水曜日, 12月 23, 2015

奈良 山の辺の道散歩 そのⅣ:天理市の石神神宮から桜井市の三輪山裾・大神神社まで

先回に散歩では「大和古墳群」の中を進む山の辺の道を辿った。大和古墳群は 古墳出現期から前期にかけての大型古墳群である。『天皇陵古墳への招待;森浩一(筑摩書房)』には、「古代の日本人は、何かに取憑かれたように古墳の造営に狂奔した時期があったその時期はおよそ3世紀末から7世紀初頭までの三百数十年間である」とする。
そして、Wikipedia では「3世紀後半から、4世紀初め頃が古墳時代前期、4世紀末から古墳時代中期、6世紀初めから7世紀の半ば頃までを古墳時代後期としている」とあり、続けて、「3世紀の後半には奈良盆地に王墓と見られる前代より格段に規模を増した前方後円墳が現れ」、その「前方後円墳はヤマト王権が倭の統一政権として確立してゆく中で、各地の豪族に許可した形式であると考えられている」と言う。先回の散歩で見てきた前方後円墳はヤマト王権の全国支配のシンボルでもあったわけである。
今回は、その大和古墳群の中でも、ヤマト王権の天皇陵と比定される陵墓からはじめ、神奈備の山である三輪山の手前までを辿り、感じたことをメモすることにする。

本日のルート;石上神宮>高蘭子歌碑>阿波野青畝歌碑>僧正遍照歌碑>白山神社>大日十天不動明王の石標>芭蕉歌碑>内山永久寺跡>十市 遠忠歌碑>白山神社>天理観光農園>(東乗鞍古墳>夜都伎神社>竹之内環濠集落>「古事記・日本書記・万葉集」の案内>「大和古墳群」の案内>波多子塚古墳>柿本人麻呂の歌碑>西山塚古墳>萱生環濠集落>大神宮常夜灯>五社神社>手白香皇女衾田陵>燈籠山古墳>念仏寺>中山大塚古墳>大和神社の御旅所>歯定(はじょう)神社>柿本人麻呂歌碑>長岳寺>歴史的風土特別保存地区(祟神・景行天皇陵)>祟神天皇陵>櫛山古墳>作者不詳の歌碑>武田無涯子歌碑>景行天皇陵>天理市から桜井市穴師に入る>額田女王歌碑>柿本人麻呂歌碑>柿本人麻呂歌碑>桧原神社>前川佐美雄歌碑>高市皇子歌碑>玄賓庵>神武天皇歌碑>伊須気余理比売の歌碑>狭井川>三島由紀夫・「清明」の碑>狭井神社>磐座神社>大神(おおみわ)神社

歴史的風土特別保存地区(祟神・景行天皇陵)
長岳寺から山の辺の道に戻り、少し進むと道の前方に堤と、その向こうに、如何にも古墳、それも巨大は古墳が姿を見せる。道なりに進むと堤の手前に案内がある。「歴史的風土特別保存地区(祟神・景行天皇陵)」と書かれた案内には、「景行天皇陵や祟神天皇陵をはじめとする柳本古墳群や、青垣の山に続く道である山の辺の道は、訪れる人を神話や古代のロマンに誘います。これらの歴史的文化資産は、後世の国民に継承すべき大切なものです。この貴重な財産を守るため、古都保存法(古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法)が昭和41年に制定されました。この法律により、歴史的風土を保存するのに必要な土地を「歴史的風土保存区域」として指定し、その中で特に重要な地域を「歴史的風土特別保存地区」として指定しています。
ここは、「天理市・橿原市及び桜井市歴史的風土保存区域(2,712ha)の中の「祟神・景行天皇陵特別保存地区(52.5ha)」となっています。「祟神・景行天皇陵特別保存地区」は、両天皇陵と山の辺の道等と一体となる自然的環境を保存するため、指定されました。奈良県では天理市(2地区)以外に、奈良市(6地区)、桜井市(1地区)、橿原市(4地区)、斑鳩町(1地区)、明日香村(5地区)で、特別保存地区が指定されています」とあった。
これから、いままでも何度となくメモしたヤマト王権のはじまりの頃の大王の古墳地区に足を踏み入れることになる。

