新居浜市域には札所がない。それ故か、これも再三述べていることではあるのだが、愛媛に生まれた我々の年代の者にとって、お遍路は「乞食」と同義であり、また、見知らぬ地から来た怖い存在でしかなかった故か、四国霊場を繋ぐ遍路道に対する関心はまるでなかった。金比羅道が通り、そこには石の常夜灯があるのは知っていたが、遍路道が何処を通るのか特段の興味もなかったわけである。
今回は六十四番札所・前神寺のある西條市からはじめ、新居浜市域を抜け四国中央市との境である関の戸まで、前神寺から旧三島市の遍路わかれまでの40キロ弱の遍路道のほぼ半分の距離を辿るわけだが、当初は三島の三角寺への単なる「繋ぎ」程度でスタートした。
札所もないわけで、特筆するポイントがあるわけでもなかったが、それでも子供の頃の馴染みの地に道標や徳右衛門道標があったりと、それなりのポイントに出合い市域を抜けた。旧三島市の遍路わかれまで残すところ20キロ弱、三角寺まで30キロ弱となった。
本日のルート;
■前神寺から新居浜市へ■
湯之谷温泉>国道11号との交差手前に金比羅常夜灯>加茂川左岸の常夜灯>加茂川右岸の地蔵堂>県道141号との交差箇所に道標>寿司駒の道標>国道11号脇に道標2基>王至森(おしもり)寺>塞の神>西原大地蔵>六地蔵の接待堂跡>祖父崎池の徳右衛門道標>原八幡神社
■新居浜・四国中央市の市境へ■
岸の下の道標>宝篋印塔>萩生寺>大師泉>喜光寺商店街の東に道標>国領川手前に徳右門道標>坂の下大師堂>長野の金比羅道標と金比羅常夜灯>道面地蔵堂>関の戸
■六十四番札所・前神寺から新居浜市へ■
湯之谷温泉
山裾の道を進むと、道の左手に一軒の温泉宿が見える。そこが湯之谷温泉である。額田王の有名な句「熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ 今はこぎいでな」で知られる熟田津の石湯の行宮(あんぐう)論争の地でもある。 この句が詠まれたのは斉明7年(661)、斉明天皇が新羅討伐の本営のある大宰府に向かう途中、伊予の石湯行宮にて詠まれたとされる。この石湯行宮は一般的には道後温泉とされるが、今治桜井の石風呂、そしてこの湯之谷を石湯行宮とする人もいる。湯之谷温泉に関する初出の記録は18世紀中頃が最古ではあるが、ともあれ歴史の古い温泉ではある。
●行宮
天皇の行幸時あるいは、政変などの理由で御所を失陥しているなどといった場合、一時的な宮殿として建設あるいは使用された施設の事。他に行在所(あんざいしょ)、御座所(ござしょ)、頓宮(とんぐう)とも(Wikipedia)。
国道11号との交差手前に金比羅常夜灯
因みに、金比羅常夜灯の南東に杉尾神社があるが、その裏手が先回のメモに記した高峠城のある高峠である。
●バリエーションルート
常夜灯から右に折れて進む遍路道の案内がある。「四国のみち」のルートである。「へんろみち道保存協力会」もこの道筋を案内している。ルートは古社・伊曽乃神社の北を抜け、加茂川を渡り武丈公園から王至森寺(後述)を経て室川に架かる上室川橋で金比羅道に合流する。今回は、金比羅道を辿る遍路道を進むことにする。
◆四国のみち
「四国のみち」とは歴史・文化指向の国土交通省ルート(約1300km)と、自然指向の環境省ルート(約1,600km)の総称。環境省ルートは「自然遊歩道」が正式名称であるが、ルートは重なる道筋も多く、まとめて「四国のみち」と称されるようだ。
環境省ルートは、「四季を通じて手軽に楽しく、安全に歩くことができる自然遊歩道」として整備されたのはわかるのだが、何故建設省が?そこには道路整備だけでなく、自然派志向の世論もあり、昭和52年(1977)以降「自転車道」「歩道」の整備をも重視することになった背景があるようだ。
