書写のお山と性空上人に関するメモの2回目は、圓教寺の仁王門からはじめ境内を辿り、奥の院までをカバーする。当初のメモの予定では境内を巡る途中で出合った西坂を麓まで下りるところまでカバーしようと思っていたのだが、さすが広い境内に建つ幾多の堂宇。メモに少々スペースをとってしまった。西坂参道下山のメモは次回に廻す。
本日のルート;
JR姫路駅>書写山ロープウエイ乗り場>東坂露天満宮
■東坂
東坂参道上り口>壱丁>二丁>三丁>宝池>四丁>五丁>五丁古道>六丁>七丁>八丁>九丁>十丁>十一丁>紫雲堂分岐>紫雲堂跡>十二丁>十三丁>和泉式部の案内>十七丁
■圓教寺境内
仁王門>壽量院>五重塔跡>東坂・西坂分岐点の標石>十妙院>護法石>湯屋橋>三十三所堂>魔仁殿>岩場の参詣道>姫路城主・本多家の墓所>三之堂>鐘楼>十地院>法華堂>薬師堂>姫路城主・松平直基(なおもと)の墓所>姫路城主・榊原家の墓所>金剛堂>鯰尾(ねんび)坂参道>不動堂>護法堂>護法堂拝殿>開山堂>和泉式部歌塚塔>弁慶鏡井戸>灌頂水の小祠>西坂分岐点に戻る
■西坂
妙光院>二丁>三丁>四丁>五丁>六丁>七丁>八丁>九丁>十丁>十一丁>十二丁>十三丁>十四丁>十五丁>十六丁>十七丁>下山口
圓教寺境内
壽量院;12時47分
仁王門を潜り境内を進むと参道右手に壽量院。「圓教寺の塔頭の一つ。承安四年(1174)に後白河法皇が参籠したという記録が残されており、山内で最も格式の高い塔頭寺院として知られている。
建物の構成は、仏間を中心として中門を付けた書院造風の部分と、台所を設けた庫裡とに区分され、唐破風の玄関を構えて両者をつないでいる。当時の塔頭寺院としては極めて珍しい構成で、圓教寺型ともいえる塔頭の典型である」の説明がある。
●五重塔跡
壽量院傍に五重塔跡の案内。「「書寫山圓教寺参詣図」「播州書寫山縁起絵巻」「播磨書寫山伽藍之図」に壽量院のあたりに五重塔が描かれ、その礎石と思われるものが確認されている。
それ等には大講堂横の五重塔は描かれておらず、この塔は元徳三年(1331)三月五日落雷により焼失、大講堂・食堂・堂行堂の全焼という大火災になった。
壽量院横から大講堂まで延焼してゆくことは考えにくい。そういうことから壽量院横と大講堂横との東西二つの五重塔があり、西の塔が金剛界五仏であることから、この東の塔は胎蔵界五仏を安置していたのであろうか」とある。
東坂・西坂分岐点の標石;12時50分
道の左手、T字路分岐点に標石。「すぐほんどう 右西坂 左東坂」「一丁」の文字が刻まれる。下りはロープウエイで、などと思っていたのだが、標石を見てしまった以上、帰りも参道をとの思いが強まる。
十妙院
分岐点の先に白い塗塀の美しい建物。十妙院との案内があり、「天正七年(1579)正親町天皇により「岡松院」(こうしょういん)の勅号を賜った。これは、赤松満祐がわずか十六歳で亡くなった女の冥福を祈るために建てたものとされる。
圓教寺第百六世 長吏實祐(ちょうりじつゆう)の住坊となり、實祐を中興第一世とする。その後同じく正親町帝より「十妙院」の勅号を賜った。塔頭壽量院とは左右逆であるが、ほとんど同じ平面構成をもつ圓教寺独特の塔頭形式である」と書かれる。
●赤松満祐(あかまつ みつすけ)
室町時代中期の武将で守護大名。播磨・備前・美作守護。室町幕府六代将軍足利義教を暗殺したことで知られる。
護法石(別名/弁慶のお手玉石);12時54分
道の右手に護法石の案内。「昔、この石の上に乙天、若天の二人の童子がこの石に降り立ち、寺門を守ったという伝説が残っている。また別名「弁慶のお手玉石」と呼ばれ、この大きな護法石を、弁慶はお手玉にしたといわれている」とあった。