行燈山古墳(古墳時代前期);崇神天皇陵
堤に沿って道を進むと、古墳を囲む周濠がはっきりと見える。山の辺の道すがら、いくつもの古墳に出合ったが、古墳の周囲を取り巻く周威濠がこれほどきれいに残っている古墳ははじめてである。
道傍にある案内には「行燈山古墳(古墳時代前期)」とあり、「行燈山古墳は天理市柳本町に所在し、龍王山から西に延びる尾根の一つを利用して築かれた前方後円墳です。現在は「崇神天皇陵」として宮内庁により管理され、アンド山古墳・南アンド古墳を含む周辺の古墳4基が陪塚に指定されています。
墳丘は全長242メートル、後円部径158メートル、前方部幅100メートルを測り、前方部を北西に向けています。柳本古墳群では渋谷向山古墳(景行天皇陵)に次ぐ大きさです。

墳丘は後円部、前方部ともに3段築成です。周濠は3ケ所の渡り堤によって区切られ、前方部側は高い外堤によって囲まれていますが、現在の状況は江戸時代末に柳本藩がおこなった修陵事業によるもので、古墳築造当時の姿とは異なるものになっています。
周濠の護岸工事に先立つ宮内庁書陵部の調査では、円筒埴輪、土器が出土しました。また、江戸時代末の修陵の際に、後円部周濠の南東くびれ部から銅板が出土したと伝えられます。
残されている拓本によると、片面には内行花文鏡に似た文様が、もう一方の面には田の字形の文様が表現されています。
行燈山古墳の築造時期については、埴輪の特徴や銅板の存在から古墳時代前期後半(4世紀中葉)と想定されています。柳本古墳群の盟主墳として、渋谷向山古墳(景行天皇陵)とともに重要な古墳です。平成23(2011)年3月  天理市教育委員会」とあった。

この古墳は祟神天皇陵であった。散歩をはじめるまでは、祟神天皇陵がヤマト王権の租(応神天皇との説もあるが)といったことも知らず、メモをしながらはじめてわかったことでもあり、散歩の当日はヤマト王権の歴史とはまったく別のことにフックがかかった。それは周濠への疑問である。

●周濠
仁徳天皇陵などで見るように、天皇陵って周囲を濠で囲まれている。何となく神聖な場所への「立ち入り禁止」、進入を防ぐためのものだろうと思っていたのだが、ひょっとして元は「灌漑用」の水濠として使われていたのでは?との疑問である。
そのきっかけとなったのは、2回目の散歩の時にメモした『日本人はどのように国土をつくったか;上田篤他(学芸出版社)』の「秋津洲の山と神々(奈良盆地はいかにつくられたか)」の中にある「溜池灌漑と小河川灌漑」の解説である。 頭の整理のために再掲すると、「弥生時代から古墳時代(ほぼ西紀3世紀末から7世紀前半頃)にけて、各地で小地域ごとの部族国家が統合し始める。やがて前方後円墳に代表されるような階級支配が進むのである。その大きな経済的基盤となったのは溜池築造を中心とした乾田開発の拡大だと考えられる」とし続けて、「谷間や小川に小さな堰堤を築いて溜池とし、そこから水のかからない土地に、緩傾斜を利用して水を導き、水稲耕作が可能な乾田を開発する。この溜池灌漑の適地は、年間降水量が比較的少なく、夏期高温地帯で緩傾斜地形の山の辺であったという」と述べる。
更に、「奈良盆地の大和川に流れ込む支流は、その分水界の狭き故、流量の乏しい小河川であち、、この流量の乏しい小河川であったことが奈良盆地において小河川灌漑を発展させた要因とする。
即ち、溜池灌漑で富を蓄積した部族の支配者たちは、四方の山から流下してくる小河川から直接取水し、「用水の乗りやすい緩斜面の小規模な谷底低地や扇状地などに水田開発」を拡げて行った。そして、河川から用水を直接取水するには高度な技術が必要であるが、奈良盆地は水量の乏しい小河川であったが故に、それが容易であった、と説く。実際、古墳時代の豪族の支配地は、小河川に沿った、段丘から扇状地そして平地に至る山の辺にある。