この建設省ルートは基本遍路道を基本としながらも、既存道路の利用という前提もあり、札所を結ぶとはいいながら遍路道との重なりは6割弱とのこと。国道、県道、市町村道、林道整備がその主眼にある故ではあろう。
上に建設省ルートが歴史・文化指向といった意味合いは、札所や遍路道の歴史的・文化的価値を見出し、モータリゼーションの発展に伴い、昭和59年(1984)には15万人もの人が訪れることになった四国遍路を観光資源としてそれを繋ぐ道を整備していったようにも思える。
加茂川左岸の常夜灯
●道標
◆角野村
角野村は生まれ故郷の旧名。時を隔てた石碑にその名を見るのは、なんとなく嬉しい。角野村が刻まれるのは、角野村にあった別子銅山への道筋の案内といった理由だろうか。
江戸時代後半、別子銅山の粗銅搬出ルート確保のため角野村のある地域は天領となるが、それ以前は西条藩領であり、馴染み深い地名であったのだろう。とはいうものの、角野村ができたのは明治初期であり、また、架橋は明治後半であり、西条藩は無くなっているわけで、西条藩云々と直接因果関係はないだろうことは言うまでもない。
加茂川右岸の地蔵堂
加茂川橋に迂回し、加茂川右岸を下流へと進み、左岸常夜灯の対岸の土手下に地蔵堂があり、遍路道は東へと町並みの中を進む。
県道141号との交差箇所に地蔵堂と道標
寿司駒の道標
先達として本四国50回・小豆島島四国100回・石鎚登山100回という行者信仰の旅を重ねるとともに、大師蓮華講(れんげこう)を組織したといわれる」とある。
国道11号脇に道標2基
王至森(おしもり)寺
そんな有難い地名に続き、地蔵原といったこれも気になる地名の辺りで金比羅道は国道11号を離れる。金比羅道はしばらく国道の南を進むことになるのだが、国道から分かれて直ぐ、道の南に常夜灯があり、その傍に「舒明天皇勅願遺跡寺」の石碑の立つ王至森寺の案内があった。湯之谷温泉での舒明天皇行宮のこと、崇徳上皇故の天皇神社に続き現れた有難そうな名前の「王至森寺」が気になりちょっと立ち寄り。
●往至森寺とも
「往至森寺」と言えば、この寺の裏山の木を小松藩大阪蔵屋敷に使ったところ、故郷恋しと泣くような音がするため海に流した。と、この地に流れ着いた故の地名、といった話もあるようだ。流れ着いた場所は現在でも「戻川」と称される。
●法性大権現
塞の神
この神さま、古事記や日本書紀に登場する。イサザギが黄泉の国から逃れるとき、追いかけてくるゾンビから難を避けるため、石を置いたり、杖を置き、道を塞ごうとした。石や木を災いから護ってくれる「神」とみたてたのは、こういうところから。
「塞の神」は道祖神と呼ばれる。道祖神とは、日本固有の神様であった「塞の神」を中国の道教の視点から解釈したもの、か。道祖神=お地蔵様、ってことにもなっているが、これは「塞の神」というか「道祖神(道教)」を仏教的視点から解釈したもの。「塞の神」というか「道祖神」の役割とは、仏教の地蔵菩薩と同じでしょ、ってことのようだ。
お地蔵様と言えば、「賽の河原」で苦しむこどもを護ってくれるのがお地蔵さま。昔、なくなったこどもは村はずれ、「塞の神」が佇むあたりにまつられた。大人と一緒にまつられては、生まれ変わりが遅くなる、という言い伝えのため(『道の文化』)。「塞の神」として佇むお地蔵様の姿を見て、村はずれにまつられたわが子を護ってほしいとの願いから、こういった民間信仰ができたの、かも。 ついでのことながら、道祖神として庚申塔がまつられることもある。これは、「塞の神」>幸の神(さいのかみ)>音読みで「こうしん」>「庚申」という流れ。音に物識り・文字知りが漢字をあてた結果、「塞の神」=「庚申さま」、と同一視されていったのだろう。
西原大地蔵
