日曜日, 2月 21, 2016

杉並 小沢川跡散歩:青梅街道の尾根筋に上る途中、思いもよらず出合った窪地を辿ると、そこは文字通り「小さな沢」跡であった

とある日曜日。これと言って歩きたい所が想い浮かばない。それではと、池袋にある山や沢用品の店に出かけることにした。バーゲンでもやっていないか、という思いである。自宅のある杉並の和泉から池袋までおおよそ8キロ程度だろうか。足慣らしには丁度いい距離である。
杉並区和泉の自宅を出て、神田川に沿って谷筋に下り、環七を越え屋根に釜を置く、その名も釜寺の脇から方南通りの通る尾根筋の坂を上る。方南2丁目から弥生6丁目へと延びる台地を成り行きで下り、善福寺川の谷筋の「駒が坂橋」を渡る。
そこからしばし善福寺川が開いた沖積地を進み、和田2丁目交差点を越えると、ほどなく緩やかな坂を上ることになる。そのときは、その坂を上り切れば青梅街道の通る尾根筋に出ると思っていた。が、和田1丁目の台地をしばらく進むと道は下りとなる。何だこれは?ちょっと混乱する。で、下り切ったところに如何にも水路跡といった細路が東西に通る。その北は緩やかな上りとなっている。
これってなんだ?善福寺川と青梅街道の間に川があったのだろうか。それとも用水路跡だろうか。ともあれ、用水フリークの我が身としては、好奇心抑えがたく、池袋行きを即中止し、川跡なのか用水路跡なのか定かではないが、ともあれ窪地に続く水路跡らしき細路を辿ることにした。その時は、この水路跡が小沢川の流路であったことは知る由もなかった。

本日のルート;
「気づき地点」の窪地から神田川合流点へ下る
窪地に水路跡>都営和田一丁目アパート20号棟の南を進む>五差路を民家の間の細路に入る>十貫坂上からの道に出る>富士見橋西交差点へと南に下る道に向かう>水路跡が富士見橋へと下る>富士見橋脇で神田川に注ぐ
「気づき地点」の窪地に戻る
蛇窪・清水窪にちょっと立ち寄り
蚕糸の森に向かう
「気づき地点」から上流に>和田中央公園>「堀内道」とクロス・水路跡が切れる>水路跡らしき道が東から合流する>蚕糸の森の池
源流点の真盛寺に向かう
真盛寺>新鏡の池>真盛寺の新鏡ヶ池から下流に下る>民家の間の水路跡の道>堀内道から蚕糸の森に進む道筋に合流
千川上水の六ヶ村分水からの養水・分水口に向かう
真盛寺>妙祝寺境内に水路跡>五日市街道・養水・分水箇所


「気づき地点」・窪地に水路跡
思いもよらず、突如登場した窪地は和田1丁目の女子美術大学短期大学部の少し南。水路跡と思しき細路は窪地の底を東西に通る。上流部に向かうか、下流部に向かうか少し悩む。結局、下流部に向かい、神田川と合流するであろう箇所を確認することにした。



「気づき地点」・窪地の水路跡を下流に

都営和田一丁目アパート20号棟の南を進む
上流部に向かう水路跡は、民家の間を抜ける細路ではあるが、下流に向かう水路跡は、水路跡に良く見られる「不自然」に幅広の道となっている。ポールで仕切られた道の北端を進む水路跡を辿ると、細路となる。水路跡の南側に建つ家の敷地が少し高くなっている。
水路跡の北に建つ4階建てのアパートを見遣りながら進むと、アパートの東側の開けたところに出る。後からチェックすると、このアパートは都営和田一丁目アパート20号棟であった。

五差路を民家の間の細路に入る
都営和田一丁目アパートの東はちょっとした公園となっており、その先で道は 変則五差路となっている。水路はどちらに?中央にポールの建つ、細路が民家の間に見えるが、如何にも水路跡のよう。とりあえず道を進む。




十貫坂上からの道に出る
緩い弧を描いた細路を進むとほどなく結構大きな道に出る。中野通りの「十貫坂上交差点」から青梅街道の台地の崖線南を環七に抜ける道筋である。

十貫坂
「十貫坂」の由来は、付近から十貫文の入った壷がでてきたとか、十貫文を埋めたのは中野長者であるとか、中野長者が坂の上から見渡す限りの土地を十貫文で買った、とか諸説あり。

