月曜日, 11月 27, 2017

秩父往還 雁坂峠越え そのⅠ:秩父・川又より雁坂峠を越え甲斐・三富に下りる

晩秋と言うか、初冬というか、天候不順のこの頃、どちらが適切な表現がわからないのだが、ともあれ11月初旬の週末を利用して、1泊2日で秩父往還・雁坂峠を越えた。
雁坂峠を越えようと思ったのは今から5年前。友人のSさん、Tさんと共に信州から秩父に抜ける十文字峠を越えて()秩父の栃本に出た時、そこから秩父往還を南に進めば雁坂峠を越えて甲斐・山梨にでる古道があることを知った。 縄文人も通ったとされる日本最古の峠、また飛騨山脈越えの針ノ木峠(2,541m)、赤石山脈越えの三伏峠(2,580m)と共に日本三大峠のひとつとされる雁坂峠(2,080m)越えに「峠萌」としては大いにフックが掛かったのだが、その後計画した予定日が大雨とのことで中止、そんなこんなで、なんとなく日が過ぎてしまった。
今回の旅のきっかけは十文字峠を共にしたSさんからのお誘い。台風による1週延期によりTさんはご一緒できなくなったが、Sさんの友人Kさんが参加されることになり、3名での山行となった。
スケジュールは初日に秩父・川又から登山道・秩父往還に入り、直線距離11キロ・比高差1350mを上り雁坂小屋で一泊。翌日は雁坂峠に上った後、8.5キロ・比高差800mほどを下る。
十文字峠の山小屋での凍えるあの寒さはもう勘弁と完全な防寒対策、食事はないと言う雁坂小屋とのことでの自炊用意のため、46リットルのザック一杯の重さ、更には痛めている膝の痛みもあり、通常6時間という上りに7.5時間、3時間程度の下りも4時間もかかるという為体(ていたらく)。パーティの足を引っ張りながらも、なんとか長年の想いであった「雁坂峠」を越えた。



本日のルート
初日
西武秩父駅から西武バス・川又バス停へ>川又バス停>入川橋>登山口>石の道標>水の本>雁道場>突出峠>樺小屋・避難小屋>だるま坂>地蔵岩展望台>昇竜の滝>雁坂小屋
2日目
雁坂峠に向かう>雁坂峠>下山開始>沢>峠沢右岸>峠沢を左岸に>林道に出る>雁坂トンネル口>鶏冠山大橋>道の駅 みとみ>甲府市駅

