火曜日, 3月 07, 2017

土佐 四万十川と片峠散歩 そのⅠ;四万十川支流・本流の源流点と窪川盆地の片峠を辿る

恒例の田舎帰省の折、時間を見つけて高知の窪川盆地まで足を延ばすことにした。きっかけは、偶々図書館で見つけた『誰でも行ける意外な水源 不思議な分水;堀淳一(東京書籍)』。そこに「海に背を向けて流れる川 四万十川の奇妙なはじまり(高知県高岡郡窪川町・中土佐町)」という記事があり、「四万十川は奇妙な川である。その最東部の支流である東又川は、土佐湾の岸からたった二キロしか離れていない地点からはじまっているのに、海にすぐ入らず、海に背を向けてえんえんと西へ流れる。また、最西部の支流三間川も海からわずか三キロの地点からはじまるが、これも海も海に背を向け本流に向かい、更に南西部の支流中筋川も、海から四キロの地点からはじまるも、同じく海と反対に流れ本流に合わさる」、といった説明があり、続いて「四万十川の流域は北の山岳地帯を無視して単純化して言えば、毛布をすっぽり掛けたコタツやぐらのような形をしており、川は海に流入する一か所を除いて、やぐらの縁ぎりぎりのところからはじまりながらあやうく下に落ちずに、海に入る直前までその上面を流れ切っている」、と書く。言い得て妙な表現だ。
Google Earthで作成
地図で確認すると、東又川は西に下り途中仁井田川と合わさり、土讃線窪川駅の北で、不入山(いらずやま)の源流点から南に下ってきた四万十川(幹線流路のひとつ松葉川)と合流し、西に大きく半円を描き太平洋に注ぐ。四万十川の全長は196キロと言われるが、この合流点から先だけでも80キロ弱あるだろうか。

多くの支流のひとつとは言いながら、四万十川の源流が、太平洋から二キロのところから始まるとは、想像もしていなかった。てっきり山間部を流れ下ると思い込んでいたので少々驚きもした。

また同時に、同書には「ループ線のある片峠 家地川と羽立川の源流(高知県高岡郡窪川町・幡多郡佐賀町)」の記事もあり、家地川と羽立川が四万十川に注ぐすぐ南が四万十川水系と伊与木川(土佐湾に注ぐ)の分水界であり、そこは急峻な片峠となっているとのこと。東又川の南も同じく急傾斜の片峠となっていると同書にある。
片峠自体は、河川争奪のドラマでもない限り、それほど興をそそるものではないのだが(中山道の碓井峠、東海道の鈴鹿峠、愛媛の三坂峠も片峠だった)、四万十川中流域の窪川盆地はこのふたつに限らず、急な傾斜を上り切った峠の先は平坦地となる片峠に「囲まれている」ようだ。それはそれで面白い地形かと思える。

同書を読み、「海に背を向けて」流れはじめる東又川・三間川・中筋川の源流点を訪ねようか、はたまた東又川と窪川盆地を「囲む」いくつもの片峠を辿ろうかと少々悩む。
で、結局支流の源流点を辿る散歩は次回にまわし後者を選んだ。「海に背を向けて流れ始める」四万十川支流の源流点を辿るに際し、まずは四万十川本流(正確には松葉川は四万十川水系の幹線源流のひとつではあるが)の源流点を見ておこうとの想い故。その源流点は窪川盆地の北、不入山山麓・標高1200mほどの山間部ではあるが、登山口まで林道が通り車で進め、そこから20分ほど歩けば源流点とのこと。一泊二日の予定を組めば、東又川、片峠を辿った帰途、源流点をカバー出来そうである。
2月とは言え源流点の標高は高く路面凍結が心配ではあるが、そこは出たとこ勝負。常の如く、成り行き任せで土佐に向かうことにした。


本日のルート;高岡郡久中土佐町久礼>七子峠:最初の片峠>仁井田川を越える;高岡郡四万十町>替坂本で県道326に乗り換える>>志和峰神社に車デポ>東又川源流域>志和の片峠;二つ目の片峠>志和川の谷に>家地川分水界の片峠;三つ目の片峠>土佐くろしお鉄道・川奥信号場>羽立川分水界の片峠;四つ目の片峠>佐賀取水堰・家地川堰堤>土佐くろしお鉄道・若井駅>興津峠;五番目の片峠>国民宿舎・土佐

