日曜日, 4月 13, 2014

伊予・丹原散歩 そのⅠ;丹原の利水史跡を辿る

西条市丹原町、私には周桑郡丹原町といったほうがしっくりくるのだが、2004年(平成16年)近隣の東予市、小松町とともに西条市に合併した丹原の利水史跡を辿ることにした。
きっかけ、ほんの偶然のこと。前職のすべての役職を退任し、この一年、毎月10日ほど田舎に戻り母親の話し相手をしているわけだが、時間を見付けては四国霊場を辿ったり、沢登り(一の谷)をしたり、銅山川疏水()といった用水路の隧道や水路探しを楽しんでいる。で、今回もどこか面白いところはないかと実家のある新居浜市の市立図書館を訪れ、あれこれ資料を探していると、「丹原町の文化財(丹原町教育委員会)」という小冊子が目に入り、ページをめくっていると、幾多の文化財の中に、劈巌透水路とか志川堀抜隧道、そして関屋切抜水道といった利水史跡が目に入った。
利水史跡の数は10カ所ほど。地区名と史跡名、史跡の写真、それとその史跡の簡単な説明だけであり、詳しい場所などどこにも記載されてはいない。これでは手掛かりとしては余りに心許ないとWEBでチェックすると、有名な史跡の数箇所はなんとか場所の特定はできたのだが、そのほかは地区名と写真、説明文以外まったく手掛かりはない。が、行けばなんとかなるだろうと、いつものようにお気楽に丹原利水史跡散歩にでかけることにした。

散歩とは言いながら、今回は地域も広く、また、交通の便などあるわけもなく、車で近くまで行き、目的地を探し出し、ピストンで戻り次に進む、といった段取りとした。ルートは、とりあえず場所のわかる利水史跡からはじめ、その後は、運を天に任せた成り行き散歩。地形を読んで目的地を予測したり、地形から感じるなんらかの「ノイズ」をもとに史跡を辿り当てたり、勘を頼りに進んだり、運を味方につけ目的地をゲットしたりと、宝探しのような「散歩」を楽しんだ。



丹原利水史跡散歩
第一回;史跡①劈巌透水路>史跡②中山川水菅橋>史跡③衝上断層>史跡④両岸分水工>史跡⑤志川堀抜隧道
第二回;史跡⑥釜之口井堰>史跡⑦掛井手(かけいで)>史跡⑧兼久の大池>史跡⑨高松の横井史跡>⑩西山興隆寺史跡>⑪古田の水路
第三回;史跡⑫関屋切抜水道>史跡⑬関屋川の堰堤>史跡⑬関屋川の堰堤>史跡⑭庄屋井手>史跡⑮中山川逆調整池>史跡⑯大頭(井)堰
(なお、史跡②中山川水菅橋、史跡④両岸分水工、史跡⑬関屋川の堰堤、史跡⑮中山川逆調整池、史跡⑯大頭(井)堰は「丹原町の史跡」に指定されているものではなく、個人の興味・関心より便宜的に史跡と表記した。また史跡⑯大頭(井)堰は丹原ではなく小松地区でもある)


本日のルート;史跡① 劈巌透水路 (へきがんとうすいろ)>4番隧道入口・3番隧道出口>中山川からの取水口>4番隧道出口>史跡②中山川水菅橋>>史跡③衝上断層>史跡④両岸分水工>史跡⑤志川堀抜隧道>上の段水路>上の段水路取水口>下の段水路・取水口>下段水路隧道入口>上の段水路隧道入口>上・下の段隧道出口へ>上の段隧道出口>下の段隧道出口