六地蔵の接待堂跡
接待堂の側に六地蔵、大師堂を建立。時を経て接待堂を訪れる旅人も減り、建物も老朽化し接待堂はなくなったが、六地蔵と大師堂は部落の守り神として残る。大師堂は昭和50年(1975)に改修されたが、痛みも激しく、平成の改築を行った。平成十六年 大師堂改修発起人一同」とあった。
「えひめの記憶」には、この摂待堂では「地元をはじめ早川・山口・大浜(私注;六地蔵部落の南の集落)などの人々が集まって、年中行事として湯茶・菓子・草鞋(わらじ)などの接待を大規模に行っていたという。その後、時代の流れとともにこの慣習はなくなり、建物も古くなったために取り壊されて、その跡地に現在のような集会所と昭和49年(1974)に小さな大師堂が建てられた。
社日宮は土の神様。通常小さな御影石に「社日宮」と刻まれ田畑の脇に祀られる。当日それらしき石の小祠を見ることはなかった。
六地蔵とは、仏教における輪廻転生の6つの世界(天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道)のそれぞれに配されるお地蔵様のこと。
祖父崎池の徳右衛門道標
堂の本の地蔵屋敷の説明はなかったが、延宝9年(1618)建立されたお遍路さんの休憩所のようだ。「えひめの記憶」にも「祖父崎(そふざき)池の北の地点でも同じく遍路の接待が行われていたといわれ、(中略)飯岡周辺は、特に接待の盛んな地域であったようだ」とある。
原八幡神社
王至森寺が原八幡神社の別当寺であったことを思い出し、ちょっと立ち寄り。境内には、六地蔵摂待所で見つけられなかった「社日宮」の小祠があった。さらには原八幡裏遺跡の案内。古墳のようだが詳細不詳。
この社は伊予守となった源頼義が、宇佐神宮から勧請した八つの八幡社のひとつとして大社であったようだが、前述の如く天正の陣の兵火で焼失した。また、かつては伊興神社と称したようだが、原八幡となった経緯も不詳。
●亀の甲
辺りの地名は亀の甲。由来は不明だが、地図で見ると周辺には祖父崎池以外にも多くの溜池がある。この地区は高台にあり水不足の土地柄のようだ。土地が乾燥し亀の甲羅のようなひび割れ故の地名だろうか。
■新居浜・四国中央市の市境へ■
渦井川の手前で西条市から新居浜市大生院に入る。元は古刹・往生院正法寺由来の往生院村であったが、字面が宜しくないと「大往院」と変えたようだ。
岸ノ下の道標
「是ヨリ西前神寺ヘ二、東三角寺へ八」まで読めるが、コンクリートで作られた香台のため文字が読めなくなっている。手を合わせ、ガウンをまとったような大師像が面白い。
宝篋印塔
「えひめの記憶」には、「この西隣りの小さな空き地がかつて接待のための茶堂があった場所である」とある。この辺りは本当にお摂待の文化が根付いていたようだ。
萩生寺
このお寺さまは、阿弥陀寺が北の坊と呼ばれることとパラレルに、南の坊と呼ばれる。位置関係は南北というより東西となっているのは、天正の陣で灰燼に帰した後、現在地に再建されたためとのこと。
遍路道より移された徳衛門道標もあるようだが、本堂のユニークな「仏眼」に気を取られ道標チェックを忘れてしまった。
大師泉
喜光寺商店街の東に道標
この喜光寺、今でこそシャッター商店街となっているが、明治・大正・昭和と別子銅山が華やかなりし頃、人で溢れかえっていた。銅山銀座と呼ばれていた、と言う。
それはともあれ、アーケードを抜けた駐車場脇に4基の道標が並ぶ。左右2基が遍路道標。真ん中2基が金比羅道標と土佐への道標。それぞれ「金比羅大門与十五里」「土佐国 是ヨリ三宝山 二十二里」とある。
●三宝山
