本日のルートはこの遍路道を辿るのだが、寺から?丁下るという東坂がどこかよくわからない。国土地理院の地図を見ると、屋島寺から屋島東麓を次信地区へ延びる破線があり、その道筋に佐藤継信の墓もある。道は荒れて歩けないといった過去の記録もあるようだが、とりあえずその破線ルートが真念の言う東坂であろうとトライした。
結局道はきれいに整備されており何の問題もなし。その後は地名の壇ノ浦が示すように、源平争乱記の壇ノ浦合戦の旧跡と処々に出合いながら八栗寺へと上った。
それにしても源平屋島合戦の地が壇の浦、また平氏滅亡の舟合戦のおこなわれた地も壇の浦。偶然一致とすればできすぎている。島の壇の浦の由来は、飛鳥時代に大宝律令に基づき、屋島に軍団が置かれ、その軍団の浦(湊:津)故に団の浦>壇の浦とWikipediaにあった。山口の壇の浦は海岸地形を表す名とある(Wikipedia)だけで詳細は不明。少し寝かせてそのうちに深堀してみよう。
本日のルート;八十四番札所 屋島寺>遍路道下山口へ>下山口>3丁目舟形地蔵丁石>屋島スカイウエイ>舟形地蔵丁石と石仏>車道と繋ぐ>>舟形地蔵丁石と破損した大師座像>大楽寺>佐藤継信の墓>茂兵衛道標>小堂に地蔵標石>安徳天皇社>小堂と地蔵>源平合戦史跡の石碑>菊王丸墓>高橋手前のお堂に標石と石仏>洲崎寺角に茂兵衛道標>洲碕寺>標石2基>牟礼北小学校正面前に標石>三叉路のお堂に地蔵丁石と遍路墓>小堂に地蔵丁石と傍に標石>「山田家うどん」傍のお堂に地蔵と標石>県道146号に出る>八栗ケーブル駅>お堂や舟形地蔵>加持水>歓喜天の扁額をもつ鳥居>お迎え大師>八十五番番札所 八栗寺
八十四番札所 屋島寺
仁王門より境内に。●四天門
●可正桜
可正は次のような歌も残しています。
花の時人きてもしも問うならば可正桜と名を知らせてよ」
●梵鐘

●本堂
Wikipediaには「南面山 千光院 屋島寺(やしまじ)。屋島の南嶺山上(香川県高松市屋島東町)にある真言宗御室派の寺院。
律宗の開祖である鑑真が天平勝宝6年(754年)朝廷に招かれ奈良に向かう途中に当地を訪れて開創し、そののち弟子で東大寺戒壇院の恵雲がお堂を建立し屋島寺と称し初代住職になったという。ここから1kmほど北の北嶺山上に屋島寺前身とされる千間堂遺跡がある。
その後の時代の古代山城屋嶋城の閉鎖に伴い、南嶺の屋嶋城本部跡地に屋島寺を創設したとされる。すなわち815年(弘仁6年)嵯峨天皇の勅願を受けた空海は、お堂を北嶺から南嶺に移し、千手観音像を安置し本尊とした。天暦年間(947年~57年)明達が四天王像と、現在の本尊となる十一面千手観音坐像を安置した。
明徳2年(1391年)の西大寺末寺帳に屋島寺と屋島普賢寺の名があり、当時は奈良・西大寺(真言律宗)の末寺であったことがわかる。高松藩主生駒一正は慶長6年(1601年)に屋島寺の寺領25石を安堵。近世を通じ、当寺は高松藩の保護下にあった。現在も国有林部分を除いて、屋島山上の敷地のほとんどは屋島寺の所有である」とある。
鑑真の弟子で初代住職は恵海と書かれている記録もありはっきりしないが、空海が15歳で都に上る折、当山に上り空鉢恵海律師より戒律を受け、それ故に「空海」と称するようになったといったお話もある。
●蓑山大明神
屋島の太三郎狸は、佐渡の団三郎狸、淡路の芝右衛門狸と共に日本三名狸に称せられています。
太三郎狸は屋島寺本尊千手観音の御申狸(おんもうしだぬき)として善行をつんだため、土地の地主の神として、本堂の横に大切に祭られ、四国狸の大将としてあがめられ、その化け方の高尚さと変化妙技は日本一であった。
尚屋島太三郎狸は一夫一婦の契りも固く、家庭円満、縁結び、水商売の神、特に子宝に恵まれない方に子宝を授け福運をます狸として全国よりの信者が多い」とあった。
●屋島稲荷
●大師堂・三体堂・千体堂
●獅子の霊験
四天門まで戻り可正桜の所を東に進む。途中、土産物屋、新屋島水族館前を通り屋島寺西側の眺望の地に。獅子が吼えているような岩が屹立する故の命名と言うが、小学校の修学旅行での「瓦け投げ」を思い出す。瀬戸の島々、高松市街が一望の地。