◆古墳の周濠は灌漑用に使われていた
こういったを想い起すに、古墳の周濠が単に神聖な場所を護る、といったものではないだろう、と思ったわけである。水が乏しく、灌漑によって豊穣の地を造り、富を蓄えていった大王家が、貴重な水を実用に使わないわけがないだろうと思い、それをサポートする記事をチェックすると、結構それに関連した記事が見つかった。

外池昇氏の「村落の陵墓古墳と周濠」には、白石太一郎氏の「古墳の周濠」という論文を引用し、その論文の末尾で古墳築造期の周濠の性格について、「水稲耕作を基盤とする初期ヤマト政権の中枢を構成していた、大和。河内の首長たちの灌漑王的性格を象徴するものであり、それは又、農耕祭祀の司祭でもあった首長が豊な水を保証するための呪的な機能をもつもの」としている、とする。 また、図書館で偶々見つけた『天皇陵古墳への招待;森浩一(筑摩書房)』の「祟神陵としての行燈山古墳」の箇所には、若き日の論文とのコメントをつけつつも、「(この古墳を見たとき)能力からいって堂々たる大貯水に相当する」という印象を受け、大古墳の濠は墳丘をきわだたせるだけでなく、灌漑の役割、つまり農耕的な機能もあわせ有している、と書いてあった。

◆周濠は造営当初からあったわけでもなさそうだ
何となくフックがかかった、周濠と灌漑用水の関連はそれほど間違った推論でもなかったようだ。で、それ以上に、ちょっと興味深い記述が外池昇氏の「村落の陵墓古墳と周濠」にあった。
それは、先ほどの白石太一郎氏の論文に続け、外池昇氏のコメントとして、「古墳の周囲を水をたたえた周濠が取り巻くという古墳の構造は、本来的に墳丘部、外提部の水際の部分を自ら破壊するという、矛盾した構造をもっている」、と述べ、「そうしてみると、今日古墳の周濠部に水がたくわえられているのは、古墳がその築造期の形態をそのまま伝えているためというよりは、むしろ地形等の自然条件や築造期以降のそのときどきの古墳の周辺に生活する人々の必要によって、周濠部に意図的に水がたくわえられてきたことによるのではないか」との推論が成り立つのでは、と述べる。端的に言えば、周濠がはじめからあったと思い込むべからず、ということだ。そうだよな。結構納得。

◆柳本藩がおこなった修陵事業
この事業についての記事が、これも偶然『天皇陵古墳への招待;森浩一(筑摩書房)』の「祟神陵としての行燈山古墳」に記されていた。簡単にまとめると、天皇陵墓の荒廃を嘆いた下野の蒲生君平は。近畿の天皇陵古墳を調査し1803年に『山陵志』を著す。それがきかっけで山陵復旧の機運が生じ、下野・宇都宮藩が修陵の名乗りを上げる。文久の修陵と称されるこの事業は文久3年(1863)の神武陵からはじまり、行燈山古墳(当時は景行天皇陵とされていた)は元治元年(1864)、そして渋谷向山古墳(当時は祟神天皇陵とされていた)の修陵工事が行われた。
この宇都宮藩による行燈山古墳修陵の話を聞いた柳本藩は、農業用用水不足に長年困っており、この工事を水不足解消の絶好の機会と捉え、工事に協力し、 嶋池と呼ばれた前方部正面の濠を大拡張し貯水量を増やそうとした。
思惑は大きく異なるが、宇都宮藩も地元の農民の協力なくして工事はできないため妥協し工事は進められた。
結果、幕府・宇都宮藩の目する山陵を荘厳にするという目的も達し、一方の柳本藩も水不足解消ができたわけである。そして同書では「このようなことは他の天皇陵古墳でもおこなわれていて、とくに濠の現形を原形と即断してはいけない」と記す。
◆柳本藩
織田信長の弟で、茶人として有名な織田有楽斎の所領であった大和の領地のうち、1万石を分与された織田有楽斎の子が立藩したもので、陣屋を天理市柳本の黒塚古墳の辺りに構えたとのことである。

