金曜日, 7月 07, 2006

北区散歩 そのⅠ:武蔵野台地崖線東端のを歩く

田端から王子、赤羽へと
北区を歩く。石神井川源流から下ってきたとき、意図せず、北区・王子近辺を歩いたことがある。平氏打倒の旗揚げをした頼朝が、下総から武蔵に乗り込み、最初の陣を張ったとも伝えられるお寺・金剛寺だったか、「音無しさくら緑地」の緑の吊橋のあたりだったか、ともあれ、突然の雷雨に見舞われた。王子の近く、滝野川地区あたりから、いかにも渓谷の雰囲気をもつ石神井川を見ながら、こんなに深く掘る必要があるのだろうか、などと思っていたのだが、雷雨による増水で川が溢れんばかり。いろんな場所から集められ、排水口から川に流れ込む濁流を見て、あらためて自然のパワーを感じ入った次第。そんなこともあったよな、と少々昔のことを思い出した。

さてさて、今回はどこからはじめるようか、と考える。北区で、なんとなく気になるのは、荒川治水資料館。名前だけに惹かれるのだが、浮間。そして、飛鳥山公園にある飛鳥山博物館。そこには北区の郷土資料館がある。キーワードはこの三つ。そうそう、それと、北区って旧軍関連施設・軍需工場がやたら多かったような印象がある。北区の一割程度を占めていた、とも言われる。旧軍関連施設も北区のキーワード、であろう。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

で、あれこれ思案し、北区散歩の第一回は、結局、飛鳥山辺りを始点に、王子から赤羽にかけての武蔵野台地東端を歩くことにした。いつだったか日暮里辺りの崖線上の高台を歩き、武蔵野台地と東京下町低地の境目、そのコントラストに少々魅せられたのだが、今回の崖線歩きも地形の「うねり」が楽しめそう。ともあれ、王子の郷土資料館を手始めに、と自宅を出る。




本日のルート;田端駅>田端文士村記念館>田端八幡神社>谷田川跡>赤紙仁王>北田端八幡>大龍寺>山手線の踏切>円勝寺>中里貝塚>旧古河庭園>平塚神社>滝野川公園>七社神社>飛鳥山公園>飛鳥山博物館>音無橋>王子神社>王子稲荷神社>名主の滝公園>地福寺>富士神社>十条銀座商店街>清水坂公園>稲付公園>法真寺>香取神社>静勝寺


田端駅
飛鳥山公園のある京浜東北線・王子駅に向かって家を出る。山手線に乗り、田端で乗り換えて、と思っていた。が、乗換えが鬱陶しくなった。結局田端で降り、崖線を王子まで歩くことにした。JR田端南口で下車。南口って、崖上側。例によって、駅前の地図・案内板をチェック。田端文士村記念館、八幡神社とその別当寺あたりが目についた。




田端文士村記念館
「田端文士村記念館」を探して少々道に迷った。が、結局のところこの記念館は駅前にそびえる飛鳥タワーの1階にあった。芥川龍之介、小杉放庵、室生犀星、板屋波山といった田端を拠点に活躍した文士・芸術家の記念品が展示されている。ここに文士村ができたのは、地理的には上野の東京芸大に近かった、ということ。また、中心となる人物は芥川龍之介のような感じがした。芥川の紹介ビデオを観ていて、『羅生門』がほとんどはじめての頃の作品といっていいものである、とのこと。数日前に娘の宿題で芥川の『羅生門』について一緒に調べていたので、誠に興味深かった。「ぼんやりとした将来への不安」という言葉を残して自らの命を絶った芥川龍之介に合掌。

田端八幡神社

田端駅前から不忍通りに通じる道を降りる。いかにも切通しといった雰囲気。田端文士記念館でもらったパンフレットには、昭和8年、この切通しが完成したと書いてあった。ともあれ、両側の崖地を眺めながら田端2丁目・赤紙仁王通りで右折。隅に「田端八幡神社」。1189年建立。田端村の鎮守様。一の鳥居の手前に谷田川に架かっていた橋桁が埋め込まれていた。この赤紙仁王通りの一筋南に「谷田川通り」がある。ここが川筋跡だろう。


谷田川跡
谷田川はいろんな名前をもつ。源流点の染井霊園のあたりでは境川とか谷戸川、谷中から下あたりは藍染川、と。実のところ、この藍染川というか谷田川って、前々から気になっていた。が、どこを流れていたのか今ひとつわからなかった。今回、偶然にも谷田川跡を「掴んだ」。近いうちに源流点から不忍池あたりまで歩いて見たい。