道前平野
散歩は場所のはっきりわかる「劈巌透水路 (へきがんとうすいろ)」と志「川(しかわ)堀抜隧道」からはじめる。どちらも国道11号を進み、中山川が四国山地と高縄山地に挟まれた狭隘部から、周桑平野へと流れ出す湯谷口辺りにある。まずは劈巌透水路へと国道11号を進み、湯谷口交差点へと向かう。
新居浜から西条へと進む。国道左手は石鎚山などの四国山地、右手は瀬戸内海まで一面平坦な西条平野、はるか前方には高縄山地が聳え行く手を遮る。小松町まで進むと左手の四国山地は東西に繋がるが、右手の周桑平野は東を瀬戸内に、西は南西方向へと「斜め」に山地を連ねる高縄山地によって三角形の姿を呈する。更に丹原町へと近づくと、その高縄山地に接する周桑平野は、高縄山地から緩やかな傾斜をもって形成される姿が見えてくる。
西条平野と周桑平野を道前平野と称する。「愛媛県生涯学習センター 生涯学習情報システム 愛媛の記憶(注;以下「愛媛の記憶」)」によれば道前平野を「周桑・西条平野の地形 中山川や大明神川などによって運ばれた土砂が堆積してできた周桑平野と、加茂川や室川の運搬した土砂が堆積してできた西条平野とが連続して一つの平野を形成したのが県内で第二位の面積をもつ周桑・西条(道前)平野である。東西約二〇㎞、南北約三・五㎞(東縁)~一三㎞(西縁)のひろがりをもち、西部の周桑平野はほぼ正三角形、東部の西条平野は扁平な台形を示している。
周桑平野は扇状地の発達が良好で、平野の南部を流れる中山川ばかりでなく、大明神川や中山川の支流である関屋川によっても典型的な扇状地が形成されている。扇状地を流れる河川は一般に荒れ川で、人々は洪水を防ぐため古くから堤防を築いてきた。その結果、堤防によってはさまれた河床には上流から運ばれてきた砂礫が厚く堆積し、河床が次第に上昇して天井川が形成される。周桑平野の大明神川では天井川化か特に箸しく、ここを通過する予讃線は河床の下をトンネルでくぐりぬけている。これに対して、西条平野では扇状地の規模は小さく古くから湿田地帯が広く分布している。
 両平野とも地下水が豊富で、特に西条市の市街地では地下水の自噴がみられる。また、海岸部は遠浅で、江戸時代から干拓による新田開発が進められてきたが、最近は埋め立てにより工業用地の造成がおこなわれている。」と描く。昔、予讃線が壬生川の辺りで天井川の下を潜っていたように記憶する。現在はどうなっているのだろう。ついでのことでもあるので、周桑平野の形成に大きな役割を果たした中山川のことをまとめておく。

中山川
「西条市;水の歴史館」によれば、「中山川は道前平野を代表する河川で、東西に貫流しています。石鎚山系の青滝山(あおたきさん)の北方を源流として国道11号線に沿い、千原(ちはら)を経て鞍瀬川(くらせがわ)と合流します。鞍瀬川は堂ヶ森に発し、鞍瀬渓谷の絶景となって落合に出る最大の支流です。落合からは、また、中山川渓谷を形成しながら里に出てきたところで、天ヶ峠(てんがとう)に発する志河川(しこがわ)と、北方高縄山系より表流水のない関屋川(せきやがわ)を入れ、安井谷川・妙谷川(みょうのたにがわ)・都谷川(みやこたにがわ)と合流し、東予地区との境界を形成しながら東流していきます。さらに下流域では、大日川が氷見石岡新開(ひみいわおかしんかい)で合流し、禎瑞(ていずい)に至って燧灘(ひうちなだ)に注いでいます。流路延長は約23km、鞍瀬川や関屋川など21本の支流があり、流域面積は約196km2あります」、とある。
また、「愛媛の記憶」には、「中山川は周桑平野を貫流する第一の河川で、谷口の湯谷口七〇mを頂点とするほぼ三角形の輪郭をもつ沖積平野を形成する。平野の南西隅から東北東方向へ、中山川が貫流し、平野中央の大部分はその堆積物によって形成され、東縁部は北西流して加茂川と複合デルタを形成する。 中央部の中山川流域の低地は、湯谷口を頂点に平野間に大きく扇形に広がる氾濫原をつくり、臨海低地の背後では海技○~一・五mである。現在の河道は海抜一〇~二〇m付近で周辺より、やや高い砂州のうちを流れるが、その上流はやや嵌入傾向を示し、おおむね扇状地性砂傑質氾濫原として性格づげられる。河道跡は相対的凹所となって、平地内に条状のパターンを示して分散し、直線状乱流趾を呈しやや湿地性がある」と描かれる。

