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会津街道自体にそれほど思い入れもないのだが、参加を決めた理由は、とりあえず歩けるのなら何でもOKということ、この旅程の前後に前々から気になっていた会津若松の「戸ノ口堰用水」に寄ってみようと思ったこと、そして、少々とってつけた感はあるが、中村彰彦さんの小説、『落花は枝に還らずとも(中公文庫)』の主人公である「秋月悌次郎の慟哭の峠である束松峠へ」という同企画のキャッチフレーズに惹かれたことにある。
基本散歩は単独行であり、団体行動に不慣なため、少々の戸惑いはあったが、主催者の行き届いた配慮、専門家による詳しいガイドなど、単独行とはまた趣の違った、誠に楽しい散歩となった。 いつもの散歩であれば、事前に散歩の準備をすることもなく、散歩で偶々出合い、気になったことを調べてメモするのだが、今回の一泊二日の散歩は、普段と異なり、主催者が準備してくれた33ページにぎっしり詰まった解説文がある。今回の散歩はその資料(以下「主催者資料」)を参考にさせて頂きながらメモすることにする。
本日のルート;
■上野尻の西光寺>イザベラ・バード感動の地>雪崩常習地帯>芹沼一里塚>芹沼の大山祇神社道標>安座川を徒河>小屋田遺跡の敷石住居跡>堀貫橋跡に>本海壇(火防塚)>化け桜>野澤原町宿田沢橋口西門>ふるさと自慢館
■脇本陣跡>常泉寺>野澤停車場通り>劇場通り・花街通り>野澤原町宿東門>初期野澤内郷組郷頭橋谷田又右衛門家跡>研幾堂跡>肥後殿御殿への裏道>天満天神宮>旧野澤小学校跡>代官清水>熊野神社>常楽寺>野澤宿本陣跡>井戸水噴出の民家>鈎型>栄川酒造>遍照寺>諏方神社>一里塚>地蔵原・六地蔵原・古四王原(胡四王原)>徳蔵橋>馬頭観音>広谷寺>日本一小さい無名美術館>御?神社>復縁の松
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磐越西線野沢駅
「会津街道探索ウォーク」の集合地は磐越西線・野沢駅近くの西会津町役場。時間は午前8時半。新潟や福島の参加者なら当日早出で間に合うだろうが、東京からでは前泊しなければ集合時間に間に合わない。会津街道散歩は一泊二日の企画ではあるが、我々は二泊三日の旅となる。
野沢駅近く、ツアー初日に泊まる宿を前泊1日余分に予約し、東北新幹線で東京から郡山、郡山から磐越西線で会津若松経由で野沢に向かう。途中、会津若松で4時間ほど時間をとり、「戸ノ口堰用水」の事前調査というか、さわりの部分を歩き、夕刻の列車で野沢駅に到着。翌日を迎える。
スタート地点・上野尻の西光寺
町役場で集合の後、先回のゴール地点である、福島県耶麻郡西会津町上野尻の西光寺にマイクロバスで移動。西光寺は蒲生氏ゆかりの寺のようだ。は、国指定重要文化財の「紙本著色蒲生氏郷像」があるとのこと。蒲生氏郷は秀吉の天下統一の後、会津に移封され91万石の大守となった戦国武将。当初黒川城と呼ばれていた会津若松の城、鶴ケ城と呼ばれるようになったのは、蒲生家の家紋・舞鶴に拠る。
上野尻・西光寺から野澤宿・縄沢までのルート図 |
下野尻のほうが歴史は古く、戦国時代から阿賀川の舟運で物資を会津へ運ぶ基地でした。その需要の多さにより、すぐおとなりに上野尻ができるほどの賑わいで、野尻が重要な駅所だったのがわかります。ピーク時には上野尻99軒、下野尻80軒の家があったとの記録が残っています。
現在のJR上野尻駅の裏手に「中嶋」と呼ばれる荷物の発着所がありました。 当時、会津藩の廻米の量は年間10~13万俵で、そのうちの6割は下野街道から江戸へ、残りの4割が阿賀川舟運で日本海航路を通って京都・大阪に運ばれていました。
