その、時に現れる標石の位置確認はGoogle Street Viewを活用。古き資料に残るデータからおおまかな道筋や標石の位置を推定し、Google Street Viewでチェック。幸いにして今回は市街地ということもあり結構Street Viewで標石を確認することができた。
そしてその位置をiphoneにインストールしているG-Map Toolという無料GPS活用アプリにプロット。その位置を目安に旧遍路道資料にあるルートに極力近い道筋を辿るといったもの。辿ったトラックログはGPS watchであるSUUNTO Traverseでとり一宮寺から屋島寺までの遍路道をなんとか繋げた。便利になったものである。
ともあれ、散歩に出かける。
本日のルート:八十三番札所一宮寺>田村神社>県道12号の北に地蔵堂と2基の標石>県道172号と水路合流点の標石>自然石標石>三名神社東の標石>手引き地蔵>手印だけの標石が続く>光臨寺傍の標石>太田天満宮>伏石八幡>野田池の地蔵堂と標石>松縄東公園の南に2基の標石が続く>琴平電鉄長尾線歩行者踏切の標石>夷神社>分かれ股地蔵と標石>高須公民館脇に標石>春日川橋東詰に標石>新川橋東詰に標石>相引川・大橋北詰にお堂と標石>双ッ池南の標石>遍照院傍に「四国のみち」指導標
屋島寺表参道登山口>弘法大師加持水>十二丁・十三丁石>不喰梨弘大師>畳岩>名号石>徳右衛門道標>八十四番札所 屋島寺仁王門
八十三番札所一宮寺
順打路より境内に入ると左手に大師堂。大師堂の右手に本堂がある。境内は比較的こじんまりとした趣。Wikipediaに拠れば、「神毫山 大宝院 一宮寺。一宮寺(いちのみやじ)は、香川県高松市一宮町にある真言宗御室派の寺院。讃岐国一宮の田村神社に隣接する。本尊は聖観音。 寺伝によれば、義淵により法相宗の寺院として大宝年間(701年 ? 704年)に建立され、年号にちなみ大宝院と称したと伝えられる。そして、和銅年間、諸国に一の宮が制定された際、讃岐一宮・田村神社の第一別当として行基が堂宇を改修し一宮寺と改めたという。その後大同年間(806年 ? 810年)に空海(弘法大師)が伽藍を整備し、106cmの聖観世音菩薩像を刻んで安置し、真言宗に改宗した。
義淵は玄昉、行基の師であり当寺は古刹であったようだ。それはともあれ、その後神仏習合の時世のもと、田村神社の別当寺となるが、17世紀には高松藩主により田村神社と分離され、現在の地に移ったとある。
両部神道とは、日本の神は仏教の仏が衆生救済のため仮の姿で現れたとする真言宗の本地垂迹説をもとにした神仏習合思想。唯一神道とは吉田神道とも伊勢神道とも呼ばれるようだが、仏は日本の神が仮の姿で現れたものとする説。主客逆転、日本の神を外来の神である仏の上位にとらえているように思える。
お寺がなんとなくこじんまりしていると感じたのは、この田村大明神から分離され、唯一残された一寺といった歴史も関係しているのだろうか。
●薬師如来
●三基の石塔

●仁王門
■茂兵衛道標
仁王門左に茂兵衛88度目の道標。「四国第八拾三番 四国八十四番屋島寺道 明治十九年」といった文字が刻まれる。右側にも標石。「右 仏生山道十八丁 左やしま道三里」、手印と共に「釈迦涅槃像・圓光大師御旧跡 見真大師御直作像 仏生山 是より十八丁」と刻まれる。
〇仏生山
仏生山とは仏生山法然寺のこと。一宮寺から南東、高松市仏生山町にある法然上人二十五霊場のひとつ。
Wikipediaには「鎌倉時代前期の建永2年(1207年)に讃岐に配流された浄土宗開祖の法然が立ち寄った那珂郡小松荘(現まんのう町)に生福寺が建立される。
江戸時代前期の寛文8年(1668年)に徳川光圀の実兄にあたる高松藩初代藩主松平頼重が、戦乱で荒れ果てていた生福寺を法然寺と改名して、香川郡百相郷(現在地)に3年の歳月を要し移転・建立した[1]。寺院背後の仏生山丘陵上を削平し「般若台」と呼ばれる松平家の墓所を設けて、当寺院を高松松平家の菩提寺とした」とある。
田村神社