中野長者
中野長者とは鈴木九郎のこと。神田川が山手通りと交差する少し北にある成願寺が屋敷跡という。鈴木九郎は応永年間、というから14世紀末から15世紀はじめに、熊野よりこの地に来る。もとは、馬喰であった、とか。
この地は多摩と江戸湊、そして浅草湊への交通の要衝。荷駄を扱う問屋場を押さえ勢力をのばす。もちろん、熊野衆であるわけだから、水運を抑えていたわけで、陸運・水運を支配することにより「長者さま」となったのであろう。
青梅街道が神田川を跨ぐ「淀橋」は「姿見ずの橋」とか「面影橋」などと呼ばれていた。その名は鈴木九郎の伝説に由来する。長者となった九郎は、隠し場所に財産を運んだ下僕を、そのありかを隠すためこの橋で殺した。ために、下僕の姿が見えなくなったから、との説。また、長者のひとり娘が父親の悪行のゆえ婚礼の直前に呪われて蛇となり、それを悲しみ投身自殺し、その姿が見えなかったことに由来する、とか諸説あり。後世、婚礼の時、花嫁はこの橋を避けて嫁入りした、とも伝わる。

富士見橋西交差点へと南に下る道に向かう
民家の間の細路から十貫坂からの道に出ると水路跡の痕跡は消える。細路を出た先に、ゆるやかなカーブで西に進む比較的大きな道があるが、その下に埋まってしまったようだ。とりあえずその道を進むと、富士見橋西交差点へと南に下る道にあたる。

水路跡が富士見橋へと下る
この辺りから、神田川へと下ったのであろうから、なにか痕跡がないものかと四差路を少し西に進む。と、角の9階か10階建のマンションの西に、水路によくあるポールの建つ細路がある。
富士見橋へと南下する細路は道の北にも延びている。少し気になるのだが、とりあえず富士見橋に向かって一直線に下ってゆく。

富士見橋脇で神田川に注ぐ
細路は神田川に続く。富士見橋からチェックすると、橋のすぐ下流に、蓋をされてはいるが神田川に注いでいたであろう箇所が確認できた。また、橋の上流には排水口が見える。どうも、雨水幹線として工事が行われ、もとの下流排水口に続く流れを神田川に注ぐ手前で、上流の排水口に付け替えられたようである。

「気づき地点」の窪地に戻る
とりあえず、水路を下流へと辿り、神田川への合流点を確認。今度はスタート地点まで戻り、そこから上流へと向かうことにする。源流点を想像するに、地図を確認すると青梅街道の南に広がる「蚕糸の森公園」に池が見える。そこが源流点だろうか?ともあれ、女子美術大学の南のスタート地点に戻ることに。

蛇窪・清水窪にちょっと立ち寄り


スタート地点に戻る途中、先ほど富士見橋へと南に下った地点に、北から下る細路があり、少し気になっていたので、ちょっと立ち寄り。
細路を進むとT字路に当たるが、その少し西側、「和田さくらの坂公園」の脇から草の茂る道が北に続く。先に進むと、その道筋は杉並区と中野区の境ともなっている。川筋が行政区域の境となることが多いので、水路跡かと思える。 西は防衛省の宿舎などが崖上に建ち並び、東は民家が連なる間の草地を進むと行き止まりとなる。メモの段階でチェックすると、この水路跡は蛇窪とも清水窪とも称された窪地から流れ、小沢川に注ぐ支流のようであった。

