水曜日, 7月 16, 2014

横浜水道みち散歩;西谷浄水場から横浜水道みちを辿り、大貫谷戸水路橋を訪ね川井浄水場まで

先般の相模原台地散歩のおり、幾度となく「横浜水道みち」と出合った。散歩をメモするため、その経路をチェックしていると、横浜市旭区に谷戸を跨ぐ水路橋が目に入った。大貫谷戸水路橋と呼ばれるこの「橋梁」は、住宅のはるか上を水路が通る。そんな風景、今は撤去された山陰本線・余部鉄橋の如き景観が、横浜市域に残るとは思ってもみなかった。「水路」とか「用水」というキーワードに対しては無条件にフックが掛かる我が身としては、行くに如かず、ということで、日も置かず水路橋を訪ねることに。
ルートを想うに、水路橋の前後に、「横浜水道みち」の経路ポイントでもある、川井浄水場、西谷浄水場がある。どうせのことなら、このふたつの浄水場をカバーしながら、「横浜水度みち」を辿るべしと、スタート地点の西谷浄水場最寄りの相鉄線・上星川駅に向かう。

本日のルート;相模鉄道本線浜駅>相鉄・上星川駅>蔵王高根神社>西谷浄水場旧計量器室跡>西谷浄水場>横浜環状2号・主要地方道17号>みずのさかみち>新幹線と交差>相鉄・鶴ヶ峰駅>鎧橋と帷子川>「水道みちトロッコの歴史」の標識・19番目>送水管埋設標>二俣川合戦の地・吾妻鏡 畠山重忠公終焉の地>矢畑・越し巻き>清来寺>「水道みちトロッコの歴史」の標識・18番目>八王子街道と中原街道が交差>川井宿町交差点>トロッコ軌道跡>上川井交差点>大貫谷戸水路橋>川井浄水場>田園都市線・南町田駅

相模鉄道本線浜駅
横浜駅で相鉄こと、相模鉄道本線に乗り換える。相鉄に乗るのはいつだったか鎌倉街道を辿り、JR横浜線・中山駅辺りから鶴ヶ峰駅辺りを彷徨って以来のことである。
相模鉄道本線は横浜と海老名を結ぶ。本線と言う以上、なんらかの支線があるのかとチェックすると、二俣川から本線と分かれ藤沢市の湘南台駅を結ぶ「相鉄いずみ野線」があった。湘南台駅で小田急線と接続する。どこかで聞いた駅名と思ったのは、「サバ神社」を辿った散歩の折に、小田急・湘南台を利用したからだろう。
横浜駅を出た相鉄は平沼橋駅、西横浜駅へと進む。西横浜駅は昭和4年(1929)に相鉄の前身である神中鉄道の東のターミナルとして誕生。当時の横浜駅は高島町にあり、神中鉄道と繋がっていなかった。その後昭和6年(1931)横浜駅が現在地に移転する計画にともない、神中鉄道は平沼橋駅まで路線を延長し、昭和8年(1933)には、現在地に移った横浜駅と神中鉄道は繋がることになった。

○相模鉄道
相模鉄道は、元々は現在のJR相模線である茅ヶ崎駅 - 橋本駅間を結ぶべく開業した鉄道会社である。現在の相鉄本線にあたる横浜駅 - 海老名駅間を開業させたのは神中鉄道(じんちゅうてつどう)という鉄道会社であるが、昭和18年(1943)に神中鉄道は相模鉄道に吸収合併された。しかし、翌年には元の相模鉄道の路線であった茅ヶ崎駅 - 橋本駅間が国有化されたため、神中鉄道であった区間が相模鉄道として残った、ということであろう。

帷子川
電車は西横浜駅を超えると西区から保土ヶ谷区に入る。天王町を越え、帷子川に沿って進む。Wikipediaによれば、平安の頃まで天王町辺りまで入り海が迫り、袖ヶ浦と称される景勝の地として知られていた、と。そしてその入り江に注ぐ帷子川の河口には帷子湊が開けていた、とか。
江戸の頃、富士山の宝永の大噴火による火山灰により河口が浅間町辺りまで移動し、その地に新河岸が成立する。その後、江戸から明治にかけて袖ヶ浦の埋め立てが進み、現在の平沼町一帯が誕生した。因みに天王町は明治の頃、絹の輸出の増大に伴い、「絹の道」の通る町として賑わったようである。

○帷子(かたびら)川
帷子川(かたびらがわ)は、神奈川県横浜市を流れる二級河川。工業用水三級。現在の神奈川県横浜市保土ケ谷区天王町一帯は片方が山で、片方が田畑であったため、昔『かたひら』と呼ばれていた。その地を流れていたので『かたびらかわ』と呼んだのが名の由来だとされているが、これも地名由来の常の如く諸説ある。
神奈川県横浜市旭区若葉台近辺の湧水に源を発し、横浜市保土ケ谷区を南東に流れ、横浜市西区のみなとみらい21地区と横浜市神奈川区のポートサイド地区にまたがる場所で横浜港に注ぐ。
もともとは蛇行の激しい暴れ川で水害の多い川であったが、多くの地点で連綿と河川改良が進められた。近年、川の直線化や護岸工事など大規模な改修が進められ、西谷から横浜駅付近に流す地下分水路や、親水公園、川辺公園などが造られた。
横浜市保土ケ谷区上星川付近には、かつて捺染(なっせん)業が多く存在した。この染色・捺染の染料を流すこと(生地を水に晒す工程)や、周辺の生活排水や工場廃水などが増え始め、一時期は汚染が進んだ。また、上流域の横浜市旭区にゴミ処理場があり、その影響も心配された。 しかし、近年の環境問題に社会の関心が向いたことにより下水道の普及など状況は改善されつつあることや魚の放流などもなされた結果、自然が戻りつつあり、アユや神奈川県でも珍しいギバチも確認されている(Wikipediaより)

