先般メモしたように、七十九番天皇寺から八十三番一宮寺への旧遍路道は、この順打ちルートとは異なる「逆打ちルート」がある。八十番国分寺から五台山の急登上り八十一番の白峰へと辿るルートを避け、七十九番天皇寺から高屋神社を経て八十一番白峰寺へと上り、八十二番根香寺を打った後、八十番国分寺へと下るルートである。江戸の中頃に開かれた、とのこと。
今回のメモは、この逆打ちルートを辿り、国分寺を打った後、八十三番一宮寺へと向かう、おおよそ2里(8㎞)の旧遍路道をトレースする。常の如く、旧遍路道の目安は処々に建つ標石である。
本日のルート;80番札所国分寺>関ノ池の地蔵尊>国道11号バイパスに「四国のみち」指導標>赤池地蔵堂>県道183号との交差部に2基の標石>下福家の自然石標石>県道12号三木国分寺線の「四国のみち」指導標>三界万霊地蔵尊>魔除大師>南海道一里松跡>県道282号交差点に横内地蔵尊と金毘羅堂>県道44号交差点に標石>円座橋西詰めの地蔵と標石>円座橋東詰めの舟形標石>小堂に舟形地蔵標石>標石と茂兵道標>一宮寺手前の石仏標石>細路に手印標石>札所83番一宮寺駐車場北西角に標石>札所83番一宮寺
関ノ池の地蔵尊
国分寺山門前を少し東に向かい、右折し県道33号・丸亀街道、その先の予讃線・瀬戸大橋線の踏切を越え、関ノ池の東堤に。池の東北角、柱と屋根だけの覆屋に大きな地蔵尊が佇む。台座に三界万霊と刻まれる。明治十二年(1879)の建立。両サイドに無縁仏と刻まれた比較的新しそうな五輪塔と古い趣の石仏が並ぶ。
仁和二年(886)、讃岐守となった菅原道真が国分寺門外の蓮池で蓮の花が開くのを見て、七言二十四韻の詩を詠った。その蓮池は関の池の前身とも伝わる。現在の関の池は昭和十四年(1939)から2年の歳月をかけて修築されたものと地蔵尊脇の石碑にあった。
国道11号バイパスに「四国のみち」指導標
関ノ池の東堤を進み、池の東南端にある取水口に架かる「関の池橋」を渡り、国道11号バイパスに出る。関の池橋下を流れる水路には「野間川」とある。池から流れる水路に川名?地図をトレースすると、関ノ池は北に点在する池と結ばれれており、その池は五台山からの沢筋と繋がっていた。沢から流れ出た水を有効活用した溜池群なのだろうか。
遍路道は国道11号を南にクロスするが、その角に「四国のみち」の指導標。一宮寺8.1kmとある。
赤池地蔵堂と標石
国道を渡り南東に少し進むと四つ角があり、遍路道は左折し東に向かう道に乗り換える。左折して直ぐに地蔵堂。赤池地蔵堂と呼ばれるようだ。道の南に池があるが、それが赤池だろうか。
お堂には大きな地蔵石仏と墓石らしき石が並ぶ。お堂の外、東側に自然石の標石。「右瀧宮道 左へんろ」と刻まれるようだ。
●瀧宮
瀧宮はここから南西、琴平電鉄滝宮駅近くにある瀧宮神社(綾歌郡綾川町瀧宮)のこと。瀧宮神社の東隣には讃岐国府の官舎跡ともされる瀧宮天満もあり、この地は菅原道真の雨乞祈願で知られ、「雨乞い念仏踊り」を今に伝える。
県道183号との交差部に2基の標石
道の左手に「元国分高等小学校跡」の石碑を見遣りながら東に進むと、県道183号・綾川国分寺線と交差する東側、道の左右に標石が立つ。北側の標石には手印と大師像、そして一宮寺の文字が見える。南側の商店前の標石北面には「右国分寺 南瀧の宮道 左一ノ宮寺 北高松道」、西面には手印と共に「四国八十二番奥院・一国三十六番霊場 鷲峰寺 南八丁」と刻まれる。
●鷲峰(じゅうぶ)寺