高知県高岡郡中土佐町久礼
田舎の愛媛県新居浜市から目的地である東又川のある高知県高岡郡四万十町(上述書籍にある窪川町は合併し現在は四万十町)まで142キロほど。車で3時間半ほどかかるため、実家を5時半頃に出る。
瀬戸内に面する新居浜市から四国山地を3時間ほど走り、土佐湾に面する須崎市をへて高岡郡中土佐町久礼に到着。窪川盆地、というか、別名高南台地の片峠に向け国道56号を上ってゆくことになる。
久礼
久礼の町は漁港であるとともに、四万十流域の木材などを運ぶ港町であったようだ。地名の由来に建築・舟用の板材である「くれ」から、との説もある。もっとも、二本各地にある「くれ」の由来には、この板材のくれ以外に、「九嶺」の連なるとの説、崩(くれ)=崩れやすい崖地など諸説あり、例によって定まることなし。「呉」も同様の意味と言う。
高岡郡
高岡の地名は、土佐市にある四国霊場札所33番・青龍寺付近の丘陵に拠る、と。明治の頃は現在の土佐市も高岡郡であった。

① 七子峠;最初の片峠
久礼の町は標高9mほどか。そこから土佐湾に注ぐ大阪谷川の刻むV字谷に沿って6キロほど、久礼と名付けられたトンネルが抜ける「久礼坂」を上り切ると標高293mの七子峠に。峠の先は平坦な地が開ける。
土讃線も久礼の駅から窪川盆地上にある影野駅(標高252m)まで、10キロほどの間に24ほどのトンネルがある。急な斜面を等高線に極力抗わず、等高線に沿って大きく迂回しながら、突き出た支尾根をトンネルで穿ち上ってきている。ことほど左様に、峠を境に急峻な坂と平坦地となっている。典型的な「片峠」と言っていいだろう。窪川盆地には片峠を上り入るとあるが、文字で見てもわからなかったが、十分に実感できた。また、窪川盆地というより、別名の高南台地の呼称がしっくりする。
七子峠の由来は、峠から先の窪川盆地にある仁井田七郷の七郷が転化したとか、峠に七戸の茶店があったからとか、諸説あるようだ。
片峠
通常峠とは、山稜鞍部の峠を境に左右が上り・下りとなっているのだが、片峠とは峠を境に片方が急な傾斜であるが、もう一方は平坦な地となっている峠のこと。片峠って、河川争奪のドラマでもない限り、それほど珍しいものではないだろう。中山道を歩いたときの碓井峠、旧東海道を歩いたときの鈴鹿峠も今から思えば、典型的な片峠であった。
河川争奪でもあればいいのだが、それがなければ、片峠と台地や丘陵端とどこが違う?よくわからないが、誰かが「峠」と名付けたかどうかが、その「分水界」だろうか。

「峠」という文字は漢字ではなく日本でつくられた国字(和製漢字)。「山の上下」とは言い得て妙な造語である。中国では「嶺」に相当するようだ。
古来、峠のことは「坂」と称されていたと、どこかで読んだ記憶がある。坂がどのような経緯で「峠」と成ったか不詳だが、峠の由来に、かつて自然の地形が行政区域で会った頃、峠は異郷との結界であり、異郷での無事を祈る>手向け(たむけ=手を合わせ無事を祈った)たことによるとの説がある。もっとも、「たお=湾曲した地;鞍部」を「越える」から、との説もあり、諸説あり由来定まることなし、ではある。