多摩丘陵と下末吉台地に挟まれた谷底低地を相鉄は進む
天王町駅を超える辺りから、線路の左右は下末吉台地に囲まれ、帷子川によって開析された樹枝状の谷底低地・氾濫原となってくる。その谷底低地を星川、和田駅へと進むと北は多摩丘陵、南は下末吉台地となる。西横浜駅から西の保土ヶ谷区は区の西部に多摩丘陵、中央部に下末吉台地が広く分布する。

○下末吉台地
下末吉台地(しもすえよしだいち)とは、神奈川県北東部の川崎市高津区、横浜市都筑区・鶴見区・港北区・神奈川区・西区・保土ケ谷区・中区などに広がる海抜40-60メートルほどの台地である。
鶴見川、帷子川、大岡川などによって開析が進み、多数の台地に分断されている。北側は多摩川沿いの沖積平野に接し、西側は多摩丘陵に連なる。横浜市中心部では海に迫っており、野毛山、山手や本牧など坂や傾斜地の多い地形を作っている(Wikipediaより)。

○多摩丘陵
関東平野南部,多摩川と境川の間に広がる丘陵。広くは東京西郊の八王子市から南南東にのびて三浦半島へと続く丘陵地を指すが,狭義には八王子市を流れる多摩川上流の浅川と,横浜市西部を流れる帷子(かたびら)川との間の地域を指す。
西は境川をはさんで相模原台地へと続き,北は多摩川をはさんで武蔵野台地へと続く。また,東はほぼ川崎市多摩区登戸~横浜市保土谷区を結ぶ線を境に下末吉台地へと連続している。多摩丘陵は地形・地質的には,これらの台地と関東山地の間の性格をもち,丘陵背面をなす多摩面と呼ばれる地形面は台地よりは古く,関東山地よりは新しい中期更新世に形成された(Wikipediaより)。

相鉄・上星川駅
相鉄に乗り目的地である西谷浄水場の最寄駅である「上星川駅」で下車。駅は大正15年(1926)、神中鉄道の「星川駅」として開業。昭和2年(1927)、横浜駅方面への区間延長計画に伴い、北保土ヶ谷駅が開業。昭和8年(1933)、北保土ヶ谷駅を「星川駅」と改称するに伴い、当駅を「上星川駅」とした。
○星川
因みに、この「星川」って田舎の愛媛県に姓として多い名前である。星川とか星加君といった同級生がいた。星さんとか星野さんって群馬とか福島に多いように聞く。何となく気になりチェック。
星川という苗字が最も多いのは山形(600弱)、愛媛は第二位(300ほど)とのことである。古代、雄略天皇の第四皇子に星川皇子がいる。西暦479年、雄略大王の死後、吉備氏の支援を受け、皇太子白髪皇子にクーデターを起こすも、大伴金村や東漢によって鎮圧され誅殺された人物である。
この皇子と山形や愛媛と関係あるのかないのか定かではないが、大和の星川氏は大和国山辺郡星川郷(奈良県奈良市)をルーツとし、武内_宿禰の子孫とされる。また、この地にも星川氏が武蔵国久良岐郡星川(神奈川県横浜市)に居を構えたとか。星川の地名は10世紀の『和名類聚抄』にすでに記録されている由緒ある地名であり、苗字も100弱と全国六位(山形>愛媛>北海道>東京>愛知>神奈川)なっている。

東海道貨物線が帷子川を跨ぐ
駅を下りる。駅前には帷子川が流れ、駅の北は多摩丘陵、南は下末吉台地が迫り、帷子川により開析された台地が複雑に入り組んでいる。駅の右手を見ると、帷子川の上を鉄道が跨ぐ。東海道貨物線が南北の丘陵をトンネルで抜け、帷子川の谷筋に橋梁となって姿を現している。
○東海道貨物線
東海道貨物線は、東京都港区の浜松町駅と神奈川県小田原市の小田原駅を結ぶJR東日本東海道本線の貨物支線および複々線区間、南武線の貨物支線の通称。上星川駅の北の丘陵を抜けた箇所に横浜羽沢駅があり、そこから東には地下を抜け東海道線・生麦駅に、西は丘陵の中を抜け東海道線・東戸塚駅と結ばれている。

蔵王高根神社
帷子川に架かる「光栄橋」を渡ると、蔵王神社前交差点。坂を少し上ると「蔵王高根神社」がある。この神社は旧坂本村の神社であった。坂本村には古くから蔵王社と高根社があり、村人の篤き信仰を集めていた,と言う。明治22年(1889)には町村制の施行により、坂本村と仏向(ぶっこう)村が合併して矢崎村が成立。その際、一村一社の政策に従い、蔵王社と高根社は杉山社に合祀された。
この杉山神社って横浜や川崎に地域限定で祀られる社。坂本村に該当する地域である仏向にも星川にも和田にもある。どの杉山神社か不明ではある。ただ、星川にある杉山神社は『江戸名所図会』には延喜式内神社との説もあるので、有難味から考えれば、この社かもしれない。とは言うものの、全く根拠なし。 それはそれとして、杉山神社に合祀された後も、当地の村民は信仰篤き故か社殿を残し、戦後になって再びこの地に分祀し社を成した、と言う。

