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初日は予土国境・松尾峠を越えて下りた里、小山の集落から愛媛県愛南町を進み40番札所・観自在寺を打ち終えて柏坂上り口まで。二日目は柏坂を下りた里である宇和島市津島町上畑地から宇和島市街へと進む。 津島町から宇和島市街の間には松尾峠(予土国境の松尾峠と同名)があり、常の如く単独・車行のため峠ピストンに時間がかかり、結局、宇和島市街入り口で時間切れとなった。
遍路道を繋げる散歩をはじめた西予市宇和町(卯之町)の明石寺までは、宇和島市街を抜け、窓峠や歯長峠を越えなければならない。うまくいけばあと一回、少なくとも一泊二日で動けば、なんとか卯之町まで繋がりそうだ。先は見えてきたが、やはり南予は遠い。
今回スタートする小山から先、土佐の宿毛と宇和島を結んだ宿毛街道には篠山道・中道・灘道の3ルートがある。今回の散歩は海岸沿いの灘道を辿る旅。小山の集落から愛媛県愛南町を進み、まずは篠山道と分かれ、その先で中道と分かれ、海岸沿いの灘道を辿り40番札所・観自在寺を打ち終え、柏坂上り口までを繋ぐことにする。
本日のルート;
■松尾峠と柏坂の間を繋ぐ;小山から40番札所「観自在寺へ■
□小山から豊田へ□
小山集落の石祠と3基の標石>小山の番所跡>道端の小さな地蔵と地蔵台座>春日神社>松尾大師堂>広見の道標>札掛の篠山神社・一の鳥居;篠山道分岐 >県道299号と交差>惣川への土径に>旧赤坂街道の案内>県道299号に上る >上大道の集落に>大宮神社傍の休憩所>上大道の徳右衛門道標;灘道と中道分岐>県道299号を離れ土径に進む>南廻り(?)県道299号との交差箇所に道標>南廻り(?)県道299号に合流>豊田の徳右門道標と自然石の手印道標 >釈迦駄馬の供養塔広場
□豊田から僧都川沿いに観自在寺へ□
僧都川の堤防上の道を進む>御荘焼豊田窯跡>城辺橋脇の道標>40番札所・観自在寺
■松尾峠と柏坂の間を繋ぐ 観自在寺から柏坂へ■
長崎から笹子谷へ>日の平から国道56号に>八百坂切り通し手前から猫田に入る>猫田から国道56号へ>厳島神社の道標3基>菊川から梶屋集落へ>梶屋から室手へ>室手から柏へ
■松尾峠と柏坂の間を繋ぐ■
□小山から豊田へ□
先回越えた二つの峠の間を繋ぐ散歩は、松尾峠を下り、車道と繋いだ小山の集落からはじめる。
小山集落の石祠と3基の標石
先回は松尾峠を越え、舗装された道に下り、一瞬舗装道を離れ土径を進み、ふたつの小川が合わさる先、山裾に沿って道が西に廻りこむ辺りの小山の集落まで進んだ。今回スタート地点はこの回り込み箇所立つ、小さな自然石の祠と3基の標石から。
●徳右衛門道標
「えひめの記憶;愛媛県生涯教育センター(以下略)」によると、「標石群の右端には「くわんじざいじへ三り」と刻まれた武田徳右衛門の道標がある。土地の人の話では、以前は松尾峠の登り口にあったという。
●境界石
ふたつの境界石について、「えひめの記憶」は、「中央には「従是西伊豫國宇和嶋領」と刻まれた領界石と遍路道標を兼ねた道標があり、さらに左端には道標とは字体は異なるが、「従是西伊豫國宇和嶋領」と刻まれた高さ2.7m (9尺)の立派な領界石が並ぶ。
一本松町教育委員会の説明によると、この2本の領界石は、平成3年、橋の工事の際橋げたとして使用されているのが発見された。いずれも二つに折れていたものを修復し、番所跡近くのこの場所に移築したという。前述した貞享4年に建立したという史料に合致する領界石は、長さ2.4m(8尺)の遍路道標に併用されている中央の標石であると思われる。
この標石の正面に刻まれている遍路道の案内は、明治13年(1880)とあり、領界石を後世に遍路道標として再利用したものである。
さらに天保5年(1834)の『伊達宗紀公御歴代事記』に、「10月17日、土州境小山村土州御境へ榜示ノ立石迴着」とあり、榜示立石を船で運んだことや土州方の立会いを打診したことなどが記されている。標石群の左端の標石は、この時建てられたものではないかと考えられている。