仁井田川を越える;高岡郡四万十町

四万十川水系の分水界をなす七子峠を境に行政区域も高岡郡四万十町に変わる。平坦地を少し進む国道56号は四万十川水系の仁井田川を越える。
地区名は床鍋。地名の由来は、弘法大師が久礼坂の北、長沢の谷に独鈷を投げたことから「独鈷投げ>とこなげ>とこなべ」とか、この地の開拓者の故郷の地名といった説もあるが、床=川床のような石の多い地、なべ=なみ>並ぶ・続く、といったことから、石の多い土地といったところが妥当ではなかろうか。 実際、仁井田も「新田(にえた);新たな田=開墾地」といった意味のようであるから、ストーリーとしては落ち着きがいい。
仁井田川
仁井田川は、七子峠の北東、高知県高岡郡四万十町床鍋の山腹(標高556m)を源流とし、南へ下り、土讃線・影野駅辺りで奥呉地川を合わせながら仁井田地区に広がる平地部を流下。その後は四万十町中の越で東又川を合わせ、山間の平地を蛇行しながら流れを西に向け、四万十町根々崎で四万十川に合流する、流路延長17キロほどの一級河川。
空海と霊地
床鍋山の北東には空海が独鈷を投げたという長沢の谷がある。前述の「独鈷投げ>とこなべ」の地名由来の話は地理的には理にかなってはいる。
ところで、空海が霊地にすべく独鈷を投げたものの、霊地に必要な八峰・八谷には足らず七峰・七谷であったため、その地に寺はできなかったとの話があるが、いつだったか川崎の新百合ケ丘を歩いたとき、鶴見川と多摩川の分水界となる丘にある弘法松公園に同じような話があった。
大師がこの地に訪れ、百の谷があればお寺を建てよう、と。が、九十九の谷しかない。で、お寺のかわりに松を植えた、といったお話ではあるが、こちらは百の谷とスケールが大きい。もっとも空海が関東に足を踏み入れたという記録はない。
仁井田
往昔仁井田荘と称されたこの地は、伊予の河野氏の一族が移り住み、土地の豪族とともに土地の開拓にあたった、とも言われる。戦国時代、長曾我部元親が仁井田窪川攻めをおこない、在地勢力は戦わず降伏したとのことであるので、その頃までは伊予の河野氏の流れの一族がこの一帯に勢を張っていたのではあろう。

替坂本で県道326に乗り換える
仁井田川に沿って国道56号を進む。道の周囲は標高500mから600mほどの開析残地と思われる小さな山地と比較的広い谷底低地となっている。谷底低地は仁井田川が開析したU字谷に土砂が堆積し形成されたもののようである。河川開析のプロセスはV字谷>U字谷>準平原の順で地形が形成されるとするが、この谷底低地は開析最終プロセスの準平原状態となっているのかと思える。
土讃線・影野駅を越え、奥呉地川を合せた先の替坂本で国道56号を離れ県道326号に乗り換える。
替坂本
替坂本って、面白い地名。由来をチェックすると、この地の東、土佐湾に面したところに「上ノ加江」がある。替坂本は、その「上ノ加江への坂の本」から。 Google Street Viewでチェックすると、上ノ加江から窪川盆地に上るには急傾斜の坂道を上らなければならない。峠と言う、人為的な命名があるのかどうか不明だが、峠があれば、そこも典型的な片峠と言ってもいいだろう。
因みに、地名などの語源については、「音」が最初にあり、漢字は適宜「充てられる」といった原則を再確認した「加江>替」ではあった。

志和峰神社に車デポ
替坂本から県道326号に乗り換え小さな山地を穿つ龍石トンネルを抜けると、仁井田川水系・大井川筋に入る。仁井田川筋と同じく、小さい山地と谷底低地を進み、土居のあたりで大井川筋から離れ、小さな山地を越え弘見に出る。そこでやっと目的地である東又川を越え、小さい流れの東又川に沿って県道326号を道なりに進み、東又川の開析した低地と台地端の境をなす小さな山地の中に鎮座する志和峰神社手前のスペースに車をデポ。「海に背を向けて流れる」東又川の源流へと向かうことにする。

