水曜日, 7月 06, 2016

伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅥ:旧東予市内(一部丹原)の河野氏ゆかりの地を辿る

伊予国内の宮方との抗争とともに、同じ武家方ではあるも四国支配を目する細川氏の伊予侵攻に苦慮した第28代通朝の後を継いだのが第29代河野通堯。通堯も、細川氏と対するも敗れ南朝に帰順し細川氏と対抗する策をとる。 伊予の宮方と共に細川氏の支配下にあった宇摩郡、新居郡に侵入し細川氏を排除、南朝守護河野通直として府中に入った通堯であるが、中央での細川氏の失脚を受けて、中央の反細川勢力と結ぶため再び武家方に復帰する。

細川氏の伊予侵攻に対する河野家存亡の危機に対応すべく、武家方から宮方への帰順、さらに武家方帰順と、御家を守るため苦慮した通暁であるが、細川氏の伊予侵攻にて敗死。
その後を継いだ第30代当主・通義の頃に、幕府の斡旋により和議を結ぶことになる。和議により宇摩・新居郡を細川氏に割譲することになるが、河野氏は宇摩・新居郡を除く伊予の守護となる。これ以降、河野氏は伊予国守護職を相伝することになった。





南北朝騒乱の時代

武家方から宮方帰順、そして再び武家方へと、
武家方・細川氏の四国支配対策に苦慮。


河野通堯(第29代当主):細川氏対策として宮方への帰順、そして武家方への復帰。河野家存亡の危機を脱し旧勢力を一時的ではあるが回復する
通朝の子・第29代の通堯も同様に細川氏の動向に苦慮。細川勢に攻勢をかけるも、細川勢の反撃に遭い立て籠もった高縄山城も落城し、恵良城に逃れる。この状況に「宮方」の在地豪族が支援の手を差し伸べ、「河野家の安泰をはかるために、南朝に帰順するように勧誘した。すでに東予・中予の重要な拠点を占領した優勢な細川氏に対抗するためには、まず伊予国内における宮方・武家方の協力一致によって、陣容の整備をはかる必要がある(「えひめの記憶」)、と。 また「通堯にとって、武家方の勢力が潰滅した時であるから、ライバルであった土居・得能・忽那氏らをはじめとして宮方の兵力を利用する以外に、よい打開策はなかった(「えひめの記憶」)」とする。

河野通堯の宮方帰順
こうして通堯は九州の宮方の征西府へ帰順。細川氏に対抗するため宮方に与することになり、南朝から伊予国守護に補任された、との記事もある。正平23年(1368)伊予に戻った通堯は河野氏恩顧の武将とともに武家方の勢力を府中から掃討し、勢いに乗じ東予の新居郡・宇摩郡まで侵入し細川勢を排除。府中に南朝守護河野通直(通堯改名)と知行国主西園寺氏が入る。通堯の刑部大輔任官は南朝への貢献故のことである。

河野通堯の武家方復帰
武家方の管領として足利義満を補佐した細川頼之であるが、山名氏や斯波氏、土岐氏といった政敵のクーデター(康暦の政変)により管領職を失い、四国に落ちる。この中央政界の激変に際し、対細川対策として通堯は「宮方」から離れ、幕府に降伏し反細川派の諸将との接近をはかることになる。義満は通堯に対しあらためて伊予守護職に補任する旨の下文を与えた。
「えひめの記憶」に拠れば、「通堯が武家方に復帰した事情は、いちおう伊予国における失地回復に成功したこと、これまで利用した征西府、および伊予国の宮方の権勢が衰退して、昔日の姿を失ったこと、将来河野氏の政局安定をはかるためには、幕府の内部における反細川派の勢力と提携する必要があったことなどによると考えられる」とある。

北朝方から南朝帰順、そして再び北朝帰順と、対細川氏対策として16年に渡り、河野家の危機を防いだ通堯は、河野氏の旧勢力を回復し、その勢力は安定するかにと思われた。しかしながら、四国に下った細川頼之氏追討の命を受け進軍の途中、天授5年/康暦元年(1379年)、伊予の周桑郡の佐々久原の合戦で通堯は討死する。この戦で西園寺公も共に戦死する。