○仏向・矢崎
因みに仏向村は仏に供える食物を意味する「佛餉」から(Wikipedia)。また、両村合併の際に何故「矢崎村」と名付けたのか気になりチェック。仏向村に頼朝ゆかりの矢崎と呼ばれる地名が見つかった。頼朝が放った矢が突き刺さり、その矢から矢竹が繁り、ために「矢シ塚(矢崎)」と呼ばれるようになった、とか。合併の際に、頼朝ゆかりの地名を持ち出し両村の合意を図ったのであろうか。

西谷浄水場旧計量器室跡
西谷浄水場に向かって上り坂の途中、煉瓦造りの建物がある。水道関連の歴史的建造物であろうと近づくと、案内に「西谷浄水場旧計量器室跡」とあった。「このレンガ造りの建物は西谷浄水場から横浜駅周辺・桜木町・元町・山手・本牧方面に給水する内径600㎜、910㎜、395㎜の三条の配水管の量を計る量水装置(水銀式ベンチュリメーター)を設置するため大正3年3月に建設されたものです。日本ではじめての近代水道として明治20年に創設(現在の野毛山公園に浄水場を建設、明治20年10月17日に通水)された横浜水道が昭和62年に100周年を迎えるにあたり、横浜水道記念館への玄関口として保存し公開するものです 横浜市水道局」とのこと。

○「横浜水道みち」
先般、数回に渡って歩いた相模原台地で折りに触れて「横浜水道」の送水管が通る、所謂「横浜水道みち」に出合った。そのとき横浜市水道局のHPなどの記事をもとにまとめたメモをもとに「横浜水道みち」を整理する。
幕末の頃、戸数わずか87ほどであった横浜は、安政6年(1859)の開港をきっかけに急激に人口が増加。しかし横浜は、海を埋立て拡張してきた地であり、井戸水は塩分を含み、良質の水が確保できない状況にあった。
このため当時の神奈川県知事は、横浜の外国人居留地からの水確保への強い要望や、明治10年(1877)、12年(1879)、15年(1882)、19年(1886)と相次いで起きた伝染病コレラの流行もあり、香港政庁の英国陸軍工兵少佐H.S.パーマー氏を顧問として、相模川の上流に水源を求め、明治18年(1885)近代水道の建設に着手し、明治20年(1887)9月に完成した。
□創設期の経路
相模川と道志川の合流地点(津久井郡三井村)に造られた三井(みい)用水取水所で、蒸気機関で動く揚水ポンプで汲みあげられ、相模原台地を横切り、横浜市旭区上川井につくられた川井接合井(導水路の分岐点や合流点で一時的に水をためる施設)を経て、横浜市西区老松町の野毛山浄水場に至る44キロの水の道。
相模川が山間を深く切り開く上流部には左岸岩壁に隧道を穿ち、相模原の台地を一直線に進み川井接合井に。川井接合井から野毛山浄水場までは相模原の平坦な台地から一変、起伏の多い丘陵などを貫くため、水路の建設は困難を極めたと言う。
近代水道の要ともなる水路管(グラスゴーから輸入)の運搬には、相模川を船で運び上げたり、陸路にはトロッコ線路を敷設し水管を運び上げたとのことである。現在三井の取水所跡から旧野毛山配水池(大正12年(1923)の関東大震災で被災し、配水池となる)まで26個の「トロッコ道」の案内板が整備されている。これが創設期の「横浜水道みち」ではある。
□横浜水道網の拡大
創設当初、計画対象人口を7万名と想定した横浜水道は、横浜市の発展とともに施設の拡充が図られる。明治34年(1901)には既に給水人口を30万と想定し川井浄水場、大正4年(1915)には給水人工80万を想定し西谷浄水場を整備するなど、明治から昭和55年(1980)までに8回に渡る拡張工事が行われている。
その拡張計画は、単に浄水場や配水場の新設・改築にとどまらず、創設時は道志川水系にその水源を求めた「横浜水道」は、その後昭和22年(1947)に完成した相模湖を水源とする相模湖系、昭和46年(1971)完成の相模川下流の寒川取水堰よりの水を水源とする馬入川系、昭和53年(1978)年完成の丹沢湖の水を水源とする企業団酒匂川系、平成12年(2000)完成の宮ヶ瀬湖を水源とする企業団・相模川系など水源の拡大をも図り、県内8浄水場を経由し、市内23か所の配水池から各戸に送水され、400万人近い市民を潤している、とのことである。

西谷浄水場
西谷浄水場旧計量器室跡を後に西谷浄水場に向かう。浄水場の南の道を行けば簡単に正面玄関に行けたのだが、どちらが正面ゲートか調べることもく、なんとなく北側を敷地に沿って大回り。丘陵から谷筋を埋める民家を眺めながら敷地の西に。ゲートがあるが、そこは横浜FCのトレーニングセンター入口とあった。浄水場の上を覆う天然・人工芝の練習場各1面とトレーニングセンターがあるとのことである。
更に南に回ると正面ゲートがあり、案内には水道横浜記念館や水道技術資料館などがあるとのことだが、日曜日はゲートが閉まっており敷地内に入ることは叶わなかった。ここであれこれと資料を手に入れようとの思惑であったが、予定が狂ってしまった。ちょっと残念。