中嶋舟着場では、廻米を含めたすべての荷物がいったん陸揚げされて、役人の検査を受けた後、(中略)車峠(私注;下野尻の西)を越えて馬による陸路で運ばれるルートと、阿賀川沿いの道を徳沢舟着場へ運び、そこから鵜飼船に積んで舟運で搬送するルートに区分されて津川の湊に運ばれました」といった記事があった。
へえ、そうなんだ。が、ちょっと疑問。どうして野尻が舟運の拠点に?あれこれチェックすると、江戸の頃、会津藩は、会津若松の北、磐越西線の塩川から阿賀野川(阿賀川は新潟に入ると阿賀野川となる)の津川までを通舟する工事が行われたが、途中難所が多く、工事が危険でありかなりの区間を陸路を使った、といった記事(「阿賀川と船運;川口芳昭」)があった。
コスト面や途中の目減りロス、そして大量に早く大阪に廻米するためには舟運のほうが効率的なことは明白であるわけで、上流であればあるほど段取りがいいのだろうが、そこに拠点がないとすれば、この野尻辺りが越後側から通舟工事ができる上流端であったのかと推論(妄想)する。
◆阿賀川・阿賀野川
阿賀川は南会津田島から流れる大川、猪苗代湖から流れる日橋川、そして南会津から流れる只見川をその源流とする。かつては、日橋川が大川と合流し「大川」に、その大川が只見川(『会津鑑』には、尾瀬沼から只見までを「揚川」、只見から片門までを「只見川」、片門より下流を「揚川」と記す)と合流し「揚川(あがかわ)」としたが、揚川が阿賀川となり、福島を越えて新潟の平坦な地を流れるに至り、その野の流れの穏やかさが別の川のようでもあり、川名も変え「阿賀野」川としたようである。
「揚川」は奥会津で大雨が降り、急に水嵩が上がる故とのこと。とはいえ、揚川が阿賀川に転化した経緯は全く不明。
イザベラ・バード感動の地
西光寺を離れ、国道49号を越えて阿賀川脇の道を進む。と、阿賀川の対岸に灰色の崖面が見える辺りで、ガイドの先生が、このあたりが「イザベラ・バード感動の地」と。『日本奥地紀行』に「下を流れる急流の向かい側には、すばらしい灰色の断崖がそそり立ち、金色の夕日の中に紫色に染まっている会津の巨峰の眺めは雄大であった」とある箇所であろうと。会津の巨峰とは飯豊山(いいでさん)につらなく連峰のことだろうか。
◆イザベラ・バード
英国の旅行家。明治初期日本を旅し、東京から北海道、そして関西の旅を紀行文にまとめる。『日本奥地紀行は』は明治11年(1878)、東京から北海の日本北日本紀行「undeaten tracks in Japan」を訳したもの。
雪崩常習地帯
道なりに国道49号に戻り、なんとなく右手の山側が国道に迫りくる辺りが雪崩常習地帯であったとの説明。地図の等高線を見ても、蝉峠山からの尾根筋が阿賀川に突き出した箇所である。越後長岡藩士の記録に雪崩のこと、雪崩による街道止め記録が残る。
芹沼一里塚
雪崩常習地帯から少し先、阿賀川が南東に突き出た対岸の地を大きく廻りこむあたり、国道49号から少し山に入ったところに芹沢一里塚。とはいいながら、塚の形を留めることもなく、少々周囲とは「ノイズ」を感じる程度の丸まった小振りの平坦地がそれである。
通常二つある一里塚の「南塚」との研究報告書もあるが、対になる「北塚」や塚の間を通る道形の痕跡もないようで、距離的には一里塚と一致するも、未だ「不明」とのことであった。
◆芹沼の鳴沢田と伝説成立のお話
芹沼集落にある、鳴沢田と呼ばれる良田にまつわる伝説の「拡大プロセス」についてガイドの先生からの説明;芹沼村の老夫婦が旅の僧に一夜のもてなし。そのお礼にと僧は観音像を手渡し旅立つ。観音像のおかげで田は鳥害もなく良田となる。その田を鳴沢田と呼ぶのは、観音像に鳴管を繋ぎ、田の畔に置くと、鳥が近づくと鳴管がなり鳥が逃げ出したことに拠る。また、この観音さまを鳥追観音と称するようになった。
