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ということで、日も置かず、先回辿った内子からの遍路道が下坂場峠・鶸田峠ルートと真弓峠・農祖峠ルートへと分かれる分岐点、田渡川が小田川に合流する突合(内子町吉野川)に向かった。
本日のルート;突合>水元の丁石>水地の丁石>寺村の日切地蔵>恩地の丁石>堂山大師堂>小田の丁石>船戸の丁石>三島神社
■真弓峠越え■
真弓峠への遍路道>国道380号と交差>再び国道38号と交差>旧国道に>新真弓トンネル西口に>林道大平線>尾根取りつき部>真弓峠>新真弓峠東口>新真弓トンネル西口>畑峠遍路道分岐点に>三島神社車デポ地に戻る
■農祖峠に■
三島神社>馬之地の堂宇>父野川の地蔵堂>父二峰の道標
■農祖峠越え■
農祖峠入口>道標>道標>農祖峠>馬酔谷の舗装道と繋ぐ
■馬酔谷と久万の町を繋ぐ■
馬酔谷の里道との繋ぎ場所に
●下野尻から久万の町の遍路道●
水源施設(下野尻浄水場)脇に車デポ>農祖峠への道分岐点>大宝寺・岩屋寺分岐>国道33号と交差
■国道33号から久万川までの遍路道■
遍路道と国道33号交差地点に戻る>上野尻の道標>土佐街道三差路跡の道標
国道379号を突合に
新居浜を午前6時頃出発。国道11号を進み桜三里を越え、東温市で県道23号に乗り換え、砥部で国道33号を南に進み、国道33号が御坂峠へと上るあたりで国道379号に。
重信川水系・砥部川の谷筋を進み上尾峠を穿つ上尾隧道を抜けると肱川水系・玉谷川の谷筋となる。峠が分水界なのだろう。峠までの道は一部狭い一車線の箇所もあるが、道路拡張工事が進められており、比較的快適な道ではああった。 玉谷川をどんどん下ると落合で田渡川に合わさり、下流は田渡川となる。この田渡川合流点まで伊予郡砥部町である。分水界の南北をカバーし結構広い。平成の大合併において、玉谷川筋の広田村が砥部町に合併した故であろう。 落合からは、先回下坂場峠・鶸田峠へと進んだ道を逆に中田渡、吉野川と下り田渡川が小田川と合わさる突合に。
水元の丁石
何処までの丁石?久万の札所ではあろうが念のためチェック。1丁は約109m、245丁は27キロほど。おおよそ久万の札所までの距離である。
で、何所に6基もここに?道路整備に伴い、石仏が一カ所に集められるのは常のこと。この場合もそうであろうか。
なお、「えひめの記憶」にあった、集落入口左側にあるという一間四方のお堂は、見つけることができなかった。
水地の丁石
寺村の日切地蔵
石段脇に草に隠れた「日切地蔵」の石碑があった。階段を上り、お参り。この辺りは「林慶(りんけ)」と呼ばれる。由来は不詳。
●日切地蔵
日限地蔵とも。Wikipediaには「日限地蔵 (ひぎりじぞう)は日本各地に存在する、「日を限って祈願すると願いが叶えられる」といわれる地蔵菩薩。 安土桃山時代、蘆名盛氏へのある夜の夢のお告げで黒川城の堀から見つかったとされる3体の地蔵菩薩像を日限地蔵として祀った西光寺(会津若松市)をきっかけとし松秀寺(東京都港区)から全国へひろがった」とある。
◆松秀寺縁起
日限地蔵尊の像2体あり。いづれも立像にして長1尺8寸、2体ともに徳一大師の作なり。もと陸奥国会津西光寺にありしを、紀州菩提心院殿(私注;紀州藩七代藩主徳川宗将)崇信し給ひ、3体の内2体をとめられて当寺へ寄附せられしとなり。
◆徳一
徳一僧都には会津の束松峠を辿ったときに出合った。鳥追観音・如法寺のHPをもとに簡単にまとめると、「平安時代初期、奈良の都から会津へ下られた法相宗の僧。会津に仏の都を実現し衆生済度をと志し、大同2年(807)、会津東方の磐梯山麓に根本寺として慧日寺を創建。次いで越後への要所野沢に会津西方浄土として鳥追観音如法寺を開創。