説明にある「前述した貞享4年に建立したという史料に合致する領界石」とは、松尾峠に立つ境界石のところで「えひめの記憶」から引用した、「宇和島藩では領界の目印として、はじめは木柱を立てたが、貞享4年(1687)3月に石柱にしたという。そのことについて『幡多郡中工事訴諸品目録』によると「松尾坂御境目示榜示杭今度与州より御立替候処、ミかけ石長八尺幅七寸四方、文字従是西伊豫國宇和嶋領と切付漆墨入と有右之境杭立被申由(以下略)」)と記されている」境界石のことである。この中央の境界石は、元々は松尾峠に立っていたもの、ということだろう。
左端の境界石の説明にある「土州境小山村土州御境へ榜示ノ立石」の場所はこの説明だけでは不詳である。
小山の番所跡
標石群から少し進んだ民家の傍に「小山御番所」の案内があり、「愛南町指定文化財 史跡 小山御番所井戸 小山御番所は、藩政時代に宇和島藩が国境の出入りを取り締まるため、土佐との要衝である松尾坂の伊予側に設けた番所であり、宇和島藩の中でも特に重視され、能吏が常駐していた。
明治五年の学制発布後、建物は、明治八年より心導学校として使用された。現在、建物は残っていないが、その当時使用していた井戸のみが残っている」とあった。
井戸は道から少し奥まった民家の庭に見える。道端から写真だけ撮らせてもらった。学制における「心導学校」とは如何なるものか、不詳。
道端の小さな地蔵と地蔵台座
小山の番所跡の直ぐ西、T字路に「観自在寺 13.7km」の木標があり、遍路道は右へと折れる。木標の対面角に誠に小さな石仏と舟形地蔵、それに石仏の台座らしきものがあった。道を北に進むと県道299号にあたる。
因みに、観自在寺まで13,7kmとすれば、観自在寺まで3里(⒓キロ)とする前述徳右衛門道標は松尾峠の入り口とするのは、土佐側ではなく伊予側、すなわち小山の近くでなければ間尺に合わなくなってしまう。
春日神社
南北を囲む丘陵の間を抜ける県道299号を越え、北の丘陵裾に沿って少し西に進むと春日神社がある。鳥居も狛犬も石塔も、なんとなく印象に残る「風化」具合である。使っている石の加減なのだろうか。狛犬は江戸の年号、鳥居は明治の年号が刻まれる。この春日神社の直ぐ西に遍路休憩所があった。
松尾大師堂
山裾の道を西に進み、県道299号に合流。県道を少し進むと、南側の丘陵に沿って進む道の分岐点がある。その傍に松尾峠と書かれた道標が立つのだが、どう見ても、南側の道を進む方向を示しているように思える。
「えひめの記憶」には「かつての遍路道は、峠を下りたところから県道299号を左にそれて下ったようである」といった記述がある。この道筋だろうか。それにしても、順路と逆路で異なる道筋を木標で案内しており、ちょっと混乱しそう。
それはともあれ、分岐点から先に進み、南北の丘陵が迫る鞍部を越えると、道は下り坂となる。坂の途中、道の左手に松尾大師堂が建つ。
松尾峠にあった松尾大師堂のところで、「「えひめの記憶;愛媛県生涯学習センター」には「かつての大師堂は道路開通後、地元の有志がもらい受け、一本松町広見(合併し、現在は愛媛県南宇和郡愛南町)に移築した。現在峠には新たな大師堂の再建が進み、平成13年12月に落慶法要を行った」とメモしたが、この大師堂がかつての一本松町広見に移された松尾大師堂だろうか。 かつての一本松町は増田、正木、広見、小山から成ったとされるが、増田と正樹は北東の山間の地、小山は南の地域、とすればこの辺りから盆地一帯が広見であったと推測される。
広見の道標
坂を下り、盆地を走る国道56号を横切り、250mほど進むと神社の幟立にくっついて道標が立つ。摩耗し刻まれた文字を読むことはできなかったが、「観自在寺までの里程を刻む(「えひめの記憶」)」との記述がある。
札掛の篠山神社・一の鳥居;篠山道分岐
県道299号を進み、札掛で遍路道は県道から右に分かれる。分岐点には「遍路道」の案内もあり迷うことはない。準平原状の台地を道なりに少し進むと「篠山神社」と刻まれた鳥居と小祠がある。
「えひめの記憶」には、「ここは中道と篠山道(篠山往還)との分岐点である。遍路は必ずこの札掛を通り、初めての遍路は札所ではないが、必ず篠山(おささ)か土佐の月山(おつき)を参詣するならわしになっていた。
おささとおつきの関係をみると、「辺路札打申に月崎を打候へば篠山を不打、篠山を打候へば月崎を打不申候」(『淡輪記』))とあり、またこの篠山については、『四国邊路道指南』に「初遍路ハさヽやまへかへるといひつたふ。(中略)ひろミ村、さヽへかけるときハ荷物をこの所におく。」)と記している。