この話は、『会津鑑』では、旅の僧は行基となる。そして老夫婦が亡くなった後、鳥追観音は、自ら阿賀川の淵に鎮座するも、空海が近くを通ると、自ら空海の掌に飛び移る。如法寺は空海がその観音像を安置するため建てたものである、と。鳥追観音・如法寺は磐越自動車道・西会津インターの少し南にある。 旅の僧からはじまったお話は、行基・空海が登場し、さらには鳥追観音・如法寺の縁起までに発展するが、話は更に発展する。
「西会津ふるさとの伝説」には、空海と徳一が共に旅をしたこととなり、空海の掌に飛び移った観音さまを徳一に託し、徳一が観音堂を建立。それが鳥追観音・如法寺とのこと。
伝説・縁起はこういったプロセスを経て、「ありがたさ」を拡大していくのだろう。
◆徳一僧都
鳥追観音・如法寺のHPに拠ると、開創は徳一大師(私注;大師号は受けていない)、本尊の鳥追観音は行基作とある。空海は良しとして、徳一僧都について同HPをもとに簡単にまとめると、「平安時代初期、奈良の都から会津へ下られた法相宗の僧。会津に仏の都を実現し衆生済度をと志し、大同2年(807)、会津東方の磐梯山麓に根本寺として慧日寺を創建。次いで越後への要所野沢に会津西方浄土として鳥追観音如法寺を開創。
更に会津盆地の中央に勝常寺を、奥会津只見への要所柳津に円蔵寺を、会津北方の要所熱塩に慈眼寺(現在は示現寺)を開創。民衆の布教教化に邁進し、故に民衆は、僧徳一を東国の化主、菩薩、大師と尊称致し、尊信敬仰致した。
また、徳一は、天台宗最澄、真言宗空海という平安新都の二人のリーダーに対して、奥州会津慧日寺に住しながら、真っ向から独り法戦を挑み一歩も引かず五分に亘りあい、よく旧南都仏教法相宗の正義を守った学僧としての面目も高い。
徳一菩薩、徳一大師と、一般民衆より尊信敬仰されたことは、仏教僧の本分である衆生済度に身命を賭して、都より遥か東国の野に下り、民衆の為に御仏の慈悲を施し、仏教の法燈を点し続けた徳一の真面目であり、故に、今日でも徳一大師と尊称致し、尊敬致して止まぬ。
その後、やがて磐梯山慧日寺は、会津四郡を支配し、最盛期には寺領十八万石、子院二千八百坊、僧侶三百人、僧兵数千人を数える程に隆盛を極め繁栄致しました。この慧日寺支配による荘園政治は、武家政治が確立する鎌倉時代以前まで続き、奥州一の会津仏教文化の黄金時代を創り出した」とあった。
芹沼の大山祇神社道標
国道49号を離れ安座川に向かって土径(どみち)に入る。磐越西線が安座川に架かる鉄橋手前、芹沼集落端の田圃に上部が欠けた道標がある。「大山祇神社道標」とのこと。
地図を見ると、大山祇神社への道は、この地より安座川に沿って堀越集落,牧集落へとの進み、牧で中野川筋に乗り換え南に進み中野集落を経て大山祇神社に至る。
で、この地に道標が立ったのは、弘化4年(1847)に、野沢と芹沼を結ぶ新道が、旧来の堀越村を経由するルートをショートカットする形で、芝草の端村新田からこの地に通じ、新道に入らないよう注意を喚起するため。我々はその新道を進むことになるようだ。
◆大山祇神社
第四十九代光仁天皇の御代宝亀九年(西暦七七八年)の勧請とされる。御祭神は大山祇命、岩長比売命、木花咲耶姫命の親娘三神。 大山治水(治産治米)は治山治水(治産治米)、 岩長姫命は健康長寿、 木花咲耶姫命は良縁・子宝安産の神。 「なじょな願いもききなさる野沢の山の神さま」として、 県内外、遠くは越後、出羽一円にまで 厚い信仰がよせられている古き社である。
で、何故にこの社が越後、出羽にまでその信仰が?実際、道標に刻まれた「北越水原」は現在の新潟県阿賀野川市にあった「講中」である。道々でのガイドの先生の軽口に拠れば、これから訪れる野沢宿の「悪所」が楽しみでもあった、とも。