赤紙仁王
さてさて、先に進む。田端八幡さまの横に東覚寺。八幡様の別当寺とかなんとかといった、お寺の縁起よりないより、不動堂前にある一対の仁王様の石造、すこぶる味がある。全身にぺたぺた赤紙が貼られている。赤紙仁王と呼ばれる所以。これって、おのれの患部と同じ箇所に赤紙を貼ると直ると言われ、病気が治ったお礼にわらじを奉納する、とのことだ。仁王様の表情がすこぶるいい。ひさしぶりにいいものを目にした。ちなみに写真はお正月に訪れたときのもの。参拝客も多く、お顔一面にも赤札が貼られ、ご尊顔を拝し得ず。


北田端八幡

赤紙仁王通りを西に進み、八幡坂通りに。ここにも「八幡神社」。こちらは北田端八幡さま。北田端村の鎮守さま。この田端一帯の地形は魅力的。太古、海によって削り取られた武蔵野台地の縁。田端駅近くの高台ってこの台地と東京下町低地の境界線。この崖線・高台が谷田川通りのある川筋に向かって下り、不忍通りを越えると再び本郷台地として盛り上がる。散歩をはじめるきっかけとなった、京浜東北線というか山手線に沿って聳える崖線、その先に、一体なにがあるのだろう、といった好奇心、そのときの気持ちが蘇る。田端はその思い出の地ではある。

大龍寺

神社の横には大龍寺。板谷波山などが眠っている。板谷波山(はざん)は明治から昭和にかけての陶芸家。もともとは無名の職人であった陶工を、アーティストとして、その社会的地位の向上に大いに貢献した、と。子規には散歩の折々で出会う。墨田区墨堤の長命寺近くの桜餅の店。ここに一時期、避暑かなにかで滞在し、そこの美人の娘さんに惹かれた、と。また、日暮里・善性寺前の羽二重団子のお店でも、子規がそのお団子を贔屓にしたとか、といったエピソードを聞いたような気がする。だからどうした、言われれば、それだけのことでは、ある、が。

山手線の踏切

滝野川七小前を西に進む。踏み切りに当たる。線路が北と南に分かれている。南への路線が山手線。北への路線が宇都宮・高崎線。それにしても、それにしても、である。踏み切り、とは。都内の山手線といった幹線で、踏み切りがある、というのは、まっこと、奇異な感じがする。崖線部分で交通量もない、といった事情なのであろうか。ともあれ、踏切を見たときは山手線とは、とても信じられなかった。


円勝寺
踏み切り脇に円勝寺。このお寺には、江戸時代の茶人であり、数奇屋頭として幕府の茶道を支配していた伊佐家のお墓がある。数奇屋頭とは数寄屋坊主を指揮し、大名や御三家の茶事を司る職制。武家茶道に大きな影響力をもっていた一派、とか。門下には松江藩主・松平不昧公がいる。 この寺に「五石の松」の話が伝わる。家康鷹狩りの折り、この寺で休息。枝振りのいい待松を愛で、「松に五石を賜る」と。とはいうものの、松に領地とはこれいかに、との批判もあり、沙汰は取りやめ。とたんに松が悄然として、枯れそうに。家康公ゆかりの松を枯らしては大変と、松に「五石を賜る」と伝える。あら不思議、みるみる元気になった、とさ。

中里貝塚
線路に沿って崖線の高台、尾根道といった「田端高台通り」に戻る。このあたりの高台下、上中里2丁目19のあたりに「中里貝塚」。京浜東北線と尾久操車場に囲まれた地帯にある縄文中期から後期にかけてつくられた貝塚だ。目の下にはあるのだが、そこに行くには結構大廻り、となる。 崖線上を進み、瀧野川女子学園前の陸橋を渡り、貝塚に。

1キロ強。貝塚跡は公園となっている。で、この貝塚、幅100m、長さ500m、層の厚さは4.5m。通常の食べ殻を棄てるにはあまりにも大きすぎる。ために、貝類の加工をおこなっていた「水産加工場」ではないか、と言われている。石器をつくる石材などと交換する交易品として貝が加工されていたのだろう。もと、この地は明治の頃より、「中里遺跡」として知られていた。東北新幹線の上野乗り入れ工事のとき発見された独木舟(まるきぶね)などを知るに付け、このあたりから漁にでかけていたのか、交易舟であったのか定かには知らねども、縄文の人たちの姿に少々の思いを馳せる。