乙天、若天童子とは、性空上人が康保三年(966)当山で修業中、いつも傍らで仕えた乙天護法童子と若天護法童子のことで、乙天は不動明王、若天は毘沙門天の化身で容貌は怪異であるが怪力、神通力を持ち、上人の修行を助けた山の守護神、と後述する護法堂の案内にあった。
また、乙天、若天童子これも後述する性空上人が九州の背振山での修行時に現れたと伝わる。
●書写山圓教寺縁起
境内 by 圓教寺 |
後、瑞雲の導きに従って当山に入り、草庵を結び、法華経読誦の行を修め、六根清浄を得悟され、世に高徳の宝と仰がれる。
寛弘四年三月十日九十八歳にして入寂されたが、御徳、世に広まり大衆の帰依も悠々厚く、花山法王は特に尊崇され二度も御来駕。後白河法王も七日間、御参籠される。御醍醐天皇は隠岐より帰京の途次御参詣、大講堂に一泊される。亦、平清盛、源頼朝をはじめ、武将の信仰も厚く、寺領を寄せ、諸堂を建立する。 昭和五十九甲子年一月吉日 (1984年1月吉日)」とあった。
湯屋橋;12時55分
少し弧を描いた石橋を渡る。湯屋橋とある。案内には「湯屋橋の擬宝珠は昭和十九年に戦時供出され、昭和三十年に旧刻銘「奉寄進 播州飾西郡書寫山圓教寺御石橋 願主 本多美濃守忠政」を刻銘した擬宝珠が寄進された。
本多忠政は元和三年(1617)に池田光政転封のあと姫路城主となり、元和六年(1620)書写山に参詣してその荒廃に驚き、一門・家臣・城下で寄進を募り復興に尽力し、湯屋橋もこの時再興された。書写山の荒廃は天正六年(1578)三木城の別所長治離反に対し羽柴秀吉が当地に要害を構え布陣したことによる。
湯屋橋の名はこの辺りに湯屋(沐浴所)があったことにちなむといい、「播磨国飾磨郡円教寺縁起事」によると、釜一口・湯船一隻・湯笥一・水船一口を備える四間板葺、西庇一面の湯屋を記し、特に釜は性空上人から依頼された出雲守則俊朝臣が鉄を集めて鋳造し人夫を整えて運搬した」ととある。
●出雲守則俊朝臣
出雲守則俊朝臣って誰?少々唐突な登場だが、出雲の国司に則俊の名がある。朝臣は古代、皇族に次ぐ高い地位を示す姓(かばね)であるのはわかるが、人物不詳。ともあれ、たたら製鉄で知られる出雲で造られたものだろう。
三十三所堂;12時56分
橋を渡ると空が大きく開け、広場に出る。右手には「はづき茶屋」があり、休憩をとる参拝者で賑わう。はづき茶屋の対面に三十三所堂。「西国三十三観音をまつる堂である。西国三十三所観音巡礼が広く庶民の間で行われるようになったのは、江戸時代である。社会情勢や交通の不便な時代にあって、誰でも三十三観音にであえるように、各地に「うつし霊場」ができた。
有名なものは坂東、秩父霊場であり、播磨にも「播磨西国霊場」がある。他にも全国各地にこのような霊場があり、このような「うつし霊場」を更にミニチュア化したものが、この三十三諸堂の発生であると考えられる」とある。このお堂をお参りするだけで、西国三十三観音霊場巡礼と同じ滅罪の功徳が得られるということか
魔仁殿;12時59分
三十三所堂をお参りし、石段を上り摩尼殿に。堂々たる構えのお堂。靴を脱いでお堂に入る。お堂を囲む回廊から書写の山の緑を眺める。案内には「摩尼殿(如意輪堂)書写山の中心を成す圓教寺の本堂。天禄元年(970)創建と伝え、西国三十三所観音霊場の第二十七番札所。桜の霊樹に天人が礼拝するのを見た性空上人が、その生木に如意輪観音を刻み、これを本尊とする堂を築いたのが始まりと伝わる。
幾度か火災に見舞われており、現本堂は大正十年(1921)に焼失した前身建物の残存遺構や資料をもとに、ほぼ前身を踏襲した形で昭和八年(1933)に再建。近代日本を代表する建築家の一人である武田五一が設計し、大工棟梁家の伊藤平左衛門が請負った。懸造り建築の好例で、伝統的な様式を踏襲しながらも木鼻・蟇股などの彫刻等に近代和風の息吹が感じられる。本尊は六臂如意輪観世音菩薩(兵庫県指定文化財)で、四天王立像(国指定重要文化財)も安置されている」とある。
