本日のルート;
■曼荼羅道経由の曼荼羅寺への遍路道■
弥谷寺仁王門前石段上の茂兵衛道標(100度目)>四国霊場四番札所大日寺の本尊石仏>>自然石の標石>四国霊場六番札所安楽寺の本尊石仏>十一面観音石像>六丁標石>蛇岩池>曼陀羅道の案内>法然上人蛇身石の標石>蛇岩>高松道手前に標石>石造地蔵菩薩立像>大池土手に2基の標石>大池土手上に石仏、「法然上人蛇身石」の案内と標石>茂兵衛道標(157度目)と地蔵尊坐像>旧国道11号に石仏群>七仏寺>茂兵衛道標(137度目)>西行庵分岐点の標石>茂兵衛道標(158度目)>茂兵衛道標(133度目)>茂兵衛道標(151度目)>第七十二番札所曼荼羅寺
■弥谷山西麓・海岸寺経由の遍路道■
県道221号の標石>津島神社>大見村道路元標>郡界石
曼荼羅道経由の曼荼羅寺への遍路道
この茂兵衛道標は明治21年(1888)、茂兵衛100度目の四国遍路巡時のもの。「左本堂」、手印と共に「善通寺 金毘羅みち」と刻まれる。
通常金毘羅道は国道377号筋を伊予見峠を超えて進む道筋だろうが、この場合は高松道が通る近く、国道11号の鳥坂(とっさか)峠を超えて善通寺から金毘羅さんへと向かう道筋を案内しているように思う。
●徳右衛門道標
この徳右衛門には徳右衛門道標によく見る、梵語も大師像もなく、背丈も常より少し高く、また、「与里これ満たらじ」と振り仮名がふられている、とのことである。
四国霊場四番札所大日寺の本尊石仏
自然石の標石
2基の石仏
四国霊場六番札所安楽寺の本尊石仏
「第六番 安楽寺」と刻まれた石仏は、右手は立てた手のひらを前に向けた施無畏印、左手は手のひらを上に向け膝上に乗せた与願印を結ぶ。与願印は手のひらを前に向け下に垂らすのが如来の印相ではあるが、上に向けているのは薬壷(やっこ)を持つ薬師如来の印相。安楽寺の本尊である。
施無畏印は衆生の畏れを解きほぐし、与願印は衆生の願いを聞き届けるサインとのことである。
安楽寺石仏の横に「弥谷寺800m 曼陀羅寺 出釈迦寺3.4km」の標識が立つ。 因みに、四番と六番があったわけであり、とすれば先ほど道の右手に見た石仏は札所五番地蔵寺であろうし、石仏は本尊延命地蔵菩薩かもしれない。
十一面観音石像
道は三豊市三野原大見と善通寺市碑殿町にの境を進んでるようである。
六丁標石
蛇岩池
曼陀羅道の案内
曼陀羅道は71番弥谷寺と72番曼陀羅寺をつなぐ遍路道で、道中には『四国遍礼名所図会』(寛政12年(1800))の文献資料にも記された地蔵菩薩立像などの石造物や水茎の岡の西行庵、七仏大師堂なとの堂宇を見ることができ、近世以降ほとんどかわらずに遍路道の道程が残っていることが解かります。
特に、三豊市三野町の弥谷寺山門前から善通寺碑殿町の蛇谷池堤までの約0.9kmの区間は山間部を通る未舗装の道が残り、遍路が往来した昔ながらの古道の景観を留めています。
現在も昔とかわらない巡礼の風景を垣間見ることのできるこの区間は、江戸時代以降広く民間に普及した四国遍路の文化を物語る巡礼の道として歴史的価値が認められ、平成26年、国指定史跡『讃岐遍路道』に追加指定されました。善通寺教育委員会」とあった。
案内には写真も掲示され、先ほど出合った「6丁目」の標石は弥谷寺までの距離とあった。また、地蔵菩薩立像はこの先で出合うことになる。
「国指定史跡『讃岐遍路道』に追加された」とあるのでこの他にもあるようだ。チェックすると、いつだったか歩いた第81番札所白峯寺から第82番札所根香寺間にある根香寺道も国指定史跡『讃岐遍路道』となっていた。
法然上人蛇身石の標石
