土曜日, 4月 29, 2017

伊予 遍路道;真弓峠と農祖峠を越えて久万の町に

先日、長年気になっていた久万の札所への峠越え、下坂場峠と鶸田峠を歩いた。山間地故の車での単独行のため峠越えはピストン。峠を上り、そして下った後は車デポ地まで戻る必要もあり、ピストンの距離を極力短くしようと、車を寄せられるところまで乗り入れた結果、峠越えは結構あっけないものとなってしまった。峠歩きはピストンの時間を入れても2時間ほどだったろうか。
Google Earthで作成
険路の峠越えを好んで望むわけではないが、それでも少々物足りない。それではと、久万の札所に入るもうひとつの峠越えの遍路道、真弓峠・農祖峠を辿ってみようとルートをチェック。真弓峠は道もなく荒れた険路のようだが、それも一興。農祖峠はと言うと、少し距離はあるが、地形図で見る限り緩やかな上りのようだ。往復で3時間もみておけばいいだろう。
ということで、日も置かず、先回辿った内子からの遍路道が下坂場峠・鶸田峠ルートと真弓峠・農祖峠ルートへと分かれる分岐点、田渡川が小田川に合流する突合(内子町吉野川)に向かった。

本日のルート;突合>水元の丁石>水地の丁石>寺村の日切地蔵>恩地の丁石>堂山大師堂>小田の丁石>船戸の丁石>三島神社
真弓峠越え
真弓峠への遍路道>国道380号と交差>再び国道38号と交差>旧国道に>新真弓トンネル西口に>林道大平線>尾根取りつき部>真弓峠>新真弓峠東口>新真弓トンネル西口>畑峠遍路道分岐点に>三島神社車デポ地に戻る
農祖峠に
三島神社>馬之地の堂宇>父野川の地蔵堂>父二峰の道標
農祖峠越え
農祖峠入口>道標>道標>農祖峠>馬酔谷の舗装道と繋ぐ
馬酔谷と久万の町を繋ぐ
馬酔谷の里道との繋ぎ場所に
下野尻から久万の町の遍路道
水源施設(下野尻浄水場)脇に車デポ>農祖峠への道分岐点>大宝寺・岩屋寺分岐>国道33号と交差
国道33号から久万川までの遍路道
遍路道と国道33号交差地点に戻る>上野尻の道標>土佐街道三差路跡の道標


国道379号を突合に
新居浜を午前6時頃出発。国道11号を進み桜三里を越え、東温市で県道23号に乗り換え、砥部で国道33号を南に進み、国道33号が御坂峠へと上るあたりで国道379号に。
重信川水系・砥部川の谷筋を進み上尾峠を穿つ上尾隧道を抜けると肱川水系・玉谷川の谷筋となる。峠が分水界なのだろう。峠までの道は一部狭い一車線の箇所もあるが、道路拡張工事が進められており、比較的快適な道ではああった。 玉谷川をどんどん下ると落合で田渡川に合わさり、下流は田渡川となる。この田渡川合流点まで伊予郡砥部町である。分水界の南北をカバーし結構広い。平成の大合併において、玉谷川筋の広田村が砥部町に合併した故であろう。 落合からは、先回下坂場峠・鶸田峠へと進んだ道を逆に中田渡、吉野川と下り田渡川が小田川と合わさる突合に。

水元の丁石
突合で国道380号に乗り換え、小田川に沿って東へ進む。ほどなく水元(内子町寺村)の集落に向かう旧国道に入ると、集落を出た辺り、道の左に10基の石造物が並ぶ。「えひめの記憶」に拠れば、「丁数の判読のできる舟形石仏丁石が6基、「二百四十丁」から「二百四十五丁」までがある」とのこと。
何処までの丁石?久万の札所ではあろうが念のためチェック。1丁は約109m、245丁は27キロほど。おおよそ久万の札所までの距離である。
で、何所に6基もここに?道路整備に伴い、石仏が一カ所に集められるのは常のこと。この場合もそうであろうか。
なお、「えひめの記憶」にあった、集落入口左側にあるという一間四方のお堂は、見つけることができなかった。