更に会津盆地の中央に勝常寺を、奥会津只見への要所柳津に円蔵寺を、会津北方の要所熱塩に慈眼寺(現在は示現寺)を開創。民衆の布教教化に邁進し、故に民衆は、僧徳一を東国の化主、菩薩、大師と尊称致し、尊信敬仰致した。
また、徳一は、天台宗最澄、真言宗空海という平安新都の二人のリーダーに対して、奥州会津慧日寺に住しながら、真っ向から独り法戦を挑み一歩も引かず五分に亘りあい、よく旧南都仏教法相宗の正義を守った学僧としての面目も高い。
徳一菩薩、徳一大師と、一般民衆より尊信敬仰されたことは、仏教僧の本分である衆生済度に身命を賭して、都より遥か東国の野に下り、民衆の為に御仏の慈悲を施し、仏教の法燈を点し続けた徳一の真面目であり、故に、今日でも徳一大師と尊称致し、尊敬致して止まぬ。
その後、やがて磐梯山慧日寺は、会津四郡を支配し、最盛期には寺領十八万石、子院二千八百坊、僧侶三百人、僧兵数千人を数える程に隆盛を極め繁栄致しました。この慧日寺支配による荘園政治は、武家政治が確立する鎌倉時代以前まで続き、奥州一の会津仏教文化の黄金時代を創り出した」とあった。
恩地の丁石
堂山大師堂
地図でチェックし直すと役場支所から少し西、小田川が小田の町に向かって南に突き出たその西に大師堂はあった。お遍路さんの宿泊所となっているようだ。
小田の丁石
船戸の丁石
が、バス停も見つからないし、多数の石仏群も見えない。かろうじて山側のゴミ捨場脇に一体の舟形石仏が佇む。ここもなんらかの事情でどこかに移されたのだろうか。
小田川を渡り国道380号を三島神社に
国道を道徳、泉の集落を越え三島神社(内子町大平)に。神社手前のスペースにデポし真弓峠へと向かうことにする。
真弓峠への遍路道に;午前9時22分
国道380号と交差;午前9時29分
再び国道38号と交差;午前9時34分
●畑峠ルート
真弓峠越えは険路のため、昭和11年(1936)旧国道に隧道が掘られるまでの遍路道は、畑峠から田渡川の谷筋にある三島神社に向けて下り、下坂場峠を越えていったようである。
また、迂回路とあるのは、国道380号に昭和63年(1988)開通した新真弓トンネル(710m)を抜けて久万へ向かうように、とのことだろう。
旧国道に;9時41分
南コースの伊予落合とは新真弓トンネルを抜け、国道380号が国道33号と合流するところ。ひわた峠経由の北コースとは畑峠から下坂場峠を経て鶸田峠へと抜ける道の事と思う。
新真弓トンネル西口に;午前9時52分
林道を進み尾根への取り付き部に;10時16分
峠への手掛かりは何もないので、とりあえず林道を進み、途中成り行きで峠へのルートを探すことに。道を進むとほどなく「本川 野村」への林道から分かれ、地図に破線で示された林道に入る。
ジグザグの林道を20分ほど進むが、道は尾根筋から離れていく。尾根筋への道はなく、小さい沢を越えて尾根に向かって這い上がるしかないようだ。
真弓峠;午前10時25分
また、真弓峠への尾根筋はなんとなくわかるものの、 GPSなどでの位置確認ができなければ、お勧めできない峠越への上りであった。
●真弓
険路であるのに、峠名が真弓は女性らしい可愛い名前。チェックすると、由来はこのあたりに眉見城があり。眉見某が籠っていた故とのことであった。
峠から下り新真弓トンネル東口へ;10時44分
10時28分頃道を下る。右手が開けた明るい九十九折れの下り道を進むと10分ほどで沢に入る。足場の悪い沢を少し下ると前方が開けてきた。GPS でトンネルの上を横切っていることを確認し一安心。新真弓トンネル東口に下りる。15分程度で下り切った。
真弓峠越えは上りは道が消滅しているのに、下りはしっかりとした道が繋がっていた。
◆車デポ地に戻る◆
畑峠遍路道分岐点に;11時8分
道を200mほど進むと道脇に「大宝寺 畑峠遍路道復元 平成拾八年」と刻まれた石柱があった。ここから山地図に破線・実践で示されるルートを辿り、田渡川筋の三島神社へと下り、下坂場峠へと向かうことになる。
