どれも魅力的ではあるのだが、「疏水・用水・導水」萌えの我が身としては、まずは「端出場発電所導水路」に行こう、と言うことに。その時は、先に待ち構えている、「険路・難路・悪路」、というか、導水路が崩落、橋が崩壊といった、結構「しびれる」ルートであることを知る術もなく、いつものようにお気楽に導水路のアプローチ始点である、「東陽のマチュピチュ」こと「東平」に車で向かった。
本日のルート;(山根精錬所>端出場;端出場発電所跡・水圧鉄管支持台>東平;)
(往路;端出場発電所導水路跡)東平・第三発電所跡スタート>水路遺構>住友共同電力の「高藪西線」48番鉄塔>第一導水隧道出口>第一鉄橋>第二鉄橋>第二導水隧道>第三鉄橋>第三導水隧道>第一暗渠>第二暗渠>山ズレ>第四鉄橋>大岩と第三暗渠>第五鉄橋>第四>渠>第五暗渠>木の導水路跡>第四導水隧道>トタン小屋>第六鉄橋>第五導水隧道>第七鉄橋・第八鉄橋>第六導水隧道>第六暗渠>第七暗渠>第七導水隧道・第八暗渠・第八導水隧道>第九鉄橋>第九導水隧道>排水門と第九暗渠>第十暗渠>第十一暗渠>第十二暗渠>第十三暗渠>沈砂池>水圧鉄管支持台
(復路;上部鉄道)
沈砂池>水圧鉄管支持台>石垣>魔戸の滝への分岐?石ヶ山丈停車場跡>索道施設>地獄谷>切り通し>東平が見える>紫石>第一岩井谷>第二岩井谷>一本松停車場跡>東平
山根精錬所跡
明治21年(1888)完成のこの施設は、銅を精錬するだけでなく、精錬の過程で硫酸を生成し、残り滓から銑鉄を製造していたとのことであるが、位置づけは実験的施設であったよう。亜硫酸ガスでの農作物への煙害などもあり、明治28(1895)には閉鎖された。
端出場
足谷川(国領川上流部の呼称)左岸に拡がる「マインとピア別子」辺りの広い平坦地は人工のもの。後述する坑道(第四通洞)の開削での排石をもって造成されたものである。子供の頃、この地にあった巨大な工場群、それは砕石場であり、選鉱所であったのだろうが、その当時の記憶が蘇る。
○端出場貯鉱庫跡
「マイントピア別子」の駐車場脇に聳え立つ高さ約15m、幅約35mの巨大なコンクリート製の建造物。大正8年(1918)に端出場に完成した選鉱場のための銅鉱石の貯蔵施設。 第四通洞から運び出された鉱石をここに貯蔵し、隣接した場所にあった破砕場に送られ、砕かれた後、選鉱場へ送られていた。
○第四通洞
この工事は大正4年(1915)の秋に貫通して中部地域の開発や採鉱がしやすくなり、鉱石や資材、坑内作業従事者の出入などが容易になった。又坑内の空気流通や坑内水の排出経路も改められて文字通り別子銅山発展の大動脈となった。 昭和10年(1935)から、別子山村の余慶・筏津地区の鉱石は探鉱通洞・第四通洞を経てこの坑口から運び出されるようになった。 又昭和35年(1960)採掘が海面下深部になったこともあって第四通洞のそばから約4,500米の大斜坑を掘り始め昭和44年(1969)からは深部(-960米)の鉱石をスチールコンベアベルトによって連続して運び出された。 第4通洞・探鉱通洞・大斜鉱は別子銅山の両輪として昭和48年(1973)の閉山までその役割を果たした。
この坑口は約60年にわたって毎日約1,000人の入・出坑を見守り続けてきた。 ほかの坑口もみな同じだが、坑口を通る者は皆ここに祀ってある守護神大山祇神に頭を下げ御加護を祈った」とある。
この地・端出場は、江戸時代からの長い歴史をもつ別子銅山において、昭和5年(1930)から銅山が閉山となる昭和48年(1973)まで銅山採鉱本部があり、銅山現場運営の本部であった場所である。
端出場の標高は156mほど。それまでは四国山地の標高750mあたりの東平にあった採鉱本部がこの端出場に移った主因は、江戸時代、標高1300mの銅山峰南嶺より掘り進んだ銅山の採鉱箇所が次第に下部へと進み、鉱石の搬出口である前述の第四通洞が大正4年(1915)に端出場に通じたことにある。