水地の丁石
旧道を進み水地(内子町寺村)の集落に入ると道の左手に、コンクリートで被覆された4基の石造物。お地蔵さまとともに、「二百三十二丁」の舟形石仏丁石がある(「えひめの記憶)。丁数が減っているので、久万への丁石では、との想像はあたっている、かも。

寺村の日切地蔵
旧国道を走り一瞬国道に出るが、すぐまた旧国道を進み中通り地区を越えると国道と交差。遍路道であろう旧国道はそのまま国道を横切り、小田高校前の道を弧を描いて進み再び国道と交差。そのまま国道を横切り旧国道に入ると、道の左手、少し小高いところに堂宇が見える。日切地蔵が祀られる。
石段脇に草に隠れた「日切地蔵」の石碑があった。階段を上り、お参り。この辺りは「林慶(りんけ)」と呼ばれる。由来は不詳。
日切地蔵
日限地蔵とも。Wikipediaには「日限地蔵 (ひぎりじぞう)は日本各地に存在する、「日を限って祈願すると願いが叶えられる」といわれる地蔵菩薩。 安土桃山時代、蘆名盛氏へのある夜の夢のお告げで黒川城の堀から見つかったとされる3体の地蔵菩薩像を日限地蔵として祀った西光寺(会津若松市)をきっかけとし松秀寺(東京都港区)から全国へひろがった」とある。
松秀寺縁起
日限地蔵尊の像2体あり。いづれも立像にして長1尺8寸、2体ともに徳一大師の作なり。もと陸奥国会津西光寺にありしを、紀州菩提心院殿(私注;紀州藩七代藩主徳川宗将)崇信し給ひ、3体の内2体をとめられて当寺へ寄附せられしとなり。
徳一
徳一僧都には会津の束松峠を辿ったときに出合った。鳥追観音・如法寺のHPをもとに簡単にまとめると、「平安時代初期、奈良の都から会津へ下られた法相宗の僧。会津に仏の都を実現し衆生済度をと志し、大同2年(807)、会津東方の磐梯山麓に根本寺として慧日寺を創建。次いで越後への要所野沢に会津西方浄土として鳥追観音如法寺を開創。
更に会津盆地の中央に勝常寺を、奥会津只見への要所柳津に円蔵寺を、会津北方の要所熱塩に慈眼寺(現在は示現寺)を開創。民衆の布教教化に邁進し、故に民衆は、僧徳一を東国の化主、菩薩、大師と尊称致し、尊信敬仰致した。
また、徳一は、天台宗最澄、真言宗空海という平安新都の二人のリーダーに対して、奥州会津慧日寺に住しながら、真っ向から独り法戦を挑み一歩も引かず五分に亘りあい、よく旧南都仏教法相宗の正義を守った学僧としての面目も高い。
徳一菩薩、徳一大師と、一般民衆より尊信敬仰されたことは、仏教僧の本分である衆生済度に身命を賭して、都より遥か東国の野に下り、民衆の為に御仏の慈悲を施し、仏教の法燈を点し続けた徳一の真面目であり、故に、今日でも徳一大師と尊称致し、尊敬致して止まぬ。
その後、やがて磐梯山慧日寺は、会津四郡を支配し、最盛期には寺領十八万石、子院二千八百坊、僧侶三百人、僧兵数千人を数える程に隆盛を極め繁栄致しました。この慧日寺支配による荘園政治は、武家政治が確立する鎌倉時代以前まで続き、奥州一の会津仏教文化の黄金時代を創り出した」とあった。

恩地の丁石
旧国道が国道と交差し小田の町(内子町小田)へと入る手前にコンクリート法面に二基の石造物。地区は恩地(内子町寺村)だろうか。「□□廿二丁」の舟形石仏丁石が祀られている(「えひめの記憶」)、と。