初日

西武秩父駅から西武バス・川又バス停へ

午前8時20分西武秩父駅集合のため、西武池袋駅を午前6時50分発の「特急・秩父3号」に乗り、西武秩父駅午前8時15分着。午前8時35分発中津川行の西武バスに乗り、国道140号を進み1時間で川又バス停に着く。
国道140号
当日はいつだったか三峰神社を訪ねた時に向かった秩父湖沿いの道を二瀬ダムで分かれ、荒川沿いの国道を進んだと思っていたのだが、バスはダムの手前で巨大なループ橋を進んでいた。
秩父湖・二瀬ダムにはそれらしきループ橋はない。地図をチェックすると、国道140号は三峰口を越えた先、大滝で荒川に沿って進むルートと中津川に沿って進むルートに分かれている。共に国道140号であり、ループ橋は中津川沿いの秩父もみじ湖・滝沢ダム手前にある。当日のバスは中津川に沿って滝沢ダムを越え、中津川と荒川を分ける山塊を抜いた大峰トンネルを通る国道140号、通称大滝道路を進み荒川筋の川又バス停へと進んだようだ。
大滝道路
『雁坂トンネルと秩父往還 蘇る古道(山梨県道路公社)』をもとにまとめると、「この中津川沿いの国道140号バイパスルートは大滝での分岐箇所から雁坂トンネルまでの17キロ強を「大滝道路」と呼ぶ。
もとは、大滝村地内の未改良区間及び交通不能区間の道路改築をもとに構想されたものだが、この区間のうち、二瀬ダム付近の駒ケ滝トンネル(バイパス道が完成し現在閉鎖)から栃本を経て川又橋に至る区間は名だたる地滑り区間でもあり、既存の秩父湖沿いの国道改築は困難とされ、中津川に建設される滝沢ダム建設にともなう付け替え道路工事と国道140号の改築工事を合併しておこなうことになった。
工事は昭和37年(1962)から着手。川又橋から山梨側に工事が進められ、昭和63年(1988)には豆焼橋の手前まで完成。また昭和59年(1984)正式着工の決まった雁坂トンネルへのアプローチとして豆焼橋から雁坂大橋までの区間はトンネルの開通に合わせて平成10年(1998)4月に完成した(平成2年から工事着工)。
全線開通は平成10年(1998)10月。滝沢ダム堰堤付近から上流5キロほどの区間に絶滅危惧種クマタカの営巣が発見されこの区間の工事が一時中止されたため。雁坂トンネル開通から大滝道路全面開通までの半年間は在来国道を使用することになり、大渋滞が発生した、と言う。
国道140号の3ルート
大滝道路のチェックに合わせ地図を見ていると、秩父湖沿いの従来の国道140号も二瀬ダム堰堤の先で二つに分かれる。山沿いの栃本集落を抜けるルートが往昔の秩父往還。秩父湖沿いのルートは大正時代より電源開発及び森林開発のための軌道(林鉄)跡を利用した車道であり、昭和28年(1953)には二級国道熊谷甲府線に指定され、後年、二瀬ダム建設に合わせて整備されていった。 二瀬ダムは昭和25年(1950)に計画され、昭和36年(1961)までに建設された。昭和25年以前、2級国道熊谷甲府線にあたる道路はダム下流の二瀬まで狭い砂利道であったようだ。
上に二瀬ダム付近の駒ケ滝トンネルのことをメモしたが、隧道内分岐のこのトンネルが閉鎖されたのは平成25年(2013)。荒川沿いに新たなバイパス秩父湖大橋が竣工したことによりバイパスが完成し、この隧道は閉鎖となった。

川又バス停;午前9時35分
中津川に架かる中津川大橋を渡り、十文字峠越えのときに白泰山から栃本へと辿った尾根筋の流れ、標高1100m程度の山塊を抜いた大峰トンネルを通り抜けると、バイパス国道140号は秩父湖沿いに続く国道140号に合わさる。少し上流に進むと往昔の秩父往還道であった旧国道140号も合流。この3ルートに分かれた国道140号が川の上流へと一つに合わさる箇所に西武バス・川又バス停がある。
バス停は、川上犬で知られる信州の川上村から十文字峠を越えて秩父の栃本に至り、西武秩父に戻るべく道を下ったバス停でもあった。水場やお手洗いもあるバス停で準備を整え雁坂越えへと向かう。

入川橋:午前9時55分
国道を少し進むと道路左手に扇屋山荘と書かれた宿・食事処がある。ここが今夜お世話になる雁坂小屋オーナーの家と聞く。
扇屋山荘を越えると、国道から道が右手に分岐し「入川渓谷 十文字峠」、直進する国道方向は「滝川渓谷 雁坂峠」との案内がある。川又はこの滝川と入川の合わさる場所と言う意味だろう。「入川渓谷」という文字に惹かれつつも、道は国道筋を進む。
入川渓谷
入川渓谷を形成する入川は荒川本流とされ、その源流点の石碑が入川渓谷を遡上し、赤沢との出合にある、という。この入川渓谷のことを知ったのは信州往還・十文字峠を越え白泰山に向かう途中、尾根道に股の沢分岐の標識があり、そこに「股の沢 川又」方面という標識があった。