別子銅山の歴史を見ると、鉱石の搬出ルートの変遷に伴い採鉱本部が移転している。今回歩く「端出場発電所導水路」が何故に山地を穿ち、岩壁を削り水を通したのか、そして発電所を端出場に設けた背景にも関係あるようではあるため、簡単に整理しておく。
○端出場が銅山・採鉱本部になるまでの経緯
元禄3年(1690)四国山地、銅山峰の南嶺の天領、別子山村で発見された“やけ”(銅鉱床の露頭)からはじまった別子銅山であるが、鉱石は江戸から明治にかけては「仲持さん」と呼ばれる人たちの背によって運ばれた。その道は時期によってふたつに分かれる。
■第一次泉屋道を「中持さん」が土居の天満へと運ぶ
このルートは峠越え36キロにおよぶ長丁場であった。銅山峰南嶺より直線で新居浜に出ず、土居の天満浦に大きく迂回したのは、銅山峰を越えた北嶺には西条藩の立川銅山があり、西条藩より通行の許可がおりなかったためである。
■第二次泉屋道を「中持さん」が新居浜の口屋へと運ぶ
第二期の搬出ルートは、銅山峰を越え角石原に出て、馬の背を経て石ヶ山丈へ。そこから立川に下り、角野、泉川を経て、新居浜市内西町の口屋へと向かうもの。
第二次泉屋道(元禄15年(1702)から明治13年(1880)まで)と呼ばれるこの道は、別子から立川までの12キロを中持さん、そこから新居浜浦までの6キロは牛馬で運ばれた。距離は16キロに短縮されることになった。住友は当初よりこのルートを望み、銅山峰を越えた北嶺の立川銅山を領する西条藩と折衝、また住友より幕閣への懇願の効により実現したものである。
なお、第二次泉屋道に関しては、元禄13年(1700)、西条藩は、新道設置を許可し、銅山峯から雲ヶ原を右に折れ、上兜の横手から西赤石に出て、種子川山を通過して国領川に下り、国領川の東岸に沿って新須賀浦に下りたとするとか、元禄15年(1702)の銅山越えのルートは、別子-雲ケ原-石ケ山丈-立川山村渡瀬を経て新居浜浦に出たもので、銅山越-角石原-馬の背―東平―立川を経て新居浜に出るルートは、寛延2年(1749)に立川銅山が別子銅山に併合された移行との記述もある(「えひめの記憶」)。
■第一通洞(標高1110m)と「牛車道」で新居浜の口屋へと運ぶ;東延時代

開鉱わずか7年目の元禄11年(1698)には年間1521トンという藩政時代の最大の生産高(国内生産の28%を占める)に到った別子銅山は、財政不足の幕府の政策により決済を銀にかわって銅とした、長崎での交易の30%を占めるなど、幕政に大きく貢献するも、「深町深舗」と言う言葉で表されるように、坑道が深くなり採算が悪化。幕末から明治にかけて閉山をも検討したと言う。
しかし、住友は広瀬宰平翁などの努力により明治2年(1869)粗銅から精銅をつくる吹所を大阪から立川山村に移し輸送の無駄を省くなど合理化を進め、事業継続を決定。
明治7年(1874)、フランスより鉱山技師・ルイ・ラロックを招聘し鉱山近代化の目論見書を作成。論見書に従い鉱脈の傾斜に沿った526mもの大斜坑・東延斜坑(明治28)の開削、明治13年(1880)、別子山村と立川村、金子村惣開(現新居浜市)に精錬所を建設。そして明治15年(1886)には標高1110mの銅山峰の北嶺の角石原から嶺南の東延斜坑下の「代々坑」に抜ける燧道の開削着工し、明治19年(1882)に貫通。これが長さ1010mの「第一通洞」である。この通洞の貫通により銅山越(標高1300m)をすることなく鉱石・物資の輸送が可能になった。
第一通洞は、明治8年(1875)に着工し、明治13年(1880)に完成した新居浜の口屋と別子山村を結ぶ「牛車道」と角石原で結ばれ、さらには明治26年(1893)には第一通洞の銅山峰北嶺・角石原から石ヶ山丈までの5キロほどを繋ぐ日本最初の山岳鉱山鉄道(上部鉄道)が敷設され、鉱石の新居浜の口屋への輸送ルートが大きく改善された。