高松市国分寺町柏原、鷲ノ山(標高322m)の東麓にある八十二番札所根香寺の奥の院。天平勝宝6年〈754〉、鑑真和尚創建と伝わる古刹。平安時代前期、貞観二年〈860〉には円珍により智証大師十七檀林のひとつとして清和天皇の直願所となった。
智証大師は円珍の諡号。円珍は弘法大師空海の甥とも、姪の子とも言われる。
下福家の自然石標石
県道183号を越えると道の左手に大きな地蔵坐像。道の先には右手に讃岐特有のお椀を被せたような六ツ目山(標高317m)、左手に伽藍山(標高216m)が見える。 道をしばらく進み本津川を越えると、下福家の県道39号四辻手前に自然石の標石。「是与国分寺二十一丁 一ノ宮五十四丁」と刻まれる。
●福家
香川では「ふけ」と読むようだ。平安末期、讃岐藤原氏の二代目、羽床を称した藤原資高の四男資光は地名をとり新居氏と改名。源平の乱で源氏に与し戦功をたてた。その新居の系が福家を名乗った、と。福家を名乗ったのが先か、福家という地を領した故の福家かはっきりしない。
チェックすると、「さぬき国分寺町誌」に 「福家は、不毛(ふけ)が語源で、元来は農作物を産しないこと、特に稲作に適さない土地を指すことが多く、不毛(ふもう)の土地であったことを意味する。 しかし鎌倉時代までに綾(讃岐藤原)氏の一族である福家氏などの在地領主が開発して水田化されたものである。豊かになった不毛の地にちなんで雅字をもって福家と充てたものであろう」としている。不毛という「地形」の地を新居氏が開拓し、地形を雅字に充て福家と改称し、地名も福家となった、ということだろうか。
県道12号三木国分寺線の「四国のみち」指導標
県道183号を越えると次の四辻南西角に標石。手印と共に、「右国分寺 左一の宮」と刻まれる。遍路道は田圃の中を六ツ目山と伽藍山の間の鞍部へと向かう。ほどなく県道12号三木国分寺線と斜めに交差。交差部には「四国のみち」の指導標が立つ。
県道12号合流部の三界万霊地蔵尊
県道12号を斜めに越えた遍路道は、県道12号に沿って弧を描き再び県道12号に合流。合流点には台座に「三界万霊」と刻まれた結構大きな地蔵が座る。峠を境に行政区域もかつての綾歌郡国分寺町(現在は高松市国分寺町)から高松市域に入る。
県道12号との合流点、地蔵尊の対面に石柱が見える。「青光山万灯寺 石鉄大権現別院登山口 昭和廿五年」」と刻まれる。この寺は「身代り薬師如来」として知られるようだ。
魔除大師
県道12号を少し東に下ると、道の左手にお堂がある。案内には、「渡唐山遍照院 当院は真言宗の寺院で、高野山金剛三昧院の出張所である。弘法大師をまつり「唐渡りのお大師さん」と呼ばれて親しまれている。
昔このあたりには悪魔や山賊がしきりに出没して民衆を苦しめていた。たまたま四国霊場を開山した弘法大師がこの地に来られ、早速七昼夜の真言密教を修めて彼らを唐の地に渡し民心を安んじられたという。そこでご本尊を魔除大師また厄除大師とも名付けている。
毎年五月二十一日に大法要が営まれ、この日を唐渡市という。かつては競馬が開かれ、農具や苗物などの店が立ち並んで、遠近からの参拝者で賑わった。
当院の南側には新四国八十八カ所や真宗二十四拝の仏像などが整備されている。この付近からの遠望は素晴らしく、高松百景のひとつに選ばれている。 檀紙地区地域おこし運営委員会」とあった。
新四国八十は八カ所や真宗二十四拝は明治後期に設置されたもの、県道12号や高松自動車道建設工事のため放置されていたが、平成3年(1991)に整備されたようだ。