「沢」という文字に故なく惹かれる我が身としては如何なるルートかとチェックすると、分岐点から股の沢を下り、入川筋に入ると赤沢出合から川又の近くまで森林軌道跡(入川森林軌道跡)が残る、と言う。また、赤沢出合いから赤沢を北西に遡上し、白泰沢に向かっても森林軌道跡(赤沢上部軌道跡)が続く、とも。
この森林軌道は東京大学農学部付属秩父演習林中にあり、林道は東大が敷設するも軌道の運営は民間の会社に委託されていたよう。大正12年(1923)に入川森林軌道が着工、昭和4年(1929)には川又から竹の沢まで敷設、また昭和11年(1936)には赤沢出合いまで延伸され、昭和26年(1951)には赤沢上部軌道敷設が完成した。
この森林軌道の敷設にともない、江戸時代は「御林山」と呼ばれ徹底した山林保護政策によって護られていた奥秩父の深森は、昭和に入ると、民有林・国有林・東大演習林を問わず伐採が進むことになる。伐採は特に戦後復興期の1960年代(昭和35年から)までが激しかったようであり、1970年(昭和45年)ころにほぼ伐り尽くし、奥秩父の森林伐採は終息することになった、と。 伐採のあとは、一部にカラマツなどが植林された区域もあるようだが、多くは伐られたまま放置され、奥秩父の深い森ははげ山と化した、とか。白樺の林がキャベツ畑に変わった信州・梓山の戦場ヶ原のように、奥秩父の深い森が現在どのようになっているのか、軌道跡とともに入川の渓谷を辿ってみたいものである。

因みに森林軌道は昭和44年(1969)に全線廃止されるが、昭和57年(1982年)に赤沢出合付近の発電所取水口工事の資材運搬の為に、軌道を利用することとなり、昭和58年(1983年)に三国建設による軌道改修工事が完成。昭和59年(1984)まで運用された。現在残っている軌道は、この三国建設が運用していた頃の軌道であろう。
森林軌道と国道140号
上に東京大学農学部付属秩父演習林中の森林軌道についてメモしたが、はじまりは、大正10年(1921)関東水電が強石~落合~川又間に敷設した資材運搬用馬車軌道。その後、川又のさらに上流に広大な演習林を有する東京大学が、上述の如く材木の運び出しのためにその軌道を改良して利用するようになっていったわけだ。
軌道の所有者も二転三転しているが、とまれ昭和26年(1951)頃には赤沢上部軌道まで延びた森林軌道も、昭和20年(1945)代ごろからはじまるモータリゼーションにより、トラック運材が盛んになり始めると、森林軌道は下流側から軌道の撤去と車道の布設が始まることになる。昭和27年(1952)頃までには、下流から二瀬までは車道化していたようである。
この道も昭和25年(1950)に着工し、昭和36年(1961)に完成した二瀬ダムにより二瀬から川又間が廃され、同時に付け替え車道が川又まで建設された。これが秩父湖に沿って進む現在の国道140号の前身といえるだろう。

登山口;10時9分(標高730m)
川又バス停から15分弱国道を進むと、道の右手に「雁坂峠登山口」の木標がある。石段を上り登山道に入ると、「秩父往還の歴史」に関する案内があり、
「秩父往還の歴史 雁坂峠と秩父多摩甲斐国立公園  雁が越え、人々が歩いた日本最古の峠道
三伏峠(南アルプス・2580m)、針ノ木峠(北アルプス・2541m)、とともに日本三大峠のひとつである雁坂峠(2082m)の歴史は古く日本書記景行記に日本武尊が蝦夷の地を平定のために利用した道と記されていることから、日本最古の峠道といわれています。
また、縄文中期の遺物や中世の古銭類なども数多く出土している他、武田信玄の軍用道路・甲斐九筋のひとつとしても知られています。 更に、秩父往還とよばれたこの道は、秩父観音霊場巡拝の道として多くの人々が通り、江戸時代から大正までは秩父大滝村の繭を塩山の繭取引所に運ぶ交易の道として利用されてきました。
一般国道140号となった現在は、奥秩父を目指す山道として秩父多摩国立公園の豊かな自然とともに登山者に愛されています。 雁坂峠の名は、この辺りが雁の群れの山越えの道であった事に由来しているとも伝えられています。
雁が越え、昔人が越えた雁坂峠、ここには美しい自然と遠く長い歴史があります 環境庁・埼玉県」とある。
一般国道140号のルート
なるほど、このような歴史のある往還道か、などど思いながらも、ちょっと疑問が。この説明を読む限り、今から上る登山道が「一般国道140号」と読める。
登山道が一般国道?
国道140号の歴史をチェックすると、二級国道甲府熊谷線と指定されたのが昭和28年(1953)。川又地区-雁道場-突出峠-雁坂峠(川又雁坂峠線)がルートとなっていた。
一般国道に昇格したのが昭和40年(1965)であるが、秩父と甲斐を隔てる雁坂嶺を穿つ雁坂トンネルが平成10年(1998)するまで雁坂峠の前後区間の登山道が国道指定されていた。