○西谷(にしや)浄水場
西谷浄水場が完成したのは大正4年(1915)のことである。横浜市水道局の資料によれば、この時期は明治34年(1901)から大正4年(1915)に渡る横浜水道の「第1回~第2回拡張工事完成」時期にあたる。上にもメモしたように、当初7万人を想定した給水人口が30万から80万に急増する状況に対応し、明治34年(1901)に野毛山浄水場増強、青山沈殿池の完成、大正4年(1915)にはこの西谷浄水場、鮑子取水所が完成している。
ちょっと補足すると、明治20年(1887)に設置された創設時の三井取水所は明治30年(1897)に4キロ上流の道志川の青山に取水口を移した。これにより、2つの突堤で小湾口を設け、ポンプで沈澄池に揚水していた横浜水道は「自然流下式」で下ることが可能となった、とか。上述の青山沈殿池の完成はこの取水口の移行に伴うものであろう。
その後、大正4年(1915)には取水口は青山の更に上流1キロの鮑子取水口に移され、同時に完成した城山隧道により、それまでの相模川左岸の断崖絶壁路線を避け、相模川右岸を直線で現在の城山ダム(昭和40年完成であるので当時は影も形も無い)辺りで相模川を渡り、創設期横浜水道に繋いだ、とのことである。
西谷浄水場の完成した大正4年(1915)には横浜水道は、この道志川水系だけであり、鮑子取水所から取水された横浜水道は明治34年(1901)に完成した川井浄水場を経由してこの西谷浄水場に至り、増強された野毛山浄水場に下っていったのであろう。

○現在の西谷浄水場のネットワーク
横浜市の水道施設の紹介ページにある「水道施設フローシート図」によれば、現在西谷浄水場には道志川系の水が、川井浄水場の「接合井」>「着水井」を経て西谷浄水場の「着水井」に繋がる他、昭和22年(1947)完成の相模湖系の水が川井浄水場の「着水井」を経由し「着水井」に、また、昭和53年(1978)年完成の丹沢湖の水を水源とする企業団酒匂川系が相模原浄水場を経由しこの浄水場の「配水池」に繋がり、西谷浄水場からは野毛山新配水池、南の峰配水池などへと下っているようである。

横浜環状2号・主要地方道17号
西谷浄水場から導水路を追っかけることにする。25000分の一地の地図を見ると西谷浄水場から破線が丘陵下の「陣ヶ下渓谷公園」の南端に続いている。浄水場からのラインは、横浜FCの練習場入り口の北側の坂道から出ている。坂道を下ると環状2号・主要地方道17号に当たる。横浜市の中心部を取り巻き、高速道路や幹線道路を繋ぐ。起点は磯子区森三丁目、終点は鶴見区上末吉5丁目である。

みずのさかみち

高架となっている横浜環状2号を潜り、水路破線の続く「陣ヶ下渓谷公園」の南端に向かう。と、巨大な導水管が現れる。前述の「水道施設フローシート図」には川井浄水場の着水井から西谷浄水場の着水井には口径1100mmの導水管が続いている。その導水管であろうか、ともおもうのだが、それにしてはもう少し大きいように思う。
「水道施設フローシート図」を再度チェックすると、企業団酒匂川系統の送水管は口径2000mmとあった。その系統の送水管かもしれない。実際、横浜市水道局の「各水源の主な給水区域」を見ると、西谷浄水場から南の保土ヶ谷区、北の神奈川区北部、鶴見区は「企業団酒匂川系統の水」となっている。
それでは、創設期の「浜水道みち」の系統である道志川系の送水管はどこを通っているのだろう。普通に考えれば、創設期の「浜水道みち」は相鉄・鶴ヶ峰駅から相鉄線に沿って相鉄・西谷駅、上星川駅へと続いている。このルートに埋設されているのだろうか。

新幹線と交差
「みずのさかみち」を上り、住宅街を進み西原団地入口交差点、くぬぎ台団地交差点に。この交差点の西は旭区となる。道なりに進むと下り坂になり、新幹線の路線が見える手前で、再び巨大な導水管が一瞬姿を現し、新幹線を越えた坂を上ると再び水路は地中に潜る。ルートから考えれば酒匂川系統の送水管かと思う。

新幹線を越えたところには如何にも水路施設といったコンクリート構造物が2つ並んでいた。




相鉄・鶴ヶ峰駅
道なりにすすむと相鉄・鶴ヶ峰駅。いつだったか鎌倉街道中ノ道を辿り、横浜線・中山駅から戸塚まで歩いた時に訪れて以来の駅である。駅前に建つ高層ビルを見やりながら道なりにすすむと、「鎧橋と帷子川」の案内と、その横に「水道みち トロッコの歴史」の案内があった。

鎧橋と帷子川
「鶴ヶ峰公園のこのあたりは、古くは帷子川として流水をたたえたところですが、 河川改修により埋め立てられ誕生しました。鎧橋は、明治時代に横浜水道敷設のために造られた水道みちと帷子川が交差していたこの場所に架けられました。 当初、木で造られていた橋は、時代とともに架け替えられながら永く親しまれてきましたが、 平成15年の道路改修工事によりはずされました。 鎧橋という名の由来は定かではありませんが、一説には、 やや上流の旭区役所付近に「鎧の渡し」と呼ばれた渡し場があったことから名づけられたといわれています(旭区役所)」、と。





「水道みちトロッコの歴史」の標識・19番目
「この水道みちは、津久井郡三井村(現・相模原市津久井町)から横浜村の野毛山浄水場(横浜市西区)まで約44kmを、 明治20年(1887)わが国最初の近代水道として創設されました。 運搬手段のなかった当時、鉄管や資機材の運搬用としてレールを敷き、トロッコを使用し水道管を敷設しました。 横浜市民への給水の一歩と近代消防の一歩を共に歩んだ道です(横浜市水道局)」。
この案内には「三井用水取水口からここまで35キロ」とも記されている。26か所に建てられているトロッコ道案内の19番番目の標識である。