信仰と「現世利益」がセットになったものは散歩の折々に出合う。お酉さまで賑わった足立区の大鷲神社も、祭礼の日に赦されていた賭博が禁止となると、人の流れがピタッと止まったともいう。今回のツアー参加者のひとりが、父親が熱心に大山詣でをしていたが、その実は「悪所」が楽しみでは、といった父親の姿を楽しげに語る姿が、なかなか良かった。
「軽口」はともあれ、大山祇神社参詣が盛んになったのは明治以降との記事も見かけた。明治に入り宮司さんが越後の販促をかけ、そのおかげで講中が増えた、とも。
◆三島神社
この大山祇神社と直接関係はないかもしれないが、大山祇と関係の深い三島神社が福島には多い。全国400社ほどの三島・三嶋神社の本社は、伊予の大山祇神社か、静岡・三島の三嶋大社であろうから、愛媛県に全体の3割近い111社が集中し。次いで静岡県の36社はわかるのだが、この2県に次いで福島県35社(その後は福岡県24社、高知県19社、神奈川県19社と続く)となっている(Wikipedia)。その所以など興味津々ではあるが、寄り道が過ぎてしまうので、このあたりで「思考停止」としておく。
安座川を徒河
磐越西線の鉄橋橋脚の傍を下り安座川に。ここからは川を徒河する。往昔の街道歩きの追体験。用意された長靴に履き替えず、素足で渡河。小石が足裏に当たる刺激が心地よい。
◆安座(あざ)川
「安座」は、「あぐらをかくこと。また、くつろいで座ること」、とか「何もしないで安らかな状態でいること」と言った意味がある。あれこれチェックすると、安座川の上流、安座集落に「弘法の岩屋」があるようだ。由来は、この弘法大師にあるのでは。因みに、弘法大師空海(大師号は没後に授けられたもの)がこの地を訪れたといった記録はないようだ。
小屋田遺跡の敷石住居跡
安座川を渡り、新田集落を経て国道49号を渡り、ふたつに分かれる道を右に向かうと、最初の角に「小屋田遺跡の敷石住居跡」がある。
「小屋田遺跡は阿賀川の河岸段丘上に縄文中期から後期にかけて形成された大集落。東西約300m、南北約320m、7万平米の大遺跡。大小さまざまな川原石が敷き詰められた縄文時代後期の住居(敷石住居)跡で、敷石の中央には円形の石囲炉が数個の礫で作られている。火焔土器など出土している県内の代表的縄文時代遺跡である(「主催者資料」より)」。
堀貫橋跡に
縄文住居跡から北に向かい、野沢の町並みを横切る通りに繋がる道を進み、田沢川に架かる橋(多分、新町橋)を渡る。田沢川とも四岐川とも呼ばれる橋を渡ると直ぐに川に沿って北に折れ、土径を先に進み崖端に。対岸に岩壁が見えるが、往昔、ここに堀貫橋が架かっていたようである。
◆田沢川を渡る街道の変遷
「主催者資料」に拠れば、田沢川を渡る道筋は、3度その渡河点を変えており、最も古くは、本海壇(私注;後ほど訪れる)の脇を通って国道49号傍の「道の駅にしあいづ」の直ぐ北にあった田沢川橋(下条橋)を渡り、芝草に入る(私注;原文を修正。順序が逆?)。天明6年(1786)以降は、常泉寺脇(私注;後ほど訪れる)からこの掘貫橋を渡り芝草に。
弘化4年(1847)以降は、「芹沼の大山祇神社道標」でメモしたように、最短距離のルート。先ほど渡った新町橋の直ぐ川下に欄干付きの新町橋ができ、芝草から新田を通って芹沼に通じた。
本海壇(火防塚)
堀貫橋跡から新町橋に戻り、道を野沢宿の方に少し進み道を右に折れる。しばし南に進み田沢川(四岐川)岸に向かう。川に落ちる崖前の平坦地は「本海壇(火防塚)」とのこと。