明治初期から開始された鉱山近代化により、別子銅山は窮地から脱し産銅量も明治30年(1897)には3065トンまで増え、第一通洞の南嶺口から高橋地区にかけの東延地区には運輸課、採鉱課、会計課、調度課などの採鉱本部や選鉱場や多くの焼く鉱路炉(高橋精錬所)などが並んだ。明治28年(1895)には別子山村の人口は12000人に達したとのことである。この時代のことを別子銅山の「東延時代」と称する。
■第三通洞と索道そして下部鉄道により惣開へ;東平時代

この鉱石搬出ルートの変化にともない東平の重要性が高まり、大正5年(1916)には、標高750mほどの東平に東延から採鉱本部が移され、採鉱課・土木課・運搬課などの事業所のほか、学校・郵便局・病院・接待館・劇場などが並ぶ山麓の町となった。その人口は4000とも5,000人とも言われる。
■第四通洞から下部鉄道で惣開へ;端出場時代
前述の「第四通洞」の案内にもあったように、赤石山系、標高1300mの銅山峰の南嶺直下より掘り進められた銅山は、第一通洞では標高1100m、第三通洞では標高750mへと次第に下部に掘り進められ、更に東平より下部に採鉱現場が下るにつれ、明治43年(1910)より海抜156mの端出場坑口から掘り勧められた水平坑が、大正4年(1915)に第三通洞からの立坑「大立坑」と繋がり、第四通洞が貫通。端出場からは明治26年(1893)開通の下部鉄道によって惣開まで運ばれた。
その後、第四通洞と大立坑部より筏津坑の下部に向けて、延長約5100mの「探鉱通洞」が昭和10年(1935)から開削され、昭和17年(1942)に貫通。第四通洞と探鉱通洞が繋がったことにより、全長約10000mの大通洞となり、銅山峰南嶺・銅山川辺りの筏津坑の鉱石も端出場に搬出され、銅山で採掘された鉱石はすべて端出場に集中させることになる。
昭和2年(1927)には端出場手選鉱所が建設され、東平にあった東平収銅所、東平選鉱場が廃止され、昭和5年(1930)には採鉱本部が端出場に移され、この地が別子銅山の銅山現場運営の中心地となった。
端出場発電所
建築面積528平方メートルの煉瓦造。煉瓦積みは長手の段と小口の段を一段おきに積む「イギリス積み」。屋根は鉄板葺で、採鉱・煙貫の越屋根二ヶ所を設ける。建物の平側は上に二連のアーチ窓、下には大きく欠円アーチ窓を設ける。壁面が所々黒く塗られているのは、戦時の空襲を避けるためとのこと。また、建物脇に水車が見えるが、これは発電所と特に関係なく市内高柳にあった製氷会社のものを移した、と。意図不明。
明治45年(1912)完成のこの発電所の最大出力は3000kw。落差597.18mの水圧鉄管で山麓の「沈砂池」から水を落とし、ドイツジーメンス製の発電機とドイツ・フォイト社製の水車で発電した、と言う。
因みに、ここでは「水を落とす」と説明したが、水を勢いよく落差600mを落としているわけではなく、正確には「水圧鉄管」と呼ばれるように、鉄管内部は水は一杯になっており、最下部でその水圧によって水車を回し発電するようである。
それはともあれ、端出場発電所の建設は別子銅山の発展史と大きく関係している。以下、その経緯をまとめておく。
○端出場発電所建設までの経緯
銅山の発展に伴い、輸送設備のための電気、削岩機の導入や電灯設備などのため発電設備の開発が必要になった別子銅山は、明治30年(1897)の端出場(打除)火力を皮切りに、明治35年(1902)には端出場工場内に本格的な発電所として「端出場火力(当初90kW) 」が完成し、端出場工場、新居浜製錬所及び惣開社宅に電灯がともされ、動力の一部が電化された。
その後、明治37年(1904)、「落シ(おとし)水力(当初90kW))、明治38年(1905)には「新居浜火力(当初360kW)」と、次々と発電能力の拡大を図っていたが、明治末期には事業の発展とともに、採鉱用動力だけでも4,000kwに達する需要があり、年々増加する電気の需要に追いつけないような状況となった。
この状況を踏まえ、当時のわが国では先端をいく約600 m の比高差をもつ高水圧の端出場3000kw水力発電所の建設が計画された。これが「端出場発電所」である。