■「海に背を向けて流れる」四万十川支流の源流域に向かう■

田圃の中を流れる東又川を源流域に
北の志和峰から407mピークに続く山地と、南の381mピークに続く山地に囲まれた東又川を源流へと向かう。川幅は1mほどだろうか。周囲を田圃で囲まれた小川は、支流とは言え「土佐湾からたった二キロしか離れていない」「やぐらの縁ぎりぎりのところからはじまりながらあやうく下に落ちずに」流れる四万十水系の川、といったキーワードでもなければ、何が嬉しくて、また、何が悲しくて150キロも車で来たの?といった、誠にもって、どこにでもある小川といったものである。

ともあれ、東又川を右手に見遣りながら小径を進み、時に川の土手を進むと川は森に入る。森の手前までは水も流れているのだが、源流域の森に入ると水は切れる。コンクリートの溝となった「川筋」は森の中で二つに分かれる。 左手、381mピークに向かう道の側溝となった水路を先に進むが水もなく、ピーク手前の大曲地点で折り返す。ドラマチックなことは何もないが、「土佐湾からたった二キロしか離れていない」四万十川源流域に来た、とのマーキングができただけで充分ではある。25分ほどの「源流域」への散歩であった。
東又川
「土佐地名往来(高知新聞社)」には、東又(ひがしまた;新在家郷)は本在家郷の東の川又(俣)の地であった故、と。川又(俣)とは大井川と東又川が合わさる地。本在家という地名は窪川の町を少し北に遡った四万十川脇に見える。この地は本在家の東とはなっている。

溜池
帰途、左手から水が流れる用水路に出合う。前述の『誰でも行ける意外な水源 不思議な分水;堀淳一(東京書籍)』にある溜池からの流れだろう。ちょっと寄り道。藪を掻き分け、貯水池を確認。そこから流れる水路は、途中農業用水路を堰き止め、東又川へと水を落としていた。

② 志和の片峠;二つ目の片峠
車のデポ地に戻り、分水尾根の鞍部、というか切通し箇所にある志和峰神社にお参りし、分水尾根の南に出る。そこの風景は、久礼坂・七子峠で見た景観。右手は志和川の谷に急崖となって落ちる。前述の書に「谷底との高度差は200メートルあまり、谷向こうの山地は、海抜こそ330メートル程度にすぎないが、谷底が狭く深いのと山腹が急峻なために、1000メートル級の大山脈であるかのように見えた」と描写するが、まさしく、その通り。志和峰神社を境に、平坦な田圃と急峻な崖。典型的な片峠である。

志和川の谷に
強烈なコントラストの片峠を谷から眺めてみようと、曲がりくねった県道326号を下り志和の漁港に。そこから志和川に沿って車の入れるところまで進み、分水川となった尾根筋を見上げる。
で、どうしてこのような急崖となっているか、ということだが、同書には、地殻変動で隆起し、台地となった四万十川水系から切り離され、「海に直接入っていた川の流域は海に向かってより強く傾斜するようになり、川はそのために侵食力をいちじるしく増して、傾斜部分をはげしく削り込み、四万十川流域(台地)との間に階段状の急崖をつくった」とある。台地と海岸との距離が迫っている分、より川の傾斜がきつく、強い削り込みがなされたのだろう。とはいいながら、河川の侵食力だけでこれだけの崖ができるのだろうか。リアス式海岸といった景観を見るにつけ、造山活動と言うか台地隆起時にその基本が形造られたのでは、と素人妄想。
志和
志和の地名は、全国にあり河岸段丘の崖などを意味することもあるが、ここでは「し=暗礁」の多い、「うらわ=小さい湾」とする説に説得力がある。

■ループ線のある片峠へ■

次の目的地は同書にあった「ループ線のある片峠 家地川と羽立川の源流」。高知県高岡郡四万十町と幡多郡佐賀町(現在黒潮町)の境の片峠である。家地川と羽立川が四万十川に注ぐすぐ南が四万十川水系と伊与木川(土佐湾に注ぐ)の分水界であり、そこは急峻な片峠となっているとのこと。窪川盆地を囲む片峠の旅を続ける。

