土曜日, 4月 13, 2019

讃岐 歩き遍路:七十一番札所 弥谷寺から七十二番札所 曼陀羅寺へ ②曼陀羅道

弥谷寺から曼陀羅寺への旧遍路道は二つある。一つは先回歩いた海岸寺経由の道。一旦曼荼羅寺と真逆の方向、瀬戸の海に面した空海生誕の地に建つ海岸寺にお参りし、そこから曼荼羅寺へと打ち戻す道である。 今回はもうひとつの遍路道、曼陀羅道を辿り曼陀羅寺へと向かう。ルートは、弥谷寺仁王門前の石段右手に立つ茂兵衛道標から右に折れ、おおよそ3キロ強、弥谷山西麓の曼荼羅道を歩くことになる

本日のルート;
曼荼羅道経由の曼荼羅寺への遍路道
弥谷寺仁王門前石段上の茂兵衛道標(100度目)>四国霊場四番札所大日寺の本尊石仏>>自然石の標石>四国霊場六番札所安楽寺の本尊石仏>十一面観音石像>六丁標石>蛇岩池>曼陀羅道の案内>法然上人蛇身石の標石>蛇岩>高松道手前に標石>石造地蔵菩薩立像>大池土手に2基の標石>大池土手上に石仏、「法然上人蛇身石」の案内と標石>茂兵衛道標(157度目)と地蔵尊坐像>旧国道11号に石仏群>七仏寺>茂兵衛道標(137度目)>西行庵分岐点の標石>茂兵衛道標(158度目)>茂兵衛道標(133度目)>茂兵衛道標(151度目)>第七十二番札所曼荼羅寺
弥谷山西麓・海岸寺経由の遍路道
県道221号の標石>津島神社>大見村道路元標>郡界石


曼荼羅道経由の曼荼羅寺への遍路道

弥谷寺仁王門前石段上の茂兵衛道標(100度目)
曼陀羅道は仁王前の石段を上がったところに立つ茂兵衛道標が始点。弥谷寺仁王門とは逆の右に折れる。
この茂兵衛道標は明治21年(1888)、茂兵衛100度目の四国遍路巡時のもの。「左本堂」、手印と共に「善通寺 金毘羅みち」と刻まれる。
通常金毘羅道は国道377号筋を伊予見峠を超えて進む道筋だろうが、この場合は高松道が通る近く、国道11号の鳥坂(とっさか)峠を超えて善通寺から金毘羅さんへと向かう道筋を案内しているように思う。
徳右衛門道標
石段から弥谷寺の仁王門への石段山側に徳右衛門道標が立ち、そこには「従是曼陀羅寺迄廿五丁」と刻まれる。一丁はおおよそ109mであるから、おおよそ3キロ程の距離となる。
この徳右衛門には徳右衛門道標によく見る、梵語も大師像もなく、背丈も常より少し高く、また、「与里これ満たらじ」と振り仮名がふられている、とのことである。

四国霊場四番札所大日寺の本尊石仏
歩き始めるとすぐ、道の左手に石仏が立つ。台座に「第四番 大日寺」とある。仏は胸の前で左手をこぶしに握り立てた人差し指を右手で包む智拳印の印相。本尊である金剛界の大日如来の像。左手は衆生、包む右手は仏を意味する。




自然石の標石
茂兵衛道標から土径を少し進み、山に向かって草の茂る中へと右に折れる辺り、道の右手に凝灰岩の自然石に刻まれた手印だけの標石がある。上部が欠け、摩耗が激しい。

2基の石仏
道の右手に2基の石仏。台座に乗った大師坐像(?)ともう一基。形式は先に見た大日寺の石仏と同じであるが、台座も壊れ寺名は読めない。




四国霊場六番札所安楽寺の本尊石仏
先に進むと「第六番 安楽寺」と台座に刻まれた石仏とその上手にも石仏が佇む。上手の石仏の寺名は読めない。
「第六番 安楽寺」と刻まれた石仏は、右手は立てた手のひらを前に向けた施無畏印、左手は手のひらを上に向け膝上に乗せた与願印を結ぶ。与願印は手のひらを前に向け下に垂らすのが如来の印相ではあるが、上に向けているのは薬壷(やっこ)を持つ薬師如来の印相。安楽寺の本尊である。
施無畏印は衆生の畏れを解きほぐし、与願印は衆生の願いを聞き届けるサインとのことである。
安楽寺石仏の横に「弥谷寺800m 曼陀羅寺 出釈迦寺3.4km」の標識が立つ。 因みに、四番と六番があったわけであり、とすれば先ほど道の右手に見た石仏は札所五番地蔵寺であろうし、石仏は本尊延命地蔵菩薩かもしれない。