この計画は明治43年(1910)に認可され、工事は同45年(1912)5月に竣工、7月から本格的に稼働することになる。この端出場発電所の完成により住友の新居浜における電気供給の基盤が確立され、電力供給不足の悩みは、ひとまず解消するに至った。
「えひめの記憶」に拠れば、「住友は電力事情のこのような好転によって、懸案の肥料製造の実現化を進め、大正二年、新居浜に肥料製造工場(住友化学工業株式会社の前身)が創設された。また同年から、新居浜町・金子村・角野村・中萩村(ともに現新居浜市)及び別子山村に所在する同社の事務所、社宅、その他の建物に電灯がつけられた。さらに大正四年には、開削された大堅抗に昇降機捲揚機が施設され、第四通洞の開通に伴う抗内電車線の延長とともに、別子銅山採鉱の大動脈が完成した」とある。
大正12年(1923)には、四阪島製錬所に電気を供給するため、発電機と、水車各1台を増設して、出力4,500kwに増強し、新居浜と瀬戸内海に浮かぶ四阪島製錬所まで約20キロの海底ケーブルを施設し送電が開始された、と言う。
水圧鉄管支持台跡
支持台には水圧鉄管の穴のほか、四角の穴のあいたものもある。「通路」とも言われるが、わざわざコンクリートに穴を開けてまで通路を造る理由が分からない。なんだろう?
それはともあれ、この水圧鉄管は比高差600mの山腹、石ヶ山丈にある導水路の水を溜める「沈砂池」まで続く。その「沈砂池」が本日の導水路散歩の目的地ではある。弟はこの水圧鉄管を藪漕ぎしながら沈砂池まで上り切ったとのことである。
東平への分岐
水圧鉄管跡から戻り、県道47号を進み、すばらしい渓谷美が今でも記憶に残る「遠登志渓谷」に建設した「鹿森ダム」を越え、左手から合流する足谷川の谷筋に架かる橋を渡り、小女郎川とも呼ばれる足谷川に沿って進み、西鈴尾谷川(山地図には「西鈴尾谷川」とあるが、分岐点の橋には「足谷川」とあった)の手前で「東平」への道標から県道を離れ山麓の東平へと向かう。 広く快適だった県道から一転、対向車が来ないことを祈りながらの一車線のクネクネ道を進み、ピークにある「宿泊施設・銅山の里自然の家(昔の東平小学校・中学校の辺り)」から急な下りを進み、「接待館跡」などの案内を見やりながら坂を下りきったところにある広い駐車場に到着する。
東平
それはともあれ、東平は近年「東洋のマチュピチュ」とのブランドで観光地としてPRしている。本家マチュピチュのあるペルー大使を招待し、秋祭りに出す新居浜名物・太鼓台を特別に組み上げご披露するなどして「マチュピチュ」使用を続けている、といった話も聞くが、「東洋のマチュピチュ」はちょっと言い過ぎ、かとも。
とはいえ、天空の城こと兵庫県朝来市の「竹田城」も「東洋のマチュピチュ」と称しているようであり、竹田城を訪れたことがある我が身には、どちらもちょっと?「マチュピチュ」は誰にでも、「わかりやすい」のは理解できるが、歴史・産業遺産であり、歴史・文化遺産であるだけで十分の価値がどちらにもあるように思う。
駐車場は昔の坑内電車の発着場や機械修理工場跡地を整地したもの。駐車場の上にある「マイン工房」の建物は昔の保安本部の建物跡である。また、駐車場の東端にある「東平歴史資料館」裏手にトンネルが残るが、これは東平と「第三通洞」を繋いでいた線路のトンネル(小マンブ:間符(まぷ;坑道の意味)で、中には採鉱のために使用していた当時の機械やそれらを積んだ鉄道車両が展示されている。
新居浜市観光課のHPには東平を「マイントピア別子東平(とうなる)ゾーンは、市内の中心部から車で約45分、標高約750mの山中の「東平」と呼ばれる地域にあります。
「マイントピア別子公式HP」の記事や施設案内をもとに上記案内を補足すると、社宅は東平地区には9つあり、これらの社宅は第三通洞の開通により東平に別子銅山の拠点が移行し始めた明治35年(1902)から徐々に建設が始まり、明治38年(1905)から明治39年(1906)にかけて完成した。その中の東平社宅は職員用、それ以外は坑夫の社宅であった。