仁王門を出て田村神社に向かう。正面仁王門前に南北に続く塀にそって北に進み、右折し境内北側の大鳥居前に出る。一宮寺は田村神社の別当寺でもあったわけで、この寺と社を遮るような塀に少し違和感。どうも、かつて一宮寺仁王門に向かい合うように田村神社の鳥居があったようだ。いつの頃状況が変わったのか不明ではあるが、田村神社は平成21年(2009)に大改装が行われたとの記事があった。その折にでも一宮寺に面する鳥居はなくなったのだろうか。単なる妄想。根拠なし。
●裏参道
●北参道
●素婆倶羅社と宇都伎社
素婆倶羅社、宇都伎社は末社ではあるが、本社社殿と同規模の大きな社殿。素婆倶羅社の祭神は少名毘古那命。少名毘古那命は大国主命とペアで登場し、国造りから酒造りまで多様な分野をカバーする。ここでは安産など女性の守護神とされる。
宇都伎社の祭神は大地主神(おおとこぬしのかみ) 倉稻魂神(うかのみたまのかみ)。大地主神は田畑を司る神であり、倉稻魂神は室町以降には稲荷神として民衆に信仰された穀物豊穣の神。この社は衣食住を司る神と、さぬき七福神の布袋尊を祀る。布袋さんの大きな袋には日常生活に必要なものがすべて入っていた。とか。
いくつものログに、田村神社はご利益神のテーマパークとの記述があったが、その通り。延喜式讃岐一之宮といった荘厳な雰囲気ではなく、なんだか明るい。平成21年(2009)に創立1300年を記念して大改装を行ったときの方針であった、とか。
祭神は以下の5柱で、「田村大神」と総称される。倭迹迹日百襲姫命 (やまとととひももそひめのみこと)、五十狭芹彦命 (いさせりひこのみこと:別名を吉備津彦命(きびつひこのみこと)、猿田彦大神 (さるたひこのおおかみ)、天隠山命 (あめのかぐやまのみこと;別名を高倉下命(たかくらじのみこと)、天五田根命 (あめのいたねのみこと) - 別名を天村雲命(あめのむらくものみこと)。 田村大神について、中世の書物では猿田彦大神や五十狭芹彦命を指すとされ、近世には神櫛別命・宇治比売命・田村比売命・田村命など様々で一定していない。社殿創建前は井戸の上に神が祀られていたという社伝から、元々は当地の水神(龍神)であったとする説もある。
朝廷の当社に対する信仰は篤く、平安時代には度々神階の授与が行われている。また延長5年(927年)の『延喜式神名帳』では「讃岐国香川郡 田村神社」と記載され名神大社に列したほか、讃岐国一宮として信仰された。建仁元年(1201年)には正一位の昇叙があったとされ、弘安7年(1284年)7月日の銘を有する「正一位田村大明神」の扁額が残っている。
天正年間(1573年-1592年)には兵火により一切経蔵を焼失したが、仙石秀久から社領100石を寄進された。その後も社領の寄進を受け、藩主が松平大膳家に代わったのちも祈願所として崇敬された。
延宝7年(1679年)、高松藩主であった松平氏により一宮寺が分割され、後に一宮寺は別の地に移された。その際、一国一宮として選ばれていた四国八十八箇所の札所と本地・正観音像は、一宮寺に移される。
明治4年(1871年)、近代社格制度において国幣中社に列した。現在に伝わる神宝は「田村神社古神宝類」として国の重要文化財に指定されている」
あまりにいろいとありすぎて、祭神のあれこれなどを深堀する気力がなくなってしまった。というより、祭神は後世の政治力学で創出されたものであり、もともとは境内に龍神として示現される水神様を祀ったものだろう。社の建つ地はかつて香東川の川淵であったよう。付近には出水(泉)も多く、社の本殿奥に神座があり、その下には深い淵があり水神である龍神が棲むという伝説がある。社の別称に「定水大明神」とあった。その語感からは、いかにも絶えることのない水を想起する。そんな稲作の生命線である水を水神として信仰の対象としたのがこの社のはじまりではないだろうか。 田村神社はこの辺りで終わりにし、遍路道へと戻ることにする。
■屋島寺への旧遍路道■
少し進むとブロック造りの地蔵堂があり、その前に標石2基が立つ。ひとつは茂兵衛道標。手印と共に「扁んろ道 明治十九年」の文字が刻まれる。もう一基の標石には手印と「八十三番一ノ宮寺ハコチラ」と刻まれる。