ついでのことでもあるので、この案内板が造られたのは?案内の「秩父多摩甲斐国立公園」部分が修正されている。元は昭和25年(1950)秩父多摩国立公園と称されていたが、その区域に広い占有地をもつ山梨がない、ということで、平成12年(2000)「秩父多摩甲斐国立公園」と改称された。
またクレジットの環境庁(現在は環境省)が新設されたのが昭和46年(1971)であるから、この案内がつくられたのは昭和46年(1971)から平成10年(1998)までの間と推測できる。その案内に平成12年(2000)以降、「秩父多摩甲斐国立公園」の箇所が修正されたのだろう。言わんとすることは、昭和46年(1971)から平成10年(1998)まではこの登山ルート。秩父往還が一般国道140号と指定されていた、ということだ。
どうでもいいことだけど、あれこれチェックすると、それなりに面白い歴史が現れる。

石の道標;10時21分(標高792m)

登山口から10分ほど、杉林の中、等高線を緩やかに斜めに高度を50mほど上げると「川又 雁坂峠」の木標の傍に石柱があり、文字が刻まれる。「勅諭下賜四十年**」「大正十一年 大滝村**」「右ハ甲州旧道 左ハ**後ハ栃本ヲ経テ三峯山ノ**」と言った文字が読める。
勅諭下賜四十年とは明治15年(1882)に明治天皇が陸海軍の軍人に下賜した「軍人勅諭」から四十年、という意味だろう。大正11年(1922は明治15年(1882)から40年である。
大滝村の在郷軍人会が中心となって立てた道標のようである。秩父往還のことは「甲州旧道」と記される。
消された道筋は?
ところで、「左ハ**」と記された道筋が気になる。ちょっとチェックすると、「バラトヤ線(槇ノ沢林道)から釣橋小屋を経て雁峠への道筋を示していたようだが、現在は廃道となったため、故意に潰された、といった記事をみかけた。 現在、甲武国境を抜くトンネルは雁坂峠下を通るが、これは昭和56年(1981)に国立公園保護や地質調査の結果、決定されたもの。
昭和29年(1954)に甲武を結ぶ国道建設の建設促進期成同盟が結成された当初は雁峠を1000m のトンネルで貫く計画であったようだ。事実昭和32年(1957)には雁峠で両県代表が計画実現を期して握手をしている、といった記事もある。 当初の140号線の計画では、滝川と豆焼沢が合わさる豆焼沢出合から八丁坂を刳り貫き、滝川本谷左岸から釣橋小屋上を通り水晶谷~古礼沢中流部をから雁峠~燕山~古礼山直下をトンネルで抜けるルートだったようである。
大正7年(1918)頃の殉職森林作業員の記念碑に「秩父ノ深山一路僅ニ通シテ甲武国境ノ森林保護利用ニ便シ兼テ両国ノ連絡交通ニ資スルモノ独リ此国有歩道バラトヤ線アルノミ」と記されるように、往昔は道標から消されたルート、甲武国境を抜けるトンネルが計画されたこの道筋は結構メジャーな往還であったのだろうか。
軍人勅諭
「正式には『陸海軍軍人に賜はりたる敕諭』。『軍人勅諭』(ぐんじんちょくゆ)は、1882年(明治15年)1月4日に明治天皇が陸海軍の軍人に下賜した勅諭である。
西周が起草、福地源一郎・井上毅・山縣有朋によって加筆修正されたとされる。下賜当時、西南戦争・竹橋事件・自由民権運動などの社会情勢により、設立間もない軍部に動揺が広がっていたため、これを抑え、精神的支柱を確立する意図で起草されたものされ、1878年(明治11年)10月に陸軍卿山縣有朋が全陸軍将兵に印刷配布した軍人訓誡が元になっている。
1948年(昭和23年)6月19日、教育勅語などと共に、衆議院の「教育勅語等排除に関する決議」および参議院の「教育勅語等の失効確認に関する決議」によって、その失効が確認された(Wikipediaより)」
在郷軍人会
「在郷軍人会(ざいごうぐんじんかい)は、現役を離れた軍人によって構成される組織のこと。一般的な用語としては、「退役軍人会」という言葉と混用して用いられるが、在郷軍人会は予備役にある人によって構成される(Wikipediaより)」