●真宗二十四拝
真宗の祖親鸞上人の弟子24人(二十四輩)開基の寺を巡る真宗門徒の霊地巡礼。元は全国各地を巡るが、他の巡礼と同様に地域や境内に「写し霊場」が設けられた。
写し霊場は江戸後期に盛んに設置された後、明治末期から昭和初期にかけても設置ブームが再現したようであり、この写し霊場もその折に設けられたものであろうか。因みに香川の寺院のおよそ4割が真宗という。
南海道一里松跡
魔除大師から先、県道12号を少し下った遍路道は高松道・高松西インター手前で県道を右に折れ、高松道を潜り県道12号の南を東進。県道178号・山崎御厨線、県道44号・円座香南線を越え古川を渡る。古川を越えて直ぐ、明治に檀紙・円座・川岡三カ村組合立として開設された堂山高等小学校の案内板の前に石碑があり、南海道一里松跡とあった。
古代官道である南海道は一宮寺・田村神社から西に、御厩(みまや)、六ッ目山の北の鞍部を越え国府に繋がっていたようだ。ということは知らず古代官道の道筋を辿っていたということだろうか。 御厩は魔除大師の北に御厩池があり、その辺りを御厩地区と地図にある。
●檀紙
檀紙(だんし)とは、縮緬状のしわを有する高級和紙で、平安時代以後、高級紙の代表とされ、中世には備中・越前と並び讃岐国がその産地として知られた。讃岐では檀紙の原料となる「檀(まゆみ)」が本津川の支流である古川に繁茂した。檀紙地区には古川が貫流するゆえの地名であろうか。
檀紙地区の北には紙漉といった地名も残り、盛んに紙を漉いていたとのことだが、慶長年間というから16世紀茉から17世紀初頭の頃に途絶えたと。檀紙の原料が後に楮(こうぞ)が取って代わったとのことと何か関係があるのだろうか。
檀(まゆみ)を真弓とも書くのは、そのしなり故に弓の材料としても重宝したから、とか。
●円座
円座はガマやスゲ、イグサで編み上げられた円形・渦巻き状の平らな敷物。菅円座とも呼ばれ、宮廷や神社で使われた。高松藩初代藩主松平頼重は円座職人である葛西氏を藩のお抱えとして庇護し幕府に献上している。葛西氏は東国の出。上代に讃岐に移り代々円座師として続いたという。が、現在この技術を受け継ぐ職人は2017年現在でただひとり、との記事があった。円座という地名はこれに拠るのだろう。
●堂山
この地区の南西に標高302mの堂山がある。堂山小学校の名前の由来だろう。因みに「組合立学校」とは、小規模な自治体が公共事業を行うため作られた組合により開設された学校のこと。各自治体を越え、近隣する地区、複数の自治体が共同で設立した学校。
県道282号交差点に横内地蔵尊と金毘羅堂
道を東に進み国道32号を越え県道282号との交差手前、道の左手にコンクリート造りのお堂があり2基の石仏が祀られる。そのうち1基はお大師様のようだ。案内には「横内地蔵尊」とあった。横内は地区の名前である。
交差点を渡った東南角には小さいながらも瓦葺きの金毘羅堂。傍には大権現と刻まれた金毘羅常夜灯、大きく突出した手印と共に「一宮 高松 天保四」と刻まれた標石、その間に五角柱の石碑が並ぶ。
お堂傍にあった案内には「横内の四つ辻は、古代の南海道(官道)と金毘羅街道の交差点で、多くの旅人が往来し、大変繁盛した土地であります。
金毘羅末社;幕末の頃この地に?の御幣が天から降ってきました。地元の人々は本社の許しを得て、御幣を祀る末社を建てました。