喜光寺からのルートを想うに、国領川を遡り大永山を越え銅山川の谷に。少し下り三つ森山の西の三つ森峠を越えて吉野川の谷に下り、支流の瀬戸川を遡れば行けそうだ。根拠のないルーティングであり、また、何故にこの地から唐突に高峰神社?については不詳。すべて妄想。
国領川手前に徳右門道標
●国領川
元は新須賀川。国領川を少し上った、別子銅山の製錬所のエントツ跡が残る生子山(しょうじやま)、通称エントツ山の城主、松木三河守が所領の一部を中野村(現西条市中野)にある保国寺に供したとの記述があり、保国寺領>保国領>国領となったとの説がある。
「えひめの記憶」には「国領川のこの付近にはかつて橋はなく、高浜虚子の父親である池内荘四郎の嘉永3年(1850)の旅日記によると、彼は降りしきる雨の中を腰まで水につかりながら徒歩で川を渡っている。さらにその後、関ノ戸の峠付近の宿で聞いた話として、「松山御城下の町人三人連れ、川を渡るの処三人共に流れ、両人は漸く助かり、一人溺死、死骸は川下にて引上候よし、宿主物語」と書き記している。当時の渡河の危険がよくわかる記述である」と記される。
坂の下大師堂
観音像は平成2年(1990)の建立と新しいが、大師堂は古く昔話も伝わる。曰く、親不孝な息子に罰があたり、お尻に五右衛門風呂の底板がひっついてしまう。お大師さまの功徳を求め四国遍路に旅立ち、この坂の下大師堂にて板が取れた、とか。
●船木村
「むかし官用船材を供出したので「船木」の名が出来たといわれる。奈良時代の天平勝宝八年(756)十一月大和国東大寺墾田として「新井庄」の設定が初見(東大寺文書)。弘安九年(1286)京都悲田院領「船山」(大山積神社文書)、観応二年(1351)禅昌寺宮領「船木山」(河野家文書)と見え、鎌倉以降船山または船木山をもって名とし、寛文四年(1664)一柳監物領知目録に至って「船木村」と称した」との記事がある。
●池田池
歴史は古く奈良東大寺諸国庄々文書の中に柏坂の古池とある。柏坂とあるのは、あまりにゆるやかではあるが、坂の下大師堂あたりの上り下りを柏峠と称した故である。
長野の金比羅道標と金比羅常夜灯
道標には「こんぴら大門与十四里」、といった文字が読める。
常夜灯と石の小祠(社日宮?)は、この地の直ぐ先にも並んで立っていた。
●市場川
地名の由来は、この地が東大寺の荘園であった頃、東大寺から派遣された荘官が物資を里人と交換するため、この川原で市を開いたことによる。
またこの市場川に架かる市場橋には、背高坊主に化けたイタチを封じた四国霊場巡礼の僧の話も残る。背高坊主は四国に伝わる妖怪である。
道面地蔵堂
。 少し進むと新居浜新四国二十二番霊場の石碑とともに多くの舟形地蔵が並ぶ道面地蔵堂がある。生垣の中には台座に坐る石仏もある。いい趣の仏さまである。「かつてここは旅人たちの休憩所であり、遍路の接待場所でもあった」と「えひめの記憶」にある。
●道面
この辺りの道は古代の太政官道。その道に面した地故の地名と言う。
関ノ戸
古来、この地は太政官道であり、関所が置かれていたとも伝えられる交通の要地であった。「えひめの記憶」には「かつて新居浜市側の関ノ戸地区では、多くの宿屋が狭い平地部分に軒を並べていた。文政2年(1819)に書かれた新井頼助の遍路日記には、当時の関ノ戸について「平山越しノ所二町続キ至極能所也。店々ニ珍物出し酒肴出して、留メ女二人引合也」と、そのにぎわいの様子が記されている」とある。子供の頃には、峠というには余りに緩やかな上り下りの関の戸にお店があったように思うが、今は何も目にすることはできなかった。
●関ノ戸
「関ノとう」からの転化。「とう」は峠の意。
本日のメモはここまで。次回はかつての三島市(現在の四国中央市)の遍路わかれへと進む。
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