水の本;11時6分(標高1,063m)
等高線を時に垂直に、大半は緩やかに斜めに40分強の時間をかけて標高を270mほど上げる。登山路は杉林の中に時に残る紅葉が美しい。
と、木に「水の本」の案内。案内には「水の元 一杯水とも言う。昔、秩父往還を行き来した人の為の避難小屋的建物があり、山仕事にも使われたとか。 お地蔵様には武田家の隠し財産の言い伝えがあるようです。武田家滅亡の折、金の延べ棒など甲州金を秩父往還に埋蔵し、目印として北向地蔵を建てておいたと言われています。今となっては定かなことはわかりません」とある。
地蔵
案内のある木の側に地蔵が佇む。うっかりすると見逃してしまいそうである。 少々先走ったメモとはなるが、雁坂峠越えの全行程で唯一の地蔵であった。古い往還とはいいながら、丁石、石仏類は残っていない。四国遍路で、これでもか、といった石仏・丁石に出合うことを想うに、なにか理由でもあるのだろうか、と少々考えてしまう。
水場
水の本との地名の如く、案内のすぐ近くに微かな水の流れが見て取れた。水場として重宝されていたのではあろう。

信玄焼き
で、案内にある「武田家の隠し財産云々」は、それはそれとして「触らずに」おくが、秩父と武田と言えば、秩父神社散歩の時に出合った「信玄焼き」を想い起こす。関東各地でも見られる武田勢による焼き払いのことである。
秩父と武田の関係は、古くから奥秩父、また現在の秩父市小鹿野、吉田辺りは武田氏の勢力下にあったようだ。奥秩父には股の沢、真の沢には金山があったとも言うし、それを守るべく栃本の辺りには砦もあった、と言う。
その秩父に「信玄焼き」が起きた因は、小田原・後北条氏の勢力が寄居の鉢形城(永禄7年(1564)北条氏邦入城)を核とした北関東への勢力拡大にある。天文⒖年(1546)川越夜戦に勝利し武蔵国に覇権を確立した北条氏ではあるが、武田氏は旧域を守るべく、佐久盆地から十石峠、そこから志賀坂峠を越えて小鹿野(永禄12年;1569)、土坂峠を越えて吉田(永禄13年;1570)へと数百人程度の軍勢(大軍ではないようだ)を送り、その折秩父の中心である大宮郷一帯を焼き払ったようである。
永禄12年(1569)には武田信玄の本隊2万が小田原の北条を攻めるべく碓井峠を越え、鉢形城を攻めているが、信玄焼きとはいいながら、本隊が秩父に侵攻したわけでなく別動隊の所業ではあろう。いつだったか歩いた三増合戦は武田軍が小田原攻めの帰路に起きた日本で名だたる山岳合戦のひとつである。なお、武田の軍勢が秩父往還を越えて秩父に侵攻したといった記録はないようである。