坂の途中に案内のあった「接待館」は明治42年(1909)開設。「東平荘」ともよばれ、現在の貨幣価値で1.2億円を費やしたとのこと。病院は「接待館」から駐車場に下る坂道の途中で左に入ったところにあり、正式名称・住友別子病院東平分院と呼ばれ明治38年(1905)開設。明治42年(1909)には内科・外科の診療も行われ、優秀な医師のため、銅山関係以外の患者が新居浜や今治方面からも訪れた、と言う。
「宿泊施設・銅山の里自然の家」辺りにあった東平小学校は、明治39年(1906)に私立住友東平尋常高等小学校として設立。この東平小学校は、明治6年(1873)、別子銅山における最初の小学校である旧別子地区の足谷小学校の流れを汲むもの。日本で学制が公布されたのが明治5年(1872)でることを考えると、学業を如何に重視したことがわかる。昭和43年(1968)の閉校まで、2,574名の子を育んだ。東平中学校は小学校の横。昭和21年(1946)に戦後の学制改革により設立され、閉校までの22年間に600名の卒業生を送り出した。
■今に残る東平の銅山遺構
東平の多くの施設のうち、現在も残る遺構を「マイントピア別子公式HP」の記事をそのまま掲載させて頂く。
○貯蔵庫
貯鉱庫は、愛媛県と広島県の間のしまなみ地方で産出された花崗岩を使って建造されており、その重厚さから東平の代表的な産業遺産の一つとして知られています。その外観や周辺の景色はペルーにある旧インカ帝国の世界遺産「マチュピチュ」にもたとえられ、東平が「東洋のマチュピチュ」と称される所以のひとつとなっています(「マイントピア別子公式HP」)
○東平索道基地
索道の長さは全長3,575メートル、搬器のスピードは時速約2.5メートル、一日の鉱石の搬出量は900トンもありました。索道にはモーターなどの動力がついておらず、搬器内の鉱石の重みを利用して動かしていました。点検の際には給油士と呼ばれる作業員が搬器の上に乗って索道のロープを支える鉄塔へ赴き、高いところでは地上30メートルにもなる鉄塔の上で滑車の給油などの点検作業を行っていました。現在でも、レンガ造りの索道基地の跡地を見学することができます(「マイントピア別子公式HP」より)
○インクライン
荷物を載せる台車が左右のレールに1台ずつ設置され、それぞれがワイヤーで結ばれ、電気によるモーターの力でロープを巻き上げ、片方が上がればもう片方が下がるという仕組みでした。現在は220段の長大な階段に生まれ変わっており、階段の両脇にはあじさいやドウダンツジなどが植えられ、季節ごとに多彩な表情を見せ、訪れる人々を楽しませてくれます(「マイントピア別子公式HP」より)。
○保安本部跡
時代とともに建物の一部は、坑内作業者の入出勤を確認する就労調所として使用された。昭和26年(1951)頃からはキャップランプの充電場として使用された。その後、端出場調査課の東平分室として昭和32年(1957)頃まで使用された。第三変電所の建物とともに、東平地区ではめずらしいレンガ造りの建物である。現在、銅板レリーフが体験できる「マイン工房」として活用している
○小マンプ
○大マンプ
駐車場のある平坦地の東端に封鎖されたトンネルが見える。「大マンプ」である。「マイントピア別子公式HP」に拠れば、「「大マンプ」とは、かつて東平と第三通洞の間を行き来していた鉄道車両の線路上にあった鉄道用のトンネルです。トンネルは二つあり、一つは東平の集落近くに位置しトンネルの長さが短いことから「小」マンプと呼ばれ、もう一つのトンネルは、喜三谷から第三通洞にかけての「大」マンプでした。現在は、大マンプは閉鎖されており、内部を見学することはできません。これら大小二つのマンプでは、かつて「かご電車」と呼ばれた人を乗せるための電車が運行していました。鳥籠のような形をしていたことからそのような名前で呼ばれていましたが、サイズも縦が約2.2メートルで、横幅が約0.8メートル、定員は8名までという小ささであり、鳥籠と形容されるのにふさわしい電車でした。