十一面観音石像
道は竹林の中に入る。道の左手に石仏。台座はなく、寺名は不明だが十一面観音のように思える。石仏はここで終わる。
道は三豊市三野原大見と善通寺市碑殿町にの境を進んでるようである。





六丁標石
先に進み両側を竹林で囲まれた下り坂の左手に、倒れかけた標石があり「六丁目」と刻まれる。距離から考えれば弥谷寺からの丁数のように思える。この辺りは善通寺市碑殿町に入っているようだ。




蛇岩池
ほどなく道は開ける。左手に二つの池を見乍ら歩くと二つ目の池(蛇岩池)の畔で山道は終わり簡易舗装の道に出る。曼陀羅道スタート地点から大よそ20分程度であった。合流点には「弥谷寺」の標識が立つ。

曼陀羅道の案内
合流点を右に折れ簡易舗装の道を少し進むと「曼陀羅道」の案内があった。案内には地図と共に「四国遍路道 曼陀羅道 四国八十八ヶ所霊場を巡る遍路道は、徳島県・高知県・愛媛県・香川県の4県にまたがり弘法大師ゆかりの霊場をつなぐ、全長1400キロメートルにおよぶ壮大な巡礼道です。古来より人々の往来や文化交流の舞台となっている遍路道には数多くの石造物等の文化財や「お接待」の文化が残されています。
曼陀羅道は71番弥谷寺と72番曼陀羅寺をつなぐ遍路道で、道中には『四国遍礼名所図会』(寛政12年(1800))の文献資料にも記された地蔵菩薩立像などの石造物や水茎の岡の西行庵、七仏大師堂なとの堂宇を見ることができ、近世以降ほとんどかわらずに遍路道の道程が残っていることが解かります。
特に、三豊市三野町の弥谷寺山門前から善通寺碑殿町の蛇谷池堤までの約0.9kmの区間は山間部を通る未舗装の道が残り、遍路が往来した昔ながらの古道の景観を留めています。
現在も昔とかわらない巡礼の風景を垣間見ることのできるこの区間は、江戸時代以降広く民間に普及した四国遍路の文化を物語る巡礼の道として歴史的価値が認められ、平成26年、国指定史跡『讃岐遍路道』に追加指定されました。善通寺教育委員会」とあった。
案内には写真も掲示され、先ほど出合った「6丁目」の標石は弥谷寺までの距離とあった。また、地蔵菩薩立像はこの先で出合うことになる。
「国指定史跡『讃岐遍路道』に追加された」とあるのでこの他にもあるようだ。チェックすると、いつだったか歩いた第81番札所白峯寺から第82番札所根香寺間にある根香寺道も国指定史跡『讃岐遍路道』となっていた。

法然上人蛇身石の標石
更に少し道を進むと車道に合流する。その合流点に標石が立ち、手印と共に「法然上人蛇身石 是ヨリ一丁 大正二年六月吉日」と刻まれる。
手印は今来た道を戻る方向を示す。遍路道が蛇岩池畔で簡易舗装道に合流する箇所まで戻り、そこを左へと池に沿って進む。池の北にある一軒の民家を見遣り少し坂を上り道が左に曲がる辺り、道の右手に口を開けたような大岩が木の間に見える。