車デポ地に戻る;11時30分
来た道を、国道と2度交差しながら三島神社に戻る。ピストンで1時間10分ほどかかった真弓峠越えであった。次は農祖峠への取り付き口へと向かうことになる。
■国道380号を農祖峠へと向かう■
馬之地の堂宇
ところで、この堂宇は旧国道ではなく国道380号脇に立つ。旧国道にはそれらしき堂宇がなかったが、遍路道はこの辺りは現在の国道に沿って続いていたのだろうか。
父野川の地蔵堂
●父二峰村
このあたりはかつての父二峰村。父野川村と二名村、そして露峰村が明治の町村制実施時にそれぞれの村名から一字を取り命名された。二名は先回鶸田峠を越える時に歩いた。露峰村はこれから東、二名川が父野川に合流するあたりから東一帯の地であったようだ。
父二峰の道標
また、道を隔てた畑の脇に小さな道標が立つ。ここに二つも道標が立つ必要もないと思うが、「えひめの記憶」に拠ればふたつの道標の示す里程が異なり、小さな道標は農祖峠入口にあったものが移されたのでは、とする。
農祖峠入口;12時7分
道標;12時20分
道標;12時26分
農祖峠;12時29分
馬酔谷の舗装道と繋ぐ;12時40分
峠から10分ほど緩やかな道を下ると馬酔谷(あせぶたに;久万高原町下野尻乙)地区の舗装道に下りる。この地点から上は舗装が切れていた。地点を登録し車デポ地へと折り返すことにする。
●馬酔(あせぶ)
Wikipediaに拠れば、「馬酔木(あしび)というツツジ科の常緑低木。馬酔木の名は、「馬」が葉を食べれば毒に当たり、「酔」うが如くにふらつくようになる「木」という所から付いた名前であるとされる」とある。馬酔も馬酔木と同義ではなかろうか。
車デポ地に戻る;13時15分
来た道を折り返し車デポ地に戻る。ピストンでおおよそ1時間強の行程であった。
■馬酔谷と久万の町を繋ぐ■
馬酔谷の里道との繋ぎ場所に;13時45分
車デポ地から県道42号を下り、国道380号乗り換え、落合で国道33号に入る。久万高原町へと向かい、町に入る手前、馬酔谷(あせぶたに)の谷筋へと左折、細い道を農祖峠から舗装道と繋いだ地点まで進む。途中久万の水源施設(下野尻浄水場)の道の右手に「へんろ道」の案内があった。
とりあえず道を繋ぐため、峠から下り舗装道に出た箇所まで車で進み、途中見かけた「へんろ道」分岐箇所まで折り返す。
●下野尻から久万の町の遍路道●
農祖峠への道分岐点;13時53分
大宝寺・岩屋寺分岐;13時55分
右へと岩屋寺に向えば45番岩屋寺から44番大宝寺への「逆打ち」となるが、左の44番大宝寺から45番の岩屋寺の順打ちをすれば、46番札所浄瑠璃寺(松山市)への遍路道の関係上、一度44番に「打ち戻り」して先に進むことになる。 44番大宝寺から45番の岩屋寺の順打ち・打ち戻しルートは数年前歩いたので、今回は逆打ちルートを辿るべく岩屋寺方面へと右に折れる。
国道33号と交差;14時2分
■国道33号から久万川までの遍路道■
遍路道と国道33号交差地点に戻る;14時25分
上野尻の道標;14時28分
土佐街道三差路跡の道標;14時33分
旧国道からの遍路道も、旧土佐街道もその道筋は消えているが、かつての土佐街道三差路跡に道標が立つ、とのこと。民家軒下に小振りな道標が立っていた。
実の所、予定では、このまま土佐街道を進み久万川を渡り、宮ノ前、越(こえ)ノ峠(とう)、中野村を経て槇谷(まきたに)から、先回岩屋寺に向かった尾根の八丁坂まで進もうと思っていた。45番札所・岩屋寺から44番札所・大宝寺の逆打ち、打ち戻しなしの遍路道をトレースしようと思っていたのだが、ここで時間切れ。久万川手前までを一旦の区切りとして今回の真弓峠・農祖峠越えの散歩を終えることにする。
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