下坂場峠と鶸田峠を越えてみたいと思ったのは数年前のことになる。久万の町にある四国霊場第四十四番札所・大宝寺や第四十五番札所・岩屋寺を辿ったとき、これら久万の札所に入るにはいくつかの峠越えの遍路道があり、そのひとつが、下坂場峠と鶸田峠の遍路道であることを知った。
早速遍路道を辿り峠越えと思ったのだが、久万の前の札所は西予市宇和町にある明石寺であり、この間の距離は80キロ弱もある。卯之町、大洲、内子の町へと北に進み、内子の町を越えた後、東から流れ込む小田川筋の谷に入り、北から小田川に流れ込む田渡川の谷筋を進んだ後、これらの峠を越えて久万の町に入る。谷筋にバスなどを利用した段取りのいいルーティングは望むべくもない。
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「ピストン」行では時間は倍かかるが、足の便・宿泊の心配はない。今回の峠越えもピストンでの折り返しと決めてルーティング。当初峠越えは結構長い距離を進むことになるだろうと思っていたのだが、Street Viewでチェックすると、舗装された林道が両峠近くまで続いており、峠越えのピストンはそれほど大変ではなさそう。両峠越えに2時間もみておけば充分。朝早く出れば日帰りでもふたつの峠を越えることができそうだ。
こうなれば少し欲が出てきた。田舎の新居浜の家から90キロほど車を走るわけで、2時間の峠越えだけではもったいないと、急遽、これまた常の遍路歩きと同じく、「えひめの記憶;愛媛県生涯学習センター」を参考に遍路道標をチェックしながら進むことにした。
このルーティングを日帰りでカバーするため、スタート地点は、田舎の新居浜市からの往路2時間ほどの時間も考慮し、第四十三番札所・明石寺から北に向かった遍路道が、内子の町を越え小田川筋を東へと向かう辺り、国道56号から分かれた国道380号〈379号;内子町吉野川まで重複〉が小田川の谷筋へと進む地点とする。第四十三番札所・明石寺から久万の札所までの長い遍路道のおおよそ中間点である。
このルーティングで、数年来気になっていた峠を越え、道標もすべて確認し、夕刻暗くなる前に家には着いた。「ピストン」行でと性根を決めれば四国の山間地峠越えも、怖いものなし、かと。
本日のルート;石浦バス停>下和田の石仏>中和田の石仏>大瀬の徳右衛門道標>十郎神社>石積の徳右衛門道標>川登の大師堂>路木の大師堂>梅津の大師堂>突合の道標>へんろ小屋>吉野川大組の道標>新田神社の徳右衛門道標>中田渡大師堂>中田渡の道標>上田渡の道標>上田渡の薬師堂>落合の大師堂と道標>県道42号に>倉谷の徳右衛門道標>畦々の道標>上畦々の大師堂と徳右衛門道標
■下坂場峠に■
土径に>土径の道標>下坂場峠久万高原町に>葛城神社下の道標>葛城神社脇の大師堂>森田大師堂の道標>福城寺参道口の道標>鶸田峠登り口に
■鶸田峠に■
由良野の衛門道標>町道に交差>>だんじり岩>鶸田峠>町道と交差>地蔵尊 >久万高原町との道を繋ぐ
石浦バス停

●内子市内からの遍路道
第四十三番札所から卯之町、鳥坂峠を越え大洲と進んだ遍路道は、十夜ヶ橋から肱川の支流・矢落川に沿って東に向かい、予讃線五十崎駅辺りの黒内坊から北、内子運動公園へと進み、廿日市、六日市、護国と内子の街中を通る。内子の街並みを外れた遍路道は国道56号井を越え、中山川を渡り、水戸森に入り、水戸森峠を下り、この地に出る。
長岡山トンネル手前から旧国道に