茂兵衛道標の手印は北を指すが、これはどうも高松市街真ん中にある高野山別院経由屋島寺への遍路道を指すようで、直接屋島寺に向かう道はここを右折する。
県道172号と水路合流点の標石
古い資料には国道との合流点に標石があるというが、なかなか見つけられない。あちこち探していると、水路が国道下に潜り込む手前、水路の石垣に標石らしきものが挟み込まれている。石垣を組み上げるために利用したのだろうか。
自然石標石
次の目印は一筋北の道筋にある自然石道標。遍路道ではないだろうが水路に沿って進み、一筋北の道に出て右折し少し東に向かうと、道の左手に自然石の標石があった。手印と共に「左やしま」と刻まれていた。
三名神社東の標石
手引き地蔵
手印だけの標石が続く
田圃の中を進む
光臨寺傍の標石
弧を描く水路脇の道を進み県道280号東側に。そのまま光臨寺の北側の道を進むと県道166号に当たる。合流点を左に折れると県道右側に標石。「右屋し満道 左高ま津道」と刻まれる。
太田天満宮
遍路タグに従って水路脇の道を進み県道171号に。が、その先は遍路道案内のタグも見つけることができず、結局成り行きで進み太田天満宮の少し東に出る。今回は宅地開発などで旧遍路道が分断され、ルート確定が結構難しい。
伏石八幡
次のルート目安は伏石八幡。その間標石はない。古い資料にある道筋は、太田天満宮を左に見て県道171号を東進し、琴平電鉄を越えた一筋先の道を左に折れて北進。高松自動車道の高架を潜り、一筋北の道にあわさる交差部から北東に進む道筋に入り伏石八幡に進む、とある。その資料に従い伏石八幡前の参道に出る。
●伏石神社
今から三百七十七年前慶長六年八月のある晩この村の郷士寺島弥兵吉長は家から南西約三百メートルの林の中から出ているあやしい光を見つけた。不思議に思いながらそのまま寝たが、あくる晩もまた次の晩もその光が見えるのであった。不審に思った吉長はその正体を見届けようと家来を連れて林にわけ入った。あやしい光は林の中程にある大きな石から出ており、その石は方一丈余(約三メートル四方、高さ三尺約一メートル)ちょうど伏したような形のもので地面に埋まっている部分はどれくらいあるか想像もつかない大石であった。
吉長は「これはただの石ではない。神様が自分を呼び寄せるために光を出したに違いない」と一心に石に祈りそのわけをおうかがいしたのである。神様のお告げは次のようであった。
ここから二百歩ばかり東へ行くと立石という大きな石がある。松縄村には流石があり、また屋島の麓蒲生の海底には鰭石(ひれいし)といわれる石がある。この四つの石はみな神の宿る神石である。世の人々はこれを知らないから今ここにそのありかを教えておく。これからは神として年ごとの祭りを怠ってはならぬ」と。吉長はおそれ多く思いここに社を建て村の産土神としてまつることになったという。
ここからわかることは、神の宿る石は四つであるが、ひとつは海底であり社を建てることができないため、神の宿る石をご神体とした社を三社建立。伏石神社、立石神社、居石神社の三社の総称が三石神社。この伏石神社はその第一社。方一丈余の伏石を祀る。立石神社は立石を祀る。由緒にある松縄村の流石とは伏石神社の南東、高松自動車道のすぐ南にある居石神社に祀られる御神石。ここが第三社と言うことだろう。
〇亀石
幣殿の北に大きな亀石がある。この亀石は寺島屋敷の西南角に安置していたものを第十四代政吉氏が昭和二年の寄贈したものである。
〇立石神社
祭神:応神天皇・神功皇后・玉依姫命
伏石神社の参道を東へ進むこと約三百メートル。大きなもちの木を中心とした森がある。ここに鎮座ましますのが立石神社である。この神社は昔から三所八幡又三石神社のひとつとして崇敬されている。約三百七十年余り前寺島弥兵衛吉長が伏石のかみさ神に祈りを捧げたとき神様から教えられたご神石(立った形をしている石)があり、これが神体として祀られている。
〇居石神社
祭神:応神天皇・神功皇后・玉依姫命