篠山権現は、標高1065mの高所にあり、そこへ至るのは難路であったことから、札掛で篠山権現のお札を置いて遙拝すれば篠山を打つことになるとされるようになった。札掛という地名の由来であるという。
土地の人は、「札掛には田中家のようにお札や遍路地図などのお土産を売った家や遍路宿もあり、昔は大変賑(にぎ)わった。お遍路さんのお接待で、地区のお大師講(こう)の者はてんてこ舞いしたと聞いている。今はバス路線(県道299号)からはずれた札掛の前神様は見向きもされない。」と嘆く」と記される。
●灘道・中道・篠山道
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松尾峠を越えた宿毛街道は、一本松町札掛で中道から篠山道が分かれ、さらに同町上大道(うわおうどう)で中道から灘道が分岐する。中道は、大岩道(だいがんどう)・小岩道(しょうがんどう)の峠を越え、岩淵を経て柿の木に至る。篠山道は、四十番観自在寺奥の院篠山を越え、御内(みうち)を経て大町で中道に合流する。灘道は、観自在寺を経て一部海岸沿いを進み、柿の木で再び中道と合流して宇和島城下に至る」とあり、
また「真念が貞享4年(1687)に出した『四国邊路道指南』によると、御荘町平城(ひらじょう)の観自在寺からの道筋について、「一すぢ、なだ道、のり十三里。一すぢ、中道大がんだう越、のり十三里。一すぢ、ささ山越、のり十四里半。三すぢともに岩ぶち満願寺二至ル」と記され、
さらに「『愛媛県歴史の道調査報告書第七集宿毛街道』には、一本松町札掛から宇和島市柿の木までの三本の遍路道のうち「遍路が多く通った道は『灘道』で、次いで『篠山道』であった。『中道』は『四国邊路道指南』に記されているように、遍路道の一つであったが、その道の急峻さ、観自在寺の所在地などからして遍路道としての使用頻度(ひんど)は高くなかった。」と記されている。近世以降の遍路は、ほとんど灘道を通ったものと思われる。時代の流れによって中道、篠山道の順で歴史から姿を消していくことになるが、現在でもわずかの遍路が柏坂の灘道を通っている」とする。
今回辿る柏坂越えは、海岸沿いの灘道ルートである。なお、『四国邊路道指南』に「三すぢともに岩ぶち満願寺二至ル」とあるのは、江戸の中頃まで旧津島町岩松から柿ノ木に抜ける松尾峠越えの道は開かれておらず、灘道も岩淵にある満願寺から野井坂峠を越えて柿ノ木に下っていたようである。
◆月山神社
月山(つきやま)は、高知県大月町にある神社(私注;足摺半島の最南端部)であり、現在は月山神社であるが、明治の神仏分離以前は神仏習合の番外霊場「月山」であった。
白鳳時代、役の行者(役小角)が山中で三日月の霊石を発見し月夜見命、倉稲魂命を奉斎したことに始まる。その後、空海(弘法大師)が巡錫し、霊石の前で二十三夜月待の密供を行ったと伝えられている。明治の神仏分離以前は「守月山月光院南照寺」と号する勢至菩薩を本尊とする寺であったが、それ以降は月山神社と改称された。高知県幡多郡大月町月ヶ丘1443(Wikipedia)
県道299号と交差
篠山神社・一の鳥居を離れ、道なりに進むと「へんろみち」と書かれた木の標識があり、右に折れショートカット気味に坂を下ると山裾を大きく廻っていた県道299号に出る。道の北には産業廃棄物処理センターがあった。
惣川への土径に
遍路道は県道を少し戻り、産業廃棄物処理センターの建物の西から土径に入る。ここにも「へんろみち」の案内があり迷うことはない。遍路道は惣川が浸食した赤坂の谷へと下りてゆく。惣川を越え左手に田圃を見遣りながら遍路道を進む。
旧赤坂街道の案内
遍路道はほどなく県道299号から分岐した、舗装された道にあたる。舗装道に上る手前のガードレールに「旧赤坂街道(昔の遍路道) 地道ですが歩けます」と書かれた案内がある。案内に従い舗装道を少し進み、直ぐに土径に入り段丘崖を上る。
実のところ、この辺りの道筋は、「えひめの記憶」を読んでも、ルーティングが思い描けず、出たとこ勝負ではあったのだが、ちゃんとした案内があり、何とか昔の遍路道を辿ることができた。
県道299号に上る
案内に従い河岸段丘を40mほど上る。道は県道299号の下段丘崖を緩やかな坂道で上り、ほどなく県道299号に出る。竹林や木々に覆われた道は「癒しの道」との案内があった。
上大道の集落に
