)、12年(1879)、15年(1882)、19年(1886)と相次いで起きた伝染病コレラの流行もあり、香港政庁の英国陸軍工兵少佐H.S.パーマー氏を顧問として、相模川の上流に水源を求め、明治18年(1885)近代水道の建設に着手し、明治20年(1887)9月に完成した。その後、明治23年(1890)の水道条例制定に伴い、水道事業は市町村が経営することとなり、同年4月から横浜市に移管され市営として運営されるようになり、現在横浜市水道局の管轄にある。
相模川が山間を深く切り開く上流部、案内にもあった、川井接合井から野毛山浄水場までの起伏の多い丘陵などを、基本、一直線に貫く水路の建設は難航したと言う。また、近代水道の要ともなる水路管(グラスゴーから輸入)を現場に運ぶには、相模川を船で上流に運び上げたり、この案内にもあるように、トロッコ路を敷設し水管を運び上げたとのことである。

経路を見るに、津久井分水池から相模川に沿って大島・清水地区まで下り、そこから田名原段丘面と陽原段丘面を画する段丘崖辺りを、一直線でこの地まで進み、相模原公園の南を通り横浜市保土ヶ谷区の川井浄水場に向かい、そこから鶴ヶ峰を経て少々方向を変えながらも、基本一直線で野毛山浄水場に向かう。 経路や施設なども創設時と現在では状況も大分異なっているとは思う。実際、この地から緑道を辿った崖線の相模原段丘面にある相模原沈殿地は、昭和29年(1954)の第四回拡張工事の際に竣工された横浜水道みちの施設と聞く。そのうち、一度実際に歩いて実感してみたいと思う。

姥川・枡田橋
横浜水道みち緑道を離れ、先に進むと県道52号に当たる。この辺りが道保川と姥川が再接近しているところ。ふたつの川を分ける地形は一見する限りは平坦な市街地といったもの。道保川筋から姥川へと乗り換えるべく県道52号を西に向かうと、ほどなく姥川にかかる枡田(しょうだ)橋に出合った。坂を上った実感もなく、地形図で標高を確認すると、道保川脇が標高70m、姥川への分水界の標高は73mといったものであった。




姥川・鳩川合流点に

地図を見ると枡田川から少し下った辺りで、姥川は鳩川に合流する。合流点の雰囲気を確認すべく、姥川に沿って下る。川脇に道はないため、道なりに南に進み姥川が鳩川に合流する地点に。散歩の初めに、田名原段丘面に下りたとき、崖線から既に離れ、崖線下の流れを姥川に「任せた」鳩川が、この地でやっと合流した、といった様である。

鳩川から道保川に乗り換え大正坂下交差点に
都市河川といった趣きの鳩川を成り行きで下り、これまた成り行きで道保川へと分水界を越える。分水界といっても姥川の標高が68m、分水界が70m、そこから65mの道保川筋へと下る、といったものであり、エッジの効いた分水界越えとはほど遠い。下りきったところは大正坂下交差点。再び南に連綿と続く崖線の斜面林が見えてきた。
葛篭(つずら)折れ大正坂は地質フリークには有名な坂のようである。切り通しには関東ローム層が剥き出した露頭を観察できる階段まで整備されているようだ。地質・地層にフックがそれほどかからない小生はそのままスルー。

道保川から鳩川との分水界を辿る
美しい緑を保つ道保川を下り、道保川が鳩川に再接近するあたりで鳩川に乗り換えるべく分水界に向かう。道保川の標高は62mほどだが、比高差3mほどの分水界というか「尾根道」に上り、鳩川を眺め、再び分水界に戻る。

下溝八幡
道なりに進むと、広い境内の社が見える。鳥居をくぐって参道をすすむと、少々小振りな本殿。境内右手にはトタン葺きの神楽伝や不動堂があった。祭神は応神天皇。本殿は新築されている。平成24年(2012)不審火で焼失したようである。
境内にある案内によると、「この神社は、天文(1532~55)年間に溝郷が上溝と下溝の両村に分かれた際に、下溝村の鎮守として上溝村の亀ヶ池八幡宮から勧請されて創建された神社と伝わる。また、中世の屋敷跡と思われる「堀の内」と呼ばれる地点からみて、その裏鬼門(西南)にあたるので、ここに建立されたとの説もある。
参道の脇にある小祠には、市の重要文化財に指定されている不動明王坐像が安置されている。これは享保9年(1724)に後藤左近藤原義貴(よしたか)が製作したもので、もともとは別当大光院の本尊であった」とある。