河野通堯(通直);(『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』より)▼

父の通朝の戦死の後、各地を転々とし、正平23年(1368)帰郷して失地を回復していく。
天授5年;(北)康暦元年に細川頼之が東予地区に侵入し、通堯は桑村郡吉岡郷佐志久原に陣をとったが、頼之の奇襲戦法にかかり総攻撃を受けて自害。佐々久山に五輪塔、善光寺に位牌がある。
甲賀神社境内に通堯と西園寺公俊を祀る。
続柄:通朝の子
家督:正平19年;(北)貞治3年(1364)?天授5年(1379);(北)康暦元年
関係の社・寺・城:善光寺(東予市)、甲賀神社(東予市)
墓や供養塔;佐々久山

千人塚;所在地:新町434‐4
「天授5年(1379)11月6日、佐々久原に於いて伊予の将河野通堯軍七千と阿波・讃岐・土佐の将細川頼之軍四万が激突。河野軍の敗北に終わった。このとき両者の戦死者を此の地に埋葬した。
別名四方塚、太平塚、鬼塚とも呼ばれ、今後このような悲惨な戦いが無いように、四方太平を願ったとも云われ、又「このような大石は鬼でなければ積めない」との意味から鬼塚の名もある。
この塚は甲賀原古墳群の南端に位置する古墳と云われ、直径30メートルを越える円墳であったとも云われる。千人塚に利用されたため唯一残ったと伝わる 吉岡公民館 吉岡地区生涯教育推進委員会」

西園寺氏と伊予
上のメモでお公家さんの西園寺氏の名前が河野氏とペアとなって登場する。宮方に帰順し伊予の守護となった通堯とともに知行国主として府中に入城したこと、そして武家方に復帰した通堯に与し同じ武家方の細川氏と戦い討死している。この場合の西園寺氏とは西園寺公俊公のことではあろう。
西園寺公俊の妻は河野通朝の娘というから、通堯とペアで動くその動向はわからなくもないが、それはともあれ、京のお公家さんである西園寺氏の流れが伊予に土着したのはこの公俊の頃と言う。
西園寺氏と伊予の関りは鎌倉期に遡る。鎌倉幕府が開かれ守護・地頭の制度ができた頃、当時の当主西園寺公経は伊予の地頭補任を欲し、橘氏からほとんど横領といった形で宇和郡の地頭職となっている。当時は、地頭補任は言いながら、伊予に下向したわけではなく代官を派遣し領地を経営したようである。 その後鎌倉幕府が滅亡し建武の新制がはじまると、幕府の後ろ盾を失った西園寺氏は退勢に陥る。伊予の西園寺家の祖となった西園寺公俊が伊予に下ったのは、そのような時代背景がもたらしたもののようである。
伊予西園寺氏は宇和盆地の直臣を核にしながらも、中央とのつながりをもち、その「権威」をもって宇和郡の国侍を外様衆として組み込んだ、云わば、山間部に割拠する国侍の盟主的存在であったとする(「えひめの記憶」)
橘氏
橘氏ははじめ平家の家人であったが、源平合戦期に源氏に与し多くの軍功をたてる。鎌倉幕府開幕時の守護・地頭の制度により、鎌倉御家人として宇和の地の地頭に補任される。その橘氏の所領の地に西園寺氏が触手をのばす。橘氏は、宇和は警護役として宇和島の日振島で叛乱を起こした藤原純友を討伐して以来の父祖伝来の地とも、頼朝よりの恩賞の地とも主張するも願い叶わず、宇和は西園寺氏の手に移り、橘氏は肥後に領地替えとなった、とのことである(「えひめの記憶」)。

河野氏ゆかりの地を辿る
善光寺;愛媛県西条市安用甲1044


『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』に挙げられた東予市の善光寺に向かう。場所は同冊子に説明のあった激戦地・千人塚の南西、安用(やすもち)地区から高縄山地の山麓を少し上ったところにある。お寺様というより、お堂といった趣。
お堂脇の案内には「善光寺 天授5年(1377)の佐々久原の戦いで、細川頼之に敗れた河野通堯、西園寺公御霊を祀るため建立された寺である。本堂にのこる両公の位牌は近郊例を見ない大きなものである。本尊薬師如来像は風早(北条市)の恵良城内薬師堂に祀られていたもので、戦火に遭ったためこの地に移し祀られたものと伝えられる」とあった。