雁道場;12時3分(標高1,291m)
1時間弱の時間をかけて標高を300mほど上げると尾根筋に出る。木には「雁道場」とあり、「毎年秋に雁の群れが南に飛んでいく時に、山を越す前ひと休みした場所らしいです。雁坂峠、雁峠などこの辺りが渡り鳥のルートのようです。黒文字橋から上がってくるルートがこの先にあります」と記してあった。
雁坂峠の由来

雁坂峠の由来をこの雁が嶺を越える「タルミ」故との説がある。雁坂峠の東にも雁峠という峠もある。新拾遺集のなかに三十六歌仙のひとりである凡河内躬恒(おおしこうち の みつね)が詠んだ「秋風に山飛び越えてくる雁の羽むけにゆきる峰の白雪」は雁坂峠を読んだといった記事もある。寛平6年(894)甲斐権少目として任官して、この地と縁が無いわけではないが、この歌が雁坂峠と比定されているわけではないようだ。
凡河内躬恒の歌がこの奥秩父山塊を詠ったものかどうかは不明であるが、ここから南に下った大菩薩嶺から続く南尾根には雁ケ腹摺山、牛奥雁ケ腹摺山、笹子雁ケ腹摺山といった名の山がある。奥秩父から南へと雁が山越えで飛んでいったルートを事実か否かは別にして、想像するのは楽しい。
因みに、雁坂峠の由来としては、秩父風土記に「日本武尊が草木篠ささを刈り分け通りたまえる刈り坂なり」と記されており、このことからカリサカと名付けられた、とか、この峠から罪人を駆逐したことより「駆り、カリ」と呼称されたことに由来する、といった説もあるようだ。

突出峠;13時12分(標高1,630m)
雁道場から突出峠まで、尾根筋を等高線にほぼ垂直に上ってゆく。地形図を見ると等高線の間隔も密接しており急登である。右手は開け、入川谷を隔てて十文字峠から白泰山を経て栃本に下った尾根筋が見えるのだが、息があがり、景色を楽しむ余裕がない。冬装備の46リットルのザックの重み、痛めた膝が少々キツく、思わず理由をつけて一人川又へと戻ろうと思ったほどである。気持は若いが、体がついていかないことを実感する。
1時間強の時間をかけ、標高を330mほどあげると突出(つんだし)峠の木標。 「川又 5.5㎞ 雁坂峠 雁坂小屋5.3km」とある。3時間強で半分ほど来たことになる。

突出とは言い得て妙である。峠部分の等高線の間隔が広く、突出したような尾根筋となっている。それはそれでいいのだが、ここを何故に「峠」と呼ぶのだろう。山道を登りつめてそこから下りになる場所。山脈越えの道が通る最も標高が高い地点、通常鞍部といったものが「峠」の定義ではあろうが、この峠はどれにも合わない。それともかつて、入川谷から滝川谷へとこの峠を越える道でもあったのだろうか。
突出峠から林業用モノレールが滝川谷へと下り出合いの丘(国道140号・豆焼橋近く)に続いている、といった記事があったので、今では廃道となった峠越えの道があったのかもしれない。
とは思いながらも、入川谷にも滝川谷にもそれらしき集落があるわけでもなく、誰が必要とした峠道かよくわからない。森林作業の便宜でそれほど遠い昔ではない頃に名付けられたのだろうか。峠命名の時期を知りたいと結構思う。

