初日は土佐(高知県)での最後の札所である39番・延光寺からスタートし、予土国境の松尾峠を越え伊予(愛媛県)の愛南町に入る。二日目は愛南町を抜ける平坦地の遍路道をスキップし、南宇和郡愛南町の北端・柏から柏坂を越えて宇和島市津島へと抜けることにした。
愛南町の御荘には40番札所・観自在寺もあり、本来ならば予土国境を越えた後、愛南町の遍路道を辿り柏坂越えとしたいのだが、なにせ時間が足りない。今回も常の如く単独・車行であり、峠越え・山越えの後はピストンで車デポ地に戻らなければならない。倍の時間がかかる。おまけに季節柄日暮が早い。
初日の松尾峠越えは5キロ強、往復で10キロ程度ではあるが、田舎の愛媛県新居浜市から高知の39番札所・延光寺のある宿毛市まで高速を使っても3時間強の時間がかかり、松尾峠越えが精一杯だろう。平場を辿る時間の余裕はない。 2日目の柏坂越えは片道12キロほどもありそう。ピストン往復で8時間、1日がかりの山越えで、とても平場を歩く余裕はないようだ。
ということで、今回は平場歩きをスキップし、松尾峠越えと柏坂越えに計画を絞ったわけだが、初日は計画どおり。二日目は柏坂の登り口と下り口にバス停があり、ピストンは不用となり爾間の余裕はできたのだが、途中で予想外の大雨。ちゃんとした雨具を持参していなかったこともありびしょ濡れとなり、柏坂を越えて散歩続ける気力は失せた。結果的には2日目も計画通りのルーティングとなった。
今回南予の遍路道を歩くことにしたのは、思い向くまま気の向くままに辿った幾つもの愛媛の遍路道歩き・峠歩きの「間」を繋げる散歩の一環。西予市宇和町(かつての卯之町)の43番札所・明石寺からはじめた遍路道を繋げる散歩も、東予の西条市までつながった。
ここにきて、どうせのことなら西予市宇和町より南、高知県から愛媛県に入るところから道を繋げようと思ったわけだ。
南予は遠い。卯之町の明石寺まで、またいくつかの峠がある。基本は峠を「潰し」、その後に平場の遍路道を辿り43番札所・明石寺へと繋ごうと思う。あと何度か南予往復とはなりそうである。
本日のルート:
■39番札所・延光寺から宿毛市街へ■
39番札所・延光寺>遍路道分岐に茂兵衛道標>支尾根の丘陵を越えて国道56号に出る>県道4号を宿毛市街へ>宿毛大橋脇の遍路小屋>貝塚大橋>宿毛貝塚
■宿毛から松尾峠取り付き口に■
山裾の遍路道入り口に車をデポ>錦の集落に向かう>錦>小深浦>大深浦
■松尾峠越え■
松尾峠取り付き口;12時21分>松並木の跡>街道の石畳>茶屋跡>松尾大師堂跡>松尾峠>藤原純友城址>左手前面が開ける>林道・舗装道に出る>(松尾峠取り付き口に戻る)
■松尾峠下り口から小山の集落へ■
林道と繋ぐ;15時18分>小山の集落;15時30分
愛媛県新居浜市から高知県宿毛市へ
午前6時前には家を出て、高速道路の松山道(有料)に乗り、宇和島北インターから先は、一部有料区間はあったものの、そのまま宇和島自動車道(無料)を走り、宇和島市の市街を越えた津島岩松で自動車専用道を下り国道56号に入る。 国道56号に下り、右手に早朝の美しい宇和海を見遣りながら走り、愛媛県の最南端・愛南町を抜け宿毛市に入る。
札所39番・延光寺は宿毛市街を抜け、松田川を渡った先をしばらく走り国道56号から少し入った山裾にあった。おおよそ3時間強の車行であった。
●自動車専用道路が無料?