旧古河庭園

高台通りを西に。女子聖学院の前を進み西ヶ原交差点で本郷通りと合流。合流点に旧古河庭園。明治の元勲・陸奥宗光の邸宅を古河財閥が譲りうけたもの。いつだったか、バラを観に行った覚えがある。 陸奥宗光、って、その質、才気煥発にして、坂本龍馬も大いに評価した人物であった、とか。紀州藩出身。薩長藩閥政治に異を唱える。陸奥宗光は日清戦争の下関講和条約の全権のひとりとしてその才を大いに発揮した。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


平塚神社

本郷通りを進み平塚神社に。もともとこの地は中世の豪族、豊島氏の居城。後三年の役を制し奥州から凱旋した八幡太郎・源義家一党がこの城に立ち寄る。一党をもてなし、その武功を偲んで社を建てたのが平塚神社のはじまり。拝領した鎧を埋め、その上に平たい塚を築く。これが平塚の由来でもある。 文明9年(1477年)、石神井城を居城とする豊島泰経が江古田・沼袋の戦いで太田道潅と交戦。この戦いに敗れた豊島泰経は石神井城に逃れるが、その城も落城。翌年にはこの平塚城も落ちる。いつだったか、内田康夫ファン、というか、浅見光彦ファンとして、しばしば作品に登場するこの神社を訪れた。が少々イメージと異なった風景。長い境内は駐車場になっていた。作品に登場する団子屋さんの平塚亭は、いかにもファン倶楽部然としたグループで結構賑わっておりました。



滝野川公園
少し進み、本郷通りから離れ滝野川公園に入る。昔はこのあたり一体に平塚城があったのだろう。また、ここは「御殿前遺跡」があったところ。この「遺跡は律令期というから7世紀から10世紀前半にかけての古代の役所・「武蔵国豊島郡衙」の跡ではないか、とされる。ここには政庁域と正倉院があった、とか。



七社神社
国立印刷局滝野川工場とJRとの間の崖線下を進む。直ぐ隣を電車が走る、って感じ。道なりに進み崖上に戻る。西原2丁目に七社神社。もとは一本杉神明社。樹齢千年以上の杉を神木とする神社があった。明治初年に七社神社がこの地に移り、以来、七社神社と。 七社神社は江戸時代、七所神明社と呼ばれていた西ヶ原村の鎮守。この七社神社は別当寺である古河庭園横の無量寺にあった。紀伊高野山の四社明神に、天照・春日・八幡さまを合わせた、結構豪華なラインアップ。明治の神仏分離令により、現在地にまつられることになった。

飛鳥山公園

本郷通りに戻るとすぐに飛鳥山公園。公園に入る。渋沢邸や渋沢資料館。資料館には日本の近代経済社会の基礎を築き、日本産業界の指導者として活躍した人物・渋沢栄一の91年の生涯にわたる資料が展示されている。この人物評伝は結構、読んだ。城山三郎さんの『勇気堂々』が印象に残る。つい最近も、『渋沢家三代(文春文庫)』を呼んだばかり。ともあれ、この地に渋沢栄一さんの別邸、後には本邸となった住居があった、とのこと。


飛鳥山博物館
渋沢資料館の隣に飛鳥山博物館。北区の歴史資料が展示されている。予想以上に充実している。いくつか訪ねた郷土資料館の中では、エクセレント・レベル。例によって、『北区飛鳥山博物館 常設展示案内』『北区文化財ガイドマップ』『キッズランド北区』といった資料を入手。ルート取りが楽になった。 博物館を出る。飛鳥山公園には弥生時代中期の環濠集落が発見されている。長径およそ260m、短径150mといった東日本でも最大級の集落。環濠集落って、周囲に溝を巡らした村、といったもの。北区ではここ以外に王子本町2丁目の亀山遺跡、赤羽台遺跡でこの環濠集落が見つかっている。

音無橋
飛鳥山公園を出て、本郷通りが王子駅方面に回りこむあたりの歩道橋を渡る。石神井川にかかる音無橋に。石神井川ってこのあたりでは、音無川とも滝野川とも呼ばれる。石神井川は西武線・花小金井の近く、小金井公園裏手の嘉悦大学境内が源流点。といっても、いつだったか、源流点を見に行ったときときには、湧水などまるでなかった。ともあれ、そこから、早大運動場脇の関公園の池、石神井公園の池などを経て、東に下り、北区堀船で隅田川に合流する。全長25キロ強の一級河川である。 もともとの川筋は、この王子近くで南に下っていたようだが、「河川争奪」のため、王子から東にその流れを変えた、と。河川争奪とは、元の川筋が別の川筋に「奪い取られる」ということ。ここでは、崖線が浸食のため削られ、崖線に沿って南に下っていた元々の流路が、東野東京下町低地へと、その流れを奪い取られた、ということ。都内では、ほかに等々力渓谷に見られる。 橋から石神井川を少し戻る。結構な渓谷、である。河川争奪の結果、王子方面へと流れを変えた川筋は、結構な急勾配を下ったのだろう。地形図をチェックすると、王子あたりでの比高差は10mほども、ある。その急勾配故に、川床が深く掘り切られていったのだろう。このあたり。滝野川とも呼ばれ、紅葉の名所であった、とか。