蛇岩
案内も何もないのだが、ぽっかりとあいた口の辺りに石碑らしきものが見える。道を離れ大岩に寄ると「法然上人」の文字とともに上人立像が刻まれていた。
 ●「蛇石(じゃいし)」(法然上人蛇身石)
蛇石について、「仲多度郡史」には、「西碑殿(私注;地名)の山腹蛇谷池にあり。建永の昔法然上人當國に流されて本郡に謫居の折、 地方の靈跡を巡禮し、此の池邊に來りし時、弟子淨賀に向ひ、汝の父は蛇となりて 此の岩中に苦しめり、其の泣聲汝の耳に入らすやと云はれしも、淨賀少しも聞へ されは、疑惑の間に石工を雇ひ、其石を割らせたるに、一尾の小蛇這ひ出しと 云ふ。淨賀は信州、角割親政の二男なり。親政甞て郷里觀音寺の寺領、一町八反 歩の土地の證文を盗み取り、己か所有となしたり。其後故ありて當地に來り、 出釋迦寺に居住せしか遂に死歿す。而して生前に犯せし罪に依り、此の山裾に 蛇となりて苦しみを受けしと云ふ。是により蛇石の稱あり。地名、池名なとにも 殘りて、其の石今尚存せりと云ふ」と記される。

高松道手前に標石
蛇身石から法然上人蛇身石の標石まで戻り、道なりに下ると前方に高松道が走る。
道が高松道のアンダーパスを潜る手前の道角に標石が立つ。手印と共に「へんろみち 大正十二年六月吉日」と刻まれる。

高速道の高架下を潜り高速道に沿って東側の道を進む。道の右手には上池が見える。このあたりの地名は「碑殿」。地名の由来は「相傳フ昔行基彌谷寺ヲ開キシ時道標ノ碑ヲ立因テ名ヲ得タリト云」とある。
現在は善通寺市??原地区の碑殿町となっているが、旧名は多度郡吉原郷碑殿村。碑殿村は東碑殿と西碑殿よりなるが、両地区は天霧山を隔てて飛び地となっている。

石造地蔵菩薩立像
道が上池と大池の間を進むようになる手前、道の左手に巨大な石造りの地蔵菩薩立像が立つ。4mほどもあるようだ。地蔵菩薩は民家の建物の庭に立つ。
Wikipediaに拠れば,鳥坂の大地蔵と称され、弥谷寺へ奉納しようと運ばれる途中、あまりの重さ故に寺への奉納に替えてこの地に建てられた、と。

大池土手に2基の標石
道の右手、大池土手の草叢に2基の標石がある。傾いた標石には「左いや** 右**」と刻まれ、もうひとつには手印と共に「是ヨリ七拾一番へ十三**」と刻まれる、と。

大池土手上に石仏、「法然上人蛇身石」の案内と標石
大池の土手に「法界萬霊」と刻まれた石仏が立つ。その先、池の畔に標石が立ち、ふたつの手印が順路・逆路の遍路道を指す。
その傍に先ほど訪れた「蛇石(法然上人蛇身石)」の案内がある。地図による場所の案内と共に上述「仲多度郡史」に書かれた案内をわかりやすい言葉で説明する;「健永2年(1207年)法然の弟子が後鳥羽上皇の怒りを買い、師匠の法然は土佐へ流されることになった。その途次讃岐に留まり布教活動中、一年も経ないうちに放免となり、摂津まで帰った。その間中讃地区を中心に法然上人の足跡が多く残る。
その折、地方を巡礼し当地に来たとき、法然上人は弟子の浄賀に「汝の父は蛇となってこの岩の中で苦しんでいる。その泣き声が汝には聞こえないのか」と言われたが、浄賀には少しも聞こえず、疑惑ながらも石工を雇ってこの岩を割ると、一匹の小蛇が這い出たという。
浄賀は信州の角割親政の二男であり、親政はかつて郷里の観音寺の寺領一町八反歩の土地の証文を盗んで自分のものとした。その後当地に来て出釈迦寺に居住したが、そこで死没した。
しかし、生前の罪によって、この山裾に蛇となって苦しみを受けていたという(大正七年「仲多度郡史)などによる)。
昭和16年、片山家の世話で岩の中に法然上人の歌碑が建立されました。
さむくとも 袂に いれよ 西の風 弥陀の国より 吹くと思えば
(この歌は法然の弟子の親鸞の作との説もあります)。
法然の史跡は中讃に多くありますが、この近くでは善通寺五重塔の南側の法然上人逆修塔、まんのう町宮田の法然堂があり、それぞれ前述の歌が刻まれています」とあった。