結構距離の長い(18キロ弱)宇和島自動車道が無料?何故とチェックすると、松山自動車道では平成22年、松山インター以西の高速道路を無料化する社会実験が行われたとあった。その名残だろうか。
■39番札所・延光寺から宿毛市街へ■
39番札所・延光寺
国道56号を左に折れ、田圃の真ん中の道を、山地からの支尾根のそのまた枝尾根の間に向けて入ると延光寺がある。途中高架橋桁の工事が行われている。地図をチェックすると、丘陵支尾根を切り開いた、いかにも道路工事らしき道筋が見える。国道バイパスでも通そうとしているのだろうか。
それはともあれ、仁王堂を潜り境内に入ると左手に鐘楼、参道を右に曲がるあたりに大師堂、右に曲がった先に本堂、その間に護摩堂があった。
Wikipediaに拠れば、「延光寺(えんこうじ)は、高知県宿毛市にある真言宗智山派の寺院。赤亀山(しゃっきざん)、寺山院(じさんいん)と号す。本尊は薬師如来。四国八十八箇所霊場の第三十九番札所。
寺伝によれば聖武天皇の勅命によって神亀元年(724年)に行基が薬師如来を刻んで本尊とし、本坊ほか12坊を建立、当初は亀鶴山施薬院宝光寺と称したという。その後桓武天皇の勅願所となり、空海(弘法大師)が来錫して再興、脇侍の日光・月光菩薩を刻んで安置、本堂脇に眼病に霊験のある「目洗い井戸」を掘ったといわれる。
伝説によれば延喜11年(911年)赤い亀が境内にある池からいなくなったが、やがて銅の梵鐘を背負って竜宮城から戻ってきた。そこで現在の山号、寺号に改めたという」とある。
●目洗い井戸
「目洗い井戸」は本堂から納経所に向かう途中にあり、「延暦十四年、弘法大師久しく当山に錫を止め再興の法を修せられるに浄水乏しきを嘆かれ、本尊に擬して地を堀り加持すれば霊水自ずから湧き出る。
大師この水を宝医水と名付け閼伽水に用う。一切衆生難苦得楽の為に八十八支の煩悩を断ぜしむ。今の眼洗井戸なり 云々」とあった。
閼伽(あか)水とは、仏前などに供養される水のこと。サンスクリット語アルギャの音写、原義は価値ある物を意味する。仏教における本尊に供養する重要な供え物のひとつで、塗香(ずこう;お香)、華鬘(けまん;飾り花輪)、焼香(しょうこう)、飯食(ぼんじき)、 灯明とともに六種供養と称される、と。
●赤亀と梵鐘の像
仁王堂から境内に入った右手に庭園があり、そこにある。「亀の背負うこの梵鐘には、「延喜十一年正月…」の銘が刻まれる。総高33.6cm、口径23cmの小さな鐘で、明治のはじめ高知県議会の開会と閉会の合図に打ち鳴らされていたともいわれ、国の重要文化財に指定されている」と説明にあるのだが???
梵鐘は亀の背中にくっついており、とても鐘として使えるとは思えない。チェックすると、亀が運んだと伝わる梵鐘は廃物稀釈で廃寺となった折に押収され、県議会で使われ、寺が再興なったとき戻されるも、国の重要文化財に指定となった現在は通常一般公開していないようである。要は、梵鐘を背負った亀は伝説をイメージ化して造られたものかと思える。
遍路道分岐に茂兵衛道標
延光寺を離れ遍路道を進む。寺を出ると直ぐに道脇に「40番 観自在寺 歩き遍路道」の案内があり、道は車道から逸れて土径に入る。その角に石の道標が立つ。中務茂兵衛建立の道標である。
正面には「第三十九番」、歩き遍路道側には「四十番 是ヨリ七里」と刻まれる。
支尾根の丘陵を越えて国道56号に出る
車道から分かれた遍路道はすぐに丘陵地に入る。木々に覆われた遍路道も5分程度で空が開け、10分強で丘陵を下り中山の集落に出る。
そこからは、支尾根の丘陵に囲まれた田圃の中の道を5分強進むと国道56号に出る。
県道4号を宿毛市街へ
国道36に出ると、遍路道は押ノ川、小森、と進み和田から県道4号に入り松田川に架かる宿毛大橋を渡り宿毛市街に入る。おおよそ5キロ弱。単調な車道を進むことになる。
●国道56号
高知県高知市を起点とし愛媛県松山市を結ぶ一般国道。昭和28年(1953)に二級国道松山高知線として指定。昭和38年(1963)に一級国道56号となり改築事業に着手。国道筋の隧道、トンネルもおおよそ昭和45年(1970)以降に完成したものがほとんどだ。
それ以前の国道56号の道筋については、2日目の柏坂越えの箇所でその経緯をチェックしようと思うが、宿毛トンネル傍には、手掘りの宿毛隧道が昭4年(1929)には掘られていたとか、後ほど辿る松尾峠の北の国道56号・一本松隧道脇には増田川沿いに昭和10年頃には旧道が通った、といった記事もあるわけで、往昔の伊予と土佐を結ぶ主要往還である宿毛街道を、馬車道程度ではあろうが、整備していったように思える。 ◆田圃の中が分水界
山塊を穿つ宿毛街道の道筋を伊予から宿毛まで辿り、更に土佐の中村まではどうなっているのだろうと地図をチェックすると、宿毛から中村までは谷筋を進み、道を遮る山塊はない。この道筋は容易に通せたのだろうなどと地図を眺めていると、奇妙なことに気が付いた。