志和峰から家地川源流域までのルート
車デポ地に戻り、県道326号を戻り、弘見で「上ノ加江」とむすぶ県道235号に乗り換え、興津峠から下る与津地川を渡り、藤の越(標高331m)を越え、見付川筋を下り、吉見川と合わさる辺りで国道56号に乗り換え、窪川の街を少し北に進み、国道381号に乗り換ると四万十川にあたる。
窪川の町からは蛇行する四万十川に沿って国道381号を進み、若井川を分ける強烈な蛇行箇所を越え、次いで登場する強烈な蛇行箇所で左に折れて野地橋を渡り県道329号に乗り換え家地川を源流域へと向かう。

四万十川の流路
Google Earthで作成
全長196キロという四万十川には、大小合わせると70ほどの一次支流、200以上の二次支流、支流に流れ込む300以上沢があると言われるが、その中でも幹線となるのが、高岡郡津野町の不入山から南下し窪川に下る松葉川(現在目にしている流路)、四国カルストの山地から下り四万十町田野野で本流に注ぐ梼原川、愛媛の北宇和郡の山間部にその源を発し、四万十市西土佐の江川崎で本流に注ぐ広見川の三川とのこと。その三つの幹線支流を繋ぐのが「渡川」とも呼ばれる四万十川の川筋である。
現在、海から最も遠い地点ということで源流点となっている、不入山の源流点から南下してきた四万十川は窪川の辺りでその流れを西に変え、その後北西に大きく弧を描き、山間の地を、蛇行を繰り返しながら、田野野で梼原川、江川崎で広見川を合せ四万十市中村で土佐湾に注ぐ。
で、何故に、このように海に背を向けて大きく弧を描く特異な流れとなったかについて、同書は「四万十川が山地の中を激しく蛇行していることから、この流域を含む一帯はむかし、海面に近い平坦な低地だった、と考えられる。そこを川は自由気ままに蛇行していたのである。
しかし、その後土地が隆起したため、川は侵食力を回復して、その流路を保ちながら谷を削り込んでいった。その結果、現在のような穿入蛇行(山地にはまりこんだ蛇行)の状態が出来上がった。但し、この隆起は全体的に一様に起こったのではなく、たまたま四万十川の流域の中央部が最も高くなるように起こった」とある。
田野野
上に、田野野で梼原川が四万十川(渡川)に合わさるとメモしたが、田野野の地名は、そのふたつの川に由来する。前述「土佐地名往来(高知新聞社)」には「田野野は梼原川と四万十川によって形成された段丘の開き地。棚野の転化」とする。

四万十川の東流◆

現在は上述の如く、窪川辺りで西に流れ、山地を大廻りする四万十川の流れではあるが、はるか昔には、松葉川も梼原川も広見川も、その流れは窪川盆地から、そのまま太平洋に注いでいた、と言う。梼原川や広見川は現在の流れとは逆に、「東流」していたことになる。その流れが西に向かうことになったのは、南海トラフの跳ね返りで、海岸線に山地が現れ(興津ドーム)、南下を阻まれた流れは西に向かうことになった、とか。
川の生成史では、流域は時間軸に従えば、V字谷>U字谷>準平原となるところ、四万十川では窪川盆地が準平原、その下流にV字谷やU字谷があることから、初期の流れは窪川辺りから南へ土佐湾に注いでいたであろうことは納得できる。 現在の「海に背を向けて流れる」四万十川の流れは、海岸線に出来た山地・興津ドームに南下を阻まれ、西流することになった「新しい」流れのようだ。「新しい」とは言え、はるか、はるか昔、10万前年から1万年の事ではある。


③ 家地川分水界の片峠;三つ目の片峠
四万十川水系・家地川の谷筋を進む。同書には家地川の源流点からは、森に阻まれて片峠は見えないとのこと。それでは、谷筋から仰ぎ見ようと県道329号を進み、四万十川水系の分水界を越え、土佐湾に注ぐ伊与木川の谷筋に向かう。
狭い一車線の道を、対向車が来ないことを祈りながら峠を越え、谷筋に入る。志和の谷筋ほどの強烈な崖感はないものの、北に聳える尾根筋と家地川の平坦さを思えばこれも典型的な片峠である。また、谷筋の西には、後ほど訪れる羽立川との分水界となる片峠が見える。
伊与木川
この伊与木川水系は、上述の興津ドームと呼ばれる海岸山地の形成によって南流を阻まれる以前、この地で太平洋に注いだ四万十川の川筋と言う。「四国四万十川の後期第四系,特に形成史に関して(満塩大洸・山下修司;高知大学理学部地質学教室)」の記事を以下引用する。