堂山大師堂
小田の町に入り、内子町役場小田支所の前の広いスペースに車をデポ。「えひめの記憶」に「小田町役場前に、道の右側上にはやや離れて堂山大師堂がある」とあり、辺りを彷徨うが、近くに見つからず。
地図でチェックし直すと役場支所から少し西、小田川が小田の町に向かって南に突き出たその西に大師堂はあった。お遍路さんの宿泊所となっているようだ。

小田の丁石
小田の町を進み、八坂神社の参道を越えると、道の右側に3基の石造物が並ぶ。「えひめの記憶」に拠れば、「八坂神社の参道口を少し過ぎると道の右側に「二百十六丁」の舟形石仏丁石、さらに進むとまた右側に「二百十一丁」の丁石がある」とされる。丁石は2箇所とあるが、何度行き来しても、この箇所にしかみつからなかった。これもこの場所に集められたのだろうか。

船戸の丁石
小田の町を抜け、県道に出る。「えひめの記憶」には「船戸にある参川(さんかわ)口のバス停前の右山側には舟形石仏などが多数並べられている。「二百十八丁」「二百十三丁」「二百九丁」「二百七丁」「二百五丁」などのほか判読できないものもある」とのこと。
が、バス停も見つからないし、多数の石仏群も見えない。かろうじて山側のゴミ捨場脇に一体の舟形石仏が佇む。ここもなんらかの事情でどこかに移されたのだろうか。

小田川を渡り国道380号を三島神社に
県道に出た箇所から50mほど進むと左手に小田川を渡る橋がある。遍路道はここを左折し北に進み、国道380号を小田の町で合わさった大平川に沿って上ることになる。
国道を道徳、泉の集落を越え三島神社(内子町大平)に。神社手前のスペースにデポし真弓峠へと向かうことにする。

真弓峠越え

真弓峠への遍路道に;午前9時22分
三島神社(内子町大平)におまいりし、遍路道の入口を探す。境内を探すが、それらしに箇所はない。とりあえず国道に出て少し上るとカーブ手前に「南無大師遍照金剛」と刻まれた石柱があり、遍路道の案内もあった。

国道380号と交差;午前9時29分
入口付近の舗装も切れ、杉林の土径を進み、突然現れる民家を見遣りながら7分ほど上ると国道に交差。右手に「大宝寺 農祖峠経由遍路道」の石柱があり、土径を上る。標高は90mほど上げる。

再び国道38号と交差;午前9時34分
5分ほどかけて標高を50mほど上げると、再び国道380号に交差。少し分かりにくいが、右へとの遍路道の案内がある。国道を右に折れ、50mほど歩くと直ぐに遍路道の案内。「左」と「国道直進」の二つのルート表示があり、「当地方山間部降雪・積雪のときは、畑峠(はたのとう)は積雪が特に多く通行困難・不能となること有り。迂回路へどうぞ」とあった。
畑峠ルート
真弓峠越えは険路のため、昭和11年(1936)旧国道に隧道が掘られるまでの遍路道は、畑峠から田渡川の谷筋にある三島神社に向けて下り、下坂場峠を越えていったようである。
また、迂回路とあるのは、国道380号に昭和63年(1988)開通した新真弓トンネル(710m)を抜けて久万へ向かうように、とのことだろう。

旧国道に;9時41分
遍路道を5分ほど、標高を50mほど上げると周囲が開け畑地となる。その先で旧国道に出る。出たところに手書きで書かれた「へんろ道ご案内」。所々消えているため概略をメモすると、「南コース伊予落合に出るにはここから(右)へ新真弓トンネルを進む。直進は旧真弓トンネルを通る。ひわた峠経由に北コースへ進むには、ここから左へ約200m進み、道を登ってください」とある。
南コースの伊予落合とは新真弓トンネルを抜け、国道380号が国道33号と合流するところ。ひわた峠経由の北コースとは畑峠から下坂場峠を経て鶸田峠へと抜ける道の事と思う。