櫛山古墳
行燈山古墳の後円部の周濠部の外提を隔て、その山側に櫛山古墳がある。このふたつの古墳は、尾根筋を堀切って、ふたつにわけているように思える。いままで見てきた古墳も、一から土を積み上げたというより、支尾根を掘り切って築造したような印象が強かったのだが、このふたつの古墳は、疑いなく士尾根の稜線を断ち切ったものであろう。
道端にあった案内(位置的には行燈山古墳の案内より先にあり、どちらが櫛山古墳か少し混乱したが)には、「天理市柳本町に所在する櫛山古墳は、古墳時代前期後半(4世紀後半)に築造された全長155メートルの大形古墳で、柳本古墳群を構成する。墳形は、東西に主軸をもつ前方後円形を基調とするが、前方部とは反対側の後円部先端にも前方部に匹敵する大形の祭壇を伴うため、双方中円墳と呼ばれている。
昭和23・24年に行われた発掘調査では、この大形祭壇上から排水施設を伴う白礫を敷き詰めた遺構や白礫層の下部に赤色顔料を含む砂層を施した土坑などが検出されている。遺物も鍬形石・車輪石・石釧などの腕輪形製品や、高坏形土師器の破片が白礫層の上部から出土し、古墳の墓前祭祀に関係する遺構が見つかっている。
中円部の頂上に築かれた竪穴式石室は、すでに攪乱を受けていたが、全長7.1メートル、幅1.4メートルの南北に主軸をもつ埋葬施設で、扁平な石材を用いて石室の側壁を築いている。石室床面の中央には、石棺を据えたと思われる方形の落ち込みがあり、長持形石棺の一部が出土している。
調査では、石棺を据えてから石室の側壁を築いたものと考えている。同様な石室の構造をもつ古墳として、御所市宮山古墳の南石室がある。
櫛山古墳の西側には全長260メートルの巨大前方後円墳、行燈山古墳(崇神天皇陵)がある。そうした巨大古墳に隣接して櫛山古墳が造営されていること、石棺を用いた石室の存在、大形祭壇に白礫を敷き詰めた墓前祭祀跡など特別な印象を秘める櫛山古墳の様子は、この被葬者が行燈山古墳と関係する有力な人物であったことを想像させてくれる。天理市教育委員会」とあった。

案内に「墳形は、東西に主軸をもつ前方後円形を基調とするが、前方部とは反対側の後円部先端にも前方部に匹敵する大形の祭壇を伴うため、双方中円墳と呼ばれている」とあるように、一目で古墳と判別するのはむずかしかった。案相に写真があり、濠の対面がそれとわかった、という有様であった。

作者不詳の歌碑
櫛山古墳からほどなく、道傍に歌碑。「玉かぎる 夕さり来れば 猟人の 弓月が嶽に 霞たなびく 作者不詳」と刻まれる。「玉がほのかに輝くような夕方になると、狩人の弓ならぬ、弓月が嶽に霞がたなびくことよ」の意味。







武田無涯子歌碑
山田の集落に行く手前に歌碑。「二古陵に一人の衛士やほととぎす」と刻まれる。 二古陵とは祟神天皇陵と景行天皇陵とのこと。意味は「ふたつの一人の守衛が守っている。ほととぎすが啼く静かな光景である」と。とはいうものの、ふたつの天皇陵は結構離れているし、守衛は作者の投影のような気もするのだが。因みに無涯子とは桜井市生まれの明治の俳人とのこと。