県道299号から少し上ると上大道の集落に出る。集落に出たのはいいのだが、いままで要所要所にあった、遍路道の案内が切れる。「えひめの記憶」には「札掛からの遍路道は、惣川が浸食した急傾斜の赤坂の谷を越え上満倉(かみみちくら)に至る。上大道(うわおおどう)のバス停を過ぎ大宮神社や満倉(みちくら)小学校前を少し進む」とある。上大道のバス停は分からないが、地図で確認すると、大宮神社が県道を西に進んだところにある。集落の中の道を成り行きで進み県道に出て大宮神社を目安に進む。
大宮神社傍の休憩所
記事にあった満倉小学校は見当たらなかったが、大宮神社は県道脇にあり、その傍に遍路休憩所がある。そこに惣川からこの先にある僧都川に沿って御荘の町までの遍路道案内があり、この先のルーティングに役立った。
上大道の徳右衛門道標;灘道と中道分岐
休憩所を越えた先の道の分岐点に道標と小さな地蔵が並び立つ。道標は徳右衛門道標。「これより左りくわんじざいへ壱里半」と刻まれる。
「えひめの記憶」には「ここで道は、西へ下り城辺町太場(だいば)から豊田を経て観自在寺へ至る灘道と、北へ向かって緑の代官所を経て宇和島に通ずる中道の二手に分かれる。江戸後期まで観自在寺への遍路道は、灘道と分岐する峰地(御荘町)まで、この中道を通っていたと思われる」とある。
ここが江戸の後期以降、山中を抜ける中道わかれた海岸を進む灘道の分岐点とのいうことだ。
県道299号を離れ土径に進む
今回進むのは灘道。休憩所にあった旧遍路道案内の通り、県道299号を少し進むと左に折れ、柿畑やミカン畑を見遣りながら先に進むと、簡易舗装も切れ、畑脇を進む土径となる。
南廻り(?)県道299号との交差箇所に道標
土径に入ると道は僧都川に向かって緩やかに下る。坂の途中に小さな祠があり、松尾様とある。由来は不明。社にお参りし坂を下ると舗装された道に当たる。 遍路道は道をクロスし先に進むが、その入り口に小さな道標があった。
ところで、「えひめの記憶」には、この道を県道299号としているが、地図では県道299号は、上述大宮神社先の徳右衛門道標から右に分かれた宿毛街道中道筋となっている。あれこれチェックすると、地図には記載されていないが、ふたつに分かれたこの道筋も一本松城辺線として県道299号となっていた。仮に「南回り県道299号(旧県道)」としておく。
南廻り(?)県道299号に合流
山裾を曲がりくねる旧県道から土径に入り、ショートカットで進むと石仏を祀る小祠があり、更に道なりに進むと県道に戻る。合流箇所には「松尾峠 11.9km 観自在寺 4.km」と書かれた木標があった。
◆ところで、「えひめの記憶」には、「灘道は、一本松町上大道(うわおおどう)で中道と分岐する。町境を越えて城辺町太場(だいば)に入って間もなく、県道一本松城辺線(299号)を右折して尾根を下る。この道は江戸後期に拓かれたという遍路道である」が、県道との位置関係がどうしても合わない。最初は、県道に合流し、右に折れて進む上記ショートカットルートかとも思ったのだが、「えひめの記憶」には、上記説明に続けて「豊田の入口に手印のついた自然石の道標がある。ここで県道299号と再び合流する」とあるので、この合流箇所より前ということになるのだが、そうなると、県道を「右折」ではなく「左折」しなければ間尺が合わない。はてさて?
豊田の徳右門道標と自然石の手印道標
県道299号を進み、僧都川手前で左折し、川の左岸を進む曲がり角手前の小橋の脇に、徳右衛門道標と自然石の手印道標がある。徳右衛門道標には「これよりくわんじざいへ一り」と刻まれる。また、「えひめの記憶」には「道標の手印は向きが逆になっており、のちに移動してここに建てたものと思われる」とあるが、自然石の手印道標は順路を示しており、とすれば徳右門道標の手印のことかとも思えるが、摩耗して手印は見えなかった。
釈迦駄馬の供養塔広場
徳右衛門道標と手印道標の間の小橋を渡ると広場となっており、「豊田窯跡(有形民俗文化財) 富岡喜内(久治兵衛)が、妹の子、稲田峰三郎と共に開いた窯で、シャカダバ窯ともいう。金彩の色絵も焼き、大切に荷造りして馬につけて運び、深浦港から積み出したという」と共に幾つかの石仏・石塔が建つ。
「えひめの記憶」には「小さな橋を渡ると地蔵や石塔が集められた釈迦駄馬の供養塔広場がある。この広場はサネモリ(実盛)様を祀(まつ)り、ここで篠山大権現の神火を受けて、近在の村々へ火送りがなされた。ここからこの地方の虫送りの行事が始まったという」とあった。