王子神社
川筋から戻り、橋を越え、北区第二庁舎あたりを右折。王子神社。中世熊野信仰の中心となった神社。紀州熊野三所若一王子が勧請され若一王子宮となったのがはじまり。若一王子(にゃくいちおうじ)または、若王子(にゃくおうじ)とは少年または少女の姿で現れる神さま。全国の熊野信仰のひろまりにつれ、熊野神社を勧請する際に多くの場合、この神様が祀られた、とか。日本では古来、若宮とか御子神といった、本宮の神様の子供をお祀りする信仰があるが、これなどその典型か。ともあれ、東京低地から武蔵野台地に「登りあがる」この地に熊野信仰の橋頭堡を確保し、武蔵の国一体に、その川筋に沿って進出していったのだろう。 熊野・紀州で思い出したのだが、この王子一帯が行楽地としてブレークしたのは八代将軍吉宗の力によるところが大きい、と。紀州徳川家の出身故に、熊野信仰のこの地を庇護し江戸時代、庶民の一大行楽地となった、とか。ちなみに、先ほどの音無川も、熊野の音無川に由来することは、言うまでもない。

王子稲荷神社

台地をすこし降り、京浜東北線の手前の森下商店街を北に進む。左手に「王子稲荷神社」。関八州の稲荷神社の総社。毎年大晦日、関東のお稲荷さんの名代としてお狐さまが、王子2丁目、というから王子駅を明治通り方面に少しすすんだあたりにある装束稲荷神社に集まる。で、高級女官の装束に改めて、行列を調えこのお稲荷さんに参拝した、という装束稲荷伝説ものこっている。落語『王子の狐』の舞台でもある。 王子の狐;ある男、娘に化けている狐を見かける。そしらぬ顔をし、料理屋に。狐が酔っ払って寝ている間に、その男、店をでる。「お勘定は娘にもらってくれ」。目が覚めた狐、突然の御代の請求に我を忘れ、正体を現す。で、追い回され、殴られ、狐はほうほうの態で逃げ出す。逃げた男、狐をだますと祟りがあると恐れ、狐のもとに謝りに。おみやげのボタモチ。子きつね、「おいしそう。食べてもいい」。親きつね曰く「およしなさい。馬の糞かもしれないよ」。お後がよろしいようで。



名主の滝公園
少し先に金輪寺。もと、王子権現の別当寺の藤本坊。幕末に焼失。明治に金輪寺の名前を継いで王子山金輪寺、とした。鉄筋のお寺様。直ぐ近くに名主の滝公園。江戸時代、王子の名主であった、畑野孫八が開いた庭園。明治になりこの地を所有していた垣内徳三郎が塩原の景観を取り入れた造作とした、と。落差8mの男滝をはじめ、女滝、独鈷の滝、湧玉の滝など四つの滝。水量もおおく、湧水というか地下水を利用した庭を開いた、とはいうものの、この滝から流れる水は人工的なものでは?、とその圧倒的な水量を見るに付け忖度する次第。ともあれ、こんな自然が、都内に残っているだけで結構幸せ。ちなみに、この公園、映画「黄泉がえり」の中で柴崎コウが歌った「月のしずく」のプロモーションビデオのロケ地でもあった。

地福寺
道なりに東十条駅方面に進む。地福寺。門前手前に六体のお地蔵さん。十条村のお地蔵さん、と呼ばれた所以、か。茶垣の参道、も。昔、王子周辺はお茶の栽培が盛んであった、とか。その歴史を今にとどめるべく、茶の生け垣による参道を作られた、と。




富士神社
富士神社には社殿はなく富士塚のみ。もともとは古墳ではなかったか、とも言われる。富士塚は富士信仰による。実際に富士にお参りできない人たちのために、その姿に似せて塚とつくる。散歩をはじめるまで、富士塚など、見たこともなかったのだが、歩き始めて以来、あちらこちらで出会うことになった。都内で出会ったもので、最大のものは、葛飾区南水元の富士神社であった、かと。先日、冨士講中興の祖・食行身禄(じきぎょうみろく) を描いた『富士に死す;新田次郎(文春文庫)』を古本屋で見つけ読み終わったばかり、である。 富士神社の角を西に入り埼京線・十条駅に。ここからしばらくは、十条銀座商店街を進むことになる。