◆四万十川の東流から西流の経緯◆

約70万年から40万年前;若井川経由で伊与木川から土佐湾に注ぐ 
約70万年から40万年前、まだ南海トラフの跳ね返りによる海岸線の山地(興津ドーム)の影響を受ける前、古四万十川は与津地川から興津に落ちるものと若井川を経由して伊与木川から土佐湾に落ちるものがあった。
因みにその頃は、江川崎から現在の四万十川河口までには河川は存在していなかったか,あるいは,存在していても小規模のものであった、と。
私注:若井川経由の伊与木川とは、現在の谷筋の右手に延び、尾根筋あたりで今でも繋がりそうな伊与木川の別流(本流?)。

約40万年前から10万年前;興津ドームの影響を受け、若井川・羽立川経由で伊与木川から土佐湾に落ちる
興津ドーム隆起の影響を受け始めた約40万年前から10万年前には、古四万十川の西方への逆流が始まり、興津への出口を失いはじめた川は,窪川町付近における湖沼の時代を経て,若井川に加えて羽立川を排出口にした、とある(私注;羽立川か家地川のどちらかを経由して現在立っている伊与木川の谷筋を経て土佐湾に注いだということだろう)。
江川崎あたりから四万十川河口までの河川は, いまだ小規模であり,本格的なものではなかったようだ。

約10万年前から1万年前
この時期では,さらに興津ドームの隆起の影響を受け,古四万十川が西流をはじめたため、伊与木川にも水は流れなくなった。
いっぽう十和村付近(現在は四万十町;梼原川の合流点の少し下流)から江川崎,また,江川崎から現在の四万十川河口までの範囲が本格的に形成さしれ始めた.ただし,時期的には後者の方が前者より早く河川として成立していた。

約1万年前から現在
四万十川は現在みられるような流れとなった。

羽立川はこの後訪れることにするが、家地川との関連言えば、地形図で見る限り、四万十川の川筋と伊与木川へ下る片峠の比高差は20mもないように見える。ちょっとした地殻変動でも起これば、今でも四万十川の流れは伊与木川に落ちそうである。
また、若井川と伊与木川との分水界も比高差は30mもないようだ。若井川は四万十川に注ぐ支流のため、四万十川の流れが若井川近くの伊与木川に注ぐことはないかとも思うが、これもちょっとした地殻変動で伊与木川による若井川の河川争奪がおきそうと妄想できる「片峠」感である。

伊与木の由来
「イオ、イヨ」は土佐で魚を指す。「木」は場所の意であるので、魚の豊富な場所、といった説がある。

土佐くろしお鉄道・川奥信号場
伊与木川の谷筋から、次の目的地である羽立川源流域に戻る。道の左手、伊与木川の谷筋に線路が見える。線路はトンネルに入っていく。トンネルはループトンネル。半径350mであるから、全長2031mのトンネルを勾配20%で41mほど上ってゆく。
谷を上り峠に向かう途中で線路を横切るが、その右手にはループを抜け、窪川方面に向かうトンネル、左手には川奥信号場。予土線・家地駅からトンネルを抜けてきた予土線の線路と、ループトンネルを抜けてきたくろしお鉄道中村線の線路が合わさる。ここで列車の交換・退避がおこなわれるのだろう。
信号場の先にあるループトンネルは見えなかったが、前面が開けた信号場からは伊与木川の谷筋、その向こうの羽立川の尾根筋を眺めることができた。