●サネモリ(実盛)様
サネモリ(実盛)様とは諸説あるが、一説には平家の名将・斎藤実盛に拠るとも言われる。斎藤実盛は相模を本拠とする源氏の棟梁・源義朝重臣として仕えるも、上野国に勢を増した義朝の弟・義賢と義朝との争いに際し、敗れた義賢の子、後の木曾義仲の命を救った武将として知られる。
義朝亡きあと平氏に仕え、頼朝挙兵後も平氏への恩顧を忘れず平家方として奮戦。老いを隠すため白髪頭を黒く染め、平家方の義仲追討軍の将として北陸に転戦するも討死。命の恩人を打ち取った義仲が嘆悔やんだ話は有名である。 で、何故に虫送りに斉藤実盛が、ということであるが、戦いの折、乗っていた馬が稲の切株に躓き、ために討ち取られた、と言う。稲の切株憎しと、稲を食い荒らす(稲虫・ウンカ)となった、という。
虫送りとは、稲の虫を集め、ムラの外へ送ることで、稲などの虫害を防ごうとすることである。虫送りの唱え文言は徳島では、
「実盛虫はどこへ行った 西のはてまで 後さらえ ドーンドン」とか、
「斉藤実盛様のお通りじゃ、飛べるムシャ飛んで来い、這えるムシャ這って来い」、
「サイトコ ベットコ ウッテントン イネノムシャー トサヘイケー」、
兵庫では
「おくった おくった
稲虫おくった
実盛さんは ごしょろくじゃ
よろずの虫 ついてこい
ようさらぁ いなむし
こんがり こんがり こんがった
ブントンカカァ、トンカカヤ
実盛様のお通りじゃ」
などと地域によって異なる。
また、社寺に集い神事や法要をおこなった後、たいまつの火を焚きながら、カネ、太鼓を叩き大声で文言を唱えながら、幟(のぼり)や札を掲げ行列を組んで水田をめぐり、虫を集め村の境界まで送り出す、「サネモリサマ」という藁(わら)の人形を用い、担いだり馬に乗せたりして運ぶ、あるいは船に乗せて送り出すなど行事様式も地域によってことなるようである。
因みに、虫送りが特に西日本で盛んな理由は、西日本ではウンカによる稲の被害が大きかったためであるといわれる。
斉藤実盛由来の説の他、「稲の実(サネ)を守る 」、田植え完了の共同祝日である「サナブリ」「サノボリ」の転化説などもあるようだ。
◆釈迦駄馬
広場にある地蔵や石塔の右端の石塔は、元禄7年(1694)に建てられた「四如来碑」と呼ばれるようだ。正面に「本師釈迦牟尼如来」、右側に「南無薬師如来」、左側に「南無阿弥陀仏」、裏面に「南無大日如来」と刻まれる故。豊田の集落がかって「釈迦駄馬」と称され由来とも。豊田となったのは、庄屋の先祖が山口県の豊田郷を領する豊田氏であった故、との記事を見た。
それでは「駄馬」は? チェックすると、丹波とか多摩と同義と言う。「崩れた>山間渓谷の平坦地」との意味だが、この地がそれほどの山間の僻地とも思えない。更にチェックすると、花とり踊りの「踊り駄場」、闘牛の「突き合い駄場」というように、村人が集い行事を起きなうな所を「駄場」と称し、その場がある地域を「駄馬」と称した、といった記事があった。納得。
□豊田から僧都川沿いに観自在寺へ□
僧都川の堤防上の道を進むサネモリ様の広場から直ぐ先で道は左に折れ、古き町並みを残す豊田を進む。ほどなく「観自在寺 3.6km」の木標に従い道は右に折れ、僧都川の堤防に。遍路道は堤防上の遊歩道を進むことになる。
●僧都川
なにやら、雅な名称でありチェックすると、僧都の元は「左右水」とある。水源が2箇所とも、水車の古名である「左右水」に由来するといった説明があった。
御荘焼豊田窯跡
堤防上を進むと、休憩所の手前に「御荘焼豊田窯跡」の案内。「御荘焼豊田窯 御荘焼」は 久治兵衛が今から約150年前に始めた焼物で、かつては砥部焼とともに有名でした。ここから北へ約300mのことろに「御荘焼」の代表的な窯の一つ豊田窯の窯跡があります。豊田窯はその後、富岡喜内と改名した久治兵衛が甥の稲田峰三郎と共に明治初期に開いた磁器の窯で、別名「シャカダバ窯」とも呼ばれ、高級品のほか、日用雑記も多量に焼いていたとも伝えらています」とある。先ほど出合った「サネモリ様」の広場にあった窯元跡のことだろう。
城辺橋脇の道標
堤防の道を西に進み、左手に常盤城があった旧城辺町の独立丘陵を見遣りながら城辺橋に。橋の脇に道標がある。「平城へ二十二丁」「大正十年」と刻まれたこの赤茶けた道標は、移設されたものと言う(「えひめの記憶」)。道標の直ぐ脇の木標に「観自在寺 1.4km」とあるが、二十二丁は2.4キロ(1丁は約109m)であるので、なるほど1キロほど誤差がある。