新真弓トンネル西口に;午前9時52分
旧道に出たところで、真弓峠へと向かいたいのだが、誰も通る人がいないようで、案内はまったくない。仕方なく、地図をチェックし、真弓峠へと向かう道を探すと、新真弓トンネル西口辺りから峠近くに向けて実線・破線が描かれる。遍路道ではないだろうが、とりあえずこの実線・破線を辿り、真弓峠に上るべく旧国道を右に折れ新真弓トンネル西口に向かう。

林道を進み尾根への取り付き部に;10時16分
国道を越えた先に「林道大平線」の案内。木標には「本川 野村」方面の案内がある。地図でチェックすると「本川 野村」は大平川と小田川に挟まれた山稜部にある。
峠への手掛かりは何もないので、とりあえず林道を進み、途中成り行きで峠へのルートを探すことに。道を進むとほどなく「本川 野村」への林道から分かれ、地図に破線で示された林道に入る。
ジグザグの林道を20分ほど進むが、道は尾根筋から離れていく。尾根筋への道はなく、小さい沢を越えて尾根に向かって這い上がるしかないようだ。

真弓峠;午前10時25分
GPSにインストールした山地図の真弓峠を目安に林道から逸れる。きつい斜面をひたすら尾根に向かってトラバース気味に這いあがる。切り倒された木を支えとしながら10分ほどで尾根に這いあがり、真弓峠に到着。新真弓トンネルから標高を150m上げたことになる。峠にはお地蔵さまが祀られ石柱が立っていた。 真弓峠への道、険路とは言いながら、道さえ整備されておれば、どうということはないとは思うが、それは車で登山口まで進んだものの戯言か。数十キロを歩いて来たお遍路さんにはキツイ峠越えではあったろう。
また、真弓峠への尾根筋はなんとなくわかるものの、 GPSなどでの位置確認ができなければ、お勧めできない峠越への上りであった。
真弓
険路であるのに、峠名が真弓は女性らしい可愛い名前。チェックすると、由来はこのあたりに眉見城があり。眉見某が籠っていた故とのことであった。

峠から下り新真弓トンネル東口へ;10時44分
誰も通らないという真弓峠を酔狂にも上り終え、さて戻りは。来た道を戻るのも今一つ。適当な下りはないかと峠をチェック。東に踏み込まれた道がある。どこまで続くか保証の限りではないけれど、とりあえずトライ。
10時28分頃道を下る。右手が開けた明るい九十九折れの下り道を進むと10分ほどで沢に入る。足場の悪い沢を少し下ると前方が開けてきた。GPS でトンネルの上を横切っていることを確認し一安心。新真弓トンネル東口に下りる。15分程度で下り切った。
真弓峠越えは上りは道が消滅しているのに、下りはしっかりとした道が繋がっていた。

車デポ地に戻る

畑峠遍路道分岐点に;11時8分
ここからデポ地に戻ることになる。少々怖いが710mの新真弓トンネルを抜け西口から旧国道を戻り、遍路道分岐点に。ここで案内にあった畑峠への取り付き部への確認に向かう。
道を200mほど進むと道脇に「大宝寺 畑峠遍路道復元 平成拾八年」と刻まれた石柱があった。ここから山地図に破線・実践で示されるルートを辿り、田渡川筋の三島神社へと下り、下坂場峠へと向かうことになる。

車デポ地に戻る;11時30分
来た道を、国道と2度交差しながら三島神社に戻る。ピストンで1時間10分ほどかかった真弓峠越えであった。次は農祖峠への取り付き口へと向かうことになる。


■国道380号を農祖峠へと向かう■

三島神社で車に乗り、国道380号を東に進む。九十九折れの峠道を上り、新真弓峠を越える。トンネルを抜けると国道に沿って仁淀川水系・父之川が流れる。峠が肱川水系と仁淀川水系の分水界となっているのだろう。また行政区域も喜多郡内子町から上浮穴郡久万高原町に変わる。