●摩尼
摩尼とはサンスクリット語の「マニ;宝珠」から。「意のままに願いを叶える(サンスクリット語の「チンター」)宝珠(マニ)」とされる。如意輪観音をサンスクリット語で「チンターマニチャクラ」と称するようであり、本尊として祀られる如意輪観音ゆえの「摩尼殿」ではあろう。因みに「チャクラ(法輪)」は「元来古代インドの武器であったチャクラムが転じて、煩悩を破壊する仏法の象徴となったものである。六観音の役割では天上界を摂化するという(Wikipedia)」にあった。
岩場の参詣道
摩尼殿の右手から大講堂に抜ける道案内。矢印と共に「重要文化財 大講堂・常行堂・食堂 金剛堂 鐘楼順路 大講堂(釈迦三尊)常行堂(阿弥陀如来)食堂2階(宝物展示) 薬師堂(播州薬師霊場第16番・食堂の納経所で) 奥之院(性空上人 左甚五郎作力士像)姫路城主本多・榊原・松平家三廟所 三の堂(大講堂・常行堂・食堂)へ徒歩5分 三の堂より奥之院へ徒歩1分 金剛堂へは2分」と記される。
摩尼堂の庇(ひさし)の下、山崖の間の通路を抜けると岩肌を進む道となる。道脇には小堂、石仏が並び、なかなかいい雰囲気
姫路城主・本多家の墓所
山道を抜けると三之堂。その手前に姫路城主・本多家の墓所。案内には「5棟の堂は、本多忠勝・忠政・政朝・政長・忠国の墓です。本多家は江戸時代、初期と中期の二度、姫路城主になりました。忠政・政朝・忠国の3人が姫路城主です。
忠政は、池田家のあとをうけて元和三年(1617)、桑名より姫路へ移り、城を整備したり船場川の舟運を開いた城主です。政朝は忠政の二男で、あとをつぎました。忠国は、二度目の本多家の姫路城主で、天和二年(1682)に福島より入封しました。
忠勝は忠政の父で平八郎と称し、幼少より家康に仕え徳川四天王の一人。政長は政朝の子で、大和郡山城主となりました。
堂の無い大きな二基の五輪塔は、忠政の子・忠刻(ただとき)と孫・幸千代の墓です。忠刻は大阪落城後の千姫と結婚し、姫路で暮らしましたが、幸千代が3歳で死去。忠刻も31歳で没し、ここに葬られました。
五棟の堂は、江戸時代の廟建築の推移を知るのに重要な建物で昭和四十五年に兵庫県指定文化財となっています」とある。
●寶蔵跡
廟所傍に寶蔵跡の案内。「明治三十一年(1898)五月二十八日焼失本多廟との位置関係は不明だが西面に門を設けた土塀を巡らし、西妻に御拝庇ありと記されている。寛政二年(1790)の「堂社図式下帳」にはその記載がないが、本多廟建立【慶長十五年(1610)最古】以前より存在したことが古版木「播磨國書寫山伽藍之図」によってあきらかである。安政五年(1858)春の「霊仏霊宝目録」に収蔵されていたと思われる品々が明記されている。「性空聖人御真影」「源頼朝公奉納の太刀」「和泉式部の色紙」等七十八点をあげているがそのうちほとんどが焼失した」とあった。
三之堂;13時8分
眼前の広場の先堂々としたお堂がコの字に並び建つ。右手が大講堂、中央が食堂、左手が常行堂である。ハリウッド映画、「ラストサムライ」やNHK大河ドラマ「軍師黒田官兵衛」の撮影にも使われたと言う。
●大講堂
「大講堂は食堂、常行堂とともに「三之堂(みつのどう)」と称され、修行道場としての円教寺の中心である。建物をコの字型に配置した独特の空間構成で、かつては北東の高台に五重塔も建てられていた。