史跡① 劈巌透水路 (へきがんとうすいろ)
■「中川渓谷の左岸の岩壁貫いた通水路。安永9年(1780)、時の来見村の大庄屋越智喜三左衛門(おちきさざえもん)(1743-1797)によって起工され、自らのみ握り岩を削り、9ケ年の歳月をかけ、寛政元年(1789)に完成したと伝えられる(「丹原町の文化財」より)。

最初の目的地として進んでいる劈巌透水路のある湯谷口は、上で「中山川が四国山地と高縄山地に挟まれた狭隘部から周桑平野へと流れ出す湯谷口辺り」とメモしたように、「正三角形」の形を示す周桑平野の頂点として、燧灘に向かって拡がる扇の要といった場所である。
劈巌透水路に冠する情報は数多くWEBに掲載されており、場所は迷うことはない。国道11号を松山方面に湯谷口交差点を越えてほどなく、国道が左にカーブする辺りから、右手に分岐する県道327に入り、少し下って趣のある「来見(くるみ)橋」を渡る。その来見橋を渡ると左手に「劈巌透水碑」。右手の川側にも「劈巌透水路」の石碑がある。
来見の由来は「喜多留水社と呼ぶ神社があり、喜多留を来とし、水を見として「くるみ」と呼ぶようになったと角川地名大辞典にあった。また、「劈巌透水碑」の上に「道前渓温泉」がある。湯谷口の名前の由来だろうか。

「劈巌透水碑」の傍に「劈巌透水」の案内;「伊予の青の洞門」としてその業績を讃えられている劈巌透水は安永九年(1780)時の来見村の庄屋越智喜三左衛門よって起工され、私財を投じ、自身ものみを振るい岩を削り、9ヶ年の歳月をかけて、長さ12間(21.6メートル)の井堰と20間(36メートル)の隧道及び96間(172.8メートル)の岩石堀割水路を設け、寛政元年(1789年)完成したと伝えられている。
その後、明治19年(1886年)と大正2年(1913年)に喜三左衛門の後裔で当時の中川村長越智茂登太翁が大改修を実施し、美田30町歩を潤す水路を完成させた。記念碑は、大正9年(1920年)5月に願成寺(大字北田野)の鳳快洲和尚が、来見村耕作組合員に請われて文を撰し書写した。
喜三左衛門が農民の灌漑用水の不足による窮状を見かねて起工し、苦労の末に完成した堰提が、風雨によって決壊し、その修復工事の苦労と農民の喜びを託し、さらに茂登太翁の農民を思い、村を愛する熱情によって二度にわたる大改修により、大いに水利の便を得たことが述べられている」とあった。

「西条市水の歴史館」の資料によると、この碑は「大正9年(1920)5月に来見耕作組合員により越智喜三左衛門の業績を後世に伝えるため、来見橋のたもとの西に建立された」とあり、「劈巌透水」の由来は喜三左衛門翁の戒名である「寿仙院劈巌透水居士」に拠る、とのことである。

劈巌透水路へ
「劈巌透水路」への降り口は、右手川側の「劈巌透水路」の石碑の先に「劈巌透水入口」の案内がありすぐわかる。崖道を慎重に下りる。

「←三番隧道出口 四番隧道入口」の案内に従って下ると、河床の巨大な岩盤の上に下りる。

4番隧道入口・3番隧道出口
足元を見ると岩石を打割った水路、そしてその南北に隧道が見える。北は4番隧道入口、南は3番隧道出口とのこと。

中山川からの取水口へ
とりあえず中山川からの取水口へと向かう。岩盤を乗り越え3番隧道入口、堀割水路、2番隧道出口、岩盤、2番隧道入口、堀割水路、1番隧道出口、岩盤、1番隧道入口、堀割水路と進む。
2番隧道出口から2番隧道入口に向かう時だったと思うのだが、一枚岩の岩盤があり、手掛かり・足掛かりもなく数メートルをずり落ちることになりながら、ともあれ1番隧道入口から堀割水路を辿り中山川からの取水口(劈巌透水路灌漑用水取入れ口)まで進む。