茂兵衛道標(157度目)と地蔵尊坐像
大池を過ぎ国道11号へと向かう。道は東へ弧を描く道を分けるが、遍路道は道を横切り細路へ入る。細路入口角に茂兵衛道標と地蔵尊坐像。茂兵衛道標は手印と共に「右弥谷寺 明治三十年八月」と刻まれる。茂兵衛157度目の四国遍路巡礼の折に立てたもの。
また、屋根付きの地蔵尊座像の台座も標石となっており、「三界萬霊」の文字と共に「左へんろみち」と刻まれる。手印も見て取れる。

旧国道11号に石仏群
標石に従い細路へと入ると国道11号に沿って弧を描く道筋に出る。旧国道11号筋かと思う。その道筋、細路から出た所を少し西に戻ったあたりにいくつかの石像が並ぶ。石像を見遣り、道を東へと取って返し国道11号に出る。
大池の畔に茂兵衛道標(88度目)
国道11号に合流する手前、民家の軒先を大池へと下ると池の畔に茂兵衛道標が立つ。手印と共に「弥谷寺」と刻まれるが、手印は弥谷寺とは真逆の方角を示す。国道整備の折に、どこからか移されたものだろう。「明治十一年 八拾八遍目為供養」と刻まれる。
鳥坂峠
この地から少し国道を西に戻ると鳥坂峠がある。上述、弥谷寺仁王門石段前の茂兵衛道標でメモした、金毘羅さんへ向かう峠道のひとつではあろう。
の昔は鳥となって飛ばなければ越えられないような険しい峠であったのだろうが、現在は国道整備にともない山が大きく切り開かれ、難所の名残を留めることはない。

七仏寺
国道11号を少し進むと左に入る道が分岐する。旧国道筋だろう。その道を進むと、道の左手にふたつの石碑があり、大池へと下る坂の左手に屋根付きの石造地蔵坐像、右手には標石がある。坂道の下、大池の畔に古さびた堂宇がひとつ建つ。伝承によれば、空海が五穀豊穣と疫病からの救済を祈り七体の薬師如来を刻んたことに始まると言われ、往昔七堂伽藍を誇ったと伝わる番外霊場医王山七仏寺である。西行法師も訪れたと伝わるこの大師遺跡も、昔を偲ばせるものは石碑の他に何も残らない。
お堂に乳薬師と書かれた額が見える。江戸の頃、池の堤の改修時に工事の無事を祈り工事責任者である庄屋の乳母を人柱にしたという秘話に因み、ここで祈ると乳の出がよくなるとの伝えから、とのこと。乳母の人柱と乳の出がよくなる、との関係は如何なるロジックなのかよくわからない。
西行法師歌碑
お堂への入り口にある2基の石碑のひとつが西行法師の歌碑と言う。道に向かった面には「月見よといもの子」とか「おこしに」「何か」といった文字と下端に「西行上人」の文字が見える。
全文が如何なるものか、あれこれチェックすると、江戸時代の狂歌集である「『古今夷曲集』巻第三「秋歌」 に「名月の夜畑なる芋ぬすめるをとらへけれはぬす人のよめる  月見よといもか子とものねいりたを起しにきたは何かくるしき」という歌がある。
芋盗人を捉えたときの言い訳として、「あなたの子どもが美しい月 も見ず眠り込んでいるので起こしに来たのです 、とは少々苦しい言い訳めいて感じる」と言った意味だろうか。歌の意味はそれとしてこの歌が西行の詠んだものとのエビデンスがない。もう少々チェックすると、この芋盗び譚の流れに関連し西行が登場する。
『詩学大成抄』 に;西行法師ノ八月十五日夜明月ニ芋ヲハタケエヌスミニイカレタレハ芋マフリガミツケテトラエテシバツタソユルセト云テ歌ヲヨウタレハユルイタゾ歌ニ  月ミヨトイモガフシドノソヽリコヲヲコシニキタハ何カクルシキ
トヨウタソヲカシイ事ナレトモ名誉ノ歌ナリ」とある。
ここでは「芋盗み」が「妹盗み」の色合いも帯びているようである。