大講堂は、円教寺の本堂にあたる堂で、「三之堂」の中心として、お経の講義や議論などを行う学問と修行の場であった。永延元年(987)の創建以来、度重なる災禍に見舞われたが、現大講堂は、下層を永享12年(1440)、上層を寛正3年(1462)に建立したものである。雄大な構造で、和洋を基調とした折衷様式に、内陣を土間とした天台宗の伝統的な本堂形式になっている。 極めて古典的で正式な様式を駆使しながら、一部に書写の大工特有の斬新な技法を用いており、創建以来の伝統を残しながら、時代の要請を取り入れて存続してきた貴重な建造物である。 内陣には木造釈迦如来及両脇侍像(平安時代・国指定重要文化財)が安置されている」と案内にあった。
●食堂
案内が見当たらなかったため、姫路市のWebサイトから引用:「本来は、修行僧の寝食のための建物。承安四年(1174)の創建。本尊は、僧形文殊菩薩で後白河法皇の勅願で創建。二階建築も珍しく長さ約40メートル(別名長堂)においても他に類を見ないものである。
未完成のまま、数百年放置されたものを昭和38年の解体修理で完成の形にされた。 現在1階に写経道場、2階が寺宝の展示館となっています。国指定重要文化財」
●常行堂
「常行三昧(ひたすら阿弥陀仏の名を唱えながら本尊を回る修行)をするための道場。 建物の構成は、方五間の大規模な東向きの常行堂。
北接する長さ十間の細長い建物が楽屋、その中央に張り出した舞台とからなり立っている。 内部は、中央に二間四方の瑠璃壇を設け本尊丈六阿弥陀如来坐像が安置されている。
舞台は、大講堂の釈迦三尊に舞楽を奉納するためのもの。国指定重要文化財。(姫路市Webサイト拠り)
〇天台宗と阿弥陀如来
天台宗の僧の多くは「朝題目に夜念仏」と、現世は法華に来世は弥陀を頼みとした、と言う。大乗経典とは大雑把に言って般若経から法華経を経て浄土三部経に及ぶものであるから、それほど違和感はない。性空も胸に阿弥陀仏の刺青をしていたとも言うし、上述の浄土経の祖とされる恵心僧都源信との交誼からも阿弥陀仏への信仰が見てとれる。源信は天台宗に学ぶも名利の道を捨て、極楽往生するには、一心に念仏を唱えるべしとし、浄土教の基礎を築いたとされる。
□阿弥陀如来
西方極楽浄土に臨する如来。如来とは悟りをひらいたもの、とされる。最初の如来は釈迦如来。生身の釈迦を永遠の存在とするための「装置」として誰かが創り出したのだろう。何世紀にもわたる釈迦の教え、または釈迦になる教えをまとめ上げる経典整備の過程において、如来が釈迦ひとりってことはなかろうと、いろいろな如来が誕生した。阿弥陀如来誕生は西域からの影響が強いと聞く。
三之堂から奥之院へ
三之堂を離れ奥の之院に向かう。成り行きで常行堂の左手を廻り先に進む。
鐘楼
「袴腰付で腰組をもった正規の鐘楼で、全体の形もよく整っている。 寺伝によれば、鐘楼は元弘二年(1332)に再建、鐘は元亨四年(1324)に再鋳とされる。いずれも確証はないが、形や手法から十四世紀前半のものと推定されている。 鎌倉時代後期の様式を遺す鐘楼として県下では最古の遺構であり、全国的にも極めて古いものとして貴重である。銅鐘は、兵庫県指定文化財(昭和二十五年八月二十九日指定)で、市内では最古のつり鐘である。
十地院
「もとは開山堂西の広大な敷地にあったが、妙光院と同じく名称のみが残っていたのを、勧請殿跡地に建立したものである。庭越しに瀬戸内海を眺望することのできる唯一の塔頭である」とある。
法華堂
「法華三昧堂といい、創建は寛和三年(985)播磨国司藤原季孝によって建立された。もとは桧皮葺であった。現在のものは、建物、本尊ともに江戸時代の造立。昔は南面していた。
薬師堂
「根本道とも呼ばれ、圓教寺に現存する最古の遺構。元々あった簡素な草堂を性空上人が三間四面の堂に造り替えたのが始まりと伝わる。寺記によると延慶元年(1308)に焼失し、現在の建物は元応元年(1319)に再建された。幾度か改修されており、当初の形は明らかではないが、もと方一間の堂に一間の礼堂(外陣)を付設したようである。挿肘木など大仏様の手法が見られ、組物や虹梁に当時の特色が残る。本尊(薬師如来)等は、現在食堂に安置されている。