送水管埋設標
これら二つの案内の横に茂みがあり、そこに「送水管埋設標」と書かれた色褪せた案内があった。その時は何気なく写真に撮っておいたのだが、このメモをする段階でよくよく見ると「管種 2000mmダグタイル鉄鋳管 土被(どかぶ)り 15.52m 神奈川県内広域水道企業団」とあった。先ほど「みずのさか」の送水管のところで、「水道施設フローシート図」をもとに、その送水管は酒匂川系の送水管では、と推測したのだが、この案内によってほぼその推測は間違いないだろうと思う。とりあえず写真は撮っておくものである。



二俣川合戦の地・吾妻鏡 畠山重忠公終焉の地
先を進み鶴ヶ峰駅入口交差点に。この地で二俣川が帷子川に合わさる。その「ふたつの川が合わさる帷子川左岸に「二俣川合戦の地・吾妻鏡 畠山重忠公終焉の地」の案内。竹の植わる一隅に「さから矢竹の由来」。
案内には「鎌倉武士の鑑、畠山重忠公は、この地で僅かの軍兵で、北條勢の大軍と戦って敗れた。公は戦死の直前に「我が心正しかればこの矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」と、矢箆(やの)二筋を地に突きさした。やがてこの矢が自然に根付き年々二本ずつ生えて茂り続けて「さかさ矢竹」と呼ばれるようになったと伝えられる。
このさかさ矢竹も昭和四十年代の中頃までは、現在の旭区役所北東側の土手一面に繁っていたが、その後すべて消滅してしまった。この度畠山重忠公没後八百年にあたり、ここにさかさ矢竹を植えて再びその繁茂を期待いたします。(平成十七年六月ニ十二日 横浜旭ロータリークラブ)」、とあった。

○畠山重忠と二俣川の合戦
畠山重忠は頼朝のもっとも信頼したという武将。が父・重能が平氏に仕えていたため、当初、平家方として頼朝と戦っている。その後、頼朝に仕え富士川の合戦、宇治川の合戦などで武勇を誇る。頼朝の信頼も厚く、嫡男頼家の後見を任せたほどである。 頼朝の死後、執権北条時政の謀略により謀反の疑いをかけられ一族もろとも滅ぼされる。二俣川の合戦がそれである。
きっかけは、重忠の子・重保と平賀朝雅の争い。平賀朝雅は北条時政の後妻・牧の方の娘婿。恨みに思った牧の方が、時政に重忠を討つように、と。時政は息子義時の諌めにも関わらず、牧の方に押し切られ謀略決行。まずは、鎌倉で重忠の子・重保を誅する。ついで、「鎌倉にて異変あり」との虚偽の報を重忠に伝え、鎌倉に向かう途上の重忠を二俣川(横浜市旭区)で討つ。
討ったのは義時。父・時政の命に逆らえず重忠を討つ。が、謀反の疑いなどなにもなかった、と時政に伝える。時政、悄然として声も無し、であったとか。 その後のことであるが、この華も実もある忠義の武将を謀殺したことで、時政と牧の方は鎌倉御家人の憎しみをうけることになる。
「牧氏事件」が起こり、時政と牧の方は伊豆に追放される。この牧の方って、時政時代の謀略の殆どを仕組んだとも言われる。畠山重忠だけでなく、梶原景時、比企能員一族なども謀殺している。で、最後に実朝を廃し、自分の息子・平賀朝雅を将軍にしようとはかる。が、それはあまりに無体な、ということで北条政子と義時がはかり、時政・牧の方を出家・伊豆に幽閉した、ということである。

矢畑・越し巻き
先に少し進むと道の左側のちょっと入り込んだところに「矢畑・越し巻き」の木標。二俣川合戦で、北条勢の矢が、このあたり一面に無数に突き刺さり、まるで矢の畑のようになったことから「矢畑」、と。「越し巻き」の由来は、重忠が取り囲まれた故との説、とか、、その矢が腰巻きのようにぐるりと取り巻いたという説など、あれこれ。

今宿地区
帷子川に沿って「横浜水道みち」を進む。16号・八王子街道の一筋南の道筋である。鶴ヶ峰本町を抜け「今宿」地区に入る。水道みちの北側から川筋が合流する。これは帷子川の旧流路。洪水対策で直線化工事がなされたのであろう。先に進み、蛇行する旧流路にかかる「清来橋」の先の帷子川に擬宝珠が載る橋がある。地図を見ると橋を渡った左手に清来寺。ちょっと立ち寄るも、工事中で山門を潜っただけで元に戻る。
○清来寺
浄土真宗。開山は建治元年(1275)。もとは厚木にあったとのことだが、寛永年間(1624~43)にこの地に移った、と。この寺さまにはが所蔵する「夏野の露」という巻物があり、江戸時代末期のこのお寺様の住職が畠山重忠公の武勇をたたえるために編集したものとのことである。





「水道みちトロッコの歴史」の標識・18番目
水道みちに戻り、今宿団地前交差点を越え水道みちが旧帷子川を越える辺りの緑の中に「水道みち トロッコの歴史」の標識。三井用水取水所より3キロ」とあった。
また、その傍に「送水管埋設標」も。口径は2000mm。前述の埋設標と同じだが、土被りは32.53mとあった。地表から32mもの地中に埋設されているのだろうか。この送水管は神奈川県内広域水道企業団とあり、前述送水管と同じく酒匂川系の水のネットワークであり、水道みちとは基本道志川系のものであり、ということは、この下にはふたつの水系のふたつの送水管が埋設されているのだろうか。