十条銀座商店街
およそ200以上の店が集まるこの商店街は、近隣に設置された軍関係施設の拡充に呼応して発展。北区の一割近くを占めたといわれる軍関連施設をまとめておく。 明治初年に赤羽の台地に火薬庫が、石神井川沿いに板橋火薬製造所ができたのがはじまり。

赤羽・十条・滝野川の西部を弧状に分布していた軍施設は、北から、工兵第一大隊架橋場、近衛工兵隊架橋演習場、練兵場、第一師団工兵第一大隊(星美学園敷地)、近衛工兵大隊兵営(東京北社会保険病院)、陸軍被服本廠(赤羽団地)、工兵作業所、陸軍火薬庫(桐ヶ丘団地)、陸軍兵器庫、東京陸軍兵器支廠、陸軍火工廠稲付射撃場(西ヶ原2丁目・梅ノ木小学校)、板橋火薬製造所、十条兵器製造所、雷こう場、王子火薬製造所分工場、火薬製造所豊島分工場、といった按配。ちなみに西ヶ原の東京外国語大学敷地には海軍下瀬火薬製造所があった。 十条銀座の雑踏を進む。こういった商店街って大阪にはよくあるのだが、東京ではあまり見かけない。進むと富士見銀座に続く。

清水坂公園
環七通りを越え、先に進むと清水坂公園。公園は崖面を活用したつくりになっている。台地下に下ることなく、高台というか尾根部分を進む。台地が切れる。崖端から眺める。複雑に入り込んだ枝状の台地が魅力的。貝塚の遺跡跡を公園にした、と言う。


稲付公園
崖縁の石段を下りる。稲付公園のある丘に登る。ここは講談社・野間家の旧別邸跡。ひとつの丘全部が別邸とは剛毅な限り。丘に登る坂は野間坂。講談社社長・野間清氏に由来することは言うまでもない。 丘をぐるっと廻り坂をくだる。鳳生寺坂。

案内文;この坂は、鳳生寺門前から西へ上る坂で、坂上の十字路まで続き、坂上の旧家の屋号から六右衛門坂とも呼ばれます。坂上の十字路を右(北)へ向かうと赤羽駅西口の弁天通り、左(南)に向かうと十条仲原を経て環七通りへと至ります。名称の由来となった鳳生寺は、太田道灌の開基と伝えられ、岩淵宿にあったものを移したので、現在も岩淵山と号しています、と。稲付って地名の由来;昔、荒川が氾濫したとき、この高台に稲が流れ付いたから、とか。今ひとつ釈然とせず。

法真寺
鳳生寺前を通り、香取神社に向かう。行く手に見える小高い丘、その緑の中にあるのだろう。坂道を上ると法真寺。落ち着いた、いいお寺。徳川家光公より十三石二斗の御朱印を受ける。現在でも門跡寺院の格式をもち、京都の公家寺同様に、掘に二本の白線を入れる権利をもつ由緒あるお寺。開山は天海僧正の弟 ・日寿上人。開基は京都山科毘沙門堂跡守澄法親王、と聞けば、なんとなく納得。

香取神社
すぐ隣に香取神社。旧稲付村の鎮守さま。創建時期は不明。縁起によれば、奥殿に安置されている朱塗りの本殿は、かって上野東照宮の内陣だったもの。

家光が夢のお告げにより稲付村に移された、と。それにしても、隅田川の西で香取神社を見たのははじめて。基本的には隅田川の東が香取神社の祭祀圏ではあるのだが、はてさて、どういった経緯でこの地に誕生したのか、ちょっと調べてみたい。

静勝寺
台地の上を進み静勝寺。室町中期、太田道潅が北の拠点として築城した稲付城址。稀代の英雄の菩提をとむらうため道灌の禅の師匠・雲綱がむすんだ庵・道灌寺がはじまり。江戸時代、太田備中守資宗の庇護のもと、道灌とその父資清の法号をもとに現在の名前に改められた。 お寺は台地の端。眼下に赤羽の駅前低地。

台地下は鎌倉時代には岩渕宿、室町には関がもうけられるなど交通の要衝。時代は下って江戸期には岩槻街道、というか日光御成道となっている。城はその主要道を見下ろす台地に位置し、江戸と岩槻の城をつなぐ戦略拠点であった、ということだろう。 静勝寺の坂を降り、駅前への道、これって岩槻街道、というか日光御成道に下り、すぐ近くの赤羽駅に。今回の散歩は、お寺あり、神社あり、貝塚あり、城跡あり、桜の名所あり、紅葉の名所あり、台地あり、川あり、なかなかにバラエティに富んだコースであった。

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