その由来は、いつの頃か、本海という行人が祈祷中、失火に寄り野沢宿が全焼。怒った宿場の人々は本海を生き埋めに。しかし、それ以降宿場に火事が頻発。本海の祟りを鎮めるため、本海を火防鎮火の聖として壇を築き祀った、と。広場状となっているのは、供養のための奉納相撲が昭和30年(1955)頃まで行われた、その名残であろうか。
上に田沢川を渡る最も古い街道は、本海壇(火防塚)の先で田沢川橋(下条橋)を渡るとあったが、現在、橋らしきものは見当たらなかった。
化け桜
本海壇(火防塚)から折り返し、野沢の宿に入る最も古い道筋を先に進むと、左手に老巨木が見える。案内には「下条の普賢象桜」とあり、「この樹には白狐が樹幹空洞部に棲息していたと言われ、住民から 「 化け桜 」または「千歳桜」などと称され、今でも広く親しまれています。
ここは、旧越後街道に沿い、行き交う旅人の休み場所であったらしい。この桜は推定樹齢約五百年といわれ、会津でも有数の老巨木です 西会津町教育委員会」との案内があった。
品種はエドヒガンとあるが、案内に「普賢象桜」とあるのは、花の中心に葉が垂れたその形状が、雌しべが花の中央から2本出て細い葉のように葉化している普賢象桜に似ているから、とか。
また、その形状故に、花の中心から「舌」を出しているようにも見られ、自死した宿場女郎が化けたとのエピソードも生まれた。「化け桜」と称される所以である。
桜の形状はともあれ、気になるのは「旧越後街道に沿い」との記述。上で田沢川を渡るルートの最古のものは、下条を通るルートとメモした。天明6年(1786)以前は、このルートを歩いて野沢宿に入ってきたのだろう。
野澤原町宿田沢橋口西門
「化け桜」から更に、旧街道だろう道筋を進む。少し東に進んだ後北に向かい、町並みを貫く大きな通りに出る。そこが「野澤原町宿田沢橋口西門」とのことであった。通りから西を見ると蝉峠山が堂々とその姿を現していた。
●野澤宿の概要
ディテールに入り迷い込む前に、大雑把に野澤宿の概要をまとめておく; 大山祇(おおやまづみ)神社と鳥追観音の門前町でもある西会津町、その町中心部に位置する野澤宿は江戸時代以降、津川宿(新潟県阿賀町)、坂下宿(会津坂下町)とともに、会津・越後街道の三大宿場町として栄えた。
会津からも越後からも山越え・峠を越えた先の小盆地にある野澤宿は古くは湖底であったとされる。WEBにあった「野澤組地理之図(『新編会津風土記』)」にも「ひとり原町本町(私注;野澤宿は野澤原町村、野澤本町村から成る)の四方すこし開けて平地なり東西南に高山連なり、北は揚川流る、(中略)相伝ふ、此地往古揚川の水道塞り、其水数里の外に洋溢して遂に一大湖となり、平衍の村落民業を失ひ、漸々に山稜に登り、各自に家居をなせしが何の頃にか下野尻村の北銚子口(私注;下野尻の少し下流の狭隘の渓谷)と云山隘の口決し、其水大に潰て忽平地となりしとぞ」とある。
鎌倉期には地頭として荒井氏が館を設け、戦国期には芦名氏の支配下となり、16世紀の初め、野澤六人衆による町割りが行われ、江戸に入ると会津街道(越後街道)の宿場町として整備される。会津藩は野澤に代官所や郷蔵を設け、六斎市の開設など地域行政・経済の中心として発展し、前述の如く、津川宿(新潟県阿賀町)、坂下宿(会津坂下町)とともに、会津・越後街道の三大宿場町として栄えたようだ。
この地が地域行政・経済の中心となった因を「妄想」するに、会津・新潟間の往来を困難にする山塊を越えた山間の地、それも1日の行程の地にあるということ、かと。越後・会津の両地域からの物資の中継地として、丁度いいポジショニングであったのだろう。会津からは山の幸、越後からは海の幸の集散地として栄えた、とのことである。また、大山祇神社、鳥追観音・妙法寺の門前町といったこともその因の一端かもしれない。