「えひめの記憶」には「遍路道はこの付近から飛び石伝いに僧都川を渡り、平城の観自在寺に向かって進む」とある。橋の掛かっていない頃、遍路はこの辺りで渡河していたのだろう。
現在の遍路道は橋脇の木標の案内に従い、僧都川に沿って更に西に進む。
●常盤城
現在諏訪神社が鎮座する独立丘陵は、戦国期にこの地を領した御荘氏の拠点となったところ。その歴史を簡単にまとめると、鎌倉時代に南宇和郡は比叡山延暦寺末寺蓮華院の荘園となるが、建武2年(1336)、叡山諸門跡が統合され青蓮院となると、坊官(僧侶の代官)が下向し後に御荘氏(前御荘氏)を名乗る。室町期に御荘氏は土佐中村の一条氏と豊後の大友氏により追われ、一条氏の家臣である勧修寺氏の一族が治めることとなり、御荘(後御荘氏)を名乗る。
戦国期に土佐の長曽我部氏により落城した、と言う。
御荘の地名の由来は観自在寺荘の尊称である観自在寺御荘に拠る。
■豊田から観自在寺への別ルート
左谷へ |
西へ直行すれば観自在寺への灘道、北へ進めば前述した大岩道越えの中道である。この峰地の台地から御荘町役場に出て、旧国道と合流して西進すると観自在寺山門下に至る(中略)時を経て、この渡河地点は利用されなくなり、遍路道は僧都川左岸を通って城辺の町に入り、常盤城址や佛眼寺を左に見ながら通過した。」とある。
峰地 |
この峰地までの道筋は上大道で分かれた中道の道筋である。上大道で灘道と分岐した中道は、柏床で僧都川を渡り、左谷を抜けて峰地へ。ここから観自在寺を打ち、再びこの地に戻り、中道を宇和島へと向かうことになる。
また、「えひめの記憶」には「豊田集落の人口にある道標より南へ直進して山際を通り、城辺の町に出る遍路道もあったという」とする。地図を見ても、上述 「南廻り(?)県道299号との交差箇所の道標」から城辺の町に繋がる道筋の記載は見当たらなかった。
40番札所・観自在寺
更に西に進み観栄橋を渡り観自在寺に。小高い段丘上に建つ境内に入り、本堂、大師堂に御参り。
境内にあった「八体仏十二支守り本尊」に惹かれる。千手観音菩薩(子年守り本尊)、虚空蔵菩薩(丑年・寅年)、文殊菩薩(卯年)、普賢菩薩(辰年・巳年)、勢至菩薩(午年)、大日如来(未年・申年)、不動明王(酉年)、阿弥陀如来(戌年・亥年)からなる石仏に手を合わせる外国人の歩き遍路さんが印象に残る。 境内には江戸時代、この地の俳人である岡村呉天が建てた芭蕉の句碑があった。 「春能夜や籠人遊可し堂の隅」と刻まれる、と。「はるのよや こもりどゆかし どうのすみ」と読む。
●観自在寺
「寺伝によれば平安時代初期の大同2年(807年)平城天皇の勅願によって、空海(弘法大師)は、一本の霊木から本尊の薬師如来、脇持の阿弥陀如来、十一面観世音菩薩を刻み安置して開創したと伝えられている。このとき残った霊木に庶民の病根を除く祈願をし「南無阿弥陀仏」と彫ったと云われる。なお、その版木により押印された手ぬぐいを購入することができる。
また、平城天皇は勅額「平城山」を下賜し、当地に行幸されたと云われ、一切経と大般若経を奉納を奉納し、毎年勅使を遣わして護摩供の秘法を修したとされている。
江戸時代初期の寛永15年(1638年)に京都の空性法親王が巡拝、薬師院の号を受けた。その後、宇和島藩主伊達宗利の勅願所になったという歴史をもつ。一時は七堂伽藍を持ち四十の末寺を有したが、火災で消失。延宝6年(1678年)に再建されたが、昭和34年(1959年)に失火で本堂を焼失、現在の本堂はその後に建立された(Wikipedia)」
◆方角盤
「えひめの記憶」に「山門の天井には直径1mほどの珍しい方角盤がある。干支(えと)の絵で方角を示した巡拝者用の案内板と思われる。干支の絵は色あせているが中央に亀が描かれ、西の酉(とり)の方向を向いている」とある。 山門下から上を眺める。「干支の絵は色あせているが」とあったが、色は鮮やか。修復されたのだろうか。
◆道標
「えひめの記憶」には「観自在寺参道沿いに墓所があり、その右側の石柱に「これよりいなりへ十四里半」と刻まれた道標がある。「いなり」とは三間(みま)町にある次の札所四十一番稲荷山龍光寺のことである」とある。