河野氏ゆかりの地を辿る■
甲賀神社;愛媛県西条市上市甲460番地

大明神川が形成した扇状地が、高縄山地からの「出口」部分の扇の要の地から広がり始め、左右を高縄山地の支尾根に挟まれた「盆地状」の旦の上地区を離れ平野部を瀬戸の海に下る辺り、県道155号が大明神川を渡る少し東に甲賀神社がある。平坦地に盛り上がる緑の社叢が印象的な社の構えである。
県道155号を東に折れて境内に駐車。境内社をお参りし、市指定文化財 天然記念物の紅葉杉(コウヨウザン)を見遣りながら境内を進むと「甲賀八幡神社の祈請文」の案内。
案内には
「甲賀八幡神社の祈請文 
市指定文化財 有形文化財古文書
元亀三年(1572)阿波讃岐の三好勢が伊予に侵入して来た時、これを迎え討ち戦勝するため、河野一族が甲賀八幡神社に誓詞祈願した願文で、社宝として伝わる古文書である。
同年九月十二日付けの七十五名連判所と十三日付けの二十名連判所の二通が継ぎ合わされ、現在一巻となっている。氏名の下には、それぞれ花押がある 西条市教育委員会」とあった。
○祈請文は39代当主・通直の頃のもの
元亀三年(1572)というから、この起請文が書かれたのは、この項の主人公である通堯より、時代を下った河野家第39代当主・通直、その父である通吉の頃の話ではあろう。土佐の長曾我部氏の宇和郡侵攻の機に乗じ、阿波の三好氏が織田信長と結び伊予に侵攻した。それを迎え撃つ河野氏の決意表明といったものだろう。

境内を進み石段を上り拝殿にお参り。社の建つ独立丘陵の周りには、6世紀後半から7世紀初頭のものと推定される古墳時代後期の古墳群があるようだ(社殿の建つ丘陵自体が古墳、といった記事もあった)。拝殿横にある境内社に、河野通暁、西園寺公俊公を祀る祠などないものかと彷徨うも、これといった案内はなかった。
護運玉甲甲賀益(ごうんたまかぶとかがます)八幡神社
石段を下り甲賀神社の案内を見る。案内には「護運玉甲甲賀益(ごうんたまかぶとかがます)八幡神社  沿革 勧請年月不詳。往古、仲哀天皇・神功皇后が紀伊の国より南海道に巡幸のとき、行宮(宿泊所)をこの地に作り給いし夜、その夢裏の示現により天皇この山に登り、諸神を礼尊した。よってこの山を「神齋山カミイワイヤマ」と云う。、この時の祭神は吉岡宮に坐す吉岡二神と伝えられ御一神は猿田彦神に坐す。
天智天皇6年(667)2月朔(1日)、国司土師連(ハジシノムラジ)千嶋公この地を通行のとき、老翁忽然と現れ、我八幡大神と共にこの地を守護せんと神示あり。この翁こそ猿田彦命に坐す。国司は勅許を得て宮殿を建て合祀す。

其后、興國4年(1343年)2月3日、南朝勅願所の旨を持って新宮殿を建立し、猿田彦命を祀り八幡社を合祀した。興国4年(1343年)2月3日、南朝勅願所の旨を以て再建勅旨之有り、御衾田を下賜、御書今尚之を存す。文明7年(1475年)2月将軍足利義尚公より社領寄付状あり。
伊予守源頼義公より六孫王(経基王)以来相伝の密法たる開運護甲の秘法を祀主友麿に授けしが社名の由来であり、此の秘法を以て河野家数代の祈願所となる。後、松山藩主久松定行、永應2癸巳(1653年)社殿を再修し、久松家祈願所となり、明治5年(1872年)郷社に編入され今日に至る。