来見堰
この取水口は、来見村(現丹原町)の水田30ヘクタールを潤す来見堰があったところ、と言う。しかし、中山川は深い浸食谷のため、取水の便が悪く、来見の農民は灌漑用水の不足に苦悩した(「愛媛の記憶」)、と言う。この来見堰をつくったもの来見村の灌漑用水の不足を見かねた喜三左衛門とのことではあるが、「来見本田のかんがい用水は来見(くるみ)堰で中山川の水を取水していましたが、不完全で水不足に困っていたのを喜三左衛門がこれを嘆き、松山藩へ再三にわたり修繕改築工事を願い出ましたが許可にならず、ついに居宅や田畑を売り、その私財をもって工事に取りかかりました。
自身もノミを握り、槌を振るい隧道(ずいどう=トンネル)を造りました。中央構造線の大断層のど真ん中に隧道を抜くという難工事のため岩盤を砕き続けること9年間、気の遠くなるような苦労を重ね(「西条市水の歴史館」)」、寛政元年(1789年)に劈巌透水路を完成させた。

○劈巌透水路の改良・延長の歴史
喜三左衛門翁により完成した劈巌透水路であるが、その後も水路の改良・延長工事が実施されている。「西条市水の歴史館」によれば、「その後、出水の度に堰が破壊されたため、喜三左衛門の子孫で当時の中川村村長の越智茂登太(おちもとだ)らの主唱によって、明治19年(1886)に総工費600円(主なる地主の頼母子講による)で水路切り下げと隧道5間(約9メートル)の増築工事を行いました。




さらに大正12年(1923)に総工費800円(県補助水利組合費を之に当てる)で大亀又蔵へ工事を依頼し、根本的な改修を試み井堰の補強と、岩石打割水路(がんせきうちわりすいろ)60間(約108メートル)を中山川左岸上流へ増築し、井堰を現在の位置に改めました。この工事以降、平成16年(2004)の度重なる集中豪雨で使用不能となるまでの80年余り水路の破壊はなく、来見本田の30町歩(30ha)を潤していました」、とある。

大雑把にそれぞれ時期の水路区間を示すと、寛政の喜三左衛門が完成させた区間は南端は3番隧道辺りまで、明治の越智茂登太が施工した区間は1番隧道あたりまで(現在の松山自動車道辺りまで)、大正の区間はその先、現在の取水口までの堀割水路が比定される。また、劈巌透水路が出来る前までの取水口であった来見堰は現在の取水口辺りとのことであるが、そこからの用水路がどのようなものであったのかチェックするも資料が見あたらなかった。

越智茂登太
「西条市水の歴史館」によれば、「明治に巌透水路の改良・延長工事に尽力(大正の改良・延長事業にも貢献)した越智茂登太翁は、明治26年(1893)から48年間もの間中川村村長を務め、約1,000ヘクタールの村有林造林、周桑銀行の創立、周桑電気株式会社の設立など村民の生活向上に貢献。
多くの業績の中でも千羽ヶ獄(せんばがだけ)にあった千原鉱山の鉱害解決は、地方の小村が急速な近代化の悪影響に対峙したケースとして記録される、 千原鉱山の煙害が問題になったのは明治37年(1904)。煙害の被害地域3ヶ村(桜樹村・中川村・石根村)が団結し、国、県、鉱山側とねばり強い交渉を続けた結果、大正3年(1914)千原鉱山は製錬を中止した。
同時期に別子銅山四坂島精錬所の煙害も発生し、周桑郡の14町村が煙害調査会(会長:一色耕平壬生川町長)を発足させ、茂登太も委員として奔走した」と言う。
丁度『伊庭貞剛物語;住友近代化の柱;木本正次(朝日ソノラマ)』を読んでおり、四坂島精錬所の煙害が周桑に与えた影響をはじめて知った時でもあったので、身近に感じる。

越智喜三左衛門と兼久の大池
巌透水路を完成させた喜三左衛門翁は、この後訪れる予定の「兼久の大池」の築造にも貢献している。喜三左衛門翁は寛政9年(1797)6月3日に54歳で死去している。その死はいまだにミステリーに包まれている、と。そのことは後ほど「兼久の大池」のところでメモする。