なお、昭和五十三年の解体修理の際、奈良時代の遺物が出土しており、この地には圓教寺創建以前、既に何らかの宗教施設があったと推定されている。
姫路城主・松平直基(なおもと)の墓所
「松平直基は、徳川家康の孫にあたります(家康二男、秀康の第五子)。もと出羽国の山形城にいましたが、慶安元年(1648)西国探第職として播磨国の姫路城主を命じられました。 しかし、山形から姫路へ移封の途中、江戸で発病し姫路城に入らず亡くなり、遺骨は相模国(神奈川県)の最乗寺に葬られました。
のちになって、直基の子・直矩が姫路城主になってから寛文十年(1670)に分骨し、ここ書写山に墓所をつくりました」と。
姫路城主・榊原家の墓所
「榊原家は、江戸時代初期と中期の2回にわたって姫路城主となりました。前期、榊原忠次・政房 慶安2年(1649)~寛文7年(1667)
後期、榊原政邦・政祐(すけ)・政岑(みね)・政永 宝永元年(1704)~寛保元年(1741) ここの墓所には、上の城主のうち、政房と政祐の二人の墓碑が並んでいます。政房は寛文5年(1665)父忠次のあとをつぎましたが、わずか2年後に27歳で亡くなりました。墓碑には故刑部大輔従四位下源朝臣と刻んであります。
両墓碑とも政祐の養子政岑が享保十九年(1734)に建てました。忠次・政邦の墓所は姫路市内の増位山にあります。
金剛堂;13時15分
開けた展望公園を経て金剛堂へ。
「三間四方の小堂で、もとは普賢院という塔頭の持仏堂であった。内部には仏壇を設け、厨子を安置しており、天井には天女などの絵が描かれている。
性空上人は、この地において金剛薩?にお会いになり、密教の印を授けられたという。普賢院は永観二年(984)の創建で上人の居所であったと伝えられているが、明治四十年明石・長林寺へ山内伽藍修理費捻出のため売却された(戦災で焼失)。本尊の金剛薩?像は、現在、食堂に安置されている」
鯰尾(ねんび)坂参道
金剛堂の先、杉木立に「書写山参道 鯰尾坂」の案内が括りつけられている。書写のお山への参道は南へと上り下りする東坂、西坂以外にもあるようだ。チェックする;
●鯰尾(ねんび)坂参道
お山の北西、新在家からの参道。距離はおよそ3キロ。かつての裏参道。登山口にある地蔵堂には、「かつて利用した人 数知れず」とあるようだ。国土地理院の地形図にはルート表示がない
●刀出(かたなで)坂参道
お山へ西からの参道。新在家の南、刀出栄立町から奥の院までおよそ2.4キロ。近畿自然歩道といなっており、地形図にもルート表示がある。刀出の由来は、15世紀に古墳から刀が出土したとも伝わるが、定説とはなっていないようだ。
●六角坂参道
これも西からの参道。刀出坂参道の登山口である、刀出栄立の少し南、六角地区から摩尼殿へとお山を上る。沢筋が六角から摩尼殿まで続いている。地形図に六角から沢筋途中まで破線が描かれている。
●置塩坂参道
東からお山に上る参道。夢前町書写から摩尼殿へと上る。夢前川を北に登ったところに赤松氏の 居城であった置塩(おきしお・おじお)城跡があるという。孫見たさの姫時途中下車の折り、そすべての参道、そして置塩城跡を訪ねたものである。
不動堂;13時19分
「延宝年中(1673~1681年)に堂を造り明王院の乙天護法童子の本地仏不動明王を祀る。元禄10年(1697年)に堂を修理し、荒廃していた大経所を合わせて不動堂としている。俗に赤堂と呼ばれていた。
乙天童子の本地仏であるが、若天童子のそれはない。一説には若天はその姿があまりに怪異なため、人々が怖れたので姿を人々が恐れたので、性空上人が若天に暇を出したともいわれている」との案内。
護法堂(乙天社と若天社)