大きく北に蛇行する小田川に沿って走ると長岡トンネルが見える。トンネル手前から国道から離れ蛇行する川に沿って進む旧国道が通る。旧道がいつの頃建設されたものか不明だが、道筋にある真弓峠の隧道が通ったのが昭和11年(1936)であるから、それ以前だろう。その旧国道が小田川に沿って道が建設されるに従い、それまで山中を進んでいた遍路道も川沿いの旧国道を進むようになった、とのことである(「えひめの記憶」)。
「えひめの記憶」に拠れば、前述水戸森峠から小田川筋に下った遍路道は、「直進して小田川対岸の長前に渡り、小田川を再度渡った後、国道を横切り山中を抜けていたという。かつての遍路道は、このように川に面した急傾斜地では、見通しがきく安全な山の中腹や尾根道を通っていたが、国道開通とともに遍路道は次第に川沿いの道に移り、以前の遍路道は消滅して山林や草道の中に昔の面影を残すだけとなっている」とある。
●下和田の石仏
和田トンネル手前から旧国道に
長岡トンネルの東口で国道に戻り、東に進むと中和田(内子町五百木)の和田トンネルが見える。その手前から川に沿って進む旧国道が見える。
●中和田の石仏
大瀬
旧国道はトンネル東口で国道に合わさり、東に進むが掛木集落から左に折れて旧国道を進み大瀬の町(内子町大瀬中央)に入る。
●大瀬の徳右衛門道標
◆徳右衛門道標
徳右衛門こと武田徳右衛門は越智郡朝倉村(現在の今治市)、今治平野の内陸部の庄屋の家系に生まれる。天明元年(1781)から寛政四年(1792)までの十一年間に、愛児一男四女を次々と失い、ひとり残った娘のためにも弘法大師の慈悲にすがるべし、との僧の勧めもあり、四国遍路の旅にでる。
その遍路旅は年に3回、10年間続いた。で、遍路旅をする中で、「道しるべ」の必要性を感じ、次の札所までの里数を刻んだ丁石建立を思い立ち、寛政6年(1794)に四国八十八ヶ所丁石建立を発願し、文化4年(1807)に成就した。その数は102基に及ぶとのことである(「えひめの記憶」を参考に概要をまとめる)。 因みに、幾多の遍路道標を建てた人物としては、この武田徳右衛門のほか、江戸時代の大坂寺嶋(現大阪市西区)の真念、明治・大正時代の周防国椋野(むくの)村(現山口県久賀町)の中務茂兵衛が知られる。四国では真念道標は 三十三基、茂兵衛道標は二百三十基余りが確認されている。
●大江健三郎氏の生家
十郎神社
●乙成に伝わる曽我伝説
案内には「幼い時(兄5才弟3才)に父を討たれ数奇な運命を生きた曽我十郎五郎の兄弟の仇討ちは日本三大仇討ちの一つとして有名である。
領地争いのため、伯父工藤祐経に父河津三郎祐泰を殺された兄弟が満22才になった1193年富士の裾野で巻き狩りをする御陣へニ人だけで忍び込み、仇の工藤を見事に討つ事ができた。しかし、その直後多数の家来に囲まれ勇敢に戦ったものの討死した。
曾我十郎の家来だった宇和島出身の鬼王は主人の首を故郷へ持ち帰り弔ろうとしたが、瀬戸内海を渡る時、しけに会い上灘(双海町)に漂着し中山町、程内を通って乙成(此処椎ノ木駄場)まで来た。しかし追っ手が伸びまた首も痛み臭いを放し出したため持ち帰る事をあきらめ、この地へ首を埋め石を積み塚を作った。
塚石の表には「曽我十郎祐成首塚」裏には「建久四年癸丑五月二十八日於富士野御狩場殺父之敵工藤祐成経于時以公命仁田四郎忠常討つ之臣宇和島産鬼王者持帰其首埋于此」と記されている。乙成地区住民は先祖よりこの曽我十郎神社をお祀りし地域の文化遺産として守っている。
また首塚という事で首から上の病はお祈りすれば治ると伝えられ、信者も多くそのお礼に小さな鳥居が多数奉納されている。平成四年四月吉日日 乙成地区 曽我十郎神社を守る会」とあった。