劈巌透水路4番隧道出口
取水口で往時を偲び、ちょっと休憩の後、元に戻る。堀割水路を辿り1番隧道入口・出口を越え、2番隧道入口から2番隧道出口へと向かうに、往路は滑り下りた、というか落ちた一枚岩の岩壁に張り付くも、手掛かり・足掛かりが見あたらず、数回トライするも滑り落ちるだけ。左手の崖を大きく高巻きするか、一枚岩のすぐ隣の、これも結構な巨岩なのだが、それに取り付き這い上がるか少々考える。
で、結局は岩場にちょっとした手掛かり・足掛かりをみつけ、なんとかクリアし、「4番隧道入口、南は3番隧道出口」の間の堀割水路まで戻る。次いで、残りの4番隧道出口へと向かうが、来見橋を挟んで向こう側にある4番隧道出口には岩壁がきびしく、川に沿っては先に進めそうもない。で、道路に戻り、橋の向こうから出口を探すことにする。


道路に戻り、来見橋を越え、右手の川筋を注意しながら歩くと道から一団低いブッシュの中にかすかに水路らしきものが見える。成り行きで進むと水路へと入れそうな場所があり、ブッシュに入ると水路が流れていた。その水路を藪漕ぎしながら来見橋方向へと辿ると4号隧道出口があった。位置は入口より少し高いような気もする。サイフォンなのだろうか。
4号隧道出口を探しだし、次いで里まで辿る。ほどなく水路が大きな庭に大木のある民家の辺りで一瞬暗渠となり、そのすぐ先で水路が現れ、そこに分水口らしきものがあり、そこから里へと下ってゆく。劈巌透水路散歩はここで終える。




史跡②中山川水管橋
劈巌透水路を辿った分水口らしき構造物の右横に水色にペイントされた人道橋が見える。そして、よくみると、その人道橋の下に水管が通っている。橋の傍に案内があり、「中山川水管橋の概要 中山川水管橋は、志河(しこ)川ダムから西条市へ農業用水を供給する施設です。この施設は、衝上断層を観察できるよう西条市との共同作業により水管橋の歩道を拡幅しています。 その案内には中山川水管橋の位置づけを明確にするために「道前道後平野農業利水事業の概要」と「衝上断層」の案内もあった。

○道前道後平野農業利水事業の概要
案内によれば、「道前道後平野は瀬戸内海に面し雨量の少ない地方にあるため河川の流量が少なく、たびたび干魃の被害を受けてきました。このため、昭和32年から10年かけて面河ダムや道前道後平野に水を送る施設を国(農林水産省)がつくりました。そして、現在は古くなった施設の改修を終え、新たな水需要に対応するため、東温市に佐古ダム、西条市丹原町に志河川ダムをつくり、より安定した農業がおこなわれるようになっている」とある。

この説明だけでは今ひとつこの水管橋と「道前道後平野農業利水事業」との関係がよくわからない。チェックすると、「西条 水の歴史館」に「面河ダムに貯留された水は隧道を通り中山川の逆調整池まで流下し、逆調整池で道前平野側と道後平野側に分水される。道前平野側では逆調整池で放水され、中山川を流下した面河ダム用水を、中山川取水堰から取り入れた後、両岸分水工で右岸幹線水路と、左岸幹線水路に分水しています。逆調整池で放水され、中山川を流下した面河ダム用水を、中山川取水堰から取り入れた後、両岸分水工で右岸幹線水路と、左岸幹線水路に分水しています。
一方道後平野側では逆調整池に設置されている千原取水塔より取水し、隧道を通り、南北分水口で北部幹線水路と南部幹線水路にそれぞれ分水されています」と事業概要の全体の説明があった。
更に、その説明に続けて、古くなった施設や社会の水需要の拡大に対応するため実施された国営道前道後平野 土地改良事業(2期事業)の根幹をなす事業として「国営道前道後平野 土地改良事業(2期事業)の根幹をなす施設は、西条市丹原町志川の中山川水系志河川に建設された志河川ダムであり、平成16年度に本体工事に着手し、平成22年度に完成しました。(中略)志河川ダムに貯留された水は、中山川を横断する水管橋を通り、両岸分水 口(西条市丹原町来見)に放出され、河北地区(旧東予市三芳地区)の新規かんがい用水と、河北地区を含めた道前平野地区(旧事業の受益地)の裏作用水(10月7日~6月5日)として使用されています」とあった。