で、霊験とは?弘法大師が屋島のお山に巡錫の折、本堂を一夜で建立し、また本尊の千手観音を一夜で彫上げたとの寺伝がある。その時のこと。完成しないうちに夕方となったため、この地(獅子ノ霊験)の地にて祈願し、夕日を呼び戻して彫上げた、と。その不思議な感応を以てしての「霊験」の命名かと。
屋島寺から八栗寺へ
遍路道下山口へ
獅子ノ霊験を離れ、次の札所八栗寺への遍路道下山口に向かう。下山口は特定できてはいなかったのだが、国土地理院の地図に屋島寺から東に続く折れ線が描かれる。それが下山道ではと、あたりをつけて下山口をチェック。Google Street Viewでチェックすると、屋島寺の東にある駐車場の南、今は廃墟となっている大きな建物傍(ホテル?)に下山口らしき標識があった。
●屋島東側
〇屋島と五剣山

これってその因は何だろう?チェックする。地質は全く不案内ではあるが、大雑把に理解したところによると;両者の基盤を成すのは同じ地質の花崗岩。おおよそ9000万年前に形成された。その後1400万年前に火山活動が起こる。その時に基盤の花崗岩に被さった地質が異なったようだ。
屋島側は讃岐岩室安山岩、通称サヌカイトと称される固い岩質、それに比べて五剣山側は「柔らかい」岩質。その因は異なる系統の火山活動による火砕流堆積物の違い。それを成したのはかつて、といっても1400万年も昔のことだろうが、屋島と五剣山の間には山があり、屋島側と五剣山側を隔てていたようである。



●下山口;10時38分
3丁目舟形地蔵丁石;10時55分
屋島スカイウエイ;10時57分
舟形地蔵丁石から直ぐに屋島スカイウエイと交差。かつては民営の屋島ドライブウエイとして有料道路であったが、高松市による無料化の取り組みがなされ、平成30年(2018)に屋島スカイウエイとして供用が開始された。
舟形地蔵丁石と石仏;11時11分
車道と繋ぐ;11時16分
舟形地蔵丁石と破損した大師座像
大楽寺
佐藤継信の墓
案内には「継信は寿永4年(1185)2月の源平屋島合戦のとき、平家の武将能登の守教経の強弓により、大将義経の命危ういとみて、義経の矢面に立ち、身代わりとなって討死しました。
この継信の忠死を広く世間に知らせるために寛永20年(1643)初代高松藩主松平頼重公が、合戦当時に義経が丁寧に葬ったあとを受けて、屋島寺へ続くこの遍路道の傍に建立したものです。また、墓は牟礼町王墓に残っています。高松市 高松観光協会」とあった。お墓と言うより供養塔といったもののようだ。
●牟礼町王墓
佐藤継信の墓は高松市牟礼町牟礼2395の神櫛王墓の東隣にもある。案内にある「王墓」とはこの神櫛王墓のことだろう。景行天皇の子で讃岐国造の祖とされる神櫛王には、80番札所国分寺手前の「日向王の塚」で出合った。
茂兵衛道標
小堂に地蔵標石
安徳天皇社
社の建立時期は不明。壇之浦の合戦で平氏が破れ、入水しむなしくなった安徳天皇の霊を弔うために建てられたのだろうか。境内には屋島の合戦で亡くなった平氏将士を弔う三界万霊碑も建つ。
●壇之浦(壇之浦)
この案内には檀ノ浦とあるが、壇ノ浦との表記もある、それよりなにより源平最後の合戦は山口の壇ノ浦、この地、屋島の合戦が行われた地も壇ノ浦と表記は同じ。安徳天皇が入水したのは山口県の壇ノ浦である。
で、讃岐の壇ノ浦だが、都を追われた平氏は屋島に拠点を置いている。安徳天皇と三種の神器を奉じ、この地で再起を図る。そして都奪還を目し兵を進めるが兵庫一の谷で源義経に敗れ再び屋島に退き、源平屋島の合戦となるわけだ。
平氏は何故屋島を拠点としたの?ひとつには讃岐の国は平清盛の祖父、正盛が国司をしていたこともあり、古くから平家の支配下にあった。都を追われた平家は、清盛の家人であり阿波守として阿波・讃岐に威を張った田口成良を頼った。
