田舎の新居浜から国道11号を走り、桜三里を抜けて松山へと下りはじめた川内辺りで国道を離れ、五十年も六十年も昔のうっすらとした記憶に残る鬱蒼とした山道を走り、記憶にはまったくなかった結構な峠(黒森峠)を越え走ること2時間強で面河渓へ。鬱蒼とした木々の中に続く滑床といった記憶の面河渓は、屹立する巨大な奇岩と仁淀ブルーの水、そして深い樹林といった渓谷の三大要素を兼ね備えた景勝ではあったが、記憶の中のそれとは少し違い、思いのほか空が開けた渓谷ではあった。
それはともあれ、左に右に斧で削られたような岸壁が対峙する景勝・関門の渓谷、巨大な一枚岩の大岸壁・亀腹やいくつもの奇岩、開けた河原に敷かれたような一枚岩とも見える白い河床。面河渓を形づくるこれら地形・地質を見るにつけ、渓谷形成のプロセスにフックがかかり、メモの段階でそれが石鎚火山活動に伴う陥没カルデラ形成時の「賜物」であることを知った。結果、散歩のメモも当初お気楽に紅見物でも、といったものから、少々付け焼刃ではあるが地質・地層面の視点を交えたものとなった。
また、面河散歩とは直接関係ないのだが、面河へのルート上で出合った黒森峠や面河ダムについてのメモも多くなってしまった。当日は何となく気になりながらも通り過ぎた黒森峠や面河ダムであるが、これもメモの段階で往昔の黒森峠越えの街道・黒森街道が登場したり、面河ダムが仁淀川水系の水を分嶺を超えて瀬戸内に水を流す利水計画の中心施設であったりと、「峠好き・水路好き」の身にはスルーできないものとなったからである。
結果、今回の面河散歩は面河への道すがらの「思いがけない出合い」と当初の目的であった面河渓散歩とふたつに分けてメモすることになった。最初は面河渓までのルート上で気になったことのメモからはじめる。
本日のルート;
■面河渓へ■
国道11号・河之内隧道>国道494号を黒森峠へ>黒森峠>面河ダム>妙谷川承水堰>割石川との合流点>県道12号に乗り換え>県道12号を進み面河渓へ
■面河渓へ■
国道11号・河之内隧道
田舎の新居浜市を出て国道11号を松山方面へと向かい西条市を越え、東温市に入る。中山川に沿って桜三里を進み、東流する中山川水系と西流する重信川水系を分ける根引峠の山稜を穿つ河之内隧道を抜ける。
昭和35年(1960)から昭和37年(1962)にかけて工事の行われた河之内隧道は付近に中央構造線が走っており、その破砕帯を避けるべくルート選定に注意を要したとのことである。
●中央構造線
中央構造線とは九州から関東にかけ、日本列島を南北に分ける大断層のこと。その長さは1000キロにも及ぶ。断層とは「地下の地層もしくは岩盤に力が加わって割れ、割れた面に沿ってずれ動いて食い違いが生じた状態をいう(Wikipedia)」とある。
中央構造線ってよく聞く。専門的なことはよくわからないが、日本列島の形成のプロセスと併せて大雑把に説明すると;アジア大陸のプレート東端に日本列島の上部・北部ができる。そこに太平洋側のプレートに乗って日本列島の下部・南部が南から移動し始める。7000万年前頃、そのふたつがくっつき日本列島の原型ができた。この接合部を中央構造線と呼ぶ。
2500万年頃前にアジア大陸東端付近が割れ始め海溝部ができる。これが日本海の原型。1500万年前にその海溝部が拡大する。この日本海原型部の拡大に伴い、日本列島の西南部は時計方向、東北部は反時計方向に回転する。ためにその接合部は折れ曲がり大きく陥没した。これがフォッサマグナと称される大地溝帯である。フォッサマグナの西端は糸魚川・静岡構造線として知られる。
その後氷河期を経て、さらに氷河期の終了とともに海面が上がり日本海ができあがり、現在の日本列島が作られた。おおよそ18000年前のことという。
因みに糸魚川・静岡構造線のことをフォッサマグナと思い込んでおり、それがフォッサマグナ・大きな溝の西端であることを知ったのは、塩の道・千国越えのとき。散歩の記憶が蘇る。