ということは、この中山川水管橋をとおし志河川ダムから送水される水は「東西分水工」に送られ、その場所は「丹原町来見」とある。この近くではあろうと思うので、案内にあった「衝上断層」を見た後で、その場所に向かうことにする。
因みに「逆調整池」って気になってチェックすると、「ダムの上流に水力発電所がある場合、昼間と夜間の電力需要が著しく異なるため、昼間の流下水量と夜間それが大きく異なる。ために、下流への流下水量を調整し一定の水量を下流に流すためつくられるダムや堰堤のことを意味するようである。では「正調整って?」とは思うけれど、ここではこれ以上考えることを止めにする。

史跡③ 衝上断層(しょうじょうだんそう=つきあげだんそう)
■中川渓谷の北見橋下流に露出しいている断層。数千年万前の地殻変動によってできた中央構造線の逆断層である。雲母片岩(黒色)のうえに和泉砂岩(赤色)が押し上げられたものであり、走行北50度西、傾斜北東40度。県下では砥部町、西条市市之川、小松町、丹原町志河川(しこがわ)等に露出度が見られる。地質学上貴重な資料である(「丹原町の文化財」より;中山川脇の説明も同じ)。

利水の史跡ではないが、丹原の史跡として知られる衝上断層を見るため、中山川水管橋から来見橋まで戻る。橋から下流左岸を見ると、いかにもそれらしき地層が見える。近くから見てみようと橋の右岸から下り口を探し、川床に。 地質の専門家でもないので、そのありがたみはよくわからないが、断層の種類をチェックすると、正断層、逆断層、水平断層、衝上断層に分かれるようである。正断層は、地層に平行に左右へ引っ張る力により、地層が断ち切られ片方が「下」にずれたもの。逆断層は、地層に平行に中央へ向かう力のため、地層が断ち切られ片方が「上」にずれたもの。平行断層は、地層と縦方向に左右に引っ張る力により、地層が縦方向に高さはそのままでずれること。
そして、衝上断層とは、地層と平行に中央に向かう力により、地層が断ち切られ片方(新しい地層)がもう一方の地層(古い地層)の上に乗り上げた状態となったもの。下流側にあった約7千万年昔に海の底に堆積して出来た和泉層群の岩が、上流側の1億年昔に地下深所で変成岩になった結晶片岩なのか雲母変岩の上に乗り上がった形の断層とのことである。形から見れば正断層ではあろうが、力のモーメントが逆ではある。

史跡④ 両岸分水工
さてと、次は両岸分水工へと、劈巌透水碑の前に停車していた車の方向転換をするため、前方の坂を上る。と、右側に水路施設と案内、そして左手の川岸上に劈巌透水路の案内がある。
上で元禄、明治、大正の水路を比定したのはこの劈巌透水路の案内を基にメモしたものである。この案内はもっと下、劈巌透水路辺りにあったほうがいいかと思うのだが、それはともあれ、もう一方の水路施設の案内には「中山川取水堰と両岸分水工」とあり、「中山川取水堰の役割;中山川取水堰は、面河ダムからの水を受ける中山川逆調整池の下流にあり、面河ダムと中山川の水を道前平野に導くための施設です。堰はコンクリートでつくられており、ここで取水された水が両岸分水口へと送られています」との説明があり、続けて「両岸分水工の役割 両岸分水工は、道前平野効率よく水を運ぶために、丹原・東予側と西条・小松側のふたつに水を分ける施設です。水は、道前左岸幹線用水路(丹原・東予側)と、道前右側幹線用水路(西条・小松側)におよそ3対1の割合で分けられています」とあった。