いつだったか、東海道箱根越え(東坂、西坂)の折、曾我兄弟の墓に出合った。曾我兄弟の墓は全国に14か所もあるというので、それはそれとしていいのだが、神社名が十郎神社と言い切り、「五郎」が登場しないのは何故だろう。上の伝承では十郎の家来の鬼王が「主人の首」を、とあるので、首塚は十郎だけであったため、であろうか。ともあれ、伝説は伝説として置くべし、か。
◆虎御前の涙雨・五郎十郎の涙雨
「えひめの記憶」には「五月二八日に降る雨を「虎が雨」「虎御前の涙雨」といっている。
この日、曽我十郎祐成が富士の裾野で仇討の本懐を遂げ、討死した。それを十郎の愛人である大磯の虎御前が悲しんで流した涙が雨になったのだというのである。
伊予郡中山町や北宇和郡では「虎御前の涙雨」、喜多郡長浜町や東宇和郡では「曽我兄弟の涙雨」といっており、喜多郡肱川町では「五郎十郎の涙雨」といい、この日は大なり小なりの雨が降るものと信じている。ともかくこの日は仕事を休んで雨を待望するむきがあるが、本県では、南予地域にのみある伝承である。 『大洲旧記』大瀬村の条に曽我五郎十郎首塚のことが見え、「五月二十八日には、其塚より霊出て雨ふり出し、此国中雨ふらずと言事なし。当年より十年程は雨降らずとも有」とある。五郎十郎の話がこの地に「根付いた」経緯などを知りたいものである。
石積の徳右衛門道標
川登の大師堂
路木の大師堂
梅津の大師堂

「えひめの記憶」には「石浦を出てほぼ12kmほどである。この間遍路道はほぼ一筋のためか、道標は徳右衛門道標2基のみである。ただ、道の左側の山肌には多くの石仏等が見られ、昔ながらの遍路道の名残をうかがわせる。
また、この間の道は谷あいの道で、明石寺から大宝寺までの長い道程では、行きなずむ遍路も多かったに違いない。そのためか、道に沿って遍路が宿泊したり、接待を受けたりしたという大師堂などの堂宇や遍路宿やその跡が目立つ。実際新谷(私注;大洲の遍路道要衝のひとつ)を過ぎると、かつては多くの遍路がこの山深い谷あいの地で宿をとっている。
古川古松軒は、この大瀬谷の地で遍路同士が虱(しらみ)狩りをして寄せ集めたところ1合(約180cc)ほどになったと当時の厳しい遍路行の一端を書きとめている。小林雨峯は、「渓流(けいりう)に沿(そ)ふて登(のぼ)り、また渓流(けいりう)に沿(そ)ふて降(くだ)る。眼(め)は飽(あ)くことを知らざれども、脚(あし)は疲(つか)れてヘトヘト」となったところで善根宿の誘いを受け、「食前佛前(しょくぜんぶつぜん)に讀經(とくきやう)し、一家(か)の衆(しう)と膳(ぜん)に就(つ)く、食後近隣(しょくごきんりん)の小児老幼(せうじろうえう)を集(あつ)めて談話(だんわ)す15)」と、大瀬谷一帯における善根宿の様子の一端を記している」とある。
突合(つきあわせ)の道標
●上坂場峠・鶸田峠越と真弓峠・農祖峠越ルートの分岐点
この地が遍路道のルート分岐点。左に国道379号に沿って北上すると下坂場峠、鶸田峠を越えて久万に向かう道、右に小田川に沿って国道380号を進むと真弓峠、農祖峠を越えて久万に向かう道となる。
●郡を越えた合併
突合の手前あたりはかつて喜多郡内子町と上浮穴郡小田町の境であった。現在は喜多郡内子町、五十崎町と合併し喜多郡内子町となっている。郡を越えた合併である。
郡を越えた合併の要因はいくつもあるようだが、峠フリークのわが身には、その要因のひとつに挙げられる真弓峠の存在にフックが掛る。現在は新真弓トンネルが通り、スムースな往来が可能となっているが、かつては険阻な峠により久万との交通が不便であったようだ。
新真弓トンネルの開通が昭和63年(1988)、平成の大合併による内子町への対等合併は2005年(平成17)であるから、交通の問題は解決しているわけで、平成15年(2003)の住民投票により内子町合併の流れができたようである。