樺小屋・避難小屋;14時8分(標高1,784m)
突出峠で10分程度休憩し出発。道脇に案内があり、泥で汚れてちょっと読みにくいのだが、「このコースはその昔甲州武州を結ぶ唯一の街道で国越えの人や荷物の往来が盛んだったと言い伝えられています。交通機関の発達と共に現在は山を愛するハイカーのコースと変わってしまいました。
雁坂峠に上るには突出峠まで登るのが苦しいコースで。これからはゆるやかなコースになり峠まで達します」とある。地図を見ると、道は尾根筋を垂直に上るものの、等高線の間隔も割と広く、ちょっと安心。
が、突出峠までで結構体力を消耗しており、思ったほど楽ではない。結局標高を150mほど上げた避難小屋まで50分近くかかってしまった。樺避難小屋はしっかりした小屋。思わず、ここに泊まってもよかった、などとの軽口も出るほどであった。
森林植生
避難小屋の側に森林植生の案内があり、「かつて、この付近一帯はダルマ坂や地蔵岩付近にみられるようなコメツガ、シラベなどからなる鬱蒼とした亜高山針葉樹林に覆われていましたが、1959年(昭和34年9月)の伊勢湾台風によって未曽有の森林被害が発生し、景観は一変してしまいました。
現在この付近に数多く見られるダケカンバの優占する林分は風害直後に芽生えた稚樹から再生した林分です。ダケカンバ優占林の下層にはコメツガやシラベの若木が生育していますが、これらの多くも風害後に芽生えたもので、上層のダケカンバとほぼ同じ樹齢です。
コメツガに比べてダケカンバの成長速度が早いためにこのような群落状態示していますが、元のコメツガ林に近い状態に回復するには数百年かかります 環境庁・埼玉県」とあった。

いつだったか、ブナの原生林で知られる世界遺産の白神山地に行った時、二日目になって、「ところでブナ、ってどれだ?」といった程度の木々に対する知識しかない身には、イラスト付きの説明でも、どれがどれだかよくわからない。

だるま坂;15時5分(標高1.964m)
避難小屋近くにある「川又 5.6km 雁坂峠 4.5km」の木標を見遣り、比較的間隔の広い等高線をほぼ垂直に上り、標高を100mほど上げ、標高1,900m辺りになると間隔の狭い等高線を斜めに上ることになる。
少々きつい坂の途中に「だるま坂」の案内が木に架かっている。「だるま坂 ご苦労さまです。雁坂峠への道もこのだるま坂が最後登り坂です。この先300m右側に地蔵岩展望台入口を過ぎると小さな登降をくりかえす巻き道となります。 景色が開け、前方黒岩尾根の肩に雁坂小屋が見えてきます。ご安全に 1991」とあり、その下に、「と書いてからはや⒛数年。巻き道の樹林が伸びて、落葉の時期でないとなかなか雁坂小屋も見えにくくなってきました」と記されていた。

地蔵岩展望台;15時19分(標高2,000m)
だるま坂から2,018mピークを巻き15分ほどで地蔵岩展望台入口の尾根道に。案内には「地蔵岩展望台 うっそうとしたトウヒ、コメツガの原生林、巨木の中を歩く突出コースの中で、明るく周囲の山々を見渡せる所。雁坂嶺、東・西破風山、甲武信ヶ岳、三宝山と山々が続き壮観な眺めです。ここから5分もあれば岩の上に行けます。小屋へはここからは巻き道になります。 小屋へ2.5km 晴れていたら絶対おすすめです」とあるのだが、折あしく小雨とガスで展望は望めないと地蔵岩はパスする。