思いがけずではあるが、ここが今から探そうとしていた「両岸分水工」であった。そして、その説明の中に「道前右岸幹線が中山川を渡るためにつくられた水管橋。この先も管によって水が運ばれています」という説明とともに写真があり、その水管橋とともに来見橋が映っている。そういえば、劈巌透水路を辿っていたとき、下流方向の橋の手前に大きな水管が通っていた。隧道探しで精一杯で見れども見えずではあったのだろう。
が、ここでちょっとした疑問。中川橋水管橋を通る水は両岸分水口へ注がれると説明があったが、中川水管橋は、この両岸分水工の結構下流である。案内図では志河川から両岸分水工への水路は、両岸分水工から左右に分かれる左岸・右岸幹線水路の上流で中山川を渡っている。劈巌透水路を取水口まで辿っていたときも、そのような水管を見ることはなかったのだが、どうなっているのだろう。ちょっとした引っ掛かりが残る。

史跡⑤ 志川堀抜隧道
■志河川の水を三津屋村(現在の西条市三津屋)の石工(いしく)米屋三郎右衛門が銀5貫(かん)350匁(もんめ)で公儀より切抜水道工事を仰せ付けられ、同年7月竣工。長さ14間(約25m)の権現山下岩石を切り抜いた隧道と、更に21間(約38m)の岩石切割工事をし、志河川より上下2段隧道として、前面水路と東部水路とに分けた。
その後たびたび破壊していたが、明治35年(1902)、志川(現在の西条市丹原町志川)の資産家の野田峰次郎が水車を設置する際に、私費200円を投じ、従来井堰がしばしば決壊していたのを改善したいということで、延長56間(101.8m)の岩石切割水路を設け、井堰を現在の鳥越(とりごえ)の位置に変更し、災いをなくした。その結果、水掛り面積は40町(40ヘクター)となった(「丹原町の文化財」より)。

上の段水路
次の目的地は志川掘抜隧道。この利水史跡も場所ははっきりしており、志河(しこ)川右岸の松山自動車道のすぐ南あたり。両岸分水工より来見橋を渡り、11号に戻り「湯谷口交差点」を越えてすぐ、コンビニがある手前、志河川ダム方面へとの標識を頼りに右折。そしてそのまま志河川ダム方面へ進むことなく、すぐに左に折れ、松山自動車道の手前にある熊野神社裏を、志河川右岸を通る道を進み、松山自動車道を越えた辺りで道端にスペースを見付け駐車。志川堀抜隧道へのアプローチを探す。

上の段水路取水口
志河川への下り口を探し、成り行きで下ると水路が川に沿って続いている。上の段水路であろう。下には「下の段の水路」とおぼしき水路も見える。先に進むと、志河川を渡る両岸分水工からの道前右岸幹線送水管が水路とクロスしていた。道前右岸幹線の送水管の手前には「右岸2号分水工」と記された用水施設もあった。水路を辿るとほどなく取水口へ。




下の段水路・取水口
上の段水路の取水口を折り返し、水路を戻りながら、成り行きで下の段水路まで下りる。土を掘り割った水路を辿り取水口に。

取水口の場所を確認し、折り返し下段隧道入口へと向かう。










下段水路隧道入口
水路を進むと隧道入口。この水路も岩壁に近づくにつれコンクリートで補強された水路となっている。「西条市 水の歴史」によれば、「西条市丹原町の志川地区は、昔から志河川(しこがわ)の水をかんがい用水に利用しようとしましたが、地勢が不利で容易ではありませんでした。湯谷口井手下から本川に筧〔かけひ=竹や木の樋(とい)〕をかけ、水上権現山の元へわずかな水を渡し利用していました」とあり、その状況を改善するために志川堀抜隧道がつくられた分けだが、「西条市 水の歴史館」には、続けて「規模は、長さ14間(約25.4m)、高さ5尺~7尺(約1.5m~2.1m)、横2尺~3尺(約0.6m~0.9m)で、岩山切貫井口より切貫まで59間(107.3m)のうち、37間(約67.3m)が石切貫井手で、22間(約40m)が土井手組でした」とある。ということは隧道までの水路は土手部分がおよそ40m、岩盤を堀割った水路が約67.3mということではあろう。