結構古い社である。が、吉岡宮って?近くに延喜式に記載される佐々久神社がある。仁徳天皇(大鸛鷯尊:おおささぎのみこと)の崩御に際し、その徳を慕い。社を建てたのがその始まりと伝わる古き社である。「おおささぎのみこと」の音にあわせ、社の名を「佐久」としたというこの社が建つ地の旧地名が吉岡村というから、佐々久神社のことだろうか。
また、土師連千嶋って誰?チェックすると、壬申の乱のとき、大友王子軍=天智天皇勢の将軍に土師連千嶋の名がみえる。野州川の戦いで敗死している。どういったコンテキストで土師連千嶋が登場するのか、ちょっと興味もあるのだが、話があらぬ方向にむかってしまいそうであり、本筋でもないのでここで思考停止とする。


河野氏ゆかりの地を辿る
千人塚;西条市新町434‐4

甲賀神社の南に続く長い参道を進み鳥居を出て更に南に下る。鳥居に「御運宮」とあった所以は、上記案内故のこと。境内を出て、車道の西側の畑の中に千人塚がある。
上述『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』の説明にあるように、天授5年(1379)河野通堯と阿波・讃岐・土佐をその支配下に置いた細川氏が戦い、通暁が敗死したとの佐々久原の合戦で亡くなった両軍の将士の霊を弔った塚である。
武家方から宮方、そして武家方へと、お家存続のため細川氏対策として複雑な動きをした通暁であるが、この千人塚が祀られた佐々久原の合戦の頃は、宮方から武家方に復帰し中央の反細川勢力と合力し、細川討伐を目した頃である。 細川頼之は細川討伐軍の機先を制し伊予に侵攻。主力を宇摩・新居郡に派遣した通堯の本陣が手薄と見た頼之は本陣に総攻撃を加え、敗れた通堯は自害、通堯の伊予に帰着以降、河野勢に与していた南予地域の実力者西園寺公俊も、佐志久原で通堯と運命をともにした。


河野氏ゆかりの地を辿る■ 
佐々久山の通堯供養塔

『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』には佐々久山に供養塔があると記載されている。佐々久山は千人塚の南にある結構大きい独立丘陵である。それ以上の手掛かりはない。佐々久山には上に述べた延喜式内社の佐々久神社があるので、そこを手掛かりに供養塔を探そうと考える。
「河野通堯公御墓」と刻まれた石標
ところが、成り行きで車を丘陵の周囲を走らせても、この佐々久神社に辿りつけない。丘陵を一周回って再び甲賀神社、千人塚から南に下る道に戻り、丘陵北東端を回り込もうとしたとき、道脇に「河野通堯公御墓」と刻まれた石標があった。どちらに行けばいいのかはっきりしないが、とりあえず丘陵に向かい南に進む道に入り込む。





通堯供養塔
成り行きで進むと水道施設があり行き止まり。道筋には何も案内はない。丘陵側もコンクリート塀でガードされ丘陵には入れそうもない。さてどうしたものかとあきらめかけたのだが、丘陵手前の畑地がある。手前には侵入を阻むロープが張られているのだが、なんとなく、何かを感じる。ロープを越え丘陵裾を進み丘陵北東端部に成り行きでのぼると、そこに供養塔が建っていた。お参りしもとに戻る。





南北朝騒乱の時代

幕府の斡旋で宿敵細川氏との和議が成立。宇摩郡・新居郡を割譲し、 
その地以外の伊予の守護職として以降、相伝することになる


河野通義(第30代当主);細川氏との和議と河野氏の伊予守護職安堵
父通堯の戦死のあとをうけて、河野氏の家督を継承した嫡子(後の通義;第30代当主)は当時10歳。細川氏の攻勢を退けることは困難であり、また、細川氏の勢力が四国全域に拡大することを危惧した将軍足利義満は和議を斡旋。四国の守護職を分割し、讃岐・阿波・土佐三国を細川氏に、伊予(宇摩・新居の両郡を除く)を河野氏に与えて勢力均衡策をとった。
和議の背景は、頼之が再び管領となって上洛し、執政に多忙で領国を顧みる余裕のなかったことが挙げられる。これ以降、河野氏が伊予国守護職を相伝することになる。

「伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅣ」の通盛の項で、拠点を湯築城に移したことに異説があるとしたが、湯築城に河野氏が移ったのは、河野氏が室町幕府の統制下、伊予国守護職を相伝することになった、この頃との記事もある(『湯築城と中世の伊予』)。