十貫坂地蔵堂
蛇窪に向かう途中、細路がT字路にあたり、その先の水路跡を探していたとき、T字路の少し東に「十貫坂地蔵堂」があった。
案内には、「ここに建立されている石塔は、元禄5年(1692)銘・正徳2年(1712)銘の庚申塔、享保2年(1717)銘の地蔵塔、建立不明の庚申塔1基と、地蔵塔2基の計6基があります。
庚申信仰は、「長生きするためには庚申の夜は身を慎しみ、諸善を行い、徹夜をすべきである」という中国の道教説から始まったようです。それが日本に伝わってからは、中世以降仏教や神道の信仰と習合して庶民の間にひろまりました。
江戸時代には、本尊を青面金剛とし、不見、不聞、不言の三猿が彫られるようになり、ここに見られるような庚申塔の建立が盛んになりました。
地蔵菩薩の信仰は、仏教の民衆化とともに宗派を超えてひろまりました。地蔵菩薩は、冥界と現実界の境に立って人々を守護するということから、村や道の境や村の安全を守護する菩薩とされ、村の路傍又は辻に多く建立されています。 ここの石塔は、この辺りが武州多摩郡和田村字本村、又は砂利田と称された頃、この地域の講中の人々によって悪病退散、村民安全などを祈願して建立されたものといわれています。
現在でもこの信仰の気持ちは変わらず、参拝に来る人も年々増えているとのことです。私たちもこのような文化財を、一層大切に守りつづけたいものです。 昭和55年2月20日 杉並区教育委員会」とあった。

「気づき地点」から上流・蚕糸の森に向かう

蛇窪・清水窪を終え、十貫坂の道筋を下り、その道筋に合流する水路跡の細路まで戻り、そこから来た道を遡り、水路跡らしき窪地に気付いた箇所まで戻る。そこからは、上流に続く細路を辿ることにする。

和田中央公園
細路を進むとほどなく左手に公園がある。和田中央公園とある。親水公園といった雰囲気の人工的な流れも造ってある。この辺りに池でもあり、ここが源流かな?とは思えども、公園に沿って水路跡と思しき道は先に進む。どうも、ここが源流点はないようだ。因みに、メモの段階でチェックすると、交通局の職員寮の跡地を利用して造られたようだ。公園の西端には和田中央児童館が建っていた。


「堀内道」」とクロス・水路跡が切れる
和田中央公園から先も、車止めのついた、如何にも水路らしき道を進む。弧を描いて進む有様は、水路跡と考えてもよさそうである。しばらく民家の間を進んだ水路跡の道は、東西に走る少し大きな車道に出たところで、その痕跡が消える。因みに、メモの段階でカシミール3Dのプラグイン「タイルマップ一覧」にある関東平野迅速地図を併せると、東西に進むこの道は昔の堀内道であった。

堀内道
堀内道は堀内にある妙法寺に向かう道。私のお気に入りの田山花袋の『東京近郊 一日の行楽』にも、妙法寺と新井薬師が人気の行楽地として描かれている。 道筋は新宿から淀橋を渡り、中野村の鍋世横丁で青梅街道から分岐し、和田村を経て堀内村の妙法寺へと進んだ。

妙法寺
妙法寺は寛永9年(1635年)の開創。元禄5年(1692年)、目黒碑文谷の法華寺より日蓮上人の木像を移して本尊とした。碑文谷の法華寺、って「不受不施」で物議をかもしたあの円融寺 の旧名、である。
法華寺・円融寺;もとは天台宗のお寺としてはじまった寺は、弘安6年(1283)日蓮宗に改宗。「法華寺」として世田谷城主吉良氏や徳川氏の保護を受け大寺院として約400年間大いに栄えた。が、不受不施、つまりは、他宗派からは何も受けず、何も施さず、ただ信仰を同じくする人とのみ供に生きる、ってかたくなな教義のゆえ為政者からにらまれる。秀吉しかり。また、徳川幕府から大弾圧を受ける。
結果、元禄11年(1698)に法華寺は取り潰され、円融寺、となった、と。「目黒碑文谷の法華寺より日蓮上人の木像を移して本尊とした」って、その混乱・騒乱のときに起こった出来事ではなかろうか。

水路跡らしき道が東から合流する
水源は蚕糸の森公園の池であろう、との想いから、水路の痕跡は消えてはいるが結構広い道を北に進む。と、ほどなく道の左手から水路跡と思しき細路が車道に合わさる。なんとなく気にはなるのだが、とりあえず源流点を確認しようと先に急ぐ。この左手から合流する水路がこの沢筋の本流であったのだが、その時は知る由もなし。