手印は今来た道を戻る方向を示す。遍路道が蛇岩池畔で簡易舗装道に合流する箇所まで戻り、そこを左へと池に沿って進む。池の北にある一軒の民家を見遣り少し坂を上り道が左に曲がる辺り、道の右手に口を開けたような大岩が木の間に見える。
蛇岩
●「蛇石(じゃいし)」(法然上人蛇身石)
蛇石について、「仲多度郡史」には、「西碑殿(私注;地名)の山腹蛇谷池にあり。建永の昔法然上人當國に流されて本郡に謫居の折、 地方の靈跡を巡禮し、此の池邊に來りし時、弟子淨賀に向ひ、汝の父は蛇となりて 此の岩中に苦しめり、其の泣聲汝の耳に入らすやと云はれしも、淨賀少しも聞へ されは、疑惑の間に石工を雇ひ、其石を割らせたるに、一尾の小蛇這ひ出しと 云ふ。淨賀は信州、角割親政の二男なり。親政甞て郷里觀音寺の寺領、一町八反 歩の土地の證文を盗み取り、己か所有となしたり。其後故ありて當地に來り、 出釋迦寺に居住せしか遂に死歿す。而して生前に犯せし罪に依り、此の山裾に 蛇となりて苦しみを受けしと云ふ。是により蛇石の稱あり。地名、池名なとにも 殘りて、其の石今尚存せりと云ふ」と記される。
高松道手前に標石
道が高松道のアンダーパスを潜る手前の道角に標石が立つ。手印と共に「へんろみち 大正十二年六月吉日」と刻まれる。
高速道の高架下を潜り高速道に沿って東側の道を進む。道の右手には上池が見える。このあたりの地名は「碑殿」。地名の由来は「相傳フ昔行基彌谷寺ヲ開キシ時道標ノ碑ヲ立因テ名ヲ得タリト云」とある。
現在は善通寺市??原地区の碑殿町となっているが、旧名は多度郡吉原郷碑殿村。碑殿村は東碑殿と西碑殿よりなるが、両地区は天霧山を隔てて飛び地となっている。
石造地蔵菩薩立像
Wikipediaに拠れば,鳥坂の大地蔵と称され、弥谷寺へ奉納しようと運ばれる途中、あまりの重さ故に寺への奉納に替えてこの地に建てられた、と。
大池土手に2基の標石
大池土手上に石仏、「法然上人蛇身石」の案内と標石
その傍に先ほど訪れた「蛇石(法然上人蛇身石)」の案内がある。地図による場所の案内と共に上述「仲多度郡史」に書かれた案内をわかりやすい言葉で説明する;「健永2年(1207年)法然の弟子が後鳥羽上皇の怒りを買い、師匠の法然は土佐へ流されることになった。その途次讃岐に留まり布教活動中、一年も経ないうちに放免となり、摂津まで帰った。その間中讃地区を中心に法然上人の足跡が多く残る。
その折、地方を巡礼し当地に来たとき、法然上人は弟子の浄賀に「汝の父は蛇となってこの岩の中で苦しんでいる。その泣き声が汝には聞こえないのか」と言われたが、浄賀には少しも聞こえず、疑惑ながらも石工を雇ってこの岩を割ると、一匹の小蛇が這い出たという。
しかし、生前の罪によって、この山裾に蛇となって苦しみを受けていたという(大正七年「仲多度郡史)などによる)。
昭和16年、片山家の世話で岩の中に法然上人の歌碑が建立されました。
さむくとも 袂に いれよ 西の風 弥陀の国より 吹くと思えば
(この歌は法然の弟子の親鸞の作との説もあります)。
法然の史跡は中讃に多くありますが、この近くでは善通寺五重塔の南側の法然上人逆修塔、まんのう町宮田の法然堂があり、それぞれ前述の歌が刻まれています」とあった。
茂兵衛道標(157度目)と地蔵尊坐像
また、屋根付きの地蔵尊座像の台座も標石となっており、「三界萬霊」の文字と共に「左へんろみち」と刻まれる。手印も見て取れる。
旧国道11号に石仏群
●大池の畔に茂兵衛道標(88度目)
〇鳥坂峠
この地から少し国道を西に戻ると鳥坂峠がある。上述、弥谷寺仁王門石段前の茂兵衛道標でメモした、金毘羅さんへ向かう峠道のひとつではあろう。