●河之内と川内
現在このあたりは東温市となっているが、それは平成の大合併(平成16年;2004)で重信町と合併しできたもの。我々愛媛の人間には温泉郡川内町のほうがなじみ深い。で、川内と河之内、これって結構似通っている。川内は河之内から?ちょっとした好奇心からチェックする。
河之内は、則之内(すのうち)、井内ともに三内村(みうちむら)の一部であった。三内はこの三地区がすべて「内」を記していたからである。その三内村が昭和30年(1955)、川上村と合併し温泉郡川内村となる。川上村の「川」と三内村の「内」を合わせ、「川内村」としたのだろう。自治体が合併する際によく見られる双方の地名の一部をとる命名法のように思える。
当初の類推は間違ってはいたが、行政地域名形成の典型的パターンが現れた。地名の由来は誠に面白い。因みに「東温」は温泉郡の東部から、とも言われる。
国道494号を黒森峠へ
河之内隧道を抜け、松山へと下りはじめてほどなく、国道11号から離れ国道494号に乗り換える。国道494号は表川が刻んだ谷筋の中を南に進む。道は昔の物資交易の名残を残すような地名・問屋の先、標高424m辺りで表川右岸に渡りヘアピン状に大きく曲がった後、等高線に抗うことなく緩やかな上りで山稜へと入る。
谷筋から山稜に入った道は、標高490m辺りで再び南に大きく曲がった後、幾つものヘアピンカーブを経て標高985mの黒森峠に至る。比高差560m程上ってきたことになる。思いもかけず結構上った。眼下に表川の谷筋、そしてその先に道後平野へと続く川内の平地が広がる。
黒森峠
上にもメモしたが、大昔に訪れた家族での面河車行の記憶からこの峠はすっぽり抜け落ちていた。こんな強烈な峠道を走った記憶は全く残っていない。
それはともあれ、峠フリークのわが身にフックが掛った。面河散歩から戻り、地図で見ると黒森峠から皿ケ嶺(標高1270m)へと続く稜線にはいくつもの峠が並ぶ。往昔、久万の山地と松山を隔てる、これら幾つもの山稜の峠を越える物資交易の道があったのだろう。それでは黒森峠は?とチェックする。
●黒森街道
黒森街道(「えひめの記憶」) |
「えひめの記憶:愛媛県生涯教育センター」によれば、「黒森峠は、久万高原町面河地区(旧面河村)と東温市川内地区(旧川内町)との境界にある標高985mの峠である。明治初年(1868年)ころ面河地区の渋草、笠方から黒森峠を越えて河之内、川上へ通じる黒森街道が開通した。
明治から大正、昭和初期まで、黒森街道は面河と松山方面を結ぶ重要なルートであり、面河から松山方面へ、松山方面から行商人や面河渓谷や石鎚登山に行く人々が行き来した。物資の流通でも重要なルートで、面河から木材や炭などの林産物が川上、横河原を経由して松山方面へ運ばれた。
昭和13年(1938年)に国道33号御三戸から関門の県道(面河線)開通により、次第に物資の輸送は国道33号を経由するように変わっていくが、人々の往来には黒森街道が利用された。しかし、昭和31年(1956年)県道黒森線(現国道494号)の開通によって黒森街道はその役目を終えた」とある。
明治に黒森峠を通る黒森街道が開ける以前の藩政時代(江戸時代)の交易路は黒森峠から皿ケ嶺へと続く稜線を少し南に進んだ割石峠を越えであったようだ。「えひめの記憶」には、割石峠を越えて河内村の問屋へと物資を運んだとある。そのルートは見つからなかったが、地図で見る限り面河側(平成16年;2004年に面河村は上浮穴郡久万高原町になる)の小網地区から割石峠に上り、峠から表川の源流部の谷筋へと下り問屋に向かったように思える。小網から峠までは等高線の間隔が比較的広く、そこを曲がり道で峠まで上り、そこから等高線の密な下りを一直線に、険しい下りを表川源流部へと向かったように思える(妄想)。