水路跡らしき痕跡の細路
道なりに進み、「高南中学校」の塀に沿って進む。なにか水路跡らしき痕跡なないものかと周囲を見遣りながら進むと、高南中学校の正面入口のすぐ東側に東に入る道がある。堀内道のところで消えた水路痕跡はないものかと、路地に入ると、車止めのパイプの先に廃屋となったアパートがあり、その前に細路が入り込んでいる。如何にも水路跡といった趣だが、その細路もすぐに行き止まりとなった。

蚕糸の森の池
「高南中学校」の正面入口まで戻り、道を北に進むと「蚕糸の森公園」に到着。公園の案内図にある池に向かって公園の南端を西に進み池の脇にある四阿(あずまや)に到着。休憩を取りながら、とりあえず川跡らしき道を辿った、その水路跡が川なのか、用水なのかチェックする。と、この川筋は「小沢川」と呼ばれた文字通り、小さな沢であった。




小沢川
休憩しながらWEBでチェックすると、小沢川は、蚕糸の森公園から環七を隔てた西にある真盛寺にある新鏡ヶ池を源流とし、青梅街道の通る台地と善福寺川の北にある和田の台地の間の沢を流れ、善福寺川が神田川に合流した富士見橋脇で神田川に注ぐ2キロほどの川とあった。
源流は新鏡ヶ池とするが、その池だけでは水量が乏しく、先ほど立ち寄った蛇窪・清水窪からの支流、更には青梅街道の台地に沿って下る仙川上水の「六ヶ村分水」を養水としていたとのこと。「六ヶ村分水」からの養水の分水箇所は五日市街道が青梅街道から分かれる辺り、とのことである。
ということで、休憩の後、源流点である真鏡ヶ池へと向かうことにする。

千川上水・六ヶ村分水
千川上水・六ヶ村分水は、練馬区関町で本流から分かれ、青梅街道に沿って台地上を下り、上井草・下井草・下荻窪・天沼・阿佐ヶ谷の六つの村に水を送る用水路。乏しい水量の桃園川への養水であったことは知ってはいたが、高円寺まで下り、小沢川の養水ともなっていたことは今回初めて知った。もっとも、杉並の区立郷土博物館で買い求めた『杉並の川と橋』には、小沢川への養水の記述はなかった。

蚕糸の森の池は支流水源?
ところで、当初小沢川の水源かと予測した蚕糸の森の池であるが、本流の水源ではなかったようだ。といって、支流の水源であったという記録もみつからない。明治の「関東平野迅速地図」にも池の記載がない。公園の池も蚕糸試験所跡地を公園としたときに造成された人工の池かとも思える。
といったことで、蚕糸の森からは、はっきりと支流といったものは確認できなかったが、先ほどの水路跡らしき細路などや、ゆるやかな勾配の台地から小沢川に注ぐ沢はあったのだろう。

蚕糸の森
Wikipediaに拠れば、「当地は1911年5月の設置された「農商務省原蚕種製造所」に起源を持ち、1914年に「農林水産省蚕業試験所」、1937年に「蚕糸試験所」に改称した旧研究所跡地に設置された区立公園である。
1980年に蚕糸試験場が茨城県つくば市へ移転した事に伴い、跡地を公園と小学校として再整備し、旧杉並区立杉並第十小学校が移転した。旧杉並第十小学校跡地はセシオン杉並として再整備された」とある。

小沢川の源流点に向かう

真盛寺に向かう
蚕糸の森公園を離れ、小沢川の源流点の水源であったという真盛寺の新鏡ヶ池に向かう。成り行きで道を西に進みほどなく環七に。真盛寺は環七を隔てた対面にある。信号を渡り真盛寺に。

新鏡ヶ池
長く広い参道の先には山門が見える。境内にある新鏡ヶ池を見ようと思ったのだが、参道に「檀家以外の立ち入りはご遠慮ください」、といった案内があるため立ち入りは遠慮する。
が、なんとか池が見えないものかと、お寺さまと環七の間にある梅里公園の南端に沿って続く、お寺様の立派な塀に沿って西に進む。道が行き止まりとなった辺りに汲みあげポンプがあったり、お寺さまから流れ出るコンクリート造りの水樋があったりと、「水気」を感じる。地図を見ると公園西端に接する境内に池が見える。公園の石組みの段差を上り、境内を見ると池が見えた。それが新鏡ヶ池ではあろう。