それはともあれ、歌碑に刻まれる歌が西行の作かどうかはっきりしなくなってきた。更にチェックすると、小林幸夫さん(東海学園大学)の「十五夜の歌(餅と芋の昔話)」の中の「芋盗み」の昔話の項目があり、香川県には「西行芋盗み説話」がいくつか伝わり、その中の善通寺の七仏寺の昔話として「西行芋盗み説話」があった;
「西行はこの地までやってきたのだが、八月十五日に月があまりに美しいので、 芋畠へ出て月を眺めていた。ところが付近の百姓がこれはてっきり芋盗人にちがいないと思って、我が芋畠で何をするぞととがめると、西行は今夜は芋名月の晩だから芋をひとつくだされといった。
すると百姓は歌をひとつ詠んでくだされば差し上げようという。西行は
月見よと芋の子どもの寝入りしを起しにきたか何かくるしき
という歌を詠んだ。何かわけのわからぬ歌だが、百姓は喜んで、西行に芋を与えたという。この歌が七仏寺の前に刻まれて建っているのである。
語り手が 「何かわけのわからぬ歌だが」、と言うように意味さえ判然とつかめていない西行が「歌の手柄」によって許される歌徳説話であるが(中略)話者の関心はこの話の事実性にあるようだ。「この歌が七仏寺の前に刻まれて建っているのである」という語りに、それはあらわれている。その意味では、この昔話は、伝説に近づいているのだ」とあった。

以下は妄想;どうもこの歌が西行の詠んだものかどうかは、どうでもいいように思えてきた。事実前述『古今夷曲集』以外にも、ほぼ同じ歌が「新撰狂歌集」に「(前略)捕らえて縛めければ 盗人 月見よと芋が子ともの寝入りたを起こしにきたは何かくるしき」とある。要は中秋の名月に芋を供える習慣があり、芋盗みより中秋の名月を連想させる狂歌が歌われており、その中のひとつが少々のバリエーションを加えられ、西行の詠んだ歌、それも歌の力を示す昔話となって芋盗みのコンテキストで使われたのだろう。西行も芋盗みの歌を読んではいるが、それが使われなかったのは芋盗み>妹盗みを連想させる歌故であったのだろうか。
尚、歌碑の裏面には「此方 へんろ こんぴら 道」と刻まれ、標石も兼ねる。
古験松の碑
西行の歌碑横の石に大きく刻まれる文字は「古*枩」と読める。このお堂には大師お手植えの「古験松」の碑があるとのこと、枩は「まつ」のことのようであるから、「古験枩」と刻まれているのだろう。
石碑
坂の入口、右手にある石碑には「弘法大師御作 七佛薬師如来 安政八」といった文字が刻まれる。七仏寺の由来ともなった弘法大師が刻んた薬師如来の案内である。




茂兵衛道標(137度目)
七仏寺を離れた旧国道はすぐに国道11号に合流。遍路道はそのまま交差点を直進し県道48号善通寺詫間線を進む。遍路道は少し東に進み三井之江東交差点の手前で右に分岐し民家の間の細路に入る。その入り口角に茂兵衛道標が立つ。順打ち・逆打ち両方向を示すふたつの手印と共に、「右多度津 丸かめ 明治廿二年」と言った文字が刻まれる。茂兵衛137度目の巡礼時に立てた道標である。

西行庵分岐点の標石
道なりに進み、道の右手に「西行庵」と書かれた石灯篭の脇に自然石の標石があり、「左 水くき道 三丁** 安永三**」と刻まれる、と言う。 「水くきの道」とは西行法師寓居の「水茎〈くき)の岡」への道を示したもの。右手にカーブして上る道を進むことになる。遍路道は道なりに更に進む。


茂兵衛道標(158度目)
ほどなく遍路道は花籠池に当たる。その西北端の道脇に茂兵衛道標が立つ。手印と共に「弥谷寺 出釈迦寺 明治三十年」などと刻まれる。茂平158度目の巡礼時に立てたもの。出釈迦寺は第七十三番札所である。