八王子街道と中原街道が交差
先に進み筑池交差点で国道16号・八王子街道を越え、国道の北に二筋ある道の北側の道を進み中原街道とクロス。中原街道を越えると、今宿地区を離れ川井地区となる。
これはメモの段階でわかったのだが、八王子街道の北を進む二筋のうち南側の道筋が「横浜水道みち」であり、中原街道を越えてすぐの「都岡町内会館の辺りに17番目の下川井の「水道みちトロッコの歴史」の標識があったようだが見逃した。



川井宿町交差点
道を進むとズーラシア(動物園)辺りを水源域とすると思われる小さな水路を越えて進むと八王子街道・川井宿交差点に合流する。
先ほどの今宿もそうだが、この川井宿も、その「宿」という文字が気になる。チェックすると、今宿も川井宿も八王子街道や中原街道のクロスする地につくられた簡易な「宿」であったとか。簡易な「宿」と言う意味合いは、東海道など五街道に設けられた本格的な宿ではなく、近隣の農家が「宿」を提供した程度のようである。
○八王子街道
八王子街道は昔の浜街道とも神奈川往還とも、また絹の道とも呼ばれる。絹の道と呼ばれた所以は、安政6年(1859)の横浜開港とともに生糸の輸出が増加し、生糸の集積地である八王子から横浜へと運ばれた。
いつだったか、鑓水の絹の道を歩いたこと思い出す。その時の絹の道のメモ:。絹の道とは、幕末から明治30年(1897)頃までのおよそ50年、この地を通って生糸が横浜に運ばれた道。八王子近郊はもちろんのこと、埼玉、群馬、山梨、長野の養蚕農家から八王寺宿に集められた生糸の仲買で財をなしたのが、この地の生糸商人。この地の地名にちなみ、「鑓水商人」と呼ばれた。 鑓水商人で代表的な人は、八木下要右衛門、平本平兵衛、大塚徳左衛門、大塚五郎吉など。が、結局、このあたりの生糸商人も、横浜の大商人に主導権を握られていた、とか。その後、生糸が養蚕農家のレベルから官営工場への転換といった機械化により、養蚕農家の家内制生糸業を中心とした商いをしていたこの地の、鑓水商人は没落していった、と。また、鉄道便の発達による交通路の変化も没落を加速させたものであろう。ちなみに、当時この街道は「浜街道」と呼ばれた。絹の道とかシルクロードって名前は、昭和20年代後半になって名付けられたものである。
経路は八王子から町田市相原まで進み、そこからは二つのルートがあった、とか。ひとつはおおよそ現在の町田街道を町田市鶴間まで、もうひとつは境川を渡り橋本、淵野辺、上鶴間から鶴間へと進む、おおよそ現在の国道16号に沿った道である。で、鶴間で合わさったふたつのルートは今宿を経由して横浜へと向かった。

○中原街道
これもいつだったか、六郷用水を歩いたとき、福山正治の『桜坂』で知られる大田区の桜坂にあった旧中原街道の案内をメモする。「中原街道は、江戸から相州の平塚中原に通じる道で、中原往還、相州街道とも呼ばれた。また中原産の食酢を江戸に運ぶ運送路として利用されたため、御酢街道とも呼ばれた。すでに近世以来存在し、徳川家康が江戸に入国した際に利用され、その後、部分改修されて造成された街道である。江戸初期には参勤交代の道としても利用されたが、公用交通のための東海道が整備されると、脇往還として江戸への物資の流通や将軍の鷹狩などにもしばしば利用された。 また、平塚からは東海道よりも近道だったため、急ぎの旅人には近道として好まれたという。中略(大田区教育委員会)」。
中原には将軍家の御殿(別荘)があったようである。上に「中世以来」とあるが、Wikipediaによれば、小田原北条氏の時代に本格的な整備が行われたようで、狼煙をあげ、それを目印に道を切り開いたとされるが、その狼煙台の場所として今宿南町、清来寺の裏山、上川井の大貫谷などが記録に残る、とか。 中原街道の経路は、江戸城桜田門(後に虎の門)から国道1号桜田通り、東京都道・神奈川県道2号、神奈川県道45号を通り平塚に向かう。また「中原街道」という名称も、江戸期に徳川幕府が行った1604年の整備以降であり、それ以前は相州街道あるいは小杉道とも呼ばれていたようである。

トロッコ軌道跡
川井宿町交差点の次の交差点、川井本町交差点の傍に歩道橋がある。その脇に八王子街道に沿って帷子川に架かる小さな人道橋があるが、その橋に横浜水道創設期の工事に遣われたトロッコの軌道が埋め込まれていた。英国のグラスゴ-から輸入された水道の鋳鉄管を現場に運搬するために遣われたものである。よく見なければ見逃しそうに人道橋に馴染んで埋もれていた。

上川井交差点
やっと本日のメーンイベントである大貫谷戸水路橋に近づいた。八王子街道を先に進み、福和泉寺前交差点を越え蛇行する帷子川を再び渡り神明神社のある宮の下交差点を越え、またまた帷子川を渡り直し、上川井交差点に。福泉寺前交差点付近に16番目の「水道みちトロッコの歴史」の標識とトロッコ軌道跡があったようだが見逃した。
上川井交差点から横浜身代わり不動尊方面へと北に向かい、細流となった帷子川筋へ少し下り若葉台団地入り口交差点に。交差点を北に進むと巨大な水路橋が見えてきた。大貫谷戸水路橋である。