保安年間居石五郎右衛門網光が祀ったものでその子孫は姓を佐藤といい又居石ともいう。 当社は保安五年居石五郎右衛門網光が勧請したもので出水「鹿の井」と深い関係がある。(以下略)」。
◆鹿の井出水
高松市太田下町の熊野神社の北側にある鹿の井出水には次のような言い伝えがあります。
保安三年(1122 年)、讃岐の国は大日照りに見舞われ、飲み水にも事欠くようになりました。
人々は何度も雨乞いをしましたが、一滴の雨も降らずに困り果てていました。
そんなある日、居石神社に白髪、白髭の見慣れない老人が現れ、不思議そうに眺める村人たちの前で、突然一匹の鹿に姿を変えて走り出したので、村人たちが驚いてその後を追ったところ、鹿は桃の木のそばで立ち止まって前足で土を掘り、どこへともなく走り去りました。
すると、鹿が土を掘ったところから、こんこんと清水が湧き出て、村人たちは大喜びで喉を潤したということです。
この湧き水は「鹿の泉」と呼ばれ、飲み水やかんがい用水として大切にされてきましたが、近年、都市化が進行する中で荒廃が進んできました。
そこで、街中に残っている古き良き施設を後世に伝えるために、平成 10 年度に改修工事を行い、あわせて遊歩道、休憩所などが整備された。また、今でも太田、伏石、下多肥の水田の補助水源として活用されている。
野田池の地蔵堂と標石
池の北東角にある地蔵堂を確認し伏石中央公園の東端を北に進み野田池に。池の土手に地蔵堂が立つ。脇の石碑には「このお地蔵さまは享保十二(西暦1727)湛明元江和尚と宝暦六(西暦1757)博道覚性沙弥二人のため、また野田池の安全と多くの人々の冥福を祈って建立されたものと思われる」とあった。年号は没年であろう。地蔵堂の脇には手印だけの標石もあった。
松縄東公園の南に2基の標石が続く
●Google Street Viewで標石確認
野田池からの北進は距離が300mほど、とあるので右折箇所は分かるのだが、そこから東進した後に左折する箇所がはっきりしない。その曲がり角を特定するためGoogle Street Viewを活用。資料にある曲がり角の標石と松縄東公園へ北進する道の途中にあるという2基の標石を探す。 松縄東公園から南へとStreet Viewでチェックし2基の標石は確認できた。曲がり角の標石を見つけることはできなかったが、なんとなくルートが見えてきた。
野田池を出発。北に300mほど進み右折し東進。チェックできた標石に北進する道を左折。少し北に進み手印だけの標石を確認。そこから先にT字路。右折し次の角を左折し松縄東公園へと進むと直ぐ、道の右手の家庭菜園端に標石があった。この標石の手印の上には元の石が庇(ひさし)の用に張り出している。あまり見かけない姿の標石だ。
琴平電鉄長尾線歩行者踏切の標石
古い資料に拠れば、ルート目安となる標石は琴平電鉄長尾線歩行者踏切を渡ったところにあるとのこと。成り行きで道を進み右折・左折を繰り返し線路脇の道筋に出る。道を東に進み琴電の歩行者踏切を渡ると標石があった。
夷神社
●夷神社
「祭神 八重事代主命 この社には、釣り竿を担ぎ鯛を小脇に抱えた石像がある。漁師たちが守護神として蛭子神(八重事代主命)を祭ったと言われている。
夷神社は蛭子宮(讃岐国名所図会)、蛭子の社(入江神社記)、蛭児大明神(翁謳夜話・讃州府誌)などと称せられている。また全讃史には「何年に祭られたが知らずとあり、寛永以前はこの地は入江にて漁者も住居し、蛭子宮ありて、地名を夷と言う。
寛永十四年(1637)生駒藩の時、この地以北の地を干拓して新田とした」と記されている。
夷神社は海岸線に位置し、地名も夷村と名付けられたと言われる歴史の古い神社である。昭和六十一年に本殿を改築して、夷地区の集会所としても使われている。 平成十年五月 木太地区文化協会」
分かれ股地蔵と標石
高須公民館脇に標石
春日川橋東詰に標石
新川橋東詰に標石
●相引川