案内に「性空上人が康保三年(966)当山で修業中、いつも傍らで仕えた乙天護法童子と若天護法童子をまつる祠である。乙天は不動明王、若天は毘沙門天の化身で容貌は怪異であるが怪力、神通力を持ち、上人の修行を助け、上人の没後はこの山の守護神として祀られている。同寸同形の春日造で、小規模ながら細部の手法にすぐれ、室町末期の神社建築の特色をよく表している。向かって右が乙天社、左が若天社」とある。
乙天と若天は上人が九州、福岡県福岡市早良区と佐賀県神崎市の境に位置する背振山で法華経三昧の修行の折より生涯上人に仕えたとされる仏教の守護神、とか。
護法堂拝殿(弁慶の学問所)
「奥の院の広場をはさんで護法堂と向かい合っている。このように拝殿と本殿(護法堂)が離れて建てられているのは珍しい。今の建物は、天正十七年(1589)に建立されたもので、神社形式を取り入れた仏殿の様な建物で、一風変わった拝殿である。
この拝殿はその昔、弁慶が鬼若丸と呼ばれていた頃、七歳から十年間、この山で修業したことから、弁慶の学問所と呼ばれている。今もその勉強机が残っている。(食堂に展示中)」との案内。
開山堂(奥の院):13時21分
「圓教寺開山の性空上人をまつったお堂で、堂内の厨子には上人の御真骨を蔵した等身大の木像が納められている。寛弘四年(1007)上人の没年に高弟延照が創建、弘安九年(1286)消失。現存のものは江戸期寛文十一年(1671)に造り替えられたもの。
軒下の四隅に左甚五郎の作と伝えられる力士の彫刻があるが、四力士のうち北西隅の一人は、重さに耐えかねて逃げ出したという伝説がある」との案内。
和泉式部歌塚塔
開山堂脇の奥まったところにあるという和泉式部の歌碑を訪ねる。お堂右手に廻りこんだ山肌に歌塚塔が見える。案内には「高さ二〇三cmの凝灰岩製の宝篋印塔で、塔身各面に胎蔵界の種子(梵字)を刻み、天福元年(1233〔786 年前〕)の銘がある。
県下最古の石造品であり、和泉式部の和歌「暗きより 暗き道にぞ入りぬべき 遥かに照らせ 山の端(は)の月」にちなむ和泉式部歌塚と伝えられる。
この歌は長保四年(1002)~寛弘二年(1005)に詠まれ「法華経」の「化城喩品(けじょうゆほん)」をもとに悟りへの導きを願い性空上人に結縁を求めた釈教歌と呼ばれるもので、勅撰「拾遺和歌集」に収録されている。
性空上人は「日は入りて月まだ出ぬたそがれに掲げて照らす法(のり)の燈(ともしび)」の返歌をしたといい、また建久七年(1196)~建仁二年(1202)に成立した「無名草子」には和泉式部が性空上人からこの歌の返しに贈られた袈裟を身に付けて往生を遂げたという逸話を載せている。 平成二七年二月 姫路市教育委員会」とある。
●「法華経」の「化城喩品(けじょうゆほん)」
「法華経」の「化城喩品(けじょうゆほん)をもとに」とは「法華経の巻第三化城喩品第七の「衆生常苦悩、盲冥無導師、不識苦尽道、不知求解脱、長夜益悪趣、減損諸天衆、従冥入於冥、永不聞仏名」、世に導きの師なく人は苦しみ、長い夜に悪道は増し神々さえも堕ちてしまい、人は冥がりを出ては冥に入るだけであり、長く仏の名を聞くこともない、にある「従冥入於冥」を踏まえたもの、という。
人に会うこと避けていた上人も、法華持教者故だろうか、その教養に感じ入り面会を許したという。それにしても、拾遺和歌集の成立は1006年頃とされるわけで、和泉式部の生まれは978年とされるので(Wikipedia), 「性空上人のもとに、よみてつかわしける」と題されたこの歌が詠まれたのは和泉式部が30歳前のこと。如何に法華経が宮廷貴族の間で広く読誦された時代背景であったとは言え、煩悩ゆえに苦界を転々輪廻しそこから脱することのできない衆生の生きざまを表す「冥」を、本当にわかるのだろうか。