大和の集落の案内
その歌碑の横に「大和の集落 青垣山に囲まれた大和の田園風景は整然とした美しいたたずまいを見せています。
集落は奈良時代の条里制にもとづいては位置されてきました。この山の辺の道沿いの集落も条里制に対応しています。こうした集落の配置と、大和棟の農家によって特色ある農村風景がつくられています」とあった。




●条里制と集落
「山の辺の道沿いの集落も条里制に対応しています」と言われても、何の事がさっぱりわからない。条里制と集落の関係についてチェック。
条里制とは、「古代から中世にかけて行われた土地区画制度。1町(約109m)の四角を基本単位である「坪」とし、それを縦横6X6並べたもの、つまりは縦横648m四方を「里」とした。一里は36坪ということである。そして、「里」の横列を「条」、縦列を「里」として、各区画単位を「1条1里」、「3条3里」となどとし、「地番」管理をしたわけである。
で、それと集落の関係であるが、おおよそ1里に50戸を集落の単位とした、と言う。日本最古の計画的集落ということだろう。ただ、条里制によって整然と規則正しく区分されるのは田地であって、集落は塊形、長方形、方形などさまざまである、とのこと。
◆一定の自然空間に、おおよそ同じ規模の集落の塊が見える景観
奈良盆地をGoogleの衛星写真でみると、条里制の姿ははっきりとわかる。が、歩いていても、それほどわかるわけでもないのだが、この案内がある以前から山の辺の道に沿って集落が、ほどよい間隔を持って現れると感じていた。一定の広さ毎に、一定の数の集落が、ほどよい「リズム感」で登場していた。ある一定の自然空間に、おおよそ同じ規模の集落の塊が見える景観が、説明にあった「特色ある農村風景」ということかとも感じる。

渋谷向山古墳
山田の集落、渋谷の集落を越えて先に進むと前方に巨大な山陵が見えてくる。周濠に囲まれたこの古墳は「渋谷向山古墳」と呼ばれる。案内に拠れば、「渋谷向山古墳(古墳時代前期) 渋谷向山古墳は天理市渋谷町に所在し、龍王山から西に延びる尾根の一つを利用して築かれた前方後円墳です。現在は「景行天皇陵」として宮内庁により管理され、上の山古墳を含む古墳3基が陪塚に指定されています。墳丘は全長約300メートル、後円部径約168メートル、前方部幅約170メートルを測り、前方部を西に向けています。古墳時代前期に築造されたものとしては国内最大の古墳です。
墳丘の形状については諸説ありますが、後円部4段築成、前方部3段築成とする見方が有力です。また周濠は後円部6ケ所、前方部4ケ所の渡り堤によって区切られていますが、現在の状況は江戸時代末におこなわれた修陵事業によるもので、古墳築造当時の姿とは異なるものです。
これまでの宮内庁書陵部の調査等により、普通円筒埴輪、鰭付円筒埴輪、朝顔形埴輪、蓋形埴輪、盾形埴輪が確認されています。このほか、関西大学所蔵の伝渋谷出土石枕が本古墳出土とされたこともありますが、詳しいことは分かっていません。また、渋谷村出土との伝承がある三角縁神獣鏡の存在も知られています。
渋谷向山古墳の築造時期については、埴輪の特徴から古墳時代前期後半(4世紀中葉)と想定されています。柳本古墳群の盟主墳として、先に築造された行燈山古墳(崇神天皇陵)とともに重要な古墳です。平成23(2011)年3月  天理市教育委員会」とある。