なんだか面白い名前。チェックするとその由来は、「川の両端がともに海に繋がっているため、潮の満ち引き時には川の水が東西両方向から満ち、両方向へ向かって引いていくことから、相引川と呼ばれるようになったとする説がある。また、東側の河口付近に位置する檀ノ浦で行われた屋島の戦いの際に、源氏・平氏の双方が互いに譲らず引き分けたことを由来とする説もある」とあった。
生駒氏統治時代(1600年 - 1640年)の寛永14年(1637年)、生駒高俊が堤防を築かせ、屋島と四国本土は陸続きになったが、松平氏統治時代(1642年 - 1871年)になって、古来の妙跡を惜しんだ初代藩主松平頼重の命によって1647年(正保4年)に水路が復元され、現在の相引川の形が完成した」とあり、続けて「鎌倉前期の軍記物語の『平家物語』には、「・・・潮の引いています時には、陸と島との間は馬の腹もつかりません。」と記述され、浅い海であったとされている。また、1633年(寛永10年)の『讃岐国絵図』は、屋島は海を挟んで島として描かれている。そして、1789年頃(寛政頃)の『讃岐一円図』は、屋島は川で隔てられた島であり、1808年(文化5年)に測量された『伊能大図』は、現在と同様に相引川を挟んで島となっている」とそのエビデンスを示していた。
相引川・大橋北詰にお堂と標石
石柱は旧大橋の石柱。「大橋」と刻まれる。4基の石造物はすべて標石を兼ねているようである。そのうち1基は角柱標石、3基は舟形地蔵丁石。角柱標石には正面に「南無阿弥陀仏」、「是よりやしま寺へ十九丁 一のみや江百五十丁」と刻まれる。建立近視者の菩提を弔う石碑のようだ。3基の舟形丁石には「一丁目 享保」「右扁ろミち」「二丁目 享保十」と言った文字が刻まれる、と言う。
双ッ池南の標石
ほどなく右から道が合わさる前面に土手。道の交差する土手下に「四国のみち」の指導標、大きな角柱石碑と共に標石があり、手印と共に、「左やし満道 文政二」といった文字が刻まれる。 傍には「屋島遍路みち案内(弘法の道)」があり、屋島寺への上り、屋島寺から八栗寺へと下る遍路道筋にある12か所の旧跡の案内があった。
●八十五番札所八栗寺への遍路道
この交差部を左へと、屋島の山裾を進む道も遍路道。屋島寺を打ち終えた後、ここまで戻り次の札所八栗寺へと向かう遍路もいたようだ。
遍照院傍に「四国のみち」指導標
次第に急坂となった道を進み、左手に屋島小学校を見遣り先に進むと、道の右手に遍照院がありその先で道は二つに分かれる。その分岐点に「四国のみち」の指導標が立ち、遍路道は直進。 上述双ッ池土手下の「遍路みち案内」に、遍照院には弘法大師作の仏像が祀られる、とあった。
●八十四番札所 屋島寺表参道●
屋島寺表参道登山口
弘法大師加持水
干ばつで各地の池や井戸水が枯れても、この湧水は絶えることがありません。 また、路傍の石碑に字が刻まれていますが、弘法大師の筆跡だと伝えられています」とあった。
数個の自然石に囲まれた湧水がかろうじて残っていた。
弘法大師加持水の先、道の右手に2基の舟形地蔵が並ぶ。
十二丁・十三丁石
不喰梨弘大師
不喰梨の案内には「空海(弘法大師)が屋島に登ったとき、梨がおいしそうに熟していたので一つ所望をなさいました、でも持主は「うまそうに見えてもこれは食べられない不喰の梨です」と嘘を言ってことわりました。その後、この梨はほんとうに石のように固く食べられなくなってしまつたと伝えられています」とあった。
梨に限らずこの類の伝説は多い。芋、蕨、栗、柿、胡桃、そして水など。パターンも意地悪な場合は「不自由」に、親切な村人の場合は「恵まれる」といった勧善懲悪の型をとる。 こういった救荒食物や弘法水といった伝説は中世以降全国を遊行した高野聖に拠ることが多いと言う。
畳岩
因みに屋島の美しい台形姿を構成するのは山頂部の堅い讃岐岩質安山岩は固く侵食に耐え元の姿を留める一方、中腹より下の花崗岩質は削れられなだらかな斜面となった故、と言う。 畳岩の直ぐ先には2基の舟形地蔵が並ぶ
名号石
徳右衛門道標
それよりなにより、「右八くり」の示す方向は?先に建つ仁王門を越えると右折し屋島南嶺裾を南西に続く道がある。その道を指すのだろうか。はっきりしない。
八十四番札所 屋島寺仁王門