○堀之内
堀の内の由来は、北条氏照の娘・貞心尼が家臣山中大炊助に嫁いだ館および家臣団の居住域とか。また化粧田として上溝、下溝の地が与えられたという。 中世には鳩川・姥川沿いに「溝」という地名があり、その後上と下に分かれるが、その地はおおよそ田名原段丘面であり、八王子往還(大山道)が通り、定期市が開かれ、明治には警察所や学校が置かれるなど行政・経済の中心地であったようだ。その頃、水の乏しい段丘上の相模原は文字通り一面の原野が拡がっていたようであり、相模原段丘面が開けていったのは昭和5年(1930)頃からの相模原面での軍都構想の進展による、とのこと。

道保川と鳩川の合流点
下溝八幡を離れ、道なりに進み道保川筋に戻る。下溝八幡の標高は65m、坂を下りきったところの道保川に架かる泉橋の標高は59mであるから、6m程度の比高差があった。泉橋の上流には川床に緑も多く、自然のままなのか、環境整備の故なのか定かにはわからないが、ともあれ未だ美しい川の姿を保っている。
泉橋から西に向かい鳩川に架かる大盛橋に。こちらは都市河川といった趣きである。大盛橋を下流に進むと鳩川に道保川が合流する。道保川も鳩川との合流点はコンクリートの壁がつくられている。ここでやっと田名原段丘面を流れる鳩川・姥川・道保川が一本になった。

鳩川分水路
道保川の水を集めた鳩川は流れを東に向け相模川に注ぐ。水路を相模川方面に進むと大下(おおじも)橋が架かるが、そこには「鳩川分水路」とあった。鳩川の水を相模川に「吐く」ために昭和63年(1988)に建設されたもの、と言う。大下橋の先は相模線が走り、その先の県道46の先には相模川、その向こうには丹沢の山塊が拡がる。

南下する鳩川
鳩川放水路が相模川に合流する姿を見る前に、道保川と鳩川の合流点あたりを彷徨っていると、道保川が鳩川に合流する手前から南に水路が延びる。地図で確認すると「鳩川」とあった。鳩川はこの分水路の先も南下し、海老名辺りで相模川に注ぐ、と言う。水量もこの地から南は大幅に少なくなっている。
地図で鳩川流路をチェックしていた時は、鳩川と道保川が合流し相模川に注ぐこの地が鳩川の終点であろうし、そうすれば崖線もこの辺りで切れる、ということは田名原段丘面も此の辺りで相模川の沖積地へ埋没するものと思っていたのだが、崖線の斜面林は南に連綿と続いている。田名原段丘面はこの先も南に続くようである。地形を見るに、なるほど鳩川分水路は崖線を切り通し、相模川に力技で水を抜いているようである。
鳩川分水路建設の主因は何だろう。この鳩川分水路だけであれば、都市化・宅地開発による大雨時の洪水対策などと妄想もできるのだが、この鳩川放水路のすぐ南に昭和8年(1933)に建設された鳩川の分水路、正式には「鳩川隧道分水路」があるわけで、その頃に都市化がそれほど進んでいるとも思えない。鳩川自体が暴れ川であったのだろうか。はてさて。

三段の滝
相模線の鉄路に遮られる鳩川分水路を離れ、成り行きで鉄路を迂回し。県道46号・新磯橋を渡り相模川の崖線上にある新磯橋入口交差点に。この崖線は中位の田名原段丘面と低位の陽原段丘面を画するものであろうが、大雑把に言って、この地で陽原段丘面の崖線が田名原段丘面の崖線に合わさり埋没することになるのだろう。
崖線上からは相模川の広大な河川敷、対岸の中津原段丘面、その向こうに丹沢の山塊が一望のもと。誠に雄大な景観である。
交差点脇から河川敷の整地された公園に下りる階段がある。最後の仕上げに、相模川から鳩川の分水路を眺めるため階段を下りる。公園には分水路正面に橋が架かり、そこからは「三段の滝」がよく見える。滝といっても、自然のものではなく、段丘上からの放流水勢を緩やかにするため設けられた段差によって生じる「滝」ではあるが、水量も多く、なかなか迫力があった。

相模線・下溝駅
上にメモしたように、鳩川分水路の南には昔の分水路である「鳩川隧道分水路」もあり、そこにも三段の滝がある、とのことだが、想定と異なり田名原崖線は更に南に続きここで田名原崖線散歩は、この地で終わりとはならず、更に先に進む必要もある、ということで、「鳩川隧道分水路」は次回以降のお楽しみとする。 公園から崖線上に戻り、県道46号を少し北に戻り相模線・下溝駅に向かい、一路家路へと。

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