馬之地の堂宇
馬之地(久万高原町父野川)の国道脇に堂宇が建つ。「えひめの記憶」にある馬之地(久万高原町)の堂宇ではあろうが、大師堂なのか地蔵堂などなのかわからなかった。
ところで、この堂宇は旧国道ではなく国道380号脇に立つ。旧国道にはそれらしき堂宇がなかったが、遍路道はこの辺りは現在の国道に沿って続いていたのだろうか。

父野川の地蔵堂
少し先の国道脇に同じく堂宇が建つ。これはどうも地蔵堂のようである。
父二峰村
このあたりはかつての父二峰村。父野川村と二名村、そして露峰村が明治の町村制実施時にそれぞれの村名から一字を取り命名された。二名は先回鶸田峠を越える時に歩いた。露峰村はこれから東、二名川が父野川に合流するあたりから東一帯の地であったようだ。

父二峰の道標
国道から旧国道に入り、北から下り父野川に合流する二名川に架かる父二峰橋(久万高原町露峰)を渡ると、橋の東詰に道標が立つ。「へんろ道 明治十四年」と刻まれた文字が読める。「大宝寺 岩屋寺」も刻まれているようだが、摩耗してわからなかった。
また、道を隔てた畑の脇に小さな道標が立つ。ここに二つも道標が立つ必要もないと思うが、「えひめの記憶」に拠ればふたつの道標の示す里程が異なり、小さな道標は農祖峠入口にあったものが移されたのでは、とする。

■農祖峠越え■

農祖峠入口;12時7分
父二峰橋を左に折れ、二名川に沿って県道42号を北に向かう。川がカーブする辺り、県道山側に「農祖峠歩きルート 44番大宝寺 6.8km」の案内がある。県道脇に適当な車デポスペースが見つからず、遍路道に少し車を乗り入れ、舗装はされていないが、広いスペースを見つけ車をデポし農祖峠へと向かう。遍路道は霧峰と二名の境を上る。

道標;12時20分
道に沿って流れる沢を見遣りながら、誠にゆるやかな坂をのんびり進む。12分程度進んだところで、「大宝寺」と刻まれた石柱の手印に従い、沢筋を更に進む。



道標;12時26分
そこから更に5分ほど進むと空が開ける。「農祖峠遍路道 大宝寺 岩屋寺」と刻まれた石柱、木にお遍路さんの印が描かれた木標の立つ間を林の中に入る。



農祖峠;12時29分
開けた空も直ぐに杉林となり、峠手前らしき、少し傾斜のある道を上り切ると農祖峠に。平坦な峠には「へんろ道 農祖峠 標高651米」と書かれた木標が立つだけの、さっぱりした峠であった。峠入口から20分強で峠に着いた。

馬酔谷の舗装道と繋ぐ;12時40分
峠から里道と繋がる地点ま「で下るのがお約束。ピストンで戻り、峠を越えた先で車の乗り入れる箇所を確認するためである。
峠から10分ほど緩やかな道を下ると馬酔谷(あせぶたに;久万高原町下野尻乙)地区の舗装道に下りる。この地点から上は舗装が切れていた。地点を登録し車デポ地へと折り返すことにする。
馬酔(あせぶ)
Wikipediaに拠れば、「馬酔木(あしび)というツツジ科の常緑低木。馬酔木の名は、「馬」が葉を食べれば毒に当たり、「酔」うが如くにふらつくようになる「木」という所から付いた名前であるとされる」とある。馬酔も馬酔木と同義ではなかろうか。