大貫谷戸水路橋
左右の丘陵を繋ぎ、かつては自然豊かな谷戸ではあったのだろうが、現在は民家や畑地となっている一帯を跨ぐ水路橋はさすがに見応えがある。高さは23m、延長414m(鉄鋼水路302m)、深さ2.7m、幅2.2mの構造を緑にペイントされたトレッスル橋脚で支えている。この水路橋は送水管ではなく、鋼桁がそのまま水路となっているとのことである。成り行きで西側の丘陵に上り、水路橋脇から谷戸を跨ぐ水路橋をしばし眺める
。 水路橋の逆側には導水路が西へと続き、国道16号・八王子街道と国道16号・保土ヶ谷バイパスがクロスする手前で保土ヶ谷バイパスに沿って北西に向かい、ほどなく川井浄水場と繋がる。

この水路橋が出来たのは昭和27年(1952)のことと言う。明治20年(1887)、横浜市へと近代水道を創設するも、給水人口の増加にともない、明治34年(1901)に川井浄水場を造り、大正4年(1915)には先ほど訪れた西谷浄水場を造り、昭和16年(1941)には西谷浄水場の拡張工事を実施した。
しかし、戦後の給水需要には間に合わず、横浜水道創設期の道志川系統以外に水源を求めることになり、昭和22年(1947)には相模ダムを建設。この神奈川県で最初の大規模人造湖である相模湖に貯水した水を川井浄水場の接合井に流すことになる。
で、川井浄水場から「相模湖系」の水を西谷浄水場に送ることになるわけだが、当初口径の大きい(1350mm)管の敷設を計画するも、鉄管のコストが高く、鉄管による導水を諦め、「開渠方式」により川井浄水場から西谷浄水場に送水する計画に変更。
そのルートは従来の横浜水道みちのルートとは異なった、川井浄水場の「接合井」から3つの多摩丘陵の尾根道を繋ぎ鶴ヶ峰に進むもの。丘陵の間にはこの大貫谷戸水路橋の他、梅田谷戸(三保市民の森南端)、鶴ヶ峰(鶴ヶ峰中学脇)にも水路橋を設け鶴ヶ峰の接合井(後に工業用水用の鶴ヶ峰浄水場となる)に進み、丘陵を下り西谷浄水場の着水井へと繋げた。この間おおよそ7キロ。100mで6cm下る傾斜を自然流下で繋げた。流速は人の歩く速度ほどとのことである。この新水路の完成により、昭和36年(1961)に給水対照人口が120万人となる横浜市の水需要に対応した。
○トレッスル橋
トレッスル橋(Trestle bridge)とは、末広がりに組まれた橋脚垂直要素(縦材)を多数短スパンで使用して橋桁を支持する形式の橋梁で、一般には鉄道橋としての用例が多い。
トレッスルとは「架台」、あるいは「うま」のことで、これに橋桁を乗せた構造を持つ桁橋である。長大なスパンがとれないため、多数の橋脚を必要とするので河川や海上に建設するのには不向きだが、陸上橋とすればトータルとしての使用部材量が少なくて済むことが特徴とされる。 山岳地帯や、渡河橋へのアプローチとして川沿いの氾濫原を横断するため等の目的で、19世紀には木製のトレッスル(ティンバートレッスル)が広範囲に造られた。樹皮をむいた丸太をクレオソート油に漬けて防食性を増したものを垂直要素の主構造材(縦材)とし、これに材木を釘うちやボルト係合してブレース(横材)とするのが一般的であった。
20世紀に入り、比較的大きな線路勾配が許容されるようになり、また、トンネル技術が発達したことにより、トレッスル橋の必要性は減少した。 日本では、(中略)JR西日本山陰本線余部橋梁(余部鉄橋、餘部橋梁)が日本最長のトレッスル橋であったが、2010年(平成22年)7月16日で供用を終了して一部が解体された(Wikipediaより)。

川井浄水場
大貫谷戸水路橋を堪能し、最後の目的地である川井浄水場に向かう。国道16号・八王子街道の一筋北の道を進み、保土ヶ谷バイパスと交差する国道16号・亀甲山交差点から保土ヶ谷バイパスに沿って進み川井浄水場入口交差点に。交差点手前には大貫谷戸水路橋から川井浄水場へと繋がるコンクリートで囲まれた導水路が見える。交差点を渡ってその先を確認すると、導水路は川井浄水場に繋がっていた。

川井浄水場は現在工事中。従来、川井浄水場から道志川系の原水を西谷浄水場に導水管により送水していたが、将来構想として、道志川系の原水は川井浄水場に、相模湖系の原水は西谷浄水場で処理されることになるようだ。その計画に関連した工事であろうか。
○道志川系
前述「水道施設フローシート図」をチェックすると、道志川系は鮑子取水口>青山隧道>青山沈澱池>城山管路隧道>第一接合井>城山水路隧道>第二接合井>城山ダム水管橋>第三接合井>久保沢隧道>上大島接合井と進み1350mm,1500mmの送水管によって川井浄水場の「着水井」と繋がる。川井浄水場の「着水井」から西谷浄水場の「着水井」に1100mmの送水管が繋がっているが、この送水管が使用停止となるのだろうか。
○相模湖系
また、相模湖系の原水は西谷浄水場で処理されることになるとのこと。相模湖系の経路をチェックすると、津久井隧道>津久井分水地>相模隧道>下九沢分水池>横浜隧道>虹吹分水池>相模原沈澱池を経て川井浄水場の「川井接合井」と繋がる。その先は川井浄水場の「接合井」から「着水井」に向かい、そこから、1100mmの送水管で西谷浄水場の着水井と結ばれている。