金毘羅灯籠と道しるべ;金毘羅さんに参詣する旅人の道案内としてつくられた灯籠と「道しるべ」があります
地蔵;旅人の健康と安全を祈願する地蔵が安置されていましたが、道路拡張工事のため西方50mに移転しています。横内の地蔵盆は九月二十三日の夜、近在の人たちがたくさん集まり賑やかにおこなわれていました。
大納言頼経の墓;鎌倉幕府四代摂家将軍頼経は、北条氏に追われ讃岐国に落ちてきました。因縁の深いこの地に墓がつくられ、中に五輪の骨壺が納められています。常に四季の花が供えられ、線香の香りが絶えません」とあった。
横内地蔵堂の地蔵尊はここから移されたのだろう。また、五角柱の石柱は大納言頼経の墓のようだ。石面には「大納言頼経神霊 十月三日」と刻まれる、と。頼経が讃岐に落ちた記録は見当たらない。39歳、京都でむなしくなった、と。
県道44号交差点に標石
かつて金毘羅街道沿いの宿場町として栄えたという円座を東に進む。確認していないが、金毘羅街道は南西へと続く琴平電鉄琴平線に沿って道筋があったのだろうか。 県道282号の一筋東、県道44号との交差する西南角に上部の破損した標石。台座の上に乗る。道を隔てた東北角には「四国のみち」の指導標が立つ。
円座橋西詰めの地蔵と標石
香東川に架かる円座橋の西詰め、道の右手に等身大の地蔵尊立像。地蔵の傍に標石があり、「右 左」といった文字だけが残る。
円座橋東詰めの舟形標石
香東川を渡った東詰めにも舟形地蔵標石。「一宮寺へ十丁 国分寺へ一里半 昭和五十四年」といった文字が刻まれる。昭和54年(1979)建立なのに「丁」や「里」? 古くなり破損したものを修復し直したものだろうか。
小堂に舟形地蔵標石
遍路道は円座橋東詰めの舟形地蔵標石を右折し土手道を進む。香東川右岸を少し進むと左に分かれる道。道なりに進むと道の右手、道が東へとカーブする辺りに小堂があり。「右丸かめ 左」といった文字が刻まれる。
標石と茂兵道標
東に進むと香東橋東詰で別れた道に合流。合流点に小堂がありその傍に2基の標石。茂兵兵衛道標が立つ。1基は147度目の茂兵衛道標。手印と共に「一宮寺」「国分寺」「明治弐十九年」といった文字が刻まれる。もう一基の標石には「右八十番国分寺 一里十丁 皇紀二千六百年」といった文字が刻まれる。
一宮寺手前の石仏標石
道を東に進み御坊川を超えると、道の左手に標石が立つ。道路側には石仏立像が刻まれ、西面側には手印と共に「左へんろ道 札所へ二兆丁 寛政十二年」といった文字が刻まれる。 指示にある左は一見すると民家の敷地のようにも見える。が、何となくフェンスに沿って道らしき雰囲気もあり、標石の指示に従い左に折れる。高松南高等学校との境の細路を進む。
細路に手印標石
この道で大丈夫?などと思いかけた頃、細路に手印標石。オンコースとわかり一安心。成り行きで進むと車道に合流。そこに一宮寺駐車場があった。
札所83番一宮寺駐車場北西角に標石
駐車場の北西角、大師座像の下に「太札 二丁 明治四十三年」と刻まれた標石がある。「太札」と読めるのだけど何だろう。それはともあれ、標石を東に進むと山門があり、八十三番札所一宮寺の西門(裏門)にあたる。裏門内側右に手印と共に「八十三番札所」と刻まれた標石があった。
これで八十番札所・国分寺から八十三番札所・一宮寺へと辿る旧遍路道のメモを終える。次回は一宮寺から八十四番札所屋島寺への旧遍路道をトレースする。
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