の昔は鳥となって飛ばなければ越えられないような険しい峠であったのだろうが、現在は国道整備にともない山が大きく切り開かれ、難所の名残を留めることはない。
七仏寺
お堂に乳薬師と書かれた額が見える。江戸の頃、池の堤の改修時に工事の無事を祈り工事責任者である庄屋の乳母を人柱にしたという秘話に因み、ここで祈ると乳の出がよくなるとの伝えから、とのこと。乳母の人柱と乳の出がよくなる、との関係は如何なるロジックなのかよくわからない。
●西行法師歌碑
全文が如何なるものか、あれこれチェックすると、江戸時代の狂歌集である「『古今夷曲集』巻第三「秋歌」 に「名月の夜畑なる芋ぬすめるをとらへけれはぬす人のよめる 月見よといもか子とものねいりたを起しにきたは何かくるしき」という歌がある。
芋盗人を捉えたときの言い訳として、「あなたの子どもが美しい月 も見ず眠り込んでいるので起こしに来たのです 、とは少々苦しい言い訳めいて感じる」と言った意味だろうか。歌の意味はそれとしてこの歌が西行の詠んだものとのエビデンスがない。もう少々チェックすると、この芋盗び譚の流れに関連し西行が登場する。
『詩学大成抄』 に;西行法師ノ八月十五日夜明月ニ芋ヲハタケエヌスミニイカレタレハ芋マフリガミツケテトラエテシバツタソユルセト云テ歌ヲヨウタレハユルイタゾ歌ニ 月ミヨトイモガフシドノソヽリコヲヲコシニキタハ何カクルシキ
トヨウタソヲカシイ事ナレトモ名誉ノ歌ナリ」とある。
ここでは「芋盗み」が「妹盗み」の色合いも帯びているようである。
それはともあれ、歌碑に刻まれる歌が西行の作かどうかはっきりしなくなってきた。更にチェックすると、小林幸夫さん(東海学園大学)の「十五夜の歌(餅と芋の昔話)」の中の「芋盗み」の昔話の項目があり、香川県には「西行芋盗み説話」がいくつか伝わり、その中の善通寺の七仏寺の昔話として「西行芋盗み説話」があった;
「西行はこの地までやってきたのだが、八月十五日に月があまりに美しいので、 芋畠へ出て月を眺めていた。ところが付近の百姓がこれはてっきり芋盗人にちがいないと思って、我が芋畠で何をするぞととがめると、西行は今夜は芋名月の晩だから芋をひとつくだされといった。
すると百姓は歌をひとつ詠んでくだされば差し上げようという。西行は
月見よと芋の子どもの寝入りしを起しにきたか何かくるしき
という歌を詠んだ。何かわけのわからぬ歌だが、百姓は喜んで、西行に芋を与えたという。この歌が七仏寺の前に刻まれて建っているのである。
語り手が 「何かわけのわからぬ歌だが」、と言うように意味さえ判然とつかめていない西行が「歌の手柄」によって許される歌徳説話であるが(中略)話者の関心はこの話の事実性にあるようだ。「この歌が七仏寺の前に刻まれて建っているのである」という語りに、それはあらわれている。その意味では、この昔話は、伝説に近づいているのだ」とあった。
以下は妄想;どうもこの歌が西行の詠んだものかどうかは、どうでもいいように思えてきた。事実前述『古今夷曲集』以外にも、ほぼ同じ歌が「新撰狂歌集」に「(前略)捕らえて縛めければ 盗人 月見よと芋が子ともの寝入りたを起こしにきたは何かくるしき」とある。要は中秋の名月に芋を供える習慣があり、芋盗みより中秋の名月を連想させる狂歌が歌われており、その中のひとつが少々のバリエーションを加えられ、西行の詠んだ歌、それも歌の力を示す昔話となって芋盗みのコンテキストで使われたのだろう。西行も芋盗みの歌を読んではいるが、それが使われなかったのは芋盗み>妹盗みを連想させる歌故であったのだろうか。
尚、歌碑の裏面には「此方 へんろ こんぴら 道」と刻まれ、標石も兼ねる。