上の段水路隧道入口
下の段入口脇に岩盤を上に上る道が整備されており、成り行きで上ると車道に出る。松山自動車道の手前のカーブする辺りであった。そこには「上の段の入口」と書かれた道標もあった。


道標の案内に従って下り水路を北に戻り隧道入口へと向かう。岩壁に近くなるにつれ水路はコンクリートで固められている。隧道入口で先は岩壁に遮られ進むことはできない。再び水路を折り返し、車道に戻る。



上・下の段隧道出口
上の段・下の段の隧道入り口は見つかった。次は志川堀抜隧道の出口に、とはいうものの、目安は「権現山の下を上下2段に切り抜いた」ということだけ。権現山とは熊野神社=熊野権現ではあろうから、熊野神社のある辺りを彷徨えば何とかなろうかと、車を動かし熊野神社の鳥居横に停車し隧道出口を探す。 鳥居の辺りには水路らしきものは見あたらない。拝殿まで進みお参りし、志河川沿いのブッシュに入り込み水路を探すがそれらしきものは見あたらない。それではと、神社裏手の崖を這い上がると、尾根の東に谷戸らしき緑が見える。とりあえず、力まかせに竹藪を下りていくと、そこは谷戸ではなく、熊野神社の鳥居から東に続く、権現山と里の「境」といったところであり、その境に沿って東西に流れるささやかな水路があった。

上の段隧道出口
とりあえず東に少しすすむが、権現山から結構離れても隧道らしきものが見あたらない。今度は逆に西に水路を辿ると東西に山裾を流れる水路が権現山の岩盤に突き当たり北へと水路が下るところに水道出口があった。事前に見ていた写真からして上の段隧道の出口である。

下の段隧道出口
次は下の段隧道出口。上の段出口よりは低い所ではあろうと、熊野神社の辺りを彷徨うが、それらしきものは見あたらない。諦めかけ、上の段隧道出口から北へ下るコンクリートで補強された水路を下ると、水路が道とクロスする辺りに「志川堀抜隧道」の案内と写真、そして「志川堀抜隧道」への道案内があった。
ここで頭の中の回路がどう結びついたか不明であるが、ひょっとして、と水路を戻り、上の段隧道出口のすぐ下、コンクリートで補強された北に下る水路が岩盤に当たるところに隧道口があり、これが下の段隧道出口であった。その出口部分は上の段隧道からの余水が上から流れ落ちていた。


「西条 水の歴史館」によれば、「この工事の完成により、前面水路と東部水路に分けてかんがいが出来るようになったため、農地の利用が進み、この地域の農業経営が安定したことはいうまでもありません」と説明があるが、上の段隧道出口から東へと向かう水路が「東部水路」であろうし、上の段水路の余水と下の段隧道出口からの水を合わせたものが「前面水路」のことだろうと思う。また、下の段隧道出口の写真キャプションに「普段は水のカーテンで遮られて見ることが出来ない」とあるが、それは上の段隧道出口からの余水が多い時の現象ではあろう。

志川堀抜隧道へのアプローチ
隧道出口探しで結構手間取ったが、結果として1番わかりやすいルートは、熊野神社の少し東にある「志川堀抜隧道」の道案内を右に折れ、水路に沿って煤済み、突き当たりに「下の段隧道出口」、そのすぐ上に「上の段隧道出口」、そして上の段出口のところから道を上ると「上の段水路入口」の標識のとことにでる。
そこから上の段、下の段水路を辿り、最後の下の段隧道入口をに向かい、下の段隧道入口から道を上ると「上の段水路入口」の標識のある車道にでる、といったもの。はじめからわかっておれば、熊野神社の裏手の藪漕ぎもしなくて住んだのだが、ともあれ、「志川堀抜隧道」の要所をすべてクリアしたということで、よしとすべし
。 なお、志川堀抜隧道は、「切貫溝」とも言われ、江戸時代初期の土地改良遺跡として有名だった、とのことであり、劈巌透水路(へきがんとうすいろ)とともに西条市指定の史跡(「西条 水の歴史館」より)となっている。 今回はこれでお終い。次回は「兼久の大池」から始める。

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