茂兵衛道標(133度目)
遍路道は花籠池とその東の溜池の間を進む。花籠池の土手に茂兵衛道標があったとのことだが、訪問時(2019年3月)には土手の護岸工事のため道標は撤去され、ブルーシートに包まれて道端に置かれていた。

茂兵衛道標(151度目)
更に道なりに進むと五差路に出る。遍路道が五差路に出る正面に茂兵衛道標が立つ。手印と共に「弥*寺 出釈迦寺 明治廿九年」と刻まれる。茂兵衛151度目の巡礼時に建てたもの。ここは曼荼羅寺と出釈迦寺への分岐点。道を左に折れれるとすぐ曼荼羅寺、南に進むと出釈迦寺となる。


第七十二番札所曼荼羅寺
茂兵衛道標の左に曼荼羅寺。道標を左に折れてすぐ、境内に接してうどん屋があるが、歩き遍路にはお接待で無料とのこと。お寺さまへはうどん屋横から境内へと石段を下りることもできるが、オーソドックスなアプローチとして山門からと境内に沿った緩やかな坂を東に下る。
山門へと右折する箇所に石碑があり「成田山不動明王祈念所 是より東」と刻まれる。成田山不動明王祈念所がどこを指すのか不明。
仁王門
この石碑を左折しすると仁王門が建つ。金剛力士が左右に並ぶ仁王門に「我拝師山曼荼羅寺」とある。仁王門の前、「笠松大師(不老松)」の木標の立つ左手に寺柱石、「四国七十二番 本尊大日如来霊場」と刻まれるが、裏には「左甲山寺 十丁余 明治二十四年」と刻まれた標石となっている。茂兵衛117度目巡礼時に立てたものである。

本堂
境内に入り池に架かる橋を渡ると正面に本堂。本堂には「弘法大師御母玉依御前菩提所」とある。寺伝によれば、この寺は弘法大師の先祖である多度郡の郡司であった佐伯氏の氏寺として推古四年(596)に創建され、世坂寺と称したことにはじまる、その後唐より帰朝の大師が金剛界・胎蔵界の両界曼荼羅を安置、その根本仏たる大日如来を本尊とし、世の安寧と母玉依の菩提を祈念し堂宇を建立。我拝師山曼荼羅寺と改めた、と。
鎌倉時代には、後堀河天皇から寺領を給わるほど栄えたが、永禄3年(1560年)阿波の三好実休による天霧城攻めの兵火で焼亡、さらに、慶長年間(1596~1615年)に戦火を受けた、とのこと。
天霧城は千回の海岸寺道経由曼荼羅寺の遍路歩きの途中に立ち寄った。
大師堂
本堂右手に観音堂、左手に八幡宮、境内の南側に大師堂があり、天気がよければお堂の背後に我拝師山(標高481m)の山頂近くにあるかつての曼荼羅寺奥の院、現在の出釈迦寺奥の院禅定・行場が見える、とのことである。
西行の歌碑
本堂左手に2基の石碑が立つ。大きいほうには「西行法師笠掛松 昼寝石」と刻まれ、小さいほうは「笠掛桜」とあり、文字と共に西行の歌が刻まれる、と。
昼寝石は石碑前の平たい石のことだろう。寺近くの水茎の岡に庵を結んだ西行が時にこの寺を訪れ、昼寝を楽しんだとのことと言う。
また笠松桜と刻まれた小さい石碑には、表面に多くの文字が刻まれている。何が刻まれているのかチェックすると、詞書とともに西行の詠んだ二種の歌が刻まれる、と:
「四国のかたへぐしてまかりける同行の都へかへりけるに 西行上人
帰りゆく人のこゝろをおもふにも はなれがたきはみやこなりけり
かの同行の人かたみとて此桜に笠をかけ置けるを見て
    笠はありその身はいかになりぬらん あはれはかなきあめがしたかな 」
共に(具して)四国へと歩いた西住法師が都に戻る際に詠んだ歌とのこと。「帰りゆく」の歌は「都に帰る君の心を想像してみると、切るに切れないのは同行の私との仏縁ではなくて、やはり都との血縁の方だったね(和歌文学大系21から抜粋)」の意。
笠松(不老松)
本堂左手、客殿や庫裡がある前に「笠松大師」の祠が建ち、その後ろに不老松と刻まれた石碑と「笠松(不老松)」の案内がある。「当寺の名物だった「不老の松」は平成13年から14年にかけて松くい虫のために枯死しました。この円形の場所が元あったところです」とあり、枯死前の如何にも笠の形をした大きな松の写真があった。弘法大師が寺号を我拝師山曼荼羅寺と改めた時のお手植えの松ではあったよう。
境内の標石
茂兵衛道標(180度目)
橋を渡った右手に茂兵衛道標。手印と共に「出釈迦寺 甲山寺 明治丗二年」といった文字が刻まれる。茂兵衛180度目の四国遍路巡礼時の道標である。