寛文10年(私注;1670)の家数119軒,人数は男422・女369(万覚書)化政期(私注;文化・文政:1804‐1830)の家数127軒。
文政9年(私注;1826)の大火では寺社2,3を残して全焼。明治4年(私注;1871)の戸数140・人口766(若松県人員録)同8年(1873)野沢本町村・西平分と合併して野沢村となった(『角川地名大辞典』)。
ふるさと自慢館
蝉峠山と反対方向、野澤原町宿の大通りを進み、「ふるさと自慢館」に。ここで少し休憩。米穀店の蔵をリニューアルしたこの施設、江戸時代末期まで熊野権現および愛宕権現の別当荒井家の里修験場・大正(大勝・大昌)院と宿坊・柳屋であった、と。
大山祇神社参拝の先達を務めたとの記事もあったが、鳥追観音・妙法寺とのペアで山岳修験・神仙思想の霊地として大山祇神社が組み入れられたのだろうか。
それはともあれ、ふるさと自慢館の1階、2階に西会津の地形、歴史、会津大地震、戊辰戦争を背景とした大河ドラマ「八重の桜」に関わる八重や山本覚馬、また西の松下村塾に対して東の研幾堂と称され、幕末・明治に有意の人材を輩出した野澤宿の私塾のことなど、会津街道散歩に何の問題意識もなく参加した我が身には、頭を整理する上で誠に役立つ資料が展示されていた。
●西会津の今昔(私注;地形)
◆1600万年前頃、日本列島のほとんどが海。会津では飯豊山など一部が海上に顔を出していた
◆800万年前頃、日本列島は隆起し、会津盆地の西に残った海は、現在の阿賀川筋に沿って新潟の海と繋がり、浅い海となっていた。
◆300万年前頃、会津盆地は沈降し周囲は隆起することにより海は湖水となり、会津盆地と西会津が分断された現在の地形に近いものとなる 。
◆5000年前頃、沼沢火山が噴火し大量の火砕流堆積物(軽石等)が只見川、阿賀川沿いに流下し、銚子の口(私注;西会津町の西端、新潟県境に位置する阿賀川の狭隘の渓谷。野尻の下流)で堰止められ、野澤盆地が湖水となる。水流で粉砕された軽石が厚く堆積し現在の地形面をつくる。平安末期から鎌倉初期にも銚子の口が地滑りで堰止められ沼泥化したようだ。
●西会津の歴史(NHK大河ドラマ『天地人』の時代から明治まで)
◆芦名盛氏の頃(16世紀後半);大槻太郎左衛門の乱
天正6年(1578)2月 会津守護の蘆名盛氏(葦、芦)の家臣で野沢村の地頭であった大槻太郎左衛門政通(大槻城・現、野澤山返照寺、のちに荒井館、現野澤小学校に移住)は、越後の上杉謙信に内応し、芦名氏に反旗を翻し、片門村に出陣。只見川沿いで戦うが討死。
只見川以西の地頭の多くは大槻に従うも、天屋村の溝田氏は芦名に与し、恩賞として下野尻村を賜る。茅本村(私注;野澤村の北、長谷川右岸)に上方より渡辺中務、更に足利尊氏の一族山口貞景が森野村(私注;茅本村と長谷川の間)の地頭として赴任。
芦名氏は織田信長への使者として野澤村地頭・荒井満五郎・新兵衛親子を任じ、貢物を献上。
◆上杉謙信の死去;御館の乱・天正6年(1578)3月
謙信没後、家督を巡る上杉家の内紛(御館の乱)に芦名氏も、「混乱に乗じて、五泉市辺りまで出兵。野澤からも芦名氏傘下で大槻、矢部、石川氏が出陣。
◆会津領主の交替;摺上原の戦い 天正17年(1589)
芦名氏を破り伊達氏が黒川(会津若松城)に入城。領内統治をはかるため野澤大槻城に菅信濃・荒川近江を置くが、野澤の自治は野澤政所・伊藤伊勢、野澤内郷組郷頭・橋谷田又兵衛らの活躍で守られる。
◆上杉景勝の会津統治;慶長3年(1598)
蒲生氏郷が90万国の大名として会津に移った後、上杉景勝が120万石で会津に転封。領内統治のため、西会津には満願寺勧右衛門を派遣し、野澤に万(満)願寺屋敷(元東北電力)と野沢町・直右衛門屋敷(現存、高梨直七)とを置く。 関ヶ原後、石田光成の一族は野澤本町村に移り、石川と改める。上杉の家臣斎藤下野守朝信や小島弥太郎の子孫も野澤本町村に住む。