へんろ小屋
この「へんろ小屋」は、内子市内ということでなく、四国四県にあり、平成28年(2016)4月現在で55のへんろ小屋が整備されている。地元の信用金庫や篤志家、企業の寄付でできているとのことである。寝袋の宿泊とはなるだろうが、お遍路さんには大きな助けとなるかと思う。
吉野川大組の道標
●大組
大組って何?「えひめの記憶 面河村」の項に「「組」あるいは「惣」は、南北朝時代(一三三六~一三九二)から始まった農村社会の自治組織である。「伯方の六軒株」とか、「草分(くさわけ)七軒」などといわれたものがその部落の起こりで、ある地域に住みついた同族が、共同生活を行っていたのであろう。やがて、他の人々が移り住み、「組」とか、「惣」という自治的な単位が、できたのであろう。
共同作業の場として「五人寄合」「惣持山」など、その名のとおり、一つのグループ又は組の所有の山畑があった。特に住居の屋根をふく「萱だば」は、組の惣持山であり、各組が所有、管理していた。
藩政時代には、庄屋・組頭・五人組などの村役人があり、明治時代になって、小組に伍長又は組長、大組に大組長又は総代があり、大組長は集落の選挙で選ばれ、大組の代表者であると同時に、自動的に村の行政的な役割を果たせられ、役揚と住民のたいせつな中間的な存在であった。
小組の中では、それぞれの関係の道路・家普請・橋梁・葬式などの共同助け合い作業、神社はもちろんのこと、学校までも、集落の共有として管理した。こうした作業は、集落全員、又は各戸回りで、出歩・内役といって、小組又は大組内の自治を円滑に行った。
こうした公共の作業以外に、個人の災害・不祥の事がらについても、そのことの大小に応じて小組又は大組は、人情味あふれる相互扶助の精神で苦難をともにしたものである。
大組長は部落の顔役、代表者であり、時には、部落の利益代表として、あるいは、役場の行政上のこまごました事から、協力・伝達者・特に税金の取立てなど、大きな仕事をつかさどった」とあった。
新田神社の徳右衛門道標
大洲領大瀬村?大瀬村は大洲領。では、この小田町一帯は?この一帯も大洲藩領であった。上に小田町が中予の上浮穴郡から郡を越えて南予の喜多郡内子町と合併したといったが、歴史的にみても大洲・内子との繋がりが強かったのも大きな要因か、とも。
●中田渡の大師堂
◆新田神社
新田八幡神社は、新田義宗(よしむね)を祀る、と伝わる。南北朝の時代(1336~92年)、南朝の忠臣新田義貞(よしさだ)の三男である。上野沼田荘で戦死とのことであるが、異説もあり、再起を図り四国に逃れ、越智郡の大島や、宇和地方や、大洲、内子方面、小田川の北の方を経て、ここ中田渡に落ち延びてきた、と。
中田渡の道標
上田渡の道標
上田渡の薬師堂
落合の大師堂と道標
国道379号の左岸から右岸へと移り、しばらく走ると左に入る旧国道がある。旧国道に入るも、入口あたりが荒れており国道に引き返し、隧道を抜けたところに旧国道の合流点がある。
落合は文字通り、北から下る玉谷川と田渡川(臼杵川とも)が落ち合う箇所である。この大師堂のある田渡川の右岸はかつての広田村、現在は伊予郡砥部町となっている。
県道42号に
倉谷の徳右衛門道標
三嶋神社と厄除大師
社の少し先には道の左手に厄除大師が建っていた。
畦々(うねうね)の道標
左に折れ舗装が切れる箇所まで車で進むことにする。Google Street Viewで土径になる境までチェックでき、行き止まりに車を停めるスペースがあることも確認できた。
上畦々の大師堂と徳右衛門道標
土径に
土径入口には「鶸田 下坂場近道」「大宝寺 7,8粁(キロ)」と刻まれた石碑が立つ。篤志家の寄進により立てられたもの。近年のものである。