で、屋島を拠点としたのは、平氏の都落ち後四国に戻った田口成良は讃岐を制圧し、屋島に内裏を造営したこと。当時の屋島は完全な島であり、天然の要塞。東側は庵治半島との間に大きく入り込んだ入江が広がり、海から攻めてくるであろう源氏と対するには絶好の地とされたわけだ。実際は義経が浅瀬を渡り、背後から攻め込んだのは既知のこと。
●田口成良
Wikipediaには「阿波国、讃岐国に勢力を張った四国の最大勢力で、早い時期から平清盛に仕え、平家の有力家人として清盛の信任が厚かった。承安3年(1173年)、清盛による大輪田泊の築港奉行を務め、日宋貿易の業務を担当したと見られる。(中略)治承・寿永の乱が起こると軍兵を率いて上洛し、平重衡の南都焼討で先陣を務めた(『山槐記』)。美濃源氏の挙兵で美濃国へ出陣し、蹴散らされて被害を出している。
寿永2年(1183年)7月の平氏の都落ち後、四国に戻って讃岐を制圧する。屋島での内裏造営を行い、四国の武士を取りまとめた。一ノ谷の戦い、屋島の戦いでも田口一族は平氏方として戦うが、屋島の戦いの前後、源義経率いる源氏方に伯父・田口良連、弟・桜庭良遠が捕縛・襲撃され、志度合戦では嫡子・田内教能が義経に投降したという。『平家物語』によれば、教能が投降した事を知った成良は壇ノ浦の戦いの最中に平氏を裏切り、300艘の軍船を率いて源氏方に寝返った事により、平氏の敗北を決定づけたとされる。しかし、『吾妻鏡』には平氏方の捕虜に成良の名が見られ、正否ははっきりしない」といった記述があった。
小堂と地蔵
源平合戦史跡の石碑
●「アワ益田」
「アワ益田」は、この三角石柱を立てたアワの住人である益田さんとも言われる。特徴は「アワ益田」と共に、「大日如来」「釈迦如来」「弥勒菩薩」「虚空蔵菩薩」といった文字が刻まれる。ここは「観自在菩薩」と刻まれていたのだろう。
六十一番札所・香園奥の院の標柱石に「四国六十一番奥の院 徳島県麻植郡 石工 益田喜一 昭和十六年」とあり、この方が「アワ益田」と言われる。阿波の札所十一番藤井寺から十二番焼山寺への遍路道にもあるとのこと。また先ほど佐藤継信の墓前の道端に見た、「弘法」と刻まれた破損した割石も「アワ益田」さんのものでは、とのこと。ともあれ、昭和の初期に遍路歩きされた方の供養物である。「アワ益田」はここからしばらく頻出する。
菊王丸墓
菊王丸は、教経に抱きかかえられ、自らの軍船に帰りましたが、息をひきとりました。教経は、菊王丸を哀れんでこの地に葬ったと伝えられています」とあった。
敷地内には数基の石仏とともに、手印の標石もあり、「右やくり」と刻まれる。また、菊王丸を祀る小祠の右手に上部が破損した石があり、「薬師如* 益田」と刻まれる。上述「アワ益田」のものだろうか。
高橋手前のお堂に標石と石仏
また、お堂の左右には舟形地蔵と共に仏名石が建ち、「勢至菩薩 へんろ 益田」「阿しゅく(注;元の漢字が表示できない)如来 へんろ道 アワ益田」とあるようだ。
洲崎寺角に茂兵衛道標
●お堂と標石
洲碕寺
遍路道は茂兵衛道標に従い洲碕寺の塀に沿って南に折れる。塀が切れたところを左折し洲碕寺に。
●「アワ益田」仏名石
●源平の庭
境内に入る。庭は「洲碕寺源平の庭」として、源平合戦旧跡が苔と岩で意匠されている。 境内の案内には、「洲崎寺は眺海山円通院と号し、大同年間(806~)に弘法大師により創建されました。本尊である「聖観世音菩薩」は大師の作と伝えられています。 源平合戦・長宗我部氏の侵攻により焼かれるなど、繁栄と衰退を繰り返し、元禄12年(1699年)に再興され、現在に至っています。
平成12年(2000年)に再興300年を記念して完成した庭園は、苔と石で「屋島檀ノ浦の戦い」を表現し、境内壁面に「扇の的」・「弓流し」等の合戦のあらましを刻んだ説明板があります。 また、江戸時代四国八十八ヶ所霊場を庶民に広め、「四国遍路の父」と称えられている「真念」の墓があります」とある。
●真念の墓
お墓を囲む石は新しそうだが、中央に立つ茄子型丸彫の墓石は南三昧の共同墓地から移されたもの、と言う。「大法師真念霊位 大阪寺嶋在 元禄」といった文字が刻まれる、と。 須崎寺は弘法大師である和気宅成の創建とも伝わる大師ゆかりの寺であり、共同墓地に無縁仏となっていた真実念の墓が当寺に移された、とか。