和泉式部がもっと歳を重ねて、とは思っても、性空上人の没年は1007年と言うし、習い覚えた言葉をその才気に任せて詠んだようにも思える。が、そうとすればそれに性空上人が感じ入ることもないだろうし、ということは、返歌は創作?などと不敬な妄想がふくらむ。
因みに、上述の「書写山と和泉式部」には、和泉式部は中宮彰子のお伴で圓教寺を訪れたともあるが、和泉式部が中宮彰子に仕えるようになったのは1008~1011年頃の頃というから、性空上人は既に没している。
●和泉式部と阿弥陀如来
それはともあれ、上人と和泉式部の問答が伝わるが、そこに興味を惹く一節があった。浄土往生を問う式部に対して上人は阿弥陀如来にすがるべし、と。上に天台僧は「朝題目に夜念仏」と、現世は法華に来世は弥陀にすがった、とメモしたが、法華三昧の上人ではあるが、胸に阿弥陀仏の刺青を彫っていたとも伝わる上人の阿弥陀信仰のほどを、逸話の真偽のほどは定かでなないが、その信仰を強める話となっている
因みに、式部は京都誓願寺の阿弥陀如来に帰依し出家、誠心院専意法尼と名を改め生涯を終えたとされる。万寿2年(1025年)、と言うから47歳までの生存は記録に残るが没年は不詳。
弁慶鏡井戸;13時24分
奥の院より三之堂に戻る。往路の北を成り行きで進むと弁慶井戸があり、「書写山には武蔵坊弁慶が少年時代を過ごしたという伝説があり、この鏡井戸や勉強机が今に伝えられている。
昼寝をしていた弁慶の顔に、喧嘩好きな信濃坊戒円(しなのぼうかいえん)がいたずら書きし、小法師二、三十人を呼んで大声で笑った。目を覚ました弁慶は、皆がなぜ笑っているのか分からない。弁慶は、この井戸に映った自分の顔を見て激怒し、喧嘩となる。その喧嘩がもとで大講堂を始め山内の建物を焼き尽くしてしまったといわれている」とある。
『義経記』には、性空上人を慕って比叡山を下り書写の山に修行に訪れたとも書かれる。
灌頂水の小祠
弁慶鏡の井戸の傍に小さな覆屋。仏事の際の灌頂水を汲む井戸。
●灌頂
「灌頂(かんじょう)とは、菩薩が仏になる時、その頭に諸仏が水を注ぎ、仏の位(くらい)に達したことを証明すること。密教においては、頭頂に水を灌いで諸仏や曼荼羅と縁を結び、正しくは種々の戒律や資格を授けて正統な継承者とするための儀式のこと(Wikipediaより」」。
〇仏・仏陀
「菩薩が仏になる時」って、ちょっとわかり難い。ここで言う仏とは仏陀ということだろう。仏陀とは悟りをひらいたもの。菩薩は悟りをひらくための行をおこなっているもの。
仏陀も元々は釈迦ひとりであったものが、時代を経るにつれ東方極楽浄土、西方瑠璃光浄土などが構想され、そこに阿弥陀仏や薬師如来などの仏陀が存在するとした経典が現れてくる。仏陀とは所謂如来と言い換えてもいいかもしれない。既述の如く、この如来・仏陀とは生身の釈迦を永遠の存在とするための「装置」のような気もする。
灌頂水の覆屋を先に進むと大講堂と食堂の間を抜け、三之堂の広場に戻った。
西坂分岐点に戻る
復路も参道を下ることにして、摩尼殿下の東坂・西坂の分岐点に立つ「一丁」標石へと向かう。 三之堂から摩尼堂へは往路辿った道の下側にもうひとつ、大黒堂や瑞光院経由の道がある。三之堂からゆるやかな坂を「下り、左手に大黒堂、右手に瑞光院を見遣り標石に戻る。
瑞光院は一般公開はしていないようで、切妻、本瓦葺の門は閉じられていた。長く古さびた土塀が印象的な落ち着いた塔頭であった。塔頭は講中の宿坊として供することが多いが、ここは網干観音講の宿坊との記事を見かけた。
道を進み摩尼殿下の東坂・西坂の分岐点に立つ「一丁」標石へと戻る。
今回のメモはここまで。分岐点から先の西坂参道下山メモは次回に廻す。
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