車デポ地に戻る;13時15分
来た道を折り返し車デポ地に戻る。ピストンでおおよそ1時間強の行程であった。

■馬酔谷と久万の町を繋ぐ■

馬酔谷の里道との繋ぎ場所に;13時45分
車デポ地から県道42号を下り、国道380号乗り換え、落合で国道33号に入る。久万高原町へと向かい、町に入る手前、馬酔谷(あせぶたに)の谷筋へと左折、細い道を農祖峠から舗装道と繋いだ地点まで進む。途中久万の水源施設(下野尻浄水場)の道の右手に「へんろ道」の案内があった。
とりあえず道を繋ぐため、峠から下り舗装道に出た箇所まで車で進み、途中見かけた「へんろ道」分岐箇所まで折り返す。

●下野尻から久万の町の遍路道●

水源施設(下野尻浄水場)脇に車デポ;13時48分
車を戻し、水源施設脇のスペースに車をデポ。舗装道から土径へと折れる遍路道を久万の町に向かう。水源地からの清冽な落ち水が流れる沢を見遣りながら土径を進む。

農祖峠への道分岐点;13時53分
森の中を5分ほど進むと比較的広い道に出合う。舗装はされていない。角にあった案内には、道を山方向へと進むと農祖峠まで歩いていけるとあった。

大宝寺・岩屋寺分岐;13時55分
分岐点を右に折れ下野尻配水所を見遣りながら進むと石柱があり「左大宝寺 3.4km,」「右 岩屋寺 9.5km」と刻まれる。その脇に順路の説明は「第45番札所・岩屋寺に行くには、大宝寺から岩屋寺へと進んでください」と言いたいのだろが、ちょっとわかりにくい。
右へと岩屋寺に向えば45番岩屋寺から44番大宝寺への「逆打ち」となるが、左の44番大宝寺から45番の岩屋寺の順打ちをすれば、46番札所浄瑠璃寺(松山市)への遍路道の関係上、一度44番に「打ち戻り」して先に進むことになる。 44番大宝寺から45番の岩屋寺の順打ち・打ち戻しルートは数年前歩いたので、今回は逆打ちルートを辿るべく岩屋寺方面へと右に折れる。

国道33号と交差;14時2分
分岐点から4分ほどで前が開け町が見えてくる。畑脇の土径を進み農作業の人と挨拶を交わしながら国道33号との交差点に。ここで、野道を進む遍路道を車道と繋ぐことができたので、一旦車デポ地まで折り返す。


■国道33号から久万川までの遍路道■

遍路道と国道33号交差地点に戻る;14時25分
20分程度で車デポ地に戻り、下野尻から国道33号に戻り、先ほど遍路道と繋いだ地点に戻る。交差地点の右手は久万高原消防本部。近くに駐車スペースを見つけ国道33号を越えた遍路道をトレースする。


上野尻の道標;14時28分
国道33号を越えた遍路道は、道なりに先に進む。途中までは車が入れるが、先は狭く車は進めない。その狭い土径に道標(久万高原町上野尻)が立つ。遍路道は右に折れ、旧国道(久万本通り)に出る。



土佐街道三差路跡の道標;14時33分
「えひめの記憶」には、旧国道に出た遍路道はそのまま直進し久万川の手前で左に折れ、かつての土佐街道の三叉路に向かい、そこから右に折れ土佐街道を久万川を越えて川向うに進んだ、とある。
旧国道からの遍路道も、旧土佐街道もその道筋は消えているが、かつての土佐街道三差路跡に道標が立つ、とのこと。民家軒下に小振りな道標が立っていた。

実の所、予定では、このまま土佐街道を進み久万川を渡り、宮ノ前、越(こえ)ノ峠(とう)、中野村を経て槇谷(まきたに)から、先回岩屋寺に向かった尾根の八丁坂まで進もうと思っていた。45番札所・岩屋寺から44番札所・大宝寺の逆打ち、打ち戻しなしの遍路道をトレースしようと思っていたのだが、ここで時間切れ。久万川手前までを一旦の区切りとして今回の真弓峠・農祖峠越えの散歩を終えることにする。

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