それでは明治に開かれた黒森街道のルートは?「えひめの記憶」によれば、小網から黒森峠までは、現在の国道494号のジグザグルートの上になり下になりと、比較的直線ルートで上る。峠から北は現在の国道筋とは異なり、北に延びる尾根筋を進み、ヘアピンカーブのあった標高490m付近で現在の国道494号の道筋をかすめた後、表川の谷筋に下りることなく、山稜をそのまま川内の音田にある金毘羅さん(松尾山金毘羅寺)の門前へと進んだようである(「えひめの記憶」)。車のことを考えなければ、自然に抗わぬルートとしてこのコースが最適ではあったのだろう。
現在の国道494号はそのベースは昭和31年(1956年)に開かれた県道黒森線(現国道494号)にある。平成5年(1993年)に国道に昇格し、国道494号となった当時は、国道にトンネルを抜くといった計画もあったようだが、現在のくねくね道をみる限り、その計画は頓挫したようである。
面河ダム
黒森峠を越えると道は割石川の谷筋に沿って小網、市口へと下る。小網は割石峠道と黒森街道が左右に分かれる地でもある。黒森峠から標高を200mほど下げた市口で眼前に面河ダム湖が広がる。
当日は、どこかで聞いたことがある名前だなあ、と思いながら通り過ぎたダム湖ではあるが、メモの段階でいつだったか歩いた金毘羅街道歩き、丹原の利水散歩で出合った、分水嶺を跨いだ愛媛の利水計画の現場と繋がった。太平洋に注ぐ仁淀川水系の水を面河ダムに貯め、そこから分水嶺を跨ぎ(といっても導水トンネルを山塊に抜くわけだが)、瀬戸内に注ぐ中山川水系に落とし発電と共に、道前平野(西条市方面)・道後平野(松山市方面)に水を供給する利水計画がそれである。
●分水嶺を跨いだ利水計画
道前道後利水計画(「西条市 水の歴史館」) |
中山逆調整池に貯めた水はそこで道前平野側と道後平野側に分水されるわけだが、道前平野側は中山逆調整池で中山川に放水される。中山川を流下した水は、中山川取水堰で取水された後、両岸分水工で右岸幹線水路と左岸幹線水路に分水される。丹原利水散歩の折にであった中山川取水堰、両岸分水工が思い起こされる。
一方、道後平野側では逆調整池に設置されている千原取水塔より取水し、隧道(トンネル)を抜け、南北分水工で北部幹線水路と南部幹線水路にそれぞれ分水される。 中山川で出合ったこの分水嶺を跨いだ利水計画の核となるのがこの面河ダム。案内図で見たときは、四国山地のもっと山深きところにあるのだろうと思っていたのだが、思いもかけず面河渓への道すがら国道脇で出合った。結構嬉しい。
●面河ダムの水
面河ダムの承水堰(「水土の礎 道前道後平野水利事業の紹介」) |
面河渓を訪ねた下り、面河川にちらっと堰を見かけたのだが、当日はこのようなドラマの一端を担う堰とも知らず、お気楽に走り過ぎた。因みに、面河川で見かけた施設は面河第一承水堰のようだ。第二承水堰ははっきりしないが、国土地理院の2万五千分の一の地図を見ると面河渓で面河川に合流する鉄砲石川に堰らしきものが窺える。それが面河第二承水堰かもしれない。
妙谷川承水堰
道494号は市口からダム湖を離れダム湖左岸(北側)の山稜へと上る。山稜を越えた国道は妙谷川の谷筋に入る。因みに、往昔の黒森街道はダム湖右岸(南側)のほうを進んでいたようである。
山稜を越え妙谷河筋を走ると水路施設、水路橋らしきものがあった。当日は特に気にも留めず取りあえず写真を撮っただけではあったが、メモの段階で妙谷川承水堰のことを知り、国土地理院の2万五千分の一の地図に記された水路線と合わすと、なんとなく妙谷川承水堰の施設およびその水路橋のように思える(推定ではあるが)。
割石川との合流点
妙谷川の谷筋を下り、面河ダムから下る割石川本流との合流点に至る。往昔の黒森街道はここからダム湖左岸方面を進んだようであり、ダムの手前には、黒森街道建設に情熱を注いだ重見丈太郎(後の面河村長)氏が陸軍を動かし、大正9年(1920)、陸軍工兵隊がダイナマイトで開削した掘割跡があるようだが、当日は知る由もなく通り過ぎた。
県道12号に乗り換え