中村に注ぐ中筋川の源流域と、宿毛に注ぐ松田川の源流域が、延光寺から宿毛市街に向かう途中の押ノ川地区の田圃でほとんど繋がりかけている。先日、兵庫県のJR宝塚線・篠山口駅近くで見た、武庫川水系と加古川水系が田圃の中で繋がる姿を思い起こした。
宿毛大橋脇の遍路小屋
宿毛大橋を渡った橋詰に遍路小屋が見えた。遍路小屋の脇には案内図が見える。実のところ、今回の散歩では、常に遍路道指南とする「えひめの記憶;愛媛県生涯教育センター」が予土国境・松尾峠の愛媛側からしか記事がない。県を越えての高知側の記事がないのは当然と言えば当然だが、高知県側の遍路道情報はないわけだ。
図書館で一応遍路道をチェックしたのだが、詳しいルート図は見当たらない。WEBにも感想記は多くあるのだが、肝心のルート図が見当たらない。仕方なく、地形図で大雑把な松尾峠へのアプローチを想定はしていたのだが確証はあく、現地でトライアンドエラーかと覚悟していた。
が、遍路小屋脇に遍路道案内があり、そこには宿毛市内から松尾峠までのルート図が示されていた。
図書館で見た遍路道案内には国道56号を進み、直接大深浦へと国道を離れ進むようであり、地図を見てその道筋を想定していたのだが、案内図には遍路道は宿毛市街から山裾の道に入り、錦、小深浦から大深浦へと進んでいた。
ルート確定したのは嬉しいのだが、なにせ単独・車行。山裾の道は土径であろうし、ピストン往復の距離が大幅に増えることも確定した。
●へんろ小屋
この「へんろ小屋」は四国四県にあり、平成28年(2016)4月現在で55のへんろ小屋が整備されている。地元の信用金庫や篤志家、企業の寄付でできているとのことである。寝袋の宿泊とはなるだろうが、歩きお遍路さんには大きな助けとなるかと思う。
貝塚大橋
遍路道案内に拠れば、遍路小屋から松田川沿いの道を北に進み、宿毛文教センターの手前を左に折れ、宿毛郵便局前を西に進み、宿毛警察署前から右手に分岐し、その道を進み国道56との合流点を右折。与市明川に架かる与市明川橋の手前・長田交差点で左折。与市明川橋のひとつ下流に架かる貝塚大橋へと市街地を抜ける。案内の通り宿毛市街を抜けると。橋を渡った北詰めには「へんろ道 松尾峠」の案内があった。一安心。
●与市明川
地名が面白い。由来をチェックすると「土佐地名往来(高知新聞夕刊連載記事)」に「与市の名田。田圃に付けた名」とある。「明」は「名」に置き換わったのだろう。与市の意味は不詳だが、名田とは?Wikipediaをもとにチェックすると大名に繋がる話が現れた。
その話とは、7世紀末から8世紀初頭にはじまった律令制度が9、10世紀になると、その基礎となる支配人民単位からの租税徴収が困難となり、租税徴収を公田(土地)単位に変わる。それに伴って国衙の経営する公田を名田、また名と呼ばれる租税収取単位へと再編された。
この名田制度は11世紀より広まった荘園にも採用され、荘園内の耕作地は名田へと再編成されていった。公的・私的を問わず、支配者は「人」単位でなく「名田=土地」単位で公事・年貢を収取するようになった、ということだろう。
で、この名田を経営する者を田堵と称していたが、田堵が力をつけ名田の永代保有権を有するに至り、その名称も名主となる。大名とはもとは大きな名田を領有するものであり、名田制度は室町時代の守護領国制のもとゆるやかに解体がはじまり、戦国時代時代には戦国大名の一円支配により完全に解体し、安土桃山時代の太閤検地により名田は完全に消滅するが、領国支配者は守護大名、戦国大名、江戸の大名とその名を遺した。
宿毛貝塚
田圃の中を通る道を進むと、ほどなく「史跡 宿毛貝塚」と刻まれた石碑が立つ。その裏一帯は平坦な草地となっている。案内には「国指定史跡 宿毛貝塚 宿毛貝塚は、縄文時代中期(約4,000年前)~後期(約3,000年前)の貝塚で、昭和32年7月27日に国の史跡に指定されています。
貝塚は、当時の人たちが廃棄したごみ箱で、貝殻が最も目につきやすいことから貝塚と呼ばれておりこの宿毛貝塚からも縄文土器及び石器、獣骨、魚骨、貝類などが出土し、人骨も発見されています。
明治後半に、郷土史家寺石正路によって初めて学術的に紹介され、それ以来四国西南部に所在する貝塚として、全国的にも有名な貝塚となり、また、昭和24年8月には、高知県教育委員会によって発掘調査が行われ、東と西の貝塚を持つ四国で最大規模の貝塚であることが確認され、東貝塚からは縄文人骨が発見されました。
東貝塚と西貝塚は約60m離れた場所にあり、住居址等はまだ未発見ですが周辺に形成されていることが考えられます。なお、指定地のうち西貝塚については昭和53年度に公有化され、昭和61年度及び62年度に、史跡保存修理工事が実施され、整備が図られました。