◆慶長の大地震;慶長16年(1611)
慶長の大地震(M6.8)が会津を襲い、西会津でも鳥追観音堂が崩壊し、程窪・泥浮山・小杉山等に新沼が生まれる(私注;縄沢から南に下る走沢川筋。現在も地図に沼が残る)。芹沼村にも大沼(私注;現在も残る)が生まれた。
一方、会津地方の大動脈である阿賀川も塞き止められ、舟運や越後街道が変更される中、交通の要衝として西会津の政治的経済的位置づけが重要性を増してくる。
◆江戸末期・明治維新
江戸末期に西会津から多くの逸材が登場する。
渡部思斎:私塾「研幾堂」塾頭。野澤小学校、明晋学校校長(渡辺中務子孫)。 同長男鼎;野口英世の恩師(私注;野口英世の左手を手術し、その後彼を書生として指導)。渡辺中務子孫)。
山口千代作;自由民権家。福島県議会議長・衆議議員(山口貞景子孫)。
同妻[旧姓斎藤]志具、自由民権家。貢の母。私塾「三顧堂」運営(斎藤朝信子孫)。
小島 忠八;自由民権運動家。福島県議会議員・野沢町長(小島弥太郎子孫)。 石川暎作;『国富論』翻訳。婦人束髪運動(石田三成子孫)。
野澤?一 ;山本覚馬の日本再 建の建白書「管見」 を口述筆記した法律家(私注;写真不鮮明で説明文は原文ではない)。
□西会津の歴史に、人名が太字となっている箇所があったのだが、この江戸・明治維新に登場する人物の先祖であることをわかりやすく示したものだろう。 なお、同「ふるさと自慢館」には研幾堂から登場した逸材に関する誠に詳しい解説があったのだが、不勉強な我が身には、いまひとつリアリティが感じられず詳細なメモはパス。また、八重の桜の八重さん、山本覚馬の解説もあったのだが、写真ピンボケのためメモできず。
●会津大地震
上にメモした「西会津の歴史」の中で「慶長の大地震」とあった「会津大地震」についても、詳しい説明があったので、以下メモする。写真ピンボケのため概要をWikipediaなどで補足しながらまとめる;
◆慶長の会津大地震とは
慶長16年(1611)、西会津町と隣の柳津町の境にある“飯谷山”を震源とするマグニチュード6.9規模の地震発生。被害は会津一円に及び倒壊家屋は2万戸余り。会津のお城や、西会津の鳥追観音・如法寺などの神社仏閣にも大きな被害が出た。死者は3,700人に上った。
また各地で地すべりや山崩れが発生し、特に喜多方市慶徳町山科付近では、大規模な土砂災害が発生して阿賀川(揚川・会津川)が堰き止められたため、東西約4-5km、南北約2-4km、面積10-16km2におよぶ山崎新湖が誕生し、最多で23もの集落が浸水した。
その後も山崎湖は水位が上がり続けたが、蒲生家家臣・岡半兵衛を中心に、河道バイパスを設置する復旧工事(現在は治水工事により三日月湖化している部分に排水)により3日目あたりから徐々に水が引き始めた。しかしその後の大水害もあり山崎湖が完全に消滅するには34年(一説では55年)の歳月を要し、そのため移転を余儀なくされた集落も数多い。
旧越後街道の一部が山崎新湖により水没し、さらに勝負沢峠付近(会津坂下町北部・雷電山付近)が土砂崩れにより不通となり、越後街道は現・会津坂下町内・鐘撞堂峠経由に変更され、現在の国道49号線の原型ができあがる。
◆西会津地域の被害
西会津における大地震の影響の最大のことは、野澤平(野澤盆地)が牛沼(湖沼)化したこと。湖沼の縁には四岐船場・綱沢(舟繋沢)舟場が設けられ、旧越後街道のルートが、山側や台地に変更され、野澤原町、野澤本町の原型が形成され始めた。