土径の道標
下坂場峠
峠といっても県道が通り、見通しも効かず、早々に来た道を戻り車デポ地に。最初の峠は直前まで車で入れたこともあり、ピストンも苦ではなかった。
■久万高原町に■
葛城神社下の道標
葛城神社脇の大師堂
●葛城神社
隋神門,本殿、拝殿ともに誠に立派な構え。本殿向拝、木鼻の彫り物も凝っている。歴史も古く,由緒では天武天皇の頃,国司小千玉興が大和葛城山より役小角を迎え、饒速日命を祀っていた社に一言主命を祀った,と。
何故にこの山間の地に?は現代の視点からもの、か。久万の札所大宝寺、岩屋寺の立派な構えを想い起こすにつけ、今は山間のこの地も、かつては南予と中予、そして土佐を繋ぐ往還道であったかと妄想する。
森田大師堂の道標
「えひめの記憶」には「以前の遍路道は、葛城橋より少し上流で右折して二名川を渡ってから大師堂の正面に至り、その裏で左折したらしいが、この道は寸断されている」とある。その道筋にあった道標をこの場所に集めたのだろか。単なる妄想。根拠なし。
福城寺参道口の道標
鶸田峠登り口に
道は鶸田峠を迂回し久万の町まで続いているが、これ以上車で進めそうもない。近くのスペースに車をデポし鶸田峠に向かうことに。
由良野の徳衛門道標
町道に交差
だんじり岩
「えひめの記憶」に拠れば、祠は大師堂、前に立つ3基の石碑は「願ほどきの碑」、とのこと。その碑文の一つに、「寅之年之男 ヒフ病ニテ此処ノオ大師様ニオタノモシタラオカゲデナオリマシタオ願ホドキニコレオタテマス 昭和三年建之」とある。他の碑には、「胃腸病平癒」「諸願成就 胃癌」などと刻まれている」とのことである。
鶸田峠
平坦な地には石碑と船形石仏が立つ。石碑には「奉納 四国四十度大願成就」などと刻まれる。「えひめの記憶」には、峠には道標があり菅生山まで33丁を示している」とあるが、この石碑が道標なのだろうか。
案内には、「鶸田峠 この峠は標高約800 mに位置し(久万町役場は約500m)古くは二名地区と久万地区を結ぶ主街道として賑わった所で、昭和30年頃まではこの場所に茶屋があり行き交う人々が一休みしたそうです。
「鶸田峠」の名は一説には弘法大師が八十八カ所開基の折、大洲からずっと雨続きでこの峠でやっと晴れ「日和(ひより)だ」と言ったのが訛って「鶸田」となったと伝えられています」とあった。
●八十八カ所霊場
「えひめの記憶」に拠れば、現在我々が辿る四国霊場八十八ヶ所は貞亭4年(1687)真念によって書かれた「四国邊路道指南」によるところが多い、とか。「四国邊路道指南」は、空海の霊場を巡ることすること二十余回に及んだと伝わる高野の僧・真念によって四国霊場八十八ヶ所の全容をまとめた、一般庶民向けのガイドブックといったものである。霊場の番号付けも行い順序も決めた。ご詠歌もつくり、四国遍路八十八ヶ所の霊場を完成したとのことである。
遍路そのものの数は江戸時代に入ってもまだわずかであり、一般庶民の遍路の数は、僧侶の遍路を越えるものではなかったようだが、江戸時代の中期、17世紀後半から18世紀初頭にかけての元禄年間(1688~1704)前後から民衆の生活も余裕が出始め、娯楽を兼ねた社寺参詣が盛んになり、それにともない、四国遍路もまた一般庶民が辿るようになった、と言われる。
町道と交差
地蔵尊
久万高原町との道を繋ぐ
ここから同じ道をピストンで折り返し、13時過ぎにデポ地に戻る。
これで本日の予定は終了。峠越えも呆気なく,今ひとつ歩いた感がない。これはもう,久万の札所へのもう一つの峠越えのルート,真弓峠から農祖峠越えを歩くべし、との想いを抱き一路家路へと。