この貝塚は縄文時代の生活を知るうえで極めて貴重な遺構であり、私たちの祖先の歩みを理解するためにもかけがえのない文化遺産です」とあった。
■宿毛から松尾峠取り付き口に■
山裾の遍路道入り口に車をデポ
貝塚近くで出合った方に、山裾を進む道のことを尋ねると、車では行けない、とのこと。広い貝塚に車を置けばいい、とは言われたのだが、さすがに国指定史跡敷地に車デポするのは躊躇われ、車を先に進める。
道が狭くなった先に急勾配の坂があり、その途中の左手に空き地があった。そこに車をデポし、松尾峠へ繋がる遍路道を辿ることにする。
錦の集落に向かう
デポ地から急坂を上る。のどやかな風景だ。振り返ると、急ぎ通り抜けた宿毛の市街が見える。急坂を上り切ったあたりで舗装も切れ土径となる。 土径を5分ほど進むと道は二つに分かれる。案内に従い下道を進むと前方が開け海と島が見える。
衛星写真でチェックするに、島は松田川が宿毛湾に注ぐ広い河口部にある大島のように思える。海も遠浅だろうか、河口部は砂州状態のようだ。その先、宿毛湾の向こうに見える山並みは幡多郡の半島部分だろう。地図を見てはじめて宿毛市街は宿毛湾より少々奥まった、松田川下流域にあるのがわかった。
●宿毛平野の形成と地名の由来
松田川河口に形成される宿毛平野は、宿毛貝塚の時代、縄文時代中期(約4,000年前)~後期(約3,000年前)には遠浅の海であったが、松田川の運ぶ土砂の堆積により砂州が形成され、沖積平野が形成されていった。 この宿毛平野の原型をなす沖積平野は、満潮時には湿地状態となり葦が生い茂ったようだが、枯れた葦のことを古代の人は「すくも」と称した。藻屑を「すくも」とするなど諸説あるようだが、枯れた葦を宿毛の由来とするのが主流のようだ。宿毛という文字は、「すくも」の音に後世あてはめたものである。
錦の集落
道を進むと錦の集落に。車デポ地からおおよそ20分弱といった距離。歩いているときは山間の集落かとも思ったのだが、地図で見ると松田川近くまで落ちる支尾根に挟まれ、前方が松田川河口に向かって開けたところではあった。
●錦の由来
「宿毛市歴史館」のWEBの記事に拠ると、「この地に住む法華津四郎の妻は京の都の人で、織物をよくし、為に村名を「錦」とした、とある。法華津四郎の出自は不明だが、この地を領した一条氏は五摂家のひとつであり、応仁の乱を避けてこの地に中央から下向したとあり、法華津某の妻が都の出といったストーリーは真偽はともあれ違和感は、ない。
なお、一条氏、長曽我部氏に仕えた立田九郎右衛門は、村の北の新城山に居館を構えたとされるが、その出城を村の西の山麓に置き、錦城と称したようである。
小深浦の集落
錦の集落の遍路道を辿り、再び農家脇から丘陵越えの土径に入る。ちょっとした切り通しを抜け、右手に池が見えるとそこは小深浦(こぶかうら)の集落。錦から10分弱であった。
小深浦の集落の周囲は一面の田圃。地名から推測するに、往昔は深く入り込んだ入江の浦(漁村)ではあったのだろう。実際衛星写真を見ると、深浦の南は松田川の河口に出来た砂州(現在は埋め立てられている)と、それに続く大島から入り込んだ入り江となっており、船運の拠点となっている。昔は深浦の入り江から舟が行き来していたのだろう。
●土佐の褐牛
小深浦の田圃の真ん中南北に貫く小川(新城山の山麓が源流)の脇に石碑があり、「土佐の褐牛 モーすぐ伊予やけん ことお(注;「お」は小文字)たら ちいと休まんかね」と刻まれる。 土佐の褐牛は明治の頃、九州より移入され、水稲二期作の盛んな土佐で使役牛として盛んに飼育されたようだ。農耕牛としての需要が無くなった現在、土佐の褐牛は食用として改良が重ねられているとのことである。
で、「ことお」って? 気になってあれこれチェックすると、「こたう ことうた」で「疲れる。身にこたえる。一日歩きまわってことうた(疲れた)」との記事があった。
大深浦の集落
小川を越えてそのまま丘陵の道を進み、5分程度で大深浦の里を走る車道にでる。ここも元々は入り江の浦(漁村)ではあったのだろう。小深浦より気持大きな「浦」に見える。
何故に山麓の道を?などとも思っていたのだが、往昔現在の海岸沿いの道は一面の湿地・海であったとすれば、至極納得の道筋ではあった。
それはともあれ、松尾峠越えはこの大深浦から取り付くことになる。山裾の道を車道と繋ぎ終え、ひとまずピストンで車デポ地に戻る。
■松尾峠越え■
松尾峠取り付き口;12時21分
宿毛貝塚近くの車デポ地まで戻り、山裾の道を大深浦の車道と繋いだところに戻り、遍路道でもある狭い車道を松尾峠の取り付き口まで進める。
車道は土径に入る松尾峠の取り付き口まで進めることはできたのだが、そこは民家の倉庫・車庫の前。さすがにそこに車をデポする勇気はなく、道を少し戻り、適当なスペースを見つけて車をデポし、峠への取り付き口に向かう。
●松尾坂口番所