土佐くろしお鉄道
第三セクター方式の鉄道事業者。昭和61年(1986)。工事凍結された国鉄の宿毛線・阿佐西線を引き受けるため設立されたが、後に中村線も引き受けることとなり、昭和63年(1988)には窪川・中村間が開業した。
予土線
予讃線・北宇和島駅から高知県四万十町の若井駅を結ぶ。営業区間は若井駅だが、土佐くろしお鉄道との分岐は、この川奥信号場。若井・川奥信号場間は両鉄道の重複区間となっている。営業区間は若井駅までだが、実際は高知側からは土讃線窪川駅から出発しており、窪川・若井間は土佐くろしお鉄道の料金が加算されるとのことである。
愛媛の人でありながら、今の今まで愛媛と高知が鉄道で繋がっているとは思っていなかった。江川崎と若井駅間は1970年代に開通していたようだ。

④ 羽立川分水界の片峠;四つ目の片峠
峠を越え平坦となった田圃の中を少し下る。「日の谷」辺りで県道329号を左に折れ、羽立川の流れに沿って源流域に向かう。民家が切れ、舗装路が土径となる少し先にスペースがあり、そこに車をデポし源流域へと歩く。
田圃となる平坦地を進むと流路は森に入る。先に進むと、前述の書籍にあった養魚場跡らしき場所がある。森の中を流れる羽立川は沢といった風情を呈する。岩場を進みながら、左手に聳える沢からの比高差20mから30mほどの尾根筋を見遣る。尾根筋に這いあがろうとも思ったのだが、上掲の書籍には尾根からの眺めは望めないとのことで、取りやめる。
しばらく進むが、これも同書にあった朽ちた橋には出合えない(沢に渡した二本の木が残っていたが、それが橋、とは思えないのだが)。沢は益々狭くなる。さてどうしよう。

沢を遡上しながら、ふと考える。そもそも、この沢を辿る道の先に鞍部があるのだろうか、往還道としての峠があるのだろうか?片峠とは言いながら、峠と言う以上、人々の往還でもなければ、それは単なる台地、丘陵地、山地の地形に過ぎないのでは?その形状が急峻な崖としても、それは伊与木川が開析したV字谷ではなかろうか?どう考えてもこの先に往還道があるようには思えず、ほどほどのところで折り返すことにした。

興津ドーム◆

「四万十川の流路変化と興津隆起帯の形成」より
今一つ収まりのよくない羽立川散歩であったが、メモする段階でこの地が前述の興津ドーム・海岸山地の稜線らしきことがわかった。
「四万十川の流路変化と興津隆起帯の形成(加賀美英雄、益塩大洸、野田耕一郎)」に拠れば興津ドームと呼ばれる海岸山脈は三列からなる、とする。以下引用する。
第一列目の山稜
海岸から1.5キロ以内に配列する。興津岬を中心としたところに見られ、その代表は六川山(507m)。この山稜によって松葉川の東南流れが堰止められた。
◆第二列目の山稜
第二列目は、海岸から3キロ付近に配列する、御在所の森(658m)が代表である。この山稜の南西延長は伊与木の谷に下る窪川町日の谷の峠を通って、旧佐賀町(私注;現幡多郡黒潮町)坂本の435mの山(私注;坂本の地名は見当たらない。また、425mピークはあるが435mピークは見当たらない)に連なる。この南方では地形が複雑でどの山稜をとってもおかしくないが、例えば大方町(私注;現幡多郡黒潮町)の二が森(455m)を通る山稜に繋がる。この第二列目の山稜は梼原川の南東流をせき止めたと考えられる。
第三列目の山稜
第三列目は海岸から7キロ付近に配列される。大方町(私注;現幡多郡黒潮町)の仏ケ森(687m)の山稜。北の方では中土佐町の火打ケ森(590m)に連なる山稜であり、松葉川が東流するのをせき止めた。

日の谷の峠から羽立川の尾根筋を結ぶ山稜は、興津ドームの第二列、主に梼原川が太平洋に注ぐ流れを塞ぐことになったようだ。実際に足を運んだ後ではあるので、地形がイメージでき、リアリティを感じることができた。