真盛寺
境内に入るのは遠慮したが、参道に木遣塚記念碑とお寺さまの案内があった。案内には、「当寺は、天羅山養善院真盛寺と称し、真盛上人の興した天台真盛宗の東京別院で、本山は滋賀県大津市坂本の西教寺です。本尊は阿弥陀三尊立像です。
「江戸本所真盛寺之記」によれば伊賀国(現三重県)出身の真観上人によって寛永八年(1631)に湯島天神前樹木谷(現文京区湯島)に開創されました。その後、寺域が御用地となって天和三年(1683)谷中清水町に、更に東叡山拡張のため元禄元年(1688)本所小梅寺町(現墨田区横川)にと移り、のち煤煙と浸水を避けて大正十一年に現在の地に移転しました。
当寺は延宝元年(1673)に三井高利が江戸日本橋に越後屋創業して以来の菩提寺で、俗に三井寺とも称され、三井一門の香華院として知られています。 本所から移築した本堂は安永五年(1776)、元三大師堂は文政三年(1820)、中玄関書院は慶應元年(1865)と、いずれも区内では数少ない江戸時代の建物です。また客殿・庫裡は明治天皇の行幸を仰ぐため細川侯爵邸を譲り受け、目白高田老松町から移築したものです。
境内右手の「新鏡ヶ池」は旧高円寺村字中小沢の地名の由来となった古池で、中島に弁財天を祀り放生池となっています。門前の木遣塚は元禄年間、江戸城普請のときうたい始めた木遣節を後世に伝えるために建てたもので、毎年五月三日に鳶職和泉会の有志によってうたい継がれています。
なお当寺には、「真観上人画像」、雪舟銘「商山四皓」図をはじめ数多くの文化財が所蔵されています」とあった。
壇家は三井家ということ、そして、小沢川の由来が地名から来ていることがわかった。その地名も、ささやかな沢といった地形に由来するものではあろう。

真盛寺の新鏡ヶ池から下流に

小沢川の源流はわかった。ここから小沢川に沿って水路跡を下ることにする。地図を見ると、新鏡ヶ池から塀に沿った環七の先に、如何にも流路らしきカーブを描く細路がある。これが小沢川の流路であろうと環七を渡り流路跡と思しき細路へと。そこには、まぎれもなく水路跡と確信できる道筋が先に続いていた。

民家の間の水路跡の道
道は南側が高くなっている。民家との段差には石段や木で造られた階段が残る。高南中学校の運動場の南端を進む水路跡の道と民家の間には6段の鉄梯子が残っていた。水路フリークではあるが、暗渠萌え、と程ではないのだが、これほどまでの水路跡を見ると、なんだか嬉しくなってくる。


堀内道から蚕糸の森に進む道筋に合流
道に水路跡によく見る、車止めを見遣りながら道を進むと比較的広い道に出る。そこは、堀内道から蚕糸の森に向かう途中、高南中学校手前で左手から水路跡らしき道が見えたと先にメモした地点であった。





千川上水の六ヶ村分水からの養水・分水口に向かう

小沢川の源流点から神田川までの流路跡はカバーした。小沢川はその名の如く小さな沢であり、水源を新鏡ヶ池だけに求めるには心もとなく、支流や養水で水量を増やしたようだが、その支流である蛇窪・清水窪は既に訪れた。残るは千川上水の六ヶ村分水からの養水・分水口のあった、青梅街道と五日市街道の分岐点辺り。ついでのことでもあるので、養水・分水口に足をのばすことにする。



妙祝寺境内に水路跡
行き当たりばったりの散歩のため、如何にも効率が悪い。同じ道を行ったり来たりを繰り返している。養水・分水口に向かうのも、真盛寺から下ってきた水路跡を戻り、真盛寺の敷地を通る養水路の西側出口辺りと検討を付けた妙祝寺へと。
真盛寺の南側に続く塀に沿って進み、真盛寺の西隣にある妙祝寺に。境内に入り本堂にお参り。一見して水路らしきものは見当たらない。で、境内を出て通りからお寺様を見遣ると、寺の北東端に塀の一部が竹垣風の造りとなった箇所がある。そこから中を見ると如何にも水路といった風情の通路が真盛寺方向へと向かっていた。