このように道志川系・相模湖系が同居している川井、西谷浄水場を川井は道志川系、西谷は相模湖系にまとめるとのことだが、企業団酒匂川系の導水管も川井、西谷浄水場とも繋がっている(企業団相模川系は両浄水場とは繋がっていないように見える)わけだから、結構ややこしく、おおがかりな工事になるのだろう。
因みに、「水道施設フローシート図」を見ると。川井浄水場からは浄水場内の「配水池」を経て恩田幹線で「恩田配水池(青葉区榎が丘)」、三保幹線により「三保配水池(緑区三保)」、さらには牛久保配水池(都筑区牛久保)へと水が送られているように見える。
○鶴ヶ峰ルートの相模湖系
また、この構想にともない、従来相模湖系の原水を処理していた鶴ヶ峰浄水場は鶴ヶ峰配水池(仮称)を残して廃止することになり、今後川井浄水場で処理した水を鶴ヶ峰配水池へ送水するための送水管更新工事が行われるようである。現在川井浄水場の接合井からの相模湖系の水は、先ほど見た大貫谷戸水路橋のある水路を「鶴ヶ峰配水場(浄水場は廃止予定)」に向かい、鶴ヶ峰配水場の接合井から西谷浄水場の着水井と繋がっているが、今回の導水管更新工事の地図は、おおよそ横浜水道道の経路であり、鶴ヶ峰への尾根道ルートではないようだ。

川井浄水場の接合井に注いだ相模湖系のルートを更にチェックすると、接合井から着水井に進み、そこから1100mmの送水管で西谷浄水場の着水井と結ばれている。川合浄水場から西谷浄水場への相模湖系のネットワークは鶴ヶ峰の尾根道水路ルートだけではないようだ。
今回の導水管更新工の資料を見ると、現在川井浄水場を経て西谷浄水場へ原水を導水している既設の導水管の一部を整備し、川井浄水場から鶴ヶ峰配水池(仮称)への送水管として使用するための工事がおこなわれるようであるが、その工法は総延長約 6km の導水管に内挿管工法により新たな管を挿入するものとあり。その口径は1000mmとある。現在川井浄水場の着水井から西谷浄水場の着水井に繋がる送水管は1100mmとあるので、口径1100mmの送水管の中に1000mm 送水管を内挿管工法によって工事がおこなわれるのだろうか。

ここでわかったことと、わからなくなったことがそれぞれひとつ。わかったことは、川井浄水場からの1100mm送水管は横浜水道みちに沿って埋められているだろう、と思えたこと。西谷浄水場のところで、企業団酒匂川系統の送水管が「横浜水道みち」から離れて「陣ヶ下渓谷公園」から一直線に西谷浄水場に向かっており、道志川・相模湖系の送水管がどの道筋に埋められていたかわからなくなっていたが、送水管更新工事のルート図は「横浜水道みち」の道筋であったからである。
で、わからなくなったことは、それでは従来相模湖系の水を西谷浄水場に送っていた「鶴ヶ峰の尾根道水路ルート」はどうなるのか、ということ。従来通り、川井浄水場の接合井から水路を流れ西谷浄水場の着水井への流れ残るのだろうか。よくわからない。

○横浜市内の系統別配水地域
西谷浄水場、川井浄水場を訪れることにより、横浜市の水のネットワークも一端を垣間見た。上にメモしたように、横浜市の水は、創設時は道志川水系にその水源を求めた。その後昭和22年(1947)に完成した相模湖を水源とする相模湖系、昭和46年(1971)完成の相模川下流の取水堰よりの水を水源とする馬入川系、昭和53年(1978)年完成の丹沢湖の水を水源とする企業団酒匂川系、平成12年(2000)完成の宮ヶ瀬湖を水源とする企業団・相模川系など水源の拡大をも図り、県内8浄水場を経由し、市内23か所の配水池から各戸に送水され、400万人近い市民を潤している、とのことである。
大雑把ではあるが横浜市内の系統別配水地域をまとめておく。

□西区の全域、中区の大半、南区の大半、保土ヶ谷区の東部、神奈川区の南部、鶴見区の東部・南部、港北区の南部の一部・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・道志川系と相模川系

□南区西部、戸塚区の北西部、旭区の南東部、神奈川区の北部、鶴見区中央部、港北区の南部と北部、都築区の北部・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・企業団酒匂川系

□神奈川区の北半分、緑区の南部、旭区の東部・・・・相模湖系

□泉区のほぼ全域、戸塚区ほぼ全域、港南区全域、磯子区全域、栄区・金沢区のほぼ全域、瀬谷区東南部、旭区中央部・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・馬入川系と企業団相模川系

□青葉区・緑区全域、旭区北部、瀬谷区の大半・・・・道志川系と企業団酒匂川系

□港北区中央部、都築区南部、青葉区の一部・・・・・馬入川系と企業団酒匂川系

□栄区と金沢区の南部の一部・・・・・・・・・・・・・・・・・・企業団相模川系
まことに大雑把ではあるが、複雑に入り組んだ横浜の水のネットワークが少し実感できる。

田園都市線・南町田駅
本日のメーンイベントである大貫谷戸水路橋も堪能し、西谷浄水場、川井浄水場を訪れることにより、横浜市の水のネットワークも一端を垣間見た。また、大貫谷戸水路橋その経路チェックをした折に、大貫谷戸水路橋以外にも同一導水路上にふたつの水路橋があるとのことである。
次回は、この水路橋を見るべしと、川井浄水場から保土ヶ谷バイパスに沿って進み、東名高速をクロスし、最寄の鉄道駅である田園都市線・南町田駅に向かい、本日の散歩を終える。

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