峠への取り付き口へと向かう途中に「松尾坂口番所」跡があったようだが、車で走った為か見逃した。一応案内をメモしておく「松尾坂口番所跡 松尾坂は、伊予と土佐を結ぶ重要な街道であったため、その麓にあったこの番所(関所のこと)はすでに長宗我部の戦国末期から設置されていた。
慶長6年(1601)山内氏入国後も、この番所は特別に重視され、四国遍路もここと甲浦以外の土佐への出入りは許されなかった。そのため多くの旅人でにぎわい、多い日で三百人、普通の日で二百人の旅人があったと古書に記録されている。この旅人を調べ、不法な出入国者を取り締まったのが番所で、関守は長田氏であり子孫は今もここに居住している」と。
松並木の跡;12時35分(標高130m)
峠への取り付き口には「松尾峠 1.7km」の木標。思ったより短そうだ。ゆるやかな上りの右手にはミカン畑が続く。ミカン畑は結構長く続き、5分ほど歩き、右手が大きく開ける谷筋はミカンの木で埋め尽くされていた。
少し進み今度は左手が開け、宿毛湾が少し見える辺りに「松並木の跡」の案内板。「松尾坂の街道全体に松並木があったが、戦時中軍部の指示により船の用材にするためすべての並木松が伐採され、その根は掘られて松根油の原料とされた。その掘り跡が街道の各所に残っている」とあった。
街道の石畳;12時39分(標高180m)
松並木の案内の先は竹林。その先の土径は木で土止めをした階段になっている。脆い地盤を補強しているのだろうか。と、その先に「石畳」の案内。「この道は重要な街道であったため、雨水で土の流失のおそれがある所では、ところどころこのような石畳がしかれ、路面を整備していた」とある。
石畳と言えば、それらしき名残も感じられるが、箱根の旧東海道東坂の敷き詰められた石畳を見てしまっている身には少々説得力に乏しい。
茶屋跡;12時52分(標高290m)
石畳の辺りからは尾根筋を巻き10分強歩くと左手が開け、宿毛湾が一望のもと。かつてはこの地に峠の茶屋があったようで「茶屋跡:土佐側にあった峠の茶屋跡で、旅人はここで一服し眼下の宿毛湾の絶景に疲れを癒した。昭和初期まで茶屋があり、駄菓子やだんご、わらじなどが売られていた」の案内があった。
●宿毛湾
宿毛湾と言えば、日本海軍の泊地として知られる。呉の軍港から太平洋での演習に際し、豊後水道南端の広くまた水深の深いこの湾に泊まったという。演習だけでなく呉の海軍工廠で建造された軍艦の全速走行テストなども行われ、戦艦大和をはじめ今に残る白波を切って進む軍艦の写真の多くがこの宿毛湾で撮られたもの、という。こんなことを考えながら静かな湾を眺めた。
松尾大師堂跡;12時53分(標高290m)
前面が開けた茶屋跡から木立の中に入るとお堂が見える。松尾大師堂である。 「大師堂跡 ここにあった大師堂には弘法大師が祭られ昭和初期までは建物も残っており、ここを通るお遍路さんは必ず参拝して通ったものである」とあった。
「昭和初期までは建物も残っており」? 「過去形」となっているのだが、大師堂は現在も建っているのだけれど?
チェックすると、「えひめの記憶;愛媛県生涯学習センター」には「かつての大師堂は道路開通後、地元の有志がもらい受け、一本松町広見(合併し、現在は愛媛県南宇和郡愛南町)に移築した。現在峠には新たな大師堂の再建が進み、平成13年12月に落慶法要を行った」とあった。
で、この場合の「道路開通後」とはいつ頃のことだろう。チェックすると、「えひめの記憶」に、「昭和4年(1929)に旧宿毛トンネルが完成し、さらに同10年一本松―宿毛間の道路が開通」とあるので、昭和10年頃(1935)ではないかと推測する。
松尾峠;12時54分(標高300m)
大師堂を少し先に進むと、道標や石碑、そして案内板が並ぶ。「一本松町指定文化財 松尾峠の境界石」と刻まれた新しそうな石碑もある。一本松町は愛媛県。予土国境を越えたわけだ。
それはそれとして、この石碑が指定文化財というわけではなく、峠を挟(はさ)んだ東側に建つ「従是(私注;これより)東土佐國」と刻まれた土佐藩建立のもの、西側に建つ「従是西伊豫國宇和島藩支配地」と刻まれた宇和島藩建立、このふたつの領界石が文化財ということだ。
宇和島藩の境界石は遍路道傍に建ちすぐにわかるのだが、土佐藩のものは道からほんの少し離れているため、見逃しそうになった。
●松尾峠
峠にあった松尾峠に関する案内には「予土国境松尾峠:昭和4年、一本松町~宿毛間に道路が開通するまで、この峠は伊予と土佐を結ぶ街道として利用されていました。
昔は坂を下った所にそれぞれ御番所があり、不法越境者を厳しく取り締まっていたそうです。また、この峠には2軒の茶屋があり、みち行く人々の休息の場所であったといわれています。
寛永15年(1638)大覚寺門跡空性法親王は、「ひたのぼり登りてゆけば目のうちに開けて見ゆる宿毛松原」と詠み、眼下に広がる宿毛湾の絶景をたたえています」とある。