更に割石川を下る。土泥という面白い地名を経て渋草に。渋草は面河村役場のあったところ。さらに割石川に沿って下ると川口という如何にも河川が合わさる地名で割石川は面河川本流に合流する。国道は面河川に沿って西に下るが、面河渓への道はこの地で国道と分かれ東に向かう県道12号に乗り換えることになる。
県道12号を進み面河渓へ
国道から県道に乗り換える、とはいうものの、正確に言えば河口で西に向かう国道は県道12号との重複区間であり、県道12号は七鳥(仕七川)で国道494号を分けた後、面河川本流に沿って下り御三戸で国道33号にあたる。
それはそれとして、面河渓には河口から県道12号を東へと進み、河の子川が面河川に合流する栃原あたりで北東へと向きを変え、草原川が本流に合わさる若山を経て面河渓の入口である関門に到着する。
●観光地としての面河渓の歴史と道路整備
今回、面河渓へのアプローチは、少々跡付けの感は否めないものの、往昔の面河村(正確には当時は杣川村。面河村が誕生したのは昭和9年;1934。それ以前は明治23年;1890に杣野村と大味川村が合併し杣川村が誕生した)への往還である、黒森峠を越える黒森街道方面からの車行であった。この場合の面河村への往還は生活路としてのものであり、観光としての面河渓谷への道ではない。面河が観光地として知られるようになり、観光に訪れるようになるのは大正も末のころであり、それも限られた一部の富裕層のものであったようだ。また面河渓を訪ねる道は、黒森峠ルートではなく運輸・道路整備が進んだ久万方面からのアプローチが主流となっていたように思える。
「えひめの記憶」に拠れば、大正8年(1919)には松山―久万間の定期バス(乗合自動車)の運行が始まり、大正13年(1924)頃には面河行き乗合自動車として七鳥(仕七川;現在の国道33号から県道12号に少し入った辺り)まで延び、昭和4年(1929年)には栃原までバスが入った、とある。
また道路の整備も昭和13年(1938)には県道が上述国道33号との合流点である御三戸から若山まで開通し、その直後には面河渓の玄関口である関門までバスの定期便も走った、とのことである。
景勝面河渓へのアプローチの主たるルートとなった久万側からの運輸・道路の整備は進むが、当時の面河は依然として一般観光客が気楽に訪ねることのできる観光地であったわけではないようだが、その状況が変わるのは昭和30年(1955)石鎚山が国定公園に指定されてから、とのこと。観光客の増加を見越し道路の整備が行われ、更に昭和45年、県道12号の延長ルートとして石鎚スカイライン開通に伴い道路が拡張整備され、多くの観光客が面河渓に訪れるようになった、と言う。
奥面河渓探勝略図(「面河山岳博物館」) |
面河山岳博物館主催の「これからの面河渓観光を考える講座」のパンフレットには、昭和2年制作の「奥面河渓探勝略図」 が掲載されていた。昭和2年大阪毎日新聞社と東京日日新聞社が鉄道省の後援を受け企画された「日本八景」への登録を目指し結成された「大面河宣伝会」により制作されたもの、と言う。昭和の新時代を代表するものとし て、全国の新聞読者からの投票により選定するという同企画への登録を目指し絵葉書セットとともに面河渓の宣伝告知を意図している。上述のごとく未だバス路線も開通していない面河渓の観光地としてのキャンペーン活動が昭和初期に既に始められれいるということだ。
これら先人の努力と上述の道路の整備やバス路線の開設など社会インフラ整備が相まって「景勝面河」のブランディングがつくられていったのだろう。
当日はそれとは知らず車で走り抜けた面河への道筋であるが、メモの段階であれこれ気になることが現れ、面河渓散歩のメモではありながら、面河到着までのメモが少々長くなった。面河渓散歩のメモは次回に廻す。
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