案内にあった「現在の状況は江戸時代末におこなわれた修陵事業によるもの」との説明は、祟神天皇陵のところでメモした、下野・宇都宮藩と柳本藩による修陵工事のこと。現形を原形とみなすべからず、ということである。
また、かつては景行天皇陵と祟神天皇陵が逆に比定されていたようだが、景行天皇陵のことは『古事記』には「御陵は山辺の道の上にあり」、『日本書紀』「大和の国の山辺の道の上の陵に葬りまつる」とあり、祟神天皇陵は『古事記』には「御陵は山辺の道の勾(まがり)の岡の上にあり」、『日本書紀』には、「山辺の道の上の陵に葬りまつる」とある。これで陵を比定するのは難しいだろうかと思う。
●景行天皇
巨大な陵墓であるが、景行天皇って、日本武尊の父と言うこと以外、あまり存在感がない。チェックすると、実在を疑うといった説もあるようだ。祟神天皇から始まるヤマト大王家は仲哀天皇でその系譜が絶えるとされるが、その間、祟神>垂仁>景行>成務>仲哀と続く天皇の内、景行天皇の他、成務、仲哀天皇もまたその実在を疑問視する説もある、とか。
天皇陵でも、ヤマト大王家のはじまりの地とされる、この辺りにあるかとチェックすると、陵墓と比定されている陵墓も垂仁は奈良市、景行はこの地、成務は奈良市、仲哀は藤井寺とバラバラであった。これ以上の深堀は力の及ぶ限りではないにで、ここでストップとする。

天理市から桜井市穴師に入る
道を進むと天理市から桜井市に入る。地域名は「穴師」と呼ぶ。穴師の地名由来は、採鉱に従事した鋳金に優れた穴師部からとか、丹入(水銀)との関連を説く人、否、「あなせ」と読むとか、「あらし」とよんで風神との関連を説くとか、常の地名の由来の如く諸説定まることなし。
穴師は旧称「巻向村」と呼ばれ、ヤマト王権の頃には垂仁天皇の巻向球城宮、景行天皇の巻向日代宮が置かれていたとの説もあるようだ。

額田女王歌碑
道標脇に歌碑がある。「額田女王歌碑」である。「額田女王歌 うま酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際に い隠るまで 道の隈  い離かるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見離けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや
反歌 三輪山を  しかも隠すか  雲だにも  心あらなむ  隠さふべしや 中河与一書」と刻まれる。

「三輪山を、奈良の山間に隠れてしまうまで、道の曲がり角ごとに、繰り返し眺めて行きたいのだが、無情にも雲が隠していいものだろうか」と言った長歌に続け、反歌で、「三輪山を雲が隠してしまう。せめて雲だけでも思いやりの心を持って三輪山を隠さないでほしい」と詠う。
●近江遷都
この歌は、天智6年(667)、都を奈良の明日香から近江へと移すときの歌。朝鮮半島の「白村江の戦い」で百済に与し新羅・唐と戦い、結果、敗れた朝廷は新羅・唐の侵攻を怖れ都を近江へと移す。その遷都を悲しみ、魂の拠り所でもあった三輪山との別れ、明日香との別れを刻む最後の時の心を詠んでいるのだろう。
揮毫は中河与一。香川県生まれの小説家・歌人である。横光利一、川端康成と共に、新感覚派として活躍した(Wikipedia)。
●額田女王
大海人皇子(天武天皇)の妃。歌の才、その美貌故に大海人皇子の兄の天智天皇の寵愛を受けたとの話の小説なども多いが確証はないようである。
◆黒須紀一郎
因みに、いつだったか黒須紀一郎さんの『役小角』、『覇王不比等』を読んだことがある。そこには、中国大陸、朝鮮半島、日本列島を巻き込んだダイナミックな、「一衣帯水」そのものの国際情勢が描かれていた。百済系の天智、新羅系の天武、多武峰から睨みをきかす中国から勢力など、誠に面白く読み終えた。当時の朝廷の会話は朝鮮半島の言語ではなかったのだろうか、と思ったほどであった。