また、大師堂傍にあった同じく松尾峠の案内には、「松尾峠 伊予と土佐の国境にある標高300メートルのこの峠には南予と幡多(私注;高知県)を結ぶ街道が通り,幕府の巡見使をはじめとし,旅人や遍路の通行が盛んで,享和元年(1801)の記録に,普通の日で200人,多い日には300人が通ったと記されている。
国境の石柱は伊予側のものは貞享4年(1687)の建立で,土佐側のものはその翌年,高知で製作し,下田までは海上を船で,その後は陸上を馬車等で運んだものである。昭和4年(1929)宿毛トンネルが貫通してからはこの峠を通う者もなくなり,その頃まであった地蔵堂や茶屋も今は跡だけが残っている」とあった」とする。
◆境界石
「従是西伊豫國宇和島藩支配地」と刻まれた境界石について、「えひめの記憶」は「宇和島藩では領界の目印として、はじめは木柱を立てたが、貞享4年(1687)3月に石柱にしたという。そのことについて『幡多郡中工事訴諸品目録』によると「松尾坂御境目示榜示杭今度与州より御立替候処、ミかけ石長八尺幅七寸四方、文字従是西伊豫國宇和嶋領と切付漆墨入と有右之境杭立被申由(以下略)」と記されている。
現在、峠に立っている領界石とは明らかに刻字が異なる。それでは松尾峠に立つ領界石は何時のものか。確証はないが、領界石の「…宇和島藩支配地」の表記から版籍奉還後から廃藩置県に至るまで(明治2年[1869]~明治4年[1871])の間に立てられたものではないかと考えられている」とする。
「支配地」という文言の解釈ではあろうが、明治2年(1869)にかねてより、各諸侯(旧大名)から出された版籍奉還が明治政府の認めるところとなり、藩が明治政府のもとでの行政区となり、諸侯が知藩事に任ぜられる。
この結果政府直轄の府・県とともに知藩事の管轄下にある藩により全国が統治されることになるが、この体制も明治4年(1871)の廃藩置県で終りを迎えた。 子文書にある「宇和嶋領」ではなく「宇和島藩支配地」とあるのは、「知藩事の管轄下にある藩」との解釈であろうか。
◆遍路道の変遷
39番延光寺から宿毛へ |
「えひめの記憶」には、「昭和4年(1929)に旧宿毛トンネルが完成し、さらに同10年一本松―宿毛間の道路が開通し」とあり、案内と少し時期が異なるが、ともあれ荷馬車が通れるくらいの道が開かれたのだろうが、荷馬車はともあれ、この峠道はそれほど厳しくもなく、大きく北に迂回する道路に比べると、人の往来だけであれば結構便利かとも思えるのは、峠歩きフリーク故の印象だろうか。
◆御番所
松尾坂越え |
◇土佐の遍路取締り
この事例に限らず、土佐藩は遍路の取り締まりは厳しかったようである。上述滞在期間の限定、遍路の歩く道筋は霊場を結ぶ指定の道に限定の他、参拝霊場も16の霊場にみに限定、宿は遍路宿と善根宿のみで一般の農家・旅籠は禁止された。
「乞食同様の輩、老幼病人が数百人も行き掛かり、藩内で病死するのはまことに厄介千万である。それゆえ遍路については生国の発する往来手形や相応の路銭の有無を、また回国 六十六部の者であれば、所定の仏具の持参の有無をしかと改めて、不審な者は国境へ追い返すべし」といったお触れも発せられている。 四国四県のうち遍路に厳しい土佐を避け、阿波の国の最南端にある 23番札所・薬王寺や伊予の国の最南端にある40番札所観自在寺を参拝した後、土佐を向かい遙拝すれば、土佐の16の札所を参拝したとみなす 「 三国参り 」 もできたようだ。
ただ、土佐藩は遍路だけに厳しいといったものではなく、他国からの入国を嫌い、領民の旅行の制限、農民の移動の制限など一種の鎖国政策の一環として遍路にも厳しい取り締まりが実施されたようだ。根底には貧しい藩の財政がある、とも言われる。遍路への厳しい取り締まりは、明治、大正時代までも続いたようである。
◆大覚寺門跡空性法親王
「えひめの記憶」には空性法親王に関し、「近世になって世情が安定するとともに四国遍路は盛んになっていったが、近世以前から近世にかけてのまとまった四国遍路資料はごく限られたものしかない。そのうち、嵯峨大覚寺の空性法親王が寛永一五年(一六三八)八月より一一月にかけて四国霊場を巡行した折の記録『空性法親王四国霊場御巡行記』や、それから一六年後の承応二年(一六五三)七月から一〇月にかけて四国を巡った京都智積院の僧澄禅の『四国遍路日記』などは、もっとも初期の遍路資料として貴重なものである。
また、これらは霊地巡行の記録であるとともに、各地の風俗人情に触れた体験的紀行文としても注目される。以後、四国遍路が一般に普及するとともに多くの文人墨客が霊地を訪れるようになり、いくつかの遍路紀行が残されている。岡西惟中の『白水郎子記行』、大淀三千風の『日本行脚文集』、十返舎一九の『方言修行金の草鞋』などはその代表的なものであろう。
◇空性法親王四国霊場御巡行記