昇竜の滝;16時21分(標高1,979m)
地蔵岩からはおおよそ等高線2,000mに沿って尾根を巻いて進む。時に鎖場もあるが危険な箇所はない。地蔵岩辺りで降っていた雨も知らず止み、ガスも切れてくる。切れたガスの中に見えるのは滝川の谷を隔てた黒岩尾根だろうか。 それにしてもスピードが上がらない。結構痛めた膝にきている。
地蔵岩からおおよそ1.5キロ、滝川の上流、豆焼(まめやき)沢が大菩薩嶺に切り込む箇所に雄大な滝がある。何段にも分かれた瀑布が雁坂嶺から落ちてくる。
切り込まれ狭まった沢を越える。その先に案内があり、「昇竜の滝 雁坂嶺に源を発する豆焼沢。上部に見えるタンクから雁坂小屋まで10mの高低差を利用し、およそ距離1㎞をパイプで引いております。途中、パイプやバルブがありますが、命の水です。開けたりしないようお願いします。小屋まではあと少しです。がんばれ。960m 2013.10」とあった。
豆焼沢
昇竜の滝から下る豆焼沢は突山尾根と黒岩尾根に挟まれた谷筋を落ち、黒岩尾根が谷に落ちた先で、黒岩尾根と和名倉山(地図には白石山とある)から雁峠、雁坂峠へと続く尾根に囲まれた谷筋を下って来た滝川に合わさり、滝川として北に下る。
原全教の『奥秩父』には豆焼沢の紀行記“豆燒澤”に、「西の方には樹葉の間から豆燒澤の深い喰ひ込みが窺はれる。急に下ると、豆燒の溪水が最後の飛躍をなし、本流に這入らうとする優れた溪觀を垣間見る事が出來た。そこから一息に下つて流へ出た。
暫く快晴が續いたので、餘程減水したであらうとの豫想も外れて、四年前の秋來た時や、去年も梅雨期に通つたときと別段の相違も見られなかった。對岸へは巨岩から巨岩へ、三本ばかり丸太を括り合はした堅固な橋が架つて居る。あたりは澤沿ひに多少の磧もあり、流も平であるが、濶葉樹は豊富に之を覆ひ、上流は直ぐ折れ曲つて、全流の嶮惡も想像し得ない」とある。
深い谷が想像できる。なんちゃって沢上りを楽しむわが身には荷が重そうな沢のようだ。
豆焼沢の由来
その昔、ふたりの旅人がこの沢に迷い込み、拾った二粒の豆をひとりは無意味と食べず、もうひとりは焼いて食べた。で、食べたほうが生き延びた、とか。
滝川水系と沢
この滝川水系は大血川、中津川、大洞川、入川の谷と共に奥秩父北部に源を発する荒川の水源のひとつである。本流は入川とされ、原生の美は入川に譲るようであるが、和名倉山から雁峠・雁坂峠、そして突出尾根に囲まれた広大な流域に発する水量は他を凌駕する、と。
滝川水系には美しい渓谷をなす豆焼沢、滝川の上流部の曲沢、金山沢、槇の沢、八百谷、雁峠に詰めるブドウ沢、水晶山へと詰める水晶谷、古礼沢などと面白そうな沢が並ぶ。
少々手強そうだが、険しいゴルジュや広がる大釜、そして原生の趣が色濃く残る苔むした渓相など、奥多摩の沢とは違った沢景のようだ。秩父の沢にも入ってみたい。少々怖そうだが。。。

雁坂小屋;17時10分(標高1,950m)
ガスが切れ、黒岩尾根の先まで延々と続く秩父の山塊を見遣りながら雁坂嶺を巻く水平道を雁坂小屋へと急ぐ。気ははやれど体がついていかない。日も暮れてきた。昇竜の滝から雁坂小屋に通る導水パイプを目印に1キロ弱を40分以上かけて雁坂小屋に到着。小屋に到着したときは既に日が落ちていた。

小屋には10名ほどの先客がいた。小屋近くでテント泊をする方も薪ストーブの火で暖をとっていた。昇竜の滝から引かれた水を薪ストーブで沸かしてくれていたので、持参したバーナーを使うこともなく、携帯食で夕食をつくることができた。
小屋番の方の話では今年で小屋番を止める、とか。常連さんが引き留めていたので、さてどうなるのだろう。
午後8時には消灯。十文字峠の小屋での凍える寒さはもう勘弁と、冬用の寝袋を用意していたので、朝までぐっすり眠ることができた。


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