〇真念
真念は空海の霊場を巡ること二十余回に及んだと伝わる高野の僧。現在我々が辿る四国霊場八十八ヶ所はこの真念が、貞亭4年(1687)によって書いた「四国邊路道指南」によるところが多い、とか。四国霊場八十八ヶ所の全容をまとめた、一般庶民向けのガイドブックといったものである。霊場の番号付けも行い順序も決めた。ご詠歌もつくり、四国遍路八十八ヶ所の霊場を完成したとのことである。大阪などの信者から喜捨を募り、遍路する人のために案内石を建立した真念道標は 三十三基残るとのこと。
遍路そのものの数は江戸時代に入ってもまだわずかであり、一般庶民の遍路の数は、僧侶の遍路を越えるものではなかようだが、江戸時代の中期、17世紀後半から18世紀初頭にかけての元禄年間(1688~1704)前後から民衆の生活も余裕が出始め、娯楽を兼ねた社寺参詣が盛んになり、それにともない、四国遍路もまた一般庶民が辿るようになった、とのことである。
州崎寺の源平の庭にあったように、州崎寺の近くに源平合戦の旧蹟がある。ついでのことでもあり、ちょっと立ち寄り。
〇義経弓流しの碑
平家方に弓を拾われて「源氏の大将ともあろう者がこんな に弱い弓を使っているのか」と物笑いになるのをおそれたといわれております」とあった。
〇総門跡
道を少し南に下ると、道の左手に総門跡がある。案内には「総門 寿永二年九月、平氏は安徳天皇を奉じて六万寺を行在所として(屋島檀の浦の行宮のできるまで)ここで門を構えて、海辺の防備に備えました。
海から攻め来ると想定した平氏側の防衛策に反し、徳島から県境の大阪峠を越えて背後より攻め入った義経勢により、平氏は戦に敗れた、と言う。
野津道貫は明治の軍人。幕末の争乱、西南の役、日清・日露の戦役を武人として参戦しその武功により元帥の位まで上りつめた。
久保不如帰の“夏草や”の句は「夏草や ここにもひとつ 髑髏(されこうべ)」と石碑に刻まれる。その傍に「お遍路の 行きつつ 髪を束ねけり」と刻まれる、久保五峰の石碑も立つ。 黒木欣堂は明治・大正期の書家・漢学者。
■屋島寺からの屋島南麓を進む遍路道
久保五峰の句にあるように、上にメモした屋島寺から屋島東麓を下る道とは別に、屋島南麓を進みこの総門を経て八栗寺へと進む遍路道もあったようだ。
その道筋は屋島寺表参道を下り、二つ池の標石を東に折れ、琴電・古高松駅の北、相引川に架かる赤牛橋の北詰めに至り、相引川の北岸を東に。明神橋で相引川を南岸に渡り、琴電・八栗駅の東で川を渡り北詰の「かつはし地蔵堂」を見遣り総門のある道筋に。
洲崎寺から八栗寺へ
県道36号を渡り田圃脇の径に
標石2基
牟礼北小学校正面前に標石
牟礼小学校正門辺りから北東に向かう道の角に標石。「従是八栗寺二、一粁」「従是屋島寺五、三粁」とある。比較的新しい。地元の石材業者が建てたものであった。
三叉路のお堂に地蔵丁石と遍路墓
お堂の対面にも標石が立つ。
小堂に地蔵丁石と傍に標石
「山田家うどん」傍のお堂に地蔵と標石
お堂の先に「山田家うどん」の駐車場。昔風の美しい店構えの大きな食事処であった。国の登録文化財指定の建物とは後で知った。
県道146号に出る
遍路道は手印の指す右に折れると、ほどなく左に細路が分岐する。細い道を抜けたところで電動146号に合流。合流点、道の反対側のガードレールには遍路道案内の「遍路タグ」。遍路道は左に折れて県道146号の坂を上る。
お堂と標石
八栗ケーブル駅
お堂や舟形地蔵
舟形地蔵丁石の先、道の右手にお堂があり杖をついたおばあさんらしき像が祀られる(写真はピンボケ。残念)。比較的新しい。その先にも道の右手に舟形地蔵が立つ。
加持水
歓喜天の扁額をもつ鳥居
お迎え大師
駐車場を先に進むとお迎え大師。展望台となっており、屋島や讃岐の里の遠望が楽しめる。
八十五番札所 八栗寺
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