本書は伊予史談会蔵の写本によれば、内題を「嵯峨御所大覚寺宮二品空性法親王二名州御巡行略記」という。真言宗本山の一つ洛西嵯峨大覚寺の空性法親王の四国霊場巡行に随行した太宝寺の権少僧正賢明が命によって執筆したものである。空性法親王は後陽成天皇の弟にあたり、若年にして嵯峨大覚寺門跡准后尊信に従って密教を修行され、あとを継いで大覚寺門跡となっている。四国霊場御巡行は六八歳の時のことである。
また、筆録者の賢明は跋文に太宝寺の僧であることが記されているのみで、その経歴は明らかではないが、澄禅の『四国遍路日記』によれば太宝寺は皇室との縁が深く、寂本の『四国遍礼霊場記』に「菅生山太宝寺大覚院」という院号が見えるから、大覚寺との関係が深かったことが推測される。法親王の御巡行に太宝寺の沙門が随行したことは自然なことであったのであろう。
この記録は、四四番菅生山太宝寺を起点に讃岐、阿波、土佐を経て再び太宝寺に至る、足かけ四か月の日数を費した旅の記である。八十八か所の札所のみならず、各地の有名な神社、仏閣、旧蹟などに足をとめてその歴史的記述にも意を用いている。
伊予に関する記述が全体の約半分を占めており、その中には河野・越智系図に見られる伝承をふまえ、中国の名勝に筆が及ぶなど、その該博な知識を窺わせるが、とくに南朝方の諸将と遺跡に関する記述が詳しい。法親王の巡行にふさわしい内容を持ち、七五調を基調とした流麗な詞章をつらねて格調高い紀行文の態をなしているが、一面具体的な記述に欠け、現実感に乏しいうらみがある」とある。
藤原純友城址
峠の道標に「純友城址 350m」の標識がある。往路は気分的に余裕がなく、ピストン復路で時間に余裕があったため訪れたのだが、便宜上ここでメモしておく。
道標に従い平坦な道を西に向かう。ほどなく「純友城跡 30m」「城跡展望台」の木標に従いそれと思える場所に行ったのだが木々に囲まれた、なんということもない場所であったので直ぐに引き返した。
で、メモの段になってチェックすると、結構立派な展望台がある。宿毛湾の眺めがいい、とも。そんなもの何処に?狐につままれた感がある。木標を逆にむかったのだろうか?今となっては後の祭りではあるが、それにしても???
●藤原純友
藤原純友って平安中期頃、瀬戸内で朝廷に対し反乱を起こした人物であり、同じ頃関東で朝廷に対し反乱を起こした平将門とともに承平天慶の乱の主人公のひとり、ってことは知っているのだが、それ以外のことはよくしらなかった。根拠地は瀬戸内の日振島ってことも知っていたが、それが宇和島沖にあるとは想像もしていなかった。
Wikipediaをもとに藤原純友の何たるかを簡単にまとめる;平安時代、栄華を極めた藤原北家の系統に生まれるも、幼くして父を亡くし中央での活躍の場もなく、縁者を頼り伊予掾として瀬戸の海賊鎮の任に当たる。
任が終わった後そのまま伊予に土着し、承平6年(936年)頃までには海賊の頭領となり宇和島沖の日振島を根城として周辺を荒し、次第に瀬戸内全域にその勢力を拡げる。
関東で平将門が乱を起こした頃、その動きに呼応するように畿内に進出、天慶3年(939)には淡路国、讃岐の国府、九州の大宰府を襲っている。 朝廷は純友追討の軍を派遣、天慶4年(941年)に博多湾の戦いで、純友の船団は追捕使の軍により壊滅させられた。純友は子息の藤原重太丸と伊予国へ逃れたが、同年に討たれたとも、捕らえられて獄中で没したともいわれている。 将門の乱がわずか2ヶ月で平定されたのに対し、純友の乱は2年に及んだとのことである。
◆松尾峠の純友城跡
この城跡は純友が伊予を逃れるとき、妻を匿った城と言う。『前太平記巻11』には、「ここに栗山将監入道定阿という者あり、これは伊予掾純友が末子重太丸が母方の祖父なり。去ぬる承平の頃、純友隠謀露顕して伊予国を出奔せし時、定阿入道も重太丸が母を具して当国を立退き、土佐国松尾坂と云所に忍びて居たりけるに、一類残らず討たれ重太丸も縲紲の辱に逢うて京都にて誅せられぬと聞しより彼母恩愛の悲歎に堪えず、慟哭のあまりにや物狂はしくなりて巫医の功を尽すと云へども更に験もなく今年(天慶4年)8月16日に思死にぞ失にけり」とある。この記述を時系列で整理すると、
○朝廷の追討軍が日振島を襲い、敗れた純友は大宰府に逃れる
○大宰府で勢力を盛り返した純友に対し追討軍が大宰府を攻め、純友軍は壊滅
○純友とその子重太丸は伊予に逃れるも捕えられ、親子共々誅される
ここから類推すると、純友の妻がこの城に隠れたのは日振島で純友が朝廷の追討軍に敗れたとき。悲しみのあまり狂ったとされるのは、大宰府での敗北後、伊予に逃れるも捕えられ誅されたとき、ということだろう。
●四国のみち