河野通義(通能):(『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』より)▼

父、通堯の戦死のあとをうけ、幼少で家督を継ぐ。(北)永徳元年弘和(1381)に宿敵細川氏と和議を結び、宇摩・新居二郡を細川氏が領し、残りの地については河野氏が領することになる。
細川氏が通義に書状を送り、周布郡北条郷の多賀谷衆の保護を依頼している。 元中9年(北)明徳3年(1392)将軍義満より「義」を賜る。同年三島神社(桑村)を再建。
続柄;通堯の子
家督:天授5年(1379);(北)康暦元年-応永元年(1394)
関係の社・寺・城:北条里城(東予市北条)、桑村三嶋神社(東予市)



 ■河野氏ゆかりの地を辿る
多賀谷氏北条里城址(多賀小学校:愛媛県西条市北条1504番地)

四国支配を目する細川氏との伊予侵攻に対し、幕府の斡旋により和議のととのった河野氏はしばしの小康状態を得る。和議に際し宇摩郡と新居郡を割譲することにはなったが、細川氏に侵された周敷・桑村の旧領を回復することになる。 ここで問題となるのが北条里城をその館とした多賀谷氏の存在。
「えひめの記憶」に拠れば、多賀谷氏は、はじめ河野氏に属したが、細川氏の勢力が強大になると、旧領主から離反して細川氏に仕え忠勤をはげんだ。ところが周敷郡が河野氏の勢力圏に復帰すると、多賀谷氏は同氏の復讐を恐れるの余り、頼之に懇願してその保護を求めた」とある。
『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』に「多賀谷衆の保護を依頼」とあるのは、和議によって河野氏の領地に属すことになった多賀谷衆に、圧迫を加えないことを求めたわけである。「頼之は通義に書簡を送り、彼らに課せらるべき国役等は勤仕させるから、屋敷奪取の強行措置に出ないように要請した(築山本河野家譜)」とある。
北条里城址
北条(西条市)には、鎌倉時代から室町中期まで多賀谷修理太夫の館があった。天正の頃まで飯塚氏の館(北条里城)と云われたが、秀吉の四国侵攻によって破却された。
その後、塩見氏、黒河氏の屋敷となり、江戸末期には西の庄屋の屋敷となった。明治になって多賀小学校の校地となる。近藤篤山と黒川石漁の母親、菅女の手植の松と云われる大木(根廻り4.3m)があったが、昭和62年10月、自然に倒れた。切り株は小学校、公民館、東予郷土館に残る(「今どきの西条」HPより)。

宇摩・新居二郡
和議の結果、細川氏に割譲された伊予の二郡について。「えひめの記憶」をもとに、その後の経緯を掲載する。
「宇摩・新居両郡が細川氏の支配下になってのちは、この両郡を実質上支配したのは石川氏であると思われる。石川氏は元来細川氏の一族で、同氏の指示によって伊予に入国し、新居郡高峠(高外木)城を拠点として、細川氏の代官として両郡を支配するようになったのではないかといわれているが、その辺の事情は明らかではない。
石川氏は、戦国時代に入るころには、細川氏にかわってほぼ両郡の支配権を確立していたのではないかと思われるが、しばしば武将たちの反抗に悩まされた。天文二〇年(一五五一)ころには兵乱で領国内は騒然としたが、金子城の金子元成らの活躍で鎮定することができた。さらに弘治二年(一五五六)にも兵乱が発生したが、この時にも、元成らの活躍で事なきを得た。そこで、石川氏は細川氏にかわって新しく台頭した三好氏と結んで勢力の維持につとめたが、領内の動揺はその後も続いた。
元成は、二郡の政情の安定を願ってか、河野氏の実力者村上通康に使者を立てて厚誼を求めたが、このような状況のなかで、金子氏の勢力がしだいに台頭し、戦国末期には実質上金子氏が宇摩・新居両郡旗頭の地位に立ったものと思われる(「えひめの記憶」)。