民家に囲まれた狭い参道の境内向かって右手に小さな墓所があり、その右の石柱に「是*いなり***」といった文字が読める。この石柱が道標だろう。
◆三つの遍路道
駐車場に「伊予遍路道の入り口 観自在寺」と書かれた案内があり、「伊予遍路道の入り口 観自在寺 四国霊場第40番札所観自在寺は、伊予最初の札所で、第1番札所霊山寺から最も遠く、四国遍路の裏関所とも言われています。
観自在寺から第41番札所龍光寺に向かう道筋は、灘道・中道・篠山道の3ルートに分かれます。江戸時代初期、四国遍路の庶民化に大変貢献した真念が1687年に刊行した“四国邊路道指南(しるべ)”には、観自在寺からの道筋として、
「一すぢ、なだ道、のり十三里。一すぢ、中道大がんだう越、のり十三里。 一すぢ、ささ山越、のり十四里半。三すぢともに岩ぶち満願寺二至ル」と記されています。
しかし、江戸時代後期、宇和島藩は遍路の増加に伴って統制を強め、1769年の触書では、遍路の通行を灘道と篠山道に限り、そのため中道を遍路が通行することは厳しく禁じられました。
霊山としてあがめられる篠山(標高1065m)を越える篠山道を通る道路もありましたが、人家の多い灘道の利用がその当時から一番多く、明治以降の近代的道路整備も、灘道を中心に進められ、県道(現国道56号)等が整備されました。 戦後も自動車交通の発展に伴い自動車道の整備(新設、拡幅、舗装、トンネル化等)が進められました。
近代的整備がされなかった区間の遍路道は土の道として残され、通行が途絶えることもありましたが、逆に昔の風情をとどめ、歴史的文化的価値は少なくありません(以下省略)」の説明。
それよりなにより、説明とともに灘道・中道・篠山道の詳しいルートが示されている。「えひめの記憶」をもとに、大体の3ルートの道筋を推定はしていたのだが、この地図は誠に有難い。中道と篠山道散歩も、春の頃歩くのも、いいかと思い始める。
■松尾峠と柏坂の間を繋ぐ 観自在寺から柏坂へ■
観自在寺から先の遍路道について、「えひめの記憶」は「灘道は、観自在寺隣の平城小学校前から西進し、南宇和地区広域農道を横切り、八幡神社北側の道を進み、右手の興禅寺や来迎寺の下を過ぎると、かつて平城の港として栄えた貝塚港に至る。『旧街道』によると、「札所から西に行くと貝塚があり、間もなく僧都川口の長崎に着く。
国道56号は長崎から海岸沿いについているが、国道ができるまでは平山まで渡し舟があり、約500mの海上を1日何回か旅人を運んでいた。」という。かつての沼沢地や遠浅の海岸は、愛媛県が昭和56年(1981)までに埋め立て、ホテル・遊技場・プールなどのレジャー施設を整備し、「南レク御荘公園」として開園したとある。
灘道は、この港から北の笹子谷へ向かって上り、山越えで長洲(ながす)へ下る。庄屋屋敷を経て日ノ平から川沿いに下って海辺に出る」とある。
衛星写真でチェックすると山裾を進んでいる。かつては山裾まで海が迫っていたのだろう。実際、前述常盤城のあった独立丘陵の辺りまで海が入り込んでいたということであり、また、現在国道の通る「南レク御荘公園」の周囲も、如何にも湿地といった趣を今に伝える。
観自在寺にある灘道も、「えひめの記憶」にある灘道も、現在の国道に沿った道筋となっているが、上述説明にあるように、長崎から笹子谷への道を進むことにする。
長崎から笹子谷へ
特に遍路道の案内もないのだが、山裾の道を成り行きで進み笹子谷から日の平に抜ける道に向かう。道が笹子谷へと向かう道に当たるところに「右 へんろみち」の石柱が立つ。結構新しい。道を進み緩やかな上り、そして下りで日の平の集落に出た。
日の平から国道56号に
丘陵に挟まれた日の平集落から南西に進み再び国道56号に。この丘陵地を迂回するルートを進んだということは、現在御荘港がある一帯は、かつては海であったということだろう。
国道56号に出た先の灘道について、「えひめの記憶」は、「ここからほぼ国道に沿い、ゆるい坂道を上り平山の集落に入る。八百(はっひゃく)坂の切通しの手前を右折し、山あいの猫田に向かう。このあたりは「ミショウ柑」の産地で傾斜地一面を柑橘(かんきつ)園が覆(おお)っている。
猫田より西に大きく迂回して坂を下ると八百坂である。ここで再び国道と出会い、菊川の厳島(いつくしま)神社の方向に進むと神社横の国道沿いに、里程を示す3基の道標が並んで立っている。これらは最近ここに移設・建立されたと思われる」とある。