峠には「四国のみち」の案内があり、「ようこそ愛媛へ 四国のみちをお歩きの皆様 お疲れ様です。ここは愛媛県ルートの始点であり、ここから川之江市の終点(徳島・香川県境)まで465キロに及び、四国のみち全体の約30%となっております。これから愛媛の風土を楽しみながらゆっくり歩を進めてください 四国のみち(自然遊歩道)路線概要図」とある。
歩き遍路や山歩きをしていると、折に触れて「四国のみち」の木標に出合う。よくよく考えると、「四国のみち」って何だろう?チェックすると、「四国のみち」とは歴史・文化指向の国土交通省ルート(約1300km)と、自然指向の環境省ルート(約1,600km)の総称。環境省ルートは「自然遊歩道」が正式名称であるあが、ルートは重なる道筋も多く、まとめて「四国のみち」と称されるようだ。松尾峠のこの案内には「自然遊歩道」のクレジットがあるので、環境省が整備したルートかと思える。
環境省ルートは、「四季を通じて手軽に楽しく、安全に歩くことができる自然遊歩道」として整備されたのはわかるのだが、何故建設省が?そこには道路整備だけでなく、自然派志向の世論もあり、昭和52年(1977)以降「自転車道」「歩道」の整備をも重視することになった背景があるようだ。
この建設省ルートは基本遍路道を基本としながらも、既存道路の利用という前提もあり、札所を結ぶとはいいながら遍路道との重なりは6割弱とのこと。国道、県道、市町村道、林道整備がその主眼にある故ではあろう。
上に建設省ルートが歴史・文化指向といった意味合いは、札所や遍路道の歴史的・文化的価値を見出し、モータリゼーションの発展にもない、昭和59年(1984)には15万人もの人が訪れるおとになった四国遍路を観光資源としてそれを繋ぐ道を整備していったようにも思える。
左手前面が開ける;13時9分(標高240m)
松尾峠からの愛媛側は等高線の間隔も広く緩やかな傾斜となり、崖側も木の柵で整備され快適な道となる。尾根筋を僅かに巻いた道筋を10分ほど進み、「観自在寺 15.3km 松尾峠09km」の木標のある辺りまで、標高を60mほど下げると左手前面が大きく開ける。
林道・舗装道に出る;13時17分(標高150m)
はるか下方に道路が見える。当初想定していた山道から里に下りた小山の集落までは結構あるよな、などと想いながら道を10分くらい進むと、足元に歩道が見えた。地図を確認すると小山の集落から尾根筋を抜き、東小山に抜ける道が舗装されていた。
小山の集落から結構手前ではあったが、ここまでは車で詰めることができそうであり、「道を繋いだ」ということで、ここから車デポ地にピストンで折り返す。
松尾峠取り付き口に戻る;14時40分
今来た道を折り返し、松尾峠で純友城址に廻りこみ、松尾峠の取り付き口に戻る。往復2時間半弱の松尾峠越えであった。
●海を渡る遍路道●
「えひめの記憶」には、松尾峠越えを避け、城辺町深浦(現在の南宇和郡愛南町深浦;御荘の町から国道56号を東に進んだ、深く切り込んだ入り江)から海を渡る遍路道を、「深浦はリアス式海岸の良港で、藩政時代には宇和島藩の番所が置かれていた。国境の急峻な松尾峠の難所を越える代わりに、深浦―片島(宿毛)間の渡船は許されていた。大正7年(1918)、24歳で四国遍路に出た高群(たかむれ)逸枝は、『お遍路』の中で「7月24日まだ暗いうちに観自在寺を出た。延光寺まで7里であるが、伊予と土佐の国境に松尾峠の難所があるので、遍路にもここは船でわたることがゆるされていて、雨近い天気なので、私達も深浦の港から、大和丸という巡航船に乗った。そして一時間で片島(現宿毛市)に上がった。」)と記している。
また漫画家の宮尾しげをは、昭和7年(1932)に宿毛から乗船した様子を『画と文 四國遍路』に、「海路の船賃は『普通は五十銭だが、御遍路だから四十銭に割引です』と札賣が云うて、桃色の札をよこす『御遍路殿二割引四十銭、上陸地深浦港、乗船地宿毛港、月日、大和丸』と印刷してある。船へ入ると、船員が『お遍路さん晩に乗りませんかナ、宇和島へ行きますヨ』といふ。こちらは晩までには宇和島に入る豫定である。」)と記している。陸上交通の発達が遅れたこの地方では、早くから海上交通が発達していた。深浦港が郡内第一の港として海上運輸に果たした役割は大きい」と記す。
■松尾峠下り口から小山の集落へ■
林道と繋ぐ;15時18分
で、まだ少々時間に余裕があったので、車を宿毛まで戻し国道56号を進み、県道299号に乗り換え、小山の集落から松尾峠から車道に繋いだ切り通しまで戻る。
小山の集落;15時30分
繋ぎ地点から少し車道を進むと、土径に入る遍路道の案内。田畑脇の遍路道を5分ほど歩くと車道(15時24分)に戻る。そこから小山の集落に戻り県道299号に。時刻は3時半を過ぎた。小山の集落にあるという小山の番所跡や道標を探しは次回に廻し、ここで本日の散歩を終え宿に向かう。
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