佐賀取水堰・家地川堰堤
車デポ地に戻り、羽立川筋を下り家地川と合わさった川筋を予土線・家地駅辺りまで下る。往路、満々と水を湛えた四万十川に堰堤らしきものが見えたため、ちょっと立ち寄り。
堰堤脇に取水口がある。Wikipediaに拠れば、発電用堰堤であり、水は黒潮町の伊与木川水系・市野々川にある佐賀発電所に地下導水管を通して送られるようだ。送水量は多く、四万十川の流れの半分、上流の水量が少ない時期は堰堤直下の川底から水が消えることもある、という。
また、不入川から下る松葉川の清流も、窪川の辺りで清流とは言い難い状態となるが、その水はこの堰により下流に流されないことが、四万十下流域の美しい流れを保つ要因ともなっている、とのことである。

土佐くろしお鉄道・若井駅
時刻は未だ1時頃。時間は十分にある。何処に行こうか、ちょっと考える。その時は「興津ドーム」の事など知る由もなかったのだが、如何なる天の配剤か、興津峠に行ってみようと思った。

佐賀取水堰を離れ、県道329号を四万十川左岸に沿って進み、野地橋を渡り国道381号を進む。蛇行する四万十川右岸を進むと、若井大橋の対岸に「土佐くろしお鉄道・若井駅がある。
川奥信号場脇の踏切から信号場と逆側に見えた若井トンネルを抜けてこの駅に出る。土線の高知側の営業終点・始点駅(施設上の分岐点は川奥信号場)とはいうものの、予土線はすべて窪川駅まで乗り入れるというが、田圃の中に見える無人駅の姿を見れば、結構納得。
若井川
若井駅の少し南で若井川が四万十川に注ぐ。上述の如く、興津ドームの海岸三山脈が形成される以前、また、興津ドーム隆起の影響を受け始めた約40万年前から10万年前には、古四万十川の西方への逆流が始まり、興津への出口を失いはじめた川は,窪川町付近における湖沼の時代を経て,若井川から伊与木川をその排出口として土佐湾に注いだ、という。
これはメモの段階でわかったもので、当日は知る由もなく訪れることはなかったのだが、地図を見ると、なるほど、若井川と伊与木川の分水界が峠辺りで「大接近」している。Google Street Viewで峠の南を見るに、峠手前の平坦地とコントラストをなす片峠となっている。行ってみたかった、と思えど、いつものことながらの、後の祭りである。

⑤ 興津峠;五番目の片峠
国道56号に戻り、窪川の町を経由し、県道325号を興津に向かう。この道筋は東又川から家地川・羽立川へと向かった道筋である。


予津地川を越えた先で興津へと向かう県道52号に乗り換え、興津峠に。峠までの平坦地から一転、後川が開析した急峻な谷となる。道を少し下り、興津の片峠を実感したところで、引き返す。片峠もさることながら、山と谷と海の織りなす素晴らしい眺めであった。
予津地川
当日は単に片峠をみようと辿った予津地川であるが、メモの段階で、この川筋は、約70万年から40万年前、まだ南海トラフの跳ね返りによる海岸線の山地(興津ドーム)の影響を受ける前、古四万十川が土佐湾に落ちた流れであった。地図を見ると、予津地川は興津峠のほんの手前まで延びていた。
予津地の由来
「予津地」は「四津に向かう地」のこと。四津は現在の興津(おきつ)。往昔、その地に四つの津(湊)があったためである。その「四津村」が興津になった経緯はなかなか興味深い。四津をいつの頃から輿津(よつ)と漢字をあてていたのだが、諸和23年(1948)に「輿」を「興」と改め、興津とした。その心は「おおいに興るべし=発展すべし」と言ったところ、とか。四つの津のいくつかが姿を消したとはいえ、思わず唸ってしまう。今まで多くの地名の命名を見てきたが、こんなケースは初めてだ。地名の由来は誠に面白い。

国民宿舎・土佐
これで本日の散歩は終了。宿をとった横浪半島東端の国民宿舎・土佐に向かう。これで二度目だが、露天風呂から見下ろす土佐湾の眺めが気に入り、少々遠くはあるが、車を飛ばすことにした。
県道52号を東又川を越え、仁井田川筋まで戻り、国道56号を須崎市に。そこから県道23号に乗り換え、リアス式海岸の美しい横浪半島東端にある宿に泊まり、翌日の四万十川源流点散歩に備える。

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