●古験松の碑
●石碑
茂兵衛道標(137度目)
西行庵分岐点の標石
茂兵衛道標(158度目)
茂兵衛道標(133度目)
茂兵衛道標(151度目)
第七十二番札所曼荼羅寺
茂兵衛道標の左に曼荼羅寺。道標を左に折れてすぐ、境内に接してうどん屋があるが、歩き遍路にはお接待で無料とのこと。お寺さまへはうどん屋横から境内へと石段を下りることもできるが、オーソドックスなアプローチとして山門からと境内に沿った緩やかな坂を東に下る。山門へと右折する箇所に石碑があり「成田山不動明王祈念所 是より東」と刻まれる。成田山不動明王祈念所がどこを指すのか不明。
●仁王門
●本堂
鎌倉時代には、後堀河天皇から寺領を給わるほど栄えたが、永禄3年(1560年)阿波の三好実休による天霧城攻めの兵火で焼亡、さらに、慶長年間(1596~1615年)に戦火を受けた、とのこと。
天霧城は千回の海岸寺道経由曼荼羅寺の遍路歩きの途中に立ち寄った。
●大師堂
●西行の歌碑
本堂左手に2基の石碑が立つ。大きいほうには「西行法師笠掛松 昼寝石」と刻まれ、小さいほうは「笠掛桜」とあり、文字と共に西行の歌が刻まれる、と。
昼寝石は石碑前の平たい石のことだろう。寺近くの水茎の岡に庵を結んだ西行が時にこの寺を訪れ、昼寝を楽しんだとのことと言う。
「四国のかたへぐしてまかりける同行の都へかへりけるに 西行上人
帰りゆく人のこゝろをおもふにも はなれがたきはみやこなりけり
かの同行の人かたみとて此桜に笠をかけ置けるを見て
笠はありその身はいかになりぬらん あはれはかなきあめがしたかな 」
共に(具して)四国へと歩いた西住法師が都に戻る際に詠んだ歌とのこと。「帰りゆく」の歌は「都に帰る君の心を想像してみると、切るに切れないのは同行の私との仏縁ではなくて、やはり都との血縁の方だったね(和歌文学大系21から抜粋)」の意。
●笠松(不老松)
●境内の標石
〇茂兵衛道標(180度目)
仁王門側手前から
〇「出釈迦じに十三丁 かぶやまじに十三丁」
境内整備に際し、本堂手前右手にあったものを移したようだ。「かぶやまじ」は四国第七十四番札所甲山寺のこと。
その横に並ぶ4基の標石には
〇「(梵字)南大師遍照金剛 右遍ろみち願主真念」
真念道標とのこと。
〇「左 万たら寺 いやたに寺 道」
〇「いやたに 右こんひら道 左 扁ろ道
〇「へんろミち 南無阿弥陀仏」
などと刻まれるとのこと。境内整備前には記録にないようであり、これもどこからか移されたもののようである。
以上で弥谷寺から曼荼羅道経由の曼荼羅寺までのメモは終わり。
弥谷山西麓・海岸寺経由の遍路道
ルート始点は弥谷寺の山門辺りから西麓へと進む道があったようだ。山門辺りを彷徨い遍路道らしき道を探したのだが、結局見つからなかった。
●県道221号の標石
●津島神社
●大見村道路元標
これ以外に現在、一般国道などの起終点などで見ることが出来る道路元標は、昭和時代の太平洋戦争後に設置されたもので、その設置基準については法的な根拠はなく、道路の付属物の扱いで記念碑的なものとして建てられたものである」とある。大見村ができたのは明治23年(1890)とのことであるので、この元標は大正の頃のものだろうか。
●郡界石
遍路道は県道21号を海岸に沿って進み海岸寺へと向かう。
これで弥谷寺から曼荼羅寺への遍路道のメモ終了。次回は七十二番札所・曼荼羅寺から七十三番札所・出釈迦寺を打ち、七十四番札所甲山寺、七十五番札所善通寺へと向かう。
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