個々の村落については、山崩れ、崩壊、土砂崩れによる湖沼化など多くの集落で甚大な被害が生じる。被害のため村落の移転も起きている。また芹沼村には大沼・小沼が誕生した。
◆大地震の復旧・復興工事
復興事業の責任者は前述の蒲生家仕置奉行筆頭・岡半兵衛(重政)。野沢郷を含む津川狐戻城三万六千石領主であった半兵衛は倒壊した鳥追観音など神社・仏閣の復興、「水抜き工事を行う(注;この部分追加)」。野澤の大沼弥次右衛門に命じ商業復興・鉱山開発に取り組ませ、野澤六歳市を興す。
岡氏は藩政や地震復興方針を巡り、正室(家康の三女)や重臣と対立。蟄居の末、駿府にて切腹となる。岡氏の妻は石田三成の次女であった。
■ちょっと疑問
「ふるさと自慢館」の展示により、「主催者資料」の行間は相当埋まったのだが、ひとつだけ疑問が残る。それは、野澤盆地が湖沼化されたことはわかるのだが、その時期が何時まで続き、いつの頃野澤原町村、野澤本町村の原型ができたのだろう?ということ。
上記展示資料で、5000年前頃に湖沼化し、芦名氏の頃、大槻太郎左衛門が野澤村の地頭とあるので,16世紀後半には「陸地化」されていたことはわかる。が、その間が飛び過ぎてよくわからない。
なにか手がかりは?と、事務局から頂いた資料に天台座主慈円の句として「東路の 野澤のかつみ 今日ばかり 菖蒲の名をも 借りててるかな」とあり、その下に牛沼(野澤潟)から苦水川の掘削・街の建設という記事があった。
その関連についての説明は聞き漏らしたのだろうが、慈円の家集『拾玉集』に収められたこの句は、いかにも湖沼の景観を感じる。『拾玉集』には「のざはがた雨ややはれて露おもみ軒によそなる花あやめかな」との句もある、という。
ということは、慈円は1155年誕生、1225年没であるから、12世紀後半、平安末期から鎌倉初期の頃までは、野澤盆地は未だ湖沼地帯であったと推察できる。
◆野澤潟が陸化した時期は?
では次に、いつの頃「陸化」したのか?ということだが、「主催者資料」には野澤六人衆の記載がある。上記野澤宿の概要で「16世紀の初め、野澤六人衆による町割りが行われ」としたが、もう少々のエビデンスが欲しい。で、あれこれチェック。
と、JapanKnowledgeというサイトの「歴史地名もうひとつの読み方」の「野沢」の項に、「野沢熊野神社の縁起書によれば野沢原町村の草分け六家によって文亀―大永年中(1501‐28)頃までに現街区の原形となる町割が行われ」といった記事が見つかった。
同解説には「野沢が水底にあった期間は最長で9世紀から16世紀まで」といった、湖沼であった時期に関し、「ふるさと自慢館」の解説との齟齬はあるものの、陸地化した時期は熊野神社縁起と齟齬は生じない。野澤の陸地化は16世紀の初め頃なされたのだろう。
その後慶長の大地震による液状化現象により野澤平(野澤盆地)が牛沼(湖沼)化するも、復興事業の結果、野澤原町宿が形成され、野澤本町村と相共に、野澤宿となって会津街道の三大宿のひとつとして繁栄することになる。
◆牛沼
ついでのことながら、ここに「牛」とあるのは、必ずしも動物の牛に限ることはないかと思う。牛沼という地名は全国に散見されるが、東京都下あきるの市をさまよった時、「郷土あれこれ(あきるの市)」には、「牛はウシ>ウス>薄い色>浅い色>浅い沼」といった説明があった。野澤の場合も、湖の口が決壊し、水が引いた後の浅い沼・湿地ということではないだろか。
メモを始めると、常の如く、あれこれ疑問が生じ、結構長くなってしまった。野澤宿の途中で、少々中途半端ではあるが、今回は「ふるさと自慢館」で終え、その先は次回に廻す。
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