かご電車が運行し始めるまでは、別子山地区に行くために険しい銅山を越えなければなりませんでしたが、かご電車ができてからは往来が容易となり、普段の通勤から通学、買い物まで、広く生活に欠かせない交通手段として人々に利用されていました。現在、かご電車は小マンプ内に展示されています」とあった。
第三社宅
舗装が切れる辺りで道は大きく回りこみ小女郎川と山地に挟まれた渓流散策路となる。道脇の水路遺構らしきものや古い石組みを見遣りながら進むと、数段の石垣があり、そこには「第三社宅跡」の案内があった。案内を簡単にメモすると、「第三社宅跡 第三社宅の名前の由来は、第三通洞の第三(三番目に掘った通洞)からです。第三社宅は、大正10年11月9日現在で、9戸の社宅がありました。その後、昭和42年(1967)に18戸あった社宅をすべて撤去しました(後略)」とあった。
東平採鉱本部跡
採鉱本部の建物は第三通洞前に暗渠(あんきょ)を築き、その上に二階建てで建築された。採鉱本部前には柵がめぐらされ、その内には、火薬庫、機械修理工場、木工場も設けられた。
採鉱本部は、昭和3年(1928)に、選鉱場、調度課販売所、病院、土木課、山林課、運輸課、娯楽場、接待館などの中枢機能が集積していた東平地区に移転した。そして、採鉱本部の建物は東平倶楽部になった。採鉱本部は、昭和5年(1930)に東平から端出場に移された」とあった。
「第三通洞前に暗渠(あんきょ)を築き」とは、東から西に流れる唐谷川を合わせ東から西に流れ下る「柳谷川」が、南から北に流れる「寛永谷」に合流する地点から先を埋め立て、その下を水を小女郎川に吐き出す隧道を造った、ということだろう。寛永谷側から合流点から暗渠に流れ込む隧道入口部が見える。
第三通洞
坑水路会所
第三通洞からは木樋で通し、途中流路変更箇所には坑水路会所(流路変更の継目の施設)を設け、東平から端出場までは山道に沿って、端出場から惣開までは下部鉄道沿いに進んだという。この水路施設は坑水路会所だろうか?
実家の直ぐ裏手の山沿いに下部鉄道が通っており、その線路跡の脇に今も水路が続く。端出場に第四通洞が通った後は、坑内排水は第四通洞にまとめられ、 そこから坑水路が下ったとのことである。実家の裏手の下部鉄道脇には「山根収銅所」、通称「沈殿所」があるが、そこでも坑内排水より銅の成分を抜く作業が現在も行われている。
第三変電所
第三というのは三番目というのではなく、第三という地名からついたものです。 赤煉瓦造りの建物は、現在も外観をとどめながら残されています。
また、東平で当時のままの建物が残されているのは、この第三変電所と採鉱本部(現在はマイン工房として利用されています)だけですが、内部までそのままで残されているのはここだけです(後略)」とある。
この第三変電所は「落シ水力発電所」から送電されてきた電力を変圧し、第三通洞内を走行する坑内電車の動力源や、社宅の電気としても使用されていた、。 建物内部は宿直室や炊事場はそのままの姿が残っている。
「落シ水力発電所」は明治37年(1904)完成の別子銅山で初の水力発電所。90kWの発電能力があった。今から歩く導水路の水をもとに動いた端出場水力発電所ができるまでは、東平への送電の要であった。場所は鹿森ダム脇の遠登志橋近くの山の中腹にあった、と言う。
端出場発電所導水路散歩のメモをはじめたのだが、そもそもの、別子銅山について何も知らないことがわかり、頭の整理に時間がかかった。銅山施設の端出場などは帰省の折の散歩コースといった自宅の目と鼻の先にあり、子供の頃までは操業しており、小・中学校には銅山関係者の子供も同級生として共に学んでいたわけだが、まったくもってゼロから整理しないことには、山地を穿ち水を通してまで前端出場発電所を動かす「理由」がよくわからず、結局は別子銅山の歴史の概略をまとめることになってしまった。
別子銅山遺構散歩の第一回はここまでとし、当初の散歩である端出場発電所導水路散歩のメモ次回からとする。