河野氏ゆかりの地を辿る
桑村三嶋神社;愛媛県西条市桑村448‐1

社は前述の甲賀八幡から大明神川を少し下ったところにある。鳥居から誠に長い参道を進む。もとは松並木であったものを檜の並木に植え替えたとのことである。
参道の中程に道場の趣がある建物が建つ。境内にあった案内に拠れば、「建武館」と呼ばれる県下有数の剣道場で、昭和9年(1935)に宮司により建てられたとのこと。
車を建武館の脇にデポし、拝殿にお参り。境内には絵馬殿があり、多くの絵馬が掲げられていたが、その中でひとつ、ガラスの額に入った絵馬は伝狩野元信の筆になる、と。

伝狩野元信の絵馬
境内にあった案内には「狩野元信の*(注;読めない)馬の図は愛媛新聞社編「伊予の絵馬」にも掲載され、作者については疑義あり伝元信としながらも、「県下の絵馬の中でも群を抜いた作品の一つ」と称賛している。あまりに迫力に夜中額面から馬が抜け出して野草を食うとの伝説がある。(本県第二の古額という)。同様の話が河野氏ゆかり地の最初の回、赤滝城址に向かう途中、大野霊神社の絵馬にもあった。

で、本筋の河野氏との関連であるが、境内にあった案内には「(前略)和同5年8月23日創建。社記によれば、慶雲3年(706)国司越智祢玉興が勅を奉じて大三島から勧請し、以降度々遣使奉幣があったという。一説には和同4年(711)大山祇神を祭祀し、一の宮三島大明神と称し、同5年大三島より雷・高?(たかおがみ)二神を勧請合祀して三島別宮地の御前宮と号したともいう。 その後、河野家の尊崇を受け、国司河野通信をはじめ通村、通綱らはそれぞれ社領を寄進した。

興国3年(1342)細川頼春侵攻し社殿焼失したが、明徳3年(元中9年;1392)、河野通能によって再興され、元亀元年(1570)象ヶ森城主櫛部兼氏は神鏡を奉納し社殿を修復した。これより先郡司越智深躬は新市の桑村館に拠って威を張り、春秋の祭祀料として水田1町3反を寄進したという。
永禄年間(1558-1569)桑村少輔俊直これに居り神鏡を奉納、崇敬篤かったが天正13年(1585)小早川隆景のために滅亡した。当社も再び炎上し社宝日記を失い、社領もことごとく没収された。当時の三島田・神楽田などの名が明治初年地租改正の頃まで残っていた。
元禄12年(1669)、(中略)三島神宮社殿を造立、寛保3年(1743)松山藩主の寄進を受けた。昭和10年、拝殿、渡殿を造営し旧拝殿は祓殿及び絵馬殿に改築した」とある。

通能=通義
 『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』に、この三島神社を再建したという通義の名が見当たらない。チェックすると、河野通能がその人であった。通義とも通能とも称されたようだ。
それはそれとして、案内には今まで登場しなかった氏名が挙がる。チェックすると、越智玉興とは越智河野氏系図に拠れば、玉興は河野氏の祖とされる越智玉澄の兄で、文武天皇の頃、越智郡大領となる、とある。また、通村、通綱は宮方で活躍した得能氏。通村は通綱の父である。
象ヶ森城主櫛部兼氏は既に観念寺(伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅣ)でメモしたように河野家の重臣のひとり。案内ではその櫛部氏の後に、「これより先郡司越智深躬は新市の桑村館に拠って威を張り」とあるが、文の流れとしては少々唐突。「これより先、とは「ずーっと遡り、河野氏の祖の玉澄の2、3代後、桑村に館を構えた。時代は平城天皇の頃だろうから8世紀末の話である。
桑村少輔俊直は平安末期郡司として居住した桑村氏の後裔。天文22年(1553年)、桑村治部少輔俊直公が再居住して以来、代々この地を治める。ために桑村氏中興の祖といわれる。天正13年(1585年)通俊公の代に、豊臣秀吉の四国征伐で小早川隆景と戦い、陣没した、とあるので河野氏の家臣であったのだろう。

南北朝争乱記の河野氏の動向とそのゆかりの地についてメモした。次回は無る町時代をメモする。また、メモの中に出てきた高縄山城や恵良城は、善応寺、雄・雌甲山とまとめて、旧北条市(現在松山市)の河野氏ゆかりの地として後日訪ねようと思う。

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