柿本人麻呂歌碑
穴師地区の田地の中を進む、道から離れ山の方向に上れば、相撲神社とか穴師坐兵主神社神社、里に下れば「珠城山古墳群」と言った、少し気になるところもあるのだが、それを言い出したら、JR桜井線・巻向駅の少し南に話題の「箸墓古墳」もあるわけで(これも散歩しながらこの地にあるのをはじめて知ったのだが)、時間も押してきた関係もあり、少々気になりながらも、山の辺の道を突き進むことにした。
田地の先にある穴師の集落の先、県道50号の少し手前に歌碑がある。「柿本人麻呂歌碑」の歌碑である。
「ぬばたまの 夜さり来れば 巻向の 川音高しも 嵐かも疾き 実篤」と刻まれる。「万葉集」巻七:柿本人麻呂歌集の歌とのこと。「漆黒の闇夜、巻向川の川の音が激しい。川の上流はもう嵐かもしれない」と言った意味だろう。 ●巻向川
古くは、穴師川、痛足川とも表記。読みは共に「あなし」ではある。三輪山の西に境を接する巻向山を源流点とし、巻向山、三輪山の北の谷を県道50号に沿って下り、穴師地区で山麓を出た後、箸墓古墳付近で南西に向きを変え大和川に合わさる。

柿本人麻呂歌碑
県道50号に出ると前方に三輪山が見えてくる。県道50号を三輪山方向へ向かって進むと、巻向川が県道に右手から接近する辺りに歌碑がある。「巻向の 山辺響みて 行く水の 水沫のごとし 世の人われは」と刻まれる。揮毫名は読めなかったが、フランス文学者の市原豊太氏とのことである。
「巻向の山辺を、水が勢いよく流れゆくが、人の世は川の流れに一瞬出来ては消える泡のようにはかないものだ」と言った意味のようだ。

先ほど出合った歌麻呂の「衾道を引手の山に 妹を置きて 山路を行けば 生けりともなし」では龍王山に葬った妻を想ったのか、龍王山に行けば亡き妻に会えると思ったのか、どちらにしても、亡き妻を思い出して悲しむ歌であった。 この歌碑にある人の世のむなしさも、亡き妻に関係あるものかチェック。
どうも、妻は穴師川が流れる山峡の村里に住んでいたようだ。都での勤めを終え、妻問婚の当時、穴師川の瀬音を聞きながら妻の元に通ったからこその、人の世のあわれを穴師川の瀬音と流れの泡で引き立てているのだろうか。素人の解釈、あてにならず。
●万葉歌碑
ところで、山の辺の道に沿って建てられる歌碑が結構多い。特に歌を詠んだ箇所でもなく、碑も新しく、古くから残る碑ではないようだ。何時、誰が、如何なる理由で建てたのか気になりチェック。
広報『わかざくら平成10年8月15日号』というから桜井市の広報誌だろうとはおもうのだが、そこに万葉歌碑の経緯らしき記事があった。その記事によると、きっかけは山の辺の道を多くの人が歩き始めた、昭和43年頃、市の観光協会・商工観光課の方が、道を辿る小中学生のために万葉集を12首ほど選ぶことからはじまった。当初は丸太材に墨書であったが、後に石にすることになった。 その後、歌の数を増やし130首を選び、そのうえ揮毫者を選び依頼。揮毫者の一人であった川端康成氏の発案で万葉だけでなく記紀からも選ぶことになったようだ。万葉歌碑は五十数首建てられている、とのことである。
桜井市はある程度わかったのだが、天理市の山の辺の道傍にあった歌碑・句碑はチェックしたが、その経緯はわからなかった。
因みに、上の広報誌には、川端康成氏の選んだ日本武尊の歌「大和は国のまほろば たたなづく青垣 山こもれる 大和しうるはし」を書く前に亡くなられたため、ノーベル賞の授賞式の原稿から文字を選びだし、揮毫として刻んだといったエピソードが載っていた。

三輪山の麓手前で今回のメモはお終い。次回は三輪山の裾を辿り、最後の目的地である大神神社までの散歩をメモする。

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