その反対側、鐘楼前に5基の標石が並ぶ。
仁王門側手前から
「出釈迦じに十三丁 かぶやまじに十三丁」
境内整備に際し、本堂手前右手にあったものを移したようだ。「かぶやまじ」は四国第七十四番札所甲山寺のこと。
その横に並ぶ4基の標石には
「(梵字)南大師遍照金剛 右遍ろみち願主真念」
真念道標とのこと。
「左 万たら寺 いやたに寺 道」
「いやたに 右こんひら道 左 扁ろ道
「へんろミち 南無阿弥陀仏」
などと刻まれるとのこと。境内整備前には記録にないようであり、これもどこからか移されたもののようである。

以上で弥谷寺から曼荼羅道経由の曼荼羅寺までのメモは終わり。


弥谷山西麓・海岸寺経由の遍路道

これで弥谷寺から曼荼羅寺までの遍路道として、海岸寺道と曼荼羅道をメモしたが、メーンではないものの、もうひとつ弥谷山の西麓を進み海上の小島に鎮座する津島ノ宮にお参りし、海岸寺を経て曼荼羅寺へ向かう道もあったようだ。 概要だけをメモしておく。
ルート始点は弥谷寺の山門辺りから西麓へと進む道があったようだ。山門辺りを彷徨い遍路道らしき道を探したのだが、結局見つからなかった。
県道221号の標石
山麓の道はトレースできなかったが、県道221号に標石があった。県道の東にある峠池の北、その池の先、山麓から県道221号に合流する地点に標石が立つ。 「右 もとやま寺二り半 くわんおん寺三り 左いやたに寺十三丁 せんつうじ一り 半 明治丗九年」などと刻まれるようだ。




津島神社
県道を海辺まで進むと海上250mの沖の小島に鎮座する津島神社がある。平時は島を蒸結ぶ橋は橋板が外され渡ることはできないようだ。社は子どもの守り神として信仰を集め、8月の大祭の日には津島ノ宮駅が臨時開業するとのこと。そういった折に橋板が敷かれるのだろうか。
大見村道路元標
津島ノ宮駅には「大見村道路元標」が立つ。Wkikipediaには、道路元標とは「道路の起終点を示す標識である。 日本の道路元標が国によって定められたのは、里程調査のための明治時代初期のものと、大正時代の旧・道路法施工令公布の時のものと、二つの時期にわたって道路に設置されたものがある。正確には、大正時代に設けられたものが「道路元標」とよばれるもので、明治時代に設けられたものは里程元標(りていげんぴょう)といい、大正期の道路元標の前身となるものである。
これ以外に現在、一般国道などの起終点などで見ることが出来る道路元標は、昭和時代の太平洋戦争後に設置されたもので、その設置基準については法的な根拠はなく、道路の付属物の扱いで記念碑的なものとして建てられたものである」とある。大見村ができたのは明治23年(1890)とのことであるので、この元標は大正の頃のものだろうか。
郡界石
また、津島ノ宮から県道21号・さぬき浜街道に沿って走る予讃線と海岸線の間の道を少し東に進むと「郡界是ヨリ仲多度郡 郡界 是ヨリ三豊郡」と刻まれた境界石が立つ。
遍路道は県道21号を海岸に沿って進み海岸寺へと向かう。

これで弥谷寺から曼荼羅寺への遍路道のメモ終了。次回は七十二番札所・曼荼羅寺から七十三番札所・出釈迦寺を打ち、七十四番札所甲山寺、七十五番札所善通寺へと向かう。

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