妙祝寺
お寺さまにあった、案内には「当寺は、日栄山と号する日蓮宗の寺院で、本尊は十界曼荼羅並びに日蓮上人像です。開創は「文政寺社書上」によると、寛永5年(1628)江戸麻布桜田町(現港区六本木)とされていますが、度々の類焼により古記録を焼失したため詳細については不明です。
開山は興善院日為聖人、開基は常法院殿妙祝日栄大姉といいます。開山日為は、千葉の生まれで、所々に寺院を起立していますが、当寺を改葬の後は寺を弟子に譲り、寛永10年に港区元麻布の妙善寺を起立し本山小湊(現千葉県鴨川市)の誕生寺の二十世となりました。
開基日栄大姉は、伊予西条藩主一柳監物直盛の室で、家伝の開運不動尊の諸霊験に感銘し、桜田町の邸内に御堂を開創したのが当寺の始まりといわれ、生前、開山の日為と親子の縁を結び大姉の死後、日為がその恩に感じ、菩提のため大姉の法名に因んで山号を日栄山、寺号を妙祝寺としました。
以来、一柳家一族の菩提寺となり、墓地には累代の立派な墓があります。大正3年(1914)、寺院の発展をはかるため現在地へ移転してきましたが、大正12年9月の関東大震災で堂宇が倒壊し、大正14年に再建され、さらに昭和11年(1936)に現在のような伽藍を再興しました。
文化財としては、江戸初期に作られたといわれる不動明王像などがあります。昭和六十一年一月 杉並区教育委員会」とあった。

千川上水の六ヶ村分水からの養水・分水箇所へ

妙祝寺前を南北に通る道の一筋西に北西へと向かう道がある。曲がった当初は結構広い道幅も、ほどなく細路となり、車止めが道を防ぐ。車止めには「遊歩道」と記され、「金太郎」のマークが描かれている。




金太郎の車止め
昭和47年(1972)頃から、杉並区内の古い小川や用水路などを暗渠化し遊歩道として整備した際、 その車止めの柵として金太郎のイラストの付いた柵が立てられたようだ。何故金太郎?
ひとつには子供の遊び場である、ということをはっきりさせるため、また、家族で昔話を話し合うきっかけとして「金太郎」が選ばれたとも、金太郎が熊と遊ぶ=子ど同士が遊ぶ場所であることを示すためとも説明される。


養水分水箇所
道を進むと青梅街道の少し手前に左に曲がる細路に車止めがあり、先に進むとそこは青梅街道から分かれた五日市街道が西へと大きくカーブする箇所であった。

六ヶ村分水の小沢川への養水の分水箇所を確認。関町で千川上水本流から分かれ青梅街道を下った六ヶ村分水は、この地から更に東へと中野坂上まで下ったとも言われる(前述の如く『杉並の川と橋』にはその記述はない)。武蔵野台地は南東に向かって緩やかに傾斜しているわけで、尾根筋を外れない限りは東へと何処までも下れるのは道理ではある。
それはともあれ、本日の散歩はこれで終了。思いがけず出合った窪地を辿り、結果小沢川の沢筋であったわけだが、地形のノイズから何か気になるものを感じるセンサーが頼りの散歩ではあった。

カシミール3D・数値地図5mメッシュ(標高)

家に帰りカシミール3Dで何年も前に7500円で購入した数値地図5mメッシュ(標高)を読み込み、ちょっと驚いた。地形図では小沢川の川筋が見事に窪地として表示されている。清水窪・蛇窪の窪地もはっきりわかる。
地形図を見ていると、阿佐ヶ谷の辺り、荻窪の辺りから桃園川の谷筋に向かって窪地が見える。また、堀之内の妙法寺の西に、弧を描いて善福寺川に繋がる窪地も見える。何となく気になる。
次回の散歩は善福寺川に繋がる窪地や、阿佐ヶ谷や荻窪から桃園川の谷筋に続く窪地を辿ってみようと思う。尾根筋からの窪地であるので、千川上水の六ヶ村分水だろうか。ともあれ、歩いてみてそれから調べることにする。

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