八百坂切り通し手前から猫田に入る
現在の遍路道は国道を進んでいるが、「えひめの記憶」の記述に従い、八百坂切通し手前で国道56号と分かれ猫田に入る。猫田までは等高線に沿って進む。
猫田から国道56号へ
猫田の集落からは標高を50mほど下げながら西へとる。舗装はされている道ではあるが、狭く木々に覆われた道を下ると国道に出た。切り通しがいつの頃できたのか不明であるが、切通しが出来る前の道筋としては、この道筋が「自然」かな、などと衛星写真を見ながら想う。
厳島神社の道標3基
国道56号を進むと、左手に如何にも社の杜。国道脇に3基の道標が立っていた。 左端の道標には「平城へ一里二十三町」「明治四十五(1912)年五月祭誕」とあり、中央の道標には「きくかわはし」、右端の道標には「柏へ一里十五丁半」と刻まれる。左端の道標には上部に穴が開いている。神社の幟用ではあろう。
菊川から梶屋集落へ
「えひめの記憶」には、この先の遍路道に関し「遍路道は八百坂のバス停で国道と分かれ、右手の川沿いをさかのぼり、菊川小学校の傍(そば)を通り梶屋に向かう。道は梶屋集落の段丘崖下を再び国道まで上ると、途中の段丘崖に8体の地蔵が祀られ、薄暗い木陰の道は昔の遍路道の雰囲気を醸(かも)し出す」とある。
記事に従い国道56号を少し戻り、国道から右に入る道へ。その分岐には遍路道の案内があり、その標識は国道を直進とある。少々迷うが、分岐角に立つ「四国みち」は分岐道方向を示していることもあり、結局「えひめの記憶」にある道筋へと分岐道を進むことに。
●梶田の地蔵
菊川左岸の山裾の道を進み、梶屋の集落で川を右岸に渡り、上を走る国道との比高差20mほどある河岸段丘下の道を進む。記事にある段丘崖の地蔵はどこにあるのかわからない。
偶々犬の散歩をしていた地元の方に尋ねるが、よくわからないが、先に進み国道に上る荒れた土径入り口にそれらしきものを見たような気もする、と。
地元の方の案内で、梶屋集落を過ぎた先の国道へと上る土径への分岐箇所に。 その角に「へんろみち」といった消えかかった文字の木標がある。その角上の叢に地蔵と思えば地蔵とも見える石仏が一基。他の地蔵はその横の段丘崖を上る土径にあるのかと上り始める。案内して頂いた地元の方も、こんな荒れた通を通る人などいないよ、と。
確かに荒れた道。地蔵だけを楽しみに上るが、何もないまま国道56号に出てしまった。地蔵は何処に?道を引き返し地元の方に尋ねるが、それらしきものを見たことはないとのとこであり、結局諦めて国道を先に進むことにした。
梶屋から室手へ
「えひめの記憶」には「現在の国道は切通しで室手(もろで)の峠を越えているが、灘道は国道より高い山腹沿いを通り、室手の峠を経て内海村の柏へ入っていた。国道の改修で灘道沿いにあった「右へん」と刻字された小さな道標は内室手の藤田邸の入口に移設された。過去2回にわたる峠の開鑿(かいさく)でかなり掘り下げられた切通しを越えると目の前が突如開ける。室手からの眺望はすばらしい。現在、波静かで澄んだ海面に真珠養殖のフロートが点在し漁船が行き交う」とある。
地図を見ても、室手(もろで)峠の切り通しの右手、山腹を峠へと抜ける道は見当たらない。仕方なく国道56号を進み、国道脇にある道標を見遣りながら、室手の切り通しを抜ける。
切通しを抜けた先に広がる宇和海の眺めは誠に美しかった。宇和海の眺めも素晴らしいのだが、国道下の狭い入り江に見える室手の集の景観に惹かれた。
室手から柏へ
「室手海岸沖の三ツ畑田島や鹿島を遠望しながら進むと内海村の中心地柏に至る(「えひめの記憶)」とあるように、宇和海に浮かぶ三ツ畑田島や鹿島(角島?)といった岩礁小島を見遣りながら国道56号を進み、旧内海村の中心地である柏に入る。遍路道は町の入り口で国道から右に折れ、柏川に架かる柏橋脇の2基の道標にあたる。
1基は平城への里程石であり、観自在寺への案内、もう1基は中務茂兵衛の道標であり、刻字の中に「舟のりば」と案内されており、柏坂越えを避け、柏から舟を利用した遍路もいたのでは、とは先回メモの通りである。
ここで先回歩いた「柏坂越え」のルートと繋がった。本日はこれで終了。明日は、柏坂を下りた大門から宇和島の市街へと向かう。
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